邪馬台国畿内説 Part361
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1531131991/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>656
「なぜなら、大和説の言うことはなんでも有効でないに決まってるからじゃー」ザラコク心の声 >>341
だって大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙しのバカだから仕方ないでしょ。
それにバカだから今どき大和説やってるんだし。 >>345
bakemonoは、お前ら大和説者のツラと脳内じゃね?、 >>346
>会稽東治の東に佐田岬があるから東は間違っていないって
お古田説は北部九州説を捨てたの? <
古田さんの「女王國」の範囲には、南九州の投馬国も入っているの。 >>658
>魏末期に会稽郡から上海付近が分郡されて、呉郡に編入された、
そんなデマ、流せば流すほど
九州説がウソつきという評判が広がり
どんどん世間で馬鹿にされるようになるのに >>347
大和説は、ひたすらバカにされすぎwww。
なんでバカと言われてるかすらわかってなさそうwwww。 >>663
その、投馬国までの距離が
どうして判ったんだ?
デタラメは通用しないよ >>665
九州説が反論に詰まったからでしょ
ww >>348
こんなスレでまで、赤の他人にひたすらバカと言われまくるとか 。
大和説者は、普段の私生活も相当きついだろうな。
顔面もヤバそうで、かわいそなり。 >>349
大和説者は、
実際バカだから仕方ないんだが。 >>656
つまりザラコクさんは、こう言いたいんですね?
大和説の「南→東」に関する有効な説明は、全くなかった。
全くなかった、なかった、なかった
話は聞いてなかったけど
とにかく全くなかった、と >>608
>ということで、苑は、(襄陽から宛への川の中間部付近の)新野と襄陽との間の宣池付近にあった事になり、
根拠なく宣池付近にしないでね。
>襄陽から宛への距離の4分の1位の所であった事になり、
「4分の1位」という根拠は全く出てないね。本当は6分の1といいたいんでしょ。
>それと「居住外縁部距離記載」という原則も適用すれば、
勝手な原則だね。襄陽は城壁で囲われているから外縁は明瞭だよ。
>この「三百余里」は、短里で書かれていた、という事になる。
結論が飛躍しているね。
結局、こういうことだね。
「短里のために苑を襄陽近くに設定したい→現実と乖離した位置関係を言い張る→だから短里」
ずいぶんと明白な循環論だね。
位置関係が現実と乖離している時点で破綻しているけどね。 これに1票入れとく
>>512日本@名無史さん2018/07/13(金) 22:17:39.04
思い付きだからバカにしないでね
邪馬台国は京都にあったのじゃないかな・・大和川水系でなく淀川水系
平安京があるから発掘できない 奥深く眠ってるお宝いっぱいあるかも
邪馬台国の王都は京都中心部
其の後 飛鳥 藤原 平城 温故知新で京都でまーーるく収まる長い平安時代 >>356
>反論できないから、 「南≠東」だから× とかの 一言レスしかできないんだよ
本当に無駄な努力ww <
大和説の無駄な努力も、始めから、
「南→東」の嘘つき騙しから成り立っていたからね。 邪馬台国が桜井だとして狗奴国はどこにあったの
新宮あたり? >>362
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「戦前の萬世一系皇国史観」の「殺人テロの侵略戦争」狂のような、
こういう生きてる価値もないような人間にはなりたくないな。 >>366
>↑ 生きてる価値もないような人間<
この男も、
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「戦前の萬世一系皇国史観」の「殺人テロの侵略戦争」狂のような、
生きてる価値もないような人間。 これには100票入れとく
>>615日本@名無史さん2018/07/14(土) 08:09:16.38
>>227
>纏向遺跡の10%未満しか調査されていない時点で
邪馬台国は畿内だ 纏向は女王の居た場所だとか宣う研究者は
研究に向いていない 功を焦りすぎ <
賛成です。 >>668
まわりにおだてている腰巾着がいるから、裸の王様でいられる。 >>610
>宣池付近であった、という事が判る。
「船在宣池,有急不足相赴」とあるんだ
宛と宣池は近くないんだよ >>367
ネットの世界を見てみると、現実の世界ではあまり遭遇しないような
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「戦前の萬世一系皇国史観」の「殺人テロの侵略戦争」狂の大和説の萬世一系皇国史観サディストが
いっぱいいることに驚くだろう。
そう、ここでいうサディストとはネットで誹謗中傷を繰り返し、
他人を攻撃し悪意をまき散らす「荒らし」のことを指す。
海外ではトロール(troll)と呼ばれている。
顔や正体がバレることがないネットでは、
現実の世界で抑制しているサイコ的性質を隠す必要もなくなるため、
彼ら大和説者らはやりたい放題なのだ。 >>684
ヤフー出禁になったザラコクの自己紹介乙 >>368
その「南→東」などの嘘つき騙しや、
「戦前の萬世一系皇国史観」の「殺人テロの侵略戦争」狂の大和説の結果がこれ。
他人を操ったりダマそうとする性向の人。。
自己中心的で自分が大好きな人。
他人への共感や後悔の感情が少ないまたは無い人 。
他人を苦しめるのが楽しくてしょうがない人らしい・・・。
えこれまじ?・・・すげぇ怖いんですけど・・・・。 >>370
その「南→東」などの嘘つき騙しや、
「戦前の萬世一系皇国史観」の「殺人テロの侵略戦争」狂の大和説のこうしたことは、
直感的にもわかりますが。
興味深いのは
荒らしを自覚している人と上述の精神的特徴とに正の相関関係があるということです。
さらにそうした人たちはオンライン上での会話を、
現実世界では表に出せない感情のはけ口にしています。 以下当然だな
大和説の「南→東」に関する有効な説明は、全くなかった。
⇓
大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙し >>670
あんたが解説したらザラコクさんも納得するのでは
南→東の解説ヨロシク >>689
証拠の出せないことばかり言い張るのが九州説 >>690
なにを言っても、どうせ
「南≠東」だから× とかの 一言レスだけさ >>690
倭人の国は会稽東治之東ということになってる
でも実際の日本列島はずっと北
だから南水行の南は東の間違い >>373
>以下の分参考にして
医療保護入院とは、精神障害の人を対象とした入院の形態の一つです。・・・<
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「戦前の萬世一系皇国史観」の「殺人テロの侵略戦争」狂の大和説者が、
医療保護入院が必要です。 >>610
>何をアホ言ってんだい。 位置関係は、その川の上流から下流に向かって、襄陽→新野→宛の順にあり、
地図を見ないで、他人をアホ呼ばわりしないでくれますかね。
現実と乖離したことを言い張らないで、地図を見て現実を認めましょうね。
>宛に緊急の事があった時に直ぐにの水軍が宛に行ける場所として新野を選択したんだから、 それまで駐屯していた苑(宣池付近)は、
>襄陽と新野の間の、中間地点よりも少し襄陽よりの、その川に直ぐに出られるような場所だ。
だから〜最前線は襄陽なんだって。北にある宛のほうが安全なの。宣池には舟が置いてあって訓練してるだけ。
勝手に水軍にしたり、苑を根拠なく宣池付近にしないでくれますかね。
>後代の中国人学者らの中のかなりの人が、「自己解釈に拠る書き換え」をする学者であった事は、唐代史書などを見れば、直ぐに判る。
「関心が無い」と言って、文献を読まない人が「自己解釈に拠る書き換え」と言っても説得力がないですね。
「かなりの人」というのだから、それなりの量のデータの提示でもなければ誰も信用しませんよ。
結局、これも根拠ないのにいつも言い張ってるだけなんでしょ。
>これも×。
>苑があったと思われる宣池の位置が、宛の緊急事態に間に合わないようなが場所であったから、新野に陣を移したのあり、 だから、苑は、襄陽と新野の間の襄陽寄りの地。
だから〜襄陽への緊急事態の対応だってば。戦闘中ではないのだから陣の展開もないよ。
>変な男。屯した場所が宛であったんなら、宣池の事も新野の事も書く必要がない。
失礼な奴だね。宛から襄陽まで遠いから新野に移すという話なのだから書く必要があるよ。
>陳寿が「苑」と書いた事が判ったから、新野に「屯する地」を新野に変更した意味が判った。
「苑」は「宛」の誤字としたほうが無理なく説明できるよ。 >>384
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「戦前の萬世一系皇国史観」の「殺人テロの侵略戦争」狂の大和説者の、
ご家族が可哀そうです。 >>697
実際にウソばっかついてるのはザラコクなんだけど
証拠、あるよ >>389
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「戦前の萬世一系皇国史観」の「殺人テロの侵略戦争」狂の大和説者は、
今はもうなにかにとりつかれてるから止めれないよ、こういう人。
親の因果で殺し合い戦争を起こすんだろうが、
家族もかわいそうだけども、多分とっくに見捨てられてそうじゃないww。
ここで殺し合い戦争を起こそうとする気持ちを発散させてあげよう。 >>391
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「戦前の萬世一系皇国史観」の「殺人テロの侵略戦争」狂の大和説者は、
ここで気がすんだらこの文参考にして。少しでも報われる人生を送ってね。
精神疾患や精神障害に関して相談をしたいときには、精神保健福祉センターが便利です。 >>699
こんなウソばっかりついてる九州説って
とう終わりだよね >>402
>じゃあ本題に戻してと。 九州に倭国はありません。<
倭国伝と日本国伝を書き分けている唐会要が、
倭國伝で「正北抵新羅」とかいているから、倭国は九州であり、
大和ではありません。
>倭国は大倭国です。倭人は大倭の人の事ですよw<
魏志が、「國國有市、交易有無、使大倭監之」と書いているから、
「大倭」は、倭国の各国の「市を監督する」役職名です。 >>408
>九州は隼人だよ<
九州は、卑弥呼の頃は、倭人支配だよ。
>倭は大和の昔の漢字<
大和の昔の呼称は、倭国の地方の国々の市を監督する「大倭」。 >>705
その唐会要に倭国から藤原常嗣が来たと書いてあるんだからな
倭国の都は京都なんだよ
残念でした >>428
>はい!わかりました。九州に確かに大和はありました。
もう書きこみません。 あなたの素晴らしい論を思う存分披露してくださいませ。<
大和は、九州の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国ですから、
九州でありません。 >>647
>たぶん、2世紀の倭国大乱で神武ら天孫族が筑紫を離れた後の倭王なので、筑紫に倭の王都があったことを認めたくなかったのだろう。
相変わらず九州説はバカだなぁ
公式史書の日本書 紀でも、皇室の祖は筑紫日向から来たって書いてるじゃないか
九州説はそれに乗っかってるだけなのに、どうして話の方向を逆にしようとするかなぁ
ああ、バカだからかw
自己解決したわ >>663
>古田さんの「女王國」の範囲には、南九州の投馬国も入っているの。
じゃあ、女王国というのはかなり広い範囲なんだから、
不彌国までで萬二千里はほとんど使っているから、というのは意味がないな?
投馬国が女王国に入っているなら、末慮国が入らないのはものすごく不思議なんだが、
古田史学に整合性を求めるほど私も迂闊じゃないから >>710
神武が筑紫から大和に東征(東遷ではない)しても、筑紫が滅びるわけではない。
王都は筑紫の日向のまま、そこに倭王がいた。
それが卑弥呼ということだ。
記紀は神武ら天孫族の歴史書なので、天孫族ではない卑弥呼のことは知らんぷり。 >>690
>あんたが解説したらザラコクさんも納得するのでは
>南→東の解説ヨロシク
一度、徹底的にやって、九州説の人以外の万人に通用するだけの論証をしたんだけれど、
今どき九州説をやっている人たちには、無意味だったんだよ
このスレの流れを見るだけで、ザラコク、キウス、東遷厨には「会話が届かない」のが
分かるだろ?
昔の人のいう「バカは死ななきゃ治らない」ってのは至言だよ >>707
>その唐会要に倭国から藤原常嗣が来たと書いてあるんだからな
>倭国の都は京都なんだよ
それも何度も何度も指摘してあるんだけれど、ザラコクさんは無視するだけ
相手するだけ無駄だよ
相手にせずに、バカにする、くらいでちょうど >>712
>記紀は神武ら天孫族の歴史書なので、天孫族ではない卑弥呼のことは知らんぷり。
天孫族と、九州倭国王族の関係は?
天孫族の本家筋じゃないの?
天孫族をどのように定義するつもりなんだ?
いい加減なその場の思い付きをいくら書いても、真実にはならないぞww >>712
>王都は筑紫の日向のまま、そこに倭王がいた
その王都はどこ?その痕跡は?
あと2世紀前半には「其国の男王」がいたわけだよね。
お墓はどこ? 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。 >>717
>最初の王都として
勝手に王都と認定して主張してるだけでそんな文献も謂れ(神社伝承)もない。
福岡県では弥生時代のスズリが8個も見つかってるのに王都の謂れや伝承が皆無ってw >>717
漢代に咫という単位が使われた形跡は無い
よって平原の八葉鏡が八咫鏡だというのは誤り 天皇家で3種の神器が定型化するのはおおよそ10代崇神の頃。
その3種の神器は福岡が早いのは事実。
でもなんでか分るかい?
3種の神器は崇神のお母さんである物部の神器だから。
平原だなんだは防人であった物部の墳墓。
卑弥呼とは全然関係がない。 >>719
>勝手に王都と認定して主張してるだけでそんな文献も謂れ(神社伝承)もない。
筑紫の日向だよ。 >>721
>天皇家で3種の神器が定型化するのはおおよそ10代崇神の頃。
それは畿内の話かな?
福岡では紀元前から三種の神器だよ。
>3種の神器は崇神のお母さんである物部の神器だから。
物部の祖の饒速日が持っていたのは十種の神宝だよ。
三種の神器はニニギを祖とする天孫族の方だよ。 >>726
そういうのも、すべて後付けの話、
例えば、aの家に、bが引っ越してきたみたいな話
aは他のところに引っ越し済み 現在(2018)、その地に住んでいる人々がいるでしょ、天孫族(不明)なの? ネットなどでも、このような話ばかりでしょ、
中国(一部?)、半島の話?
古代の・・・と、いまの・・・は、違う民族だぞw
とか これは日本の話じゃないんだけど、
同じような話があったはず
何かの聖地(宗教、祭祀)関係の話、
今住んでいるのは他の民族で、もともと住んでいた民族は他のところへ とある、某国を構成している民族などの話?
聖地があり、もともと祭祀などをしていた民族と、
今現在、住んでいる民族(多数を占めているのは異民族。後から来た民族)は
違う、混血しているとか >>725
>それは畿内の話かな?
>福岡では紀元前から三種の神器だよ。
物部が外威となって崇神天皇を産んで以降、天皇家も3種の神器になったわけ。
つまり福岡は「筑紫の物部」の土地。
王権ではない。
>>3種の神器は崇神のお母さんである物部の神器だから。
>物部の祖の饒速日が持っていたのは十種の神宝だよ。
>三種の神器はニニギを祖とする天孫族の方だよ。
崇神以降が3種の神器であることは考古学的事実。
崇神と同時代の桜井茶臼山古墳(オオヒコか?)あたりが大和での3種の神器の始原。 >>739
>崇神と同時代の桜井茶臼山古墳(オオヒコか?)あたりが大和での3種の神器の始原。
まあ、この辺は推定しかできないけれど、大彦はメスリ山古墳の方じゃないかな
桜井茶臼山古墳は、大彦の娘で崇神天皇の妃の御間城姫の方が座りがいい気がする
いずれにしても、メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳が大彦の一族というのには、賛成 >>472
やれやれ、
大和説の人、完全に壊れちゃったね。
諸行無常、万物流転、栄枯盛衰、盛者必滅、
奢る「萬世一系皇国史観の殺人テロ侵略戦争の大和説者」久しからず。
南無阿弥陀仏。 >>473
誰もこんな、
「南→東」などの嘘つき騙しの、
「萬世一系皇国史観の殺人テロ侵略戦争狂の大和説」の奴に、
同意も同情もしない。
早くいなくなればいい。 >>476
大和説支持者って、多かれ少なかれ、
「南→東」などの嘘つき騙しの、
「萬世一系皇国史観の殺人テロ侵略戦争狂」という、
こんな感じじゃない?。 >>476
まあ、今得られる情報をきちんと検索して、論理的に考えるだけの知能があれば、
九州説にしかならないのは自明だから、
大和説を今どきやってるって時点で、
頭悪いか,
アタマおかしいか、
の2択しか残っていないしね。 >>478
大和説を今どきやってるって時点で、
頭悪いか,
アタマおかしいか、
顔が狂暴で醜いか、
の3択しか残っていないしね。
478日本@名無史さん2018/07/13(金) 20:26:52.10>>480
二択ではない
兼ね備えてる人がいます >>481
>今、得られる情報
1.古墳時代には、ヤマト王権が日本(当時は倭国)の中心<
白村江までが九州倭国が中心であったから、×。
>2.3世紀には古墳時代に入っている(or始まっている)<
前方後円墳なら、那珂八幡や津古生掛などが最初。
>3.邪馬台国は日本(当時は倭国)の共立女王の都するところ=祭祀の中心<
邪馬台国なんて存在していなかったし、
共立女王の都は、「南≠東」などに拠って筑紫であり、
別種の旧小国の大和は×。 天孫族などという概念は、7世紀に出来た。
分かりやすく言うと、蘇我が倒れなければその意味が180度変わっていたはず。
蘇我は葛城の出自。
ソツヒコ等と同じく高天原(御所市高天)の神々の末裔だ。
大国主、大物主など、本来は出雲系が天孫であったはず。
ところが蘇我が乙巳の変(いっしのへん)で倒れて以降、
物部の祖ホアカリが天孫とされるようになった。
そして出雲系は国津神とされた。
そういうわけで高天原が九州にあるわけがない。
カッペは口を慎め。 ザラコクさんの目的は、畿内説の議論の妨害、邪魔立て、と畿内説スレの浪費だから
相手しなくていいよ
まあ、そう言いつつ、私もひと頃ザラコクさんと旧唐書の地理記事でやり合って
二人でひとスレ使うようなこともあったから、えらそうなことは言えないけれどww >>487
>>邪馬台国でなく邪馬壹國なんですけど・・・・・・<
>邪馬臺國の方が確認できる記録が邪馬壹國より古いんだよ<
関係がない。
魏志の邪馬壹國は、3世紀時点での共立女王卑弥呼の所都である7万戸の国名であり、
後漢書の邪馬臺國は、」
5世紀時点で范曄が「大倭王」と呼んだ倭王が居した(単なる)小國名であり、
記載対象が少し違っていた。
>成立は後漢書よりも三国志の方が古いけれど、三国志の現存本は12世紀の版本までしか遡れない<
どちらも、12世紀の版本までしか遡れないし、
宋明清代の考証校勘学者は、誰一人校勘対象文言にしていない。
>そして、その12世紀より古い成立の史書が軒並み邪馬臺國になっている<
後代での自己解釈に拠る「前史記載の高慢な書き換え」をやった後代史書記載は、
前史記載の証拠にはならない。
だから、宋明清代の考証校勘対象にもなっていない。
>魏志倭人伝準拠にこだわるなら邪馬壹國で通しても構わないけれど、
大陸史書を多く照覧して論ずるならば、むしろ邪馬臺國の方が正しい<
後代大陸史書の「前史記載の書き換え」記載は、前史の記載の正否根拠にならないし、
「邪馬壹國≠邪馬臺國」であるし、「邪馬臺國≠邪馬台国」であるし、
だから「邪馬壹國≠邪馬台国」でもある。 >>489
>日本の教科書は保守的だから、ほぼひっくり返らないくらいの確信がなければ載せない<
日本の教科書は、
自民政府の憲法違反の「教科書検定=検閲」のすり替えの詐欺に拠って、
学会教育界の執筆内容を、
「南→東」などの嘘つき騙しに拠る「戦前の萬世一系皇国史観」の大和説への強制をしているから。
>保守的だから、ほぼひっくり返らないくらいの確信がなければ載せない<
裁判所も、自民政府と同じ・・・・思想の人物ばかり採用されて、
・・・・裁判官ばかりになってしまい、
そんな政府や裁判所の裁定など、何らの学問的な感じ根拠には、全くならない。 >>490
>古墳時代の定義は、定式化した高塚の古墳を作る時代、というのが古典的なもの
ただ、最近はその古墳の定式化に向けた、汎列島的な秩序の形成をもって、
古墳時代の開始と見る見解も有力になってきている<
「高冢」を取るなら、祇園山から。
「前方後円墳」を取るなら、那珂八幡や津古生掛などから。
大和の石塚などは、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠る、
九州倭國からの伝来位にしかならない。
>現在の標準編年では、古典的な見方=箸中山古墳の造営を起点ととる場合
260〜280年頃から、<
庄内と布留と有棺有槨のホケノは、明確に那珂八幡よりも後であるから3世紀末以後。
従って布留以後である箸墓は、ホケノよりも後であるから、4世紀以後。
>秩序形成=卑弥呼の共立からとする立場では、庄内0期、3世紀初頭から、ということになる <
「南≠東」に拠って、大和での卑弥呼共立は×。 >>491
>各種 纏向の研究報告や文献 少しはあるだろうがね・・掘立柱建物
そのうち見つかるかもね <
全体の10%が発掘され、その中心部建築物まで見つかっていて、
しかし、それでも尚、「以婢千人自侍」や、
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」が見つかっていなければ、
こりゃ、もう「見つからない」って事だね。 >>494
>王名は、文献史学からしか求められない
日本の古文献として、記紀にどれだけの信頼をおくかによって、解答は変わりうる
あまり意味のある質問ではないな
記紀を根本的に信用するならば、カムヤマトイワレビコが初代王となるが、
纏向遺跡の5世代ほど前の磐余の小首長に留まるだろう<
変な事を言う男。
書紀記載をそのまま信じれば、紀元前660年に即位。
二中歴の説明に従えば、紀元前91年頃。
>それから、卑弥呼の共立はおそらく祭祀王の統一であって、<
それも絶対性がない。
松野氏姫氏系図には、57年遣使の王も、107年遣使王も、卑弥呼の記載もあり、
姫氏と阿毎氏の合同があったから、卑弥呼が共立された、という可能性も十分にある。
>のちの豪族に繋がる各地の首長権力はそのまま維持されているように見える(この部分は定説ではない)
その意味で、祭祀王(倭王卑弥呼)と大和王権の首長は並立しうるし、事実並立したであろう<
「南≠東」に拠って×ね。
>卑弥呼が大和王権の皇統譜に名前がないことをもって批判したいのだろうが、
男系王の系譜の傍らの祭祀王として名前を残していると考える方が妥当<
関係がない。
魏志では、執政的な「弟」や「大夫」と、軍事的支配担当の「一大率」の存在を記し、
実質的な王であった、という事になる。
>その場合纏向遺跡に宮をおいた崇神天皇代に活躍が記された、 ヤマトトトヒモモソヒメを卑弥呼に当てるのが、最も妥当性が高い<
「南≠東」に拠って、可能性が全くない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています