邪馬台国畿内説 Part360
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530836032/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>441
なるほど、、、畿内説が生き残るには、九州から、東の畿内に遷都したということにしなければいけないのだな。。。 倭王帥升の都は九州にあったということがはっきりした今、つまり、倭王卑弥呼の都が畿内にあったという主張をする、邪馬台国畿内説は、東遷説を基に作成されたということにしかならないということがはっきりしたな。。。 しかし、既に、倭国と日本国が別の国で、魏志倭人伝の時代に、同時にも存在していたことが、優れた考古学者によって証明された今、畿内説も東遷説も、成立しないな。。。 >>437他
>>597他 無駄なコピペするなよ
>後漢書で倭とは対馬海峡の国で
それは、九州説の勝手読みだよ
後漢書の原文は
「倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國」で、基本的には魏志倭人伝と同じ認識、
というか、魏志倭人伝のコピペだし、さらに魏志倭人伝よりはっきりと
「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」と、相当に南方まで繋がった国だと書いてある
あ、漢文読める?
読み下し付けた方がいいかな?
倭は韓の東南、大海の中にあり、山島に依りて居を爲す。凡そ百餘國。
その地はおおむね會稽・東冶の東に在り、朱崖・儋耳と相い近し。
朱崖・儋耳は、海南島とかだよ もともと、大陸中華の地理観だと、倭国は呉とか越とかの沖合なんだよ
その表現が「計其道里、當在會稽、東冶之東」であり、後漢書の「與朱崖儋耳相近」なんだよ
そもそも短里なんて想定されてないし、想定さえされてないっていうことは、
短里なんてなかったってことなんだけどね
九州説は「短里なんてない」って認めた瞬間に瓦解するから、どんなに論理的に
解説されても頑なに認めないけどねw
逆に言えば、「短里なんてない」って分かってる人には、九州説は噴飯物でしかないw 後漢書
「倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國」
三国志
「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國」
後漢書
「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」
三国志
「計其道里當在會稽東冶之東」「所有無與儋耳朱崖同」
同じ認識、というか、同じ情報だろ? >>437
何度も答えてるだろ
テンプレにも書いてあるし
いつもどおり、都合の悪いことは聞こえないフリか? >>268
>>そもそも纒向は楽浪郡や大陸との交渉の証拠が決定的に欠けている。<
>テンプレに纒向と楽浪郡や大陸との交渉の証拠が書いてあるけれど <
そんな事なら、列島全体が、旧石器や縄文時代から、
南洋系や大陸系からの住民の混合になっていたんだにし、
出雲は新羅や沿海州からの「国引き」をしたり、
銅鐸祭祀や陶ケンや四隅突出墓などのような、大陸文化をもっていたんだから、
その出雲銅鐸祭祀圏の大和が、大陸文化の流入痕跡があったとしても、何らおかしくない。
また、3世紀末には、突然、
吉備や瀬戸内付近を経由した、と思われる「有棺有槨や画文帯」のホケノがあって、
楽浪流民の渡来痕跡も見られる。
だから、要は、(有無の問題ではなく)、九州倭国と比べての「量の比較の問題」である。
なにも反論しないで、理由も言わないで、痕跡だけを捉えて、My結論だけ言い張るの?。
それが大和説w。 >>309
>寺澤薫氏の最近の論調では 纏向と邪馬台国論叢と距離をおき、 ヤマトの古代を語るようになった
すこし、は現実的な研究者になったような気がする <
「南→東」などの史料事実を否定曲解するする嘘つき騙しの大和説学者の論など、
何の価値も関心もないから、読む気もしないし、読まないから、殆ど知らないが、
最近、誰かの紹介では、寺澤は、まだ「邪馬台国女王之所都=大和」説を唱えていたようだから、
やっぱり、「戦前の萬世一系皇国史観」教のキョクウの・・・・大和説狂であったのか、
という事であった。 >>447
>そもそも短里なんて想定されてないし、想定さえされてないっていうことは、
短里で測定された資料を、短里を想定していなかった人が解釈したからそうなったんでしょう?
原資料が短里で測定されたことを否定しないばかりか、むしろ補強していることを理解するべきだ。 >>311
「戦前の萬世一系皇国史観」のキョクウの大和説の学会教育界の・・・・支配者らは、
もうら新たな学習学会教育界のできる年齢じゃないんだろうな。
いくら説明して上げてもダメだろうねえ。
理由を言わずに俺様結論をいくら連呼しても、
九州説への反論にはならないのにね。
しかも今なお、もう既に暴かれたウソを連呼してる 。
読んでる人から明らかにバカに見えてる自分の姿を、少しは憐めよ。 >>312
>テンプレは理由や出典がちゃんと書いてあるので
自分なりに咀嚼しないといけないから
鵜呑みにすることが出来ない <
「戦前の萬世一系皇国史観」という結論先にありきで、
「南→東」などの嘘つき騙しをしているテンプレは、
都合の良い史料事実のつまみ食いばかりであって、
都合の悪い史料事実を隠蔽する詐欺が多く、
全体的な理由や出典が、ちゃんと書いてないので、
自分なりに咀嚼しないといけないから、
鵜呑みにすることが出来ない。 >>315
>スレ主は詐欺をするほど頭は働かない
テンプレは支離滅裂だが、努力はしている<
?。スレ主とテンプレは、どう言う関係なんだい?。 >>317
>>(テンプレ)出典はあるけど嘘と妄想で糊付けしてあるので、全体としては詐欺に近い<
>それがどこがどう詐欺なのか、具体的に指摘してみなって、いろんなところで
何度も何度も教えてやってるのに、いまだにできないねぇw<
テンプレ全体に対する批判や反論は、もう3回もやったし、
個々の論点でのテンプレ紹介も、全て批判反論をして来た。
>それがどこがどう詐欺なのか、具体的に指摘してみなって、いろんなところで
何度も何度も教えてやってるのに、いまだにできないねぇw<
何度も何度も書いて来た。必要なら、また出しな。
大和説の連中ってのは、具体的なことを書くだけの知識も文章力もない、
そもそも知的能力が足りない・・・・だ、ってことでいいかい?。 >>319
>私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」であろうと考えている。<
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 <
誤魔化すな。
「邪馬台国」も「畿内」も、史料事実に存在しないし、
「ヤマト」は、「南≠東」に拠って×だ。 >>320
>スレ主の資質の問題であり、畿内説の問題ではない<
関係がない。
「畿内」なんて存在しないインチキ騙しの造作文言であるし、
大和説自体も「南≠東」などに拠って、×だ。 纒向は古代都市では無い理由
住居跡が見つからない・・・都市は人口が流入する
鉄等の近代的な遺物が無い・・都市は近代国家の象徴
海外との国交の証拠が無い・・海外の物産の遺物が必用 >>322
逃げたね! 無能ww。
大和説が、ことごとく嘘だらけなのは、いくらでも指摘して来ただろ?。
それに、wwは、まともな議論では負けたから、
対話・討論をしないために、
口先でのヘイトスピーチ宣伝で世間の人々を騙そうと心がけてる人だよ?。
それに、「南≠東」などの指摘に反論出来ずに、
何を言われても、自分の思い込みのヘイトスピーチを書くだけの人で、
答えられなくなるとほとぼりが冷めるまで逃げるww。 >>324
>>今のテンプレでは説得力がなく、畿内説は都合の良いただの嘘と方便の塊だ。<
>相変わらず具体性のないふわっとしたことを書いてごまかしてるよな? 何度言えば分かるのかなぁ?
どこが嘘と方便なのか、具体的に指摘してみなってばさ! それができない奴は何を言ってもムダ <
60個以上のテンプレを、全部まともに批判しようとすれば、
当然、仕事も全部中断して、1週間位はかかる。
だから、自信がある投稿部分を切り取って、提示してくれればよいの。 >>328
スレ主の野郎が、まともな討論をしているのを見たことがあるか?。
殆どないな。
やつのスレ立ては、始めから「南→東」などの嘘つき騙しの上に立っているだけだから、
ただの迷惑行為だよ。
こんなスレまで作っ、日本史板に迷惑をかけている
学問板に出入りできるだけの知力のない連中を、
大和説の連中内部で自浄できるならいいけど、
それもできないんだろ?。
本当にバカは国民のためにならずならず、迷惑!。 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
訳
>婢千人を以(もち)い、おのずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入りす。宮室、楼観、城柵が厳設され、常に人有りて兵を持ち守衛す。<
さて、 纏向の遺跡から該当する物は少ないと思わないか?
婢千人 、常有人持兵守衛・・・住居跡?兵にの用いた武具?は見つかっていない
宮室樓觀城柵嚴設・・言うに及ばず この反論に畿内説は答えていない
婢千人 、常有人持兵守衛・・・纏向で住居跡?兵にの用いた武具?は見つかっていない >>460
住居跡がいっぱい・・・都市は人口が流入する
鉄等の近代的な遺物がいっぱい・・都市は近代国家の象徴
海外との国交の証拠がいっぱい・・海外の物産の遺物が必用
丹がいっぱい・・「其山有丹」
やはり、倭国(阿波)一択だね。 @阿波 後漢書で倭とは対馬海峡の国で、その後漢代における倭の内乱を終息させるために共立されたのが卑弥呼であると魏志倭人伝にある。
107年に朝貢した倭王帥升が筑紫にいて、倭王卑弥呼が即位したのが倭国大乱後の190年頃なら、その間は80年余りしかない。
その間に倭は筑紫から大和に東遷したのだろうか? 畿内に倭国の王都である邪馬台国があったというのなら、それは東遷説に他ならない。 >>453
そうやって短里があったと言い張ってるだけで何をしたいんだ?
嘘も100回言い続ければ事実になると思ってるの? >>468
>畿内に倭国の王都である邪馬台国があったというのなら、それは東遷説に他ならない。
邪馬台国の時代には東遷は無い。 @阿波 >>341
>>長々と無意味なテンプレ <
>これを読むだけで九州説があり得ないって素人でも分かってしまうから
九州説にとってとにかく目障りでしょうがないテンプレ<
都合の良いデータだけをつまみ食いして、
都合の悪いデータを否定曲解する嘘つき騙しをして、
それを長々とした大量の口先騙しの文で隠して、
国民や素人を「戦前の萬世一系皇国史観のキョクウの大和説」で騙そうとしている、
国民のためにならないテンプレ。
それを許容している5chも同罪か。 >>469
魏志倭人伝がそのように書かれているのは事実だろ? >>342
>中国製の小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。<
これは、以前にssnに反論済み。列島の小札革綴冑は、
中国の小札革綴冑とはかなり様相が違っていて同一物ではなく、
むしろ半島の小札革綴冑にかなり近い。
という事は、中国からの直接流入物ではなく、
半島のものを見た列島側が、模倣して列島で造った、という事になる。
>十数点の出土のうち九州はわずか1点、残りはすべて畿内。<
当然、列島での使用地は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の戦闘のためであるから、
東征将軍らが働いた瀬戸内以東で必要であった、という事になる。
>当時の日本にこんな精巧な冑は作れない。 おそらくトヨの朝貢時に入手したのだろう。<
出土は皆4世紀の前方後円墳から、であるから、勿論壹與の朝貢とは関係がなく、
「渡平海北九十五國」の戦闘で、半島で知って、九州倭国が模倣した、という事になる。
>この時点で中国と通交してた主体は畿内であり邪馬台国論争は決着する。<
中国の物とはかなり違うものだから、関係がなく、決着もしない。
>この小札革綴冑は山城の椿井大塚山古墳から出る。
>もう一つ面白いところから出る 大阪柏原の玉手山3号墳だ。
この時代に河内の首長が中国製の小札革綴冑というお宝を手に入れていた。<
どちらも3世紀ではなく、4世紀の墓であり、大和内ではなく、
別々の「東征将軍」の墓になるから、大和説の否定根拠になる。 >>472
短里厨はひたすら言い張るのみ
全行程の具体例を出せと要求しても絶対に出さない
もし具体例を出したら短里なんてのが嘘だとバレるから逃げまくる >>474
>もし具体例を出したら短里なんてのが嘘だとバレるから逃げまくる
その前に、投馬国を置ける場所がないんだよ
九州説だとね >>343
>行程には里を使うんだよ 歩は土地の広さを測るのに使う<
ダメだ。
「里」の文字は「田の下の土」だから、
「田畑とそれに付随した集落」を単位長として数える長い距離の単位だ、
という事は疑い得ない。
そして「歩」は、「1里以下の短い距離」に関する距離単位として発生した、
という事も否定し難い。
> 狭いなら尺でいい<
「尺」は、身体の部分長を元にした単位であるから、
原則は、田畑以下の、「家屋長」程度の物に使用する単位だ。
>つまり「1歩≒25.5cm」位の歩」なんて 想定する人の頭がおかしい<
つまり、周髀算経から「1歩≒25.5cm位の歩」の存在が計算確認されるんだから、
「そんなものはなかった」と想定する人の頭がおかしい。 この反論に畿内説は答えていない
纏向に7卑弥呼はいないし邪馬台国の都でもない
婢千人 、常有人持兵守衛・・・纏向で住居跡?兵にの用いた武具?は見つかっていない 帯方郡(ソウル)ー狗邪韓国(プサン)660km/7000里=94m/1里
狗邪韓国(プサン)ー対馬国 100km/1000里=100m/1里
対馬国ー一大国(壱岐) 70km/1000里=70m/1里
一大国(壱岐)ー末廬国(唐津) 50km/1000里=50m/1里
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
奴国(福岡市)ー不弥国(宇美) 10km/100里=100m/1里
統計では、違う立場の数字を一緒にしてはいけないので、海路のデータ3つ(100,70,50)倭国に上陸したあとの陸路のデータ3つ(50,200,100)のn=3の二つのデータセットで、有意水準95%の区間推定を行うと、
海路 平均73m 分散633m
陸路 平均117m 分散5833m で
自由度2のt-値の5%点が4.303なので、
海路は 73.3(10.8〜135.8)ただし( )内は95%信頼区間
陸路は 116.7(-73.1〜306.4)ただし( )内は95%信頼区間
となります。単位はmです。
95%信頼区間に430mが含まれていないから、東夷では魏の里が使われていなかったことは明白。 【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg >>345
史料事実は、
倭國や俀國は、大和日本国とは区別された記載であり、
大和日本国は筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であったのであり、
大和が中国に日本国を名乗ったのは開皇末の遣使の小野妹子の時であったのであり、
唐が白村江で戦った相手國を「倭國」や「倭衆」や「倭賊」と記録しているから、
7世紀まで、倭國が列島の盟主であった、という事は、否定出来ない史料事実。
大和説学者も、
超古代だけでも、誤魔化しが効いていなかったのに、
7世紀までも大和が列島の盟主である、なんて嘘つき騙しを言い出したから、
古田さんらにはっきり批判され、証拠を突き付けられて、
国民が驚いて、ますます、大和説を信用する人が減って行った。 女王国の傍国って、女王国の傍にある国
言い換えれば、女王国の境界の外にある国 女王国は伊都国と奴国を含む博多湾沿岸のこと。
だからそれ以外の国邑は傍国。 女王の境界というのは、魏志倭人伝と同じ資料により書かれたと思われる後漢書に記述があり、狗邪韓国だよ。
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 郡上市、白山中居神社の五段神楽の謂れは興味深い
五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、
天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。
吉田神道は、宝暦騒動の頃に、朝廷を中心とした、天下太平国家安全を祝う祭りの性格を、一地方の単なる春祭りの神楽に移行され、五行舞を五段神楽に改められた。 石徹白、イトシロ
伊都国と何か関係あるのか?偶然かな >>358
>ザラコクさんや 尺と歩がほぼ同じ長さだったら、どっちかいらんやろ?
お前さんの言っていることはそんな、合理性の欠片もない戯言だよ<
何度も書いたように、「尺寸系」の長さ単位と、「里歩系」の距離単位とは、元々対象が別の単位系であったの。
>それから、よく「始皇帝の一歩=六尺の規定による混乱を周制に戻すことで、」とか
言ってるけど、周末の春秋戦国期に、各国が変法、乱法を多数作ったために混乱したのであって
始皇帝の度量衡の統一は混乱の収拾だよ<
「尺寸系」単位系は、殷の頃からあって、ほぼ一定で変わらなかったようだが、
「里歩系」単位系は、周朝では一定であったようだが、周辺の秦など列強や夷蛮では、
それぞれ独自の距離単位を持っていて、混乱していたらしいの。
>そして、それから前漢、後漢の間、1歩=6尺は維持されていて、混乱はない<
いや、淮南子が一寸千里の変法を使用したり、「介山」の記録が短里であるなど、民間的には、混乱があった。
>始皇帝の度量衡統一が紀元前221年
魏の文帝の黃初元年、議改正朔、易服色、殊徽號、「同律度量」、承土行が西暦220年 この間440年経っているし、<
400年以上経った後漢末の周髀算経の再収集注釈でも、
明らかに短里を使った一寸千里が記載されており、世間では混乱していた。
>公孫氏ももともと漢人で遼東太守からのちに左将軍の官位も得ている 公孫氏も漢尺以外の度量衡を使う理由がない<
「尺」は、殆ど変わっていないの。
また公孫氏も 、魏朝下の支配下であったから、当然短里を使ったんであろうし、
楽浪郡も、高句麗や扶余の里数記載から見て、当然短里を使っている。 「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」
http://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
「こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的 基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテー マを追い始めた1976年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。」
寺沢氏は、纒向を邪馬台国のみならずヤマト王権と直結するものだということにすら疑問を呈しているではないか。
つまりは、畿内拙論者が纒向学を理解せずに歪曲して都合のいい部分だけ曲解して畿内説をでっち上げるために利用しているだけだということがわかった。
纒向学というタイトルには、邪馬台国畿内説との決別の思いが込められているのだろう。 >>367
大和説者らのような、
自分等は「南→東」などのような嘘つき騙しをしておいて、
自分等の「戦前の萬世一系皇国史観」思想に合わない者を、
理不尽にヘイトスピーチ攻撃して、
悪質なキョクウのならず者を擁護する人って、
最低。 >>372
>倭国が日本国から生口を輸入していたのだろうね。。。 <
そりゃ、常識的には、生口の獲得は、当然「東征毛人五十五國」だろうねえ。 >>374
>>沙里院から海州は、大体「直線的な普通の道」が書かれており<
>またまた真っ赤なウソ w<
どこで見たのか?は覚えていないが、地図で見た。 >>363
九州説がスレを荒らしてるのは否定しないんだな >>377
>問題にならない。 そんな単位は不要だよ。 重複だ。<
「里歩系」と「尺寸系」とは、計測対象の違う別の単位系であったんだよ。 >>400
どうして大和説の人は、
「南→東」などのような、史料事実の否定曲解のウソばかりつくんだろうね?。 この反論に畿内説は答えていない
婢千人 、常有人持兵守衛・・・纏向で住居跡?兵にの用いた武具?は見つかっていない この反論に畿内説は答えていない
婢千人 、常有人持兵守衛・・・纏向で住居跡?兵にの用いた武具?は見つかっていない 纒向は古代都市では無い理由
住居跡が見つからない・・・都市は人口が流入する
鉄等の近代的な遺物が無い・・都市は近代国家の象徴
海外との国交の証拠が無い・・海外の物産の遺物が必用 >>477
>この反論に畿内説は答えていない
>纏向に7卑弥呼はいないし邪馬台国の都でもない
>婢千人 、常有人持兵守衛・・・纏向で住居跡?兵にの用いた武具?は見つかっていない
それ、反論じゃなくて、根拠なしの呟きだろ?
何を答えて欲しいんだ? >>487
>寺沢氏は、纒向を邪馬台国のみならずヤマト王権と直結するものだということにすら疑問を呈しているではないか。
>つまりは、畿内拙論者が纒向学を理解せずに歪曲して都合のいい部分だけ曲解して畿内説をでっち上げるために利用しているだけだということがわかった。
うそつき!
寺沢先生が述べているのは、畿内第W様式までの大和盆地内部の秩序の延長上にはない、というだけだよ
大和内部の自生的な発展だけでなく、各地の勢力の談合という外的要因をダイナモとして、
纏向の地に、共立倭王の都が置かれた、というのが寺澤先生の所論
そして、邪馬台国が、大和王権になるというか初期大和王権そのものという立場だよ
纏向学が、纏向の地における大和王権の成立過程を研究するというのはそういう意味だ >>406
>>だから、陳寿の「会稽東治」は、
魏末期の「会稽郡の東治地域を呉郡に編入分離した」地域であった事になり、<
>こんな真っ赤なウソついて、どうする気?<
「戦前の 萬世一系皇国史観」や「人種差別殺人テロ戦争」や「南→東」などの、
嘘つき騙しをするアホwwが、
ついうっかり、自説が不利になる事を気付かずに、提示してしまった史料事実は、
逆に、信頼性が高い、という事になるんだよ。
>誰にだって簡単に調べられることだから すぐバレちゃうんだよ
九州説がダメだって宣伝してるのと同じじゃないか <
素人オジンの私は、
「検索」する事も「簡単に調べる」事も殆ど出来ない素人だから、
議論相手の提示した情報を、分析批判して、帰納的推論をしているんだよ。 >>409
「戦前の萬世一系皇国史観」の「南→東」などの嘘つき騙しの、
政治思想狂いの大和説狂のデマ製造機には、
何を言っても無駄なのかな?な。 「(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。」
師の本心がわからぬか。
大和が筑紫による征服の対象であったこと、それが大和における農業共同体の再編と階級支配の成立につながったことを示唆しているだろ?
これにて畿内説は完全に終了だね。
纒向学は、大和が邪馬台国ではなかったことを前提に進んでいくだろう。
それは、卑弥呼より数百年の後に奈良盆地が権力の中枢となる過程を明らかにするだろう。 大和が征服の対象であったと明言してる。
やはり一流の研究者は、畿内説など無理であることをわかっているのだな。 >>412
>間違いなら訂正してやれるが、根も葉もない嘘の場合はしょうがない
証拠を出せと言っても無視するだけたし
嘘だと指摘するくらいしか無い <
wwの、魏朝末の「会稽郡から呉郡への分郡割譲」の話は、
同じ頃の別の分郡記録と並べて、年号まで記載して紹介したものだったから、
漢代の分郡という事には、全くならないものだったんだよ。 >>478
それ他人のカキコミをパクって最後だけ入れ替えてるな
捏造は不可 >>501
>大和が筑紫による征服の対象であったこと、それが大和における農業共同体の再編と階級支配の成立につながったことを示唆しているだろ?
「示唆しているだろ」ってww
便利な言葉だなぁ
端から端まで読んでも、征服対象だなんてどこにも書いてないし、ほのめかしもないぞ
あんまりいい加減な妄想を書くなよ
まあ、九州説のいつものやり口そのものだけどな
九州説は、チェリーピッキングと、矛盾点の妄想による穴埋めでできているww >>413
>>「南→東」などの史料事実を否定曲解する大和説者の論文など、
全く価値がなく、害であるだけであり、<
>あんた、おかしな宗教団体そっくりだよ<
あんた、
中世ヨーロッパのキリスト教学者らや、
戦前の「萬世一系皇国史観」のキョクウ宗教の安部自民教信者や、
創価学会公明信者や、オーム信者や、ナチス信者や、イスラム狂信者らと、
そっくりだよ。 >>499
>「戦前の 萬世一系皇国史観」や「人種差別殺人テロ戦争」や「南→東」などの、
嘘つき騙しをするアホwwが、
>ついうっかり、自説が不利になる事を気付かずに、提示してしまった史料事実は、
逆に、信頼性が高い、という事になるんだよ。
要するにzarakoku本人はなにも調べず
なにも確認せず
おうむ返ししてる時と同じように
他人のカキコの主語や述語を勝手に書き換えて
デマを生産してるわけだな >>505
「(一)大和にとっての外的強力とはいかなる地域のいかなる集団であったか(権力中枢の系譜)、
(二)彼らの征服活動に興ずる必然性とその対象としての大和とりわけ東南部の重要性、
(三) 農業共同体再編の具体化と階級的支配関係の実体については、その後の論攷で私なりの一応の答えは用意することができた。」
大和が征服対象だと書いてあるよ。 >>415の訂正。
なら、「南≠東」などへの批判に対する反論に触れてみれば?。
反論もできずに邪推ばかりしてる大和説者の人は、
九州説に歯が立たないだろうさ。
以上。
今、私のPCは非常に調子が悪く、
途中に文字を挿入したら、前回の挿入文字が一緒に出て来る、
というおかしな状態。 >>420
大和説者は、
「南→ん東」などの嘘つき騙しのデマと、
口先ヘイトスピーチ中傷のほかは、何も出来んのか。
あきれて物が言えん。 ヤマトは2世紀末迄は、大阪側と同じ体制下にあったんじゃないかな
手薄なヤマト側から征伐されたんだろう
ナガスネヒコみたいに最後まで抗った勢力もいただろうし、寝返った勢力もいたのだろう
魏志倭人伝当時ヤマトは対狗奴国の前線
各地から兵を集結させてたんだろうね
多くの兵の労働力の証が、纒向のインフラであり巨大古墳
兵を纏めるのが卑弥呼の役割
鬼道にて衆を惑わす
少し後の時代になるが、軍に随行した巫女の埴輪も見つかっている >>426
>>なぜ、それ(注、テンプレの該当箇所)を転写しないの?。<
>あんたがスクロールするだけで読めるからだな<
スクロール、なんて知らんし、
テンプレは、始めから「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘つき騙しの、
・・・・文だ、と判っているから、
該当箇所を転写でもしてくれなくっちゃ、読まないよ。 >>503
>wwの、魏朝末の「会稽郡から呉郡への分郡割譲」の話は、
>同じ頃の別の分郡記録と並べて、年号まで記載して紹介したものだったから、
そんな話があったって証拠でもあるの ?
ザラコクの捏造か悪質歪曲だろ?
いつもやってるし
>漢代の分郡という事には、全くならないものだったんだよ。
そうであって欲しいから
ザラコクは事実を書き換えて
悪質なデマを創作したんだろ?
でも、ウソなんだよw >>435
大和説は、「南→東」などのような、
嘘ばかりついているな。 >>512
>テンプレは、始めから「南→東」などの史料事実の否定曲解をする嘘つき騙しの、
>・・・・文だ、と判っているから、
>該当箇所を転写でもしてくれなくっちゃ、読まないよ。
なら、転写したって読まないだろ
そんなお前に、手間かけてやる義理はない
第三者が見て、九州説が反論できなくて負けたと判るから、それで十分だ >>446
>後漢書の原文は
「倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國」で、基本的には魏志倭人伝と同じ認識、
というか、魏志倭人伝のコピペだし、さらに魏志倭人伝よりはっきりと
「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」と、相当に南方まで繋がった国だと書いてある
>倭は韓の東南、大海の中にあり、山島に依りて居を爲す。凡そ百餘國。
その地はおおむね會稽・東冶の東に在り、朱崖・儋耳と相い近し。
朱崖・儋耳は、海南島とかだよ<
何度も書いた事だけれど、後漢書の倭の記載の中で、
魏志倭人伝の記載とダブっていて違う内容になる記載部分は、
使節の実地の見聞記録である魏志の方が客観性も信頼性も高く、
5世紀という後代の、「魏志の自己解釈に拠る高慢な書き換え」をした後漢書は、
客観性も信頼性も低い、んだよ。 >>404
>素人オジンにとってはは、そんな「出典確認」なんて、確認方法も知らないし、全く出来ないんだよ。
これじゃ「半分×」とか言ってるのも未確認だろうね
今は素人でも書陵部本《三國志》が全頁見られるんだよ
《三國志》のテキストならWikiのリンクからでも読めるだろ
>GoogleMAPの使用法もよくできず、
丁寧に書いているのに、地図も見ないのならお話にならないね
距離も測れる便利なものを使わないのはもったいない
>これが、はるか後代の学者の単なる「推定」であったんであろうから、
ここは春秋時代初期に楚に吞みこまれた時に宛邑が置かれた
この時からずっと続いているのだから誰も「推定」しないんだよ
必要のない仮定ゆえ結論も間違いだね
>結局は、「宛」地は、新野よりもはるかに襄陽よりの支流の中の山中の水軍陣地であったんだろう、 という事になっていた。
勝手な判断で軍陣地に格下げするなよ
秦が侵攻して楚から奪ってから南陽郡の治所は宛城だよ
曹操が南征で複数回、宛を訪れていることも知らないのだろうね
>「一寸千里や短里を知らない現代学者」の比定の信頼性は、
>「陳寿の記載事実」という同時期記録の信頼性よりも、はるかに落ちるんだよ。
滅びて場所不明になった所ならそうかもな
現代までずっと続いている所では誰も比定することはないんだよ
また必要のない仮定だね 石徹白
何か重要な場所な気がするんだが
なんで太子堂があるんだろう >>447
>もともと、大陸中華の地理観だと、倭国は呉とか越とかの沖合なんだよ<
これは、始めから×ね。
漢書の如淳注でも、魏志でも、魏略でも、
倭は、帯方郡からの、東南大海中だよ。
この男(おそらくww)は、ここでも嘘つき騙しの詐欺師。 >>448
>後漢書 「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」 三国志 「計其道里當在會稽東冶之東」「所有無與儋耳朱崖同」
同じ認識、というか、同じ情報だろ?<
この男(おそらくww)が、また、史料実態の曲解捏造の嘘を書いている。魏志は、
計其道里、當在會稽、東冶之東。
其風俗不淫、男子皆露糸介、以木緜招頭。
其衣横幅、但結束相連、略無縫。
婦人被髮屈糸介、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。
種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、糸兼緜。
其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。
木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。
所有無與tan耳、朱崖同。
倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。・・・
であるから、「所有無」の「所」は、場所ではなく、
「風俗、産物、武器」という「論点という所」であった事になり、
後漢書の「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖、tan耳相近」の、
「其地大較在・・・」という「場所」を示す記載とは、明らかに違う。
また、魏志の「計其道里、當在會稽東地之東」の「東地」を、「東冶」にすり替える、
というインチキ騙しもしている。 >>508
2016年の論文は(再論)なんだよ
>>508の引用部分は「旧稿で最後に掲げた三つの課題」であって、現在の寺澤先生の所論ではない
現在の考えも明記されていて
「私は第一の道を否定する立場である。しかし、征服など物理的強力を
前提とした「東征論」や北部九州や吉備勢力を念頭においた政治権力の
直接的移動を想定した「東遷論」に与するものではない。」
征服や東征・東遷論は採らないと書いてある
「第一の道」というのが、大和単体での自生的王権段階への発展だが、
寺澤先生が否定しているのはこの部分だけ また>>454に書かれた事の訂正ね、
「戦前の萬世一系皇国史観」のキョクウの大和説の、
学会教育界の・・・・支配者らは、
もう新たな学習のできる年齢じゃないんだろうな。
だから、いくら説明して上げてもダメだろうねえ。
大和説者が、理由を言わずに俺様結論をいくら連呼しても、
九州説への反論にはならないのにね。
しかも今なお、もう既に暴かれたウソを連呼してる 。
読んでる人から明らかにバカに見えてる自分の姿を、少しは憐めよ。 >>469
>そうやって短里があったと言い張ってるだけで何をしたいんだ? <
世間の「大和説者に騙されている3割位の国民」の中の、一人でも、
大和説の嘘吐き騙しに気が付いてくれればよいの。
>嘘も100回言い続ければ事実になると思ってるの?<
戦前の「萬世一系皇国史観」教にクルった「人種差別的殺人テロ戦争狂」には、
幾ら説明したって無駄だ、と思っているよ。 >>522
>征服や東征・東遷論は採らないと書いてある
じゃあなんなんだ?
のらりくらりとああ言えばこう言う。
それで説得力があるとでも?
端的に主張しろよ。
まとめる能力がないのは損だぞ。 >>474
>短里厨はひたすら言い張るのみ
全行程の具体例を出せと要求しても絶対に出さない
もし具体例を出したら短里なんてのが嘘だとバレるから逃げまくる <
この大和説男も変な事を書くねえ?。
九州説者は、原則として、
常に具体的な史料事実根拠を書いているし、
殺戮主義的なタカ派の、精神的な異常性が明らかな大和説者に対して、
放置していた事はあっても、
逃げまくった覚えもない。 >>475
>>もし具体例を出したら短里なんてのが嘘だとバレるから逃げまくる<
>その前に、投馬国を置ける場所がないんだよ 九州説だとね<
この大和説者も、変な男のようだね?。
不彌國の南の方にあって、「水行二十日」の距離だから、南九州にある事になる、
って、何度も何度も答えてある。 >>524
九州説は一般人の支持が多いのが自慢だけど
去年あたりから教科書が改訂されてきて、両論併記で中立的な記述から現行では「畿内説が有力」という記述に変わってきてる
だから新しい教科書で教育を受けた人はほぼ100%畿内説支持になる
これからは九州説なんてのは爺さんだけが唱えてる昔の古い説とみなされる >>482
>女王国は伊都国と奴国を含む博多湾沿岸のこと。 だからそれ以外の国邑は傍国。<
「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳」だから、
其餘旁國は、「女王國の以北として記載した国」とは違う国群、という意味。 >>530
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサギジジイ! 石徹白、イトシロ
なんでイトなんだろう
誰か詳しい人いないかな >>528
>だから新しい教科書で教育を受けた人はほぼ100%畿内説支持になる
>これからは九州説なんてのは爺さんだけが唱えてる昔の古い説とみなされる
嘘も千年つき続ければ真実になると?
学問ではなく宗教や政治だね。
詐欺と言ってもいい。 >>522
嘘くさい恣意的な引用をするね。
もともと第一の道論 は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、前期古墳に見る隔絶性 から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転 倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一 の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルー ト開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、 修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続 けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改 善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。 師の趣旨を理解しない不出来な弟子が掲示板で騒いでいるだけじゃないか。 >>525
逆ギレしてもダメ
もう>>508がウソついてたことは
露見したから
w 第二の道とは、(中略)大和弥生社会がこの時期により大き な別の権力主体によって征服、あるいは包括、
刷新され るという苛酷な道であり、そこでは農業共同体構造の再 編は外的強力によって強制的に達成されたことになる。
旧稿において私は、(中略)第二の道を主張した。
しかしこのことが、私があたかも北部九州勢力の東遷論 者であるかに評価されることとなり、
5年後に刊行され た橿原考古学研究所論集では改めて、いわゆる「東遷論」 一般には与するものではないことを明記した。
いじめられて日和ったんだね。かわいそうに。 これらの論の後に、次のようなまとめに入る。
「こうした小共同体の安定した強固にすぎる程の紐帯とそれを安住させ得る自然条件の卓越性、それゆえの保守的 基盤と非闘争性をもつ大和の弥生社会が、
いわゆる「ヤマト王権」と呼ばれる政治的連合体の権力中枢を内的に生成させ、国家形態を「王国」にのし上げ得るだけの母胎にはたしてなりうるのだろうかという疑問をもつにいたった。
そもそも私は、橿原考古学研究所に入所し自らこのテー マを追い始めた1976年頃から、大和弥生社会の自然的、社会的、
そして文化的安定性とそれゆえの緊張関係の欠除、いわば内陸後背地の保守的地域がそうした王権機構を生成するような母胎にはたしてなりえたのか、というこの疑問が終始脳裏を離れることがなかった。」 >>535
はて? >>508が嘘そのものの恣意的なニセ要約をしてたことは
バッチリ証明されてるんだがな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています