> 邪馬台国東遷説 その3より

>214 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN
この阿蘇周辺鍛冶遺跡の後に熊本県下ではもっとも早く、宇土半島の付け根、熊本平野の南端に畿内型の前方後円墳が造られ始めるんだよな
そして、熊本市城南町、球磨〜南九州に分布する免田式土器が消滅する

>220 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN
熊本も菊池川流域飛んで宇土半島はもとから北部九州の物流範囲だな

上記二つの見解は、神武・倭国の連合東遷説と符合します。
下図は定義12で載せた画像で、倭国は宇土地名で熊本平野の狗奴国を取り囲んでいました。
北部九州に残る祭礼「くんち」の分布と一致します。

図21 九州の宇都・宇土・鵜戸地名 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu21.jpg

宇土のの地名は、糸島市の日向峠の麓にある宇土に始まると思われます。
宇土半島付け根の畿内型前方後円墳は、連合東遷に参加した人が、東遷後奈良から故郷に戻り一帯を支配した人の墳墓と想定します。

北部九州や宮崎の古墳も皆、東遷から戻った人による築造と考えます。

庄内式土器が北部九州から東遷とともに、畿内に伝わったのか、
東遷から帰還した人が畿内から持ち帰り九州に伝えたのか結論は出たのでしょうか?