神武・倭国の連合東遷説
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神武・倭国の連合東遷説とは 神武と倭国が連合して東遷した説である。略して「連合東遷説」という。 東征にあたり投馬(都萬)国の神武兄弟は、まず邪馬台国にある倭国の都・高天原に出向き当時の倭国王・台与(豊受大神)と東征・東遷を諮り、邪馬台(やまと)を大和に遷すことを決めた。 【連合東遷説の定義その1】 定義の根拠は順次アップします。皆さんの豊富な知識で良い説になるよう応援してください。自分自身が納得できた意見であれば、定義の修正・追加をしていきたいと思います。 定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。 定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。 定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。 定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。 定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。 定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。 定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。 > 邪馬台国東遷説 その4より >42 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ど素人やアマチュアが掘り出した出土状況がはっきりしないものは評価してはいけないという いい教訓になった事件であったな。 宮崎の盗品穀壁なんかは中国からけちがつけられる前に、中国の研究機関に調査依頼したほうがいい。 宮崎の大和が造った墓は皆空である 。泥棒の庭に造ってしまったようなものだな 。 串間の穀壁についての意見 串間の市役所を訪ね、大きくて重そうなレプリカの穀壁を見たことがあります。 発見者が一般人でも、盗品と決めつけては良くない。 串間には「奇しき土地」の意味があると考えられます。串木野とおなじく天孫降臨があった際の名づけと考えています。 図47 狗邪韓国に延びる直線(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu4 7.jpg ニニギが天孫降臨の際、高千穂峰に登ったのち、反時計回りに薩摩半島から大隅半島にわたり小林に至っています。 ニニギは高千穂峰で「ここは韓国に向かい、・・・甚吉き地」と述べています。 図47を参照。 ここ串間は狗邪韓国比定地の金海から高千穂峰を結んだ直線が、太平洋に出るところで畏敬の念があり串間の名を残したと考えます。 ニニギならば、穀壁を持参していても不思議はなく、串間からの出土も不思議ではない。 そんなの、宇宙からでも見ないとわからない。 天孫降臨の筑紫の日向は、倭国の王都である伊都国のこと。 正確には、伊都国と奴国を合わせた高祖山周辺が筑紫の日向だ。 天孫降臨のすべてを分かった訳ではないが、すこし分かってきたことがあります。 紹介します。図は参考図です。 天孫降臨は薩摩・大隅を巡る、7年をかけた国造りの遠征であった。 図19 天孫降臨の経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg 図20 天孫降臨の道の名づけ方法 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu20.jpg 【天孫降臨7年の根拠】 @ 図19は南九州に集中して見つかる〇〇丘という山と、〇〇岡という山に番号を付けて、結んだものである。 A 朝倉の高天原を出発したニニギは、阿蘇を越え高千穂町の国見ケ丘(図にないが附番1)で新しい国の国見を行った後、西都に向かい宮をおいた。 B 宮崎平野の灌漑稲作の目途が立つと、薩摩・大隅へ遠征をおこなった。 C 図19の21,22,23を結んだ直線を点線のように延長すると、高千穂峰横の虎ケ尾岡を経て39,40,41がつくる矢印で西都方向を指し示している。 D これはニニギが詔した、「此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて・・・甚吉き地」の内容を大地に記録したものである。 E 附番2から始まる遠征は高千穂峰を周回する、逆「の」の字形に薩摩半島、大隅半島を経て八代海の獅子島にある黒崎丘で終わっている。 F 図19では丘と岡の区別を表示していないが、図20に示すよう「丘―岡―丘」というように丘と丘の間に岡を記録しその間が1年を有したと有年ケ岡で記録している。この遠征に7年をかけていた。 G 丘の中の一つ宇都丘の「宇都」と同名の宇都地名が、南九州に多く見つかり訪ね巡ると、灌漑稲作の水を得る川の最上流の田んぼがある集落と判明した。これは灌漑稲作普及のために水利権を取得するためであった。 H 高千穂峰にまず登ったのも、一帯の水利権確保の意味があったかも知れない。高千穂の名そのものが稲作である。灌漑稲作を普及させる投馬国の建国であった。 I 神武東征時に迂回した北九州で「岡水門」「岡田宮」と岡がつく地名を残したのは、天孫降臨に由来する。山に岡の名を名付けなかったのは天孫降臨と混同するからだった。 J ニニギが行った山への、丘(岡)という名の記録は、神武東征や日本武尊東征へと引き継がれ、さまざまに工夫した同名同種の山で、日本の古代を記録していた。 野間岬には越冬した宮跡、笠沙宮が山中に今も残ります。 投馬国が宮崎なのはいいが、高千穂や日向は筑紫だよ。 こんな土地が荒れてどうしようもないところなわけない。 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg ニニギは豊葦原瑞穂の国の王となるべくやってきたんだぞ。 稲作先進地であり、対馬海峡に面した博多湾沿岸に決まっているだろ。 ニニギは投馬国建国のため南九州に降った。 天照大御神がめざす「しらす国」をつくるための実践でもあった。 荒れた土地を開墾すること、それが当時の国造りであった。 まず高千穂峰にのぼり、一帯の水利権を公のものとした。 霧島川の最上流には、ニニギが稲作を行った「狭名田の長田」が今も残る。 その下流には、ニニギを先導した猿田彦の屋敷跡も残る。 南九州の宇都はみな、稲作の水を得る川の最上流の地名である。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 筑紫の日向を追い出された海幸(ニニギの息子)が逃げた先が宮崎県の方の日向であり、ちゃんと現地にその伝承がある。 それが魏志倭人伝にある投馬国(都万神社)。 ちなみにここを日向と命名したのはもっと後の景行天皇。 > 邪馬台国東遷説 その4より >52 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN >>>49 ヤマトスクネも道案内している。 ヤマトスクネは、神武の曽祖父のニニギの兄にあたるホアカリの後胤。 つまり、神武の親戚。あと、高倉下命っても登場。 こいつは、ホアカリの孫rasii. つまり、神武と親戚。 九州には、神武らニニギの子孫が多くおり畿内には、ニニギの兄のホアカリの子孫が多く住んでいる。 あと、乱を起こしたニギハヤヒは自身をホアカリの櫛玉(形見)だと自称して乱を起こした。 ナガスネヒコの側も、自分が「天孫」である証拠の品を持っていたと明記されている。 これもひっかかる。 以下、ホワイトケープの意見 倭宿祢について 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>217 なんで饒速日が乱を起こしたことになるんだよ。 天照国照の称号を持つ倭王そのものだ。 饒速日は天孫本人だからな。 長髄彦は饒速日を王として迎えた側だろ。 ちゃんと読み直せ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . 饒速日は、自分は天火明命の櫛玉(形見)と主張したんだろう? つまり、天孫の御落胤だと主張して、倭王の地位に就こうとした。 でも、尾張氏や皇室の祖先はそれを認めなかった。 新撰姓氏録でも、饒速日の後胤の物部氏は、天孫ではなく、ただの天神とされている。 天火明≠饒速日とされている。 神武東征なんて、科学的に言って、あんな遠征なんて無理だよ。 >>222 おっしゃる通り。 だから、倭国(阿波)国内での争乱と言ってるんですよ。 中国の三国(魏・蜀・呉)ならいざ知らず、卑弥呼の時代に大軍を率いて西日本一帯を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。 @阿波 >>223 平地の多い大陸と山だらけの列島って差もデカイ >>224 >平地の多い大陸と山だらけの列島って差もデカイ 海の存在はもっとデカイよ。 @阿波 >>225 東征の海路って山抜けるより楽だから選んでるのに? >>226 >東征の海路って山抜けるより楽だから選んでるのに? だれが選んでると? 君がかね? ところで、その海路ってどこのこと? 東征軍は何艘の船団だろうね? @阿波 >>219 ごめんなさい。 入力途中で誤ってアップしてしまいました。ニギハヤイの乱は私の意見ではありません。 > 邪馬台国東遷説 その4より >52 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN >>>49 ヤマトスクネも道案内している。 ヤマトスクネは、神武の曽祖父のニニギの兄にあたるホアカリの後胤。 つまり、神武の親戚。あと、高倉下命っても登場。 こいつは、ホアカリの孫rasii. つまり、神武と親戚。 九州には、神武らニニギの子孫が多くおり畿内には、ニニギの兄のホアカリの子孫が多く住んでいる。 あと、乱を起こしたニギハヤヒは自身をホアカリの櫛玉(形見)だと自称して乱を起こした。 ナガスネヒコの側も、自分が「天孫」である証拠の品を持っていたと明記されている。 これもひっかかる。 以下、ホワイトケープの意見 倭宿祢について ヤマトスクネが神武を船で迎えて、先導しているが、神武の東征や出発を知っていたことになります。 これは、高天原の豊受大神からの先導依頼があり、出発の情報が伝わっていたために、できた先導と思われます。 曾祖父の火明命は舞鶴東部の志楽に宮を置いていたが、瀬戸内海航路でたえづ九州の高天原と行き来していて瀬戸内海航路に詳しいため、豊受大神が手助けをいらいしたものと考えます。 したがって、ハヤスイは明石海峡でなく豊予海峡が正解と思われます。 高倉下について 高倉下が神剣・布都御魂を神武に届けているが、高倉は豊受大神のことなので、高倉下は豊受大神の遣いをした 名前です。 火明命の末裔、高倉下も豊受大神と瀬戸内海航路を利用して行き来していた関係で、豊受大神をサポート したものと思われます。 >>228 の分割あっぷです。 ニギハヤイについて ニギハヤイが奈良に向かった動機について、考えてみました。 天照大御神が亡くなると、男王が立ったけれど国中は不服であったと、魏志倭人伝は記します。 この時、立った男王が誰かは記していないが、高天原はニニギか山幸彦を立てたと思われるが、 出雲は大国主になったであろう。火明命の舞鶴からはニギハヤが立ったと思われる。 皆、高天原に集まって相談したがまとまらなかっと思われる。 結局、国造りの志にはやるニギハヤイは、九州から奈良にむかったものと考えます。 奈良に新しい都を作る計画は神武の時に突然にできたものでなく、この話し合いの中でも話題になっていたと思われ それを先取りしたのではないだろうか。 >>221 >でも、尾張氏や皇室の祖先はそれを認めなかった。 先代旧事本紀では、饒速日の称号は天照国照。 天照と大国主の両方の権威を継承している。 その後に兄弟相続で邇邇芸に王権が移ったのだろう。 神武と饒速日の会談で、互いの天羽羽矢により同族であることを確かめ合っている。 これにより、神武の大和入りが完了した。 >>228 >あと、乱を起こしたニギハヤヒは自身をホアカリの櫛玉(形見)だと自称して乱を起こした。 >ナガスネヒコの側も、自分が「天孫」である証拠の品を持っていたと明記されている。 天孫の証を持っていたのは饒速日と神武だ。 記紀を読み直せ。 >>228 >曾祖父の火明命は舞鶴東部の志楽に宮を置いていたが、瀬戸内海航路でたえづ九州の高天原と行き来していて瀬戸内海航路に詳しいため、豊受大神が手助けをいらいしたものと考えます。 舞鶴と筑紫の間なら、日本海航路だよ。 >したがって、ハヤスイは明石海峡でなく豊予海峡が正解と思われます。 しかし神武はあえてハヤスイ、つまり関門海峡を抜けて筑紫から大和に向かった。 >>229 >天照大御神が亡くなると、男王が立ったけれど国中は不服であったと、魏志倭人伝は記します。 では、八咫の鏡を持っていた平原遺跡の女王がアマテラスで良いのだな。 >>231 舞鶴と筑紫の間なら、日本海航路だよ。 若狭湾と瀬戸内海を結ぶ、加古川〜日本最低の分水嶺〜由良川を結んだ河川を 利用した交通路を拓いていたと思われます。 火明命が大国主命から志楽という辺境の地に住むよう指示されたとき ここは良い地と述べたのも、このルートで出雲を経ずして高天原と行き来 出来たためと思われます。 図22(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu22.jpg )は豊玉彦が、西日本に拓いた航路である。 >>232 では、八咫の鏡を持っていた平原遺跡の女王がアマテラスで良いのだな。 八咫鏡は日嗣の3種神器で、天照からニニギに渡されたと思われます。 今は伊勢神宮にあると思います。 平原遺跡から大きな、内行花文鏡が出土していて、八咫鏡と同種かも 知れないが、八咫鏡とは呼べないと思います。 【八咫鏡】 平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。 径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。 神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。 伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。 八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。 内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。 伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。 内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。 八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。 石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。 伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。 筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。 これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。 この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。 http://www.geocities.jp/itosimadoranekoki/isourou/naikou.jpg 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>236 【八咫鏡】の鏡についてのコメントありがとうございました。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . > 邪馬台国東遷説 その4より >62 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN 卑弥呼の遺物遺跡が全く存在していないのは作為を感じるね。 明らかに何者かによって隠されてると思う。 倭人伝はもちろん半島の歴史書までその名が登場してるからね。 書紀では倭人伝の卑弥呼台与の記事を神功皇后にあててるよね。 これと何か関係あるのかな。 ホワイトケープの考え 卑弥呼の遺物遺跡が全く存在していないのは確かといえる。 同一人物と考える天照大御神の遺物・遺跡もほとんどない。 私の考えでは、跡をついだ台与こと豊受大神が、東遷にあたり「後を濁さず」の考えがあって宮殿や遺跡も壊して出発したためと考える。 東遷のあとに残された宮殿などが別人に使用されることを懸念してのことかも知れない。 それでも、残すべきものはしっかり残している。 麻底良山(まてらやま)である。アマテラスのアとスを抜いた山名で、朝倉と日田の境にある。 しかも、二つの高倉山で差しはさんでいる。高倉山は伊勢の外宮の境内にある大きな山で、豊受大神が東遷のとき、経路に残した山でもある。 図9 九州の高倉山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu09.jpg 図11 朝倉付近の三角域の拡大 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu11.jpg 日田の小迫辻原遺跡の居館跡から焼土が出ていて、ここも焼き払ったのかもしれない。 日田市日高で出土した、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼あるいは台与が持っていたものとの説もあるが、ここは猿田彦がニニギを待ち受けた八街と考える日田市若宮町の 若宮神社から1kmしかない。 猿田彦神は豊受大神が尊敬していた上で、若宮神社を二つの高塚山で差しはさんでいる。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . 神武東征も、あの時代に宮崎から奈良まで大規模な軍事遠征が出来たとは到底考えられない。 一族郎等せいぜい数十人が、元の住処を追われるようにして、途中で武装勢力に襲われて小規模戦闘しながら流浪に流浪を重ね、最後に尾羽打ち枯らし、やっと奈良に流れ着いて何とか落ち着いた。 こう言う移住初代の話を、後から盛りに盛ったのが神武東征だと思うよ。 >>243 >最後に尾羽打ち枯らし、やっと奈良に流れ着いて何とか落ち着いた。 そんな有様で、なんで「神武東征」などと華々しく語られるのかね? しかも、海の無いジメジメした奈良盆地へなどとw もうちょっとマシな妄想を考えないとだめだよw @阿波 故郷の宮崎を追われるようにして、流浪の末に「結果的に」奈良盆地に落ち着くことが出来た神武一行は、その後は家運が上向いて、地域の有力者になった。 当時の奈良盆地は稲作の高度成長期で、人手が足らず、神武一行のような素性も知れない流れ者の一団でも受け入れてもらえたのだろう。 そして高度成長にも後押しされて地域の有力者になった神武の家系は、かつて自分たちを追放した故郷に当て付け、こっちこそ正当なんだと見せつけるように、奈良盆地のあちこちに、九州と同じ地名をつけまくった。 そう言うお話を、記紀で盛りに盛ったのが神武東征の実状だと思いますよ。 天孫降臨が出雲ではなく何故か日向の片田舎であった理由。 奈良盆地にあった邪馬台国、卑弥呼=アマテラス系のクニを、征服したか、簒奪したか、あるいは婚姻によって新参の神武系が乗っ取った際に、後付けで無理矢理正当性を持たせるために作ったストーリー。 魏とも修好したかつての女王国は、その権威において圧倒的だった。 神武以降、崇神、応神、継体と、実質的な王朝交替があるのだが、みなかつての女王国、卑弥呼=アマテラスの末裔であるとストーリーを作ったり盛ったりした。それが記紀。 ちなみに邪馬台国が奈良盆地なのは、弥生時代から既に人口の中心は本州だったから。 魏使が本国に本州のことを伝えない訳がなく、北九州から結構な距離を進んで最初に到達する大人口地帯が奈良盆地。 >>245-248 妄想は聞き飽きた と、何度言えばw @阿波 魏使は何遍も邪馬台国に来て、何年も滞在してるんだから、九州のすぐ隣に馬鹿デカい島があって、そこにもっと大勢の人間が住んでることを知り得ないはずがないでしょ? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 邪馬台国が仮に九州だとして、魏使が本州の存在に気づかないなんて、あり得ないでしょそんなこと。 >>248 誰がそんな適当な旅行をするんだ。 する訳ないだろ。 それに、弥生時代の畿内なんて水浸しで人口は少なかった。 >>253 弥生時代に、九州の連合軍が遷都しようと奈良盆地まで 攻め上るとか、信長の野望じゃないんだから。補給をどうするのよ?補給を。 >ホワイトケープ よく研究されてますね そちらが載せている各種の地名や破鏡の分布図と、↓これらの地図にも類似性があるようです > 593 :日本@名無史さん :2018/11/19(月) 00:14:14.49 > 北部九州は縄文時代から既に西日本の中心だった > そしてそれは弥生時代から古墳時代にかけても継続した > 縄文時代の貝の交易マップと、北部九州の海人族・安曇の分布がほぼ一致している > > 縄文時代の貝の交易 > http://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1608018/30/55536130/img_3?1506135325 > http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg > 安曇族ゆかりの地 > http://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg > > また、縄文時代には貝で作った貝輪が北部九州の有力者の証だったが、弥生時代以降にはそれをモデルにして銅で作った > 銅釧(かなくしろ/どうくしろ)がこれに代わり、やはり同様の分布を示す > > 銅釧出土地 > http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/sinsou/36/bunnpu.png > > 銅釧は北部九州が発祥で、邪馬台国の時代に盛行したとされる > http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note/notebook31_1.htm > >南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、 > >古墳時代前期前半で終焉に向かいます。 > > やはり、邪馬台国の時代に至っても北部九州の海人が東海以西の日本各地を席巻していたのは間違いなさそうだ > 銅釧の出土を見ると、畿内も大阪湾南岸は既に北部九州の勢力下に入っていたようだ > 現在の和泉市や泉佐野市のあたりなのを見ると、和泉(イズミ)も安曇(アズミ)由来の地名のようだな > 596 :日本@名無史さん :2018/11/19(月) 00:25:44.39 > 安曇の関係地や海人の特権階級が身につけた有鉤銅釧の分布は連続的ではなく飛び飛びになっており、 > 邪馬台国は本州に飛び地を持っていた可能性が高い > http://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg > http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/sinsou/36/bunnpu.png > > 例えば近江に安曇族が来たのは卑弥呼の時代とも一致するらしい > 邪馬台国の飛び地だったと言ってもいいだろう > > https://biwako-genryu.shiga.jp/?page_id=603 > > 安曇川周辺には、このアドやアマに関連する地名が数多く見られる。 安曇川町上古賀の「天川」や中央1丁目の「雨ヶ森」、 > > 新旭町安井川の「安曇」や太田の「安曇連(あづみむらじ)」に関する社寺と「阿曇比羅夫(あづみひら ふ)」の墓、 > > 今津町南浜の「天川」などである。 > > そして、これらに福井県若狭町の「海士坂(あまさか)」や県境の「天増川(あますがわ)」をつなぐと、若狭湾方面から饗庭野を経由して > > 安曇川流域付近に住 みついた安曇海人の軌跡を示しているとみられている。 > > また、移住の時期は弥生時代から始まって、3世紀以前に安曇川のデルタ一帯に定住したが、6世紀には当地域から姿を消したものと推測されている。 > 602 :日本@名無史さん :2018/11/19(月) 01:10:22.43 > https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1559278/18/54429718/img_3 > この伝阿曇居住地(水色の丸印)を見ると、奈良が完全に安曇に包囲されてるのがよく分かる > この状態から畿内が九州に対して逆転勝利を収める目は存在しない > 完全に包囲されて圧力に屈した奈良が入婿(神武)を受け入れて権力を明け渡した程度の話が東征の実態だろう > 599 :日本@名無史さん :2018/11/19(月) 00:49:02.97 > 安曇の関係地の一つである渥美半島で、異様に上腕骨の太い縄文人の骨が見つかっている > 海流に逆らって船を漕ぐためにそうなったと考えられており、海人族が縄文時代には既にここまで来ていたことを示している > ちなみに、2番目にマッチョだったのが海人の本拠地、福岡玄界灘の集団であった > > https://readyfor.jp/projects/koukai2/announcements/84232 > >最後に補足ですが、図中のGは保美に次いでマッチョだった縄文男性なのですが、北部九州の玄界灘集団です。 > > これと同様にマッチョな弥生人の骨が長崎の離島からも見つかっている > やはり海人族だろう > https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_1114.html > > 弥生時代、女王・卑弥呼が治めた「邪馬台国」があったという説もある九州北部。 > > ことし8月、長崎県佐世保市の離島、高島で古代史の研究者を驚かせるものが発掘されました。 > > それは、下半身に比べ上半身が異常に太く、驚くほど“マッチョ”な体型をしていた弥生時代の人骨です。 > https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/still/web_tokushu_2018_1114_eyecatch.jpg 九州の連合軍が奈良盆地まで攻め上ったのなら、なぜにその後、 崇神が四道将軍を発したり、ヤマトタケルが熊襲征伐をしなきゃならんのよ? 九州から奈良盆地までを征服したのはどうなったんだ?途中に吉備のような結構大きな勢力もあるが、吉備はどうしたの?征服したの? そうじゃないんだよ。 神武は大軍を従えた征服者ではなく少人数の流浪者・移住者で、その後のヤマト政権は、奈良盆地とか畿内ローカルの勢力だったからだよ。 >>261 > 神武は大軍を従えた征服者ではなく少人数の流浪者・移住者で、その後のヤマト政権は、奈良盆地とか畿内ローカルの勢力だったからだよ。 そうじゃないんだよ。 神武東征は倭国(阿波)の阿波市→鳴門市への東征 と、何度言えばw @阿波 記紀の神武だって、何だか妙にショボい戦さを繰り返してるだろ。敵を騙して家に閉じ込めて外から火をつけるとか、まるで弱小豪族同士の抗争だ。 後世の記紀編纂者が、盛りに盛ってあれだからね。 実際は一族郎等合わせて数十人規模で、地域地域の武装勢力と諍いを起こして、結局その土地を奪えずに、諦めて先に行く。その繰り返しで、最後にやっとこさ奈良盆地で落ち着いたの。 >>261 熊襲は狗奴国だからもともと敵対してたんだろう 四道将軍もまた同じ >>256 とかを見ると吉備は縄文時代から玄界灘勢力と付き合いがあったようだし、同盟関係だったんじゃないか >>263 >実際は一族郎等合わせて数十人規模で、地域地域の武装勢力と諍いを起こして、結局その土地を奪えずに、諦めて先に行く。その繰り返しで、最後にやっとこさ奈良盆地で落ち着いたの。 そうじゃないんだよ。 神武東征は倭国(阿波)の阿波市→鳴門市への東征 と、何度言えばw @阿波 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>256-259 こういう考古学的資料があるのにそれを無視した議論には意味がないよな 実際にこれらのものが出土しているという事実を踏まえて考えれば九州邪馬台連合が東遷したとしか考えられない >>257 の近江の例などと同じような現象が近畿、畿内各地でおこったのだろう 神武東征では、神武の兄弟も死にまくりと言うのも不審。 大軍を擁した征途のいくさで、王の兄弟がそんなに死ぬかね?そんな大軍だったら、みなさん一軍を預かる将軍でしょ? でも実際には兄のイツセは、矢がビュンビュン飛んで来る前線で戦ってたってことでしょ? 弟たちは荒れた海を強引に航海して難破して死んでるし。将軍様の御座船に、そんな無茶させる? あと「宴会に招いて騙し討ち」とかもしてるし。 だからね。せいぜい、弱小豪族の小規模な抗争くらいの戦闘規模だったのよ、神武東征と言うのは。 >>267 >実際にこれらのものが出土しているという事実を踏まえて考えれば九州邪馬台連合が東遷したとしか考えられない 妄想は聞き飽きた と、何度言えばw @阿波 >>268 >だからね。せいぜい、弱小豪族の小規模な抗争くらいの戦闘規模だったのよ、神武東征と言うのは。 そうじゃないんだよ。 神武東征は倭国(阿波)の阿波市→鳴門市への東征 と、何度言えばw @阿波 神武一行のイメージとしては、まあ、故郷を追われた「山賊」みたいなもんだろ。 行く先々で戦闘や掠奪を繰り返し、どんどん東に流れて行く。 逆に言うとせいぜい山賊規模なので、補給や占領地行政などを気にせず、日向から奈良盆地まで流れ着くことが出来た。 >>271 >逆に言うとせいぜい山賊規模なので、補給や占領地行政などを気にせず、日向から奈良盆地まで流れ着くことが出来た。 妄想は聞き飽きた と、何度言えばw @阿波 >>267 共通の交易品が日本の広い範囲で見つかりました、と言う話がどうして、 「九州から畿内までの大規模軍事遠征がありました」 と言うストーリーの証左になるのさ? 来たぞ! 【歴史】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か「日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」 福岡・西新町遺跡 https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1542968156/ >>273 > 銅釧は北部九州が発祥で、邪馬台国の時代に盛行したとされる > >http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note/notebook31_1.htm > >南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、 > >古墳時代前期前半で終焉に向かいます。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >256〜 いろいろ情報をいただいて、ありがとうございます。 すこし、検討してみます。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . 伊都を追われた神武の後に伊都で筑紫倭王に共立されたのが卑弥呼だったのだろうね。 >>74 もう西区の集落跡を見つけ出すのは無理だろう 開発されまくって海岸も埋め立てだらけ >>1 の文章の書き方には浪漫を感じる 好感をもてる。頑張って欲しいです。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 天皇の一族が最大勢力になったのって飛鳥時代のあたりだろ それまで豪族とかたくさんの王が割拠してたんだろう 282日本@名無史さん2018/11/26(月) 10:15:55.06 >>74 もう西区の集落跡を見つけ出すのは無理だろう 開発されまくって海岸も埋め立てだらけ >>1 の文章の書き方には浪漫を感じる 好感をもてる。頑張って欲しいです。 エールをありがとうございます。 古代はロマンにあふれています。調べるほどに古代の人は国造りに純粋に生きたと思えてきます。 もしよければ、県立図書館に寄贈しているので取り寄せて読んでください。 「たかとりが明かす日本建国」 「丘と岡が明かす天孫降臨」 「伊邪那美岐が明かす国生み」 です。3冊目はこれから寄贈の予定です。 日本武尊や豊受大神の生涯に、多くのロマンを感じることができるでしょう。 85歳の方から、「生きているうちに出会えてよかった本」の感想が届いています。 古代研究の中で見つけた古代ロマンです。 「和久産巣日神の須佐之男を思う心」 和久産巣日神は伊邪那美の神々の生成の最後の方に登場する。 この神の子は豊受毘売と謂うとある。 和久産巣日神は加具土神と埴山姫の間の子である。 伊邪那美は加具土神を生んだために亡くなってしまう。 伊佐那岐は怒り、加具土神を十拳剣で斬ってしまった。 須佐之男と和久産巣日神は幼馴染だったと思われる。 須佐之男の父に、わが父が殺された和久産巣日神。 時が流れた。 須佐之男は高天原を追われ出雲に向かった。 和久産巣日神は須佐之男を追って出雲に行っていた。 和久産巣日神は、慕う須佐之男と結婚できなかった。 和久産巣日神は出雲に来ていた大山津見神との間に神大市比売を生んだ。 須佐之男は年老いたが神大市比売を娶り豊受毘売を生んだ。 そのころ 出雲国譲り交渉のなか、天照大御神が死んだ。 倭国王に高天原からはニニギか山幸彦が立った。 出雲からは大国主か事代主が、丹波からはニギハヤイが立った。 国中は不服で争いになった。 この状況に和久産巣日神は、高天原に出向いた。 伊邪那岐に斬られた、加具土の子・和久産巣日神の心が高天原を動かしたのだろう。 須佐之男の子、豊受大神を女王に推戴、国仲は収まった。 その名、産巣日の神名はその功績のなである。 大宰府に残る翰苑は「臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。」と記す。 豊受大神は、幼いながらもよく衆望にかなう働きをした。 豊受大神は国譲りを成功させた。 豊受大神は東征の途次、出雲に立ち戻った。 このとき祖母・和久産巣日神の、須佐之男を慕う心を和久の地名で記録した。 図32 須佐之男の陵がある黒山を和久の地名が指し示す。 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu48.jpg 東征隊は豊受大神のこの行いを、高塚山で記録した。 図32 高塚山が指し示す和久羅山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu32.jpg 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 > 邪馬台国東遷説 その4より 119 :日本@名無史さん:2013/08/29(木) NY:AN:NY.AN 邪馬台国や卑弥呼がそこまで日本史上重要であるなら、記紀に登場しないはずがない 卑弥呼=アマテラスだという主張もあるが、諸々の事件や時系列は都合良く無視してるように思う 卑弥呼が記紀の於けるどの時点で登場してるのかはっきりさせてくれ ホワイトケープの検討結果 表1 伊邪那美岐とクニ名・クニ代表の対応 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/hy01.jpg 表1は、伊邪那岐と伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場するクニの名から1文字ずつ採った名であることの、発見を表した表である。 この表の検討から次のことが分かった。 1、伊邪那美岐の文字順が、対応するクニの格順になっている。 2、古事記に登場する「別天つ神五柱」の登場順がクニの代表で対応が取れている。 3、「別天つ神五柱」が、魏志倭人伝が記す倭国乱収束の話し合いを行った。 4、話し合いで、伊都国宗家の男子と、敵であった奴国王の娘を結婚させた。 5、生まれた子供から、統一倭国の王を選ぶことは、会合で決まっていた。 6、それが偶然、長女の天照大神で卑弥呼だった。 >119が疑問視しているが、 しっかりと記紀に登場していて魏志倭人伝より詳しく書いている。 時系列はあっている。伊邪那岐、伊邪那美に魏志倭人伝に出てくるクニ名が出てくるので その子・天照大御神は邪馬台国の時代に生きたことは確かである。 魏志倭人伝は共立としか書いてないが、「別天つ神五柱」が話し合いで決めた、共立だった。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 > 邪馬台国東遷説 その4より >343 :日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:29:01.21 >335 ひょっとして光谷さんの年輪年代法が科学だとでも言うのかな。 あれはブラックボックス。検証不可能なものは科学とはいえない。 それにしても、年輪年代で年代が遡ったのは素早かった。 あっという間もなかった。 また、マスコミや出版業界を通じての宣伝もすごかったが、各方面への圧力のかけ方もすごかった。 しかし、法隆寺の心柱の年代などで年輪年代が問題になっても、考古学会は知らん顔していた。 年代を見直そうという気はさらさらないようだった。 恐らく、光谷さんの年輪年代法が問題になったとしても、我関ぜずの態度だっただろうな。 旧石器捏造事件と似ているな。 ホワイトケープの意見 >343と同じ考えです。 年輪年代法に100年の年代遡りがると指摘したのは、2011年の考古学総会での鷲崎弘明の発表でした。 しかし、これは無視されてその後も弥生時代の年代区分や、古墳時代の幕開けに100年の遡り状態が続いています。 すべてが、邪馬台国が奈良にあったとする先入観念の裏付けに利用していると思われます。 科学的と言われるものをすべて、このように利用して自己満足しているのかも知れない。 1、纏向遺跡から出土した桃の種の、C14放射性同位体残存量を解析も、日本に特化された「JCal」補正を行わず、世界標準の「IntCal13」補正を使っており、 【邪馬台国畿内説】に有利な結果を出している。 2、遺跡の時代区分に出土した鏡の鏡種を用いているが、この考えの中に同じ鏡種は中国から各地にほぼ同着した考えが入っている。 九州と奈良に同じものがあれば、同じ年代区分の遺跡とする考えである。(下記リンク)これも纏向遺跡の時代遡りの原因となっている。 https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185011.pdf 3、近畿では、池上曽根遺跡や近江の伊勢遺跡・稲部遺跡など大型弥生遺跡が見つかっていて、これを源大和の痕跡と考えたかもしれない。 これらは、加茂族などの集団が倭国乱を逃れて移り住んだ遺跡で、源大和なる活動のあとは全くない。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>290 畿内は淀川が内陸交通の要所だった。 琵琶湖を含めれば日本海から瀬戸内海まで通じていたからだ。 伊勢遺跡は日本海沿岸の盟主だった出雲の出先だろう。 実際に畿内を開発したのは、瀬戸内海から上陸した三島の神(三島溝杭耳)らの鴨族であり、大和もその末裔である登美の鴨主らが開発したと思われる。 彼らは博多湾沿岸の倭王であったイザナギの直系の祖先であり、筑紫の勢力が畿内を開発したことは明白なのである。 【葛城鴨王家の系譜】 大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。 その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。 大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。 三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。 この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。 神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。 出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。 この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。 天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。 この登美の鴨王家には別の伝承がある。 飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。 登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。 とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。 古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。 いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 鴨王とは、嘉麻市嘉麻川周辺カモ→嘉麻 蕨手文の一族 と思う。妄想ですが 遠賀川の一部が明治期に嘉麻川と呼ばれてたけど、江戸時代までは岡川か遠賀川なんだよな >>297 いや筑前国嘉麻郡は和名抄にも載ってるが ここで嘉麻を検索してみ? http://chimei.nabunken.go.jp/ ならば畿内を開拓した鴨の一族も、発祥は福岡県ということで納得。 結局は筑紫倭国が拡大して、一部の勢力が東征して畿内を開拓した。 続いて饒速日が東征して畿内を征服した。 鴨から二、三世代遅れて筑紫から再び神武が東征した。 その過程で銅鐸勢力が衰退したが、饒速日から始まる物部が纒向や前方後円墳を作った。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . >>298 日本@名無史さん2018/12/06(木) 22:35:39.02 遠賀川の一部が明治期に嘉麻川と呼ばれてたけど、江戸時代までは岡川か遠賀川なんだよな 岡と丘について、ホワイトケープの調査結果 遠賀川(古名・岡川)がある北九州付近には、岡田宮や岡水門など神武東征で名付けた岡の地名があります。 なぜ岡なのか、調べたところでは、ニニギが南部九州で名付けた、〇〇岡や〇〇丘に由来すると思われます。 次図のように、ニニギが天孫降臨の道に名付けた岡や丘です。 丘は出発地と到着地に名付けて、中間に岡を名付けています。 天孫降臨の最初の丘は、高千穂町にある「国見が丘」で、最終地点は八代海にある獅子島 の「黒崎丘」です。 猿田彦が海でおぼれて亡くなった、悲しみの黒です。意味のない名付けはありませんでした。 図19 天孫降臨の経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg 図20 天孫降臨の道の名づけ方法 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu20.jpg 神武は東征を、ニニギの国造りの延長と認識していたようで、東征最後の地点に「甘樫丘」を名付けています。 東征途中に〇〇岡や丘を名付けては、天孫降臨と混同するので、地名に名付けたと思われます。 近畿には他、城ケ岡・雙ヶ岡・石堂ケ岡が見つかるのみです。 日本武尊東征でも東北に三つの「〇〇岡」を名付けています。地図で探してみてください。 蕨手紋の古墳壁画の船の先端部には 鳥が書かれているのよね ヤタガラスなのか鴨なのか鵜なのか私にはわかりません 全て当てはまりそうでw 奈良県の古墳の内部壁画ないのかなあ 発掘品ばかり発表で、内部の構造写真とか少ない ような気がする ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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