邪馬台国畿内説 Part360
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530836032/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原型とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 >>628
>1里430mで帯方郡から1万2千里を換算すればそんくらいになるが<
ウソを付くな。
1里430mで帯方郡から1万2千里を換算すれば、赤道付近になる。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 >>630
>倭が会稽東治之東だという矛盾に
九州説は合理的解釈がまったく提示できていない
つまり短里説は破綻している<
倭が会稽東治之東だという陳寿の判断に、
大和説は合理的な批判がまったく提示できていない。
つまり長里説は破綻している。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 >>632
>帯方郡から狗邪韓国までの距離は倭人伝にあるように循海岸水行だと<
循海岸水行は、全水行ではなく、郡の南岸部の海州付近から韓国に入るまでの行程だ。
>1000km以内に収まるわけないってことだな 1500kmというのも全然大袈裟でないわ
この2地点間の行程では1里あたりの距離は200mくらいか<
韓は方四千里であり、「歴韓国乍南乍東」は、韓を陸行したのだ。
そして、韓の対角線方向距離は5700里位になり、
循海岸水行が残りの1300里位で、合計7000里位だ。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 >>633
>短里で測定された報告書を魏の人間が長里だと思って読んだら、会稽のあたりだと思うんだろうね<
長里だと思って読んだら、赤道付近にまで行ってしまうのだよ。
陳寿は、短里だとして読んだから、「計其道里、當在會稽東治之東」だと推定した。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部に盛土がないこと等 >>634
>魏の役人が短里で報告書くわけないけどな<
史料事実や史料実態は、
魏の役人が(長里ではなく)短里での報告書を書いた。 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 >>635
>実在しない単位で誰が報告書かくの?<
史料事実や史料実態は、
魏の役人たちは、魏朝の採用した「魏の里=短里」での報告書を書いた。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 >>636
>もともと、大陸中華の地理観だと、倭国は呉とか越とかの沖合なんだよ<
いや、郡から東南方向の「韓の南〜大海の中」だ、という認識だ。
>その表現が「計其道里、當在會稽、東冶之東」であり、後漢書の「與朱崖儋耳相近」なんだよ<
いや、陳寿は「計其道里、當在會稽東治之東」という位置推定であり、
後漢書は、使節を伴わないでの
「魏志の自己解釈に拠っての内容変更の書き換え」であって、
そんなものは根拠にならない。
>そもそも短里なんて想定されてないし、想定さえされてないっていうことは、
短里なんてなかったってことなんだけどね <
陳寿は、短里記載である、と認識していたから、「計其道里、當在會稽東治之東」と推定出来た。
>九州説は「短里なんてない」って認めた瞬間に瓦解するから、どんなに論理的に
解説されても頑なに認めないけどねw
逆に言えば、「短里なんてない」って分かってる人には、九州説は噴飯物でしかないw<
大和説は、「南≠東」だけではなく、「短里だ」って認めた瞬間に瓦解するから、
どんなに論理的に解説されても頑なに認めないけどねw。
逆に言えば、「短里たった」って分かってる人には、大和説は噴飯物でしかないw。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 >>638
>魏への報告書では軍事情報10倍増しの例があるから
倭人伝の元になった報告書もその類なのかな <
魏帝の命令で派遣された魏使や魏の役人らが、幾ら水増し報告をしても、
すぐ後から、張政らが、先の魏使らの説明を見て、渡来して来て確認が取れているんだから、
10倍の水増しのウソは、直ぐにバレてしまって、先の魏使らの首が危なくなる、
という事だな。
どこかの文部省や財務省などのように、先の報告書を「処分しました」、なんて嘘つき騙し、をして誤魔化しても、
結局は、バレて処分されている。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 >>639
>アマタラシ系はどうなったんだろう<
俀王姓阿毎字多利思北孤の後裔は、白村江まで頑張り、
白村江の後で、大和日本国に併合吸収継承された。
>少なくとも聖徳太子の時代迄は存在したはずだが <
聖徳太子は、
大和の書紀が、併合吸収継承した倭國の存在や歴史を抹殺しなければならなかったから、
大和の推古はでは男性の多利思北孤ではなかったので、
俀國の多利思北孤が推古の摂政であった、とする騙しの言い訳のために、
河内の厩戸を推古の摂政の聖徳太子にして、多利思北孤の治績を半分盗用したもの。
しかし、厩戸と善光寺との往復書簡に646年頃の九州年号が書かれていたために、
聖徳太子の死後20年以上も後まで生存していた事になって、利歌彌多弗利の時代になり、
利歌彌多弗利の仏教年号の聖徳を盗用した事もバレてしまい、
書紀の嘘つき騙しがバレてしまった。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 >>643
>倭国の朝貢、東夷の平伏は、司馬懿の公孫氏討伐のおかげっていうのが、
晋朝の誇りだから、「戦果は十倍」の文脈で問題ない <
「戦果は十倍」の嘘つき騙しの報告を書けば、
後の遣使である張政らに「嘘つき騙し」が完全にバレてしまうから、
「戦果は十倍」は、有り得ない。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ >>649
>じゃあ韓と倭が同じ単位とは限らないな
平均を取ったらダメだ<
ダメだ。
日数記載には、倭人の口述説明も含まれている可能性があったとしても、
「里数や方向」記録は、魏使らや郡役人らの計測によるものだ。
だから、平均をとっても、何ら問題がない。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
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気づけよ >>650
>そもそも「魏志倭人伝」という呼び方がよろしくない
ご承知の如く、三国志のうち、 魏王朝の事績をまとめた魏書のうちの
東夷伝のそのまた片隅に書きとめられた倭人のくだりの2000字ほどにすぎない。
いってみれば、だだの参考文献か、注釈ていどのこと。
田舎丸出しの内容でおかしくないさ。<
別にそれほどでもない。
東夷諸国の中では、2000字は、圧倒的に字数が多く、
陳寿も、「計其道里、當在會稽東治之東」などのような、詳細な自己説明を付記しており、
明帝の詔書も掲載しており、
侏儒國や裸國や黒歯國も紹介しており、卑弥呼の墓まで記載するなど、
陳寿は、かなり力を入れて記載している。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
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気づけよ >>656
>短い距離単位などというのは、小さな島国日本の中の小さな集落の発想
中国は国土も広いし人口も多い、平野や川もデカいし、考え方も大雑把
華夏族の地理的世界観は実数よりも広大な観念的な平面大地
はるか遠方の未開の国から天子の徳を慕って朝献にやって来る
それが禅譲の正当性になる<
バカだね。
韓の「方四千里」など、長里なら、中国の大部分を占める広さになり、
同じ事で、倭地の「周旋可五千餘里」も中国中心部位になってしまう。
つまり、「長里」は×であり、
魏使らや陳寿は、「短里」を使って、実態にきちんと合うように、記載していた。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
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気づけよ ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 >>657
>区間ごとに1里が何メートルなのかバラバラなんだから<
いや、有効数字1桁や「余」のある近似的測定値として、
55m〜90m位の範囲内になっている。
>倭人伝の里数は信用できないという結論にしかならんだろうに<
長里の430m位は、信用出来ない、という結論にしかならんだろうに。
>それなのに短里厨は「魏の公式の里では合わないから短里が使われていた」と意味不明な論理を展開する<
それなのに長里厨は「秦漢の里では合わないから短里が使われていた」と意味不明な論理を展開する。
>あるいは1里あたり50メートル〜200メートルとバラバラの中から1里が70メートルになる事例だけを選んできて
ほら見ろ短里が実際に使われているとドヤ顔で言い張る<
その200mというのは、区間やルート選択決定のインチキだったね。
>短里厨がやってることは詐欺師の手口だな<
長里厨がやってることは詐欺師の手口だな。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 >>659
長里厨がまずやるべきことは、全行程をリストアップして、
現代の地名でどこになるかを、出来るだけはっきり根拠を示して明示して、
その距離が何キロになるかを示すこと。
その際、出発地点到着地点を、どのように想定しているかを示すこと。
何も具体的に示さず、ひたすら、1里≒430mの長里はあったと喚き続けても無意味。
そういう具体例で示すと嘘がバレるからやるわけないけど。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 >>669
>陳寿が「会塊東治之東」といっているものを、范曄は「会稽東冶之東」 書いています。
中国では東治は東冶の誤りと言っています。日本でも東 冶が正しいと言っています。<
陳寿は、実際に倭地に行って見聞した使節の報告を元にして記載しており、
はるか後代の范曄は、(使節の実見聞記録ではなく)陳寿の魏志を見て、
それを自己解釈に拠って書き換えたに過ぎず、客観性も信頼性も全く落ちるものです。
>これは、陳寿の言うことが信用できるか、 范曄が信用できるかの決定的な踏み絵となります。
東冶という土地が昔ありました。范曄は、東冶は土地の名前だと捉えて いた。<
范曄が、陳寿の「東治」を「東冶」に曲解捏造した。
>東冶というのは台湾の北の方に近い位置にある、現在の福州市だ と、中国では言われているし、
日本でもそう捉えられています。論点は、 それが果たして正しいかどうかの問題です<
前代の同時代的な使節の記録を見た陳寿の方が、客観性も信頼性も高い、という事は自明であり、当然です。
>中国から見て太陽が昇る方向が東であり 季節にもより違うし、広範囲に東と記述したものと考えられる<
周髀算経や礼記のように、午前と午後の太陽の方向を結んで東西を決め、それに直交する方向で南北を決めたり、
指南魚のような方位磁石を知っているから、
魏使らは、東西南北を間違えません。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
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気づけよ オクヤマーーーーーーーーーーーーー
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気づけよ ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
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気づけよ >>670
>と、思って唐の時代に実際に実験してみたらならなかった<
唐代の学者らは、魏西晋朝の短里を知らず、
周髀算経の一寸千里が「長里」で書かれていた、
という間違った「結論先にありき」で計測したから、
周髀算経と合わなかった。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
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気づけよ ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ 68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ 68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
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気づけよ ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
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気づけよ ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
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気づけよ ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
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気づけよ >>670
>と、思って唐の時代に実際に実験してみたらならなかった<
唐代の学者らは、魏西晋朝の短里を知らず、
周髀算経の一寸千里が「長里」で書かれていた、
という間違った「結論先にありき」で計測したから、
周髀算経と合わなかった。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) >>670
>と、思って唐の時代に実際に実験してみたらならなかった<
唐代の学者らは、魏西晋朝の短里を知らず、
周髀算経の一寸千里が「長里」で書かれていた、
という間違った「結論先にありき」で計測したから、
周髀算経と合わなかった。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
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商売と
気づけよ ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ ◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百x四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
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気づけよ ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
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気づけよ ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で3世紀末か4世紀だろう! 奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。黒塚も3世紀とされる。黒塚築造年代の根拠は近刊の報告書入手後に詳説したい。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て築造年代を纏向3類中葉とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と比べて劣後しない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
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気づけよ オクヤマーーーーーーーーーーーーー
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気づけよ 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし オクヤマーーーーーーーーーーーーー
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気づけよ いつ覗いてもテンプレートが、論破されているね、、、 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
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気づけよ 此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。 朝貢年
266年 台与 トヨ津
・
238年 卑弥呼 ヒメ踏鞴
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
つまり邪馬台国=大和朝廷はその初現の段階から中国に朝貢していた。
スサノオはわざわざ海を渡り、後漢・安帝に謁見、土下座した。
この【屈辱的な史実】を日本書紀は書けなかった。
だから基点となる神武時代をBC660年と大きく古くずらし潤色した。
その結果100歳を超える天皇が誕生した。
そして実際には女王国であった時代も、やたら猛々しい神武東征紀で男王国であるかのように演出した。
さらに神武とヒメ踏鞴に「天皇・皇后」という新称号を与え、 女王であったヒメ踏鞴を皇后にした。
そして高天原の場所もまるで九州ともとれるように潤色した。
これが日本の歴史の真相である。
邪馬台国とは葛城である。
アホの>>1 アホの>>1 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
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気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ 90日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:04:10.79
68日本@名無史さん2018/07/09(月) 19:59:20.80
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ >>673
>会稽東冶の東に見えるとか、東に行ったら在るというのではなくて
帯方郡から会稽東冶の東くらいまで南下する計算になるということだから
太陽が昇る方向は関係ない
筑紫と福州市の東では倍以上の距離に差がある<
3世紀の使節の実見記録を元にした陳寿の魏志の「東治」の記載に比べて、
5世紀の、使節の派遣もなく、
前史の魏志の記載の「自己解釈に拠る書き換え」をした南宋の范曄の「東冶」の記載は、
客観性も信頼性もはるかに落ちる記載であり、
根拠にはならないし、
元々、范曄の後漢書も、郡〜邪馬臺國を、
「樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里」
というように、短里で記載しており、
また、長里であれば萬二千余里は赤道付近に行ってしまって、「東冶」の位置でもなく、
だから、「東冶」は、大和説者の主張する「長里」説の根拠にもなっていない、
という事。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
嘘だらけの畿内説で
銭儲けすんな オクヤマーーーーーーーーーーーーー
嘘だらけの畿内説で
銭儲けすんな オクヤマーーーーーーーーーーーーー
嘘だらけの畿内説で
銭儲けすんな オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ >>676
>一寸千里は実測されたものではなくて あてずっぽうの想像値<
周髀算経は、はっきり「測影」した、と記載している。 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ 大谷翔平、
代打初アーチが決勝7号ソロ「全力で走れなかったので一番いい形になった」 大谷翔平、
代打初アーチが決勝7号ソロ「全力で走れなかったので一番いい形になった」 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 115日本@名無史さん2018/07/09(月) 20:08:12.96
オクヤマーーーーーーーーーーーーー
畿内説は
資本主義が生んだ
商売と
気づけよ 畿内説の研究者は
現実の日本史から背を向けた
銭儲け集団 畿内説の研究者は
現実の日本史から背を向けた
銭儲け集団 オクヤマーーーーーーーーーーーーー
嘘だらけの畿内説で
銭儲けすんな オクヤマーーーーーーーーーーーーー
嘘だらけの畿内説で
銭儲けすんな >>63
その通り
長里なんてないね
畿内説の全員が同意してる
長里なんてのは短里厨が作った造語だから オクヤマーーーーーーーーーーーーー
嘘だらけの畿内説で
銭儲けすんな 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>683
>実際の資料事実は正始弩尺、律歴志より換算すると 魏の1里は約430m <
正始弩尺は、尺寸法は周代から大きな変化がなかったから、始めから問題にならない。
また、問題になるのは、里歩系と尺寸系との関係を始皇帝が「1歩=6尺」と決めた事と、
周代の周髀算経での一寸千里の「谷本確認計算」で、「1歩≒一尺」であった、という事。
後代の律歴志の記載は、始皇帝の「「1歩=6尺」の事しか記載していないから、
半分×書であり、根拠にならない。
>邪馬台国への道のりは投馬国の次の記述に 水行10日陸行1月と出てくるので
里数記録がなければ魏使は行ってないとするなら
魏使は邪馬台国にも行ってない事になる <
関係がない。
魏使らは、里数も日数も計測出来るが、
一般の倭人は「里を知らず、所要日数でしか表現できなかった」という事。
そして、「水行十日陸行一月」の数量説明は、
その直前の、魏使らの目的地の「女王之所都」の説明文になるから、
「出発地の郡からの所要日数」説明になる、という事。 >>696
>97mくらいじゃね?(ふつーにとーいでんから? <
ならんよ。
「1里=200m」という数字は、
奴國の位置を勝手に「弥生銀座や博多」付近にする、という、
恣意的な嘘つき騙しの比定の結果だから。
彼は、伊都國の東南方向は、日向峠や早良平野方向になる、
という事をこっそり隠している。 「1歩≒一尺(24.2cm)」の老人のよちよち歩き速度で韓地を歩測したら
プサンあたりまで1年くらいかかるだろうな 20メートル程度の距離を測るのにはぴったりだ。
長い距離は里で測るのだから。
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 後漢書で倭とは対馬海峡の国で、その後漢代における倭の内乱を終息させるために共立されたのが卑弥呼であると魏志倭人伝にある。
107年に朝貢した倭王帥升が筑紫にいて、倭王卑弥呼が即位したのが倭国大乱後の190年頃なら、その間は80年余りしかない。
その間に倭は筑紫から大和に東遷したのだろうか?
畿内説とは、東遷を前提とした、ありえない妄想である。 >>711
>何もおかしくない
地図上でそう導き出されたのなら1里200mの可能性も十分考えれる <」
根本的に、須玖岡本付近は、伊都国の東であって、東南にない、
という事がおかしいから、×。
>つまり1万2千里は九州ではなく機内を指していた<
根本的に、「南≠東」でも×。
つまり、この男も >>714
>だから場所によっては1里50mや200mの
短里でも長里でもないフレキシブル里で書かれてるだろ<
200mは、
奴國の比定の須玖岡本や弥生銀座が、伊都國の東であって、東南ではない、
という事で、始めから×であり、
それを省けば55m〜90m位になり、フレキシブル性が半減し、
長里の430m位は、ますます×になる。
>つまり距離はいいかげん<
有効数字1桁や「余」の範囲内であり、「いいかげん」とする方が×。
>さらに帯方郡より1万2千里は吸収でも畿内でもどっちも指せる<
大和は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから×であり、
「南≠東」に拠っても、始めから×であった。 邪馬台国はヤマト国
生駒葛城山系の東側だな
他の畿内は邪馬台国ではない
カワチ河内、ヤマシロ山背、ヤマト山外、
地形に因んだ地名
ヤマトは山の向こう側、山の外という意味 近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。
結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした邪馬台国、大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。
大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。 魏志倭人伝
邪馬台国の官
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。
伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。
出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。
出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。
邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。
伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか? 鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また蓑火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。
古事記では、
事代主〜オオタタネコの子がタケミカヅチ。
石が牛鬼、古い海神を乗っ取るのに関係しているのかもしれない。
久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。 >>743
>>足摺岬の西方海上の沖の島には、江戸時代まで「低身長」の人々がいた、
という記録があり、<
>そんなゴミ情報など根拠にならん<
「東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」
の地は、
東渡海千餘里の皆倭種の地から、更に南へ三千里行った場所になり、
ほぼ足摺付近になって、位置がほぼ一致する、という情報であった事になる。 「魏志倭人伝に記載されている物」(西暦300年以前弥生時代)
10種の魏晋鏡 福岡県398 奈良県4
鉄刀 福岡県17 奈良県0
素環頭大刀素環頭鉄剣 福岡県16 奈良県0
鉄剣 福岡県46 奈良県1
鉄矛 福岡県7 奈良県0
ほぼ福岡県だけで奈良県を完封、奈良県を口にする方がおかしい状況
奈良県から多く出土している物もあるにはある
(西暦300年以後古墳時代)
三角縁神獣鏡 福岡県49 奈良県100
前方後円墳80m以上福岡県23 奈良県88
前方後円墳100m以上福岡県6 奈良県72
古墳時代以降、文明が東に伝わり発展した地域の一つとして奈良県もあった模様
ただ時代が違うから
絹織物出土に関しては九州たくさん、奈良0 畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。
次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。 吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえない。 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg 三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。
あま市など東海地方には、石作神社が散見される。
石作明神、石作連、火明命。
どういうことだろう。
近隣に美和の地名もある。
三輪、纒向と何か関係あるのか? やっぱりシラ、白が重要なキーワードな気がする
しら、おしらさま、白日、天白、しらぬひ、
おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布
白澤、人面の牛、牛妻
白も牛と繋がってくる
新羅も本来はシラ
白根か、島根、鳥取→新羅、神奈川、埼玉 かつてなにわの大坂城の地にあった生國魂神社。
神武東征の際に生島神と足島神を鎮魂したという謂れが残っている。
畿内征伐の際に真っ先になにわは制圧されたんだろう。
魏志倭人伝当時なにわは既に、邪馬台国卑弥呼、大和朝廷に支配されていたと思われる。
卑弥呼と対立する狗奴国卑弥弓呼。
魏志倭人伝当時の邪馬台国の南の狗奴国は、河内と和泉だろう。
狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦。
武埴安彦の祖父、河内青玉繋だろうな。
神功皇后、応神のエピソードは、
尾張出雲吉備を中心とした邪馬台国体制(初期の大和朝廷)に対するクーデターだな。
大和朝廷に虐げられていた九州北部、畿内、関東の先住民が手を結び立ち上がったんだろう。
かつてのクナ国体制側の反撃とも言える。 出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東!から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。 サルタヒコ一族は、オオナムチに破れるんだな。 そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で出ている。
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。サルタヒコが消えたのはイスズ川の川上。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。
サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。
月夜見にして大国主、狗奴国の卑弥弓呼。日見彦。
津ツはノという意味かな。
国津神はクナの神々のことかな。
スクナヒコナ、素クナ彦名も関係あるのかな、倭人の王かもね。 >>176
行程で20メートル程度の距離を測る必要が無い ヤマタノオロチは、元々は丹後半島だろう。
王が殺されて、一族が畿内で逃げ延びた。
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。
ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。
級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。
丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。
伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。
畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた勢力に恩義を感じていたのかもな。
伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。
環大阪湾の倭人、丹後半島を追われたヤマタノオロチ族、出雲の神庭を追われた出雲族が協力して作ったのがクナ。 >>757
>西域の大月氏の朝貢に見合う功績だっていうために、 倭国も萬二千餘里じゃなきゃいけなかったんだよ
それだけのこと<
いや、倭国へは、梯儁等と張政らの、2回来ているから、
梯儁等の「萬二千余里」という記録を、張政らが確認していた事になり、
二組の使節が相互に確認した事になる情報であり、
更に、裸國黒歯國までの記載もあるから、
大月氏の記載と合わせた事にはならない。 壬申の乱で負けた難波は奈良時代は寂れていた。
古代の難波はどういう場所だったのか?
下の長唄は、なにわの地が芦原中津國や食国と認識されていたのが分かる。
それを前提に記紀を読み直すと面白い。
聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首
押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども 山幸彦、海幸彦については色々伝承があるが例えば、
潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。
隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。
記紀が作られたのは天武朝
天武は山幸彦の子孫として描かれている
天武の時代に隼人の乱が起きたのは、必然と言える >>759
>>「50〜90m」位という規則性<
>はいウソつきw 換算に使えるのが事実上 末慮国−伊都国間 伊都国−奴国間
の2ヶ所しかなく、それが50mと200mで4倍も違う<
変な男?。
末慮国−伊都国間の陸行路は、30〜35km位であり、60〜70m位になる。
伊都国−奴国間の、奴國の須玖岡本や弥生銀座の比定は、
(奴國は伊都国の東南であるのに)、
伊都国の東方である事になって、始めから×。 アマタラシ系はどうなったんだろう
少なくとも聖徳太子の時代迄は存在したはずだが
息長タラシ系はどうなったんだろう
最後は大津皇子かな
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも 龍田神社
天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。
祭神
天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。
天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな
そして鎮魂したと ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり
大空をわたる月を、鳥でも刺すように網でからめとり、大君はその月を蓋になさっている。
天武朝では、月は嫌われていたのかな
桜井市のホームページにも載っている
桜井市にこの歌の碑もあるな
天武はよっぽど月や鳥が嫌いだったんだろうな
朱鳥なんて血塗れの鳥を連想するし >>777
>関係もない後世の文献を使って、しかもトンデモ訳するという
古田説の悪癖まるだしだな
だから、いつまでも学者から相手にされない少数派の珍説なの<
何度も書いているように、
倭王武は「道kei百濟、裝治船舫」の文を「自昔・・・」という文言を書いており、
「自昔」は、東征毛人五十五國の話にもかかっているから、
「東方への国生み神話」時代や「神武ら東征」時代の話を含む可能性が高いの。 真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨
白を纏った雲、香、
シラの姫を娶った香具山の勢力、蜘蛛、火明命を連想させるな
月を倒したのかな?
天津、霧、鴨
天津、アマタラシ、
霧は切り、
そんなことないと思うが、アマタラシ系を切ったのは鴨? ウゾだらけのテンプレで日本の歴史を捏造し、喧伝する罪は重い
邪馬台国が畿内?アホじゃないか
邪馬台国はヤマト国、他の畿内、山背、摂津、河内、和泉は関係ない >>207
おまえ偽の畿内説テンプレのやつだろ
無知は引っ込んでろ >>204
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサギジジイ! >>786
>>投馬國へは「日数」しか書かれていないから魏使らは行っていないし<
>なら、邪馬壹國へも「日数」で書かれているから魏使らは行ってないってことになるし、
「1万2千里=水行10日陸行1月」と考える根拠は一切ないってことだね!<
ならんよ。
魏使らは、里数も日数も書けるが、
(上層部以外の)一般の倭人は、里数は知らないが、日数なら書ける、という事。
だから、日数が書かれていた場合には、それが魏使らが書いたものなのか?、倭人が言ったものなのか?を判断しなければならない、という事。
投馬國での「水行二十日」は、起点(不彌國)と終点到着の間に、途中移動を説明する文言がないから、魏使らは通っておらず、だから、「水行二十日」は、倭人からの「所要日数」説明であった事になる。
「水行十日陸行一月」の方は、数量記載はその直前の文言の、行程の目的地である「女王之所都」の説明になり、
だからそれは郡から女王之所都の所要日数説明になり、
魏使らが通って来た行程の日数であるから、(倭人ではなく)魏使らが計測記録した日数であった事になる。 >>787
>>郡出発の「循海岸水行」の出発港は、
沙里院の南海岸部になる「海州」付近の北緯38度線位であり、<
>それ、なんか根拠あるの? 無いでしょ ただ、欲しい数字に合わせて場所を探しただけでしょ
それを世間ではインチキと言うんだよ <
沙里院から倭に向かって南の海岸に向う道を進めば、海州付近になっており、
帯方郡の地域の地図には、海州を含んでいた事と、
海州が、後世に、中国から朝鮮半島への到着港になっていた事と、
「循海岸水行」に相応しい京畿湾に面している事など。 >>215
距離を少しでも短く見せたいためだと正直に言えよ >>788
>>投馬國へは「日数」しか書かれていないから魏使らは行っていないし、<
>その決めつけに根拠なし<
魏使らが行っておれば、それまでの行程記載のように、
当然「里数」を計測記録してある筈だから、
「里数」記載がない、という事は、魏使らは通っていない、という事になる。 >>215
船に乗って川を下れば楽に行けるのにわざわざ山を越えるとかバカですか? >>795
>ウソのゴリ押ししても、無駄 会稽の真東は屋久島あたり<
ウソのゴリ押ししても、無駄。
佐田岬は北緯30度59分10度。
「会稽東治」の揚子江河口の上海の緯度は北緯31度位。
従って、「会稽東治之東」は、九州島の最南端の佐田岬付近。
会稽の真東は屋久島あたり >>813
>>それほどバラバラには思えない。<
>そうやって言い張るだけなのは不可
場所によって1里が50mになったり200mになったり
規則性がないって何度も書かれてるだろ <
そうやって言い張るだけなのは不可 。
1里が55m位に見える所もあったが、
「伊都国→奴國」の1里=200mは、
奴國の位置比定の須玖岡本や弥生銀座付近が「伊都国の東」であって、
魏志に書かれたような、「伊都国の東南」ではないから、
奴國の位置比定が完全な間違いであったのであり、
だから、「1里=200m」の例証にはならないから、×。
規則性がないって何度も書かれてるだろ >>814
>會稽東冶が正しい <
魏志は「計其道里、當在會稽東治之東」であり、「會稽東冶」は間違い。 >>815
>出所はハッキリしてるけど? 漢魏の公式度量衡だから<
秦漢の公式度量衡は「1里=430m位」の長里であるが、
魏の公式度量衡は、初代文帝の即位の詔書での「受命改制」で、
(始皇帝の1里=6尺での混乱に関して)度量衡の統一を指示し、
重臣たちが「周制への復古」の上表を繰り返したから、
明帝の即位の頃には、周髀算経の一寸千里の「1歩≒1尺」の度量衡に決められた。 >>816
>赤道あーたらこーたらは現代人の知識だから関係なし
古代中国人は広東よりは北だと思ってる<
古代中国人は、周髀算経の一寸千里により、
洛陽付近から北回帰線までが萬6千里である、という事を知っており、
広東もほぼ北回帰線付近にあるから、
古代中国人は、帯方郡から東南方向に萬二千余里は、ほぼ上海の東方である、
という事を知っている。 纒向遺跡への搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
紀伊系 >>818
>《魏書》巻二十七王昶傳「今屯宛,去襄陽三百餘里」
宛城:河南省南陽市宛城区仲景北路318巷
襄陽城:湖北省襄陽市襄城区 >およそ130km 130/300=0.43
三國志にちなむ遺構はあちこち観光地になってるね<
まず「去襄陽」は、襄陽の外縁部である事。
また、「宛」は、前後の説明から、行路に当たる川から離れた、その川の支流域の山中にあって、
現在の比定地とは違っていた事、などの問題があった筈。
だから、議論したければ、その前後の文や、
その付近の地図や、
三百里とされた場所の比定地を提示してみな。 >>822
>九州説=トンデモ の広告塔だからな みんな感謝してるよ<
スレ主=トンデモ の広告塔だからな。
みんな感謝してるよ。 >>220
ウソのゴリ押ししても、無駄。
揚子江河口の上海あたりとか、呉郡でしょ。
いくら九州に近づけたいからって、全然別の場所を
「会稽東治」
に仕立て上げるのは詐欺だよ。
だから九州説は非学問なんだ。 >>13
寺澤氏の論文は第1号と第2号ではなく
第1号と第4号ではないでしょうか? >>226
>>《魏書》巻二十七王昶傳「今屯宛,去襄陽三百餘里」
>>宛城:河南省南陽市宛城区仲景北路318巷
>>襄陽城:湖北省襄陽市襄城区
>>およそ130km 130/300=0.43
>だから、議論したければ、その前後の文や、 その付近の地図や、
>三百里とされた場所の比定地を提示してみな。
失礼ながらこれ以上の引用は必要ないと思うよ
出典を明示しているのだから必要がある人が確認すればよろしい
地図はGoogleMAPに上の住所をコピペして検索すればいいだけ、簡単だよ
武将が考えるのだから当然、城門to城門だよね
宛城の城壁は現在見ることはできないけれども、湖南省政府による「宛城遺址」という石碑が現地にあるようだよ
そもそも宛城と襄陽城との間には新野城(南陽市新野县)が有る
襄陽城の北側目前には樊城(湖北省襄陽市樊城区)が有る
比定地が数kmズレようが1/6になることはない
襄陽周辺は劉備関連の遺跡が多くて人気の観光地だよ
比定地に難癖つけても変えようがないよ つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて悪口だけになってきているな。。。 キナイコシが「なら、どうして古代中国人は
洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、と
誰も言わないの?」と発表したな、、、、 それにしても、魏志倭人伝の一里とは、本当は何メートルなのだろうか。。。 3世紀の中国で使われていた度量衡ははっきりしているので
短里なんていうフィクションに頼らねばならない九州説は
当然ながらもう終わっている おい!
なんで糞国家と日本を繋げなあかんねん!
歴史に詳しい奴、説明してみいや!
https://this.kiji.is/387448894626251873/amp?c=174761113988793844&c=174761113988793844&__twitter_impression=true >>232
畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 寺澤薫氏の最近の論調では
纏向と邪馬台国論叢と距離をおき、
ヤマトの古代を語るようになった
すこし、は現実的な研究者になったような気がする >>243
寺澤先生の2016年の「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
で
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」
と書かれているよ
寺澤先生の40年の研究の集大成であるお言葉 >>242
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 >>245
>寺澤先生の40年の研究の集大成であるお言葉
晩節を汚す言葉だね。
情けない。 むかしむかし、
畿内地方には倭種という人種が細々と暮らしていました。
いっぽう、
九州地方は「倭地」を呼ばれ、そこには大勢の「倭人」が住んでいました。
そして倭人たちの政治連合台として、共立女王に率いられた「大倭国」がありました。 >>249
>情けない。
その情けないと思う頭脳が、時代遅れで情けないww
日々、邪馬台国論争とは関係なく、研究成果は発表されている
その研究成果を俯瞰的に総合してみれば、卑弥呼の遣使の絶対年代より前に
畿内では古墳時代に繋がる纏向遺跡の建設が始まっているし、その纏向の
建設開始の理由に卑弥呼の共立を見るのが普通の見方になっているんだよ
何でもかんでも、見ない聞かない
あれは畿内説の陰謀
これは、大家や恩師にに逆らえないから
とか理由を付けて、どんどん時代遅れになって、
プロの世界では誰も省みなくなったのが九州説なんだよ
惨めだね 畿内説では卑弥呼の鏡は何になるんだ?
テンプレに何も書いてないのは根拠に乏しく触れられたくないからだろ? >>252
>畿内説では卑弥呼の鏡は何になるんだ?
宝飾鏡レベルの三角縁神獣鏡なんじゃないかな
宝飾鏡レベルのがありそうな、大王墓の埋葬主体部が発掘されてないから、
現物は示せないけれど
三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡
西川 寿勝 日本考古学 / 6 巻 (1999) 8 号 /
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/6/8/6_8_87/_pdf/-char/ja >>252
なら触れてみれば?
反論もできずに邪推ばかりしてる人は畿内説に歯が立たないだろうさ >252
>畿内説では卑弥呼の鏡は何になるんだ?
>テンプレに何も書いてないのは根拠に乏しく触れられたくないからだろ?
>254
>>>252
>なら触れてみれば?
>反論もできずに邪推ばかりしてる人は畿内説に歯が立たないだろうさ
ザ・畿内説w 九州説なんてものは相手にされていないぞ、
お前の名前は?どこかの学校の講師、教授? 九州というのは、
ただの地方の都市なんだけど、頭の病院に行け >>251
>その研究成果を俯瞰的に総合してみれば、卑弥呼の遣使の絶対年代より前に
>畿内では古墳時代に繋がる纏向遺跡の建設が始まっているし、
卑弥呼と関係ないところでやっていたんだろ。
あと、年代についても疑問があるしね。
そもそも纒向は楽浪郡や大陸との交渉の証拠が決定的に欠けている。 >>255と>>257は、あまりに内容が無い
おうむ返しと同じか、それ以下だ >そもそも纒向は楽浪郡や大陸との交渉の証拠が決定的に欠けている。
奈良は都市なの? 出先機関だと言ってる人もいなかった?
大陸→九州→機内・・・・・・・・・・
→日本海、東北に住んでいた、本当の大王家、このような運び このスレだった?
予言スレに、このような書き込み、
中国産の偽ガンダムが何やら 『中国産 偽ガンダム』
大陸→九州→畿内(本拠地。大王など)←東北(大王なども、この方面の人々) >>259
>そもそも纒向は楽浪郡や大陸との交渉の証拠が決定的に欠けている。
テンプレに纒向と楽浪郡や大陸との交渉の証拠が書いてあるけれど
なにも反論しないで、理由も言わないで
My結論だけ言い張るの?
それが九州説w ガンダムに出て来るサングラス
その後、乗っ取られた?
確か、そういう話だったはず
大陸から来た人々に乗っ取られた? アニメでも何でも良いんだけど、
詳しいというか?何か知っている人がいるんだと思う
その後、サングラスの勝利だった?〜現在2018年 ガンダムのサングラスというのも
なぜかフランスから来たというコンセプト
『スサノオの勝利宣言』
赤い鬼のようなモノに乗っていたり 『龍宮御殿』(画像)サングラスの話でしょ?
『人権宣言』? 乗っ取られてから、どこかに潜伏、
名を変え、他勢力に属したり、
ガンダムのサングラス? 他のスレの話になるんだけど
『松傾』という書き込みをした後
「まあ、なんだ酒でも飲むか」
「まあ、なんだ酒でも飲みに行くか」?
このような事を言ってる人がいたり、
サングラスの勝利宣言? 何やら地方、どこそこの出身とか、
そういうのも関係ない
蝦夷(エゾ、エミシ)、アイヌの話
「のまねこ」
「飲もう」という曲も同じ、
ガンダムのサングラスの系統 「のまねこ」
画像をググってみると、脅迫事件?義理の・・・を殺害という画像とか 論破された畿内説の宣伝係が呟き始めたのではないのかな。。。 酒呑童子というのも、
誰かを殺したという話だったはず
犯人と同じ家の人?
少し離れた親戚とか >>281
つまり、キナイコシではないのかな、、、、 本物(本家)の家の人を殺そうとしたとか?
脅迫事件紛いの事をしているとか
漫画、アニメ、ゲームなどの話、
家の話のような気がしたり? 兄、弟(書き込みをしている人)・・・妹がいるんだけど、
キュウリの葉、葱の華・・・あの写真とか
松傾?『市』という家 親戚なのか何なのか知らないけど、
遠い親戚なのか?ヤクザのような人間がいるとか
そういうのと関係している人間 家は、そういう業界(野球、芸能・・・なども)の親戚はいないし、
知っている限りではいない >>263
魏と交流がないなら、親魏倭王にはなれないだろw おかしい。
今日の午後5時頃から7時頃までの、
私が投稿した書き込みが、全部消えて無くなっている。 >>291
畿内説を完全に論破した、僕達の発表も、今、妨害されているね、、、 >>294
>ザラコクさんは、本当にバカだなぁ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1529596870/
有難う御座います。
早速、こちらへ戻します。
>>136
>つまり邪馬台国=大和朝廷<
邪馬台国も大和朝廷も存在していなかったから、×。 >>138
>また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、<
同じ構文ではない。
「水行二十日」は、その直前の「南至投馬國」の説明であるが、
「水行十日陸行一月」は、
その直前にあって、郡からの行程の目的地である「女王之所都」に関する、
所要日数説明である。
>「南至邪馬壹國」の起を帯方郡とするなら<
その仮定が間違っている。
>「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、、
仮定が間違っているから、これも×。
>投馬国には水行のみで到着し得る。 よって韓地陸行説が蹉跌し、<
間違った仮定では、韓地陸行説が蹉跌しない。
>陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。<
間違った仮定に拠った論理は、当然成立しない。 >>162
>邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。・・・<
邪馬台国も畿内も存在していなかったから、×です。 >>169
>その通り
長里なんてないね
畿内説の全員が同意してる
長里なんてのは短里厨が作った造語だから <
当然、大和説者が主張する「1里≒430m」論に対する、呼称。 >>171
>・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。<
大和の前方後円墳は、筑紫の那珂八幡などの模倣であり、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」で出来て、
倭國の地方の市を監督する大倭職の国として成立した。
>・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。 <
倭国から別れた別種の旧小国であった。
>・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。<
大和は、九州倭国の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは九州である。 >>172
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 <
「南≠東」に拠って「有り得ない」から、×。 >>175
>「1歩≒一尺(24.2cm)」の老人のよちよち歩き速度で韓地を歩測したら
プサンあたりまで1年くらいかかるだろうな <
魏使らは、一寸千里を知っているし、
目視が出来れば簡易三角測量もあるし、
記里車もあるから、
歩測は殆ど要らない。
歩測を使ったとすれば、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の時。 >>177
>箸墓は260〜280年くらいでしょう。<
箸墓は、久住編年に拠って、那珂八幡よりも後であり、
(那珂八幡は前方後円墳だから、卑弥呼の祇園山やの壹與の平原よりも後であり)、
箸墓は(布留であって)庄内がないから、庄内があるホケノよりも後であり、
久宝寺や加美で伽耶の陶質土器と庄内が共存しているから、庄内末は3世紀末になり、
従って、箸墓は4世紀以後。 >>181
>邪馬台国はヤマト国<
「南≠東」に拠って、×。 >>182
邪馬台国も大和朝廷も倭国大乱もないから、×。 >>183
邪馬台国はないし、「南≠東」だから、×。 >>307
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサギジジイ! 寺澤薫氏の最近の論調では
纏向と邪馬台国論叢と距離をおき、
ヤマトの古代を語るようになった
すこし、は現実的な研究者になったような気がする >>268
>テンプレに纒向と楽浪郡や大陸との交渉の証拠が書いてあるけれど
なにも反論しないで、理由も言わないで
My結論だけ言い張るの? <
テンプレを鵜呑みにする、思考回路を疑う 九州説の二大虚頭は、もう学習できる年齢じゃないんだろうな
いくら言われてもダメだね
理由を言わずに俺様結論をいくら連呼しても
畿内説への反論にはならないのにね
しかも>>304とか>>309とか、もう暴かれたウソを連呼してる
読んでる人から明らかにバカに見えてる自分の姿を
少しは憐めよ >>310
テンプレは理由や出典がちゃんと書いてあるので
自分なりに咀嚼しないといけないから
鵜呑みにすることが出来ない >>312
理由がこじつけ、出典はあるけど嘘と妄想で糊付けしてあるので、全体としては詐欺に近い。 >>314
スレ主は詐欺をするほど頭は働かない
テンプレは支離滅裂だが、努力はしている >>309
>>243
寺澤先生の2016年の「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukug...u.jp/pdf/kiyou-4.pdf
で
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」
と書かれているよ
寺澤先生の40年の研究の集大成であるお言葉 >>314、>>315
>出典はあるけど嘘と妄想で糊付けしてあるので、全体としては詐欺に近い。
それがどこがどう詐欺なのか、具体的に指摘してみなって、いろんなところで
何度も何度も教えてやってるのに、いまだにできないねぇw
九州説の連中ってのは、具体的なことを書くだけの知識も文章力もない、
そもそも知的能力が足りないってことでいいかい? ほとんど全ての文章がことごとく嘘だらけ。
いちいち指摘するのはザラコクさんにまかせた。
彼の批判に反論してくれたまえ。 >>316
>「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。<
☟
>>1
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 < すり替えである。
それならばきちんとしたテンプレのスレを立てるべきだ。
今のテンプレでは説得力がなく、畿内説は都合の良いただの嘘と方便の塊だ。 >>318
逃げたね! 無能w
ことごとく嘘だらけならいくらでも指摘できるだろ?
それをしないというなら、できないってことだよな?
無能w
それに、ザラコクさんはまともな会話ができないから、対話・討論をしないために
遅レスを心がけてる人だよ?
それに、何を言われても、自分の思い込みを書くだけの人で、答えられなくなると
「東≠南」で逃げるww
無能オブ無能の人だよ!
まあ、九州説は全員ザラコクレベルだってのはもう、公知のことだけれどね >>321
数多く過去 立てられているが
ここのスレ主が(似非スレだ)とか24時間アラシ続け潰している >>321
>今のテンプレでは説得力がなく、畿内説は都合の良いただの嘘と方便の塊だ。
相変わらず具体性のないふわっとしたことを書いてごまかしてるよな?
何度言えば分かるのかなぁ?
どこが嘘と方便なのか、具体的に指摘してみなってばさ!
それができない奴は何を言ってもムダ >>323
テンプレ全廃ではツッコミどころがなくなるからな。
畿内説としての趣旨を2〜3レス程度でまとめてあればいいんだよ。
それができないスレ主はまとめる能力やプレゼン能力がない。
この板だけ見ていたら、畿内説は完全に崩壊しているよ。 >>323
連続句読点の荒らし野郎が、まともな討論をしているのを見たことがあるか?
やつのスレ立ては、ただの迷惑行為だよ
邪馬台国スレいい加減にしろ [無断転載禁止]©2ch.net
もう邪馬台国板でも作れよ [無断転載禁止]©2ch.net
こんなスレまで作られるほど、日本史板に迷惑をかけている
学問板に出入りできるだけの知力のない連中を、九州説の連中内部で
自浄できるならいいけどそれもできないんだろ?
本当にバカは迷惑! >>328
長々と無意味なテンプレを貼り続けている無能を放置している畿内説こそ自浄能力がない。
誰かまともな畿内説スレを立てろよ。 つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 >>184
「天皇」も「皇后」もいなかったから、×。 >>187
「畿内」も「大和朝廷」も「皇后」も「皇子」もいなかったから、×。 >>190
「大和朝廷」なんて、存在していなかったから、×。 >>329
無意味だって理由は?
おまえ反論一つできないんだろ? >>192
畿内も邪馬台国も大和朝廷も皇后もなかったから、×。 キナイコシが「なら、どうして古代中国人は
洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、と
誰も言わないの?」と発表したな、、、、 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 >>193
「畿内」なんてなかったし、
「畿内」という文言は、(オームなどと同じような)、
始めから「萬世一系皇国史観」の、「結論先にありきの宗教的文言」であるから、
×。 >>194
>(1歩≒25.5m位の歩)行程で20メートル程度の距離を測る必要が無い <
行程では、普通は、田畑や集落単位の「里」を使うのであって、
「歩」を使わない。
「歩」を使った例は「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」。 >>329
× 長々と無意味なテンプレ
○ これを読むだけで九州説があり得ないって素人でも分かってしまうから
九州説にとってとにかく目障りでしょうがないテンプレ 中国製の小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。
十数点の出土のうち九州はわずか1点、残りはすべて畿内。
当時の日本にこんな精巧な冑は作れない。
おそらくトヨの朝貢時に入手したのだろう。
この時点で中国と通交してた主体は畿内であり邪馬台国論争は決着する。
この小札革綴冑は山城の椿井大塚山古墳から出る。
崇神に反乱を起こした武埴安彦命が挙兵した場所であり、
椿井大塚山被葬者が武埴安彦である可能性が高い。
もう一つ面白いところから出る
大阪柏原の玉手山3号墳だ。
この時代に河内の首長が中国製の小札革綴冑というお宝を手に入れていた。
被葬者の該当人物がいる。
孝元天皇の妃・埴安媛の父、河内青玉繋だ。
武埴安彦の祖父になる。
河内青玉繋→埴安媛 →武埴安彦
祖父と孫、つまり同じ一族が小札革綴冑を手に入れてたのではないか。
ということは河内青玉繋はトヨの時代を生きていた。
トヨの朝貢団の一人ではないのか。
どちらにしても「欠史」などと言われてきた初期8代天皇は確実に実在した、
そして魏志の台与と大和朝廷がこの冑によって結びつくのだ。 >>339
行程には里を使うんだよ
歩は土地の広さを測るのに使う
狭いなら尺でいい
つまり「1歩≒25.5m位の歩」なんて
想定する人の頭がおかしい >>197
>壬申の乱で負けた難波は奈良時代は寂れていた。 古代の難波はどういう場所だったのか?
下の長唄は、なにわの地が芦原中津國や食国と認識されていたのが分かる。
それを前提に記紀を読み直すと面白い。・・・<
難波京は、筑紫の土器が出土してるから、筑紫倭國の「分都」の一つの「倭京」であったのであり、
古代から、倭國の「東征毛人五十五國」の一つとして、大和とも区別された地であったのであり
大和の倭京地域での居地は、「長柄宮」であったのであり、
そのような観点から、書紀に書かれた孝徳の治政を見直す事が必要。 >>344
古田説も超古代だけでやめときゃ、まだ誤魔化しが効いたのにね
飛鳥時代まで九州王朝とか言い出したから
皆あきれて読者が離れちゃった >>330
畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 倭国と日本国が同時に存在した時代、両国に住む人種は同じだったのかな。。。 同じじゃないのかな。。。
倭国である女王国から、東に海を渡った土地にも倭種が住んでいたと魏志倭人伝に紹介されているからね。。。 倭国である女王国から、東に海を渡った土地が日本国だったのだな。。。 >>200
>アマタラシ系はどうなったんだろう
少なくとも聖徳太子の時代迄は存在したはずだが.・・・<
多利思北孤の後裔の九州倭國が、白村江で負けたのであり、
大和系の女帝であった斉明が土佐や伊予に逃亡し、
息子の天智が、一旦唐との交渉を行い、天皇を称して、
670年に大和日本国が九州倭国の併合吸収継承を宣言し、
しかし、九州系であって大和系の大皇弟になっていた天武が、
天智の子に勝って、改めて九州〜近畿の支配者になり、
「万世一系の大和天皇家支配」であった、という事にした。 >>349
>倭国である女王国から、東に海を渡った土地が日本国だったのだな。。。
倭国である女王国から、東に海を渡った土地へ8世紀に遷都した土地が日本国だったのだな。。。 @阿波 >>352
>。。。使うな
@阿波使ってもいいよ。 @阿波 キナイコシが。。。を忌み嫌うのはなぜだろうか、、、 。。。は、畿内説を妄信するキナイコシを、完膚なきまで叩きのめしている、優れた考古学者が、インターネット上の投稿で、多用する癖なのではないのかな。。。 >>346
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 ザラコクさんや
尺と歩がほぼ同じ長さだったら、どっちかいらんやろ?
お前さんの言っていることはそんな、合理性の欠片もない戯言だよ
それから、よく「始皇帝の一歩=六尺の規定による混乱を周制に戻すことで、」とか
言ってるけど、周末の春秋戦国期に、各国が変法、乱法を多数作ったために混乱したのであって
始皇帝の度量衡の統一は混乱の収拾だよ
そして、それから前漢、後漢の間、1歩=6尺は維持されていて、混乱はない
始皇帝の度量衡統一が紀元前221年
魏の文帝の黃初元年、議改正朔、易服色、殊徽號、「同律度量」、承土行が西暦220年
この間440年経っているし、公孫氏ももともと漢人で遼東太守からのちに左将軍の官位も
得ている
公孫氏も漢尺以外の度量衡を使う理由がない >>357
検索すると、阿蘇山の麓にいた倭国王のようだな、、、 >>206
>アンチは既知害ばかりだな<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説者らは、
オームと同じように、
戦前の「萬世一系皇国史観」というアンチ宗教にクルった既知害ばかりだな。 >>209
>荒らし=九州説<
「南→東」などの嘘つき騙しでの古代史への荒らし=戦前の「萬世一系皇国史観」のキョクウの大和説人種。 どういうことだろうか。。。
361日本@名無史さん2018/07/11(水) 11:38:19.58
纒向に住居跡が無いのは何故だろう? 纒向に住居跡が無いのなら、やはり、あのちっぽけな掘立の倉庫は生口の収容施設だったのではないのかな。。。 >>216
>距離を少しでも短く見せたいためだと正直に言えよ<
魏使らは、人類の常識通りに、「安全最短の原則」だよ。 >>363
自分の思想に合わない者を理不尽に攻撃して、悪質なならず者を擁護する人って最低 >>363
自分の政治思想に合わない者を理不尽に攻撃して、悪質なならず者を擁護する人って最低 >>366
zarakokuに人類の常識は無いがな >>219
>船に乗って川を下れば楽に行けるのにわざわざ山を越えるとかバカですか?<
沙里院から海州は、大体「直線的な普通の道」が書かれており、安全最短の原則に適う。
それに対して、
北西へ川を下って、黄海に出て、長串岬のリアス式的な激しい潮流の海上のお回りの水行コースは、
安全最短の原則にも違背し、舟の転覆事故の確率が高く、
魏使らの選択には全くならないコース。 >>365
倭国が日本国から生口を輸入していたのだろうね。。。 >>372
売られる前の生口たちは、天皇の妹の墓を作らされていた可能性が高いな。。。 >>370
>沙里院から海州は、大体「直線的な普通の道」が書かれており
またまた真っ赤なウソ
w >>358
>尺と歩がほぼ同じ長さだったら、どっちかいらんやろ?
歩が25センチなら問題ないな。 >>374
その男は「『大体』と言っておいたから」と言って、自分のどんな嘘でも許されると主張してきた男 >>375
問題にならない。
そんな単位は不要だよ。
重複だ。 【同音同語】 ヘブライ文字は、そのままカタカナとして読める、漢字から作られたというなら証拠だせ!
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1531275971/l50
日本人は、Dの一族(遺伝系統D型=チベット=ユダヤ系)″だった!? >>336
普通の常識がある者ならば、どうしてキナイコシは古代中国人の誰一人として、「洛陽〜ベトナム北部は、1万6千里位だ、」と言わなかったと考えてしまう狂人なのか、と思うのではないのかな。。。 少しづつ、長さの単位のことが分かってきたな。。。
長さの単位には、数多くの種類があって、種類によって、作製された年代が違ってくるのだな。。。 >>380
僕たちも、特に魏志倭人伝時代の長さの単位の研究をやってみれば良いのではないのかな。。。 だが、なぜ、キナイコシは魏志倭人伝に使われている里単位が430mを示そうとしたものだと誤認したのだろうか。。。 キナイコシも、本当は、魏志倭人伝に使われている里単位が430mを示そうとしたものだとは信じていないのではないのかな。。。 観光業界の宣伝のために、言い張っているだけではないのかな。。。 そうだね、畿内説で有名な某学者も退官したら倭人伝の記述は九州だと認めたらしいしね、、、 >>370
>「直線的な普通の道」が書かれており
現代の地図にな 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて、有名な某学者の正体の究明に、話を逸らしているな。。。 キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のない空白の改行を行う癖があるな。。。 >>389
いつも意味のないこと書いてる東遷説って、いつも論破されてるんだね >>391
そうだね。。。
僕たちの誰も、邪馬台国が東遷したとは思っていないのだがな。。。 >>228
>ウソのゴリ押ししても、無駄。 揚子江河口の上海あたりとか、呉郡でしょ。
いくら九州に近づけたいからって、全然別の場所を「会稽東治」 に仕立て上げるのは詐欺だよ。
だから九州説は非学問なんだ。<
いくら言い訳をごり押ししたって無駄。
wwは、最初は、
会稽郡からの呉郡の分離は、魏の最末期頃だ、と説明しておいて、
それでは、陳寿の「会稽東治」が分離呉郡であった事が否定出来ない事が判って、
その後で、突然会稽郡から呉郡の分離が漢代にあった、という情報を提示して来たのだが、
それだけでは、漢代の呉郡分離は、
会稽郡治の北部や北西部であって、会稽郡治の東方(東治)ではなく、
魏代末期の呉郡の「会稽郡からの呉郡の再分割の追加」であった、
という事の否定になっていなかった、という事。
だから、陳寿の「会稽東治」は、
魏末期の「会稽郡の東治地域を呉郡に編入分離した」地域であった事になり、
揚子江河口の上海付近を指示していた、
という事になる。 >>391
キナイコシが宣伝している畿内説の方こそ、本当は東遷説だということが世間に知られることを恐れて、意味のわからないことを言って胡麻化そうとしているのではないのかな。。。 キナイコシが発表した200年の時間差とは、どういうことだろうか。。。 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて、東遷説のことに、話を逸らしているな。。。 >>396
中国の正式な歴史書に書かれた倭人と中国人の交流の間隔時間のことではないのかな。。。 >>397
畿内説を宣伝するキナイコシが、論破された内容というのは、魏志倭人伝時代の長さの単位のことではないのかな。。。 >>398
キナイコシはその期間の間にある帥升のことを知らなかったのではないのかな。。。 キナイコシは、テンプレートが論破された時、理由も示さずに、嘘だ嘘だとしか言わないな。。。 >>230
>>>《魏書》巻二十七王昶傳「今屯宛,去襄陽三百餘里」 宛城:河南省南陽市宛城区仲景北路318巷 襄陽城:湖北省襄陽市襄城区 およそ130km 130/300=0.43<
>>だから、議論したければ、その前後の文や、 その付近の地図や、三百里とされた場所の比定地を提示してみな。<
>失礼ながらこれ以上の引用は必要ないと思うよ 出典を明示しているのだから必要がある人が確認すればよろしい<
素人オジンにとってはは、そんな「出典確認」なんて、確認方法も知らないし、全く出来ないんだよ。
だから、Yahooでの議論で、 ハイエナらが提示した文面(これはtextreamに消去されて存在しない)から判断したり、
古田本の「宛と苑」の話の議論で、古田本の記載を根拠にした事があっただけ。
>地図はGoogleMAPに上の住所をコピペして検索すればいいだけ、簡単だよ<
GoogleMAPの使用法もよくできず、mutouha氏の提示画像を拝借したりしていただけだよ。
>武将が考えるのだから当然、城門to城門だよね 宛城の城壁は現在見ることはできないけれども、湖南省政府による「宛城遺址」という石碑が現地にあるようだよ<
これが、はるか後代の学者の単なる「推定」であったんであろうから、何ら絶対性がなく、 やはり、魏志の同時代記録文の方が、はるかに信頼性が高いんだよ。
>そもそも宛城と襄陽城との間には新野城(南陽市新野县)が有る
襄陽城の北側目前には樊城(湖北省襄陽市樊城区)が有る 比定地が数kmズレようが1/6になることはない<
始めは新野城の「南の東西どちらかの支流の山中の池や湖」に、船溜まりの「苑」地や陣地があったのか?とも考えたが、
結局は、「宛」地は、新野よりもはるかに襄陽よりの支流の中の山中の水軍陣地であったんだろう、 という事になっていた。
>襄陽周辺は劉備関連の遺跡が多くて人気の観光地だよ 比定地に難癖つけても変えようがないよ<
「一寸千里や短里を知らない現代学者」の比定の信頼性は、
「陳寿の記載事実」という同時期記録の信頼性よりも、はるかに落ちるんだよ。 >>233
>破綻はお前の脳だけ<
破綻は、「南→東」などの嘘吐き騙しや、
「戦前の萬世一系皇国史観」でクルった、
大和説者の脳だけ。 >>393
>だから、陳寿の「会稽東治」は、
>魏末期の「会稽郡の東治地域を呉郡に編入分離した」地域であった事になり、
こんな真っ赤なウソついて、どうする気?
誰にだって簡単に調べられることだから
すぐバレちゃうんだよ
九州説がダメだって宣伝してるのと同じじゃないか >>240
3世紀の魏西晋朝で使われていた度量衡は、
魏志などの記録に拠ってはっきりしているので、
「短里はない」や「南→東」なんていうフィクションに頼らねばならないないような、大和
「戦前の萬世一系皇国史観」の大和説は、
当然ながらもう終わっている。 >>245
>寺澤先生の2016年の「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf で
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」
と書かれているよ 寺澤先生の40年の研究の集大成であるお言葉<
「邪馬台国」なんて存在しないし、
「南→東」の嘘吐き騙しである事もバレているから、
寺澤も、戦前の「萬世一系皇国史観」狂の・・・・アホであった、
という事がバレた。 政治思想狂いのデマ製造機に
何を言っても無駄なのか? >>251
日々、邪馬壹國女王之所都論争とは関係なく、研究成果は発表されている。
>その研究成果を俯瞰的に総合してみれば、<
「南→東」などの史料事実を否定曲解する大和説者の論文など、
全く価値がなく、害であるだけであり、
そんなものを含めて「俯瞰的に総合」なんてしたら、×になるだけ。
>卑弥呼の遣使の絶対年代より前に 畿内では古墳時代に繋がる纏向遺跡の建設が始まっているし、<
始まっていない。
卑弥呼の祇園山や壹與の平原は前方後円墳ではなく、
前方後円墳の始まりは那珂八幡付近になり、
(畿内ではなく)大和の前方後円墳の石塚でさえ、那珂八幡の伝番になるんだから、
大和の前方後円墳は、3世紀末。
>その纏向の 建設開始の理由に卑弥呼の共立を見るのが普通の見方になっているんだよ <
「南≠東」だから、そんな見方をする学者は、皆嘘つき騙しの・・・・詐欺師。
何でもかんでも、見ない聞かない、
あれは九州説の陰謀
これは、大家や恩師が言った事だから正しい とか理由を付けて、
どんどん時代遅れになって、
国民の7割に否定されm省みなくなったのが大和説なんだよ。惨めだね。 >>403
間違いなら訂正してやれるが、根も葉もない嘘の場合はしょうがない
証拠を出せと言っても無視するだけたし
嘘だと指摘するくらいしか無い >>411
>「南→東」などの史料事実を否定曲解する大和説者の論文など、
>全く価値がなく、害であるだけであり、
あんた、おかしな宗教団体そっくりだよ >>253
>>畿内説では卑弥呼の鏡は何になるんだ?<
>宝飾鏡レベルの三角縁神獣鏡なんじゃないかな
宝飾鏡レベルのがありそうな、大王墓の埋葬主体部が発掘されてないから、
現物は示せないけれど<
大和では、「庄内+布留」や「有棺有槨」であるために、
3世紀末以後になるホケノに三角縁神獣鏡がなく、
布留の箸墓はホケノの後である事になり、
その他は、「竪穴式石室」に進化して三角縁神獣鏡がある前方後円墳は、
全て4世紀以後になり、だから、大和の三角縁神獣鏡は、卑弥呼の墓ではない。
>三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡
西川 寿勝 日本考古学 / 6 巻 (1999) 8 号 /<
こんなアホな事を書いたら、西川の妻子は、
恥ずかしくて町にも出られず、可哀そう過ぎる。 >>254
なら、「南≠東」などへの批判に対する反論に対する触れてみれば?。
反論もできずに邪推ばかりしてる大和説者の人は、
九州説に歯が立たないだろうさ。 >>255
>>なら触れてみれば?
反論もできずに邪推ばかりしてる人は畿内説に歯が立たないだろうさ<
>ザ・畿内説w<
「南≠東」などに反論出来ずに、逃げ回るしか脳がない、ザ・「万世一系皇国史観」狂の大和説者。 >>256
大和説なんてものは、
もう国民の7割位から否定されて、相手にされていないぞ。
お前の名前は?。
どこかの学校の講師、教授?。 >>417
まだ言ってるの?
家は松傾(不明)という家だよ、写真も貼り付けたはず
「市」(下の名前)という名前の家、
キュウリの葉、葱の華などのが写っていたり
河童?河伯 九州説はデマと中傷のほか何も出来んのか
あきれて物が言えん >>258
>九州というのは、
ただの地方の都市なんだけど、頭の病院に行け<
大和というのは、
九州倭國から別れた別種が「自昔」に「東征毛人」して出来た旧小国であり、
倭國の地方の市を監督する大倭職に時々なる事が出来ただけの、
倭国の、ただの地方の附庸國なんだけど、
頭の病院に行け。 ストーカーがいるのか、
何なのか、わからないんだけど、ほとんど老婆談?
馬の乗り、腰に刀を差していたんだよ・・・・・、
かなり凄い刀(謎の刀)だった?という話 >>265
>都だな<
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
倭國の地方の市を監督する大倭職であった事がある国だな。 >>248
>>そもそも纒向は楽浪郡や大陸との交渉の証拠が決定的に欠けている。<
>テンプレに纒向と楽浪郡や大陸との交渉の証拠が書いてあるけれど<
なぜ、それを転写しないの?。
>なにも反論しないで、理由も言わないでMy結論だけ言い張るの?
それが九州説w <
なにも転写反論しないで、理由も言わないで、My結論だけ言い張るの?。
それが大和説w。 そんなに昔の話ではないんだけど、
老婆よりも数代ほど前の話w
何かの直系?などの家の話なのかな >>424
>なぜ、それを転写しないの?。
あんたがスクロールするだけで読めるからだな 何度書いても同じ
妹(兄もいる)がいるんだけど、5月15日生れ、 畿内説を宣伝していたキナイコシが、論破され、発狂して、呟き始めたな。。。 老婆が言っていたよ
という書き込みをした後
「邪馬台国も無かった頃の・・・・・だからなw」
という書き込みをしている人がいたり 畿内説を宣伝していたキナイコシが、論破されたとき、発狂して、呟き出すことが、はっきりしたな。。。 後漢書で倭とは対馬海峡の国で、その後漢代における倭の内乱を終息させるために共立されたのが卑弥呼であると魏志倭人伝にある。
107年に朝貢した倭王帥升が筑紫にいて、倭王卑弥呼が即位したのが倭国大乱後の190年頃なら、その間は80年余りしかない。
その間に倭は筑紫から大和に東遷したのだろうか?
畿内説からまともな返答がもらえていない。 >>402
中国の正式な歴史書に書かれた、九州を都にしていた倭王だな。。。 九州の帥升は、鉄の武器が無い奈良盆地を攻めて、生口を捕獲して、中国に連れて行った可能性があるな。。。 九州を都にしていた倭王帥升と倭王卑弥呼の都が違うなら、遷都したということになるな。。。 確かに。。。キナイコシは、倭王帥升の都が畿内にあったと主張することを、最初から諦めているからな。。。 >>441
なるほど、、、畿内説が生き残るには、九州から、東の畿内に遷都したということにしなければいけないのだな。。。 倭王帥升の都は九州にあったということがはっきりした今、つまり、倭王卑弥呼の都が畿内にあったという主張をする、邪馬台国畿内説は、東遷説を基に作成されたということにしかならないということがはっきりしたな。。。 しかし、既に、倭国と日本国が別の国で、魏志倭人伝の時代に、同時にも存在していたことが、優れた考古学者によって証明された今、畿内説も東遷説も、成立しないな。。。 >>437他
>>597他 無駄なコピペするなよ
>後漢書で倭とは対馬海峡の国で
それは、九州説の勝手読みだよ
後漢書の原文は
「倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國」で、基本的には魏志倭人伝と同じ認識、
というか、魏志倭人伝のコピペだし、さらに魏志倭人伝よりはっきりと
「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」と、相当に南方まで繋がった国だと書いてある
あ、漢文読める?
読み下し付けた方がいいかな?
倭は韓の東南、大海の中にあり、山島に依りて居を爲す。凡そ百餘國。
その地はおおむね會稽・東冶の東に在り、朱崖・儋耳と相い近し。
朱崖・儋耳は、海南島とかだよ もともと、大陸中華の地理観だと、倭国は呉とか越とかの沖合なんだよ
その表現が「計其道里、當在會稽、東冶之東」であり、後漢書の「與朱崖儋耳相近」なんだよ
そもそも短里なんて想定されてないし、想定さえされてないっていうことは、
短里なんてなかったってことなんだけどね
九州説は「短里なんてない」って認めた瞬間に瓦解するから、どんなに論理的に
解説されても頑なに認めないけどねw
逆に言えば、「短里なんてない」って分かってる人には、九州説は噴飯物でしかないw 後漢書
「倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國」
三国志
「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國」
後漢書
「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」
三国志
「計其道里當在會稽東冶之東」「所有無與儋耳朱崖同」
同じ認識、というか、同じ情報だろ? >>437
何度も答えてるだろ
テンプレにも書いてあるし
いつもどおり、都合の悪いことは聞こえないフリか? >>268
>>そもそも纒向は楽浪郡や大陸との交渉の証拠が決定的に欠けている。<
>テンプレに纒向と楽浪郡や大陸との交渉の証拠が書いてあるけれど <
そんな事なら、列島全体が、旧石器や縄文時代から、
南洋系や大陸系からの住民の混合になっていたんだにし、
出雲は新羅や沿海州からの「国引き」をしたり、
銅鐸祭祀や陶ケンや四隅突出墓などのような、大陸文化をもっていたんだから、
その出雲銅鐸祭祀圏の大和が、大陸文化の流入痕跡があったとしても、何らおかしくない。
また、3世紀末には、突然、
吉備や瀬戸内付近を経由した、と思われる「有棺有槨や画文帯」のホケノがあって、
楽浪流民の渡来痕跡も見られる。
だから、要は、(有無の問題ではなく)、九州倭国と比べての「量の比較の問題」である。
なにも反論しないで、理由も言わないで、痕跡だけを捉えて、My結論だけ言い張るの?。
それが大和説w。 >>309
>寺澤薫氏の最近の論調では 纏向と邪馬台国論叢と距離をおき、 ヤマトの古代を語るようになった
すこし、は現実的な研究者になったような気がする <
「南→東」などの史料事実を否定曲解するする嘘つき騙しの大和説学者の論など、
何の価値も関心もないから、読む気もしないし、読まないから、殆ど知らないが、
最近、誰かの紹介では、寺澤は、まだ「邪馬台国女王之所都=大和」説を唱えていたようだから、
やっぱり、「戦前の萬世一系皇国史観」教のキョクウの・・・・大和説狂であったのか、
という事であった。 >>447
>そもそも短里なんて想定されてないし、想定さえされてないっていうことは、
短里で測定された資料を、短里を想定していなかった人が解釈したからそうなったんでしょう?
原資料が短里で測定されたことを否定しないばかりか、むしろ補強していることを理解するべきだ。 >>311
「戦前の萬世一系皇国史観」のキョクウの大和説の学会教育界の・・・・支配者らは、
もうら新たな学習学会教育界のできる年齢じゃないんだろうな。
いくら説明して上げてもダメだろうねえ。
理由を言わずに俺様結論をいくら連呼しても、
九州説への反論にはならないのにね。
しかも今なお、もう既に暴かれたウソを連呼してる 。
読んでる人から明らかにバカに見えてる自分の姿を、少しは憐めよ。 >>312
>テンプレは理由や出典がちゃんと書いてあるので
自分なりに咀嚼しないといけないから
鵜呑みにすることが出来ない <
「戦前の萬世一系皇国史観」という結論先にありきで、
「南→東」などの嘘つき騙しをしているテンプレは、
都合の良い史料事実のつまみ食いばかりであって、
都合の悪い史料事実を隠蔽する詐欺が多く、
全体的な理由や出典が、ちゃんと書いてないので、
自分なりに咀嚼しないといけないから、
鵜呑みにすることが出来ない。 >>315
>スレ主は詐欺をするほど頭は働かない
テンプレは支離滅裂だが、努力はしている<
?。スレ主とテンプレは、どう言う関係なんだい?。 >>317
>>(テンプレ)出典はあるけど嘘と妄想で糊付けしてあるので、全体としては詐欺に近い<
>それがどこがどう詐欺なのか、具体的に指摘してみなって、いろんなところで
何度も何度も教えてやってるのに、いまだにできないねぇw<
テンプレ全体に対する批判や反論は、もう3回もやったし、
個々の論点でのテンプレ紹介も、全て批判反論をして来た。
>それがどこがどう詐欺なのか、具体的に指摘してみなって、いろんなところで
何度も何度も教えてやってるのに、いまだにできないねぇw<
何度も何度も書いて来た。必要なら、また出しな。
大和説の連中ってのは、具体的なことを書くだけの知識も文章力もない、
そもそも知的能力が足りない・・・・だ、ってことでいいかい?。 >>319
>私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。<
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 <
誤魔化すな。
「邪馬台国」も「畿内」も、史料事実に存在しないし、
「ヤマト」は、「南≠東」に拠って×だ。 >>320
>スレ主の資質の問題であり、畿内説の問題ではない<
関係がない。
「畿内」なんて存在しないインチキ騙しの造作文言であるし、
大和説自体も「南≠東」などに拠って、×だ。 纒向は古代都市では無い理由
住居跡が見つからない・・・都市は人口が流入する
鉄等の近代的な遺物が無い・・都市は近代国家の象徴
海外との国交の証拠が無い・・海外の物産の遺物が必用 >>322
逃げたね! 無能ww。
大和説が、ことごとく嘘だらけなのは、いくらでも指摘して来ただろ?。
それに、wwは、まともな議論では負けたから、
対話・討論をしないために、
口先でのヘイトスピーチ宣伝で世間の人々を騙そうと心がけてる人だよ?。
それに、「南≠東」などの指摘に反論出来ずに、
何を言われても、自分の思い込みのヘイトスピーチを書くだけの人で、
答えられなくなるとほとぼりが冷めるまで逃げるww。 >>324
>>今のテンプレでは説得力がなく、畿内説は都合の良いただの嘘と方便の塊だ。<
>相変わらず具体性のないふわっとしたことを書いてごまかしてるよな? 何度言えば分かるのかなぁ?
どこが嘘と方便なのか、具体的に指摘してみなってばさ! それができない奴は何を言ってもムダ <
60個以上のテンプレを、全部まともに批判しようとすれば、
当然、仕事も全部中断して、1週間位はかかる。
だから、自信がある投稿部分を切り取って、提示してくれればよいの。 >>328
スレ主の野郎が、まともな討論をしているのを見たことがあるか?。
殆どないな。
やつのスレ立ては、始めから「南→東」などの嘘つき騙しの上に立っているだけだから、
ただの迷惑行為だよ。
こんなスレまで作っ、日本史板に迷惑をかけている
学問板に出入りできるだけの知力のない連中を、
大和説の連中内部で自浄できるならいいけど、
それもできないんだろ?。
本当にバカは国民のためにならずならず、迷惑!。 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
訳
>婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。宮室、楼観、城柵が厳設され、常に人有りて兵を持ち守衛す。<
さて、 纏向の遺跡から該当する物は少ないと思わないか?
婢千人 、常有人持兵守衛・・・住居跡?兵にの用いた武具?は見つかっていない
宮室樓觀城柵嚴設・・言うに及ばず この反論に畿内説は答えていない
婢千人 、常有人持兵守衛・・・纏向で住居跡?兵にの用いた武具?は見つかっていない >>460
住居跡がいっぱい・・・都市は人口が流入する
鉄等の近代的な遺物がいっぱい・・都市は近代国家の象徴
海外との国交の証拠がいっぱい・・海外の物産の遺物が必用
丹がいっぱい・・「其山有丹」
やはり、倭国(阿波)一択だね。 @阿波 後漢書で倭とは対馬海峡の国で、その後漢代における倭の内乱を終息させるために共立されたのが卑弥呼であると魏志倭人伝にある。
107年に朝貢した倭王帥升が筑紫にいて、倭王卑弥呼が即位したのが倭国大乱後の190年頃なら、その間は80年余りしかない。
その間に倭は筑紫から大和に東遷したのだろうか? 畿内に倭国の王都である邪馬台国があったというのなら、それは東遷説に他ならない。 >>453
そうやって短里があったと言い張ってるだけで何をしたいんだ?
嘘も100回言い続ければ事実になると思ってるの? >>468
>畿内に倭国の王都である邪馬台国があったというのなら、それは東遷説に他ならない。
邪馬台国の時代には東遷は無い。 @阿波 >>341
>>長々と無意味なテンプレ <
>これを読むだけで九州説があり得ないって素人でも分かってしまうから
九州説にとってとにかく目障りでしょうがないテンプレ<
都合の良いデータだけをつまみ食いして、
都合の悪いデータを否定曲解する嘘つき騙しをして、
それを長々とした大量の口先騙しの文で隠して、
国民や素人を「戦前の萬世一系皇国史観のキョクウの大和説」で騙そうとしている、
国民のためにならないテンプレ。
それを許容している5chも同罪か。 >>469
魏志倭人伝がそのように書かれているのは事実だろ? >>342
>中国製の小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。<
これは、以前にssnに反論済み。列島の小札革綴冑は、
中国の小札革綴冑とはかなり様相が違っていて同一物ではなく、
むしろ半島の小札革綴冑にかなり近い。
という事は、中国からの直接流入物ではなく、
半島のものを見た列島側が、模倣して列島で造った、という事になる。
>十数点の出土のうち九州はわずか1点、残りはすべて畿内。<
当然、列島での使用地は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の戦闘のためであるから、
東征将軍らが働いた瀬戸内以東で必要であった、という事になる。
>当時の日本にこんな精巧な冑は作れない。 おそらくトヨの朝貢時に入手したのだろう。<
出土は皆4世紀の前方後円墳から、であるから、勿論壹與の朝貢とは関係がなく、
「渡平海北九十五國」の戦闘で、半島で知って、九州倭国が模倣した、という事になる。
>この時点で中国と通交してた主体は畿内であり邪馬台国論争は決着する。<
中国の物とはかなり違うものだから、関係がなく、決着もしない。
>この小札革綴冑は山城の椿井大塚山古墳から出る。
>もう一つ面白いところから出る 大阪柏原の玉手山3号墳だ。
この時代に河内の首長が中国製の小札革綴冑というお宝を手に入れていた。<
どちらも3世紀ではなく、4世紀の墓であり、大和内ではなく、
別々の「東征将軍」の墓になるから、大和説の否定根拠になる。 >>472
短里厨はひたすら言い張るのみ
全行程の具体例を出せと要求しても絶対に出さない
もし具体例を出したら短里なんてのが嘘だとバレるから逃げまくる >>474
>もし具体例を出したら短里なんてのが嘘だとバレるから逃げまくる
その前に、投馬国を置ける場所がないんだよ
九州説だとね >>343
>行程には里を使うんだよ 歩は土地の広さを測るのに使う<
ダメだ。
「里」の文字は「田の下の土」だから、
「田畑とそれに付随した集落」を単位長として数える長い距離の単位だ、
という事は疑い得ない。
そして「歩」は、「1里以下の短い距離」に関する距離単位として発生した、
という事も否定し難い。
> 狭いなら尺でいい<
「尺」は、身体の部分長を元にした単位であるから、
原則は、田畑以下の、「家屋長」程度の物に使用する単位だ。
>つまり「1歩≒25.5cm」位の歩」なんて 想定する人の頭がおかしい<
つまり、周髀算経から「1歩≒25.5cm位の歩」の存在が計算確認されるんだから、
「そんなものはなかった」と想定する人の頭がおかしい。 この反論に畿内説は答えていない
纏向に7卑弥呼はいないし邪馬台国の都でもない
婢千人 、常有人持兵守衛・・・纏向で住居跡?兵にの用いた武具?は見つかっていない 帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。 【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg >>345
史料事実は、
倭國や俀國は、大和日本国とは区別された記載であり、
大和日本国は筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であったのであり、
大和が中国に日本国を名乗ったのは開皇末の遣使の小野妹子の時であったのであり、
唐が白村江で戦った相手國を「倭國」や「倭衆」や「倭賊」と記録しているから、
7世紀まで、倭國が列島の盟主であった、という事は、否定出来ない史料事実。
大和説学者も、
超古代だけでも、誤魔化しが効いていなかったのに、
7世紀までも大和が列島の盟主である、なんて嘘つき騙しを言い出したから、
古田さんらにはっきり批判され、証拠を突き付けられて、
国民が驚いて、ますます、大和説を信用する人が減って行った。 女王国の傍国って、女王国の傍にある国
言い換えれば、女王国の境界の外にある国 女王国は伊都国と奴国を含む博多湾沿岸のこと。
だからそれ以外の国邑は傍国。 女王の境界というのは、魏志倭人伝と同じ資料により書かれたと思われる後漢書に記述があり、狗邪韓国だよ。
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 郡上市、白山中居神社の五段神楽の謂れは興味深い
五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、
天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。
吉田神道は、宝暦騒動の頃に、朝廷を中心とした、天下太平国家安全を祝う祭りの性格を、一地方の単なる春祭りの神楽に移行され、五行舞を五段神楽に改められた。 石徹白、イトシロ
伊都国と何か関係あるのか?偶然かな >>358
>ザラコクさんや 尺と歩がほぼ同じ長さだったら、どっちかいらんやろ?
お前さんの言っていることはそんな、合理性の欠片もない戯言だよ<
何度も書いたように、「尺寸系」の長さ単位と、「里歩系」の距離単位とは、元々対象が別の単位系であったの。
>それから、よく「始皇帝の一歩=六尺の規定による混乱を周制に戻すことで、」とか
言ってるけど、周末の春秋戦国期に、各国が変法、乱法を多数作ったために混乱したのであって
始皇帝の度量衡の統一は混乱の収拾だよ<
「尺寸系」単位系は、殷の頃からあって、ほぼ一定で変わらなかったようだが、
「里歩系」単位系は、周朝では一定であったようだが、周辺の秦など列強や夷蛮では、
それぞれ独自の距離単位を持っていて、混乱していたらしいの。
>そして、それから前漢、後漢の間、1歩=6尺は維持されていて、混乱はない<
いや、淮南子が一寸千里の変法を使用したり、「介山」の記録が短里であるなど、民間的には、混乱があった。
>始皇帝の度量衡統一が紀元前221年
魏の文帝の黃初元年、議改正朔、易服色、殊徽號、「同律度量」、承土行が西暦220年 この間440年経っているし、<
400年以上経った後漢末の周髀算経の再収集注釈でも、
明らかに短里を使った一寸千里が記載されており、世間では混乱していた。
>公孫氏ももともと漢人で遼東太守からのちに左将軍の官位も得ている 公孫氏も漢尺以外の度量衡を使う理由がない<
「尺」は、殆ど変わっていないの。
また公孫氏も 、魏朝下の支配下であったから、当然短里を使ったんであろうし、
楽浪郡も、高句麗や扶余の里数記載から見て、当然短里を使っている。 「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
「こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的 基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテー マを追い始めた1976年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。」
寺沢氏は、纒向を邪馬台国のみならずヤマト王権と直結するものだということにすら疑問を呈しているではないか。
つまりは、畿内拙論者が纒向学を理解せずに歪曲して都合のいい部分だけ曲解して畿内説をでっち上げるために利用しているだけだということがわかった。
纒向学というタイトルには、邪馬台国畿内説との決別の思いが込められているのだろう。 >>367
大和説者らのような、
自分等は「南→東」などのような嘘つき騙しをしておいて、
自分等の「戦前の萬世一系皇国史観」思想に合わない者を、
理不尽にヘイトスピーチ攻撃して、
悪質なキョクウのならず者を擁護する人って、
最低。 >>372
>倭国が日本国から生口を輸入していたのだろうね。。。 <
そりゃ、常識的には、生口の獲得は、当然「東征毛人五十五國」だろうねえ。 >>374
>>沙里院から海州は、大体「直線的な普通の道」が書かれており<
>またまた真っ赤なウソ w<
どこで見たのか?は覚えていないが、地図で見た。 >>363
九州説がスレを荒らしてるのは否定しないんだな >>377
>問題にならない。 そんな単位は不要だよ。 重複だ。<
「里歩系」と「尺寸系」とは、計測対象の違う別の単位系であったんだよ。 >>400
どうして大和説の人は、
「南→東」などのような、史料事実の否定曲解のウソばかりつくんだろうね?。 この反論に畿内説は答えていない
婢千人 、常有人持兵守衛・・・纏向で住居跡?兵にの用いた武具?は見つかっていない この反論に畿内説は答えていない
婢千人 、常有人持兵守衛・・・纏向で住居跡?兵にの用いた武具?は見つかっていない 纒向は古代都市では無い理由
住居跡が見つからない・・・都市は人口が流入する
鉄等の近代的な遺物が無い・・都市は近代国家の象徴
海外との国交の証拠が無い・・海外の物産の遺物が必用 >>477
>この反論に畿内説は答えていない
>纏向に7卑弥呼はいないし邪馬台国の都でもない
>婢千人 、常有人持兵守衛・・・纏向で住居跡?兵にの用いた武具?は見つかっていない
それ、反論じゃなくて、根拠なしの呟きだろ?
何を答えて欲しいんだ? >>487
>寺沢氏は、纒向を邪馬台国のみならずヤマト王権と直結するものだということにすら疑問を呈しているではないか。
>つまりは、畿内拙論者が纒向学を理解せずに歪曲して都合のいい部分だけ曲解して畿内説をでっち上げるために利用しているだけだということがわかった。
うそつき!
寺沢先生が述べているのは、畿内第W様式までの大和盆地内部の秩序の延長上にはない、というだけだよ
大和内部の自生的な発展だけでなく、各地の勢力の談合という外的要因をダイナモとして、
纏向の地に、共立倭王の都が置かれた、というのが寺澤先生の所論
そして、邪馬台国が、大和王権になるというか初期大和王権そのものという立場だよ
纏向学が、纏向の地における大和王権の成立過程を研究するというのはそういう意味だ >>406
>>だから、陳寿の「会稽東治」は、
魏末期の「会稽郡の東治地域を呉郡に編入分離した」地域であった事になり、<
>こんな真っ赤なウソついて、どうする気?<
「戦前の 萬世一系皇国史観」や「人種差別殺人テロ戦争」や「南→東」などの、
嘘つき騙しをするアホwwが、
ついうっかり、自説が不利になる事を気付かずに、提示してしまった史料事実は、
逆に、信頼性が高い、という事になるんだよ。
>誰にだって簡単に調べられることだから すぐバレちゃうんだよ
九州説がダメだって宣伝してるのと同じじゃないか <
素人オジンの私は、
「検索」する事も「簡単に調べる」事も殆ど出来ない素人だから、
議論相手の提示した情報を、分析批判して、帰納的推論をしているんだよ。 >>409
「戦前の萬世一系皇国史観」の「南→東」などの嘘つき騙しの、
政治思想狂いの大和説狂のデマ製造機には、
何を言っても無駄なのかな?な。 「(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。」
師の本心がわからぬか。
大和が筑紫による征服の対象であったこと、それが大和における農業共同体の再編と階級支配の成立につながったことを示唆しているだろ?
これにて畿内説は完全に終了だね。
纒向学は、大和が邪馬台国ではなかったことを前提に進んでいくだろう。
それは、卑弥呼より数百年の後に奈良盆地が権力の中枢となる過程を明らかにするだろう。 大和が征服の対象であったと明言してる。
やはり一流の研究者は、畿内説など無理であることをわかっているのだな。 >>412
>間違いなら訂正してやれるが、根も葉もない嘘の場合はしょうがない
証拠を出せと言っても無視するだけたし
嘘だと指摘するくらいしか無い <
wwの、魏朝末の「会稽郡から呉郡への分郡割譲」の話は、
同じ頃の別の分郡記録と並べて、年号まで記載して紹介したものだったから、
漢代の分郡という事には、全くならないものだったんだよ。 >>478
それ他人のカキコミをパクって最後だけ入れ替えてるな
捏造は不可 >>501
>大和が筑紫による征服の対象であったこと、それが大和における農業共同体の再編と階級支配の成立につながったことを示唆しているだろ?
「示唆しているだろ」ってww
便利な言葉だなぁ
端から端まで読んでも、征服対象だなんてどこにも書いてないし、ほのめかしもないぞ
あんまりいい加減な妄想を書くなよ
まあ、九州説のいつものやり口そのものだけどな
九州説は、チェリーピッキングと、矛盾点の妄想による穴埋めでできているww >>413
>>「南→東」などの史料事実を否定曲解する大和説者の論文など、
全く価値がなく、害であるだけであり、<
>あんた、おかしな宗教団体そっくりだよ<
あんた、
中世ヨーロッパのキリスト教学者らや、
戦前の「萬世一系皇国史観」のキョクウ宗教の安部自民教信者や、
創価学会公明信者や、オーム信者や、ナチス信者や、イスラム狂信者らと、
そっくりだよ。 >>499
>「戦前の 萬世一系皇国史観」や「人種差別殺人テロ戦争」や「南→東」などの、
嘘つき騙しをするアホwwが、
>ついうっかり、自説が不利になる事を気付かずに、提示してしまった史料事実は、
逆に、信頼性が高い、という事になるんだよ。
要するにzarakoku本人はなにも調べず
なにも確認せず
おうむ返ししてる時と同じように
他人のカキコの主語や述語を勝手に書き換えて
デマを生産してるわけだな >>505
「(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。」
大和が征服対象だと書いてあるよ。 >>415の訂正。
なら、「南≠東」などへの批判に対する反論に触れてみれば?。
反論もできずに邪推ばかりしてる大和説者の人は、
九州説に歯が立たないだろうさ。
以上。
今、私のPCは非常に調子が悪く、
途中に文字を挿入したら、前回の挿入文字が一緒に出て来る、
というおかしな状態。 >>420
大和説者は、
「南→ん東」などの嘘つき騙しのデマと、
口先ヘイトスピーチ中傷のほかは、何も出来んのか。
あきれて物が言えん。 ヤマトは2世紀末迄は、大阪側と同じ体制下にあったんじゃないかな
手薄なヤマト側から征伐されたんだろう
ナガスネヒコみたいに最後まで抗った勢力もいただろうし、寝返った勢力もいたのだろう
魏志倭人伝当時ヤマトは対狗奴国の前線
各地から兵を集結させてたんだろうね
多くの兵の労働力の証が、纒向のインフラであり巨大古墳
兵を纏めるのが卑弥呼の役割
鬼道にて衆を惑わす
少し後の時代になるが、軍に随行した巫女の埴輪も見つかっている >>426
>>なぜ、それ(注、テンプレの該当箇所)を転写しないの?。<
>あんたがスクロールするだけで読めるからだな<
スクロール、なんて知らんし、
テンプレは、始めから「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘つき騙しの、
・・・・文だ、と判っているから、
該当箇所を転写でもしてくれなくっちゃ、読まないよ。 >>503
>wwの、魏朝末の「会稽郡から呉郡への分郡割譲」の話は、
>同じ頃の別の分郡記録と並べて、年号まで記載して紹介したものだったから、
そんな話があったって証拠でもあるの ?
ザラコクの捏造か悪質歪曲だろ?
いつもやってるし
>漢代の分郡という事には、全くならないものだったんだよ。
そうであって欲しいから
ザラコクは事実を書き換えて
悪質なデマを創作したんだろ?
でも、ウソなんだよw >>435
大和説は、「南→東」などのような、
嘘ばかりついているな。 >>512
>テンプレは、始めから「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘つき騙しの、
>・・・・文だ、と判っているから、
>該当箇所を転写でもしてくれなくっちゃ、読まないよ。
なら、転写したって読まないだろ
そんなお前に、手間かけてやる義理はない
第三者が見て、九州説が反論できなくて負けたと判るから、それで十分だ >>446
>後漢書の原文は
「倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國」で、基本的には魏志倭人伝と同じ認識、
というか、魏志倭人伝のコピペだし、さらに魏志倭人伝よりはっきりと
「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」と、相当に南方まで繋がった国だと書いてある
>倭は韓の東南、大海の中にあり、山島に依りて居を爲す。凡そ百餘國。
その地はおおむね會稽・東冶の東に在り、朱崖・儋耳と相い近し。
朱崖・儋耳は、海南島とかだよ<
何度も書いた事だけれど、後漢書の倭の記載の中で、
魏志倭人伝の記載とダブっていて違う内容になる記載部分は、
使節の実地の見聞記録である魏志の方が客観性も信頼性も高く、
5世紀という後代の、「魏志の自己解釈に拠る高慢な書き換え」をした後漢書は、
客観性も信頼性も低い、んだよ。 >>404
>素人オジンにとってはは、そんな「出典確認」なんて、確認方法も知らないし、全く出来ないんだよ。
これじゃ「半分×」とか言ってるのも未確認だろうね
今は素人でも書陵部本《三國志》が全頁見られるんだよ
《三國志》のテキストならWikiのリンクからでも読めるだろ
>GoogleMAPの使用法もよくできず、
丁寧に書いているのに、地図も見ないのならお話にならないね
距離も測れる便利なものを使わないのはもったいない
>これが、はるか後代の学者の単なる「推定」であったんであろうから、
ここは春秋時代初期に楚に吞みこまれた時に宛邑が置かれた
この時からずっと続いているのだから誰も「推定」しないんだよ
必要のない仮定ゆえ結論も間違いだね
>結局は、「宛」地は、新野よりもはるかに襄陽よりの支流の中の山中の水軍陣地であったんだろう、 という事になっていた。
勝手な判断で軍陣地に格下げするなよ
秦が侵攻して楚から奪ってから南陽郡の治所は宛城だよ
曹操が南征で複数回、宛を訪れていることも知らないのだろうね
>「一寸千里や短里を知らない現代学者」の比定の信頼性は、
>「陳寿の記載事実」という同時期記録の信頼性よりも、はるかに落ちるんだよ。
滅びて場所不明になった所ならそうかもな
現代までずっと続いている所では誰も比定することはないんだよ
また必要のない仮定だね 石徹白
何か重要な場所な気がするんだが
なんで太子堂があるんだろう >>447
>もともと、大陸中華の地理観だと、倭国は呉とか越とかの沖合なんだよ<
これは、始めから×ね。
漢書の如淳注でも、魏志でも、魏略でも、
倭は、帯方郡からの、東南大海中だよ。
この男(おそらくww)は、ここでも嘘つき騙しの詐欺師。 >>448
>後漢書 「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」 三国志 「計其道里當在會稽東冶之東」「所有無與儋耳朱崖同」
同じ認識、というか、同じ情報だろ?<
この男(おそらくww)が、また、史料実態の曲解捏造の嘘を書いている。魏志は、
計其道里、當在會稽、東冶之東。
其風俗不淫、男子皆露糸介、以木緜招頭。
其衣横幅、但結束相連、略無縫。
婦人被髮屈糸介、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。
種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、糸兼緜。
其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。
木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。
所有無與tan耳、朱崖同。
倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。・・・
であるから、「所有無」の「所」は、場所ではなく、
「風俗、産物、武器」という「論点という所」であった事になり、
後漢書の「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、tan耳相近」の、
「其地大較在・・・」という「場所」を示す記載とは、明らかに違う。
また、魏志の「計其道里、當在會稽東地之東」の「東地」を、「東冶」にすり替える、
というインチキ騙しもしている。 >>508
2016年の論文は(再論)なんだよ
>>508の引用部分は「旧稿で最後に掲げた三つの課題」であって、現在の寺澤先生の所論ではない
現在の考えも明記されていて
「私は第一の道を否定する立場である。しかし、征服など物理的強力を
前提とした「東征論」や北部九州や吉備勢力を念頭においた政治権力の
直接的移動を想定した「東遷論」に与するものではない。」
征服や東征・東遷論は採らないと書いてある
「第一の道」というのが、大和単体での自生的王権段階への発展だが、
寺澤先生が否定しているのはこの部分だけ また>>454に書かれた事の訂正ね、
「戦前の萬世一系皇国史観」のキョクウの大和説の、
学会教育界の・・・・支配者らは、
もう新たな学習のできる年齢じゃないんだろうな。
だから、いくら説明して上げてもダメだろうねえ。
大和説者が、理由を言わずに俺様結論をいくら連呼しても、
九州説への反論にはならないのにね。
しかも今なお、もう既に暴かれたウソを連呼してる 。
読んでる人から明らかにバカに見えてる自分の姿を、少しは憐めよ。 >>469
>そうやって短里があったと言い張ってるだけで何をしたいんだ? <
世間の「大和説者に騙されている3割位の国民」の中の、一人でも、
大和説の嘘吐き騙しに気が付いてくれればよいの。
>嘘も100回言い続ければ事実になると思ってるの?<
戦前の「萬世一系皇国史観」教にクルった「人種差別的殺人テロ戦争狂」には、
幾ら説明したって無駄だ、と思っているよ。 >>522
>征服や東征・東遷論は採らないと書いてある
じゃあなんなんだ?
のらりくらりとああ言えばこう言う。
それで説得力があるとでも?
端的に主張しろよ。
まとめる能力がないのは損だぞ。 >>474
>短里厨はひたすら言い張るのみ
全行程の具体例を出せと要求しても絶対に出さない
もし具体例を出したら短里なんてのが嘘だとバレるから逃げまくる <
この大和説男も変な事を書くねえ?。
九州説者は、原則として、
常に具体的な史料事実根拠を書いているし、
殺戮主義的なタカ派の、精神的な異常性が明らかな大和説者に対して、
放置していた事はあっても、
逃げまくった覚えもない。 >>475
>>もし具体例を出したら短里なんてのが嘘だとバレるから逃げまくる<
>その前に、投馬国を置ける場所がないんだよ 九州説だとね<
この大和説者も、変な男のようだね?。
不彌國の南の方にあって、「水行二十日」の距離だから、南九州にある事になる、
って、何度も何度も答えてある。 >>524
九州説は一般人の支持が多いのが自慢だけど
去年あたりから教科書が改訂されてきて、両論併記で中立的な記述から現行では「畿内説が有力」という記述に変わってきてる
だから新しい教科書で教育を受けた人はほぼ100%畿内説支持になる
これからは九州説なんてのは爺さんだけが唱えてる昔の古い説とみなされる >>482
>女王国は伊都国と奴国を含む博多湾沿岸のこと。 だからそれ以外の国邑は傍国。<
「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳」だから、
其餘旁國は、「女王國の以北として記載した国」とは違う国群、という意味。 >>530
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサギジジイ! 石徹白、イトシロ
なんでイトなんだろう
誰か詳しい人いないかな >>528
>だから新しい教科書で教育を受けた人はほぼ100%畿内説支持になる
>これからは九州説なんてのは爺さんだけが唱えてる昔の古い説とみなされる
嘘も千年つき続ければ真実になると?
学問ではなく宗教や政治だね。
詐欺と言ってもいい。 >>522
嘘くさい恣意的な引用をするね。
もともと第一の道論 は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、前期古墳に見る隔絶性 から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転 倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一 の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルー ト開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、 修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続 けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改 善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。 師の趣旨を理解しない不出来な弟子が掲示板で騒いでいるだけじゃないか。 >>525
逆ギレしてもダメ
もう>>508がウソついてたことは
露見したから
w 第二の道とは、(中略)大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新され るという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。
しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行され た橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。
いじめられて日和ったんだね。かわいそうに。 これらの論の後に、次のようなまとめに入る。
「こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的 基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテー マを追い始めた1976年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。」 >>535
はて? >>508が嘘そのものの恣意的なニセ要約をしてたことは
バッチリ証明されてるんだがな 毎日のように嘘をついて、暴かれては逃げ回る日々の東遷説 畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(奥○氏>>1の発言をまとめたもの)
「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」
寺沢氏はスレ主の意見を批判している。 もうしわけないけど九州にはいまだに大陸からの防波堤の役割しかなくて
中央集権があることはないよ 豪族はいたのは当たり前にわかる
が、
この列島をまとめたり配下におさめる勢力が
あったこともこれからあることもない
九州は日本全体から見たらすみっこの地方都市だよ
残念ながら今も昔も 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 倭の王都はそもそも博多湾沿岸だよ。
畿内説はなにか年代を思い違いしている。 単純に歴史の連続性から考えて邪馬台国=畿内=大和だよ
馬鹿なの? >>496
>以婢千人自侍 常有人持兵守衛<
纏向に彼らの住居跡が必用だが無いので倭人伝で言う所都ではない 畿内説の方へ
倭人伝のどことどこが誤っている記述か纏めてくれないか >>562
東遷マイルール男さん、なんでそれ必要なの?
理由は? 寺澤氏は一研究者としての説として捉えれば良い
推論が多いが・・・・・ 『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」
西暦57年 倭奴国は何処にあったのか? 1
三雲⇒井原鑓溝⇒平原遺跡など大量の鏡を伴う紀元前1世紀頃 - 後3世紀頃にかけての王墓が伊都国(糸島市付近)に集中しているが >>568
じゃあ俺が>>563に頼まれて纏めても読まないな?
なら断るわ
教えてやる義理もないし >>566
おやおや、朝っぱらから日本語の不自由な人がいるな >>563
畿内説は倭人伝の不弥国までの記述はほぼ肯定し
それ以降はほぼ否定する説(径百歩は肯定) >>575
あなたが適任のようだ
南→東の明快な解説を願う?
婢千人と常有人持兵守衛はどこに住んでいたのか そしてその根拠は? >>577
それが分れば100%畿内
今ののところ謎でいい >>577
会稽東治之東なんだから倭は海の上
ゆえに南水行は東の間違い
婢女や守衛は近隣から通勤
根拠は、纏向にかれらの食料備蓄用の倉庫がないから >>578
>それが分れば100%畿内
100%畿内はない。
100%倭国(阿波):鮎喰川下流域集落遺跡群 @阿波 末盧国、
東南陸行五百里で到るのは、佐賀・佐賀・佐賀・SAGA・SAGA・SAGA、
SAGA平野に決まっとるだろ。 >>581
倭人伝解釈に糸島も博多も出せない時点で
世間の目がまた冷たく、そして確実に
トンデモ説の烙印が押される
可哀想な佐賀説 >>525
>じゃあなんなんだ?
>のらりくらりとああ言えばこう言う。
>それで説得力があるとでも?
>端的に主張しろよ。
>まとめる能力がないのは損だぞ。
いや、>>525に読解力、理解力がないだけだよ
寺澤先生の論文そのものは読んだのか?
端的なお言葉を引用すれば、
「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」
シンプルでいいね
そして纏向遺跡の位置づけは
「後述する「倭国乱」の動向と、その収拾の結果として誕生する倭国新政権の大王都 ・ 纒向遺跡の出現前夜の緊張感…(後略)」 >>487
>「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」・・・
「こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、
それゆえの保守的 基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、
国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテー マを追い始めた1976年頃から、
大和弥生社会の自然的、社会的、 そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、
いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、
というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。」
寺沢氏は、纒向を邪馬台国のみならずヤマト王権と直結するものだということにすら疑問を呈しているではないか。
つまりは、畿内拙論者が纒向学を理解せずに
歪曲して都合のいい部分だけ曲解して畿内説をでっち上げるために利用しているだけだということがわかった。
纒向学というタイトルには、邪馬台国畿内説との決別の思いが込められているのだろう。<
寺澤の何時の論考か?は知らんが、
先日された5chで提示された寺澤の文では、
はっきり「邪馬台国」や「卑弥呼」と結び付けており、
「南≠東」や「大和日本国は倭國から別れた別種の旧小国」や「倭國の東征毛人五十五國」などを、
無視したインチキ騙しを書いていたよ。 >>584
いや、>>487の頭がヘンなだけだから >>491
>>「南→東」などの嘘つき騙しでの、
古代史への荒らし=戦前の「萬世一系皇国史観」のキョクウの大和説人種<
>九州説がスレを荒らしてるのは否定しないんだな<
大和説者が、
古代史への荒らし=戦前の「萬世一系皇国史観」のキョクウの人種である、
という事を否定しないんだな。 >>583
>「私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。」
仮称「ヤマト」国とカタカナ書きするのは、その国が「大和」じゃないからだね。
その「ヤマト」国とは、倭国(阿波)のことを言ってるんだよ。 かわいそうに仮称「ヤマト」国としか許されなかったんだね。 @阿波 >>497
>>この反論に畿内説は答えていない
纏向に7卑弥呼はいないし邪馬台国の都でもない
婢千人 、常有人持兵守衛・・・
纏向で住居跡?兵にの用いた武具?は見つかっていない<
>それ、反論じゃなくて、根拠なしの呟きだろ? 何を答えて欲しいんだ?<
この大和説者も、口先騙しのヘイトスピーチの変な男。
彼は、
「纏向で住居跡?兵にの用いた武具?」があるのか?、
という事を聞いておられる、という事は、当たり前の事だろ?。 多くの歴史学者は、大和朝廷や天皇と安直に結び付けられるのを嫌って古代の畿内勢力を「ヤマト王権」「ヤマト政権」などと呼ぶ
邪馬台国のことである >>589
いや、聞いていない
無いと決めつけて独りぶつぶつ呟いている >>498
>>寺沢氏は、纒向を邪馬台国のみならずヤマト王権と直結するものだということにすら疑問を呈しているではないか。
つまりは、畿内拙論者が纒向学を理解せずに歪曲して都合のいい部分だけ曲解して
畿内説をでっち上げるために利用しているだけだということがわかった。<
>うそつき!
寺沢先生が述べているのは、畿内第W様式までの大和盆地内部の秩序の延長上にはない、というだけだよ
大和内部の自生的な発展だけでなく、各地の勢力の談合という外的要因をダイナモとして、
纏向の地に、共立倭王の都が置かれた、というのが寺澤先生の所論
そして、邪馬台国が、大和王権になるというか初期大和王権そのものという立場だよ
纏向学が、纏向の地における大和王権の成立過程を研究するというのはそういう意味だ<
ふーん?、大和説者同士の内輪もめ喧嘩か。
しかし、やはり、寺澤が、「邪馬台国」」という嘘つき騙しや、
「纏向=卑弥呼共立の地」という「南→東」などの嘘つき騙しであった、と言う事は、
事実であったようだな。 末盧国、
東南陸行五百里で到るのは、佐賀・佐賀・佐賀・SAGA・SAGA・SAGA、
>>582
糸島や博多は、遠絶の傍国に決まっとるだろ、なっ。 >>592
いや、頭の弱さ東遷説じいさんが妄想たれ流してるだけ >>593
はい、あなたトンデモ認定が受けられます >>501
>「(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。」
師の本心がわからぬか。
大和が筑紫による征服の対象であったこと、それが大和における農業共同体の再編と階級支配の成立につながったことを示唆しているだろ?
これにて畿内説は完全に終了だね。<
成程。
しかし、「南→東」などの嘘つき騙しは撤回していないようだから、
寺澤は人間ではないカスであり、関心がないから、直ぐに忘れてしまいそうだ。 >>593
博多と佐賀を比べているんだぞ?
どちらが中心か明白だろ? >>596
ザラコクに人間でないと言われた
ということは即ち
立派な人ですね
うん >>505
>>大和が筑紫による征服の対象であったこと、
それが大和における農業共同体の再編と階級支配の成立につながったことを示唆しているだろ?<
>「示唆しているだろ」ってww<
急激な変化は、やはり、外部勢力の支配や文化の伝来、という事が最も可能性が高いだろ?。
>便利な言葉だなぁ 端から端まで読んでも、征服対象だなんてどこにも書いてないし、ほのめかしもないぞ
あんまりいい加減な妄想を書くなよ まあ、九州説のいつものやり口そのものだけどな
九州説は、チェリーピッキングと、矛盾点の妄想による穴埋めでできているww <
それで、wwの、寺澤説への評価は、どうなっているんだい?。
何故、自分の考えを言わないんだい?。
やっぱりwwは、・・・・詐欺師だから?。 >>600
寺澤説は有力で傾聴に値するでしょ
インチキデマ男がねつ造したニセ寺澤説がゴミなだけ >>507
>>(魏末に会稽郡から呉郡の分割があった事)
「戦前の 萬世一系皇国史観」や「人種差別殺人テロ戦争」や「南→東」などの、
嘘つき騙しをするアホwwが、
>ついうっかり、自説が不利になる事を気付かずに、提示してしまった史料事実は、
逆に、信頼性が高い、という事になるんだよ。<
>要するにzarakoku本人はなにも調べず なにも確認せず
おうむ返ししてる時と同じように 他人のカキコの主語や述語を勝手に書き換えて
デマを生産してるわけだな<
はいはい、素人オジンは、死ぬまでにやっておきたい事が一杯あって、忙しくて、
一々、「南→東などのような嘘つきんだましの・・・・」の相手はしておられないの。 「本人は権力を憚ってハッキリ言わないがワシには分かるんぢゃ〜。彼はこう思っとる。」
はザラコクもよくやるイタコ芸
これって九州説という病気の症状? >>602
死ぬ前にあと千回はウソをつきたい、とか宿願なのかな >>511
>ヤマトは2世紀末迄は、大阪側と同じ体制下にあったんじゃないかな<
米田に拠って否定されている。
>手薄なヤマト側から征伐されたんだろう
ナガスネヒコみたいに最後まで抗った勢力もいただろうし、寝返った勢力もいたのだろう
魏志倭人伝当時ヤマトは対狗奴国の前線<
「南≠東」に拠って、狗奴國は×。
>各地から兵を集結させてたんだろうね<
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」があったの。
>多くの兵の労働力の証が、纒向のインフラであり巨大古墳<
征服した毛人を、支配威圧するため。
>兵を纏めるのが卑弥呼の役割 鬼道にて衆を惑わす<
「南≠東」に拠って×。
>少し後の時代になるが、軍に随行した巫女の埴輪も見つかっている <
東征将軍は、当然祭祀もしながら征服する。 >>513
》>wwの、魏朝末の「会稽郡から呉郡への分郡割譲」の話は、
同じ頃の別の分郡記録と並べて、年号まで記載して紹介したものだったから、<
>そんな話があったって証拠でもあるの ? ザラコクの捏造か悪質歪曲だろ?
いつもやってるし<
そりゃ、このスレを戻してし行って探して行けば、いつかは見つかるよ。
検索でも見つかるかも知れない。
しかし、・・・・を相手にして、探して上げたって、納得する訳もなし。 >>535
>もともと第一の道論 は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、前期古墳に見る隔絶性 から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転 倒の論理によって説明されてきた感が強い。
>以降、第一 の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルー ト開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、 修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続 けてきた。
>しかし証明のための論理や手法に根本的な改 善は見られない。
>私は第一の道を否定する立場である。
畿内説のテンプレを見事に一蹴しているね。 >>608
このように、トンデモ説は決して証拠を出さない 前期古墳以前に、纏向型の段階でもう隔絶性があるからね >>4
> 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
テンプレは適当な寄せ集めだから、寺沢氏が批判する吉備との連合もそのまま含まれてしまっているな。 伊都国には各国の使者が駐在し、下手なことはできなかったんだろう
魏志倭人伝当時、千戸と細々と存続、男王もいた
筑紫は白日別、元々白と日の勢力が手を結んだ国だったのかな
その後どうなったのか?
別れたのか?筑紫の枕詞のしらぬひってどういう意味なんだろう
イトシラって何なんだろう 天の下しろしめす白縫の筑紫の国だろ。
天下布武の王都だよ。 九州に村はあっても周辺国を統治出来るような王権はないよ
くやしいだろうけど今も昔も一緒 邪馬台国=大和国ですよ
九州説は完全に田舎っぺの妄想 >>518
>素人オジンにとってはは、そんな「出典確認」なんて、確認方法も知らないし、全く出来ないんだよ。<
>これじゃ「半分×」とか言ってるのも未確認だろうね<
関心がない。素人オジンは、忙しいし体力もないから、知り得た範囲内で帰納的推論をするのみ。
〉今は素人でも書陵部本《三國志》が全頁見られるんだよ
《三國志》のテキストならWikiのリンクからでも読めるだろ<
問題の原点は、古田さんは、張元済本で、
(「宛」ではな区)「苑」と書いておられる事であり、
書陵部本ではない、という事。
それで、書陵部本ではどっちなの?。
>>GoogleMAPの使用法もよくできず、<
>丁寧に書いているのに、地図も見ないのならお話にならないね
距離も測れる便利なものを使わないのはもったいない<
素人オジンは、以前から言っているように、
目も悪くて、焦点がなかなか合わず、細かい文字や図などは余り見えない、という事。
>>これが、はるか後代の学者の単なる「推定」であったんであろうから、<
>ここは春秋時代初期に楚に吞みこまれた時に宛邑が置かれた
この時からずっと続いているのだから誰も「推定」しないんだよ
必要のない仮定ゆえ結論も間違いだね <
だから、古田さんの張元済本では「苑」であるから、
「宛」であった話をしたって、まだ根拠にならないんだよ。
それから、その書陵部本でもいいから、その箇所の前後の文を書きだしてくれ。 >>621
お前ややこしくするだけでバカなんだから書きこまなくていいよ
きもい 末盧国、
東南陸行五百里で到るのは、佐賀・佐賀・佐賀・SAGA・SAGA・SAGA、
>>598
後漢王朝から面会を蹴られた倭奴国王なんだから、魏王朝からも及びではなかろ
糸島や博多は、遠絶の傍国扱いに決まっとる、な、な、なっ。 寺沢の劣化コピーのスレ主と、古田の劣化コピーのザラコク。
どっちもどっちだ。
ちゃんと自分の頭で理解した範囲で話せよ。
誰それがこう言っていたなんていうのは、根拠にならないんだよ。 縄文時代、圧倒的に人口の多かった関東・東北は、日高見国という太陽信仰の祭祀国を形成、鹿島神宮の祭神タカミムスビからアマテラスヘの一族が率いていた。
大陸からの脅威に対抗するため、関東の鹿島から九州の鹿児島へ、香取(柁取り神宮)と息栖神社(天の鳥船神社)の率いる船団が鹿島立ちして、鹿児島の天降り川に到着した。
そこで準備して、イワレヒコ(神武天皇)が東遷して大和を征服した。
最近の考古学と科学分析の成果は神話の新たな読み解きを導いた。 >>616
>テンプレは適当な寄せ集めだから、寺沢氏が批判する吉備との連合もそのまま含まれてしまっているな。
あんた日本読めないんだね
「北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成」
が寺澤の主張だ 筑紫に王都なんてものは存在してない
ただの経由地、または出先機関
理解できてますか? >>625
テンプレをぜんぜん理解できてないみたいだね つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、 >>574
>畿内説は倭人伝の不弥国までの記述はほぼ肯定し
これがまずウソ
畿内説は、行程の国の順序は認め、地名や遺跡の存在から比定地を考える
その結果、
対海国 対馬
一大国 壱岐
末慮国 松浦(唐津平野)
伊都国 糸島(怡土)
奴国 福岡(那珂、那の津)
を通説どおり、比定地と考えるが、ここまででも、
距離と方角はあてにならないと考えている
実際、海峡横断部分も行程によって距離が2倍程度異なるし、
末慮国ー伊都国間と伊都国ー奴国間で、里の換算距離が4倍異なる
方角も、海峡横断部分も南ではなく南東だし
末慮国ー伊都国間で90度方角が狂っている
>それ以降はほぼ否定する説(径百歩は肯定)
それ以降も、北部九州から水行で長距離で、投馬国、邪馬台国の順に進むと
考えているよ
否定はしない
ただ、日数は10日単位に丸めた数字だと考えるし、方角は間違っていると考える
九州説のように、いきなり起点を帯方郡に戻したりはしないww >>629
テンプレは他人に理解させようとすることを放棄しているからね。
洗脳を目的としてはあるけれど、論理的な証明からは程遠い。 >>632
>を通説どおり、比定地と考えるが、ここまででも、
>距離と方角はあてにならないと考えている
あてにならないと言いながら比定する。
都合のいい部分だけ採用するチェリーピッキングの典型。 >>632
>それ以降も、北部九州から水行で長距離で、投馬国、邪馬台国の順に進むと
>考えているよ
根拠のない考え。
またの名を妄想。 >>518
>>(Yahooでの議論では)結局は、「宛」(あるいは「苑」)地は、
新野よりもはるかに襄陽よりの支流の中の山中の水軍陣地であったんだろう、
という事になっていた。<
>勝手な判断で軍陣地に格下げするなよ<
襄陽付近から、川を下って宛に直ぐに行ける、という「苑」の地であった事になったから。
>秦が侵攻して楚から奪ってから南陽郡の治所は宛城だよ
曹操が南征で複数回、宛を訪れていることも知らないのだろうね<
そんな話は、Yahooでの議論でも一杯出ていたよ。
>>「一寸千里や短里を知らない現代学者」の比定の信頼性は、
「陳寿の記載事実」という同時期記録の信頼性よりも、はるかに落ちるんだよ。<
>滅びて場所不明になった所ならそうかもな 現代までずっと続いている所では誰も比定することはないんだよ
また必要のない仮定だね <
要は、陳寿が「苑」と書いたのか?、「宛」と書いたのか?の問題だな。
後代学者なら、「苑」の場所が判らなければ、
「苑→宛」の書き換えをしてしまう事は、いくらでも起こり得る。 >>588
>仮称「ヤマト」国とカタカナ書きするのは、その国が「大和」じゃないからだね。
かな書きする理由は
「ここで「大和」と呼ぶのは、歴史的な大和一国を指すのでも狭義の「ヤマト」を指すのでもない。
「国中くんなか」と呼称される奈良盆地の平野部とこれに接する四周の丘陵縁辺部分を含めた、
地理的な単元を重視した広義の「奈良盆地」を指す。」
「ここで「ヤマト」国とした範囲は、『古事記』にみえる倭の記載範囲に重なり、直木孝次郎氏の
いう「狭義のやまと」にほぼ相当するものといえる。『王権と都市の形成史論』第二部第五章など
でも述べたように、私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」で
あろうと考えている。」
というように、区別するためだよ
ちゃんと典拠が示されているんだから、ちゃんと読んでから書き込みなよ
結局、阿波もトンデモのアワコンなんだよな 縄文時代、圧倒的に人口の多かった関東・東北は、日高見国という太陽信仰の祭祀国を形成、鹿島神宮の祭神タカミムスビからアマテラスヘの一族が率いていた。
大陸からの脅威に対抗するため、関東の鹿島から九州の鹿児島へ、香取(柁取り神宮)と息栖神社(天の鳥船神社)の率いる船団が鹿島立ちして、鹿児島の天降り川に到着した。
そこで準備して、イワレヒコ(神武天皇)が東遷して大和を征服した。
最近の考古学と科学分析の成果は神話の新たな読み解きを導いた。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 縄文時代の圧倒的な人口、タケミカズチの存在もあり
その時代筑紫はただの出先機関の役目なんだよな
天孫族=関東人→九州に防壁のための出先機関→東征→邪馬台国=大和国
で日本の古代の歴史は間違いないよ 九州の帥升は、鉄の武器が無い奈良盆地を攻めて、生口を捕獲して、中国に連れて行った可能性があるな。。。 >>630
畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 >>522
>「私は第一の道を否定する立場である。しかし、征服など物理的強力を
前提とした「東征論」や北部九州や吉備勢力を念頭においた政治権力の
直接的移動を想定した「東遷論」に与するものではない。」
征服や東征・東遷論は採らないと書いてある
「第一の道」というのが、大和単体での自生的王権段階への発展だが、
寺澤先生が否定しているのはこの部分だけ <
寺澤は、やっぱり、
大和は「筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」や、
倭國は「正北抵新羅」だから九州や、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」や、
「南≠東」などの、
史料事実を否定抹殺する・・・・詐欺師であった訳で。
「 関東を代表する古社としては常陸国一宮鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)が常陸国風土記に香島の天の大神として記載されている。
下総国一宮香取神宮(千葉県香取市)とあわせて古代の内海である香取海の入り口の両岸に鎮座しており、海運と軍事の要所であった。
鹿島神宮の祭神はタケミカヅチ、香取神宮の祭神はフツヌシであり、いずれも日本書紀において出雲の国譲りに登場する神である。
関東の支配権が出雲から移譲されたことを反映しているのかもしれない。 古代の倭国はどこまで勢力を広げていたのだろうか。
出雲の国譲りのとき、大国主の息子のタケミナカタはアマテラスの送ったタケミカヅチと戦い、諏訪(長野県)まで敗走し、諏訪から出ないことを条件に助命を願ったとされる。
現在の信濃国一宮諏訪大社(上社本宮は長野県諏訪市)がタケミナカタの宮であると考えられるため、この時代に信濃地方までは出雲の勢力範囲にあったのだろう。 >>616
>寺沢氏が批判する吉備との連合もそのまま含まれてしまっているな。
ちゃんと読もうな
「前方後円墳は王権の主要勢力であった旧イト倭国勢力、
吉備などの瀬戸内海沿岸勢力、
イヅモなどの日本海沿岸勢力の
前段階の王墓の祭祀的(本質的)、
階級構造的、
形態・技術的諸要素を基軸として、
列島各地の祭祀の統合・融合によって設計され、計画的に築造されたものであって」
「吉備などの瀬戸内海沿岸勢力」も連合に入っているよ
また、卑弥呼の共立を
「私は北部九州(2世紀までの倭国中枢であった、私の言う「イト倭国」勢力)や
2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を
維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と
考えている。」
と捉えていらっしゃる
「吉備を中心とした瀬戸内海勢力」が新生倭国をもたらす維新主要勢力という捉え方
テンプレとは力点の置き方が異なるだけだよ >>625
>どっちもどっちだ。
でた!ww
「どっちもどっち」論w
これは、論争に負けたという自覚のある人間が、
負けじゃないもんね、というために編み出した技
用例
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
これが九州説。 住居跡が無いのは致命傷
寺澤もわかって無い
寺澤は、早稲田志望だったが学力不足で同志社へ
その後地方公務員((多分に関西の銭儲け研究者のコネ)
纒向学研究センターなんて必要も無いもの作って、センター長へ 税金泥棒
纒向の研究は橿原考古学研究所で充分だった
そんな私利私欲の奴に従う馬鹿も馬鹿 重要なんで理解できるようにもう一度書いておく
天孫族=関東人(縄文)→九州に防壁のための出先機関{弥生)→東征→邪馬台国=大和国
である。 >>650
なんで致命傷なの?
理由もなく言い張っても、なあw >>634
>あてにならないと言いながら比定する。
>都合のいい部分だけ採用するチェリーピッキングの典型。
ちゃんと引用しような
「(倭人伝の)行程の国の順序は認め、地名や遺跡の存在から比定地を考える」
「距離と方角はあてにならないと考えている」
あてにならない部分は、まったく採らないからチェリーピッキングには当たらない
比定地は、きちんと検証可能な情報をもとに行う
それだけのこと
>>634の引用の仕方こそ、
「印象操作のためのチェリーピッキングの見本」みたいなものだねw >>650 >>653
お前バカなんだからもう書きこむなよ
ただのあーいえばじょうゆうじゃんお前w おらが村一番根性の九州説と個人憎しの批判バカは頭悪い 重要なんで理解できるようにもう一度書いておく
天孫族=関東人(縄文)→九州に防壁のための出先機関{弥生)→東征→邪馬台国=大和国
である。 >>635
>根拠のない考え。
「根拠のない」とする根拠がない
この人は、自分で反論が書けないと「根拠がない」といって逃げるのが通例
根拠 つ「大陸史書での地理・旅程記事は、現在地を起点として
方角、距離、到着地の順で記すのが基本
次の行程は、先の到着地を現在地(起点)として記される」
これが基本なんだから、この基本から外れるときには注記が必要
旅程の途中でいきなり起点が帯方郡に戻されるなら必ず注記が入る
入らない時点で、水行の起点を帯方郡に求めるのは無理読み
>またの名を妄想。
九州説の旅程の読み方が、なw
自己紹介乙 >>648
>テンプレとは力点の置き方が異なるだけだよ
重要の要素(九州北部)を抜いた説明など、詐欺の常套手段だね。 >>655
アンカーを間違っているのか、読み取りのできない人なのかどっちだ?
>>650と>>653は別人だろ? 「北部九州(2世紀までの倭国中枢であった、私の言う「イト倭国」勢力)」が倭国の中心だったのに、その2世紀末に纒向で卑弥呼が即位するのか?
ならば畿内説は東遷説でいいよな? >>637
> 「ここで「ヤマト」国とした範囲は、『古事記』にみえる倭の記載範囲に重なり、直木孝次郎氏の
いう「狭義のやまと」にほぼ相当するものといえる。『王権と都市の形成史論』第二部第五章など
でも述べたように、私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」で
あろうと考えている。」
この仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国=倭国(阿波)」で あろうと考えている。」
ってことだよ。
妄想だけが許される時代はもうすでに終わってるんだよ。 @阿波 >>645
関東の古社はいずれも「忌部の祖神」を祀っている。 推して知るべし。 @阿波 >>663
阿波はヤマトと呼ばれていない
以上
阿波はアワコン >>660
「重要の要素(九州北部)」という根拠は? >>662
なんで?
イト倭国が終了しただろ?
東遷ムリだよな >>647
>現在の信濃国一宮諏訪大社(上社本宮は長野県諏訪市)がタケミナカタの宮であると考えられるため、この時代に信濃地方までは出雲の勢力範囲にあったのだろう。
長野県諏訪市にある「諏訪大社」は光仁帝の宝亀10年(779年)に阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社」 「御祭神 建御名方命」
から移遷された、と社伝にあるそうだ。その頃、現在の長野県にある諏訪大社は「南方刀美(みなとみ)神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられている。
つまり大国主命の息子神である建御名方神はここ徳島県石井町諏訪に祀られ、ここから各地に広がっていった、ということである。
それにしても観光地として多くの参拝者が訪れる諏訪大社のご祭神が阿波から移遷された神様だと知っているひとはどれだけいるだろうか。 @阿波 >>664
記紀以前縄文に忌部はまだ存在してないよこの田舎っぺ >>648
>「吉備を中心とした瀬戸内海勢力」が新生倭国をもたらす維新主要勢力という捉え方
テンプレとは力点の置き方が異なるだけだよ
言わんとしていることは、各地の忌部一族のことを言ってるんだよ。 @阿波 はっきりいっとく
阿波は昔も今もただの田舎 @阿波と書きこんでるバカはただの田舎っぺw >>643
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>665
>阿波はヤマトと呼ばれていない
カタカナ表記など笑止千万。
阿波は倭国。 阿波は「倭大国玉・倭大國敷」の国 @阿波 キナイコシが発表した200年の時間差とは、どういうことだろうか。。。 >>674
中国の正式な歴史書に書かれた倭人と中国人の交流の間隔時間のことではないのかな。。。 >>675
キナイコシはその期間の間にある帥升のことを知らなかったのではないのかな。。。 九州邪馬台国説と阿波大和説は本物のバカだということがよくわかる
もう少し冷静に正確に分析しなよ >>677
中国の正式な歴史書に書かれた、九州を都にしていた倭王だな。。。 九州の帥升は、鉄の武器が無い奈良盆地を攻めて、生口を捕獲して、中国に連れて行った可能性があるな。。。 狂人のキナイコシはテンプレートが論破され時は、悪口しか言わなくなるな。。。 >>669
「ここでいう忌部氏とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。」
『新撰姓氏録』で細分される前は、すべて倭人(広義の忌部氏)。
君も忌部の子孫だよ。 @阿波 >>681
反論することを諦めてしまったのではないのかな。。。 九州を都にしていた倭王帥升と倭王卑弥呼の都が違うなら、遷都したということになるな。。。 >>686
確かに。。。キナイコシは、倭王帥升の都が畿内にあったと主張することを、最初から諦めているからな。。。 なるほど、、、畿内説が生き残るには、九州から、東の畿内に遷都したということにしなければいけないのだな。。。 倭王帥升の都は九州にあったということがはっきりした今、つまり、倭王卑弥呼の都が畿内にあったという主張をする、邪馬台国畿内説は、東遷説を基に作成されたということにしかならないということがはっきりしたな。。。 そもそも九州に列島を収めてたあとなんて
考古学的にも、文献的にも、歴史的にもひとつもないんだよ
そこらへん理解した方がいい。
倭国=大倭国=大和です。100パーセント完全に当時の奈良だよ しかし、既に、倭国と日本国が別の国で、魏志倭人伝の時代に、同時にも存在していたことが、優れた考古学者によって証明された今、畿内説も東遷説も、成立しないな。。。 畿内説を論破され、狂ってしまったキナイコシが意味の無いことを呟き始めたな。。。 >>693
テンプレートを論破され、追い詰められたからではないのかな。。。 九州マンセ―してるのほとんど今の九州人の田舎っぺだろ ここでも >>667
伊都にあった倭国が東遷したんだろ?
違う国なら名前も違うはず。
倭国女王卑弥呼の王都が纒向なら、筑紫から大和に遷都したことになる。 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif だから筑紫はただの大陸に近かっただけの出島だって
この田舎っぺども こういうこと
「そして倭国王たるイト国王は2世紀の末、・・・・平原遺跡一号墳丘墓をもって終わりを告げるのである」寺澤 重要なんで理解できるようにもう一度書いておく
天孫族=関東人(縄文)→九州に防壁のための出先機関{弥生)→東征→邪馬台国=大和国
である。 >>698
当時の奈良盆地も相当な「田舎っぺ」だよ。 @阿波 >>700
みんなが見る掲示板に書かれると邪魔なんでおまえの家にあるチラ裏に書いとけ >>704
重要なんで理解できるようにもう一度書いておく
天孫族=関東人(縄文)→九州に防壁のための出先機関{弥生)→東征→邪馬台国=大和国
である。 >>697
そんなの「邪馬台国時代の遺物」とか言ったら
わ ら い も の
w >>703
>@阿波、本人以外誰かもスルーwww
そう言いながら、「@阿波」が気になって仕方が無いんだね。 よくわかる反応だ。 @阿波 縄文時代、圧倒的に人口の多かった関東・東北は、
日高見国という太陽信仰の祭祀国を形成、鹿島神宮の祭神タカミムスビからアマテラスヘの一族が率いていた。
大陸からの脅威に対抗するため、関東の鹿島から九州の鹿児島へ、香取(柁取り神宮)と息栖神社(天の鳥船神社)の率いる船団が鹿島立ちして、鹿児島の天降り川に到着した。
そこで準備して、イワレヒコ(神武天皇)が東遷して大和を征服した。
最近の考古学と科学分析の成果は神話の新たな読み解きを導いた。 >>709
>@阿波www ジャマwwww
私もそう思う。 さぞかしジャマwwwwだろう。 @阿波 >>709
>@阿波www ジャマwwww
私もそう思う。 さぞかし「トンデモ説」にとって、ジャマwwwwだろう。 @阿波 >>712
あまり追い詰めすぎるのは、良くないのではないのかな。。。 >>714
そうだね。。。。
発狂の度合いが高まってしまうものね、、、
ただでさえ閑散とした桜井市周辺に、ブツブツつぶやく発狂者が徘徊するさまはおぞましすぎるね。。。
二度と訪れる予定はないけど、、、 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当はもないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 >>710
平原遺跡から出土した耳璫の様式が魏晋の頃の流行品。 >>716
そうだね、、、
そして、僕たちは最近新しい情報を手に入れたね。。。 >>528
>九州説は一般人の支持が多いのが自慢だけど
去年あたりから教科書が改訂されてきて、両論併記で中立的な記述から現行では「畿内説が有力」という記述に変わってきてる
だから新しい教科書で教育を受けた人はほぼ100%畿内説支持になる
これからは九州説なんてのは爺さんだけが唱えてる昔の古い説とみなされる<
そりゃ当然だ。
安部自民や文部省は、「軍→警察予備軍→自衛隊」のインチキ騙しと同じように、
「検閲」は憲法違反だから「検閲→検定」と言い換えて、学会教科書界を支配するインチキをやって来たんだから。
いずれにしても、このまま勧めば、
戦前の「萬世一系皇国史観」教育都同じで、
日本はまた「近隣諸国への人種差別的侵略殺戮戦争」をする事になり、
子や孫らも、戦争に行かされて殺し合いをさせられるんだろうね。
まあ、小選挙制にされて、自民絶対支配体制になった時点で、
教育もこうなる事は見えていたんだが、
しかし、それでも素人オジンは、子や孫らが「万世一系皇国史観」戦争に行かされないように、
死ぬまで頑張るしかないなあ。 >>718
そうそう、僕たちは、とうとう、優れた考古学者が紹介してくれた大物主の倉庫が、古墳のことではなく、巻向駅から歩いていける、あのちっぽけな空き地にあったものだということを調べ上げてしまったものだものね。。。 あのちっぽけな空き地の大規模発掘調査では、その柱の穴は、粗末な倉庫のものだということと、大物主時代の化石だらけだったことと、そして、そこが、魏志倭人伝時代の直前に湖の底だったことが判明したのだものね。 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 キナイコシはテンプレートが論破された時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。 僕たちが、論破されてしまったテンプレートを撤去して、次のスレッドを作成してあげれば良いのではないのかな。。。 こ
の
よ
う
に
九州説はひたすら
ウ
ソ
を
つ
く キナイコシは、テンプレートが論破された時、理由も示さずに、嘘だ嘘だとしか言わないな。。。 キナイコシは、テンプレートが論破された時、あまり意味のない空白の一文字での改行を行う癖があるな。。。 キナイコシが論破されてしまっている話題が、「軍→警察予備軍→自衛隊」のことのようだね。。。 >>728
あまり、レベルの高い話題ではないのではないのかな。。。 >>534
大和説は毎日「南→東」などのウソついてるけどな。
しかし、そのような嘘つき騙しを強制支配する安部文部省や、右翼マスコミや、PC会社や、
学会教育界を変えない限り、
嘘つき騙しの大和説者は、減らないだろうねえ。 >>535
>もともと(寺澤の)第一の道論 は、
奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性 から前段階の強力な権力の存在を推定するという
本末転 倒の論理によって説明されてきた感が強い。<
成程。 >>542
>九州説は今後事実の前に消えてゆく運命<
大和説は、今後も「南→東」などの嘘つき騙しの「戦前の萬世一系皇国史観」宗教に拠って、
国民を「近隣諸国民への侵略を鼓舞扇動して殺し合い戦争に強制し、
国民をまた全滅に近い状態にさせて、消えて行くもの。
諸行無常。万物流転。栄枯盛衰。盛者必滅。
奢れる「萬世一系皇国史観大和説」久しからず。 >>547
>もうしわけないけど九州にはいまだに大陸からの防波堤の役割しかなくて
中央集権があることはないよ<
申し訳ないけど、大和は、
九州倭国から別れた別種の旧小国であって、
倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国でしかなく、
列島の盟主ではなかったんだよ。 >>949
>豪族はいたのは当たり前にわかる が、 この列島をまとめたり配下におさめる勢力が
あったこともこれからあることもない
九州は日本全体から見たらすみっこの地方都市だよ 残念ながら今も昔も <
申し訳ないけど、
倭国は「正北抵新羅」に拠って九州にあったのであり、
大和は、倭国から別れた別種の旧小国であって、 倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国でしかなく、
列島の盟主ではなかったんだよ。 >>551
>給すると、またコもピペか九州説 <
窮すると、大和説者は、また、国民を騙そうとしての口先でのヘイトスピーチ宣伝か。 >>734
バレないと思ってるんだろうか
「萬世一系皇国史観大和説」なんてウソを平気でつき続ける九州説って
どう見ても異常だな >>739
日本成立させたんだkら小国じゃないでしょ...。
小国は九州でしょ。。倭国=大和国だよ。本当に馬鹿なのか もとい>>737
>>739
日本成立させたんだから小国じゃないでしょ...。
小国は九州でしょ。。一度も九州が過去も昔も日本中に勢力が及んだことないじゃん
倭国=大和国だよ。本当に馬鹿なのか 九州説は九州に日本を収めた勢力があったと思い込みたいんだね。。
残念だけどただの一度もないよ。地理的にもただの大陸文化の受け入れ場所だよ >>737
東西を征服してるんだから、倭王武がいたのは中央だ
西のはての九州じゃないよ >>745
畿内説はいつも後世の話しか持ち出さない、持ち出せない >>745
頭では分かっているが九州人は九州に
過去に日本を収めた力があったと思い込みたいのです
一度もないけどw 単純に九州は地理的に大陸からの文化の受け入れ先で
中央から見れば大陸勢力からの防波堤だっただけ
真実はわかってるが、九州説唱えるのが唯一のみじめなプライドなのです
わかってください。僕らはバカな田舎っぺです >>748
大和朝廷成立したの畿内だし、今の日本に連綿と続いてる根拠と証拠しかないけどねw 中立の自分が言いますよ
倭国が九州なわけないだろ笑 倭国はそのまま大倭国だわ 倭国は九州、
元は小国で、後に日本国に大出世したのが大和んちゅ〜 >>752
そう思い込みたいのはわかるが
倭国はそのまま和の国、大和だよ笑 しかも天孫族は列島を守るために九州に分かった関東のタケミカズチの勢力だね
その関東勢力が中央集権となる大倭国の補佐をしてたんだよ >>750
大和朝廷は卑弥呼より後の時代の話ですよ。 >>755
中央政権が大和で成立して日本書紀で日本と名乗っただけで
もとは一緒だよ 記紀を信じないはずの畿内説が最後は記紀を持ち出す不思議。 中立の自分が言いますよ
九州に近辺の小国を収めてた大国にあたる王権はない笑
はじっこじゃん 東京の自分から見ると
なんか九州説ばかすぎて埒あかなそうw 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 >>701
天皇が一系とか言ってないから、まるて別 >>765
大和朝廷だろ?
自分で何を言っているのか理解していないんだな。 倭国は九州の地名じゃなくて今でも大倭国=大和の地名だろ >>764
それは後漢書だから関係ないな
時代が違う 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。 東京の自分が言いますよ
大倭王は大和王で中央集権の王以外ありえないだろ笑
おい九州人一度冷静に考えろよ 捻じ曲げすぎですよ >>768
卑弥呼の時代と数十年しか違わないが、その間に倭が東遷したのか? ここ見て九州説に無理がありすぎるの理解した by 九州人 >>769
九州から二千里も離れてたら、九州じゃあないな >>771
なぜ数十年?
倭奴国の朝貢は一世紀だろ? 同じ九州人として恥ずかしくなってきた
みっともなくてすいません >>766
それが、どうしたの?
論理的に話をしてもらえる? 大和から見ると九州はのちの時代にも隼人とかでさげすまれてきた民族なんだよな
大陸と大倭の間の今で言う韓国北朝鮮みたいなもんだ
根拠のないみじめなプライドで九州説押し通そうとしてたようです
恥ずかしい 金印が偽物だった可能性が高いのが本当に恥ずかしい
九州説がここまで勘違いするきっかけは偽物だったようです
本当に今の韓国北朝鮮ぽいな とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
2LS 畿内説を論破され、狂ってしまったキナイコシが意味の無いことを呟き始めたな。。。 どうも九州説の人というのは、自分ひとり頭のなかで理解してるつりになってて、実は単なる先入観で固まってるだけのようだ
なぜなら、いつも他人に自分の考えをちゃんと説明出来ない
理解してるなら説明出来るだろう >>774
帥升は107年、卑弥呼の即位は190年頃 >>780
テンプレートを論破され、追い詰められたからではないのかな。。。 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 九州説唱える九州人ばかりで九州説信じ切ってた九州人です
倭国は大倭国 倭国王は大和国王
当たり前すぎました。本当に九州人狂人ばかりと思われたくない! まるで人類起源説や桜発祥の地を唱えるの半島住民と九州説は変わらない 根拠なしの願望と嘘の捏造信じ切ってちゃだめだよ 九州説
頭と使ってシンプルに考えましょう 無理ありすぎwww このスレは言葉は悪いとこもあるが、この国の歴史認識にとても有意義 >>769
× 楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
○ 楽浪郡の国境は、その国(倭国or大倭国)から一万二千里である。 >>783
>卑弥呼の即位は190年頃
これ、梁書の靈帝光和中 倭國亂とかが根拠だってのは分かるんだけど、
それだと卑弥呼が長生きになりすぎると思ってる
卑弥呼の共立は、もっと遅くて3世紀に入ってしばらくしてからだと思う >>788
>では、倭王帥升はどこにいた?
横レスだけれど、倭面土国王帥升は、筑紫米多国造の祖でいいんじゃないかと思っている
「『東南陸行五百里』考」
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zatu03.html#rikuko >>795
まあそれでもいいけど、倭国は九州北部でいいよね?
朝鮮半島南岸までで七千里、九州上陸までで一万里だからね。 >>799
お前本当にバカだな笑
それお前の頭の中だけでなwwww 今、5年ぶりに覗いたけれど、5年前と同様に、テンプレートが論破されているね、、、、 畿内説を論破されたキナイコシが、今日も、優れた考古学者達に打ちのめされ、反論を諦めて悪口だけになってきているな。。。
九州説ゴリ押しすいません
もう恥ずかしいからやめます 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて、九州説のメンバーに、成り済ましているのではないのかな。。。 おいキナイコシ連呼厨
倭国が大倭国じゃなかったらなんなんだよ
九州は奈良ですといっいてるようなもんだぞw >>
金印が偽物だった可能性が高いのが本当に恥ずかしい
九州説がここまで勘違いするきっかけは偽物だったようです
本当に今の韓国北朝鮮ぽいな
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww キナイコシが、また意味の通じないことを呟き始めたのではないのかな。。。 九州説メンバーって笑
そんな妄想軍団に入りたくないw 後世の恥 横からごめん まずキナイコシの意味が通じないんですが.... >>810
盗銭男、おまえは365日ずっと意味の通じないことを呟いているね >>799
× まあそれでもいいけど、倭国は九州北部でいい
○ 九州北部は倭国の一部でいい
帯方郡から 女王国まで 萬二千余里 っていうのは
東京から 北海道まで 900キロ っていうのと同等で
広い範囲の女王国=倭国が大体どのあたりにあるかを言っているだけ
東京から北海道まで900キロ、というのは正しいけれど、
札幌までの距離を考える上ではほぼ役に立たない
帯方郡から萬二千里を、邪馬台国までの距離を考えるのに使おうとしても
役に立たないよ つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。 畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 >>821
だから、二千里あれば九州から畿内に着くでしょ
なに思考停止してんの九州説 畿内=邪馬台国=大和を認めたくない連呼厨のただのレッテル貼りだと思う
くやしいからこその捨て台詞じゃないかな。多分顔真っ赤にして現在逃亡中w 畿内説を論破されたキナイコシが、反論を諦めて、自分のニックネームの由来の究明に、話を逸らしているな。。。 >>815
その例えで言うなら、東京から北海道の南端まで700キロ、札幌まで800キロと書いてあるような文章だよ。
(数字は適当) >>822
妄想で勝手に決め付けて同じこと書いてんなw >>823
対馬海峡が三千里なのに、それより短い二千里で福岡から奈良まで届くって? キナイコシ連呼さんあなたが何回意味のわからない言葉書き込んでるの?
まずはそこからwww 同じ九州説信じてきて恥ずかしいけどこっちもキナイコシの意味がわからん 畿内説の人に聞きたいのだけれど、倭王帥升はどこにいた? >>835
もう畿内は説じゃないよ 倭王は大和の王 そういえば、熊本城の周辺には、たくさんの猫が生きているな。。。 卑弥呼の飼っていた猫が、繁殖したのではないのかな。。。 >>796
>これ、梁書の靈帝光和中 倭國亂とかが根拠だってのは分かるんだけど、
>それだと卑弥呼が長生きになりすぎると思ってる
にわかに信じ難いが、現代人の平均寿命から考えると、ギリギリ大丈夫。
病気に気をつけて栄養を取れば、弥生人でもそれくらいは生きたのだろう。 >>825
優れた考古学者達に打ちのめされたキナイコシが、魏志倭人時代の議論をすることに、やる気を失ったのではないのかな。。。 >>822
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 キナイコシ連呼厨です。。。
中央政権が日本のはじっこにあったと信じたいんです。。。
もういじめないでください。。。くやしいんです。。。 弥生時代に猫はなかろうと思ってググったら、壱岐の弥生遺跡から出土していたよ。
犬は縄文からいるらしいし。
卑弥呼も猫を飼っていたかもしれないな。
弥生時代にはすでに豚や鶏もいたと。
牛や馬はいないと魏志倭人伝に書かれているけど、魏志倭人伝に書かれていない動物はいたということか。 熊本にあった時に猫を見た記憶がない。
イルカは見た。 キナイコシの意味は自分でもよくわかってないです
こうやって呼ぶと自分の九州説が誇大妄想じゃないと思えるんです 将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている >>828
問題なし
対馬海峡が三千里ってのが間違いなだけ キナイコシ連呼厨です
みなさまどうか邪馬台国は九州でお願いします
それしかこの惨めな境遇のプライド保てません
どうかどうか宜しくお願い致します
中央政権と王権は日本のはじっこにあったと言ってください 今日のキナイコシは、いつにもまして幼稚なのではないのかな。。。 今日のキナイコシ連呼厨は、いつにもましてバカにされすぎなのではないのかな。。。 >>857
今日のキナイコシは、何かのことで追い詰められてしまったようだな、、、何のことだろうか。。。 スレのレベルが下がりすぎだが、これもスレ主のせいだな。 >>861
ごめんごめんバカにできるあなたがいて遊んでるだけ 後漢書ではまだ伊都國に一大率が置かれる前の時代だから
其國(=倭国)の境界を去ること萬二千里、其國(=倭国)が魏志の女王国
魏志の時代になると五千里間にある北部九州諸国が従属して一大率が置かれ、検察される
考古学的には甕棺墓制が及ばない九州北東部から〜本州が後漢書の其國(=倭国) >>863
チエオク九州に論文を読む能力がなくてワラタ >>860
キナイコシ連呼厨という単語が、このスレッドに登場する直前の話題が、今日のキナイコシを幼稚してしまうほど、追い詰めてしまった事柄なのではないのかな。。。 キナイコシって九州の方言だけど
意味は畿内説の方が正しいのはわかってるけどくやしいって意味だよ
覚えといてね >>868
スレッドを検索して調べてみると、倭国王帥升の都の位置のことだな。。。 >>868
追いつめられたんじゃなくてあんたが単にバカにされてるだけやで もう怒ったばってん キナイコシの意味は自分でもよくわかんないばってん
わかったばってんか きないこしー キナイコシってなに?
本当に九州説の脳内妄想で生まれた造語なのか? 九州説バカにされすぎ バカにされてるのすらわかってなさそう >>866
其の国の西北界である狗邪韓国から楽浪郡まで7千里とあるから、その解釈は無理だよ。 もう笑いすぎて腹痛い
連呼厨ありがとう
飽きたからもうさよーなら >>881
論破されたキナイコシは、別人を装ってまた登場するのではないのかな。。。 倭人は、帯方郡の東南の大きな海の中の山の島を、国や村にして、拠り所にしている。。。。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、(倭人の島の一つの)北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国(の海岸沿い)は7000里(余り進ん)だ。。。 いつものキナイコシが、幼稚になったのではなく、別のもっと幼稚なキナイコシがいる可能性があるな。。。 >>886
そうだな。。。
今日のキナイコシは、いくらなんでも幼稚過ぎるからな。。。 >>887
幼稚なやつに馬鹿にされ続けた感想をどうぞ↓ >>882
「その国の西北界」と書いてあるから、倭の領土ですよ。 >>893
「倭在韓東南大海中」(後漢書)
狗邪韓国は朝鮮半島 半島南岸を売り渡してしまうキナイコシ
さすが畿内人は違うわw 魏志倭人伝でも、狗邪韓国は韓伝ではなく倭人伝に登場するので、倭の領土。 狗邪韓国は戸数記載もなく官もいないから倭国ではない で?
倭王帥升はどこにいたんだ?
回答し直すチャンスを与えてやろう。
世間から笑われないように、しっかりと考えろよ。 キナイコシ、九州に倭国を統治した大和王朝があったと言って。。。 キナイコシ、日本のスミの九州に倭国を束ねた邪馬台国があったと言って。。。 金印が捏造なのも知ってるよ。。。
でも。。。でも。。。九州に日本をまとめた王朝があったと言って。。。 佐賀が今も昔も日本一のド田舎なの知ってるでしょ。。。
だから。。。だから。。。お情けちょうだいキナイコシ。。。。 >>906
位置情報ならあるよ。
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 >>900
つか、韓国と書いてあるんだから
韓国だよな常識的に言って 誰か僕たちの振りをして、金印と佐賀のことについて発表しているな。。。どういうことだろうか >>912
大倭国の首都は九州だよな。。。大和国じゃないよな。。。
周辺国をまとめた王朝があったのは
ぼくらのいる日本の辺境の一地方都市だよな。。。。 >>913
いや、倭王帥升がいた倭国の話だよ?
関係ないという理屈がわからない。 >>912
キナイコシの方がほとんど説得力あるな。。。
でもがんばろうな。。。僕たちの村がかつて日本を統治した王朝だよな。。。
捏造を続ければいつか本当になるかもしれないよ。。。 誰か僕たちの振りをして、僕たちに向かってレスポンスしてきたな。。。どういうことだろうか
なによりも、大倭国とは、先程までキナイコシが多用していた単語だな。。。 ぼく混乱してます。。。キナイコシの方がやっぱり頭いいのかな。。。 幼稚なキナイコシが、僕たちに成り済ましているのではないのかな。。。 >>901
>倭王帥升はどこにいたんだ?
だから、倭面土王は、筑紫米多郷だって教えてやっただろ?
吉野ヶ里の近くのローカル首長だよ
吉野ヶ里そのものでもいいけどさ 大倭王である帥升は、どこにいたのですか?
西北界が楽浪郡から七千里、極南界が倭奴国となるような領土の中で、楽浪郡から一万二千里の邪馬台国はどこにあったのですか? >>921
九州説ならそれでもいいかもしれない。
でもここは畿内説からの返答を聞きたいんだ。
あと、筑後では倭奴国が極南界にならなくなる。 >>826
>その例えで言うなら、東京から北海道の南端まで700キロ、札幌まで800キロと書いてあるような文章だよ。
(数字は適当)
東京から函館は680キロ、東京から北海道は900キロ
正確な数字だよ
札幌までってのは書いてないんだ
帯方郡から末慮国までが(計算すると)萬里
帯方郡から女王国までが萬二千余里
邪馬台国までってのは書いてないんだ
こういう対応関係だ
女王国=倭国だよ >>922
ついに畿内厨は九州まで売り渡してしまったよ。 東京から北海道は900キロというのはどの文献に書かれているのかな? メール欄ではなく名前欄にキーをいれるのだったかな。。。 >>928
>邪馬台国までってのは書いてないんだ
書いてあるよ?
楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 幼稚な方のキナイコシのナリスマシは、これで、対策できるな。。。 キナイコシ、僕ら本当はうらやましーの。。。
畿内は奈良も大阪も京都もずっと中心じゃんか。。。
今の時代は関東さ。。。うらやましーの。。。
嘘でも捏造でもいいから九州にかつて
この島国をまとめた王朝があったと言って。。。 >>928
>札幌までってのは書いてないんだ
札幌まで出かけるのに、そんな情報では役に立たないよ。 >>923
>極南界が倭奴国
それ、後漢書の誤解だから
余傍国の最後の奴国は、おそらく「○奴国」の脱漏だけれど(個人的には有奴国かと思っている)
それを、倭奴国と同一視するという二重の間違いをした結果、北から南へと国名が並んだ最後で
此女王境界所盡って書いてあるから、一番南の国=極南界としたというのが、一番ありそうなところ
極南「界」って言葉が、此女王「境界」所盡に引きづられている辺りからも、伺える 楽浪郡から倭国の西北界まで七千里、邪馬台国まで一万二千里。
倭国の極南界は倭奴国。 >>931
>東京から北海道は900キロというのはどの文献に書かれているのかな?
自分で測ってごらんw
現代の地図で確認できるよ >>933
>楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里
性懲りもなくww
「其国」は、倭国だと何度言えばw >>938
キナイコシは、僕たちが、奈良県民ということを知らないようだな。。。 >>937
文献無視の妄想だね。
畿内説は得意だね。
その論法なら、邪馬台国を阿波にでも富士山にでも持っていけるねw キナイコシ、僕たち見栄っ張りでごめん。。。
このみじめな主張にせめてもの情けを。。。。 >>938
そうだね。。。だからこそ、纏向遺蹟が邪馬台国ではないことを知り尽くしているのにな。。。 >>942
だから狗邪韓国は倭国の一部だと言っているじゃん。
で、その倭国の王である帥升はどこにいたのか? >>915
倭奴国の朝貢は帥升の時代じゃないでしょ?
関係ない >>943
そうだな。。。キナイコシたちがうらやましな。。。
僕たちはキュウシュウバカという名前はどーだい??? >>942
>>>933
>>楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里
>
>性懲りもなくww
>「其国」は、倭国だと何度言えばw
キナイコシに言ってやれよ。
狗邪韓国も倭奴国も倭国ではないそうだ。
アホだろ。
売国奴かよ。 >>950
素晴らしい名前じゃないか。。。僕たちを表わしてるね。。。
気に行ったよ。。。 さっきまで後漢書と魏志倭人伝はソースが同じと言いながら、今度は同じ後漢書の中で違う時代だと言い張る。
最後は史料は信頼できない、ときた。
畿内説は病んでいるな。 >>936
>札幌まで出かけるのに、そんな情報では役に立たないよ。
魏志倭人伝を通読してごらん
邪馬台国が出てくるのはここ
↓
南至「邪馬壹國」、女王之所都、水行十日、陸行一月。
官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、
次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、
次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、
次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、
次有奴國、此女王境界所盡。
其南有狗奴國。男子爲王。其官有狗古智卑狗。不屬女王。
自郡至女王國「萬二千餘里」。
↑
萬二千余里が出てくるのはここ
ずっと離れているし、余傍国も含めて女王国だってのは有奴国のあとに
「自郡至女王國萬二千餘里」って書いてあることからも分かるな!
そして、邪馬台国ではなく、女王国までが萬二千余里であって、
邪馬台国までとはどこにも書いてない >>836
>>>835
>もう畿内は説じゃないよ 倭王は大和の王
帥升は大和にいたというのが畿内説の解釈でいいのか? >>947
>典拠がないなら無意味な例
現代の地図で、東京から北海道まで900キロくらい、というのに何の典拠がいるんだ?
あたま、大丈夫か? >>950
キナイコシ達よ。。。僕たちキュウシュウバカさ。。。
本当は中央が大倭なのは知ってるさ。。。でも負けないよ。。。 >>955
後漢書にある帥升について聞いているのに、魏志倭人伝を持ち出してどうするの?
時代がもっと違うよ? >>957
そんなでかい島をピンポイントで聞くアホがいるのか?
お前の回答がアホだろ。 >>944
>文献無視の妄想だね。
相変わらず、日本語も漢文も読めないんだな
余傍国の最後の奴国は、おそらく「○奴国」の脱漏だけれど(個人的には有奴国かと思っている)
それを、倭奴国と同一視するという二重の間違いをした結果、北から南へと国名が並んだ最後で
此女王境界所盡って書いてあるから、一番南の国=極南界としたというのが、一番ありそうなところ
極南「界」って言葉が、此女王「境界」所盡に引きづられている辺りからも、伺える
>その論法なら、邪馬台国を阿波にでも富士山にでも持っていけるねw
その論法で、富士山まで持っていってごらんww
典拠情報をちゃんと明示しないと、「その論法にならない」からなw
さあ、がんばれ! >>957
陳寿も范曄も現代日本人ではないから
お前が東京から北海道まで900キロくらいというのとは何の関係も無い >>958
ちょっと待て。。。僕たち頭がバカなんだから、、、
頭にバカをつけてバカキュウシュウでどうだい。。。
キナイコシに対抗できるのは僕たちバカキュウシュウさ。。。 >>962
根拠なく本文を改竄しておいてよく言うなあ。 倭王帥升がどこにいたのか、ここまで畿内説からの返答なし。 >>948
後漢書は倭の半島進出が甚しかった南北朝時代の認識で書かれてるだけだよ >>960
>そんなでかい島をピンポイントで聞くアホがいるのか?
ピンポイントじゃないだろ?
900キロ「くらい」だ
萬二千「余」里と同じ表現だよ
800キロでは近いし、1000キロでは遠い
100キロ単位の丸めた数字なら、「900キロくらい」とするのが一番正しい
距離情報を書く必要があって、大きな範囲・倭国について言うなら、
こういう表現にならざるを得ない
>お前の回答がアホだろ。
必死で抵抗しても、ここでいう「女王国」と「邪馬台国」は別だよ
アホなのは>>960の理解力and/orあたまの程度そのもの、だなw バカキュウシュウ説たちよ。。。
文献の適当だった箇所の細かい部分をついて
むりやり中央政権が九州にあったことにするのだ。。。
がんばれば事実もねじ曲げられる。。。僕らの頭の中のようにな。。。 畿内説だと半島南岸も九州も領土から失いそうだよ。
あたまがクラクラする。
ああ、今日は暑いから水分と塩分の補給を十分に。 >>968
>倭王帥升はどこにいたの?
何度も書いてるのに、なんで無視するかなぁ
倭面土国王帥升は、筑紫米多郷のローカル首長だって何度も教えてるだろうが >>969
一万二千里は女王が都する邪馬台国までのピンポイントな距離だよ。
七千里には余とつくけど、一万二千里には余とつかないだろ? >>968
情報なし
しかし、どこにいようが邪馬台国の位置論には影響しない キナイコシよ。。。九州説はみんながみんなバカなのだ。。。
日本をまとめた王朝があったと思いたいのだ。。。お手柔らかに頼むよ。。。 >>973
邪馬台国筑後説はちょっと黙ってくれないか?
今は畿内説に聞いているんだ。 >>963
>お前が東京から北海道まで900キロくらいというのとは何の関係も無い
だから、例示だっての
本格的に頭おかしくないか?
東京は帯方郡じゃないって言ってるのと同じだぞ?
書き方のフォーマットとして、三世紀の漢文でも現在の日本語でも
通用する書き方だろ?
お前さんがあんまり理解が悪いから分かりやすく正確な数値で例示しているのにw >>975
大倭王は邪馬台国にいると書いてあるのだから、関係ないわけないよねw >>974
>七千里には余とつくけど、一万二千里には余とつかないだろ?
魏志倭人伝、原文で読めよ
「自郡至女王國萬二千『餘』里」原文ママ
それ、後漢書だけ もう議論はやめて誰か次スレをたのむ。。。
キナイコシの方が当たり前に有利さ。。。
でも九州に大和国があったのさ。。。奈良は九州さ。。。
言ってることわかるかい。。。おらわからん。。、 >>978
だからあなたの解釈がおかしいということを指摘しているのだけれど?
楽浪郡から倭国の西北界まで七千里、倭王がいる邪馬台国まで一万二千里と書いてあるんだよ。
その倭王帥升がどこにいたのかと聞いているのだけれど? >>981
畿内説だと倭王帥升は筑後にいたのかよ。
倭王は邪馬台国にいるとも書いてあるのに。
あまりのことになんと言っていいやら。
倭国の極南界より南だし。
いろいろおかしいだろ。 >>557
>単純に歴史の連続性から考えて邪馬台国=畿内=大和だよ
馬鹿なの?<
「南≠東」などに拠って、×だよ。バカなの?。 >>985
畿内説はシンプルさ。。。
中央政権は大和でできた。。。倭国は大和国。。。
今の時代まで連綿と続いてる倭国=大和王朝発祥の地さ。。。
僕らは本当はキナイコシに勝ち目ないのさ。。。 >>561
大和説、「南→東」の証拠に窮にして、トンズラ説 。 >>983
テンプレ読めよ
> 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
> これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。 >>989
僕らに出来るのは適当な文献のミスをつつくだけさ。。。
がんばって九州=倭国のめちゃくちゃ無理ある説をゴリ押し頼むよ。。。 >>989
「南→東」の証拠なら、いっぱいかいてあるだろ
反論できない九州説がトンズラだな >>987
「南≠東」って、もう会稽東治で論破されてるよな
w このスレの最後に結論を出そう。。。
九州説はオウム信者のような洗脳されたバカさ。。。
あまりいじめんといてーな。。。 >>579
>会稽東治之東なんだから倭は海の上 <
佐田岬が会稽東治之東にあるから、倭は九州。 あーいえばジョーユー こ―いえばジョーユー
あーいえばキューシュー こ―いえばキューシュー
のバカさ。。。。ごめんなキナイコシ達よ。。。 >>991
>> これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
倭国王と書いてあるのに無視とは、畿内説はデタラメだな。 このスレッドは1000を超えました。
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