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神武・倭国の連合東遷説

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0001ホワイトケープ
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2018/08/31(金) 12:13:59.27
神武・倭国の連合東遷説とは
神武と倭国が連合して東遷した説である。略して「連合東遷説」という。
東征にあたり投馬(都萬)国の神武兄弟は、まず邪馬台国にある倭国の都・高天原に出向き当時の倭国王・台与(豊受大神)と東征・東遷を諮り、邪馬台(やまと)を大和に遷すことを決めた。
 
【連合東遷説の定義その1】
定義の根拠は順次アップします。皆さんの豊富な知識で良い説になるよう応援してください。自分自身が納得できた意見であれば、定義の修正・追加をしていきたいと思います。
定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。
定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。
定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。
定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。
定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。
定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。
定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。
0002ホワイトケープ
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2018/08/31(金) 12:16:22.43
【連合東遷説の定義その2】
定義8 魏志倭人伝の行程方角基準は、当時の倭人が使用した基準で、マイナス28度偏向していた。
定義9 魏使行程の里程は、1里=76.5mで記述している。
定義10 魏使行程の投馬国へ水行20日は、九州西岸では水行10日の航路である。
定義11 ニニギの天孫降臨は薩摩・大隅を巡る、7年をかけた国造りの遠征であった。
定義12 弥生終末期、九州には北部に倭国、中部に倭国に囲まれた狗奴国、景行天皇名付けの碩田国、九州南部に投馬国があった。
定義13 海神・豊玉彦は投馬国へのみならず、西日本各地へ航路を拓いていた。
定義14 海神・豊玉彦は国生みを記録していた。
定義15 記紀が記す神武東征は陸上隊と共に進んだ。
定義16 高城山を残した部隊は、四国、山陰、丹波に遠征した部隊だった。
定義17 高塚山を残した部隊は、出雲から戦闘に参加した。
定義18 高倉山は豊受大神が、天照大御神の御魂と共に東征隊を追い、影から応援し祈り、東遷した足跡である。
定義19 神武・倭国の連合東遷は計画の通り7年をかけ、酉年に神武が即位した。
定義20 神武と豊受大神による連合東遷は、神武が橿原で即位し、豊受大神が退位後、丹後に身を引いたことで終わった。
0003ホワイトケープ
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2018/08/31(金) 12:27:59.25
【神武・倭国による連合の根拠その1】
図1 全国の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu01.jpg

 都を移す東遷がこの先、国の歴史に残る重大な事業と考え、記録する工夫を行っていた。その一つが東征・東遷の経路を同名同種の山に記録することであった。
 図1は高取山と鷹取山の全国分布である。東征の進攻方向(ベクトル)を記録したもので、高取山が出発地、鷹取山で当面の目的地を記録していた。
 奈良より西が神武東征、東は日本武尊東征の記録で、二つの東征は一連の建国の事業と、とらえていたことが分かる。
0004日本@名無史さん
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2018/08/31(金) 16:11:09.04
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0005日本@名無史さん
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2018/08/31(金) 16:16:10.14
     |
     |
     |
     |ツツー
     |
     鼎
0006ホワイトケープ
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2018/08/31(金) 18:38:53.29
【神武・倭国による連合の根拠その2】
図2 九州の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu02.jpg

 図2は九州の高取山と鷹取山の配置で、東征出発前の状況を記録していた。
 ベクトルF1→F2は、高千穂宮で神武兄弟が東征を相談した後、朝倉の三角域T
に進んだことを記録している。倭国の都・邪馬台国に住む、台与(豊受大神)と、
倭国連合による東征・東遷の話し合いのためである。
 ベクトルH1→H2で、東征を決めた神武は一旦、投馬(都萬)国に戻り準備をした後、
出発したことを記録している。狗奴国比定地の熊本平野を縦断しているので、狗奴国
との決着の戦いがあったことが見えてくる。
 ベクトルS1→S2は、記紀が記す東征出発の行程である。S1は西都原にある。陸上
部隊があったことが見えてくる。
ベクトルD1→D2とE1→E2は、筑紫平野の人たちが三角域Tに集合したことを記録
している。 
 ベクトルG1→G2は、天草・島原半島の人たちも三角域Tに集合した後、岡田宮方
向に進んだことを記録している。このことで神武東征が、いくつかの部隊で構成され
ていたことが分かる。このベクトルでは記録されていないが、魏志倭人伝に登場する
博多湾沿岸のクニグニも東征に参加していたことが、別な山名で記録されていた。別
途報告する。
0007ホワイトケープ
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2018/08/31(金) 19:19:57.77
【神武・倭国による連合の根拠その2】
図2 九州の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu02.jpg

 図2は九州の高取山と鷹取山の配置で、東征出発前の状況を記録していた。
 ベクトルF1→F2は、高千穂宮で神武兄弟が東征を相談した後、朝倉の三角域T
に進んだことを記録している。倭国の都・邪馬台国に住む、台与(豊受大神)と、
倭国連合による東征・東遷の話し合いのためである。
 ベクトルH1→H2で、東征を決めた神武は一旦、投馬(都萬)国に戻り準備をした後、
出発したことを記録している。狗奴国比定地の熊本平野を縦断しているので、狗奴国
との決着の戦いがあったことが見えてくる。
 ベクトルS1→S2は、記紀が記す東征出発の行程である。S1は西都原にある。陸上
部隊があったことが見えてくる。
ベクトルD1→D2とE1→E2は、筑紫平野の人たちが三角域Tに集合したことを記録
している。 
 ベクトルG1→G2は、天草・島原半島の人たちも三角域Tに集合した後、岡田宮方
向に進んだことを記録している。このことで神武東征が、いくつかの部隊で構成され
ていたことが分かる。このベクトルでは記録されていないが、魏志倭人伝に登場する
博多湾沿岸のクニグニも東征に参加していたことが、別な山名で記録されていた。別
途報告する。
0008ホワイトケープ
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2018/08/31(金) 19:20:01.37
【神武・倭国による連合の根拠その2】
図2 九州の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu02.jpg

 図2は九州の高取山と鷹取山の配置で、東征出発前の状況を記録していた。
 ベクトルF1→F2は、高千穂宮で神武兄弟が東征を相談した後、朝倉の三角域T
に進んだことを記録している。倭国の都・邪馬台国に住む、台与(豊受大神)と、
倭国連合による東征・東遷の話し合いのためである。
 ベクトルH1→H2で、東征を決めた神武は一旦、投馬(都萬)国に戻り準備をした後、
出発したことを記録している。狗奴国比定地の熊本平野を縦断しているので、狗奴国
との決着の戦いがあったことが見えてくる。
 ベクトルS1→S2は、記紀が記す東征出発の行程である。S1は西都原にある。陸上
部隊があったことが見えてくる。
ベクトルD1→D2とE1→E2は、筑紫平野の人たちが三角域Tに集合したことを記録
している。 
 ベクトルG1→G2は、天草・島原半島の人たちも三角域Tに集合した後、岡田宮方
向に進んだことを記録している。このことで神武東征が、いくつかの部隊で構成され
ていたことが分かる。このベクトルでは記録されていないが、魏志倭人伝に登場する
博多湾沿岸のクニグニも東征に参加していたことが、別な山名で記録されていた。別
途報告する。
0009日本@名無史さん
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2018/09/01(土) 07:48:44.15
神武は人命、倭国は国名。
神武の出身は筑紫の日向、すなわち倭国そのものです。
0010ホワイトケープ
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2018/09/01(土) 09:38:20.07
>>9 
>神武は人命、倭国は国名。
神武の出身は筑紫の日向、すなわち倭国そのものです。

レスありがとうございます。
人名と国名の連合というタイトルは、良くなかったかも知れません。
神武は南九州にあった、投馬(都萬)国の出自と思われます。倭国の女王・卑弥呼(天照大御神)がニニギを
派遣し建国した国なので、倭国と一心同体の国です。東征にあたり倭国と連合するのは、必然な行動と考え
ます。タイトルに神武を入れたのは、神武東征が倭国との人々との共同作業だったことを強調したかったため
で機会があれば修正します。
0011ホワイトケープ
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2018/09/01(土) 09:48:01.22
【神武(投馬国)と倭国による連合の根拠 その3】
古事記が記す東征出発の記述の中に、倭国との連合を記した部分がある。
一つは最初の行程を「・・・、すなはち日向を発たして筑紫に幸行でましき。故、
豊国の宇沙に到りましし時、・・・」とあり、これを順次式に読めば、まず筑紫に出
向いていることが分かる。図2のベクトルF1→F2である。
その後、迂回した先の竺紫の岡田宮は、「筑」を「竺」に変えて記録していて、目的
地を先に記述したのではない。
 二つは岡田宮迂回である。この迂回は北部九州の倭国との連合とする見解は、これ
までもあったが確かな根拠がなく推測にとどまっていた。先のベクトルから判明した
別な部隊との合流や、遠賀川域での東征のための船を準備するためであったことが見
えてくる。
0012日本@名無史さん
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2018/09/01(土) 10:57:47.81
日向高千穂宮は伊都国三雲
筑紫は奴国
岡田宮は現在の北九州市

でいいじゃないか。
八咫鏡を携えたニニギが降臨したのは平原遺跡がある伊都国だろう。
宮崎の投馬国が関わりの深い国であることは間違いないが、卑弥呼や神武らの倭国とは糸島市と福岡市を中心とする筑紫の日向だと思う。
0013ホワイトケープ
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2018/09/01(土) 11:39:32.09
>12

>>12

レスありがとうございます。
ニニギが降臨した高千穂の現在地については、いろいろな考えが発表されています。
まだ確定的な説は無い状況と考えます。私の考えは南九州の高千穂峰ですが、その根拠については
定義11の説明の中で研究結果を案内したいと思います。
0014ホワイトケープ
垢版 |
2018/09/01(土) 17:14:51.37
定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。
【卑弥呼=天照大御神の根拠】
表1 伊邪那美岐とクニ名・クニ代表の対応
http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/hy01.jpg
 古事記は天照大御神の父母は、伊邪那岐命・伊邪那美命と記している。
 表1は伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場する5クニの名から1文字
ずつ採った名であることを示している。

名前 クニ名     クニの代表
伊 伊都国     天之御中主神
邪 邪馬台国    高御産巣日神
那 奴(那)国    神産巣日神
美 不弥(宇美)国  宇摩志阿斯訶備比古遅神
岐 壱岐国     天之常立神

奴と弥の文字が名前とクニ名で異なるが、それぞれの有力比定地、那珂川の那と
宇美町の美から採られたものと考える。
 邪馬台国の痕跡が少なく非実在説もあるが、伊邪那岐・伊邪那美の名の中に登場す
ることから邪馬台国は実在したクニであった。表1のクニ代表は、「別天つ神五柱」
の神々を、古事記が記す順にクニに対応させたものである。別途検証した結果、魏志
倭人伝が記す倭国乱を収束させるために、話し合ったクニの代表者であった。また
伊邪那美岐の文字順は、クニの格順でもあった。
0015日本@名無史さん
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2018/09/01(土) 20:11:38.27
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0016ホワートケープ
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2018/09/02(日) 10:03:27.02
【卑弥呼=天照大御神の根拠 つづき】
 >14
以上のことを踏まえ、魏志倭人伝が記す卑弥呼と、記紀が記す天照大御神を比較す
ると次のような共通点が多くあり、二人は同一人物である。

@ 伊邪那岐・伊邪那美の子、天照大御神は魏志倭人伝が記す卑弥呼と同じ、3世紀
前半に生きた女性である。
A 共に夫がおらず、弟がいた。卑弥呼の弟の名は不明だが、天照大御神の弟には月
読命と須佐之男命がいた。
B 表1のクニグニは邪馬台国を除くと、博多湾岸が有力比定地である。邪馬台国の
比定地は多々あるが、倭国乱収束の話し合いに参加したとなれば、他の有力比
定地と同じ北部九州が有力である。
 一方、天照大御神の後継、豊受大神は、図1の九州のベクトルが形成する朝倉の
三角域付近に住んだと思われ、天照大御神も同じ三角域に住んだ人物と思われる。
C 伊邪那岐・伊邪那美の名付けの動機は、当時の倭国乱にあった。互いに敵として
戦った伊都国宗家の男子と奴国王・神産巣日神の娘が結婚し、その子を統一倭国
の王とすることで戦乱を収束する話し合いの結果であった。天照大御神は父、伊
邪那岐命の指名で高天原の主になったが、話し合いで始まる王となる経緯は魏志
倭人伝が記す、卑弥呼共立の表現に近い。
D 卑弥呼亡き後、女性の台与が共立されている。天照大御神亡き後も女性の豊受大
神が継いでいる。
E 卑弥呼は魏の明帝から、銅鏡100枚を賜った。一方、天照大御神はニニギの天孫
降臨に際し鏡を授けていて、二人は銅鏡とのかかわりが強い。
0017日本@名無史さん
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2018/09/02(日) 11:20:46.66
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と単粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は単粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。
0018ホワイトケープ
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2018/09/02(日) 15:01:01.34
定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。

【豊受大神出自が出雲の根拠】
図3 豊受大神の系譜 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu03.jpg

@ 魏志倭人伝では、壱岐(一大)国・邪馬台(邪馬壱)国など、固有名詞の地名や
人名に、疑義が頻出している。これは陳寿の死後、草書体の文章を楷書に書
き改めたとき、草書で形のよく似た文字が行間では判断できず、写し誤りが
あったとする井上悦文の説に従う。
壱と台の旧字はよく似ていて、もし台与でなく壱与が正解ならば、壱岐国の
ように一の文字を使用し一与になったはずで、そうでないから台与(とよ)が
正解である。
A 古事記の神々の生成において「和久産巣日神の子は豊宇気毘売神という」と
ある。また、須佐之男命の大蛇退治の段で「また大山津見神の女、名は神大
市比売を娶して生める子は宇迦之御魂神」とある。伏見稲荷大社では宇迦之
御魂神を主祭神としていて、豊受大神と同一人物である。
B 図3は、古事記の上記のような記述から、系譜を作成したものである。ただ
し大山津見神と和久産巣日神の夫婦関係は推測している。ここに推測が入っ
たが、豊受大神が須佐之男命の娘であることは変わらない。
C 卑弥呼は天照大御神なので、須佐之男命の娘、豊受大神は卑弥呼に近い宗女
である。魏志倭人伝の記述と整合する。
D 高天原の天照大御神は出雲の国譲り交渉を行っていて、建御名方神とは長野
の善光寺付近で戦いがあった。また播磨風土記によれば、大国主命と天日槍
は播磨の奪谷などで戦いになった。天日槍の軍は8千人と記述されていて、
大きな戦いである。
E この状況の中、須佐之男命の娘・豊受大神が出雲から共立されたならば、出
雲国譲りが完了した結果と合わせ、魏志倭人伝が記す卑弥呼の死後の状況と
一致する。「あらためて男王を立てたが、国中は不服であった。こもごもあい
誅殺した。当時千余人を殺しあった。卑弥呼の宗女の台与なるもの、年13を
たてて王とした。国中はついに定まった。
0019ホワイトケープ
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2018/09/03(月) 07:25:39.38
定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。

図2 九州の高(鷹)取山の分布  http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu02.jpg
図4 北部九州の高尾山と〇尾山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu04.jpg

図4は、図2の北部九州の高(鷹)取山のベクトルに、〇尾山の配置を追加した
ものである。〇尾山の〇には異字が当てられている。その中で高尾山は特別で全
国的に多く、高尾山・高雄山・鷹尾山を含めると56山がある。
 この山は、高(鷹)取山のベクトルを補佐していて、個別部隊の経路などを記録
している。〇尾山は高尾山を除いて全国に177見つかっていて、越えた峠など個
別なことを記録していた。
【博多湾沿岸国の東遷参加の根拠】
@  一支国(高尾山)、末櫨国(高尾山)、伊都国(高祖山)、奴国・不弥国(高雄
  山)と伊都国のみ異なる山名になっているが、点線で結んでいるように太宰
  府付近での合流を記録している。
A 五島(松尾山)、鹿島(蟻尾山)、武雄(黒尾山)の配置は、魏志倭人伝が記
  す旁国で、@のクニグニと区別し参加を記録している。
B 大宰府付近で合流後、米ノ山峠を越えたことを、峠に笹尾山と竹ノ尾山で記
  録している。
C 若松半島の岩尾山と舟尾山を結び伸ばすと、遠賀川河口を指し示し神武隊が
  迂回してきた船(岩舟)の停泊地を記録している。
D 遠賀川上流の船尾山は、新しく船を造る木の伐採地と思われ、木の川出し地
  付近には、位登(いとう)古墳があり、伊都国が川出しを采配した痕跡であ
  る。
E 位登付近から下流5kmには糸田町があり、伊都国が造船を采配した痕跡であ
  る。
0020日本@名無史さん
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2018/09/03(月) 07:37:24.35
九州古墳最大規模の日向男狭穂塚古墳に

倭国に繋がる皇統の謎を解き明かす秘密詰まってる
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