>ホワイトケープ
よく研究されてますね
そちらが載せている各種の地名や破鏡の分布図と、↓これらの地図にも類似性があるようです

> 593 :日本@名無史さん :2018/11/19(月) 00:14:14.49
> 北部九州は縄文時代から既に西日本の中心だった
> そしてそれは弥生時代から古墳時代にかけても継続した
> 縄文時代の貝の交易マップと、北部九州の海人族・安曇の分布がほぼ一致している
>
> 縄文時代の貝の交易
> http://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1608018/30/55536130/img_3?1506135325
> http://www.gondo.com/gyarari/photo/kokunaiiseki/pic/doigahama/a2.jpg
> 安曇族ゆかりの地
> http://4.bp.blogspot.com/-mYi5TCXdsF8/VDnqBtD4d9I/AAAAAAAAA2s/YwNSV2jEEZc/s1600/018E8B387E69699_R.jpg
>
> また、縄文時代には貝で作った貝輪が北部九州の有力者の証だったが、弥生時代以降にはそれをモデルにして銅で作った
> 銅釧(かなくしろ/どうくしろ)がこれに代わり、やはり同様の分布を示す
>
> 銅釧出土地
> http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/sinsou/36/bunnpu.png
>
> 銅釧は北部九州が発祥で、邪馬台国の時代に盛行したとされる
> http://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note/notebook31_1.htm
> >南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、
> >古墳時代前期前半で終焉に向かいます。
>
> やはり、邪馬台国の時代に至っても北部九州の海人が東海以西の日本各地を席巻していたのは間違いなさそうだ
> 銅釧の出土を見ると、畿内も大阪湾南岸は既に北部九州の勢力下に入っていたようだ
> 現在の和泉市や泉佐野市のあたりなのを見ると、和泉(イズミ)も安曇(アズミ)由来の地名のようだな