神武・倭国の連合東遷説
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神武・倭国の連合東遷説とは 神武と倭国が連合して東遷した説である。略して「連合東遷説」という。 東征にあたり投馬(都萬)国の神武兄弟は、まず邪馬台国にある倭国の都・高天原に出向き当時の倭国王・台与(豊受大神)と東征・東遷を諮り、邪馬台(やまと)を大和に遷すことを決めた。 【連合東遷説の定義その1】 定義の根拠は順次アップします。皆さんの豊富な知識で良い説になるよう応援してください。自分自身が納得できた意見であれば、定義の修正・追加をしていきたいと思います。 定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。 定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。 定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。 定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。 定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。 定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。 定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。 >>56 レスありがとうございます。 東征に関しいろいろな説があることは承知しています。 討論すると果てなく続くので行いません。 阿波は古代に満ちたところで、吉野川流域には古社が多くあります。 出雲の神や、イザナギ・イザナミに関する多くの神が登場します。 国生みの地なので、後の神々などもそのことを知っていてイザナミを 弔うために訪ねていると思います。 >>57 >東征に関しいろいろな説があることは承知しています。 そうですね、確定はできていません。 あとは、地理・古神社・古地名等による状況証拠の積み上げでしょう。 >阿波は古代に満ちたところで、吉野川流域には古社が多くあります。 実は、吉野川だけではなく、鮎喰川・勝浦川・那賀川・海部川等、徳島県下の河川全般に古社が存在しています。 吉野川だけでは、記紀を説明しきれません。 @阿波 >>58 @阿波さんは、阿波への思い入れが強いようです。 私も阿波への思いが強いです。 何度も訪ねていますが、この春は著書の表紙のため、阿波市の瀬詰大橋付近からの 高越山を撮影に行きました。 伊邪那美といったら、高越山の神陵でしょう。 高越山の山頂に行ったときは、今も山伏のようなお坊さんが、神陵をお守りしているようで 感動しました。 伊邪那岐が、この高越山から阿南まで逃避したことは、邪馬台国阿波説の中で知りました。 >>59 >私も阿波への思いが強いです。 それにしては、>>1 で「阿波」は登場せず、西日本をまたにかけた壮大なストーリーを展開していますね。 >阿波市の瀬詰大橋付近からの 高越山を撮影に行きました。 シャープでいいアングルですね。 でも私はもうちょっと西からのどっしり感が好きです。 >伊邪那岐が、この高越山から阿南まで逃避したことは、邪馬台国阿波説の中で知りました。 その逃避行にまつわる地名が残ってるのが実に奇妙ですよね。 @阿波 >>60 >それにしては、>>1 で「阿波」は登場せず、西日本をまたにかけた壮大なストーリーを展開していますね。 >>1 は神武・倭の連合東遷説です。 伊佐那岐による阿波での国生み後、吉備を経て九州へ戻った後の出来事と考えています。阿波時代は東征の前の時代の出来事なので、直接登場していません。 >その逃避行にまつわる地名が残ってるのが実に奇妙ですよね。 @阿波 奇妙というより、伊邪那岐の逃避の出来事由来と考えています。 阿南に橘や青木も見つかります。小戸神社もありますネ。 ようやく逃げおうせた伊邪那岐が体を清めたくなるのは自然なことです。 国に戻って博多湾でもう一度、禊することも自然な行いと考えます。 忌部氏の直系にあたる、三木信夫さんの家を訪ねたことがあります。 その屋敷の裏が断崖絶壁で、高越山から伊邪那岐が逃避した尾根道が見える場所でした。 三木さんの先祖は、この逃避の尾根道を語り遺すため、この断崖の上に住むことに したと考えて一人で感動した思い出があります。 三木さんにこのことをお話しすると、うすうすは思っていたようで、若いときにその 尾根道を登ったことがあり、見えるほど急な道ではないと話されていました。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 定義16 高城山を残した部隊は、四国、山陰、丹波に遠征した部隊だった。 図30 高城山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu30.jpg 画像2 宇陀にある高城山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/ga02.JPG 図30は、九州を離れた高城山の部隊が、経路に残した高城山を結んでいる。九州を出発するにあたり、狗奴国と決着の戦いを行った高城隊は、最強の部隊と思われる。高城山に記録したその足跡をたどってみる。 【高城隊の経路】 @ 浜田市三隅町にある高城山から始まる足跡である。広島を経て四国の剣山近くに次の足跡がみつかる。四国西部も遠征し物部川を遡り、峠を越えて那賀町に進んだと思われる。峠には赤城尾山がある。 A 次は倉吉市の高城山に続いているが、伊邪那美命が葬られた高越山を指し挟んでいた。この連合東遷は伊邪那美命の国生みに始まる、建国の過程と認識していたかも知れない。一つひとつの高城山は、いろいろな意味を込めた名づけであることが分かる。 B 倉吉市の高城山近くには、多くの殺された骨が見つかった青谷上寺地遺跡や、焼けた当時の住居跡が見つかった秋里遺跡がある。両遺跡で破鏡が見つかっていて、激しい戦闘の中で紛失したものと考える。青谷町の南には木尾山を残している。 C 高城山の足跡も、高尾山の足跡と同じく、孔舎衛坂の戦いに負けて、和歌山に向かったことを記録している。 吉野川を遡って宇陀に進んだようにも見えるが、天川村山中に高城山と共に天狗倉山があり、本隊と別ルートで熊野を越えたかも知れない。 D 古事記では、宇陀の血原の戦いの記述に高城が登場する。 「宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず」 血原の地名は2ヵ所残るが、その中の宇陀市室生区田口元上田口付近に高城山が見つかる。画像2が宇陀の高城山。 >>61 >伊佐那岐による阿波での国生み後、吉備を経て九州へ戻った後の出来事と考えています。 「九州へ戻った」? 誰が、何のために「戻る」のですか? 國生み神話は、忌部一族の開拓史を表しているんですよ。 @阿波 剣山でたくさん見つかった弥生人のミイラはどこ行ったんだろう >>64 >「九州へ戻った」? 誰が、何のために「戻る」のですか? 國生み神話は、忌部一族の開拓史を表しているんですよ。 @阿波 私が記紀を研究した結果の「国生みの概要(1,2,3)を挙げます。 @阿波さんの考えと全く違いますので、議論はしません。 質問であれば、補足説明します。 国生みの概略(1) 1、神々は、伊邪那岐命と伊邪那美命に、「この漂へる国を修め理り固め成せ。」と詔して、二人を天の浮橋から出発させた。この記紀の記述が、日本の歴史の記録の始まりである。 2、伊邪那岐と伊邪那美の名は、魏志倭人伝に登場する五つのクニ名から、一文字ずつ採った名である。 3、伊邪那美・岐の文字順は、当時のクニの格順になっていて、古事記が記す「別天つ神五柱」の記載順と対応している。 4、「別天つ五柱」は、魏志倭人伝が記す倭国乱を、収束させる話し合いのメンバーだった。 5、伊都国宗家の男子・伊邪那岐命と奴(那)国王の王女・伊邪那美を結婚させ、その子から統一倭国王に共立することは、話し合いで決まっていた。その王が、天照大御神(卑弥呼)である。 6、 話し合いは志賀島の志賀海神社で行われたと、推測した。 9、博多湾の小呂島と能古島で指し示す室見川河口が、二人の船の出発地と考えた。 10、伊邪那岐命は瀬戸内海を進み、伊邪那美命は四国の太平洋岸沿いに進み、二人は淡路島東岸にある沼島付近で再会したと考えた。 11、沼島にある上立神岩が、二人の結婚の場「天の御柱」と比定した。 12、始めて生んだ州とする淡島は、徳島平野の吉野川中流にある、日本最大の中の島、現在の善入寺島と考えた。 13、開拓に失敗した二人は、高天原の神々にアドバイスを受けに戻った。 国生みの概略(2) 14、次に取り組んだのは、淡路島の諭鶴羽川流域だったが、雨が少なく、ここも不満足な結果となった。 15、 淡路島北部で発見された、鍛冶工房跡の五斗長垣内遺跡は、二人がやってくる以前から、東進してきた周辺地域の人たちに、鉄農具などを供給するために築かれたものと考えた。 16、瀬戸内海東部に多く見つかる、高地性集落は倭国からやってくる船を迎えるために、待ち受けた場所と考えた。 17、近畿の大きな弥生遺跡付近には、龍(竜)王山が見つかり、これは後の龍王こと豊玉彦命が、国生みの跡地にやってきて国生みの事績を記録したものと考えた。 18、銅鐸は神武東征時、豊受大神が鏡を鋳造するため、邑々から拠出させたときに、邑人が隠匿したものと推測した。 19、淡路島の開拓の次に取り組んだのは、伊与二名州である。伊予は伊都国の将来を託した意味で、二名とは二人のことと考えた。「愛媛」は伊邪那美命の当時の愛称と推測した。 20、瀬戸内海東部に多く残る、加茂・賀茂の地名は、福岡平野の戦乱を逃れ人々が、東方に移動した痕跡と考えた。 21、二人は次に善通寺市付近の開拓を経て、先に失敗した吉野川流域の開拓に戻ってきた。 22、神生みは国生みが終わってからのできごとでなく、国生みという名の開拓の中で活躍した人への、尊称を与えたできごとと考える。 23、建築の神々、自然にまつわる神々、河口の神・山の神などは、このことで、技術や知識の次の世代への伝播が図られたと推測した。 24、伊邪那美命の死の事故があったのは、熊野の「花の窟」付近で、また伊邪那岐命は猪名川上流にいたことが、二つの竜宮山で記録されていた。 25、事故にあった伊邪那美命を、急ぎ徳島の吉野川上流の宮まで運ぶことになり、その様子が熊野速玉大社の御船祭として残されていることが分かった。 26、熊野諸手船に稚児像が乗せられることから、須佐之男命が伊邪那美命の事故に遭遇していたと推測した。 国生みの概略(3) 27、伊邪那美命の死の知らせを受け、伊邪那岐命は戻ってくると、迦具土神を斬ってしまうが、その血が流れ走りついた先は、伊邪那美命の殯の場所だった。 28、吉野川市山川町の天神社が、殯の行われた場所と推定した。その付近一帯に、殯を記録したと思われる地名が残されていた。 29、伊邪那美命の遺体は、近くの高越山に葬られたと推測した。 30、伊邪那岐命は伊邪那美命との最後の別れに、高越山に登るが、遺体の変化に驚き、自分がいつまでも妻を慕う弱虫だったことを悟り、強く生きることを決意した。 31、殯の地に戻れば弱虫に戻ると考え、反対の阿南に向けて尾根伝いに降りた。 32、木屋平に残る忌部氏直系の屋敷は、伊邪那岐命が降りた尾根道の反対の崖上にあり、この尾根を記録しようとした場所と考えた。 33、泣沢女に追われながら降りた逃避の道には、記紀が記す出来事に由来すると思われる、地名が残ることが分かった。 34、伊邪那岐命が禊した場所として記される、「橘の小門の阿波岐原」の橘や青木が阿南市にあり、禊の伝承があることが分かった。 35、禊の際に成ったとされる、天照大御神など三貴子は殯の里から阿南に呼び寄せられた、再会の場面と考えた。 36、伊邪那岐命は弱虫をはねのけ、次の開拓地吉備に進んだ。そこで伊邪那美命の陵の地を探した。 37、日本書記が記す、伊邪那美命を葬ったと記す比婆山は2ケ所あり、中国山地の比婆山は竜王山や井原市の高越山で、山川町の高越山と結ばれていた。 38、 吉備の開拓にめどをつけると、倭国に戻ることとした。 39、室見川河口の小戸神宮前の浜で禊した後、三貴子を紹介しそれぞれの今後の役割を示した。 >>66 >質問であれば、補足説明します。 質問 >5、伊都国宗家の男子・伊邪那岐命と奴(那)国王の王女・伊邪那美を結婚させ、その子から統一倭国王に共立することは、話し合いで決まっていた。その王が、天照大御神(卑弥呼)である。 まず、「伊都国」とはどこですか? @阿波 >>69 >まず、「伊都国」とはどこですか? @阿波 伊都国は有力比定地とされている、現在の糸島市と福岡市の西区を合わせた領域と考えています。 >>70 質問 「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」にある「伊都国宗家の男子・伊邪那岐命」が居た弥生時代後期末の集落遺跡はどれですか? @阿波 >>71 >質問 「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」にある「伊都国宗家の男子・伊邪那岐命」が居た弥生時代後期末の集落遺跡はどれですか? @阿波 当時、伊邪那岐が住んでいた集落を検討したことはありません。 >>72 >当時、伊邪那岐が住んでいた集落を検討したことはありません。 質問 別に喧嘩をするつもりはありませんが 伊邪那岐が住んでいた集落を検討せずに「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」とした理由はなんですか? @阿波 >>73 >質問 別に喧嘩をするつもりはありませんが 伊邪那岐が住んでいた集落を検討せずに「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」とした理由はなんですか? @阿波 伊邪那岐が伊都国の出自であることが判明すれば十分で、住んだ集落を特定する必要はないでしょう。 伊邪那岐の伊は伊都国の伊で、伊邪那岐の名の文字順が当時の対応するクニの格順で あることは前に述べたとおりです。 この伊都国の代表が「天之御中主神」なので、伊都国は海人(天)族の国であることが分かります。 先の比定領域には天神社が最も多く集中していて、天族の領域であることは、 石井好の研究「伊都国日向の宮」で述べていて支持できる内容です。 >>74 >伊邪那岐の伊は伊都国の伊で、伊邪那岐の名の文字順が当時の対応するクニの格順で >あることは前に述べたとおりです。 質問 伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では? @阿波 >>74 >質問 伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では? @阿波 次のように「伊邪那美岐」の文字は、魏志倭人伝に登場するクニ名から 1文字づつ採った名前なので、伊のみが四国の伊予から来たものではありません。 伊 伊都国 邪 邪馬台国 那 奴(那)国 美 不彌(宇美)国 岐 壱岐国 当時の倭国乱を収束させるために、「別天つ神五柱」が話し合って二人に 与えた名前と考えています。 >>76 >「伊邪那美岐」の文字は、魏志倭人伝に登場するクニ名から >1文字づつ採った名前なので 質問 「伊邪那美・岐」は記紀に登場する人物ですか、魏志倭人伝には登場しません。 「1文字づつ採った名前」として記紀と倭人伝を関連づけるには無理があると思いますか? @阿波 >>77 >質問 「伊邪那美・岐」は記紀に登場する人物ですか、魏志倭人伝には登場しません。 「1文字づつ採った名前」として記紀と倭人伝を関連づけるには無理があると思いますか? @阿波 魏志倭人伝は、卑弥呼(天照大御神)が年老いた239、248年頃、倭国に来た時点の 記述なので、卑弥呼(天照大御神)の父母・伊邪那岐、伊邪那美の記述が無くても不思議では ありません。わずかに伊都国には「世有王」と記すのが、伊邪那岐の痕跡でしょう。 本日は、もう寝ます。質問が出た場合は明日の回答になります。 いろいろ質問していただき、これを読んでくれている他の人に、参考になってくれている かもしれません。 ありがとうございます。 >>78 >卑弥呼(天照大御神)の父母・伊邪那岐、伊邪那美の記述が無くても不思議では >ありません。 質問 「卑弥呼(天照大御神)」も「別天つ神五柱」も、記紀に登場する人物ですが、魏志倭人伝には登場しません。 「1文字づつ採った名前」として「伊邪那美・岐」を考えるのであれば記紀のなかで考えるべきではないですか? 記紀の中で考えるならば、伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では? @阿波 お話しぶった切りごめん 狗奴国は吉備から東征せしヤマト王権よ? まあ御歓談あれ? >>80 >狗奴国は吉備から東征せしヤマト王権よ? 狗奴国の国力・財力を考えると、狗奴国は権力の元となる鉱物資源・海洋資源を持つ長国以外に無い。 @阿波 >>79 >質問 「卑弥呼(天照大御神)」も「別天つ神五柱」も、記紀に登場する人物ですが、魏志倭人伝には登場しません。 「1文字づつ採った名前」として「伊邪那美・岐」を考えるのであれば記紀のなかで考えるべきではないですか? 記紀の中で考えるならば、伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では? @阿波> おはようございます。 >>76 で述べたように当時の倭国乱を収束させる神々の話し合いで、この名が生まれたと考えています。倭国乱は北部九州の土地争いと思われ、格順1位の伊都国が北部九州以外の国から1国のみ参加することは考えられません。 伊予の伊は伊都国に由来し、伊都国の将来を伊邪那岐・伊邪那美に預けた意味、または伊都国の地を広めた意味が予に込められていると考えています。 >>83 >伊予の伊は伊都国に由来し、 なんども書いていますが「伊都国」は記紀には登場しません。 だから、「伊予の伊は伊都国に由来」する訳がありません。 あなたは記紀と倭人伝をごちゃまぜに考えています。 記紀は倭人が書いた書物。 倭人伝は中国人が書いた書物。 「伊予の伊は伊都国に由来」する訳がありません。 @阿波 >>84 議論するつもりはありません。 伊邪那美・伊邪那岐の名前は古事記に登場します。 そして、その名前の文字が魏志倭人伝に登場するクニ名とつながったのです。 古事記と魏志倭人伝がリンクしたのです。 新井白石も本居宣長も古事記研究の中で発見できなかった事柄です。 この発見で、邪馬台国が実在した国であることが立証されました。 人の考えは修正できません。自分が納得した時変えられるだけです。 伊邪那岐の伊が伊予の伊と考えたなら、特に反対はしませんが、私の考えは 以上の通りで修正するつもりもありません。 定義17 高塚山を残した部隊は、出雲から戦闘に参加した。 図31 高塚山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu31.jpg 図32 出雲の高塚山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu32.jpg 豊受大神の薩摩下りを警護した後の、高塚隊が残した高塚山の足跡をたどってみる。 図31、は九州を離れた高塚山の部隊が、経路に残した高塚山を結んでいる。 【高塚隊の経路】 @ 高塚隊は豊受大神を警護しながら、大神の生まれ里の安来までやってきたと思われる。出雲から戦隊に加わった足跡である。 A 安来付近の短い足跡は、別な意味を含ませている。図32はその考えられる意味を地図に表した。 ・出雲の造山古墳は古墳時代前期のもので、東遷後この高塚山の意味を知る人がここに戻り墓の位置としたと思われる。 ・二つの高塚山が指し示したものであれば、松江にある和久羅山が該当する。この山は豊受大神が和久産巣日神の須佐之男命を想う心を残した山である。 島根半島の和久王島との対で、須佐之男命の陵・黒山を指し示している。 ・二つの山で指し挟んだとすれば、豊受大神の生まれ里、宇賀荘である。 B 図31の点線で示したように、高城山でもあった伊邪那美命の墓標・高越山への指し示しがある。 C 潮岬にある高塚は灯台近くの、原始林の中に残る太陽祭祀跡である。高塚隊が残したもので、この位置が東遷先・橿原の南に位置していて意味があったと考える。 D 最終の高塚山は宇治を越えて、伏見の稲荷山付近にある。豊受大神を意識した位置である。最終の高塚山と一つ手前の高塚山は14kmしか離れていない。 E この二つで指し残したものがあるとすれば、纏向の天照御魂神社と考える。豊受大神が天照大御神の御魂をお連れして来て、新しい高天原をお見せしたところである。 >>85 >伊邪那岐の伊が伊予の伊と考えたなら、特に反対はしませんが、私の考えは >以上の通りで修正するつもりもありません。 倭国(阿波)に来たりして興味がある割に、本当の倭国(阿波)を知らない。 失望しました。 @阿波 定義18 高倉山は豊受大神が、天照大御神の御魂と共に東征隊を追い、影から応援し祈り、東遷した足跡である。 図33 高倉山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu33.jpg 図34 慰霊の足跡 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu34.JPG 画像3 伏見稲荷の上社神蹟 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/ga03.JPG 図33は、豊受大神が東遷隊を追った経路に残した高倉山を結んでいる。 【豊受大神の経路】 @ 山口市付近に上陸し山陰に進んだように見える。 A いきなり山陽に戻ったのでなく、点線のように生まれ里の安来に寄ったと推測する。稲荷山が島根半島の和久王島付近から始まっている。 B 吉備付近に高倉山と稲荷山が多く見つかる。 東征隊は吉備で戦いの準備を進めたとあるので、豊受大神もしばらく留まったと思われる。戦のあった河内を避けて、淡路島に迂回した経路である。 C 図34のように淡路島の高倉山と、泉南と和歌山にある高倉山を結ぶと、それぞれ男神社と竈山を指し挟んでいる 孔舎衛坂の戦いで亡くなった五瀬命を慰霊する足跡である。 D 熊野で神武が萎えていたとき天照大御神の名の下、高倉下を使わして神剣・布都御魂を届け励ました。 E 東征隊が熊野山中で進退極まった時、八咫烏を派遣し熊野越えを成功させた。 F 宇陀の高倉山では、高倉下の案内で神武と再会し、神武を大王に推戴し東遷後の国造りを託した。 G 神武の橿原での即位には立ち会わなかった。 投馬国の勢力と北部倭国の勢力で争いになることを避け、摂津から丹後に身を引いた。 H その途中、橿原宮の真北にある稲荷山で、新しい高天原の安寧を祈り、南に向いて三度の伏拝を行った。下社神蹟・中社神蹟・上社神蹟(画像3)がのこる。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 定義19 神武・倭国の連合東遷は計画の通り7年をかけ、酉年に神武は即位した。 図35 天皇代数と没年 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu35.JPG 図36 天皇代数と没年(拡大) http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu36.jpg 図37 連合東遷関係者の年代シミュレーション http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu37.JPG 図35は横軸に天皇の代数を、縦軸に西暦をとり各代天皇の没年を表したものである。神武は第1代なので代数0を即位年と想定した。 問題は没年が不確かで空白とした、20代以下を遡る方法である。これまで平均在位年数を求める方法や、相関曲線を求める方法で推測がされてきた。 いずれも用いるデータ(代数)の範囲で結果は変化することである。 図36は空白部分を拡大した図である。少なくとも代数0と交わる点が、紀元前でないことが分かる。 目算では西暦200〜350年には収まりそうである。日本書記は辛酉の元日に即位した、と記していて先の西暦内では241年と301年が該当する。 【神武即位年の状況的根拠】 @ これまで定義してきたように、東遷は天照大御神(卑弥呼)が亡くなった後に、豊受大神と神武兄弟が行った。 A 卑弥呼が亡くなって男王の争いの後、豊受大神(台与)は13歳で女王となったので、250年ころ13歳であった。この13歳では東征を決断することは不可能である。晋への最後の遣使(265年)を行った、28歳の後なら決断が可能と考えられる。 B 豊受大神は東遷を行うにあたり、ニニギに東遷を行う報告のために薩摩に出向いている。ニニギが天孫降臨した年数が7年と知っていて、この神武・倭国の連合東遷も7年と計画したふしがある。 C 日本書紀では干支でできごとを記しているが、十干を省き十二支で見ると、高千穂宮での話し合いから、寅・卯・辰・巳・午・未・申と7年を掛け、翌年の酉の1月1日に即位している。 D 東征隊は山名に鷹を用いている。また鳥の尾をイメージした〇尾山を名付けてきた。 東征隊は自分たちが「神の遣いの鳥」という認識があったように見え、即位年を酉年と決めていたと思われる。 即位後、鳥見山に高皇産霊尊を祀った。 E 最後の遣使、265年以降の酉年は、277、289、301年が該当する。 F 一方、丹後国風土記逸文の奈具社では、豊受大神が和奈佐という老夫婦に請われて娘となっている。 豊受大神が丹後に身を引いたときは、まだ老夫婦から娘になるよう請われる年代であったことが分かる。 G 上記の酉年での豊受大神の歳は277年(40歳)、289年(52歳)、301年(64歳)となり、東征を追う旅ができる年齢と考え合わせれば、277年の神武即位の可能性が高い。 H 図37は277年神武即位として、登場人物の年齢をシミュレーションしたものである。姉・天照大御神の系譜の神武と弟・須佐之男命の系譜の伊須気余理比売が結婚しているので、年代がつながるか模擬している。 結果、神武をウガヤフキアエズと異母兄弟と比定し、年齢を若く想定すれば277年即位は可能である。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 定義20 神武と豊受大神による連合東遷は、神武が橿原で即位し、豊受大神が退位後、丹後に身を引いたことで終わった。 図38 連合東遷による建国の過程図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu38.jpg 図38はこれまで、いろいろな根拠から見えてきた、建国の過程を図に表したものである。 【連合東遷説を要約】 1 伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に記す5クニ名から、一文字ずつ採った名であることが分かり、この名づけ方法から倭国乱を収束させる話し合いがあったことが判明した。 2 梁書の「霊帝光和中、倭国乱」の記述から、伊邪那岐・伊邪那美による国生みは光和年間177〜189の189年頃に始まったとした。 3 国生みの中で生まれた天照大御神と、魏志倭人伝が記す卑弥呼は同時代に生きた女性で魏志倭人伝の記録と記紀の記録で共通点が多いことから同一人物と比定した。 4 天照大御神(卑弥呼)は国生みから戻ると、統一倭国の女王に共立され、都を邪馬台国に置いた。 5 天照大御神は孫のニニギを南九州に降らし、都萬国(投馬国)を建国させた。 6 天照大御神(卑弥呼)が亡くなると、須佐之男が建国した出雲国、ニニギが建国した都萬国から、それぞれ後継者が男王として立ったが纏まらず争いとなった。 7 そこで須佐之男命の娘・豊受大神(台与)が共立されて国中は収まった。 8 豊受大神が晋へ最後に遣使した数年後、都萬国の神武兄弟は、高天原に出向き豊受大神に倭国の東遷を建議し、神武・倭国による連合東遷が決まった。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 あと、お前たちの右翼の大物というのは何なんだ? 家に連れて来いと言っているんだよ 金魚のフンか何かだろ 9 このとき東遷先の地名を現在の都・邪馬台(やまと)からとり、連合の意味を含めた大倭と書く「やまと」とした。 10 北部九州の倭国各地から兵が集められ、一部はこれまで倭国と対立していた熊本平野の狗奴国や、大分の碩田国(おおきたこく)との決着をつけるため南下した。 11 神武も都萬国の兵を集めるなど戦いの準備のため、都萬国に戻って再出発した。 12 北部九州の倭国各地から遅れて集合した兵は、北九州の遠賀川周辺に移動し、東遷のための船を準備しながら、神武や狗奴国・碩田国で戦った隊を待った。 13 豊受大神は東遷の準備を高天原で進めたのち、都萬国に向かいニニギなど国をつくってきた先人に、東遷の報告と加護を祈願した。 14 東遷の部隊は大きくは神武兄弟の4人が率いる4隊であった。 15 北部九州の兵による本体と、南九州兵による神武隊は、山陽道を進み武器や食料の準備、山陰・四国、丹波遠征隊への補充・支援が行われたと思われる。 16 戦いの中心部隊は高城隊で、狗奴国・碩田国と戦って、海を渡り山陰に進んだ後、四国に渡り土佐から物部川を遡り阿波に進んだ。その後、鳥取、丹波へと転戦した。 17 総力を挙げて、生駒越えで奈良に入るべく、転戦の部隊は芦屋周辺に集合した。 18 春、浪速の渡りを行い一旦、竜田に向かったが道狭く孔舎衛坂での生駒越えを決行した。しかし迎えた長髄彦(ながすねひこ)との戦いに敗れた。 神武と豊受大神による連合東遷は、神武が橿原で即位し、豊受大神が退位後、丹後に身を引いたことで終わった。 図38 連合東遷による建国の過程図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu38.jpg 【連合東遷説を要約3】 19 この時長兄の五瀬命は、流れ矢が肘にあたり倒れ、和歌山の竈山に葬られた。 20 東征隊は熊野に回り宇陀から奈良に入ることにしたが、熊野では嵐に遭遇し稲氷命、御毛沼命が亡くなった。 21 東征隊を追った豊受大神は、戦いが有った河内を避け淡路島に迂回し、和歌山に向かった。 22 豊受大神は五瀬命を竈山に慰霊し、熊野で苦戦する神武には神剣・布都御魂を届け励まし、熊野越えで進退極まった時は八咫烏を派遣した。 23 豊受大神と神武は宇陀の高倉山で再会し、このとき豊受大神は神武に東遷後の国造りを託した。 24 豊受大神は、お連れした天照大御神の御魂と共に橿原にはいり、新しい高天原をお見せし、加護を願った先人に報告と感謝を行った。天照御魂神社が残る。 25 その後、豊受大神は南九州出身の兵と北部九州出身の兵で、勢力争いが起きないよう摂津を経て丹波に身を引いた。 26 途中、伏見の稲荷山山頂の三峰から新しい国の安寧を祈った。 27 神武は橿原で即位した。 補足 神武兄弟の投馬国(都萬国)は、北部九州にある倭国クニグニの一員である。 【投馬国が倭国の一員である根拠】 1、 投馬国は天照大御神が派遣したニニギが建国したクニで、神武兄弟はその末裔である。 2、 魏志倭人伝では、投馬国に官・弥弥と副官・弥弥那利がいると記し、神武兄弟に王はおらず独立国ではなかった。 3、 ニニギの子に日高穂穂手見(ひこほほでみ)や神武の子に當芸志美美や建沼河耳など、ミミとつく名前が多い。 以上のことから、東征にあたり神武兄弟が当時にの倭国女王の台与(豊受大神)と相談し、倭のクニキグニの人たちと力を合わせるのは、自然な行動である。倭国の都・邪馬台(やまと)が奈良に遷り大倭となり、そして大和になったのはなんら矛盾がない。 筑紫の倭国は天照の孫の邇邇芸が建国した国で、その息子の代で海幸が国を追われて建国したのが都万国。 神武は筑紫の日向にいた山幸の孫。 魏志倭人伝では伊都国の官を禰宜と呼ぶ。 伊都の高祖宮の祭神は邇邇芸の息子の彦火火出見(山幸)である。 邪馬台(やまと)→大和 となったのは、邪馬台国東遷があったからと考える人は多い。 次は、邪馬台国東遷説その1からの抜粋である。そこに神武東征との関係の疑問が生まれる。 それの疑問に答えられるのは、この神武・倭国の連合東遷説かありません。 >邪馬台国東遷説その1 >200 :日本@名無史さん:2013/05/30(木) 21:47:17.26 邪馬台国東遷と神武東征とは違うものだと認識してるんですか?。一緒だと考 えるなら神武は邪馬台国の統領だったくらいは証明しないとねー。 それでも記紀を見る限り東征は有ったことになる。無ければ「おらが先祖の業 績」として東征話を書くわけは無いよね。書いた以上いつか、なんらかの東征 があって、その歴史の基に大和朝廷はできたと自慢しているわけだ。そこを皆 よおおおおおおくかんがえなよ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>106 >長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 龍についての情報、ありがとうございます。 勉強になります。 豊玉彦命を突然、竜王の名で呼ぶことはないと思われ、その背景に龍についての古い文化があり、 それが文字とともに当時、すでに伝わってきていたのかもしれないと考えました、 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >邪馬台国東遷説 その1より >262 :日本@名無史さん:2013/06/01(土) 20:27:25.05 畿内説は妄想だが、東遷説はそれ以上に酷いトンデモ 軍事的に100%ありえない 母国の支配が及んでない地域に遠征軍を派遣して何年間も過ごし遥か離れた場所にある適地を攻略できたことなど人類史上1度もない 日本だけでなく世界中探してもない 補給路を断たれて囲まれたら全滅するから東遷説を主張してるやつらはこのあえりないことをどうやって乗り越えたか絶対に答えようとしない 東遷説をトンデモと表現する方が時々見えるが、記紀は神武が最後まで生き残ったので、神武の記述が多い。 他の兄弟の部隊の行動は省くか、よく伝わっていなかった可能性があります。 上記では軍事的に100%ありえないとしている。 そんなことはありません。 日本書紀では吉備に3年とどまり兵器や糧食を蓄えたと記している。 吉備は国生みの際、伊邪那美が亡くなると伊邪那岐が向かった開拓地で倭国の一部だったと思われます。 兵站のことは十分に計画しています。 取り囲まれないよう、丹波も熊野、四国も事前に遠征してこと向けしていたことが、同名同種の山の記録で見えています。 世界に前例のない東遷をやってのけているのです。 豊受大神の高天原を捨て、女王の位も捨てた覚悟を思いやってください。 ひたすら国を想い、身を捨て天照大御神に仕えています。 大宰府天満宮に残る「翰苑」では、「 臺与幼歯方諧衆望」と記しています。 臺與(だいよ)は幼歯(ようし)にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。 記紀にあるのはそもそも東遷ではなく東征ですよ。 あと、神武が出発したのは高天原ではなく、筑紫です。 高天原から筑紫へはニニギの代で遷都しています。 >邪馬台国東遷説 その2より >908 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN >>902 ・日本列島は地殻変動によって陸地が大陸から切り離され島になったのであって、イザナギとイザナミが創り出したのではない ・死後の世界も高天原とかいう天上界も存在しない ・ヤマタノオロチのような頭が8つもある生物は地球上に存在しない ・白兎は人間の言葉を話さない 記紀をそのまま信用したい人は信用すればいい おれは信憑性のない神話より現代科学を信用する 連合東遷説とやや外れるが述べる。 記紀は神話として記しているが、記述の中に科学があると考える。 因幡の白兎は、大陸から伝わった伝承ではないことを発見した。 白兎の形をした波を、白兎海岸で見つけた。 白兎海岸の西端に気多の岬がある。 その岬の先80mに淤岐ノ島があって、白兎は隠岐の島から鰐の背伝いで渡ってきたのではない。 気多の岬と淤岐ノ島間の水面下に、テーブル条の岩群れがあって、それを鰐と言っているようだ。 沖からやってきた波は、淤岐ノ島で左右にわかれ、岬側を進んだ波はうねりのまま、岬で跳ね返され岩群れの上を越えて砂浜の海岸に進んでいた。 淤岐ノ島で砂浜側に進んだ波は、白波がたった状態で浜に進んでいた。 そこへ、岬側からの波があたり、波頭が後ろ側に倒れ、兎の耳の形に見えた。 二つの波が、水面下の岩群れの上で干渉し、白兎の形に見える自然現象だった。 このことが、因幡の白兎誕生のきっかけだった。 1800年ほど前の自然現象が、運が良ければ今も見ることができる。 是非、この感動を味わってほしい。歴史研究は感動があるから楽しい! 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 イザナギとイザナミが国土を作ったというのは、征服して領土を獲得したという意味だよ。 何しろ使った道具が武器である矛だからね。 銅矛文化圏の中心である博多湾の能古島から国産みが始まる。 >>114 レスありがとうございます。 いろいろな意見があって良いので、否定するわけではないですが、私の意見を述べます。 古事記の「国土の修理固成」の段に登場する矛は、イザナキ、イザナミが国生みにのため、船の航海で使用する櫂を神々から賜ったことを、当時の矛にたとえた表現と考えています。 出発地が博多湾であることは、同意見です。 具体的出発地は、小呂島(おろのしま)・能古島(のこのしま)を結んだ先が指し示す室見川河口と考えています。 出発地と到着地に同じ名前を付けることはよくあります。おのころ島はこの2島を暗示的に名付けた名前と思っています。 >>115 >出発地と到着地に同じ名前を付けることはよくあります。おのころ島はこの2島を暗示的に名付けた名前と思っています。 ここは面白いね。 しかし能古島からは実際に矛も出土するから、櫂云々は蛇足だと思う。 >>115 面白いと思っていただきありがとうございます。 伊邪那岐。伊邪那美の名が、魏志倭人伝のクニ名から一文字とり、「別天つ神五柱」の神が名付けた名前と定義1で発表しています。 5柱の神々が話し合った場所は、志賀島の志賀海神社と考えています。 伊都国が最初なので、伊都国が格順が1位のクニで、邪馬台国は2位です。 これについて、次の発表をしています。 http://www.zenyamaren.org/yamaren20-054.pdf 興味があれば読んでください。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . 神武天皇より前の神話はとりあえず世界の成り立ちと 皇室の由来について適当な辻褄合わせの説明ではないのかな? 出雲とか日向みたいな地名が出ているものはともかく 国産みみたいな神話の中にどれだけ歴史上の出来事が読み取れる んでしょう??神話の神々は実在した人物なのですか? 神武天皇から欠史八代はあくまでも天皇家の開祖についての 伝承で、四道将軍の派遣についての記述がある崇神天皇から 事実上の初代天皇じゃないのかな。景行天皇の時代になると 東国征伐の記事も現れる。蝦夷はそれまで一度も王化に従った ことがなかった。神武が「残りのわざわいは根強いが畿内(うちつ くに)は平穏だ…とりあえず、宮殿を建てよう」と言っている 時点ではまだ大和政権の支配域は奈良盆地の外を出ていないはず。 「日本は旧(もと)小国で倭国の地を併せたり」という中国の記事 からすると、神武・倭国の連合東遷説には大いに疑問ありです。 >>120 実在しているよ、普通の一般人というの? だから認識できない 「本当に、この人が神なの?(だったの?)」みたいな感じ こういう作品なども、ほとんど同じでしょ 『ボーボボ』・・・その他、 だから「神」を知っている人がいるという意味 探偵eyeというドラマがあったでしょ? 主人公が出てきて、なぜか「りん、りん」と言っていたり、 妹の子供の名前と同じ 主人公の名前も、 某ゲーム内に作成したキャラ名と同じ、 妹ではなくモレ(仮)が作成したキャラなんだけど あと、もれ(仮)の本当の名前・・・ 『松傾』 こういう名前の家 松の木の立てられている写真、 キュウリの葉、葱の華などが写っている写真も持っていたり これが家:兄弟妹(5月15日生まれ) ↓ 一般人なので名前などは書かないけど、 兄弟の弟のほうと結婚した もれ(仮)の家も一般人なんだけど 『もののけ姫』? 左目を射られた生物がいるでしょ、 神様?だと言っていたり そういう話じゃなかった? 『ハーン』 (小泉八雲)という人物がいるでしょ、wikiなどを読んでみて 左目が何やらと書いてない? 家に凄い刀(謎の刀、剣?)が飾ってあって、 銀という名前だったかな〜・・・、という親戚がいたという話も同じだし 伊達郡、東北地方(日本の東北)のほうに住んでいた事があるとも言っていたし、 アイヌ、エミシ(不明)関係? 川俣町が何やらとか よく考えてみると、おかしな話 百済から渡ってきた鏡、鏡の精。 この鏡を私(不明)だと思って、祀りなさいという話じゃなかった? それにしても、どういう話なんだろう 『雲外鏡』『紫の鏡』とか >>120 いろいろな考えがあってもよいのですが、ずいぶん古い観念の記紀の理解と思われます。 罵倒がはびこるこの掲示板の世界でも、研究は日々進んでいて少しずつ前進していると考えています。 私の研究では古代人は、文字が不自由な中でも大事な国の成り立ちを記録する工夫をしていたことが分かりました。 日本書紀が記す多くの一書もその一つです。 別天つ神五柱の神々の名づけの工夫もその痕跡です。 伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場するクニから一文字づつ採って名付けていたこともその一つです。 日本に多くある、同名・同種の山の配置もその工夫の跡です。 地名にも工夫の跡が見られます。 考古学は記紀を無視して日本の成り立ちを描くことは不可能ながら、記紀の神代を証明することは可能と考えます。 AIに先を越されて、がっかりしないよう日本人の手で日本誕生の経緯を解明したいものです。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . > 邪馬台国東遷説 その2より 967 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN 歴史が書かれた文献を信用しないのなら、歴史の検証なんてしようがない。 大体神話は内容を検証するのではなく、書かれた背景を検証するものなのは言うまでもない事。 重要なのは国生みが淡路島を念頭に描いてあるという事実で、イザナギイザナミがSEXする事じゃないw 968 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN いずれにせよ日本書紀で邪馬台国東遷説は証明できないよ むしろ、考古学的成果から銅鐸文化圏と剣鉾文化圏とかで検討した方が賢明だ (ちょっと古いかな) >967 が述べるように記紀の記述をまず信用しないと、歴史の検討なんて成り立たないでしょう。 >968 が述べるように記紀の記述から邪馬台国東遷説を証明することはできません。 最近は、邪馬台国東遷とか伊都国東遷と個別のクニの東遷を議論しているが、北部九州にあった倭国が東遷し、大倭、大和となったので倭国の東遷のレベルで考えたい。 記紀は神武が倭国の伊都国王を継ぐものなので、倭国東遷を当然のこととして改まって記述せず、最後まで生き残った神武の逸話を主体に記述したものと思われます。 アー タノシーデスネー 長江の鬲wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2RCL54jcK9b5z4Aih.U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 邪馬台国東遷説」その3より 次の指摘があったので答えます。 15 :日本@名無史さん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN 邪馬台国東遷についてはいくつか考慮点が有る。最初に @ 東遷が有ったか否かだが、有ったとするならば A それは何時ごろ有ったか、 B 東遷する前の邪馬台 国はどの辺りに有ったか、 C どこへ東遷したのか、 D 東遷した根本的な理由は なぜだったか、 E 東遷のやり方はどんなやり方だったか、 E 東遷を推し進めた立役者はどんな人だったか、 このような疑問を解決していただきたい。 答え @ 倭国の都・邪馬台を奈良に遷した遷都があった。 A 台与が最後の遣使を行った265年の数年後、7年を要した遷都で、277年の酉年に神武が即位した。 B 東遷前の都は、現在の朝倉市にあった。旧上座郡、下座郡で高天原と称していた。 C 奈良県橿原市に、宮を置いた。 D いろいろな理由があったと思われるが、日本列島の領域を認識したうえで、中央に都をおく必要があった。 E 倭国各地から兵を募り神武兄弟の4部隊が、海上、陸所を進んだ。 西日本を隈なく言向けしてしてから奈良に入った。 F 神武兄弟と台与(豊受大神)が相談して、高天原の遷都を決めた。 高天原からはニニギが筑紫に遷都したんだよ。 神武は筑紫から大和に移動した。 記紀をもっときちんと読もうよ。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 邪馬台国東遷説」その3より 次の意見がありました。 >210 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN 熊本の阿蘇周辺の鉄鍛冶集落からの出土鉄器は鉄鏃に偏りすぎている 鉄剣、耕地開発のための鉄器が少なすぎる この状況は鉄鍛冶技術をもつ他の地域が、九州内での戦争に備え阿蘇周辺での製造が想定できる 私の意見 これはよく分析していると思います。 神武東征の高城隊は、狗奴国と決着の戦いをやっていて、勝利し次の大分での戦いに備えて阿蘇周辺で武器の準備をした考えています。 弓での戦いを想定し鉄鏃を多く製作したのでしょう。耕地作業の鉄器が少ないのは納得できます。 最後の一行の分析は、よく想定したと感心します。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>141 >邪馬台国との決戦に備えた狗奴国の鍛治 レスありがとうございます。 当然でてくる意見と考えます。 ところが、この遺跡群が神武東征軍の痕跡とする根拠があります。 東征隊は自分たちが神の遣い鳥と認識していたようで、足跡に鳥の尾をイメージした〇尾という地名を残していました。 調べると鉄遺跡名に狩尾遺跡、小倉付近には高津尾遺跡が見つかります。 有名な西弥護面遺跡は住宅地になっていて、遺跡は残っていませんが、その近くに高尾野入り口の地名があります。 狩尾遺跡付近で鉄原料のリモナイトを採掘した山の名が天神山といわれていました。 今は採掘し終わって平地になっています。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>143 鳥をトーテムとするのは当時の倭のほとんどの部族が行なっていたので、根拠としては低いかと思います。 >>145 東征隊は東征の足跡を、高尾山や多くの〇尾山で記録していて、〇尾の地名づけも一連の行動と考えています。 下図はその足跡記録です。 図28 高尾山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu28.jpg >>147 >>148 高尾山は、全国に高雄山・鷹尾山を含めて56あります。 西日本のたかお山は神武東征、東日本は日本武尊東征の足跡でした。 二つの東征は一連の建国の事業と認識していたことが分かります。 東京の高尾山は、横浜インタ付近の高尾山から繋がり、山梨の高尾山に続いています。 北陸に進んだ部隊の足跡で、福井の大野で終わっています。 秋田の高尾山は、酒田の鷹尾山との組み合わせで鳥海山を差しはさんでいます。 二つの東征で、日本列島が鳥の海となった認識を残したものと考えています。 神武は東京経由で秋田まで東征したのではないのかな。。。 >>150 神武は東京経由で秋田まで東征したのではないのかな。。。 日本武尊東征については、いろいろな説があります。 このスレッドと外れるので、深入りしません。 >>151 >秋田まで東征したのではないのかな 秋田まで東征したのなら津軽までいってる可能性大 平安時代の藤原保則が蝦夷討伐で 878年に東北出羽国の秋田柵で俘囚(帰属した蝦夷)たちが秋田柵城司に対して大規模な反乱を起してる 秋田柵城が焼かれて出羽に駐留していた朝廷の派遣軍勢では対応できないほどの反乱規模になってる 蝦夷の東北社会は集落が散財して大きな権力集中の見られないことが特徴とされてたが この秋田柵での反乱では米代川や八郎潟流域に及ぶ蝦夷住民勢力が大規模な行動を起こし 雄物川以北を蝦夷達の占有地とすることを朝廷側に強く要求。 朝廷から出羽権守として派遣された藤原保則は鎮守将軍小野春風とともに 軍事威圧を背景にして説得し、その策によってようやく蝦夷達による秋田柵の反乱の鎮圧に成功し 藤原保則の日記に 「これによって津軽より渡島(北海道)に至るまで、雑種の夷人、帰付せざるもの、皆ことごとく同化さす。」と記されてる。 >>152 >>151 >秋田まで東征したのではないのかな >>150 への呼びかけの誤りでは? 畿内を開拓した神である三島溝杭耳が、八咫烏に化けて筑紫から来た神武を助けに来たそうだ。 三島溝杭耳が筑紫からの尖兵であったことがよくわかる話だな。 三島溝杭耳の息子が、うっかり神武と戦ってしまって後に成敗された長髄彦であり、三島溝杭耳の孫が、神武の妃となるイスケヨリ姫である。 賀茂建角身命は三島溝咋耳命、陶津耳命の別名を持ち饒速日尊と同世代のようである。 伝承をまとめると以下のようになっている。 賀茂角身命一族は日向高千穂に住んでいたが、建角身命の代に神武東征の際、日向の山中で高皇産霊神からの天啓を受け、 神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から大和へ至る道を先導した。 これにより天皇より八咫烏(やたがらす)の称号を得た。 神武天皇在位中は葛城にいて天皇を補佐し、天皇が亡くなられた後は岡田の賀茂に閑居したが、綏靖天皇に召しだされた。 妻は神伊可古夜日女で、氷上町の神野社に祭られている。 彼女との間に生まれた玉依姫は建角身命とともに京都下鴨神社に祀られ、その子賀茂別雷神は京都上賀茂神社に祀られている。 <賀茂始祖伝より> 賀茂建角身命が日向国の曾の峰(そのたけ)に降臨し、八咫烏に化身して神武天皇の東征を導いた後、奈良の葛木を経て、 山城国久我から鴨川をさかのぼって、現在の上賀茂神社がある愛宕郡の賀茂に移住してきたといわれる。 妻 伊可古夜日売(イカコヤヒメ)との間には、玉依日子(タマヨリヒコ)と玉依日売(タマヨリヒメ)が授けられた。 玉依日子は、後に、賀茂県主となる 玉依日売は、瀬見の小川で遊んでいたところに丹塗りの矢が流れてきたを拾い、床の間に飾っていたところ、懐妊したといわれる 生まれた男の子が成人した日、賀茂建角身命が、盛大な宴会を開き、「父親と思う者に盃を飲ませよ」と言ったところ、盃を天に向けて、天上に昇っていったといわれる。賀茂建角身命は、その子を「賀茂別雷大神」と名付けた。 丹塗りの矢は、火雷神(ホノイカズチノカミ)だったといわれる <山城国風土記逸文> ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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