記紀は、一書を含めて全て淡路州をまず生んだとしている。

次のように考えた。
1、伊邪那岐・伊邪那美の二人は高天原から戻り、南あわじ市の「おのころ島神社」付近に上陸した。
2、おのころ島を改めて回りなおすと、諭鶴羽山の谷水を利用した開拓を開始した。
3、麓の神代浦壁や神代社家などの地名は、その名残かもしれない。
4、しかし、諭鶴羽山(608m)は低く、谷も浅く、海岸まで10数kmしかない。
5、日本有数の灌漑用池が密集している地区で、当時も水に難儀したものと思われる。
6、日本書紀は、淡路州の結果が不満足で、「吾恥島」だと自虐的に記している。
7、つぎの土地に移ったのだろう。
8、淡路島の鉄遺跡、五斗長垣内や舟木遺跡は、邪馬台国時代には終わっている。
9、伊邪那岐・伊邪那美の国生みで、瀬戸内海東部の情勢が安定し、鉄工房は各地に拡散したと考えた。