邪馬台国畿内説 Part361
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1531131991/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>684
>九州の倭はないよ。。。ただの出島<
大和に倭国はないよ。
ただの「倭國から別れた別種の旧小国」。 三輪 能
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。
三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。
あま市など東海地方には石作神社が散見される
石作明神、石作連、火明命。
どういうことだろう。
近隣に美和の地名もある。
三輪、纒向と何か関係あるのか? なんか他のスレのレスに反論してるっぽいな
九州説マジ基地。キモすぎ。 >>688
「南≠東」に反論を諦めたんなら、大和説は終了だな。 >>691
そもそも大和に「列島を治めてたあと」なんて、
考古学的にも、文献的にも、歴史的にもひとつもないんだよ。
そこらへん理解した方がいい。
>倭国=大倭国=大和です。100パーセント完全に当時の奈良だよ<
大倭は、倭国の地方の市を監督する役人であり、
「南≠東」に拠って、倭国は100%完全に大和ではありません。 >>123
よほど悔しかったレスにそのまま言葉変えてるっぽい >>695
大和マンセ―?してるの?、
ほとんど今の大和人の田舎っぺだろ?、
ここでも?。 やっぱりシラ、白が重要なキーワードな気がする
しら、おしらさま、白日、天白、しらぬひ、 石徹白イトシロ
おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布
白澤、人面の牛、牛妻
白も牛と繋がってくる
新羅も本来はシラ
白根か、島根、鳥取→新羅、神奈川、埼玉 >>696
>伊都にあった倭国が東遷したんだろ?
違う国なら名前も違うはず。
倭国女王卑弥呼の王都が纒向なら、筑紫から大和に遷都したことになる。<
「南≠東」だから、×。 >>698
だから大和は、ただの
「倭国の別種の旧小国で、倭国の地方の市を監督する大倭職の国」
だって。
この田舎っぺども 。 >>699
>こういうこと 「そして倭国王たるイト国王は2世紀の末、・・・・平原遺跡一号墳丘墓をもって終わりを告げるのである」寺澤<
そうか。そういう事だったのか。
寺澤は、
「南→東」などの嘘つき騙しだけではなく、
弥生銀座の繁栄や「大道」の存在や、その後の伊都国の阿毎氏の発展を、
完全に隠蔽する・・・・詐欺師であったのか。 >>725
こ
の
よ
う
に
大和説はひたすら
ウ
ソ
を
つ
く 倭国=大倭国=大和です。100パーセント完全に当時の奈良だよ
これが悔しかったんだねwwwww なんとなくわかったwwwww >>740
バレないと思ってるんだろうが、
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「萬世一系皇国史観大和説」を隠蔽するなんてウソを、
平気でつき続ける大和説者って、
どう見ても、脳の異常だな。 >>741
大和説者って、
「南→東」や、
「戦前の萬世一系皇国史観の殺人テロ戦争」礼賛なんて、
バカすぎ。 バカにバカと伝えたら受け入れられなくて壊れちゃったってやつじゃないかな?
かわいそう九州説。思う存分レスしたら明日病院行けよ。 >>742
>日本成立させたんだkら小国じゃないでしょ...。<
大和が日本国を名乗ったには、ようやく隋の開皇末の事なの。
それまでは、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったの。
>小国は九州でしょ。。倭国=大和国だよ。本当に馬鹿なのか<
「南≠東」だから、「倭國≠大和」なんだよ。
本当に・・・・なのか?。 杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。 あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた出雲の王族が追放されたから。
出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東!から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。 サルタヒコ一族は、オオナムチに破れるんだな。 そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で出ている。
猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。サルタヒコが消えたのはイスズ川の川上。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。 凄い偶然。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。
サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。
月夜見にして大国主、狗奴国の卑弥弓呼。日見彦。
国津神はクナの神々のことかな。
スクナヒコナ、素クナ彦名も関係あるのかな、倭人の王かもね。
伊勢湾は倭国大乱で犠牲になった神々の鎮魂の場所 >>743
>日本成立させたんだから小国じゃないでしょ...。
小国は九州でしょ。。一度も九州が過去も昔も日本中に勢力が及んだことないじゃん<
倭国は「正北抵新羅」だから九州であり。
その倭國が「自昔・・・東征毛人五十五國」をしたの。
>倭国=大和国だよ。本当に馬鹿なのか<
「南≠東」に拠って、倭国⊃大和国だよ。
本当に・・・・馬鹿なのかい?。 ヤマタノオロチ族と伊勢神宮外宮の風宮の神との関係が気になるな。
級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。
丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。
伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。
畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた勢力に恩義を感じていたのかもな。
伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。 >>744
大和説者は、大和に「萬世一系」の、日本を収めた勢力があったと思い込みたいんだね。
残念だけど、大和が白村江で負けた九州倭国を併合吸収継承したのは、
701年なんだよ。
地理的にもただの「倭国の地方の市を監督する大倭國の旧小国」であった場所だよ。 >>745
>東西を征服してるんだから、倭王武がいたのは中央だ
西のはての九州じゃないよ<
唐会要は、(日本国伝ではなく)倭国伝で、
倭国の位置を「正北抵新羅」と説明していたから、
倭国の位置が九州であり、
倭王武の上表文では、九州では「自昔」から既に「服属していた」という説明であったから、
倭王武は九州にいた事になるの。 バカ九州説の基地を見守るスレに変わりました
悔しかったレスに思う存分コメントさせてあげましょう アマタラシ系はどうなったんだろう
少なくとも聖徳太子の時代迄は存在したはずだが
息長タラシ系はどうなったんだろう
最後は大津皇子かな
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも >>747
頭では分かっているが,
大和人は大和に、
過去に日本を収めた力があったと思い込みたいのです。
白村江までは、一度もないけどw。 龍田神社
天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。
祭神
天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。
天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな
そして鎮魂したと >>749
単純に大和は、地理的に大陸からの文化の受け入れるのには遠すぎて、
九州から見れば毛人勢力からの防波堤だっただけ。
真実はわかってるが、大和説唱えるのが唯一のみじめなプライドであり、
戦前の「萬世一系の殺人テロ戦争の皇国史観」、
という結論先にありきの・・・・アホなのです。
わかってください。彼らはバカな田舎っぺです。 ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり
大空をわたる月を、鳥でも刺すように網でからめとり、大君はその月を蓋になさっている。
天武朝では、月は嫌われていたのかな
桜井市のホームページにも載っている
桜井市にこの歌の碑もあるな
天武はよっぽど月や鳥が嫌いだったんだろうな
朱鳥なんて血塗れの鳥を連想するし >>750
>大和朝廷成立したの畿内だし、今の日本に連綿と続いてる根拠と証拠しかないけどねw<
大和朝廷も畿内もも、白村江の前まではほぼなかったし、
それまでは、大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であったのです。 真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨
白を纏った雲、香、
シラの姫を娶った香具山の勢力、蜘蛛、火明命を連想させるな
天津、霧、鴨
天津、アマタラシ、
霧は切り、
そんなことないと思うが、アマタラシ系を切ったのは鴨? 郡上市、白山中居神社の五段神楽の謂れは興味深い
五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、
天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。
吉田神道は、宝暦騒動の頃に、朝廷を中心とした、天下太平国家安全を祝う祭りの性格を、一地方の単なる春祭りの神楽に移行され、五行舞を五段神楽に改められた。 >>751
自分が中立なら、はっきり言いますよ。
倭国が大和なわけないだろ笑。
倭国はそのまま九州倭国だわ。 >>151
元レスのがあってないか?w そんなに悔しかったのか丸パクリコメントwwww 石徹白、イトシロがかなり重要な場所と認識されていたのが分かる
理由は何なんだろう >>155
かわいそうに....
壊れたんだねえ... ご愁傷様.... >>155
他人に迷惑かける前に明日病院行ってきなよ
なんかあわれで涙出る >>753
>そう思い込みたいのはわかるが
倭国はそのまま和の国、大和だよ笑<
これ×ね。
「大和」という文言は、倭國の地方の市を監督する「大倭」國から来たようなの。
つまりm「大倭→大和」という漢字の造作。
その原点は、古事記の欠史八代の内の4人に「大倭」の役職名が冠せられていた事。
大和は、「大倭」職の後裔である、という事を誇ったの。 >>757
>大和朝廷は卑弥呼より後の時代の話ですよ。<
大和が朝廷になったのは、大宝元年の。701年の事。 こわいって どっか行けよキチ九州説
オバケみたいだなお前wwww そろそろタイトルを邪馬台国ヤマト説に変えたらいいんじゃないかな
邪馬台国はヤマト国
生駒葛城山系の東側
他の畿内、なにわや河内、和泉は邪馬台国ではない。
ヤマトは山外、山の向こう側の土地という意味
カワチ河内やヤマシロ山背と同じく、地形に由来する地名 >>758
>中央政権が大和で成立して日本書紀で日本と名乗っただけで
もとは一緒だよ<
大和は、欠史八代の中の4人が、
倭國の地方の市を監督する「大倭」という職名が冠せられた事から、始まったの。
大和の「日本國」名を称した始まりは、釈日本紀引用の延喜講記に、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」で、
小野妹子が隋文帝に日本國を名乗って、
文帝に承知して貰えなかった事が始まりで、
結局唐代の武徳中に入ってから、裴世清が大和に来て、その報告で、大和は唐の晴れて「日本国」名を承認して貰ったの。
(倭國の方が、日本国を名乗ったのは、晋の惠帝への遣使の時と、唐の則天に改めて名乗った事の、2回あった事になるの。 >>761
>中立の自分が言いますよ
九州に近辺の小国を収めてた大国にあたる王権はない笑
はじっこじゃん <
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」だから、
西の九州が倭國の中心部であったの。
大和は、「南≠東」などで、×なの。 >>172
日本国は承認とかじゃなくて大和国自らが名乗って成立したんだよ
日本書紀ってタイトルからだけでもわからないか?w >>176
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」だから、
西の九州が倭國の中心部であったの。
大和は、「南≠東」などで、×なの。
西の九州は中心でもないし倭国でもないよw 倭国はそのまま大倭国w >>178
語源はなんぞや?(二本手に入る今日の喜び >>762
>東京の自分から見ると
なんか九州説ばかすぎて埒あかなそうw <
播磨の自分の目から見ると、安部文部省や右翼マスコミや学会教育界の「萬世一系皇国史観」に騙されて、
オームと同じように、
直ぐに殺し合いや殺人テロ戦争でも起こしそうな、
バカすぎに見えるみたい。
なんか大和人や東京人な、ばかすぎて埒あかなそうw 九州説のヤバさあぶりだし成功じゃない?畿内説の勝ちだわ。 にほ鳥
群れで水面を泳ぎ回るカモ類の隙間に、時々現れてはさっと消えてしまう、小さなカイツブリの姿も見られます。
いつの間にか現れ、気がつくと消えて、別のところにまた現れ、まるで忍者のように群れの隙間に出没します。潜ってから数十秒以上は出てきませんし、思わぬところに浮いてきてはすぐ潜ってしまいますから、じっくりと観察するのはとても大変です。
「にほとり(におとり)」は、カイツブリの古名です。
語源はよく判っていませんが、平安時代には「にほ(にお)」と呼ばれることもありました。
「かいつぶり」と呼ばれ始めたのは室町時代に入ってからで、江戸時代になると「かいつぶり」が主に用いられるようになりました。 舒明天皇、息長足日広額天皇
子、天智天皇
にほ鳥
日本と関係あるのかは知らない 結論 妄想強めの九州説はキチだから関わるな。
考古学的、歴史的事実の前にはなすすべ無い。
時間が少しずつ証明していくよ。倭国は畿内。 鴨類の群れの中に現れては消えるにほ鳥
日本はかつて小国だったが倭国を飲み込んだ 和泉と越前福井〜伊吹山
にほ鳥と息長川
宮中の守り神、井戸の神繋がりか 大津皇子可哀想だな。
辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。
太陽は烏。
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。 日本史上、筑紫に都を置く倭国という国が存在し、中国と国交を持っていた。
倭国女王である卑弥呼も魏から倭国王として冊封されていた。
倭国王家は、後に畿内の天皇家において皇位の象徴とされる三種の神器を用いており、卑弥呼の墓である平原遺跡には八咫の鏡が副葬されていた。 官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:p帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟) もう一度行っておく、
本スレ畿内説では王統に関して一切、語られていない。歴史の主人公の人物がいない。
考古学板にいい加減引っ込むべき板違い。 この畿内説は木っ端役人の寺澤を世に出すスレか
彼奴は学会では下っ端
桜井市で飯を食ってるだけで満足してろ 税金はもったいないがな >>89
>wwの脳が間違っていると考える。
根拠は?ww >>202
>平原遺跡には八咫の鏡が副葬されていた。
平原遺跡と平原1号墓を区別して論じろと何度言えば?
平原1号墓出土鏡が八咫鏡ではないことは何度も論証済み 平原5号墓の大柱も知らないやつが平原遺跡がーとか言ってるのを見ると
哀れでならない >>204
あったか無かったかも判らない王統とか
なぜ語る必要があるんだ?
変な政治思想とかに
カブれてるのか? >>621(前スレ)
>関心がない。素人オジンは、忙しいし体力もないから、知り得た範囲内で帰納的推論をするのみ。
少量の情報からでは間違いに行きつくだけ。
>問題の原点は、古田さんは、張元済本で、 (「宛」ではな区)「苑」と書いておられる事であり、
張元済は最も古い刊本を復元したのだから、誤字は温存されたままなんだよ。「對海國」がいい例だね。
次のように記事の内容から「苑」は誤字と判断出来る。
『(王昶は)「今は(治所である)宛に駐屯し、襄陽から三百余里もあり、諸軍は散屯し、船は宣池に在り、危急があっても相い赴くのに不足である」と上表し治所を新野に徙(うつ)して、(荊・豫)二州の水軍を習練し、農事の開墾と殖産を広め、倉の穀類は盈積した。 』
宛は後漢代からの中国最大級の都市となっており、魏はここに拠点を置いていた。
襄陽は呉と対峙する最前線だが、宛から距離があり不便であるため、治所を宛から新野に移したという話。「苑」という謎の地名では話が通じない。
>>636 (前スレ)
>襄陽付近から、川を下って宛に直ぐに行ける、という「苑」の地であった事になったから。
ならんだろ。淯水は南に流れている。つまり宛の方が上流に位置する。
>要は、陳寿が「苑」と書いたのか?、「宛」と書いたのか?の問題だな。 後代学者なら、「苑」の場所が判らなければ、 「苑→宛」の書き換えをしてしまう事は、いくらでも起こり得る。
それまであったのに場所が判らなくなってしまったのなら可能性を探る必要があるだろう。しかし「苑」は魏晋以前にも登場せず以降にも登場しない。
「宛」という最有力候補がある以上、後世の誤字と判断するのが妥当。記事の内容から考えて、陳寿は「苑」と書いていない。 前スレ
>>131 ◆UiepmfCeDJqf 2018/07/09(月) 19:35:09.28>>229
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
⇓
現スレ
>>131 ◆wDufv9If9vkc 2018/07/12(木) 22:10:05.76
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf スレ主 あなたは研究者でも、
テンプレは論文でも無い話題提供なのだから
指摘を受けても恥ずかしくないから
堂々と訂正したと書きこめばよいのです 御免 訂正と書いてあった
しかし、Part361 まできて引用を間違いに気づくの遅すぎ 深くお詫び申し上げます
テンプレ最後まで読むべきでした 桃核の炭素年代法であるが
一つや二つ異常値が見つかったぐらいで・・・
その一つや二つが下記2,000個の一つであれば
問題があるのでは?
>遺跡の3世紀に掘られた穴「土坑」から桃のタネ約2,000個
2,000個 全てを調査したのでしょうか?
纏向は古墳時代まで続く
斎場と思いますが・・・・・・・・・・・・ 全国各地の土器編年はすべて2~3世紀の物と確定しているのでしょうか?
2~3世紀と見られる土壌からすべて発掘されたのでしょうか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています