平原鏡はマンホール
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>>133
>作った八咫の鏡はどこにある?
日本人ですか? そんなことを疑問に思うなんて?
八咫鏡は、伊勢の御神鏡に決まってるだろうが!
そして、伝承というか記紀の伝えでは、崇神天皇の御代に形代を作っていて、
それが賢所の鏡
こちらも、八咫鏡の名で呼ばれる
この崇神天皇のときの、形代鋳造の試作品が日前神宮・國懸神宮の日像鏡という
社伝がある
一方、伊勢の外宮宮司家、渡会神道の神道五部書・御鎮座伝記の神鏡座事では、
日前神宮の日像鏡は、高天原で石凝姥神が八咫鏡を作ったときの試作品とされている 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。 >>135
>でもその鏡は八咫の大きさではないのでしょう?
神道五部書の御鎮座伝記・神鏡座事では、八咫鏡は日像八咫鏡とされ、
八咫は、八頭の古語と書いてある
八咫が大きさを意味するという、古記録、説話、伝承は一つもない
もともとは、原田大六氏の思い付きみたいなもの
神鏡座事の原文を載せておくよ
前半は、外宮の鏡のこと カギカッコ部分が、内宮の八咫鏡の記述
~鏡座事
一面者。從月天顯現之明鏡。
圓形座。三光天衆五飛龍守護~五座。是天鏡尊之鑄造白銅寶鏡也。
月天所作三面之内也。
崇祭止由氣宮是也。
大田命曰久。崇~天皇御宇止由氣皇太~天降坐弖。天照皇太~與一處雙坐。
于時從天上御隨身之寶鏡是也。~代天御中主~所授白銅鏡也。
是國常立尊所化~天鏡尊。月殿居所鑄造之鏡也。三才三面之内。一面是也。
今二面者。天鏡尊子天萬尊傳持給是。次沫蕩尊。次伊弉諾伊弉冉傳持給天。
~賀吉詞白賜弖。日~月~所化乃眞經津鏡是也。天地開闢之明鏡也。
三才所顯之寶鏡也。當受之以清浄。面求之以~心。視之以無相無位。
因以爲~明之正躰也。今崇祭一面荒祭宮御靈。一面多賀宮御靈坐。
已上三面辭竟奉支。
「一面者。八百萬~等以石凝姥~奉鑄寶鏡是也。是則崇祭伊勢太~宮也
一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。
中䑓圓鏡形座也。圓外日天八座。 」
一面者。日前宮座也。石凝姥~鑄造鏡也。初度所鑄不合諸~意。紀伊國日前~是也。
已上。~代寶鏡是也。 やはり、出土している事実は重いな
超大型鏡、その鏡が存在していた事は確実なのだから すべて卑弥呼よりはるか後世のものばかり。
筑紫の銅鏡文化が全国を席捲した痕跡に過ぎない。 >>140
そういうこと
平原は弥生時代終末期の墓であり、鏡は最古で最大
ここは重要だね
鏡文化の拡がりでいえば当然そうなる
古墳時代の大量鏡副葬文化はここからだろうし
そして、それは畿内では布留1以降、三角が副葬されるようになってから
ただ、思想の流行なだけかもしれんから、それは頭に置いている でかい鏡が出る墓は、そこかしこにあるけれど、
「その鏡が出たから王墓」だとは考えられていない
「でかい鏡を王墓に副葬するのが伊都国の文化であり、それが全国に広がった
平原はその発端であり、倭王の墓である」
という主張は、「現実」によって否定されるってこと
そして、大きな鏡は内行花文鏡に限らないし、平原1号墓の内行花文鏡の系譜は
どこにも引き継がれていない 平原1号墓の被葬者が、伊都国の歴史を考える上で重要人物だってのは認めてるよ
ただ、伊都国の歴史は史書にほぼ残されていないし、固有名を当てることは未来永劫できないだろう >>144
>伊都国は国邑の名であり、国家としては倭国ですね。
国家としては倭国なのはいいとして、国邑ではないよ
末慮国と同格 倭国の中に邪馬台国があって、その中に伊都国があるなんていうのは
二重帳簿詐欺だろう、と 纏向珠城宮皇女倭姬命伊勢國渡遇之宇遲乃五十鈴河上之邊。
立礒宮御座之時爾。狹長田之猿田彥大神。宇遲土公氏人遠祖神也。
齋內親王。神主部。天村雲命之孫。大若子命弟。乙若子命等也。
物忌等。天見通命之孫。宇多大牟禰奈。大阿禮命等也。
訓悟白久。「凡天地開闢之事。聖人所述也。爰伊勢天照皇太神。
五十鈴乃河上爾御鎮座之制作。未露紙墨。故元始綿邈。其理難言志。願爾諸聞給倍。
『吾是天下之土君也。故號國底立神也。吾是應時從機比。化生出現之。故號氣神。
吾亦根國‧底國與理麤備疏備來物仁。相率守護之。故名鬼神。
吾復為生物仁授與壽福之。故名-大田神。吾能反魂魄之。故號興玉神。
悉皆自然之名也。物皆有效驗。我將辭訖。』遂隱去矣。」 纏向珠城宮皇女倭姬命伊勢國渡遇之宇遲乃五十鈴河上之邊。
纏向珠城宮、皇女倭姬命、伊勢國渡遇の宇遲の五十鈴河上の邊り。
纏向珠城宮(垂仁天皇のこと)の皇女である倭姬命が、
伊勢国渡会の宇治の五十鈴川の川上の辺りに、 立礒宮御座之時爾。狹長田之猿田彥大神。宇遲土公氏人遠祖神也。
礒宮を立て御座の時に、狹長田の猿田彥大神は、宇遲土公氏人の遠祖神なり。
礒宮を立て御座(御神鏡をお祀りしようとした)時に、狹長田に猿田彥大神がいらっしゃったが、
宇治の首長の一族の遠祖神であある。 宇遲土公氏人遠祖神也は、狹長田之猿田彥大神に付けられた注記
二行書きの小さな文字で書かれている 齋內親王。神主部。天村雲命之孫。大若子命弟。乙若子命等也。
齋內親王。神主部は、天村雲命之孫、大若子命弟、乙若子命等なり。
齋內親王(後の斎王、倭姫のこと)、神主部は天村雲命之孫で大若子命、弟乙若子命等である
天村雲命之孫。大若子命弟。乙若子命等也は、神主部に付けられた注記
二行書きの小さな文字で書かれている 柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(平原王墓p22)
「近年、韓国・・・から同類の瑪瑙管玉が多量に出土しており、時期については明記されていないが
共伴している土器や鉄器が三世紀前半から四世紀と考えられているものであり、多少前後するとし
ても韓国と日本で限定された時期に見られ、二世紀の古いものではない。
大型鏡の・・・銘帯の退化や主文の簡略化があり、中型鏡の・・・主文配置のずれ、L字文の逆方
向、銘文のずれ、鈕の大型化などがあり、その制作年代が三世紀になることが確実になった。」 物忌等。天見通命之孫。宇多大牟禰奈。大阿禮命等也。
物忌等は、天見通命の孫、宇多大牟禰奈、大阿禮命等なり。
物忌等は、天見通命の孫、宇多大牟禰奈、大阿禮命等である。
天見通命之孫。宇多大牟禰奈。大阿禮命等也は、物忌等に付けられた注記
二行書きの小さな文字で書かれている >>154
>銘帯の退化や主文の簡略化があり
要するに、仿製鏡大量生産のための手抜きだよな
倭王の葬祭に、手抜き鏡でいいのか?
>>139に挙げられた鏡は、どれも王墓とはされていない古墳からの出土だが、
平原1号墓出土鏡よりすばらしい優品ばかりだぞ 平原遺跡の超大型内行花文鏡の紋様は、象徴としての抽象化の結果だろうね。
より無条件に神秘性を表現することができる。
中国人から見た卑弥呼の鬼道とは、初期神道の祭祀そのものだよ。 「手抜き」は主観
「内行花文鏡本来の施紋原則から逸脱してる」なら事実
「その施紋方は受け継がれていない」は現時点で事実
「古墳時代の作鏡に影響を与えていない」も現時点で事実
「鏡作りの技術史において平原の内行花文鏡の位置付けはさほど大きくない」は事実から導かれた所見 >>160
えっと…、成分分析されてる方の意見だと、三角などの制作技術は、平原から受け継がれているとの話だったが…
基本的に話がずれていて、技術云々は工人の違いであり、鏡副葬文化の継承の考察とはまた違う
紋様の問題などはその鏡副葬文化"内"での話だし
時代や地域が違えば好みの鏡も違うだろう 平原1号墓出土鏡で、単なる同心円が引かれているだけの領域が、
他のまともな内行花文鏡でどのように表現されているかを見れば、
平原1号墓出土鏡が「手抜き」だってのは分かると思うぞ!
>>139にも3枚、内行花文鏡があるから見てごらん
九州説、伊都国説の人は、周りもちゃんと見れば、自分たちが
根拠のないことを言っていることに気づくと思うよ 抽象化しただけだろ。
単にあんたは平原遺跡が怖いから、無駄な抵抗をしているだけだ。 なんのための抽象化だ?
王のためなら、これでもかと意匠を凝らすものだろ?
実際>>139に挙げた鏡はどれも細かいところまで隙間なく文様を彫り込んでいる
しかもどれも倭王(大王)墓とはされていない古墳の副葬品だ
要するに、平原1号墓出土鏡は「大きくすることだけ」が目的の手抜き鏡なんだよ 平原1号墓しかない九州説は虚勢を張らなきゃいけないから大変だな 嫌われているのは平原遺跡やそこからの出土鏡ではなく
嘘をついたり荒らしたりして周囲に多大な迷惑をかけながら
自分の妄想を押し付けようとする伊都クズの所業 >>163
平原以前の日本製と思われる鏡で、平原より精巧な鏡ってある?
手抜き?の意味がわからん
「日本」での最新技術にしか見えんが? >>168
>平原以前の日本製と思われる鏡で、平原より精巧な鏡ってある?
以前、と区切る必要があるのか?
平原の年代があやふやだから、何をもって平原以前とするのかが分からないんだが?
鏡に限らなければ、弥生中期の祭祀用青銅器で平原1号墓出土鏡よりも精巧なものは
いくらでもあるが? >>169
誤魔化さないで銅鏡で答えろよ。
畿内説だと平原遺跡は2世紀なんだろ? 何を以て精巧であると言えるのか明確でないが
たてえ精巧であると評価できうるとしても
同時代や次代にデザインや技術的に影響を与えていないなら
それは技術史的には進化の袋小路に入り込んでると評価されるだけ >>171
平原遺跡の鏡が弥生時代の最高傑作という意味ですね。 弥生時代のねw
古墳時代の鏡にはまったく影響を与えていないw >>172-173
なんで連投にするの?
複数名いる芝居でもしてるの? 弥生時代の仿製鏡ってのが、あまりないからね
弥生時代の鏡はあくまで舶載鏡が重視されたのであって、仿製鏡の大量埋納というのは
平原1号墓以外ではあまり聞かない
魏から銅鏡100枚もらった卑弥呼の墓に、大量の仿製鏡を破砕供献するというのは
理由が分からないww
まあ、普通に考えて、卑弥呼よりも前の世代で、大陸からの舶載鏡が得られなかった時代に
がんばって仿製鏡を作ったんだろうなってところだね
仿製鏡がいくらたくさん出たところで、それが卑弥呼の墓の根拠にはならないだろ
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない 卑弥呼より前の時代なら、後漢鏡をそのまま使えばいいだけですね。
漢が滅亡したからこそ、仿製鏡を作ったのでしょう。
つまり、平原遺跡は倭国大乱後の卑弥呼の墓の可能性が高いです。
耳璫の年代も、2世紀に遡るのは困難です。 >>176
つまり、日本での技術が最新という事だよな >>177
>後漢鏡をそのまま使えばいいだけですね。
それが、実際には使われていないだろ? >>178
>つまり、日本での技術が最新という事だよな
鏡以外の、銅矛とか銅鐸では、立体整形のもっとでかいのを2世紀には作ってる
半肉彫りでもない鏡を作る分には、技術的には特に問題はなかっただろ?
最新技術というほどの技術はないだろうに >>177
>つまり、平原遺跡は倭国大乱後の卑弥呼の墓の可能性が高いです。
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓は、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない >>180
>鏡以外の、銅矛とか銅鐸では、立体整形のもっとでかいのを2世紀には作ってる
銅鐸の技術は途絶したろ。 銅鏡としては連続してる(キリッ
矛の形と名称は連続してる(キリッ
こいつバカだな… >>182
>銅鐸の技術は途絶したろ。
銅鐸の鋳型の出てる唐子鍵の近くに、鏡作神社があるんだよ
三角縁神獣鏡は、銅鐸を作っていた青銅器作成集団が作ったと考えてよい >>188
>三角は魏晋鏡だよ
その後の、大量の仿製鏡を作ったのが、鏡作神社周辺って話 >>190
結局は大和も仿製鏡だな。
平原遺跡の仿製鏡をさんざん馬鹿にして、その挙句がこれだ。 >>190
いや、かつては舶載とボウ製で区分されてたけど
技術的な視点では両者の区分は不可能ってなってるんだよ >>188
三角は最新では国産説の人が多そうだが?
石野さんとかそうだよね >>193
確かに判断は難しいが、三角に関しては国産、外国産とそれぞれ思われていた鏡が実は一緒の型から作られていた事がわかったのだよ
つまり、魏の地域で出土していない以上、やはりどちらも国産の可能性が強いと"普通"は考察するだろうね
そして、三角は古墳それぞれの在地で作られている場合が多い事もわかってきた
配布説は終了かな 石野博信「墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の「布留式土器」と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器といっしょに出てくる例は一つもない。
それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるんでしょうが、それにしても、ひとつもないのはおかしい。新しいんだろう。」
森浩一「神獣模様や三角縁を持った鏡は長江下流の江南地方に多く発見され、明らかに呉があった地方と関連している。」
白石太一郎「三角縁神獣鏡の変遷過程は極めて連続性が高く、各段階によって製作地が異なるという前提はとても考えることができない。第四段階が日本で作成されたものなら、第一段階も日本で作成したと言わざるをえないだろう。」
菅谷文則「それでは日本への輸出、厳密には卑弥呼への下賜品として特別に鋳造(特鋳)されたものであろうか。これはまず成り立たない仮説といえよう。
魏より前代ならびに魏と同時代の呉、魏に続く晋代においても日本にのみ出土し、中国に出土しない中国鏡はない。三角縁神獣鏡のみがそうであるとする特別の根拠もない。」
原口正三氏「あくまであれは魏でつくったのだと言い張っているのは、もう信仰にも近い考えだろうと思っています」 三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良 長方形鈕孔や外周突線が大陸製の鏡と共通してるし
渦文が大陸製鏡の変化と連動してるし
倭鏡の鏡師が理解できなかった漢字をきちんと最後まで認識できてるし
倭鏡の鏡師が理解できずに怪獣化させた神仙と神獣像も最後まで破綻させないし
倭にはいるはずもないゾウやラクダもきちんと描いているし
同時代の倭鏡には見られない同笵技法を使うし
作鏡技術からみれば倭鏡の鏡師とは隔絶してるオーパーツなんだが なんだか平原の鏡が言われていることと似たことが言われている… >>192
>平原遺跡の仿製鏡をさんざん馬鹿にして、その挙句がこれだ。
じゃあ、平原より前でとか区切る必要ないな?
>>139にあげた9枚の巨大鏡と比べたら、手抜きだろ? >>195
>三角は古墳それぞれの在地で作られている場合が多い事もわかってきた
>配布説は終了かな
それだと椿井大塚山古墳と同じ鏡が九州で出るのが説明できないだろ? >>202
>平原が後漢滅亡後だという証拠だね。
いんや、公孫氏による遮断の後ってだけだな >>204
>つまり倭国大乱後。
>卑弥呼か壹與しかない。
そんなことはない
そもそも平原1号墓野被葬者は、倭王でもなんでもない
そこらの地方首長なんだから、いくらでも地方首長はいるだろう 九州説だと、平原1号墓くらいしか、卑弥呼の墓の候補がないんだよな
でも、平原1号墓は
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓で、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない >>206
条件は周辺に鉄があり、鏡文化の地域
墓の様相は大陸との関連が深い事
平原以上の墓はないだろ >>207
魏朝から銅鏡100枚もらってる
⇒ 魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されていない
倭王なら倭国が続く間はその墓も尊重される
⇒ 周溝が埋まるくらいの時間で、墳丘内に土壙墓を掘られる
魏志倭人伝に「大作冢徑百餘歩」と書かれている
⇒ 魏尺の度量衡で、十歩に満たない
これでどうやって卑弥呼の墓だと主張するんだ?
>条件は周辺に鉄があり、
鉄は弥生時代ならどこにでもある
>鏡文化の地域
弥生時代中期後半には、相当広い範囲で鏡の副葬が見られる
北部九州の専売ではない
>墓の様相は大陸との関連が深い事
方形周溝墓が大陸との関連が深いなどというのは聞いたこともない >>208
当時の鏡文化の中心は間違いなく北部九州だよ
他に鏡が多量に出土する地域がどこにある?
そして、大陸との関連は周辺の楽浪土器の出土で判断できるね
平原はジトウ一つでも十分
鉄は畿内にはかなり少ない
どこにでも出土する、は間違いだね
そして、その鉄も明らかに多数出土する地域と少ししか出ない地域と格差がある >>209
>当時の鏡文化の中心は間違いなく北部九州だよ
「当時」ってのが、「いつ」なのかって話
紀元前から1世紀、2世紀初頭(107年帥升等の朝貢)までは九州が中心でよいが
その後2世紀中に、北部九州も舶載鏡が入手できなくなっている
そこから100年以上も後の、3世紀半ばには畿内に中心が移っていたって話だよ
九州説の根拠は全て古い
焦点は編年なんだよ >>209
>多数出土する地域と少ししか出ない地域
これは、「出土数」であって発掘バイアスをまったく考慮していない、雑な議論
弥生化は、鉄と稲作が特徴であり、弥生文化の地域で特に鉄が不足していたと
考えるべき状況は観察されない >>209
>平原はジトウ一つでも十分
逆だろ?
耳璫ひとつしか、頼るべきものがないんだろ?
ガラス製品は、丹波の大府路南墳丘墓の方がよっぽど大量に見事なものが出ているよ >>210
>その後2世紀中に、北部九州も舶載鏡が入手できなくなっている
それは倭国大乱に加えて、漢が滅んだせいもある。
>そこから100年以上も後の、3世紀半ばには畿内に中心が移っていたって話だよ
そこはウソ。
そもそも卑弥呼の即位は2世紀末だし、その時点で畿内の台頭はない。 >>212
そんなところを王墓だと言っている人はいない。
持ち出す意味がない。 何より平原1号墓は
周溝が埋まるくらいの時間で、墳丘内に土壙墓を掘られるような、忘れられた墓なんだよ
そんな墓を倭王の墓と強弁するのはむなしくないか? >>211
すり替えるな。
不足ではなく、鉄がたくさんあったのに、纒向は弱小なので入手できなかっただけ。 >>215
それしか反論で頼るところがないのか。
では纒向の遺跡はさぞかしご立派なんだろうな? >>217
>纒向の遺跡はさぞかしご立派なんだろうな?
纏向遺跡だけじゃなく、弥生終末期の地域首長墓(いわゆる王墓級墳丘墓)は
どこも立派なんだよ
北部九州を除いて、ね!
各地の地域首長墓、いわゆる王墓級弥生墳丘墓の大きさ
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え、四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある
纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
北部九州でも、
須玖岡本遺跡D地点王墓や三雲南小路遺跡王墓は、30メートル四方程度の墳丘があるし
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓も南北約40メートル、東西約27メートルの大きさがある
平原1号墓の墳丘サイズは、平原遺跡の案内看板の数値で、13×8メートル
吉野ヶ里の北墳丘墓の10分の1 >>216
>不足ではなく、鉄がたくさんあったのに、纒向は弱小なので入手できなかっただけ。
畿内に鉄がない、ってのは、単に九州説の思い込みなんだよ
纏向遺跡からも、鉄用の砥石が大量に出てるし、
鉄が行き渡ったことのひとつの指標になる「石庖丁の消失」もむしろ畿内の方が九州より早い
畿内で鉄の出土が少ないのは、発掘バイアスが一番大きいんだと思うよ >>219
>墓の大きさは王かどうかと関係ないと言うことだよ。
立派であることは認めるんだな?ww
そして、王の墓が小さかったら「示しがつかない」んだよ
その辺を無理に意識せずにやり過ごそうとしているけれど、弥生終末期の
活発な人の移動の中で、各地の首長が王墓級の巨大墳丘墓を作っているときに
倭国王の墓がしょぼかったら、誰も倭王と認めなくなる
平原1号墓じゃ無理だろ? >>220
>畿内で鉄の出土が少ないのは、発掘バイアスが一番大きいんだと思うよ
纒向は散々掘ったろ。 >>221
>そして、王の墓が小さかったら「示しがつかない」んだよ
勝手論理。 >>221
>勝手論理。
またお前かw
具体的な指摘ができないなら無駄だよ
古今東西で、臣下よりも小さな墓を作っている王がいたら教えてくれよ では言い直そう
同じ国の中で、王以外に王墓よりも大きな墓の造営を許した王朝があれば教えてくれ 邪馬台国ではないから、同じ国とは言えないよ。
倭種でしょ。 それが通らないって話をずっとしてるんだが?
>>225で「親戚筋がいる」って書いてたのはどこのどいつだ? 土器の移動から見て、人の行き来も盛んだし、
土器様式も庄内期には一体化し始めているし
布留式期になれば、前方後円墳祭祀も共通になる
別の国とする理由がないだろう?
九州説に不利だという理由以外はww 三河国も尾張国も日本の中だろ?
3世紀なら同じ倭国の中だよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています