>>197
>壬申の乱で負けた難波は奈良時代は寂れていた。 古代の難波はどういう場所だったのか?
下の長唄は、なにわの地が芦原中津國や食国と認識されていたのが分かる。
それを前提に記紀を読み直すと面白い。・・・<

難波京は、筑紫の土器が出土してるから、筑紫倭國の「分都」の一つの「倭京」であったのであり、
古代から、倭國の「東征毛人五十五國」の一つとして、大和とも区別された地であったのであり
大和の倭京地域での居地は、「長柄宮」であったのであり、
そのような観点から、書紀に書かれた孝徳の治政を見直す事が必要。