邪馬台国畿内説 Part361
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1531131991/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>487
>>邪馬台国でなく邪馬壹國なんですけど・・・・・・<
>邪馬臺國の方が確認できる記録が邪馬壹國より古いんだよ<
関係がない。
魏志の邪馬壹國は、3世紀時点での共立女王卑弥呼の所都である7万戸の国名であり、
後漢書の邪馬臺國は、」
5世紀時点で范曄が「大倭王」と呼んだ倭王が居した(単なる)小國名であり、
記載対象が少し違っていた。
>成立は後漢書よりも三国志の方が古いけれど、三国志の現存本は12世紀の版本までしか遡れない<
どちらも、12世紀の版本までしか遡れないし、
宋明清代の考証校勘学者は、誰一人校勘対象文言にしていない。
>そして、その12世紀より古い成立の史書が軒並み邪馬臺國になっている<
後代での自己解釈に拠る「前史記載の高慢な書き換え」をやった後代史書記載は、
前史記載の証拠にはならない。
だから、宋明清代の考証校勘対象にもなっていない。
>魏志倭人伝準拠にこだわるなら邪馬壹國で通しても構わないけれど、
大陸史書を多く照覧して論ずるならば、むしろ邪馬臺國の方が正しい<
後代大陸史書の「前史記載の書き換え」記載は、前史の記載の正否根拠にならないし、
「邪馬壹國≠邪馬臺國」であるし、「邪馬臺國≠邪馬台国」であるし、
だから「邪馬壹國≠邪馬台国」でもある。 >>489
>日本の教科書は保守的だから、ほぼひっくり返らないくらいの確信がなければ載せない<
日本の教科書は、
自民政府の憲法違反の「教科書検定=検閲」のすり替えの詐欺に拠って、
学会教育界の執筆内容を、
「南→東」などの嘘つき騙しに拠る「戦前の萬世一系皇国史観」の大和説への強制をしているから。
>保守的だから、ほぼひっくり返らないくらいの確信がなければ載せない<
裁判所も、自民政府と同じ・・・・思想の人物ばかり採用されて、
・・・・裁判官ばかりになってしまい、
そんな政府や裁判所の裁定など、何らの学問的な感じ根拠には、全くならない。 >>490
>古墳時代の定義は、定式化した高塚の古墳を作る時代、というのが古典的なもの
ただ、最近はその古墳の定式化に向けた、汎列島的な秩序の形成をもって、
古墳時代の開始と見る見解も有力になってきている<
「高冢」を取るなら、祇園山から。
「前方後円墳」を取るなら、那珂八幡や津古生掛などから。
大和の石塚などは、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」に拠る、
九州倭國からの伝来位にしかならない。
>現在の標準編年では、古典的な見方=箸中山古墳の造営を起点ととる場合
260〜280年頃から、<
庄内と布留と有棺有槨のホケノは、明確に那珂八幡よりも後であるから3世紀末以後。
従って布留以後である箸墓は、ホケノよりも後であるから、4世紀以後。
>秩序形成=卑弥呼の共立からとする立場では、庄内0期、3世紀初頭から、ということになる <
「南≠東」に拠って、大和での卑弥呼共立は×。 >>491
>各種 纏向の研究報告や文献 少しはあるだろうがね・・掘立柱建物
そのうち見つかるかもね <
全体の10%が発掘され、その中心部建築物まで見つかっていて、
しかし、それでも尚、「以婢千人自侍」や、
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」が見つかっていなければ、
こりゃ、もう「見つからない」って事だね。 >>494
>王名は、文献史学からしか求められない
日本の古文献として、記紀にどれだけの信頼をおくかによって、解答は変わりうる
あまり意味のある質問ではないな
記紀を根本的に信用するならば、カムヤマトイワレビコが初代王となるが、
纏向遺跡の5世代ほど前の磐余の小首長に留まるだろう<
変な事を言う男。
書紀記載をそのまま信じれば、紀元前660年に即位。
二中歴の説明に従えば、紀元前91年頃。
>それから、卑弥呼の共立はおそらく祭祀王の統一であって、<
それも絶対性がない。
松野氏姫氏系図には、57年遣使の王も、107年遣使王も、卑弥呼の記載もあり、
姫氏と阿毎氏の合同があったから、卑弥呼が共立された、という可能性も十分にある。
>のちの豪族に繋がる各地の首長権力はそのまま維持されているように見える(この部分は定説ではない)
その意味で、祭祀王(倭王卑弥呼)と大和王権の首長は並立しうるし、事実並立したであろう<
「南≠東」に拠って×ね。
>卑弥呼が大和王権の皇統譜に名前がないことをもって批判したいのだろうが、
男系王の系譜の傍らの祭祀王として名前を残していると考える方が妥当<
関係がない。
魏志では、執政的な「弟」や「大夫」と、軍事的支配担当の「一大率」の存在を記し、
実質的な王であった、という事になる。
>その場合纏向遺跡に宮をおいた崇神天皇代に活躍が記された、 ヤマトトトヒモモソヒメを卑弥呼に当てるのが、最も妥当性が高い<
「南≠東」に拠って、可能性が全くない。 >>758
ウソ証拠作って言い訳しなきゃいけない
「南≠東」に頼ってる九州説に
可能性が全くない。 >>497
>>中心が纒向なら九州・四国の土器が出土しないのはなぜ?<
>中心だからじゃないかな <
循環論法のような言い方をしているが、「南≠東」などに拠って×。
>それに土器ってのは長距離輸送で嵩張るし壊れるし、意識的な輸送でなければ
(≒人の移動に伴う受動的な搬入では)遠くのものほど、漸減するのは当たり前<
筑紫への、播磨や河内や大和の胎土土器の直接的な大量搬入、説が、
最近少なくなって来ている事と、関係があるのか?。
>四国の土器は出てるよ<
少ない事は事実なんだろ?。
>九州へは、吉備甕が輸送に使われているようだ 吉備甕は、畿内・九州の両方で出る<
吉備甕というと、また、播磨との異同が問題になるな。 >>748
アホー
>天孫族などという概念は、7世紀に出来た。
>蘇我は葛城の出自。
根拠のないデタラメ
>ところが蘇我が乙巳の変(いっしのへん)で倒れて以降、
>物部の祖ホアカリが天孫とされるようになった。
その前に蘇我が物部を倒したのを忘れた?
順序がまるで逆。
あと、蘇我氏の祖は武内宿禰だよ。
だから高天原出身ではない。
高天原の直系は天孫饒速日を祖とする物部の方だ。 >>739
>崇神以降が3種の神器であることは考古学的事実。
福岡との時代の差を考えてよ。
時代錯誤だよ。 >>739
>物部が外威となって崇神天皇を産んで以降、天皇家も3種の神器になったわけ。
完璧に根拠にない妄想に浸っているな。
物部は天照の直系だ。 >>498
>>古墳時代と政権とは違うよね <
>それで正しいと思うよ 筑紫には筑紫国造がいて、筑紫国のローカル政権を担っている
松浦には末羅国造がいる<
8世紀の半分×書である記紀では証拠にならないし、風土記も支配者記載は疑わしい。
>ただ、その上位構造として、全国的に前方後円墳祭祀を行うという葬送儀礼祭祀の統一があり、<
それが、筑紫の那珂八幡などが起源であり、
東征毛人五十五國や「大倭」職の市に拠って、東方へも拡大した。
>その中心はやはり畿内大和を動かない<
「南→東」であるし、倭國本体は、「正北抵新羅」であったし、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった、
という事は動かない。 >>763
>物部は天照の直系だ。
「物部氏」の祖神とされている伊加賀志許賣命・伊加賀色許雄命が日本で唯一、阿波國麻殖郡 伊加々志(いかがし)神社で祀られていることから、
物部氏は旧麻植郡が本拠だろう。
伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。
『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。
日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加々志(いかがし)神社
鎮座地 徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635
御祭神 伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと) @阿波 >>500
>>纏向に住居跡が無いのは何故?<
>あるよ それに、集落遺跡は周辺にいくらでもある<
周辺ではダメ。 「以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」という住民の証拠にならない。
> 纏向遺跡は未開地を計画的に開拓した祭祀都市<
住民のいない都市はない。
>>3世紀 文明的に九州に劣っていたのは何故?<
>これは九州説の負け惜しみのための強弁だな 劣っていたとする理由はない<
相手のお方は、鉄や矛や鏡や絹などの数字を挙げておられた、と思うよ。
>これも九州説の思い込み 纏向大溝の建築から始まった計画都市だよ <
大溝は単なる排水路。弥生銀座における何本もの「大道」が計画的都市の証拠になる。
>それに、吉野ヶ里よりも、纏向遺跡に先行する唐子鍵遺跡の方が規模も大きい <
近辺で良いなら、九州には弥生銀座がある。
>>未だに学者間では掘立柱建物群と呼ぶのは???<
>建物の柱が、掘立柱だから、だろ? 掘立柱建物がみすぼらしいと思っているなら、考え違いだよ <
軟弱地域で、石床もなければ、「宮室樓觀」建築は無理だよ。 >>505
>この部分は定説ではないが、弥生社会の彦姫性のうちの、姫王(祭祀王)の統一が
卑弥呼の共立だったと考えられる
彦王(政務王)の方は、そのまま各地のローカル首長が権力を担っている<
「佐治」という弟の執政や、「大夫」や、、「官」を置き、軍事的な「一大率」も持ち、
魏も(祭祀者としてだけではなく)きちんとした組織をもった親魏倭王、として受け止めている。
邪馬台国(やまと国)の政務王は、魏志倭人伝に記載された、
>有男弟佐治國の弟だろう 卑弥呼の死亡時に、この男弟が倭王(祭祀王)も兼ねようとしたのが、反発され、
倭王は再び祭祀王の姫王を立てて安定した、と読める<
読めない。単なる分裂幻覚の妄想。
>血統の問題ではなく、祭祀王と政務王の彦姫制の権限の切り分けの問題だろう<
卑弥呼は祭祀王であっただけではなかった。 >>506
>ヤマト王権の開始を考える際に、固有名詞としての王名は、本来
考慮する必要がない 纏向遺跡にいた王が、ヤマト王権の初代王だ
というのが、最大公約数的な見解だが、それでは満足しないんだろ?
だとすれば、文献史学に頼るしかないし、古文献は記紀しかない <
そういう帰結にしかならないんだよ<
別にどうでも構わないが、記紀以外に、
新唐書や王年代紀に「神武」という名が書かれている。 >>509
>それ、掘立柱建物を掘立小屋と混同してた
恥ずかしいお爺さんの恥ずかしいシツモンだから<
軟弱地盤で、石床もなければ、「宮室樓觀」のような建物は、
直ぐに倒壊してしまって、無理。 >>762
>福岡との時代の差を考えてよ。
>時代錯誤だよ。
ここは微妙なところはあるが実は話が逆
三種の神器は案外新しい
高天原で作られたはずの八咫鏡の試作鏡が、和歌山の日前神宮・國懸神宮の
ご神体になっているし、唐古鍵近くの鏡作神社で作られたという
伝承がある(一応は崇神天皇代の形代を作るときの試作鏡とされている)
伊勢神宮が皇室の皇祖神とされたのは、下手すると持統天皇から
天武・持統朝〜奈良時代に記紀が整えられるのと前後して、
伊勢神宮、熱田神宮の神宝が三種の神器にされた可能性がそれなりに高い >>768
>新唐書や王年代紀に「神武」という名が書かれている。
記紀、というか日本書紀は大陸王朝に見せるためのもので、大陸王朝に届けられている
新唐書や王年代記は、日本書紀を典拠とした二次資料なんだから、
日本書紀の情報に従って書いてあるのが当然
まあ、ザラコクさんには、馬の耳に念仏なんだけどね >>519
>頑迷な九州説さん そんなこと決めつける理由は? ???<
教科書執筆者や出版会社が、
「南→東」などの嘘つき騙しをしてまでして、
「戦前の萬世一系の皇国史観」などのキョクウ思想で、
大和説を守ろう、としているから。 >>520
>>ヤマト王権の初代王の名前を述べよ<
>卑弥呼
何か問題でも?<
「南≠東」。
何か問題でも?。 >>527
もはや、大和説のすべては、
「南→東」などの嘘つき騙しの詐欺や、
「理由なき拒否」という分裂幻覚的な妄想
だな。
ww >>531
>>大規模な祭祀としては少し後世でも筑紫には沖ノ島の祭祀などがある。<
>沖ノ島祭祀の主催は畿内政権というのが定説なんだけど<
縄文〜弥生の土器があり、天孫族の阿毎氏系や宗像氏らの祭祀島であって、
継体の反乱で勝利した阿毎氏の大和側が、九州倭国の王家に参加出来るようになってから、
沖ノ島祭祀にも参加するようになった、
というのが常識的なんだが・・・。 >>775
というのが常識的なんだが・・・。 ×
反日どろぼうの会では常識的なんだが・・・。 ○ >>537
>畿内説のどこが「万世一系説」 なんだ?
お前は狂った75歳のタイコ持ちか?<
「畿内」という天皇支配を示す文言をでっちあげた事や、
「南→東」や、
「大和日本国は倭國から別れた別種の旧小国」の否定や、
倭国が「正北抵東」である事や「東征毛人五十五國」をした方である、
などというような、
史料事実の否定抹殺とい非常識な行為を敢えてして、畿内説を主張している、
という事が、
「万世一系皇国史観」宗教である証拠。 >>539
結局こういうこと
大和説は、常に、
「南→東」などの嘘つき騙しをしている、
理由が言えない。
それは、個人的な思い込みだから、
つまり学問ではありえない。 >>544
>卑弥呼の前に男王が数人はいて帥升もいる って言い張る理由は?<
魏志の、
「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王」、
という記録が残っているから。 >>549
結局こういうこと。
大和説は常に証拠が出せない。
「南→東」などの嘘つき騙しをする。
それは、個人的かつ狂信的、教条主義的な思い込みだから。
つまり学問ではありえない。 安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
和歌の父母
難波、この、安積山(アサカヤマ)、山の井
難波と浅香山に何があったんだろうか? >>770
>伊勢神宮が皇室の皇祖神とされたのは、下手すると持統天皇から
>天武・持統朝〜奈良時代に記紀が整えられるのと前後して、
>伊勢神宮、熱田神宮の神宝が三種の神器にされた可能性がそれなりに高い
これはあり得る。
何しろ伊勢の鏡は大きさが八咫ではないようだから。
でも福岡では三種の神器のセットが紀元前から用いられており、それに習ったものであることは間違いない。
八咫の鏡も、名前だけ借りたのだろう。
オリジナルは平原の八咫の鏡ということになる。 >>782
まあだいたい賛成
レガリアの組み合わせを統計解析したわけやね(ベイズ? 平原1号墓出土鏡は八咫鏡じゃないよ
大きさも八咫じゃないし
そう呼ばれた記録も、伝承もないし 「春三月に、難波宮に幸せる時の歌」
「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ船 泊まり知らずも」
「上の一首、船王の作」
奈良時代の後期難波宮(大阪市)からは「阿波の山」は絶対に見えない。
倭国(阿波)から遷都する前の飛鳥時代に宮が設置された前期難波宮は香川県さぬき市津田。
この歌は香川県さぬき市津田の前期難波宮で読まれた歌である。 @阿波 三種の神器か
天智天皇の時までは三種だったが、何故か天武朝になると、神璽は剣鏡になるんだな
どういう意味があるのか?
一説によると鏡は日、勾玉は月を表していると言われている
草薙剣は元はヤマタノオロチのものだった
勾玉だけが皇居にあるのはどういう意味なんだろうか? 福岡の弥生時代の副葬品が三種の神器のセットというのは
アマテラスやスサノオが半島神話の神器セット説になる >>786
船王は聖武天皇の時代だろ
手前に高い山があるのに讃岐から眉山は見えないだろ
難波津から阿波の山を目指して漕いでいく船は根無し草と歌った和歌
難波津を占領していた根無し草を蹴散らした歌だろう
阿波は嘘ばかり撒き散らして何がしたいんだ? 壬申の乱に敗れた難波は寂れていたんだよ
阿波咋はまたもや難波討伐に加担したのかな
難波津を占領していた根無し草を裏で操っていたのは阿波なのかもね >>788
スサノオはともかく、アマテラスは半島じゃないだろ。 見えてない山をイメージして歌を詠むようになったら特待生昇格だな
見たままの歌は凡人 >>791
多鈕細文鏡が神話の鏡という連呼説なんだろ
吉武高木のヒスイ勾玉は糸魚川産だけども >>785
>そう呼ばれた記録も、伝承もないし
否定する根拠にはならないよ。
記録は失われるものだからね。
出土したものから推定していかないと。 >>770
>ここは微妙なところはあるが実は話が逆
>三種の神器は案外新しい
上古の筑紫の伝統に則ったということでしょう
? >>791
アマテラスが半島なんだよ
という話ばかり 実在していたとして
漫画やアニメ、ゲーム・・・・その他、
後に描かれた画などがあるでしょ、信用しないほうが良いという話 『朝鮮人』画像を調べてみて
むかーしは朝鮮人だという事になっていたはず、
誰々というのが渡ってきて、国譲りのようなものがあって
神格(祭祀)のようなもの自体盗んだという話とか
方向転換、修正したの? 本来の、本当のアマテラスというのは・・スサノオ?
このような話ばかりだったり 記紀は天皇崇拝のために創られただけ
北朝鮮の将軍様の神格化と同じ
倭国は九州に有り渡来人(天皇の祖先)に制圧されたのだ
其の後東遷しヤマト朝廷を築いたのだよ そしてね
仏教は伝来したのでなく渡来人が持ち込んだのだよ
朝廷が倭人なら神道一本だがね 何でも良いけど、仲良くするのが一番だよ
あと、これも何度も書いた
家の近所には・・・・半島出身?の人たちが大勢住んでいて、
よく一緒に遊んだりしていたという話とか
戦前、戦後?の話(老婆談) >>551
大和説は
証拠が出せない
理由が言えない
目的語が言えない
「南→東」などのように史料事実の否定曲解をする
つまり、まともな知性がない嘘つき騙しの・・・・集団。 >>555
>大陸への窓口として九州の伊都 本州のクナ、クニ、対外的には倭国<
倭國は「正北抵新羅」に拠って九州だし、
「南≠東」に拠っても×。 >>556
>ザラコクさんはこのスレ盛り上げるだけの人
以上です
自論を披露してくれませんか?
長いテンプレの半分程度で <
別に自論なんてものはありません。
知り得た文献考古の史料事実からの、帰納的確率的推論をしているだけであり、
古田説や古田史学会や宝賀氏や、松野氏姫氏系図などが根拠です。 >>558
>九州説に理由なし<
大和説は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの・・・・宗教。 >>560
>ヤマト王権の最初の王は、纒向建設時の王だ
ただ、伊勢遺跡の放棄と纒向遺跡の建設開始が連続するので、<
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の国々、
としての関連があるだけであり、「連続」という訳ではない。
>伊勢遺跡の王も卑弥呼の共立に 参加していたと考えることに無理はない<
「南≠東」に拠って、×。 >>556
>あと、逆説的だけれど、畿内説に対して「根拠なし」っていうのが口癖w <
「畿内」なんて存在していないし、
「萬世一系皇国史観」という宗教文言であるから、学問ではなく、×。
>ちゃんと根拠を付けて説明してるのに、自分に不利なことを言われると、
どこがおかしいとかの具体的な指摘ができないものだから、「根拠なし」の
一言レスに逃げて、えらくなった気分に浸るんだよww <
wwもスレ主も大和説者らも、
既に始めから「南→東」などの嘘吐き騙しをしてしまっているから、
信頼性が全くなく、・・・・的なもの×人間。 >>577
>以前のスレ主と変わった???
数年前の「私はいつもIDつけてます」の書き込みと今のスレ主と別人ですね<
成程。何らかの組織が動いているんでしょうなねえ?。 >>581
>ザラコクさんは アンチ畿内説だけですか? 自論は無いのですか?
アンチでも構いませんが<
古代史は、別に専門ではなかったし、
「戦前の萬世一系皇国史観の殺人テロや侵略戦争」を鼓舞扇動しようとして、
文献考古の史料事実を捻じ曲げて、
否定曲解をしている嘘つき騙しの宗教的な大和説組織が、
国家組織や学会教育界やマスコミを牛耳って、
国民を、また殺し合い戦争をさせようとしている事が、
黙過し難いだけです。 >>601
>畿内説が都合が悪い文献をことごとく無視する という証拠は?<
「畿内」という存在もしない文言を捏造しているし、
「南→東」や、
「正北抵新羅」の無視や、
倭国の「東征毛人五十五國」の無視や、
「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
市を監督する大倭職の国」の無視など。 >>602
「(都合の悪い)史料事実の否定曲解」にかまけて、
中身のない誹謗中傷にかまけてる大和説が、
邪馬壹國女王之所都論争に負けたのは、
一目瞭然。 >>603
>九州説は魏志倭人伝で、伊都国、奴国から邪馬台国が水行陸行合わせて
2ヶ月もかかる遠地にある別の国だっていう基本を無視しているし、<
不彌國で萬二千余里がほぼ終了して男り、
「水行二十日」の投馬國は側副傍線國説明であり、
「水行十日陸行一月」は「女王之所都」の説明であるから、郡からの所要日数説明。
>卑弥呼の墓が径百歩だと明記されているのを無視して小さな方形周溝墓を
卑弥呼の墓だって言い張ってるよね?<
魏朝が採用した「周制」の周髀算経の一寸千里は、
「1里≒76.5m」であった事になり、
「1里=300歩」は変わっていないから、「1歩≒25.5cm」になり、
卑弥呼の墓の「百余歩」は25.5m位になり、
祇園山にほぼぴったり。
>この時点で九州説は破綻している<
この時点でも、大和説は破綻している。 >>789
>船王は聖武天皇の時代だろ
この歌は持統〜文武天皇時代に作った歌だろうね。
>手前に高い山があるのに讃岐から眉山は見えないだろ
「眉のごと」く見えたのは今の「眉山」じゃないよ。 その「手前に高い山」の阿讃山脈を香川県津田から見た歌。
今の眉山とは後世につけられた徳島市内の山。
>難波津から阿波の山を目指して漕いでいく船は根無し草と歌った和歌
>難波津を占領していた根無し草を蹴散らした歌だろう
苦し紛れの、勝って読み。 @阿波 >>816
>「水行十日陸行一月」は「女王之所都」の説明であるから、郡からの所要日数説明。
ザラコクさんは漢文が読めないからww
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南、邪馬壹國に至る、女王の都するところ、水行十日、陸行一月。
南に十日水上を進み一月陸を進むと、女王が都をおく邪馬台国に着く。
「女王の都するところ」は邪馬壹國にかかる修飾句で、
邪馬壹國=女王之所都という関係なんだけど、ザラコクさんは違うって言い張ってるんだよね
まあ、バカで学がなくて、間違いが認められない儒教道徳者だから、修正が効かない
ずっと頭おかしいまま生きていくんだろうけど、本当に迷惑 祇園山古墳は東西約23.7m、南北約22.9m
合ってないね >>816
>魏朝が採用した「周制」の周髀算経の一寸千里は、
魏がそんなもん採用した形跡は皆無だ >>604
>>危急があった時には「苑」よりも「新野」の方が早く行ける、と言っているのであるから、
「苑」よりも新野の方が「宛」に近い筈であり、
という事は、「苑」は、襄陽と新野の間の、川の横の陣地であった、という事になる。<
>横だが
>魏の荊州治所が南陽市の宛城、呉との最前線が漢水北岸の樊城と南岸の襄陽城
宛城と襄陽城のちょうど中間(直線で約55kmくらい)にあるのが新野県
王昶が宛から新野に移したという話 「苑」は誤字<
張元済本では、「屯苑」であるから、
「苑=宣池付近」が襄陽と新野の間にあった、というような書かれ方をしている事になる、 >>821
「苑」と書いら
一体なんで
「襄陽と新野の間にあった、というような書かれ方」
だということになるんだ?
理由がまったく解らない >>605
>>襄陽→宛は川を下るのであり、新野はその途中にあり、<
>おいおい、なにムチャクチャ言ってるんだ 襄陽の方が下流だろうが<
うん、私の「位置関係の記憶の間違いであった」ようだ。
YahooやYahoo地図で確認したら、宛城(南陽市)の方が北方にあり、上流であった。
しかし、私の説明の概要には変更はない。
>宛より新野の方が襄陽に近いんだ 新野〜襄陽は65kmだ 三百里はそれより遠い
短里とか、あり得ないのが明らかだ <
「屯苑」の地(宣池付近)は、新野よりもかなり襄陽よりにあった、という事でなければ、
新野付近に陣を移す必要がない、という事には変わりがなく、
そうすると、襄陽〜苑は、その半分の30km位よりもはるかに短い、という事になり、
仮に20kmであるとすれば、それが3百里だ、という事だから、
割り算して、1里≒67mである事になり、
短里だ。 間違えてたの認めるのに、なんで結論を変えないの?
結論が先にありきの人だから? >>606
>>「誤字」とは考えておられないのだ。<
>いずれにせよ、現存する刊本以前の誤字はそのままとなるわけだよ。<
いずれにせよ、張元済は書陵部本の写真の(宛を?)を撮って確認した上で、「苑」を採用しているんだから、
張元済の手元の版本には「苑」と書かれていた本があった、という事だ。
>> 後代に「對海國を對馬國」に書き変える人がいても、「對馬國を對海國」に書き変える人がいないから、
對海國の方が「古文」であり「古形」だ。<
>基本的に、書写した人や刊行本を作った人は書き換えをしないものだ。
底本が「對海國」となっていればそのままとなる。
紹興本「對馬國」は底本が違うのか、
紹熙本を作成時或は追刻時に「對海國」と誤記したのか、は分かりようがない。<
通常の写本や版刻では、「海」と「馬」の間違いは、
字形も意味も全く違うのだから、99%以上起こり得ない。
>「つしま」という音が残っている以上、紹熙本に誤記がおきたのであろうよ。<
全くのアホだね。
「つしま」という音韻になっている事を知った人間が、
「對海國→對馬国」の書き換えをする可能性があるんであり、
逆の書き換えは起きないんだよ。
>「古形」だ、とは恣意的。<
アホ男に言っても判らんのだろうが、
後代にあった文言よりも、後代にはなかった文言の方が古文。 大和には群山あれどとりよろふ天の香具山
登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原はかまめ立ち(万葉集)
海のない奈良盆地にカモメは見えない
ましてや海原なんて見えるわけなかろう >>824
>結論が先にありきの人だから?
というよりも、畿内説スレの邪魔をする迷惑目的が主眼だから、
書き込む内容は何でもいいんだよ
嘘でもいいし、一言でもいいっていうのがザラコクさん >>823
>「屯苑」の地(宣池付近)は、新野よりもかなり襄陽よりにあった、という事でなければ、
>新野付近に陣を移す必要がない、という事には変わりがなく、
なんで襄陽より遠くに移転するんだ?
意味不明 >>826
目に映るものをそのまま詠むのが和歌って訳でもなかろうに
和歌じゃないけれど
「古池や蛙飛び込む水の音」ってのは
池の前にいてカエルが飛び込むのを目の前で見てなきゃ
いけない訳じゃないのは分かるだろ? >>606
>>襄陽→宛は川を下るのであり、新野はその途中にあり、
危急があった時には「苑」よりも「新野」の方が早く行ける、と言っているのであるから、
「苑」よりも新野の方が「宛」に近い筈であり、
という事は、「苑」は、襄陽と新野の間の、川の横の陣地であった、という事になる。<
この「下る」は間違いであった。
Yahoo地図などで確認したら、川を「上って」いた。しかし、論理は同じ。
>上流下流が間違っているし、「〜であり、〜にあり、〜であるから、筈であり、であった」と、
ひどい構成で、何を言いたいのかがよくわからない。<
普通に事実や理由を述べて、結論を書いているだけであり、
それが判らないお前は、おそらく人類の常識が判らないアホなんだよ。
>(北・上流)宛→新野→襄陽(南・下流)で、襄陽が呉との最前線だよ。危急の時に向かうのは襄陽。<
訂正済み。 >>606
>二州の水軍を習練し、農事の開墾と殖産を広め、倉の穀類は盈積した。
とあるように、戦のさなかではないから陣地は作らない。<
当たり前。新野は、新しい拠点。
>「苑」とは動物を飼う施設の意味だよ。「鹿苑」とかね。<
宣池のような池のある地であるから、「苑」で適切。
>川の側にそういった施設は作らない。だから川の側に「苑」という地名は付かない。<
緊急時に直ぐに出動出来るには、川に繋がった近い所がよい。
>「宛」という有力候補があるのに、無理のごり押しするのは恣意的。<
変な男。
「宛」に変事があった時に出動するんだから、「宛」が有力候補になる筈がない。
>他に「宛陵」が「苑陵」になっている誤字もあったよ。しかも同一記事内で。「宛陵」は丹陽郡の地名。<
何の本に?。短里と長里の問題に関係があるの?。 >>607
>原文も地図も見ない人なんだよ。
そもそも「長坂の戦い」すら知らないみたいなんだ。 <
Yahooで、「長坂の戦い」でも短里の方が適切だった、
という反論をしておいたよ。 >>609
>新野と襄陽との間の宣池付近から新野に移ったら襄陽から遠くなるだろw <
宛には近くなるから、宛の緊急時には、都合が良くなるんだよ、 >>609
>新野と襄陽との間の宣池付近から新野に移ったら襄陽から遠くなるだろw <
宛には近くなるから、宛の緊急時には、都合が良くなるんだよ。 >>612
>どうしてそんなウソつくの? <
もう、Yahoo地図などで確認して、訂正済み。
しかし、全体の論理には変更なし。 >>614
>>変な男。屯した場所が宛であったんなら、宣池の事も新野の事も書く必要がない。<
>え? 必要あるでしょ 水軍のいる宣池と離れてるからって理由
襄陽まで遠いからっていう理由
どれも宛から新野に2州の統括本部を移動する理由でしょ<
判っていないね。
「宛」に変事があった場合の話なんだから、
「宛」に「屯」していたら、そのまま出動するのであり、
襄陽も宣池(苑付近)も新野も、始めから間に合わない。 >>618
>妄想九州説<
「南→東」などの嘘つき騙しの妄想大和説。 >>629
>(「正北抵新羅])それ、平安時代まで九州王朝が続いてた前提のトンデモ説でしょ
万座の失笑買うだけ<
唐会要が記載した史料事実。
トンデモ大和説が、また、万座の失笑を買った。 >>631
>>相変わらず分かってないなぁww。
大和説にとって、「南≠東」と「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」の、
両方の行程記載が、致命的なんだよ<
>それ、二つとも信者しか支持者のいない珍説だろ、<
国民の過半数に支持されているらしい。 >>664
>>魏末期に会稽郡から上海付近が分郡されて、呉郡に編入された、<
>そんなデマ、流せば流すほど 九州説がウソつきという評判が広がり
どんどん世間で馬鹿にされるようになるのに <
wwという大和説者が、ついうっかり紹介した情報なの。 >>666
>その、投馬国までの距離が どうして判ったんだ? デタラメは通用しないよ<
不彌國から「水行二十日」だから。 >>666
>九州説が反論に詰まったからでしょ ww <
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が、反論に詰まったからでしょ?。 >>840
>wwという大和説者
全ww病が重いなww
それも私じゃないよww >>841
>不彌國から「水行二十日」だから。
その前に玄界灘に面した不彌國から、南へは水行できないんだが?ww >>672
>>ということで、苑は、(襄陽から宛への川の中間部付近の)新野と襄陽との間の宣池付近にあった事になり、<
>根拠なく宣池付近にしないでね。<
史料実態だよ。
>>襄陽から宛への距離の4分の1位の所であった事になり、<
>「4分の1位」という根拠は全く出てないね。本当は6分の1といいたいんでしょ。<
別の投稿で概算したら、「1里≒67m」で、短里だったよ。
>>それと「居住外縁部距離記載」という原則も適用すれば、<
>勝手な原則だね。襄陽は城壁で囲われているから外縁は明瞭だよ。<
別の投稿での概算では、外縁部論を使わなくても、「1里≒67m」で短里になったんだよ。
>>この「三百余里」は、短里で書かれていた、という事になる。<
>結論が飛躍しているね。 結局、こういうことだね。
「短里のために苑を襄陽近くに設定したい→現実と乖離した位置関係を言い張る→だから短里」
ずいぶんと明白な循環論だね。 位置関係が現実と乖離している時点で破綻しているけどね。<
「苑=宣池付近」に位置がはっきりしないが、襄陽と新野の間の襄陽寄り」としただけだよ。 >>674
>邪馬台国は京都にあったのじゃないかな・・大和川水系でなく淀川水系
>邪馬台国の王都は京都中心部<
「南≠東」などに拠って、×。 >>692
証拠の出せないことばかり言い張るのが九州説 >>848
また途中で投稿ボタンを押した事になっていた。
>証拠の出せないことばかり言い張るのが九州説 <
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
証拠もない事ばかりを言い張るのがを大和説。 >>694
>倭人の国は会稽東治之東ということになってる
でも実際の日本列島はずっと北
だから南水行の南は東の間違い<
九州は、会稽東治から「東〜東北東」の間になるから、会稽東治之東でほぼぴったし。
だから、「不彌國から南水行二十日の投馬国」の女王國が九州、という事でよく、
「南は東の間違い」にする必要がない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています