邪馬台国畿内説 Part360
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530836032/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 「本人は権力を憚ってハッキリ言わないがワシには分かるんぢゃ〜。彼はこう思っとる。」
はザラコクもよくやるイタコ芸
これって九州説という病気の症状? >>602
死ぬ前にあと千回はウソをつきたい、とか宿願なのかな >>511
>ヤマトは2世紀末迄は、大阪側と同じ体制下にあったんじゃないかな<
米田に拠って否定されている。
>手薄なヤマト側から征伐されたんだろう
ナガスネヒコみたいに最後まで抗った勢力もいただろうし、寝返った勢力もいたのだろう
魏志倭人伝当時ヤマトは対狗奴国の前線<
「南≠東」に拠って、狗奴國は×。
>各地から兵を集結させてたんだろうね<
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」があったの。
>多くの兵の労働力の証が、纒向のインフラであり巨大古墳<
征服した毛人を、支配威圧するため。
>兵を纏めるのが卑弥呼の役割 鬼道にて衆を惑わす<
「南≠東」に拠って×。
>少し後の時代になるが、軍に随行した巫女の埴輪も見つかっている <
東征将軍は、当然祭祀もしながら征服する。 >>513
》>wwの、魏朝末の「会稽郡から呉郡への分郡割譲」の話は、
同じ頃の別の分郡記録と並べて、年号まで記載して紹介したものだったから、<
>そんな話があったって証拠でもあるの ? ザラコクの捏造か悪質歪曲だろ?
いつもやってるし<
そりゃ、このスレを戻してし行って探して行けば、いつかは見つかるよ。
検索でも見つかるかも知れない。
しかし、・・・・を相手にして、探して上げたって、納得する訳もなし。 >>535
>もともと第一の道論 は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先 進性をことさらに高く見積もり、前期古墳に見る隔絶性 から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転 倒の論理によって説明されてきた感が強い。
>以降、第一 の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルー ト開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、 修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続 けてきた。
>しかし証明のための論理や手法に根本的な改 善は見られない。
>私は第一の道を否定する立場である。
畿内説のテンプレを見事に一蹴しているね。 >>608
このように、トンデモ説は決して証拠を出さない 前期古墳以前に、纏向型の段階でもう隔絶性があるからね >>4
> 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
テンプレは適当な寄せ集めだから、寺沢氏が批判する吉備との連合もそのまま含まれてしまっているな。 伊都国には各国の使者が駐在し、下手なことはできなかったんだろう
魏志倭人伝当時、千戸と細々と存続、男王もいた
筑紫は白日別、元々白と日の勢力が手を結んだ国だったのかな
その後どうなったのか?
別れたのか?筑紫の枕詞のしらぬひってどういう意味なんだろう
イトシラって何なんだろう 天の下しろしめす白縫の筑紫の国だろ。
天下布武の王都だよ。 九州に村はあっても周辺国を統治出来るような王権はないよ
くやしいだろうけど今も昔も一緒 邪馬台国=大和国ですよ
九州説は完全に田舎っぺの妄想 >>518
>素人オジンにとってはは、そんな「出典確認」なんて、確認方法も知らないし、全く出来ないんだよ。<
>これじゃ「半分×」とか言ってるのも未確認だろうね<
関心がない。素人オジンは、忙しいし体力もないから、知り得た範囲内で帰納的推論をするのみ。
〉今は素人でも書陵部本《三國志》が全頁見られるんだよ
《三國志》のテキストならWikiのリンクからでも読めるだろ<
問題の原点は、古田さんは、張元済本で、
(「宛」ではな区)「苑」と書いておられる事であり、
書陵部本ではない、という事。
それで、書陵部本ではどっちなの?。
>>GoogleMAPの使用法もよくできず、<
>丁寧に書いているのに、地図も見ないのならお話にならないね
距離も測れる便利なものを使わないのはもったいない<
素人オジンは、以前から言っているように、
目も悪くて、焦点がなかなか合わず、細かい文字や図などは余り見えない、という事。
>>これが、はるか後代の学者の単なる「推定」であったんであろうから、<
>ここは春秋時代初期に楚に吞みこまれた時に宛邑が置かれた
この時からずっと続いているのだから誰も「推定」しないんだよ
必要のない仮定ゆえ結論も間違いだね <
だから、古田さんの張元済本では「苑」であるから、
「宛」であった話をしたって、まだ根拠にならないんだよ。
それから、その書陵部本でもいいから、その箇所の前後の文を書きだしてくれ。 >>621
お前ややこしくするだけでバカなんだから書きこまなくていいよ
きもい 末盧国、
東南陸行五百里で到るのは、佐賀・佐賀・佐賀・SAGA・SAGA・SAGA、
>>598
後漢王朝から面会を蹴られた倭奴国王なんだから、魏王朝からも及びではなかろ
糸島や博多は、遠絶の傍国扱いに決まっとる、な、な、なっ。 寺沢の劣化コピーのスレ主と、古田の劣化コピーのザラコク。
どっちもどっちだ。
ちゃんと自分の頭で理解した範囲で話せよ。
誰それがこう言っていたなんていうのは、根拠にならないんだよ。 縄文時代、圧倒的に人口の多かった関東・東北は、日高見国という太陽信仰の祭祀国を形成、鹿島神宮の祭神タカミムスビからアマテラスヘの一族が率いていた。
大陸からの脅威に対抗するため、関東の鹿島から九州の鹿児島へ、香取(柁取り神宮)と息栖神社(天の鳥船神社)の率いる船団が鹿島立ちして、鹿児島の天降り川に到着した。
そこで準備して、イワレヒコ(神武天皇)が東遷して大和を征服した。
最近の考古学と科学分析の成果は神話の新たな読み解きを導いた。 >>616
>テンプレは適当な寄せ集めだから、寺沢氏が批判する吉備との連合もそのまま含まれてしまっているな。
あんた日本読めないんだね
「北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成」
が寺澤の主張だ 筑紫に王都なんてものは存在してない
ただの経由地、または出先機関
理解できてますか? >>625
テンプレをぜんぜん理解できてないみたいだね つまり、畿内説は完全に破綻してしまったのだね。。。 倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、 >>574
>畿内説は倭人伝の不弥国までの記述はほぼ肯定し
これがまずウソ
畿内説は、行程の国の順序は認め、地名や遺跡の存在から比定地を考える
その結果、
対海国 対馬
一大国 壱岐
末慮国 松浦(唐津平野)
伊都国 糸島(怡土)
奴国 福岡(那珂、那の津)
を通説どおり、比定地と考えるが、ここまででも、
距離と方角はあてにならないと考えている
実際、海峡横断部分も行程によって距離が2倍程度異なるし、
末慮国ー伊都国間と伊都国ー奴国間で、里の換算距離が4倍異なる
方角も、海峡横断部分も南ではなく南東だし
末慮国ー伊都国間で90度方角が狂っている
>それ以降はほぼ否定する説(径百歩は肯定)
それ以降も、北部九州から水行で長距離で、投馬国、邪馬台国の順に進むと
考えているよ
否定はしない
ただ、日数は10日単位に丸めた数字だと考えるし、方角は間違っていると考える
九州説のように、いきなり起点を帯方郡に戻したりはしないww >>629
テンプレは他人に理解させようとすることを放棄しているからね。
洗脳を目的としてはあるけれど、論理的な証明からは程遠い。 >>632
>を通説どおり、比定地と考えるが、ここまででも、
>距離と方角はあてにならないと考えている
あてにならないと言いながら比定する。
都合のいい部分だけ採用するチェリーピッキングの典型。 >>632
>それ以降も、北部九州から水行で長距離で、投馬国、邪馬台国の順に進むと
>考えているよ
根拠のない考え。
またの名を妄想。 >>518
>>(Yahooでの議論では)結局は、「宛」(あるいは「苑」)地は、
新野よりもはるかに襄陽よりの支流の中の山中の水軍陣地であったんだろう、
という事になっていた。<
>勝手な判断で軍陣地に格下げするなよ<
襄陽付近から、川を下って宛に直ぐに行ける、という「苑」の地であった事になったから。
>秦が侵攻して楚から奪ってから南陽郡の治所は宛城だよ
曹操が南征で複数回、宛を訪れていることも知らないのだろうね<
そんな話は、Yahooでの議論でも一杯出ていたよ。
>>「一寸千里や短里を知らない現代学者」の比定の信頼性は、
「陳寿の記載事実」という同時期記録の信頼性よりも、はるかに落ちるんだよ。<
>滅びて場所不明になった所ならそうかもな 現代までずっと続いている所では誰も比定することはないんだよ
また必要のない仮定だね <
要は、陳寿が「苑」と書いたのか?、「宛」と書いたのか?の問題だな。
後代学者なら、「苑」の場所が判らなければ、
「苑→宛」の書き換えをしてしまう事は、いくらでも起こり得る。 >>588
>仮称「ヤマト」国とカタカナ書きするのは、その国が「大和」じゃないからだね。
かな書きする理由は
「ここで「大和」と呼ぶのは、歴史的な大和一国を指すのでも狭義の「ヤマト」を指すのでもない。
「国中くんなか」と呼称される奈良盆地の平野部とこれに接する四周の丘陵縁辺部分を含めた、
地理的な単元を重視した広義の「奈良盆地」を指す。」
「ここで「ヤマト」国とした範囲は、『古事記』にみえる倭の記載範囲に重なり、直木孝次郎氏の
いう「狭義のやまと」にほぼ相当するものといえる。『王権と都市の形成史論』第二部第五章など
でも述べたように、私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」で
あろうと考えている。」
というように、区別するためだよ
ちゃんと典拠が示されているんだから、ちゃんと読んでから書き込みなよ
結局、阿波もトンデモのアワコンなんだよな 縄文時代、圧倒的に人口の多かった関東・東北は、日高見国という太陽信仰の祭祀国を形成、鹿島神宮の祭神タカミムスビからアマテラスヘの一族が率いていた。
大陸からの脅威に対抗するため、関東の鹿島から九州の鹿児島へ、香取(柁取り神宮)と息栖神社(天の鳥船神社)の率いる船団が鹿島立ちして、鹿児島の天降り川に到着した。
そこで準備して、イワレヒコ(神武天皇)が東遷して大和を征服した。
最近の考古学と科学分析の成果は神話の新たな読み解きを導いた。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 縄文時代の圧倒的な人口、タケミカズチの存在もあり
その時代筑紫はただの出先機関の役目なんだよな
天孫族=関東人→九州に防壁のための出先機関→東征→邪馬台国=大和国
で日本の古代の歴史は間違いないよ 九州の帥升は、鉄の武器が無い奈良盆地を攻めて、生口を捕獲して、中国に連れて行った可能性があるな。。。 >>630
畿内説が破綻したことがはっきりした今、纏向遺蹟とは何だったのか研究すれば良いのではないのかな。。。 >>522
>「私は第一の道を否定する立場である。しかし、征服など物理的強力を
前提とした「東征論」や北部九州や吉備勢力を念頭においた政治権力の
直接的移動を想定した「東遷論」に与するものではない。」
征服や東征・東遷論は採らないと書いてある
「第一の道」というのが、大和単体での自生的王権段階への発展だが、
寺澤先生が否定しているのはこの部分だけ <
寺澤は、やっぱり、
大和は「筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国」や、
倭國は「正北抵新羅」だから九州や、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」や、
「南≠東」などの、
史料事実を否定抹殺する・・・・詐欺師であった訳で。
「 関東を代表する古社としては常陸国一宮鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)が常陸国風土記に香島の天の大神として記載されている。
下総国一宮香取神宮(千葉県香取市)とあわせて古代の内海である香取海の入り口の両岸に鎮座しており、海運と軍事の要所であった。
鹿島神宮の祭神はタケミカヅチ、香取神宮の祭神はフツヌシであり、いずれも日本書紀において出雲の国譲りに登場する神である。
関東の支配権が出雲から移譲されたことを反映しているのかもしれない。 古代の倭国はどこまで勢力を広げていたのだろうか。
出雲の国譲りのとき、大国主の息子のタケミナカタはアマテラスの送ったタケミカヅチと戦い、諏訪(長野県)まで敗走し、諏訪から出ないことを条件に助命を願ったとされる。
現在の信濃国一宮諏訪大社(上社本宮は長野県諏訪市)がタケミナカタの宮であると考えられるため、この時代に信濃地方までは出雲の勢力範囲にあったのだろう。 >>616
>寺沢氏が批判する吉備との連合もそのまま含まれてしまっているな。
ちゃんと読もうな
「前方後円墳は王権の主要勢力であった旧イト倭国勢力、
吉備などの瀬戸内海沿岸勢力、
イヅモなどの日本海沿岸勢力の
前段階の王墓の祭祀的(本質的)、
階級構造的、
形態・技術的諸要素を基軸として、
列島各地の祭祀の統合・融合によって設計され、計画的に築造されたものであって」
「吉備などの瀬戸内海沿岸勢力」も連合に入っているよ
また、卑弥呼の共立を
「私は北部九州(2世紀までの倭国中枢であった、私の言う「イト倭国」勢力)や
2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を
維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と
考えている。」
と捉えていらっしゃる
「吉備を中心とした瀬戸内海勢力」が新生倭国をもたらす維新主要勢力という捉え方
テンプレとは力点の置き方が異なるだけだよ >>625
>どっちもどっちだ。
でた!ww
「どっちもどっち」論w
これは、論争に負けたという自覚のある人間が、
負けじゃないもんね、というために編み出した技
用例
9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
これが九州説。 住居跡が無いのは致命傷
寺澤もわかって無い
寺澤は、早稲田志望だったが学力不足で同志社へ
その後地方公務員((多分に関西の銭儲け研究者のコネ)
纒向学研究センターなんて必要も無いもの作って、センター長へ 税金泥棒
纒向の研究は橿原考古学研究所で充分だった
そんな私利私欲の奴に従う馬鹿も馬鹿 重要なんで理解できるようにもう一度書いておく
天孫族=関東人(縄文)→九州に防壁のための出先機関{弥生)→東征→邪馬台国=大和国
である。 >>650
なんで致命傷なの?
理由もなく言い張っても、なあw >>634
>あてにならないと言いながら比定する。
>都合のいい部分だけ採用するチェリーピッキングの典型。
ちゃんと引用しような
「(倭人伝の)行程の国の順序は認め、地名や遺跡の存在から比定地を考える」
「距離と方角はあてにならないと考えている」
あてにならない部分は、まったく採らないからチェリーピッキングには当たらない
比定地は、きちんと検証可能な情報をもとに行う
それだけのこと
>>634の引用の仕方こそ、
「印象操作のためのチェリーピッキングの見本」みたいなものだねw >>650 >>653
お前バカなんだからもう書きこむなよ
ただのあーいえばじょうゆうじゃんお前w おらが村一番根性の九州説と個人憎しの批判バカは頭悪い 重要なんで理解できるようにもう一度書いておく
天孫族=関東人(縄文)→九州に防壁のための出先機関{弥生)→東征→邪馬台国=大和国
である。 >>635
>根拠のない考え。
「根拠のない」とする根拠がない
この人は、自分で反論が書けないと「根拠がない」といって逃げるのが通例
根拠 つ「大陸史書での地理・旅程記事は、現在地を起点として
方角、距離、到着地の順で記すのが基本
次の行程は、先の到着地を現在地(起点)として記される」
これが基本なんだから、この基本から外れるときには注記が必要
旅程の途中でいきなり起点が帯方郡に戻されるなら必ず注記が入る
入らない時点で、水行の起点を帯方郡に求めるのは無理読み
>またの名を妄想。
九州説の旅程の読み方が、なw
自己紹介乙 >>648
>テンプレとは力点の置き方が異なるだけだよ
重要の要素(九州北部)を抜いた説明など、詐欺の常套手段だね。 >>655
アンカーを間違っているのか、読み取りのできない人なのかどっちだ?
>>650と>>653は別人だろ? 「北部九州(2世紀までの倭国中枢であった、私の言う「イト倭国」勢力)」が倭国の中心だったのに、その2世紀末に纒向で卑弥呼が即位するのか?
ならば畿内説は東遷説でいいよな? >>637
> 「ここで「ヤマト」国とした範囲は、『古事記』にみえる倭の記載範囲に重なり、直木孝次郎氏の
いう「狭義のやまと」にほぼ相当するものといえる。『王権と都市の形成史論』第二部第五章など
でも述べたように、私はこの仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国」で
あろうと考えている。」
この仮称「ヤマト」国こそが『魏志』倭人伝に記された「邪馬台国=倭国(阿波)」で あろうと考えている。」
ってことだよ。
妄想だけが許される時代はもうすでに終わってるんだよ。 @阿波 >>645
関東の古社はいずれも「忌部の祖神」を祀っている。 推して知るべし。 @阿波 >>663
阿波はヤマトと呼ばれていない
以上
阿波はアワコン >>660
「重要の要素(九州北部)」という根拠は? >>662
なんで?
イト倭国が終了しただろ?
東遷ムリだよな >>647
>現在の信濃国一宮諏訪大社(上社本宮は長野県諏訪市)がタケミナカタの宮であると考えられるため、この時代に信濃地方までは出雲の勢力範囲にあったのだろう。
長野県諏訪市にある「諏訪大社」は光仁帝の宝亀10年(779年)に阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社」 「御祭神 建御名方命」
から移遷された、と社伝にあるそうだ。その頃、現在の長野県にある諏訪大社は「南方刀美(みなとみ)神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられている。
つまり大国主命の息子神である建御名方神はここ徳島県石井町諏訪に祀られ、ここから各地に広がっていった、ということである。
それにしても観光地として多くの参拝者が訪れる諏訪大社のご祭神が阿波から移遷された神様だと知っているひとはどれだけいるだろうか。 @阿波 >>664
記紀以前縄文に忌部はまだ存在してないよこの田舎っぺ >>648
>「吉備を中心とした瀬戸内海勢力」が新生倭国をもたらす維新主要勢力という捉え方
テンプレとは力点の置き方が異なるだけだよ
言わんとしていることは、各地の忌部一族のことを言ってるんだよ。 @阿波 はっきりいっとく
阿波は昔も今もただの田舎 @阿波と書きこんでるバカはただの田舎っぺw >>643
そうだね。。。
僕たちは、もう、邪馬台国の議論からは卒業して、畿内説が破綻したことを踏まえた上で、纏向遺蹟とは何だったのかという一段、高いレベルの研究を始めたな。。。 >>665
>阿波はヤマトと呼ばれていない
カタカナ表記など笑止千万。
阿波は倭国。 阿波は「倭大国玉・倭大國敷」の国 @阿波 キナイコシが発表した200年の時間差とは、どういうことだろうか。。。 >>674
中国の正式な歴史書に書かれた倭人と中国人の交流の間隔時間のことではないのかな。。。 >>675
キナイコシはその期間の間にある帥升のことを知らなかったのではないのかな。。。 九州邪馬台国説と阿波大和説は本物のバカだということがよくわかる
もう少し冷静に正確に分析しなよ >>677
中国の正式な歴史書に書かれた、九州を都にしていた倭王だな。。。 九州の帥升は、鉄の武器が無い奈良盆地を攻めて、生口を捕獲して、中国に連れて行った可能性があるな。。。 狂人のキナイコシはテンプレートが論破され時は、悪口しか言わなくなるな。。。 >>669
「ここでいう忌部氏とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部氏とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。」
『新撰姓氏録』で細分される前は、すべて倭人(広義の忌部氏)。
君も忌部の子孫だよ。 @阿波 >>681
反論することを諦めてしまったのではないのかな。。。 九州を都にしていた倭王帥升と倭王卑弥呼の都が違うなら、遷都したということになるな。。。 >>686
確かに。。。キナイコシは、倭王帥升の都が畿内にあったと主張することを、最初から諦めているからな。。。 なるほど、、、畿内説が生き残るには、九州から、東の畿内に遷都したということにしなければいけないのだな。。。 倭王帥升の都は九州にあったということがはっきりした今、つまり、倭王卑弥呼の都が畿内にあったという主張をする、邪馬台国畿内説は、東遷説を基に作成されたということにしかならないということがはっきりしたな。。。 そもそも九州に列島を収めてたあとなんて
考古学的にも、文献的にも、歴史的にもひとつもないんだよ
そこらへん理解した方がいい。
倭国=大倭国=大和です。100パーセント完全に当時の奈良だよ しかし、既に、倭国と日本国が別の国で、魏志倭人伝の時代に、同時にも存在していたことが、優れた考古学者によって証明された今、畿内説も東遷説も、成立しないな。。。 畿内説を論破され、狂ってしまったキナイコシが意味の無いことを呟き始めたな。。。 >>693
テンプレートを論破され、追い詰められたからではないのかな。。。 九州マンセ―してるのほとんど今の九州人の田舎っぺだろ ここでも >>667
伊都にあった倭国が東遷したんだろ?
違う国なら名前も違うはず。
倭国女王卑弥呼の王都が纒向なら、筑紫から大和に遷都したことになる。 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif だから筑紫はただの大陸に近かっただけの出島だって
この田舎っぺども こういうこと
「そして倭国王たるイト国王は2世紀の末、・・・・平原遺跡一号墳丘墓をもって終わりを告げるのである」寺澤 重要なんで理解できるようにもう一度書いておく
天孫族=関東人(縄文)→九州に防壁のための出先機関{弥生)→東征→邪馬台国=大和国
である。 >>698
当時の奈良盆地も相当な「田舎っぺ」だよ。 @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています