源氏御門葉平賀氏流
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新羅三郎義光の子盛義が佐久郡平賀邑を有したことに始まり、子の平賀義信の代に、源氏御門葉として、また御家人筆頭として隆盛を誇った。
義信の子惟義は文治元年(1185年)に相模守となる。2代将軍頼家以降では京都守護として活躍し、幕府から伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津という近畿6ヶ国の守護を任され、更に朝廷の後鳥羽上皇の近臣となり、大内冠者と呼ばれた。
最終官位は修理権大夫で四位に昇進したと考えられる。
惟義は、承久元年(1219年)正月27日、3代将軍実朝の右大臣昇進の鶴岡参宮行列に列したのを最後に記録上から姿を消す。
惟義の弟朝雅は、父義信に次いで武蔵守となり、北条時政の娘(牧の方所生)を妻とし、義父時政の寵愛が災いし、元久2年(1205年)牧の方が朝雅を将軍にしようとした陰謀(牧氏事件)が発覚、京都で誅された。
朝雅の死後(時政の失脚後)も惟義の権威は揺らがなかったが、鎌倉幕府内では執権北条氏の権威が確立し、当初は御家人筆頭であった席次も北条氏の下座に着くようになる。
また惟義の後を継いだ惟信は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方に付き、平賀氏は没落した。 平治の乱編集
信濃国佐久郡平賀郷(現在の長野県佐久市)を本拠として、平治元年(1159年)の平治の乱に、源義朝に従って出陣する。
『平治物語』には平賀四郎義宣と記され、三条河原での戦いで奮戦する義宣(義信)を見た義朝が、「あぱれ、源氏は鞭さしまでも、をろかなる者はなき物かな。あたら兵、平賀うたすな。義宣打すな。」と郎党達に救うように命じている様が描かれている。
義朝敗戦の後、その東国への逃避行に付き随った7人の1人となる。『平治物語』では、尾張国知多郡内海の長田忠致館で義朝の最後を知った直後、逃亡に成功して生き延びる。
その後、地理的に本拠地のある信濃へ向かったと考えられるが、以後20年余に渡って史料からは姿を消す。
なお『平治物語』には、佐渡式部大輔重成(八島重成)と共に「従子」と記されている。
この従子は現代語訳では従兄弟と訳されることもあるが、この場合は血縁上の従兄弟ではなく「一門ではないが、近い源氏」という意味である。
また文脈から「一族同様に信頼した若武者」と解釈する向きもある。 承久の乱は北条VS大内の戦い。
言わば 鎌倉幕府内の東西決戦であった。 大内惟義(大内冠者・相模守・駿河守・武蔵守・修理権大夫)
大内義信の長子。1184年2月、一ノ谷に源義経に従い平家と戦った。同3月伊賀国守護に任じられ、伊勢羽取山に志田義広を追討した。
1185年3月美濃国守護を兼務。また1189年の奥州征伐に出陣。1190年の源頼朝上洛及び1195年の再上洛にも随行した。
頼朝没後は京都に在住し、京中の治安維持と朝廷との折衝役にあたった。
1219年正月27日将軍源実朝が右大臣拝賀のため、鶴岡八幡宮へ御参した際「修理権大夫惟義朝臣」の名が『吾妻鏡』に見える。
これ以降惟義の消息は不明。おそらく、この年もしくは翌年に死去したものと思われる。 源三位頼政の大内守護の後継者の源頼兼くらいだな、平賀氏を越えることができたのは。 足利みたいに生き残れなかったのは処世術が下手だったのかな >>14
公家の竹内家、新田党他で子孫は残ってるけどね。
うちも越前で国人として残ってる 所詮は新羅三郎の子孫。八幡太郎の直系じゃないと御輿にすらならないよ 新羅三郎の子孫も役に立ってるんだな。武田とか佐竹とかろくでもないのばかりだと思ってた >>15
なんとなしに、親から話は聞いていたけれども
うち長宗我部さんの家臣やってたみたいだけど
なんで四国に行ったのかな?流されちゃったんだろか? >>25
承久の乱後は東国御家人の分家が西国に所領得てるの多いね 義朝敗戦の後、その東国への逃避行に付き随った7人の1人
―頼朝が足利を差し置いて平賀を御門葉筆頭にしたのはやはり戦友意識 >>27
殿で活躍したり逃げ延びた件を考えても個人の武技が優れていたんだろね。 し大内冠者惟義の大内は、元大内裏の警備官をした職を名誉して子孫が名字にしている。なお、大内相模守惟義は伊賀國の守護である。
因みに家は治部右衛門 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています