邪馬台国畿内説 Part361
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。 【骨 子】 ・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43) ・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6) ・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7) ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 前スレ https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1531131991/ ◆0【 要 旨 】 ( >>2-12 に各論、それ以下にFAQを付す ) 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。 その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか? それは桜井市纒向以外にありえない。 >>770 >伊勢神宮が皇室の皇祖神とされたのは、下手すると持統天皇から >天武・持統朝〜奈良時代に記紀が整えられるのと前後して、 >伊勢神宮、熱田神宮の神宝が三種の神器にされた可能性がそれなりに高い これはあり得る。 何しろ伊勢の鏡は大きさが八咫ではないようだから。 でも福岡では三種の神器のセットが紀元前から用いられており、それに習ったものであることは間違いない。 八咫の鏡も、名前だけ借りたのだろう。 オリジナルは平原の八咫の鏡ということになる。 >>782 まあだいたい賛成 レガリアの組み合わせを統計解析したわけやね(ベイズ? 平原1号墓出土鏡は八咫鏡じゃないよ 大きさも八咫じゃないし そう呼ばれた記録も、伝承もないし 「春三月に、難波宮に幸せる時の歌」 「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ船 泊まり知らずも」 「上の一首、船王の作」 奈良時代の後期難波宮(大阪市)からは「阿波の山」は絶対に見えない。 倭国(阿波)から遷都する前の飛鳥時代に宮が設置された前期難波宮は香川県さぬき市津田。 この歌は香川県さぬき市津田の前期難波宮で読まれた歌である。 @阿波 三種の神器か 天智天皇の時までは三種だったが、何故か天武朝になると、神璽は剣鏡になるんだな どういう意味があるのか? 一説によると鏡は日、勾玉は月を表していると言われている 草薙剣は元はヤマタノオロチのものだった 勾玉だけが皇居にあるのはどういう意味なんだろうか? 福岡の弥生時代の副葬品が三種の神器のセットというのは アマテラスやスサノオが半島神話の神器セット説になる >>786 船王は聖武天皇の時代だろ 手前に高い山があるのに讃岐から眉山は見えないだろ 難波津から阿波の山を目指して漕いでいく船は根無し草と歌った和歌 難波津を占領していた根無し草を蹴散らした歌だろう 阿波は嘘ばかり撒き散らして何がしたいんだ? 壬申の乱に敗れた難波は寂れていたんだよ 阿波咋はまたもや難波討伐に加担したのかな 難波津を占領していた根無し草を裏で操っていたのは阿波なのかもね >>788 スサノオはともかく、アマテラスは半島じゃないだろ。 見えてない山をイメージして歌を詠むようになったら特待生昇格だな 見たままの歌は凡人 >>791 多鈕細文鏡が神話の鏡という連呼説なんだろ 吉武高木のヒスイ勾玉は糸魚川産だけども >>785 >そう呼ばれた記録も、伝承もないし 否定する根拠にはならないよ。 記録は失われるものだからね。 出土したものから推定していかないと。 >>770 >ここは微妙なところはあるが実は話が逆 >三種の神器は案外新しい 上古の筑紫の伝統に則ったということでしょう ? >>791 アマテラスが半島なんだよ という話ばかり 実在していたとして 漫画やアニメ、ゲーム・・・・その他、 後に描かれた画などがあるでしょ、信用しないほうが良いという話 『朝鮮人』画像を調べてみて むかーしは朝鮮人だという事になっていたはず、 誰々というのが渡ってきて、国譲りのようなものがあって 神格(祭祀)のようなもの自体盗んだという話とか 方向転換、修正したの? 本来の、本当のアマテラスというのは・・スサノオ? このような話ばかりだったり 記紀は天皇崇拝のために創られただけ 北朝鮮の将軍様の神格化と同じ 倭国は九州に有り渡来人(天皇の祖先)に制圧されたのだ 其の後東遷しヤマト朝廷を築いたのだよ そしてね 仏教は伝来したのでなく渡来人が持ち込んだのだよ 朝廷が倭人なら神道一本だがね 何でも良いけど、仲良くするのが一番だよ あと、これも何度も書いた 家の近所には・・・・半島出身?の人たちが大勢住んでいて、 よく一緒に遊んだりしていたという話とか 戦前、戦後?の話(老婆談) >>551 大和説は 証拠が出せない 理由が言えない 目的語が言えない 「南→東」などのように史料事実の否定曲解をする つまり、まともな知性がない嘘つき騙しの・・・・集団。 >>555 >大陸への窓口として九州の伊都 本州のクナ、クニ、対外的には倭国< 倭國は「正北抵新羅」に拠って九州だし、 「南≠東」に拠っても×。 >>556 >ザラコクさんはこのスレ盛り上げるだけの人 以上です 自論を披露してくれませんか? 長いテンプレの半分程度で < 別に自論なんてものはありません。 知り得た文献考古の史料事実からの、帰納的確率的推論をしているだけであり、 古田説や古田史学会や宝賀氏や、松野氏姫氏系図などが根拠です。 >>558 >九州説に理由なし< 大和説は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しの・・・・宗教。 >>560 >ヤマト王権の最初の王は、纒向建設時の王だ ただ、伊勢遺跡の放棄と纒向遺跡の建設開始が連続するので、< 九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の国々、 としての関連があるだけであり、「連続」という訳ではない。 >伊勢遺跡の王も卑弥呼の共立に 参加していたと考えることに無理はない< 「南≠東」に拠って、×。 >>556 >あと、逆説的だけれど、畿内説に対して「根拠なし」っていうのが口癖w < 「畿内」なんて存在していないし、 「萬世一系皇国史観」という宗教文言であるから、学問ではなく、×。 >ちゃんと根拠を付けて説明してるのに、自分に不利なことを言われると、 どこがおかしいとかの具体的な指摘ができないものだから、「根拠なし」の 一言レスに逃げて、えらくなった気分に浸るんだよww < wwもスレ主も大和説者らも、 既に始めから「南→東」などの嘘吐き騙しをしてしまっているから、 信頼性が全くなく、・・・・的なもの×人間。 >>577 >以前のスレ主と変わった??? 数年前の「私はいつもIDつけてます」の書き込みと今のスレ主と別人ですね< 成程。何らかの組織が動いているんでしょうなねえ?。 >>581 >ザラコクさんは アンチ畿内説だけですか? 自論は無いのですか? アンチでも構いませんが< 古代史は、別に専門ではなかったし、 「戦前の萬世一系皇国史観の殺人テロや侵略戦争」を鼓舞扇動しようとして、 文献考古の史料事実を捻じ曲げて、 否定曲解をしている嘘つき騙しの宗教的な大和説組織が、 国家組織や学会教育界やマスコミを牛耳って、 国民を、また殺し合い戦争をさせようとしている事が、 黙過し難いだけです。 >>601 >畿内説が都合が悪い文献をことごとく無視する という証拠は?< 「畿内」という存在もしない文言を捏造しているし、 「南→東」や、 「正北抵新羅」の無視や、 倭国の「東征毛人五十五國」の無視や、 「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、 市を監督する大倭職の国」の無視など。 >>602 「(都合の悪い)史料事実の否定曲解」にかまけて、 中身のない誹謗中傷にかまけてる大和説が、 邪馬壹國女王之所都論争に負けたのは、 一目瞭然。 >>603 >九州説は魏志倭人伝で、伊都国、奴国から邪馬台国が水行陸行合わせて 2ヶ月もかかる遠地にある別の国だっていう基本を無視しているし、< 不彌國で萬二千余里がほぼ終了して男り、 「水行二十日」の投馬國は側副傍線國説明であり、 「水行十日陸行一月」は「女王之所都」の説明であるから、郡からの所要日数説明。 >卑弥呼の墓が径百歩だと明記されているのを無視して小さな方形周溝墓を 卑弥呼の墓だって言い張ってるよね?< 魏朝が採用した「周制」の周髀算経の一寸千里は、 「1里≒76.5m」であった事になり、 「1里=300歩」は変わっていないから、「1歩≒25.5cm」になり、 卑弥呼の墓の「百余歩」は25.5m位になり、 祇園山にほぼぴったり。 >この時点で九州説は破綻している< この時点でも、大和説は破綻している。 >>789 >船王は聖武天皇の時代だろ この歌は持統〜文武天皇時代に作った歌だろうね。 >手前に高い山があるのに讃岐から眉山は見えないだろ 「眉のごと」く見えたのは今の「眉山」じゃないよ。 その「手前に高い山」の阿讃山脈を香川県津田から見た歌。 今の眉山とは後世につけられた徳島市内の山。 >難波津から阿波の山を目指して漕いでいく船は根無し草と歌った和歌 >難波津を占領していた根無し草を蹴散らした歌だろう 苦し紛れの、勝って読み。 @阿波 >>816 >「水行十日陸行一月」は「女王之所都」の説明であるから、郡からの所要日数説明。 ザラコクさんは漢文が読めないからww 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 南、邪馬壹國に至る、女王の都するところ、水行十日、陸行一月。 南に十日水上を進み一月陸を進むと、女王が都をおく邪馬台国に着く。 「女王の都するところ」は邪馬壹國にかかる修飾句で、 邪馬壹國=女王之所都という関係なんだけど、ザラコクさんは違うって言い張ってるんだよね まあ、バカで学がなくて、間違いが認められない儒教道徳者だから、修正が効かない ずっと頭おかしいまま生きていくんだろうけど、本当に迷惑 祇園山古墳は東西約23.7m、南北約22.9m 合ってないね >>816 >魏朝が採用した「周制」の周髀算経の一寸千里は、 魏がそんなもん採用した形跡は皆無だ >>604 >>危急があった時には「苑」よりも「新野」の方が早く行ける、と言っているのであるから、 「苑」よりも新野の方が「宛」に近い筈であり、 という事は、「苑」は、襄陽と新野の間の、川の横の陣地であった、という事になる。< >横だが >魏の荊州治所が南陽市の宛城、呉との最前線が漢水北岸の樊城と南岸の襄陽城 宛城と襄陽城のちょうど中間(直線で約55kmくらい)にあるのが新野県 王昶が宛から新野に移したという話 「苑」は誤字< 張元済本では、「屯苑」であるから、 「苑=宣池付近」が襄陽と新野の間にあった、というような書かれ方をしている事になる、 >>821 「苑」と書いら 一体なんで 「襄陽と新野の間にあった、というような書かれ方」 だということになるんだ? 理由がまったく解らない >>605 >>襄陽→宛は川を下るのであり、新野はその途中にあり、< >おいおい、なにムチャクチャ言ってるんだ 襄陽の方が下流だろうが< うん、私の「位置関係の記憶の間違いであった」ようだ。 YahooやYahoo地図で確認したら、宛城(南陽市)の方が北方にあり、上流であった。 しかし、私の説明の概要には変更はない。 >宛より新野の方が襄陽に近いんだ 新野〜襄陽は65kmだ 三百里はそれより遠い 短里とか、あり得ないのが明らかだ < 「屯苑」の地(宣池付近)は、新野よりもかなり襄陽よりにあった、という事でなければ、 新野付近に陣を移す必要がない、という事には変わりがなく、 そうすると、襄陽〜苑は、その半分の30km位よりもはるかに短い、という事になり、 仮に20kmであるとすれば、それが3百里だ、という事だから、 割り算して、1里≒67mである事になり、 短里だ。 間違えてたの認めるのに、なんで結論を変えないの? 結論が先にありきの人だから? >>606 >>「誤字」とは考えておられないのだ。< >いずれにせよ、現存する刊本以前の誤字はそのままとなるわけだよ。< いずれにせよ、張元済は書陵部本の写真の(宛を?)を撮って確認した上で、「苑」を採用しているんだから、 張元済の手元の版本には「苑」と書かれていた本があった、という事だ。 >> 後代に「對海國を對馬國」に書き変える人がいても、「對馬國を對海國」に書き変える人がいないから、 對海國の方が「古文」であり「古形」だ。< >基本的に、書写した人や刊行本を作った人は書き換えをしないものだ。 底本が「對海國」となっていればそのままとなる。 紹興本「對馬國」は底本が違うのか、 紹熙本を作成時或は追刻時に「對海國」と誤記したのか、は分かりようがない。< 通常の写本や版刻では、「海」と「馬」の間違いは、 字形も意味も全く違うのだから、99%以上起こり得ない。 >「つしま」という音が残っている以上、紹熙本に誤記がおきたのであろうよ。< 全くのアホだね。 「つしま」という音韻になっている事を知った人間が、 「對海國→對馬国」の書き換えをする可能性があるんであり、 逆の書き換えは起きないんだよ。 >「古形」だ、とは恣意的。< アホ男に言っても判らんのだろうが、 後代にあった文言よりも、後代にはなかった文言の方が古文。 大和には群山あれどとりよろふ天の香具山 登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原はかまめ立ち(万葉集) 海のない奈良盆地にカモメは見えない ましてや海原なんて見えるわけなかろう >>824 >結論が先にありきの人だから? というよりも、畿内説スレの邪魔をする迷惑目的が主眼だから、 書き込む内容は何でもいいんだよ 嘘でもいいし、一言でもいいっていうのがザラコクさん >>823 >「屯苑」の地(宣池付近)は、新野よりもかなり襄陽よりにあった、という事でなければ、 >新野付近に陣を移す必要がない、という事には変わりがなく、 なんで襄陽より遠くに移転するんだ? 意味不明 >>826 目に映るものをそのまま詠むのが和歌って訳でもなかろうに 和歌じゃないけれど 「古池や蛙飛び込む水の音」ってのは 池の前にいてカエルが飛び込むのを目の前で見てなきゃ いけない訳じゃないのは分かるだろ? >>606 >>襄陽→宛は川を下るのであり、新野はその途中にあり、 危急があった時には「苑」よりも「新野」の方が早く行ける、と言っているのであるから、 「苑」よりも新野の方が「宛」に近い筈であり、 という事は、「苑」は、襄陽と新野の間の、川の横の陣地であった、という事になる。< この「下る」は間違いであった。 Yahoo地図などで確認したら、川を「上って」いた。しかし、論理は同じ。 >上流下流が間違っているし、「〜であり、〜にあり、〜であるから、筈であり、であった」と、 ひどい構成で、何を言いたいのかがよくわからない。< 普通に事実や理由を述べて、結論を書いているだけであり、 それが判らないお前は、おそらく人類の常識が判らないアホなんだよ。 >(北・上流)宛→新野→襄陽(南・下流)で、襄陽が呉との最前線だよ。危急の時に向かうのは襄陽。< 訂正済み。 >>606 >二州の水軍を習練し、農事の開墾と殖産を広め、倉の穀類は盈積した。 とあるように、戦のさなかではないから陣地は作らない。< 当たり前。新野は、新しい拠点。 >「苑」とは動物を飼う施設の意味だよ。「鹿苑」とかね。< 宣池のような池のある地であるから、「苑」で適切。 >川の側にそういった施設は作らない。だから川の側に「苑」という地名は付かない。< 緊急時に直ぐに出動出来るには、川に繋がった近い所がよい。 >「宛」という有力候補があるのに、無理のごり押しするのは恣意的。< 変な男。 「宛」に変事があった時に出動するんだから、「宛」が有力候補になる筈がない。 >他に「宛陵」が「苑陵」になっている誤字もあったよ。しかも同一記事内で。「宛陵」は丹陽郡の地名。< 何の本に?。短里と長里の問題に関係があるの?。 >>607 >原文も地図も見ない人なんだよ。 そもそも「長坂の戦い」すら知らないみたいなんだ。 < Yahooで、「長坂の戦い」でも短里の方が適切だった、 という反論をしておいたよ。 >>609 >新野と襄陽との間の宣池付近から新野に移ったら襄陽から遠くなるだろw < 宛には近くなるから、宛の緊急時には、都合が良くなるんだよ、 >>609 >新野と襄陽との間の宣池付近から新野に移ったら襄陽から遠くなるだろw < 宛には近くなるから、宛の緊急時には、都合が良くなるんだよ。 >>612 >どうしてそんなウソつくの? < もう、Yahoo地図などで確認して、訂正済み。 しかし、全体の論理には変更なし。 >>614 >>変な男。屯した場所が宛であったんなら、宣池の事も新野の事も書く必要がない。< >え? 必要あるでしょ 水軍のいる宣池と離れてるからって理由 襄陽まで遠いからっていう理由 どれも宛から新野に2州の統括本部を移動する理由でしょ< 判っていないね。 「宛」に変事があった場合の話なんだから、 「宛」に「屯」していたら、そのまま出動するのであり、 襄陽も宣池(苑付近)も新野も、始めから間に合わない。 >>618 >妄想九州説< 「南→東」などの嘘つき騙しの妄想大和説。 >>629 >(「正北抵新羅])それ、平安時代まで九州王朝が続いてた前提のトンデモ説でしょ 万座の失笑買うだけ< 唐会要が記載した史料事実。 トンデモ大和説が、また、万座の失笑を買った。 >>631 >>相変わらず分かってないなぁww。 大和説にとって、「南≠東」と「不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている」の、 両方の行程記載が、致命的なんだよ< >それ、二つとも信者しか支持者のいない珍説だろ、< 国民の過半数に支持されているらしい。 >>664 >>魏末期に会稽郡から上海付近が分郡されて、呉郡に編入された、< >そんなデマ、流せば流すほど 九州説がウソつきという評判が広がり どんどん世間で馬鹿にされるようになるのに < wwという大和説者が、ついうっかり紹介した情報なの。 >>666 >その、投馬国までの距離が どうして判ったんだ? デタラメは通用しないよ< 不彌國から「水行二十日」だから。 >>666 >九州説が反論に詰まったからでしょ ww < 「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者が、反論に詰まったからでしょ?。 >>840 >wwという大和説者 全ww病が重いなww それも私じゃないよww >>841 >不彌國から「水行二十日」だから。 その前に玄界灘に面した不彌國から、南へは水行できないんだが?ww >>672 >>ということで、苑は、(襄陽から宛への川の中間部付近の)新野と襄陽との間の宣池付近にあった事になり、< >根拠なく宣池付近にしないでね。< 史料実態だよ。 >>襄陽から宛への距離の4分の1位の所であった事になり、< >「4分の1位」という根拠は全く出てないね。本当は6分の1といいたいんでしょ。< 別の投稿で概算したら、「1里≒67m」で、短里だったよ。 >>それと「居住外縁部距離記載」という原則も適用すれば、< >勝手な原則だね。襄陽は城壁で囲われているから外縁は明瞭だよ。< 別の投稿での概算では、外縁部論を使わなくても、「1里≒67m」で短里になったんだよ。 >>この「三百余里」は、短里で書かれていた、という事になる。< >結論が飛躍しているね。 結局、こういうことだね。 「短里のために苑を襄陽近くに設定したい→現実と乖離した位置関係を言い張る→だから短里」 ずいぶんと明白な循環論だね。 位置関係が現実と乖離している時点で破綻しているけどね。< 「苑=宣池付近」に位置がはっきりしないが、襄陽と新野の間の襄陽寄り」としただけだよ。 >>674 >邪馬台国は京都にあったのじゃないかな・・大和川水系でなく淀川水系 >邪馬台国の王都は京都中心部< 「南≠東」などに拠って、×。 >>692 証拠の出せないことばかり言い張るのが九州説 >>848 また途中で投稿ボタンを押した事になっていた。 >証拠の出せないことばかり言い張るのが九州説 < 「南→東」などの嘘つき騙しのように、 証拠もない事ばかりを言い張るのがを大和説。 >>694 >倭人の国は会稽東治之東ということになってる でも実際の日本列島はずっと北 だから南水行の南は東の間違い< 九州は、会稽東治から「東〜東北東」の間になるから、会稽東治之東でほぼぴったし。 だから、「不彌國から南水行二十日の投馬国」の女王國が九州、という事でよく、 「南は東の間違い」にする必要がない。 >>694 >>宛に緊急の事があった時に直ぐに水軍が宛に行ける場所として新野を選択したんだから、 それまで駐屯していた苑(宣池付近)は、 >>襄陽と新野の間の、中間地点よりも少し襄陽よりの、その川に直ぐに出られるような場所だ。< >だから〜最前線は襄陽なんだって。北にある宛のほうが安全なの。宣池には舟が置いてあって訓練してるだけ。 勝手に水軍にしたり、苑を根拠なく宣池付近にしないでくれますかね。< だから、お前の漢文の訳が「張元済本の苑を全部宛に変えてあった」からおかしいんであって、 張元済本では、「屯宛」ではなく「屯苑」になっているようです、といってんだよ。 だから、書陵部本と張元済本の両方の該当箇所の漢文を転写してくれれよいんだよ。 >>826 >海のない奈良盆地にカモメは見えない >ましてや海原なんて見えるわけなかろう そうだね。 少なくとも奈良盆地ではない。 実際は、倭国(阿波)で詠んだ歌。 @阿波 >>696 >>後代の中国人学者らの中のかなりの人が、 「自己解釈に拠る書き換え」をする学者であった事は、 唐代史書などを見れば、直ぐに判る。< >「関心が無い」と言って、文献を読まない人が「自己解釈に拠る書き換え」と言っても説得力がないですね。 「かなりの人」というのだから、それなりの量のデータの提示でもなければ誰も信用しませんよ。 結局、これも根拠ないのにいつも言い張ってるだけなんでしょ。< 例えば、 www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wacomp.html での、後代史書の「魏志の書き換え」実態を見れば、判る。 後代史書の「魏志の書き換え」だって 理由もなく決めつけてるだけだないか >>696 >>これも×。 苑があったと思われる宣池の位置が、宛の緊急事態に間に合わないようなが場所であったから、 新野に陣を移したのあり、 だから、苑は、襄陽と新野の間の襄陽寄りの地。< >だから〜襄陽への緊急事態の対応だってば。戦闘中ではないのだから陣の展開もないよ。< だから、お前の訳文の、 『(王昶は)「今は(治所である)宛に駐屯し、襄陽から三百余里もあり、 諸軍は散屯し、船は宣池に在り、危急があっても相い赴くのに不足である」 と上表し治所を新野に徙(うつ)して、(荊・豫)二州の水軍を習練し、 農事の開墾と殖産を広め、倉の穀類は盈積した。 』 が信用出来ず、その中の「宛」を「苑」にしてみたら、 「今、苑に駐屯す。襄陽から三百余里の苑なり。諸軍は散屯し、船は宣池に在り。 危急があっても相い赴くのに不足である」と上表し治所を新野に徙して、 二州の水軍を習練し、農事の開墾と殖産を広め、倉の穀類は盈積した。 という事になって、駐屯したのが「宛」ではなく、「苑」になってしまう、 と言っており、 だから、書陵部本と張元済本の両方を、提示出て見ろ、って言ってんだよ。 >>696 >>変な男。屯した場所が宛であったんなら、宣池の事も新野の事も書く必要がない。< >失礼な奴だね。宛から襄陽まで遠いから新野に移すという話なのだから書く必要があるよ。< だから、それは「宛に屯していた」という場合の話だろ?。 張元済本では「苑に屯していて、それから襄陽まで三百里だ」となっているんであり、文意が全く変わってしまうのであり、 そういえば、Yahooの議論でも、「苑」の位置が新野の南北のどちらか?、という議論になっていた。 >>陳寿が「苑」と書いた事が判ったから、「屯する地」を新野に変更した意味が判った。< >「苑」は「宛」の誤字としたほうが無理なく説明できるよ。< 誤字説は、「誤字ではない」場合のあらゆる可能性を、 全て否定出来た場合にしか想定出来ないものだよ。 >>855 駐屯したのが「宛」ではなく「腕」だろうが「薗」だろうが そこは襄陽から見て新野より遠いんだ つまり短里なんて無いんだよ 証明された >>833 >宛には近くなるから、宛の緊急時には、都合が良くなるんだよ、 「去襄陽三百餘里」襄陽から遠いのが新野へ移した理由であるので 荊州治所がある宛の緊急時ではなくて最前線の襄陽の緊急時 241年の芍陂の役で、呉は揚州方面と荊州方面に進軍した 荊州方面では襄陽城の北岸の樊城を朱然が包囲し、 魏の荊州刺史の胡質及び都督の夏侯儒が援軍に向かったが 呉との兵力差が大きかった為包囲を解くことができなかった 一月後に司馬懿が到着して朱然を退却させた 新野に移した王昶は司馬懿が推挙した武将 王昶が治所を移したのは青龍三年 魏に短里なんて無いという証明だね 夏侯淵が長安にいないと言い張った古田御大といい・・・ 九州王朝説の人って三国志を読んでないよね △の陰謀のスレ 創価の話ばかりじゃねえか! と言ってる人がいたんだけど、なぜだと思う? 実際、調べてみると、何もなかったり(中身がない)、 色々と偽造とか、印、系図など? 本当に天王宮(てんのー?)などのほうが凄い ろっく(不明)直系〜という話と、 何やらの直系の家があるとかないとか >>825 >いずれにせよ、張元済は書陵部本の写真の(宛を?)を撮って確認した上で、「苑」を採用しているんだから、 >張元済の手元の版本には「苑」と書かれていた本があった、という事だ。 そうだね。間違えたままの版本がね。 >通常の写本や版刻では、「海」と「馬」の間違いは、 >字形も意味も全く違うのだから、99%以上起こり得ない。 何の根拠もない希望的な話だね。 >全くのアホだね。 >「つしま」という音韻になっている事を知った人間が、 >「對海國→對馬国」の書き換えをする可能性があるんであり、 >逆の書き換えは起きないんだよ。 書き換えはないんだよ。逆もないわけ。ただ誤記だけがある。 理解もしないで誹謗中傷ですか。 >アホ男に言っても判らんのだろうが、 >後代にあった文言よりも、後代にはなかった文言の方が古文。 誤記なら前代にも存在しないでしょ。 w w w また邪馬台国論争に敗北した九州王朝説じじいが荒らし始めたのか w w w >>830 >Yahoo地図などで確認したら、川を「上って」いた。しかし、論理は同じ。 危急の時に向かうのは襄陽なんだから論理は変わるでしょ。 >普通に事実や理由を述べて、結論を書いているだけであり、 それが判らないお前は、おそらく人類の常識が判らないアホなんだよ。 分からないから分からないと言ったんだが、それに返すのが誹謗中傷か?。 君の文:「Aであり、Bにあり、Cであるから、Dの筈であり、という事は、Eであった、という事になる。」 普通の書き方:「Aである。そしてBにある。またCであるのだから、Dの筈だ。という事は、Eであった筈だ。」 どちらが分かり易いかね。 >(北・上流)宛→新野→襄陽(南・下流)で、襄陽が呉との最前線だよ。危急の時に向かうのは襄陽。< >訂正済み。 いやいや、危急の時に向かうのは宛だと思ったままでしょ。 老婆の話によると 伊達郡というところの話をしていたりするんだけど、 福島県双葉郡浪江町、ここの近所? 当時住んでいた家に、 凄い刀(謎の刀)が飾ってあって・・? >>831 >当たり前。新野は、新しい拠点。 陣地をいう言葉を使ったのは君なんだが。 >宣池のような池のある地であるから、「苑」で適切。 >緊急時に直ぐに出動出来るには、川に繋がった近い所がよい。 水害の危険のあるところで多くの動物を飼育しないでしょ。だから不適切。 >変な男。 >「宛」に変事があった時に出動するんだから、「宛」が有力候補になる筈がない。 だから、襄陽が最前線なんだって。襄陽で変事があった時に出動するんだよ。 >何の本に?。短里と長里の問題に関係があるの?。 書陵部本の《吳志》巻三 孫皓傳の注で吳歷の引用部分。奚煕が賀惠を讒言する話。 四書文庫だと二か所とも「宛陵」。百衲本は未確認。 他にも「宛」→「苑」の誤記があるよってこと。 >>832 >Yahooで、「長坂の戦い」でも短里の方が適切だった、 という反論をしておいたよ。 単騎で劉備夫人を助け出す趙雲。長坂橋で仁王立ちの張飛。 前半のクライマックス「長坂の戦い」を知っているのかって話さ。 ウルトラマラソンの24時間(ロード)の世界記録が290kmだからね。 槍一本だけで馬を使えるなら115kmくらい行けるでしょ。(0.213x1800x300/1000) まぁ逃げる劉備を曹操が猛追するという物語を盛り上げるための演出だよ。 それに君の主張では短里は文帝が決めたのだろ?献帝の時代には関係がないはずだよね。 埼玉名字辞典 百済 『えびす』だと書いてあるはず(そもそもの話) 『松傾』がいて・・・。 >>672 >史料実態だよ。 勝手な解釈でしょ。 >「4分の1位」という根拠は全く出てないね。本当は6分の1といいたいんでしょ。< >別の投稿で概算したら、「1里≒67m」で、短里だったよ。 突然、結論だけ言われてもね。 >別の投稿での概算では、外縁部論を使わなくても、「1里≒67m」で短里になったんだよ。 突然、結論だけ言われてもね。 >「苑=宣池付近」に位置がはっきりしないが、襄陽と新野の間の襄陽寄り」としただけだよ。 ふーん。今度は 「短里のために苑を襄陽近くに設定したい→危急時に出動する先を襄陽ではなく宛と言い張る→だから短里」 としたわけかい。 循環論は変わらんね。 職業不明(学歴)?みたいなんだけど、 なぜ詳しいのかなんだよな・・・老婆も小学校しか行っていないし 当時住んでいた家には、 本や書なんかが沢山並んでいたとは言ってる 日本のにせ歴史を作ったあげく、他の国の歴史まで改ざんする九州説ってすごいわ 短里とか、中国人が一笑に付すよ >>698 実際にウソばっかついてるのは大和説者なんだけど。 証拠、あるよ。 >>702 こんなウソばっかりついてる大和説って、 とう終わりだよね 。 いや、とうとう終わりだ。 >>707 >その唐会要に倭国から藤原常嗣が来たと書いてあるんだからな 倭国の都は京都なんだよ 残念でした< その唐会要に「倭国使節を名乗った薜原朝常嗣が来た」と書いてあるんだからな。 倭国という国名呼称がまだ残っていた、という事の証拠になるんだよ。 残念でした 。 >>707 >その唐会要に倭国から藤原常嗣が来たと書いてあるんだからな 倭国の都は京都なんだよ 残念でした< その唐会要に「倭国使節を名乗った薜原朝常嗣が来た」と書いてあるんだからな。 倭国という国名呼称がまだ残っていた、という事の証拠になるんだよ。 残念でした 。 >>879 その倭国の都は京都だよ 九州王朝なんて、どこにも存在しないんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる