邪馬台国畿内説 Part360
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530836032/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ >>673
>会稽東冶の東に見えるとか、東に行ったら在るというのではなくて
帯方郡から会稽東冶の東くらいまで南下する計算になるということだから
太陽が昇る方向は関係ない
筑紫と福州市の東では倍以上の距離に差がある<
3世紀の使節の実見記録を元にした陳寿の魏志の「東治」の記載に比べて、
5世紀の、使節の派遣もなく、
前史の魏志の記載の「自己解釈に拠る書き換え」をした南宋の范曄の「東冶」の記載は、
客観性も信頼性もはるかに落ちる記載であり、
根拠にはならないし、
元々、范曄の後漢書も、郡〜邪馬臺國を、
「樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里」
というように、短里で記載しており、
また、長里であれば萬二千余里は赤道付近に行ってしまって、「東冶」の位置でもなく、
だから、「東冶」は、大和説者の主張する「長里」説の根拠にもなっていない、
という事。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
嘘だらけの畿内説で
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嘘だらけの畿内説で
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資本主義が生んだ
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気づけよ >>676
>一寸千里は実測されたものではなくて あてずっぽうの想像値<
周髀算経は、はっきり「測影」した、と記載している。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
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気づけよ 大谷翔平、
代打初アーチが決勝7号ソロ「全力で走れなかったので一番いい形になった」 大谷翔平、
代打初アーチが決勝7号ソロ「全力で走れなかったので一番いい形になった」 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 115日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:08:12.96
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畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ 畿内説の研究者は
現実の日本史から背を向けた
銭儲け集団 畿内説の研究者は
現実の日本史から背を向けた
銭儲け集団 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
嘘だらけの畿内説で
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嘘だらけの畿内説で
銭儲けすんな >>63
その通り
長里なんてないね
畿内説の全員が同意してる
長里なんてのは短里厨が作った造語だから オクヤマーーーーーーーーーーーーー
嘘だらけの畿内説で
銭儲けすんな 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>683
>実際の資料事実は正始弩尺、律歴志より換算すると 魏の1里は約430m <
正始弩尺は、尺寸法は周代から大きな変化がなかったから、始めから問題にならない。
また、問題になるのは、里歩系と尺寸系との関係を始皇帝が「1歩=6尺」と決めた事と、
周代の周髀算経での一寸千里の「谷本確認計算」で、「1歩≒一尺」であった、という事。
後代の律歴志の記載は、始皇帝の「「1歩=6尺」の事しか記載していないから、
半分×書であり、根拠にならない。
>邪馬台国への道のりは投馬国の次の記述に 水行10日陸行1月と出てくるので
里数記録がなければ魏使は行ってないとするなら
魏使は邪馬台国にも行ってない事になる <
関係がない。
魏使らは、里数も日数も計測出来るが、
一般の倭人は「里を知らず、所要日数でしか表現できなかった」という事。
そして、「水行十日陸行一月」の数量説明は、
その直前の、魏使らの目的地の「女王之所都」の説明文になるから、
「出発地の郡からの所要日数」説明になる、という事。 >>696
>97mくらいじゃね?(ふつーにとーいでんから? <
ならんよ。
「1里=200m」という数字は、
奴國の位置を勝手に「弥生銀座や博多」付近にする、という、
恣意的な嘘つき騙しの比定の結果だから。
彼は、伊都國の東南方向は、日向峠や早良平野方向になる、
という事をこっそり隠している。 「1歩≒一尺(24.2cm)」の老人のよちよち歩き速度で韓地を歩測したら
プサンあたりまで1年くらいかかるだろうな 20メートル程度の距離を測るのにはぴったりだ。
長い距離は里で測るのだから。
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 後漢書で倭とは対馬海峡の国で、その後漢代における倭の内乱を終息させるために共立されたのが卑弥呼であると魏志倭人伝にある。
107年に朝貢した倭王帥升が筑紫にいて、倭王卑弥呼が即位したのが倭国大乱後の190年頃なら、その間は80年余りしかない。
その間に倭は筑紫から大和に東遷したのだろうか?
畿内説とは、東遷を前提とした、ありえない妄想である。 >>711
>何もおかしくない
地図上でそう導き出されたのなら1里200mの可能性も十分考えれる <」
根本的に、須玖岡本付近は、伊都国の東であって、東南にない、
という事がおかしいから、×。
>つまり1万2千里は九州ではなく機内を指していた<
根本的に、「南≠東」でも×。
つまり、この男も >>714
>だから場所によっては1里50mや200mの
短里でも長里でもないフレキシブル里で書かれてるだろ<
200mは、
奴國の比定の須玖岡本や弥生銀座が、伊都國の東であって、東南ではない、
という事で、始めから×であり、
それを省けば55m〜90m位になり、フレキシブル性が半減し、
長里の430m位は、ますます×になる。
>つまり距離はいいかげん<
有効数字1桁や「余」の範囲内であり、「いいかげん」とする方が×。
>さらに帯方郡より1万2千里は吸収でも畿内でもどっちも指せる<
大和は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから×であり、
「南≠東」に拠っても、始めから×であった。 邪馬台国はヤマト国
生駒葛城山系の東側だな
他の畿内は邪馬台国ではない
カワチ河内、ヤマシロ山背、ヤマト山外、
地形に因んだ地名
ヤマトは山の向こう側、山の外という意味 近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした邪馬台国、大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? 鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また蓑火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。
古事記では、
事代主〜オオタタネコの子がタケミカヅチ。
石が牛鬼、古い海神を乗っ取るのに関係しているのかもしれない。
久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。 >>743
>>足摺岬の西方海上の沖の島には、江戸時代まで「低身長」の人々がいた、
という記録があり、<
>そんなゴミ情報など根拠にならん<
「東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
の地は、
東渡海千餘里の皆倭種の地から、更に南へ三千里行った場所になり、
ほぼ足摺付近になって、位置がほぼ一致する、という情報であった事になる。 「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況
奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72
古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから
絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえない。 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg 三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。
あま市など東海地方には、石作神社が散見される。
石作明神、石作連、火明命。
どういうことだろう。
近隣に美和の地名もある。
三輪、纒向と何か関係あるのか? やっぱりシラ、白が重要なキーワードな気がする
しら、おしらさま、白日、天白、しらぬひ、
おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布
白澤、人面の牛、牛妻
白も牛と繋がってくる
新羅も本来はシラ
白根か、島根、鳥取→新羅、神奈川、埼玉 かつてなにわの大坂城の地にあった生國魂神社。
神武東征の際に生島神と足島神を鎮魂したという謂れが残っている。
畿内征伐の際に真っ先になにわは制圧されたんだろう。
魏志倭人伝当時なにわは既に、邪馬台国卑弥呼、大和朝廷に支配されていたと思われる。
卑弥呼と対立する狗奴国卑弥弓呼。
魏志倭人伝当時の邪馬台国の南の狗奴国は、河内と和泉だろう。
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦。
武埴安彦の祖父、河内青玉繋だろうな。
神功皇后、応神のエピソードは、
尾張出雲吉備を中心とした邪馬台国体制(初期の大和朝廷)に対するクーデターだな。
大和朝廷に虐げられていた九州北部、畿内、関東の先住民が手を結び立ち上がったんだろう。
かつてのクナ国体制側の反撃とも言える。 出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東!から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。 サルタヒコ一族は、オオナムチに破れるんだな。 そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で出ている。
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。サルタヒコが消えたのはイスズ川の川上。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。
サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。
月夜見にして大国主、狗奴国の卑弥弓呼。日見彦。
津ツはノという意味かな。
国津神はクナの神々のことかな。
スクナヒコナ、素クナ彦名も関係あるのかな、倭人の王かもね。 >>176
行程で20メートル程度の距離を測る必要が無い ヤマタノオロチは、元々は丹後半島だろう。
王が殺されて、一族が畿内で逃げ延びた。
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。
ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。
級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。
丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。
伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。
畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた勢力に恩義を感じていたのかもな。
伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。
環大阪湾の倭人、丹後半島を追われたヤマタノオロチ族、出雲の神庭を追われた出雲族が協力して作ったのがクナ。 >>757
>西域の大月氏の朝貢に見合う功績だっていうために、 倭国も萬二千餘里じゃなきゃいけなかったんだよ
それだけのこと<
いや、倭国へは、梯儁等と張政らの、2回来ているから、
梯儁等の「萬二千余里」という記録を、張政らが確認していた事になり、
二組の使節が相互に確認した事になる情報であり、
更に、裸國黒歯國までの記載もあるから、
大月氏の記載と合わせた事にはならない。 壬申の乱で負けた難波は奈良時代は寂れていた。
古代の難波はどういう場所だったのか?
下の長唄は、なにわの地が芦原中津國や食国と認識されていたのが分かる。
それを前提に記紀を読み直すと面白い。
聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首
押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども 山幸彦、海幸彦については色々伝承があるが例えば、
潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。
隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。
記紀が作られたのは天武朝
天武は山幸彦の子孫として描かれている
天武の時代に隼人の乱が起きたのは、必然と言える >>759
>>「50〜90m」位という規則性<
>はいウソつきw 換算に使えるのが事実上 末慮国−伊都国間 伊都国−奴国間
の2ヶ所しかなく、それが50mと200mで4倍も違う<
変な男?。
末慮国−伊都国間の陸行路は、30〜35km位であり、60〜70m位になる。
伊都国−奴国間の、奴國の須玖岡本や弥生銀座の比定は、
(奴國は伊都国の東南であるのに)、
伊都国の東方である事になって、始めから×。 アマタラシ系はどうなったんだろう
少なくとも聖徳太子の時代迄は存在したはずだが
息長タラシ系はどうなったんだろう
最後は大津皇子かな
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも 龍田神社
天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。
祭神
天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。
天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな
そして鎮魂したと ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり
大空をわたる月を、鳥でも刺すように網でからめとり、大君はその月を蓋になさっている。
天武朝では、月は嫌われていたのかな
桜井市のホームページにも載っている
桜井市にこの歌の碑もあるな
天武はよっぽど月や鳥が嫌いだったんだろうな
朱鳥なんて血塗れの鳥を連想するし >>777
>関係もない後世の文献を使って、しかもトンデモ訳するという
古田説の悪癖まるだしだな
だから、いつまでも学者から相手にされない少数派の珍説なの<
何度も書いているように、
倭王武は「道kei百濟、裝治船舫」の文を「自昔・・・」という文言を書いており、
「自昔」は、東征毛人五十五國の話にもかかっているから、
「東方への国生み神話」時代や「神武ら東征」時代の話を含む可能性が高いの。 真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨
白を纏った雲、香、
シラの姫を娶った香具山の勢力、蜘蛛、火明命を連想させるな
月を倒したのかな?
天津、霧、鴨
天津、アマタラシ、
霧は切り、
そんなことないと思うが、アマタラシ系を切ったのは鴨? ウゾだらけのテンプレで日本の歴史を捏造し、喧伝する罪は重い
邪馬台国が畿内?アホじゃないか
邪馬台国はヤマト国、他の畿内、山背、摂津、河内、和泉は関係ない >>207
おまえ偽の畿内説テンプレのやつだろ
無知は引っ込んでろ >>204
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサギジジイ! >>786
>>投馬國へは「日数」しか書かれていないから魏使らは行っていないし<
>なら、邪馬壹國へも「日数」で書かれているから魏使らは行ってないってことになるし、
「1万2千里=水行10日陸行1月」と考える根拠は一切ないってことだね!<
ならんよ。
魏使らは、里数も日数も書けるが、
(上層部以外の)一般の倭人は、里数は知らないが、日数なら書ける、という事。
だから、日数が書かれていた場合には、それが魏使らが書いたものなのか?、倭人が言ったものなのか?を判断しなければならない、という事。
投馬國での「水行二十日」は、起点(不彌國)と終点到着の間に、途中移動を説明する文言がないから、魏使らは通っておらず、だから、「水行二十日」は、倭人からの「所要日数」説明であった事になる。
「水行十日陸行一月」の方は、数量記載はその直前の文言の、行程の目的地である「女王之所都」の説明になり、
だからそれは郡から女王之所都の所要日数説明になり、
魏使らが通って来た行程の日数であるから、(倭人ではなく)魏使らが計測記録した日数であった事になる。 >>787
>>郡出発の「循海岸水行」の出発港は、
沙里院の南海岸部になる「海州」付近の北緯38度線位であり、<
>それ、なんか根拠あるの? 無いでしょ ただ、欲しい数字に合わせて場所を探しただけでしょ
それを世間ではインチキと言うんだよ <
沙里院から倭に向かって南の海岸に向う道を進めば、海州付近になっており、
帯方郡の地域の地図には、海州を含んでいた事と、
海州が、後世に、中国から朝鮮半島への到着港になっていた事と、
「循海岸水行」に相応しい京畿湾に面している事など。 >>215
距離を少しでも短く見せたいためだと正直に言えよ >>788
>>投馬國へは「日数」しか書かれていないから魏使らは行っていないし、<
>その決めつけに根拠なし<
魏使らが行っておれば、それまでの行程記載のように、
当然「里数」を計測記録してある筈だから、
「里数」記載がない、という事は、魏使らは通っていない、という事になる。 >>215
船に乗って川を下れば楽に行けるのにわざわざ山を越えるとかバカですか? >>795
>ウソのゴリ押ししても、無駄 会稽の真東は屋久島あたり<
ウソのゴリ押ししても、無駄。
佐田岬は北緯30度59分10度。
「会稽東治」の揚子江河口の上海の緯度は北緯31度位。
従って、「会稽東治之東」は、九州島の最南端の佐田岬付近。
会稽の真東は屋久島あたり >>813
>>それほどバラバラには思えない。<
>そうやって言い張るだけなのは不可
場所によって1里が50mになったり200mになったり
規則性がないって何度も書かれてるだろ <
そうやって言い張るだけなのは不可 。
1里が55m位に見える所もあったが、
「伊都国→奴國」の1里=200mは、
奴國の位置比定の須玖岡本や弥生銀座付近が「伊都国の東」であって、
魏志に書かれたような、「伊都国の東南」ではないから、
奴國の位置比定が完全な間違いであったのであり、
だから、「1里=200m」の例証にはならないから、×。
規則性がないって何度も書かれてるだろ >>814
>會稽東冶が正しい <
魏志は「計其道里、當在會稽東治之東」であり、「會稽東冶」は間違い。 >>815
>出所はハッキリしてるけど? 漢魏の公式度量衡だから<
秦漢の公式度量衡は「1里=430m位」の長里であるが、
魏の公式度量衡は、初代文帝の即位の詔書での「受命改制」で、
(始皇帝の1里=6尺での混乱に関して)度量衡の統一を指示し、
重臣たちが「周制への復古」の上表を繰り返したから、
明帝の即位の頃には、周髀算経の一寸千里の「1歩≒1尺」の度量衡に決められた。 >>816
>赤道あーたらこーたらは現代人の知識だから関係なし
古代中国人は広東よりは北だと思ってる<
古代中国人は、周髀算経の一寸千里により、
洛陽付近から北回帰線までが萬6千里である、という事を知っており、
広東もほぼ北回帰線付近にあるから、
古代中国人は、帯方郡から東南方向に萬二千余里は、ほぼ上海の東方である、
という事を知っている。 纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
紀伊系 >>818
>《魏書》巻二十七王昶傳「今屯宛,去襄陽三百餘里」
宛城:河南省南陽市宛城区仲景北路318巷
襄陽城:湖北省襄陽市襄城区 >およそ130km 130/300=0.43
三國志にちなむ遺構はあちこち観光地になってるね<
まず「去襄陽」は、襄陽の外縁部である事。
また、「宛」は、前後の説明から、行路に当たる川から離れた、その川の支流域の山中にあって、
現在の比定地とは違っていた事、などの問題があった筈。
だから、議論したければ、その前後の文や、
その付近の地図や、
三百里とされた場所の比定地を提示してみな。 >>822
>九州説=トンデモ の広告塔だからな みんな感謝してるよ<
スレ主=トンデモ の広告塔だからな。
みんな感謝してるよ。 >>220
ウソのゴリ押ししても、無駄。
揚子江河口の上海あたりとか、呉郡でしょ。
いくら九州に近づけたいからって、全然別の場所を
「会稽東治」
に仕立て上げるのは詐欺だよ。
だから九州説は非学問なんだ。 >>13
寺澤氏の論文は第1号と第2号ではなく
第1号と第4号ではないでしょうか? >>226
>>《魏書》巻二十七王昶傳「今屯宛,去襄陽三百餘里」
>>宛城:河南省南陽市宛城区仲景北路318巷
>>襄陽城:湖北省襄陽市襄城区
>>およそ130km 130/300=0.43
>だから、議論したければ、その前後の文や、 その付近の地図や、
>三百里とされた場所の比定地を提示してみな。
失礼ながらこれ以上の引用は必要ないと思うよ
出典を明示しているのだから必要がある人が確認すればよろしい
地図はGoogleMAPに上の住所をコピペして検索すればいいだけ、簡単だよ
武将が考えるのだから当然、城門to城門だよね
宛城の城壁は現在見ることはできないけれども、湖南省政府による「宛城遺址」という石碑が現地にあるようだよ
そもそも宛城と襄陽城との間には新野城(南陽市新野县)が有る
襄陽城の北側目前には樊城(湖北省襄陽市樊城区)が有る
比定地が数kmズレようが1/6になることはない
襄陽周辺は劉備関連の遺跡が多くて人気の観光地だよ
比定地に難癖つけても変えようがないよ つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて悪口だけになってきているな。。。 キナイコシが「なら、どうして古代中国人は
洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、と
誰も言わないの?」と発表したな、、、、 それにしても、魏志倭人伝の一里とは、本当は何メートルなのだろうか。。。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています