平原鏡はマンホール
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>>232
3世紀前半、権力者の墓の様相はバラバラなのに、逆に同国とするのは何故?
4世紀以降だったらまだわかるが…それも微妙になってきてるが…
土器は庶民の流行、交易のあった証でしかない
文化を受容する事も多々あるし
交易は弥生時代から既に盛んだから、その結果だろうね >>233
日本という構成の枠組みを持ち出すなよ。 >>234
>3世紀前半、権力者の墓の様相はバラバラなのに、逆に同国とするのは何故?
なぜ「一斉に巨大な墓を作り始める」んだと思う?
同じ国の中での争いだからだよ
同じ国の中の群雄!
ああ、九周は参加できてないけどね
弱小だから >>239
>>218に挙げられたいわゆる王墓級弥生墳丘墓の年代を調べてごらん
全部卑弥呼の時代より古いんだよ 畿内説は、卑弥呼よりずっと前か直後くらいの話しかしないね。 >>242
>畿内説は、卑弥呼よりずっと前か直後くらいの話しかしないね。
九州説の出してくる根拠が、卑弥呼よりずっと前のものばかりだからだよ
畿内纏向遺跡は、卑弥呼と同時代の倭国の王都だぞ 結局纒向にしがみつくしかない。
でも粗末な建物だけで宮城はない。 だーかーらー、北部九州で時代のあう粗末じゃない建物を挙げてくれ
纏向遺跡辻地区の、柵列付き建物群は、十分に立派だよ
これを超える建物を、早く見つけてね! 伊都国説は、でかい鏡にしがみつくしかないけれど、
八咫鏡ではないことははっきり示されてしまったし、
平原1号墓には古い舶載鏡しかないし、平原遺跡の他の墓はみんな副葬品もしょぼいし
もうこれ以上、うったえるべきものもないだろ?
>>226の
「同じ国の中で、王以外に王墓よりも大きな墓の造営を許した王朝があれば教えてくれ」にも
結局答えられないし、もうダメポなのは明らかだろw >>243
巻向はなぁ、
王都?北部九州とは他の勢力だね
大陸の品物、鉄や土器等の出土状況から、北部九州との関連がみえないのが致命的
布留0になりようやく鉄が入ってくるね
しかし、卑弥呼は3世紀前半には既に擁立されているんだよ
また、3世紀前半はまだ北部九州とは文化的差異もあり、巻向を都とするにはかなり厳しい >>267
各地にできる3世紀前半の巨大な墓は同じ様相なのかい?
違うならば別の文化圏でしかない
文化が違えば、墓の大きさや様相も違うのは当たり前で、もちろん信仰や埋葬の考え方も違う
大きさを勢力の比較材料にできるのは、同時代で同文化圏だけだよ >>247
>同じことを繰り返すばかりのキナイこそネタ切れか?
有効な反論がないからね
バカ除けにちょうどいいんだよww >>249
>大きさを勢力の比較材料にできるのは、同時代で同文化圏だけだよ
魏志倭人伝にも書いてあるだろ
皆倭種だって
つまり、同じ倭種の同じ文化なんだよ
そうすると九州説の成り立つ余地が一切ないのが分かってるから逃げる逃げるww
でもただの詭弁だから、ごまかすことすらできてないw >>251
>つまり、同じ倭種の同じ文化なんだよ
同じ倭種だけど、同じ文化だなんて魏志倭人伝には書いてないよ。 >>248
>大陸の品物、鉄や土器等の出土状況から、北部九州との関連がみえないのが致命的
これを九州説の人は一生懸命言うけど、九州が畿内に何の影響も与えられなかったってだけで、
九州は畿内の祭祀土器の受け入れを始めとして、完全に傘下としての文化になっていく
それが畿内第V様式の頃から次第に進んでいく
卑弥呼の頃に無縁の別勢力っていうのは考古学的遺物の発掘状況からも否定される >>252
>同じ倭種だけど、同じ文化だなんて
同じ倭種だけど、同じ文化じゃないなんて、ものすごく恣意的なご都合主義だよね >>253
畿内だけ特別視するなよ。
筑紫には全国の文化が集まり、一方的に王都に全てが集約されていただけだよ。
筑紫と大和は対等ではなく、筑紫にとっての大和はワンオブゼムに過ぎない。 >>255
>筑紫と大和は対等ではなく、筑紫にとっての大和はワンオブゼムに過ぎない。
いくらがんばっても無駄だよ
佐々木先生の「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」の
ずいぶん恣意的なコピペを何度も貼ってたけど、畿内第V様式から順に、
九州が畿内の土器を受容している
輸入してるんじゃないんだよ
祭祀用の供献土器を受け入れるというのは、畿内の祭祀様式を受け入れたということ
政治も祭事もマツリゴトの時代なのだから、畿内の政治勢力を受け入れてるってことだよ
畿内と九州を別の国にするのも無理
九州の方が中心と言い張るのも無理
九州は女王の都、邪馬台国から遠いから一大率を置かれて監視される存在なんだよ 土器なんておまけじゃん。
最も重要な祭器は鏡であり、その鏡を筑紫から受け入れたのは畿内の方だよ。
どうでもいい重箱の隅をつつくことでまぜっ返すくらいしかできないのが畿内説。 >>257
>土器なんておまけじゃん。
>最も重要な祭器は鏡であり、その鏡を筑紫から受け入れたのは畿内の方だよ。
>どうでもいい重箱の隅をつつくことでまぜっ返すくらいしかできないのが畿内説。
だから、チェリーピッカーって言われるんだよ
前方後円墳祭祀という、首長継承儀礼を兼ねた葬送儀礼を受け入れているという
大枠を見ない聞こえないでごまかそうとする
前方後円墳祭祀が畿内纒向で作られたことは考古学的に確実
その前代から畿内の土器を受け入れ、最終的に葬送祭祀のシステムすべてを
畿内式に変更しているのが北部九州
無縁の別勢力ということも、九州の方が盟主ということも不可能だよ チェリーピッキングはそっちだろう。
祭祀をテーマにするなら、その中心的祭器である鏡を重視して当然なのに、土器の話ばかり。
畿内が筑紫の銅鏡文化で塗りつぶされていき、前方後円墳はそのその部分要素に過ぎない。
都合の悪い話は徹底的に無視して、自分の頭の中で練り上げたストーリーばかりを繰り返している。
ほぼすべての弥生文化が西高東低であり東遷するという大枠が見えていないのは自分だろう? >>259
>その中心的祭器である鏡を重視して当然なのに
鏡は、北部九州の専売特許じゃないから、言い張っても無駄だよ
とにかく、土器の移動と最初期から北部九州でも前方後円墳を作っている時点で
「北部九州と畿内が別の国」も
「北部九州が盟主」も、成り立たないんだから、何を言ってもごまめの歯軋りだよ それより、北部九州で盛行した巴形銅器の話を一切しないのはどうしてだ? 三角縁神獣鏡はマンホールの蓋!
http://blog-imgs-64.f c2.com/1/9/4/19481941/20140424232036c50.jpg
NGワードに引っかかるので、途中にひとつ半角スペースを入れてるよ >>261
銅鐸と同様に、後世に継承されていないからだろう。 >>260
「とになく」で誤魔化すなよ。
畿内説は言葉数は多いくせに説得力がなく、空虚だ。 >>264
>「とになく」で誤魔化すなよ。
そういう一行レスでごまかすのではなく
何をどうごまかしていると主張したいのか「具体的な指摘」をどうぞ
そして、「祭祀土器と前方後円墳祭祀を、九州が受け入れている」ことに対する
有効な反論はできないってことでいいな?
↑
具体的な指摘 >>256
祭司土器は献上品の可能性も高い
巻向に北部九州の土器がないのと、これはあまり関係ない
考古学的には巻向は北部九州との関わりが薄かった、ただそれだけ
つまり、北部九州の庄内土器とは巻向の地域は関連性が低いという事
北部九州の庄内は胎土研究で播磨の多いという話はどうなったのだろう? >>260
鏡副葬文化は北部九州からの流れなのは明らかだろう
畿内は布留0から古墳に副葬される事が多くなる古墳の鏡の大量副葬は北部九州からの流れだね
思想の流れでしかないので、だから同じ国だとか、征服したとかは違うと思う >>266
>祭司土器は献上品の可能性も高い
可能性はないよ
受け入れた後、畿内様式の土器を奴国の中心、比恵・那珂遺跡群で作るようになってる
>考古学的には巻向は北部九州との関わりが薄かった、ただそれだけ
そんなことはないのは
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
を読めば明らか
庄内期の前から、畿内と北部九州の人の行き来は明確
3世紀前半の弥生時代末期、土器、青銅器、鉄器、水銀朱などの多種多様な物資が
日本各地で盛んに流通していたことが確認されている。物資の流通は旧石器時代以降
確認できる現象であるが、弥生時代終末期は遠隔地からのモノの流通を含み、前時代よりも
遥かに交流が盛んにおこなわれたという特徴がある。このような中で3世紀前半には
奈良盆地南西部の纒向遺跡など、交流の拠点となる場所に大規模な集落が形成され、
そのような拠点集落では、地元ばかりではなく遠隔地を含む他地域からの土器が多く見つかっている。 >>267
>鏡副葬文化は北部九州からの流れなのは明らかだろう
邪馬台国の時代に入る前から、西日本の広い範囲で鏡の副葬は見られるんだよ
その淵源を、紀元前の北部九州に求めるのは構わないけれど、2〜3世紀には
北部九州の専売特許でもなんでもない
それを、九州がえらいんだーといってもしょうがないってこと 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>269
でもその鏡の大量副葬の文化の中心は伊都の三雲南小路遺跡や平原遺跡だろ? >>271
>三雲南小路遺跡や平原遺跡
三雲南小路遺跡から、平原1号墓まで200年くらい間が空くんだが? 平原1号墓は、同じ九州の王墓ではない特定家族墓(地域首長家系)の
吉野ヶ里の北墳丘墓の10分の1サイズ
三雲南小路、須玖岡本D地点以降、北部九州の王権は失われているんだよ 三雲南小路が王墓で平原が王墓じゃないなんて、こいつ馬鹿だろ。 平原1号墓と平原遺跡の区別も付かないやつが何か言ってるww 方々でこれから逃げ続けているやつがなんか言ってる
平原1号墓は
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓で、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない まともな反論がひとつもないからね
>>278も反論できていない
これだけで決まりってことだ 平原1号墓は
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の十分の一サイズ
その北墳丘墓では、墳丘の軸線に合わせて大柱を立てその先に祭祀用の小さな建物を建てており、
平原遺跡の5号墓、1号墓に同様の大柱があり、1号墓には祭祀用の小さな建物も確認できることから、
共通の墳墓祭祀文化であることが分かる
その上で、時代が先行する吉野ヶ里の首長家系墓より小さいという点で、倭国の王墓とは認められない >>281
>だからなんだ?
>バーカ
反論できないってことだな? >>284
>時代が違えば意味がないと何度も…
そうだよな!
邪馬台国と時代の違う平原1号墓を卑弥呼の墓だと言い張っても意味がないよな >>284
>時代が違えば意味がないと何度も…
時代が違うっていっても、より新しく権力基盤も大きくなっているはずの時代の方が
小さくなるというのは道理に合わないだろう?
さらに、同時代の倭国内の他地域では、各地域の首長墓が巨大墳丘墓になっている時代だ
そこで、ほんの1,2世代前の吉野ヶ里遺跡の地域首長墓より圧倒的に小さい
十分の一サイズの方形周溝墓を、吉野ヶ里地域をも包含する倭国の王墓と主張するのは
無理があるだろう >>286
>小さくなるというのは道理に合わないだろう?
そう考える理由は? >>286
だからさ、勢力の推移や社会状況が謎なのに、時代が違えば比較しても意味がないだろ? >>285
平原は年代はわかってないよ
ジトウや鏡の紋様、ガラス製品の技術から、2世紀末より古くない事だけわかっている そして2世紀末に卑弥呼が即位したと考えられている。 >>288
>だからさ、勢力の推移や社会状況が謎なのに、時代が違えば比較しても意味がないだろ?
だ・か・ら・さ、卑弥呼の時代と>>218に挙げた大墳丘墓の年代は対して違わない
せいぜい1世代50年程度
平原遺跡と、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓とは祭祀様式も同じだし、ほぼ同時代と見てよい
その範囲で比べて、平原1号墓は小さすぎてしょぼいんだよ >>287
>そう考える理由は?
吉野ヶ里遺跡だけで、北墳丘墓レベルの大墳墓を作る労働力を動員できる
その吉野ヶ里遺跡を含む倭国の王墓が、成人男子が10人もいれば1週間程度で作れる
しょぼい墓では権威が保てないだろ?
何度も書いているけれど、王が王以外よりも小さな墓に葬られている王朝があったら教えてくれ >>290
>そして2世紀末に卑弥呼が即位したと考えられている。
それがあやしい
卑弥呼が高齢になりすぎる
卑弥呼の即位は3世紀に入ってしばらくしてからと考える方が年代の整合性が取れる >>291
>その範囲で比べて、平原1号墓は小さすぎてしょぼいんだよ
副葬品が豪華だから、別に関係ないね。 >>292
>しょぼい墓では権威が保てないだろ?
それはあなたの考えに過ぎない。 >>293
>卑弥呼の即位は3世紀に入ってしばらくしてからと考える方が年代の整合性が取れる
まったく根拠なし! >>294
>副葬品が豪華だから、別に関係ないね。
関係ないというのに、まったく根拠がない
>>295の言葉を借りれば、>>294の考えに過ぎない。
そして、副葬品が豪華といっても、仿製鏡がやたら多いだけで
肝心の魏晋鏡は一枚もない
この時点で卑弥呼の墓の候補から完全に外れる
そして、副葬品が豪華といっても、仿製鏡がやたら多いだけで、
ガラス製品や刀剣では丹波の大風呂南墳丘墓や赤坂今井墳丘墓といった
いわゆる王墓級地域首長墓の方が豪華
これは、卑弥呼と1世代程度しか違わないほぼ同時代
地域首長墓より副葬品で劣る倭王墓はないだろ?
平原1号墓は倭王墓として副葬品でも足りないんだよ >>296
>まったく根拠なし!
根拠は書いてあるだろ
2世紀末だと、卑弥呼の生物学的寿命から考えて難しいって
逆に、二世紀末とする理由が、梁書の霊帝光和年中と、後漢書の桓霊間倭國大亂という
後代史書によるもの
魏志倭人伝には二世紀と特定できるような情報はない >>297
>これは、卑弥呼と1世代程度しか違わないほぼ同時代
年代の根拠が曖昧
>地域首長墓より副葬品で劣る倭王墓はないだろ?
地域が違うから意味なし >>299
>年代の根拠が曖昧
巨大弥生墳丘墓の時代は短いんだよ
すぐに古墳時代に入る
ちゃんと歴史の流れを自分で調べてたら、
そんな間抜けなコメントは恥ずかしくて書けないぞ
九州説は、九州説の人が書いた文しか読まないから
基本的な知識に欠けている
その欠けた知識で自分が正しいと思い込んでいるから滑稽でならない
>地域が違うから意味なし
同じ倭国で同じ倭種だよ
何でもケチを付ければいいってもんじゃないw 倭種がいても、倭国の体制下にないんだよ。
ゆるゆると交易していたんだろう。 >>301
>倭種がいても、倭国の体制下にないんだよ。
これ間違い
>ゆるゆると交易していたんだろう。
緩々とした交易関係で結ばれた首長層が、そのまま祭祀連合で合意したのが
卑弥呼の共立だよ
倭種で前方後円墳を作るとことが倭国 >>303
>妄想乙
出た!ww
反論一つできないときの、根拠なしの一言レス!WW >>305
>何1つ事実に基づかない妄想に反論も何もない。
たぶんこの人、方々のスレで一言スレの負け惜しみを書き逃げしてる人でしょ?
具体論を書くと論破されるから、具体的なことからひたすら逃げて、勝ってるふりの
一言を書いて逃げる人! ダメ! タタリ神なんかにならないで!
でも既に、カタリのダメ人間だわな >>311
>畿内説のことですね
ミラーリング
自分への批判を、相手のこととして言い返すだけの簡単なお仕事
詭弁使いの技法の初歩のひとつ 九州説の一言レスの人も逃亡して消えたので、
このスレの結論として
「平原1号墓出土の巨大内行花文鏡は
マンホールの蓋(弥生時代の実態としては肥溜めの蓋)の
象徴であることは否定できない」
ということでOK? >>314
>3世紀にマンホールがなかったから却下。
つ「マンホールの蓋(弥生時代の実態としては肥溜めの蓋)」
3世紀に肥溜めの蓋がなかったことを立証してね! >>313
否定できなかったら何?
例えば、スフィンクスは宇宙人が作ったとこも否定できないよね。
ちゃんと立証しないとねwww
トンデモ乙。 まずは、弥生時代の実態としては肥溜めの蓋が、丸かったことを立証することから始めようか?
それと、弥生時代の実態としては肥溜めの蓋が内行花文の文様がどう関係するのかも立証してね
www ここは、学問板何だから真面目に論証しろよ。
そのためのスレだろ ああ、立証には論拠となる文献ぐらい添えろよ。
でないと「根拠は?」って言われるぞ。 そもそもキナイコシは、弥生時代に肥溜めがあったということから証明しないといけない。
まあ、農業をやっていたからあってもおかしくはないけど、基本は川に流しっぱなしという認識なんだけど? >>317
>まずは、弥生時代の実態としては肥溜めの蓋が、丸かったことを立証することから始めようか?
まずは弥生時代に限らず、肥溜めのような地面を直接掘った穴の形状が丸くないと
考えることに妥当性はない
さらに肥溜めのような、半液体の流動物を入れる穴の場合は、鋭角を持つ形状の
穴を掘っても内容物によって穴の縁が崩れ、結果として丸い穴となる
丸い穴の蓋は丸い蓋と考えるのが合理的 >>316
>否定できなかったら何?
このスレの発端が分かってないんだなw >321
ちょっとは真面目に論証してるな。感心感心
>322
321のように立証するためのスレだぞ。
で、内行花文の文様と肥溜めの蓋ははどう関係するの? 内行花文は肥溜めに浮いた気泡である
事実だから証拠はいらないのだ おお、即レス。サンクス。
肥溜めに浮いた気泡か、確かに一理あるかもな。
九州北部の弥生時代に肥溜めがあったということろが甘い気がする。
弥生時代に汲み取り機構は併設されていたの??
そういった遺構は当然あるよね? 調査報告書を教えてくれ。 内行花文が肥溜めに浮く気泡だとすると、
マンホール鏡の前の大きな銅鏡の前に、普通の大きさの内行花文も
肥溜めに浮いている気泡だということにならないか。
畿内説はそこのところ、どう考えているんだ? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 内行花文鏡が太陽の象徴であるという論説に一切何の根拠もないことを証明するスレ >>323
>>322
>321のように立証するためのスレだぞ。
>>322と>>321は同じ人間の書き込みだぞww >>331
あったと主張する側に証明する義務がある。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています