神武・倭国の連合東遷説
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神武・倭国の連合東遷説とは
神武と倭国が連合して東遷した説である。略して「連合東遷説」という。
東征にあたり投馬(都萬)国の神武兄弟は、まず邪馬台国にある倭国の都・高天原に出向き当時の倭国王・台与(豊受大神)と東征・東遷を諮り、邪馬台(やまと)を大和に遷すことを決めた。
【連合東遷説の定義その1】
定義の根拠は順次アップします。皆さんの豊富な知識で良い説になるよう応援してください。自分自身が納得できた意見であれば、定義の修正・追加をしていきたいと思います。
定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。
定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。
定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。
定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。
定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。
定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。
定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。 故郷の宮崎を追われるようにして、流浪の末に「結果的に」奈良盆地に落ち着くことが出来た神武一行は、その後は家運が上向いて、地域の有力者になった。
当時の奈良盆地は稲作の高度成長期で、人手が足らず、神武一行のような素性も知れない流れ者の一団でも受け入れてもらえたのだろう。
そして高度成長にも後押しされて地域の有力者になった神武の家系は、かつて自分たちを追放した故郷に当て付け、こっちこそ正当なんだと見せつけるように、奈良盆地のあちこちに、九州と同じ地名をつけまくった。
そう言うお話を、記紀で盛りに盛ったのが神武東征の実状だと思いますよ。 天孫降臨が出雲ではなく何故か日向の片田舎であった理由。
奈良盆地にあった邪馬台国、卑弥呼=アマテラス系のクニを、征服したか、簒奪したか、あるいは婚姻によって新参の神武系が乗っ取った際に、後付けで無理矢理正当性を持たせるために作ったストーリー。 魏とも修好したかつての女王国は、その権威において圧倒的だった。
神武以降、崇神、応神、継体と、実質的な王朝交替があるのだが、みなかつての女王国、卑弥呼=アマテラスの末裔であるとストーリーを作ったり盛ったりした。それが記紀。 ちなみに邪馬台国が奈良盆地なのは、弥生時代から既に人口の中心は本州だったから。
魏使が本国に本州のことを伝えない訳がなく、北九州から結構な距離を進んで最初に到達する大人口地帯が奈良盆地。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています