神武・倭国の連合東遷説
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神武・倭国の連合東遷説とは 神武と倭国が連合して東遷した説である。略して「連合東遷説」という。 東征にあたり投馬(都萬)国の神武兄弟は、まず邪馬台国にある倭国の都・高天原に出向き当時の倭国王・台与(豊受大神)と東征・東遷を諮り、邪馬台(やまと)を大和に遷すことを決めた。 【連合東遷説の定義その1】 定義の根拠は順次アップします。皆さんの豊富な知識で良い説になるよう応援してください。自分自身が納得できた意見であれば、定義の修正・追加をしていきたいと思います。 定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。 定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。 定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。 定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。 定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。 定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。 定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。 お話しぶった切りごめん 狗奴国は吉備から東征せしヤマト王権よ? まあ御歓談あれ? >>80 >狗奴国は吉備から東征せしヤマト王権よ? 狗奴国の国力・財力を考えると、狗奴国は権力の元となる鉱物資源・海洋資源を持つ長国以外に無い。 @阿波 >>79 >質問 「卑弥呼(天照大御神)」も「別天つ神五柱」も、記紀に登場する人物ですが、魏志倭人伝には登場しません。 「1文字づつ採った名前」として「伊邪那美・岐」を考えるのであれば記紀のなかで考えるべきではないですか? 記紀の中で考えるならば、伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では? @阿波> おはようございます。 >>76 で述べたように当時の倭国乱を収束させる神々の話し合いで、この名が生まれたと考えています。倭国乱は北部九州の土地争いと思われ、格順1位の伊都国が北部九州以外の国から1国のみ参加することは考えられません。 伊予の伊は伊都国に由来し、伊都国の将来を伊邪那岐・伊邪那美に預けた意味、または伊都国の地を広めた意味が予に込められていると考えています。 >>83 >伊予の伊は伊都国に由来し、 なんども書いていますが「伊都国」は記紀には登場しません。 だから、「伊予の伊は伊都国に由来」する訳がありません。 あなたは記紀と倭人伝をごちゃまぜに考えています。 記紀は倭人が書いた書物。 倭人伝は中国人が書いた書物。 「伊予の伊は伊都国に由来」する訳がありません。 @阿波 >>84 議論するつもりはありません。 伊邪那美・伊邪那岐の名前は古事記に登場します。 そして、その名前の文字が魏志倭人伝に登場するクニ名とつながったのです。 古事記と魏志倭人伝がリンクしたのです。 新井白石も本居宣長も古事記研究の中で発見できなかった事柄です。 この発見で、邪馬台国が実在した国であることが立証されました。 人の考えは修正できません。自分が納得した時変えられるだけです。 伊邪那岐の伊が伊予の伊と考えたなら、特に反対はしませんが、私の考えは 以上の通りで修正するつもりもありません。 定義17 高塚山を残した部隊は、出雲から戦闘に参加した。 図31 高塚山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu31.jpg 図32 出雲の高塚山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu32.jpg 豊受大神の薩摩下りを警護した後の、高塚隊が残した高塚山の足跡をたどってみる。 図31、は九州を離れた高塚山の部隊が、経路に残した高塚山を結んでいる。 【高塚隊の経路】 @ 高塚隊は豊受大神を警護しながら、大神の生まれ里の安来までやってきたと思われる。出雲から戦隊に加わった足跡である。 A 安来付近の短い足跡は、別な意味を含ませている。図32はその考えられる意味を地図に表した。 ・出雲の造山古墳は古墳時代前期のもので、東遷後この高塚山の意味を知る人がここに戻り墓の位置としたと思われる。 ・二つの高塚山が指し示したものであれば、松江にある和久羅山が該当する。この山は豊受大神が和久産巣日神の須佐之男命を想う心を残した山である。 島根半島の和久王島との対で、須佐之男命の陵・黒山を指し示している。 ・二つの山で指し挟んだとすれば、豊受大神の生まれ里、宇賀荘である。 B 図31の点線で示したように、高城山でもあった伊邪那美命の墓標・高越山への指し示しがある。 C 潮岬にある高塚は灯台近くの、原始林の中に残る太陽祭祀跡である。高塚隊が残したもので、この位置が東遷先・橿原の南に位置していて意味があったと考える。 D 最終の高塚山は宇治を越えて、伏見の稲荷山付近にある。豊受大神を意識した位置である。最終の高塚山と一つ手前の高塚山は14kmしか離れていない。 E この二つで指し残したものがあるとすれば、纏向の天照御魂神社と考える。豊受大神が天照大御神の御魂をお連れして来て、新しい高天原をお見せしたところである。 >>85 >伊邪那岐の伊が伊予の伊と考えたなら、特に反対はしませんが、私の考えは >以上の通りで修正するつもりもありません。 倭国(阿波)に来たりして興味がある割に、本当の倭国(阿波)を知らない。 失望しました。 @阿波 定義18 高倉山は豊受大神が、天照大御神の御魂と共に東征隊を追い、影から応援し祈り、東遷した足跡である。 図33 高倉山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu33.jpg 図34 慰霊の足跡 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu34.JPG 画像3 伏見稲荷の上社神蹟 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/ga03.JPG 図33は、豊受大神が東遷隊を追った経路に残した高倉山を結んでいる。 【豊受大神の経路】 @ 山口市付近に上陸し山陰に進んだように見える。 A いきなり山陽に戻ったのでなく、点線のように生まれ里の安来に寄ったと推測する。稲荷山が島根半島の和久王島付近から始まっている。 B 吉備付近に高倉山と稲荷山が多く見つかる。 東征隊は吉備で戦いの準備を進めたとあるので、豊受大神もしばらく留まったと思われる。戦のあった河内を避けて、淡路島に迂回した経路である。 C 図34のように淡路島の高倉山と、泉南と和歌山にある高倉山を結ぶと、それぞれ男神社と竈山を指し挟んでいる 孔舎衛坂の戦いで亡くなった五瀬命を慰霊する足跡である。 D 熊野で神武が萎えていたとき天照大御神の名の下、高倉下を使わして神剣・布都御魂を届け励ました。 E 東征隊が熊野山中で進退極まった時、八咫烏を派遣し熊野越えを成功させた。 F 宇陀の高倉山では、高倉下の案内で神武と再会し、神武を大王に推戴し東遷後の国造りを託した。 G 神武の橿原での即位には立ち会わなかった。 投馬国の勢力と北部倭国の勢力で争いになることを避け、摂津から丹後に身を引いた。 H その途中、橿原宮の真北にある稲荷山で、新しい高天原の安寧を祈り、南に向いて三度の伏拝を行った。下社神蹟・中社神蹟・上社神蹟(画像3)がのこる。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 定義19 神武・倭国の連合東遷は計画の通り7年をかけ、酉年に神武は即位した。 図35 天皇代数と没年 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu35.JPG 図36 天皇代数と没年(拡大) http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu36.jpg 図37 連合東遷関係者の年代シミュレーション http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu37.JPG 図35は横軸に天皇の代数を、縦軸に西暦をとり各代天皇の没年を表したものである。神武は第1代なので代数0を即位年と想定した。 問題は没年が不確かで空白とした、20代以下を遡る方法である。これまで平均在位年数を求める方法や、相関曲線を求める方法で推測がされてきた。 いずれも用いるデータ(代数)の範囲で結果は変化することである。 図36は空白部分を拡大した図である。少なくとも代数0と交わる点が、紀元前でないことが分かる。 目算では西暦200〜350年には収まりそうである。日本書記は辛酉の元日に即位した、と記していて先の西暦内では241年と301年が該当する。 【神武即位年の状況的根拠】 @ これまで定義してきたように、東遷は天照大御神(卑弥呼)が亡くなった後に、豊受大神と神武兄弟が行った。 A 卑弥呼が亡くなって男王の争いの後、豊受大神(台与)は13歳で女王となったので、250年ころ13歳であった。この13歳では東征を決断することは不可能である。晋への最後の遣使(265年)を行った、28歳の後なら決断が可能と考えられる。 B 豊受大神は東遷を行うにあたり、ニニギに東遷を行う報告のために薩摩に出向いている。ニニギが天孫降臨した年数が7年と知っていて、この神武・倭国の連合東遷も7年と計画したふしがある。 C 日本書紀では干支でできごとを記しているが、十干を省き十二支で見ると、高千穂宮での話し合いから、寅・卯・辰・巳・午・未・申と7年を掛け、翌年の酉の1月1日に即位している。 D 東征隊は山名に鷹を用いている。また鳥の尾をイメージした〇尾山を名付けてきた。 東征隊は自分たちが「神の遣いの鳥」という認識があったように見え、即位年を酉年と決めていたと思われる。 即位後、鳥見山に高皇産霊尊を祀った。 E 最後の遣使、265年以降の酉年は、277、289、301年が該当する。 F 一方、丹後国風土記逸文の奈具社では、豊受大神が和奈佐という老夫婦に請われて娘となっている。 豊受大神が丹後に身を引いたときは、まだ老夫婦から娘になるよう請われる年代であったことが分かる。 G 上記の酉年での豊受大神の歳は277年(40歳)、289年(52歳)、301年(64歳)となり、東征を追う旅ができる年齢と考え合わせれば、277年の神武即位の可能性が高い。 H 図37は277年神武即位として、登場人物の年齢をシミュレーションしたものである。姉・天照大御神の系譜の神武と弟・須佐之男命の系譜の伊須気余理比売が結婚しているので、年代がつながるか模擬している。 結果、神武をウガヤフキアエズと異母兄弟と比定し、年齢を若く想定すれば277年即位は可能である。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 定義20 神武と豊受大神による連合東遷は、神武が橿原で即位し、豊受大神が退位後、丹後に身を引いたことで終わった。 図38 連合東遷による建国の過程図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu38.jpg 図38はこれまで、いろいろな根拠から見えてきた、建国の過程を図に表したものである。 【連合東遷説を要約】 1 伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に記す5クニ名から、一文字ずつ採った名であることが分かり、この名づけ方法から倭国乱を収束させる話し合いがあったことが判明した。 2 梁書の「霊帝光和中、倭国乱」の記述から、伊邪那岐・伊邪那美による国生みは光和年間177〜189の189年頃に始まったとした。 3 国生みの中で生まれた天照大御神と、魏志倭人伝が記す卑弥呼は同時代に生きた女性で魏志倭人伝の記録と記紀の記録で共通点が多いことから同一人物と比定した。 4 天照大御神(卑弥呼)は国生みから戻ると、統一倭国の女王に共立され、都を邪馬台国に置いた。 5 天照大御神は孫のニニギを南九州に降らし、都萬国(投馬国)を建国させた。 6 天照大御神(卑弥呼)が亡くなると、須佐之男が建国した出雲国、ニニギが建国した都萬国から、それぞれ後継者が男王として立ったが纏まらず争いとなった。 7 そこで須佐之男命の娘・豊受大神(台与)が共立されて国中は収まった。 8 豊受大神が晋へ最後に遣使した数年後、都萬国の神武兄弟は、高天原に出向き豊受大神に倭国の東遷を建議し、神武・倭国による連合東遷が決まった。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 あと、お前たちの右翼の大物というのは何なんだ? 家に連れて来いと言っているんだよ 金魚のフンか何かだろ 9 このとき東遷先の地名を現在の都・邪馬台(やまと)からとり、連合の意味を含めた大倭と書く「やまと」とした。 10 北部九州の倭国各地から兵が集められ、一部はこれまで倭国と対立していた熊本平野の狗奴国や、大分の碩田国(おおきたこく)との決着をつけるため南下した。 11 神武も都萬国の兵を集めるなど戦いの準備のため、都萬国に戻って再出発した。 12 北部九州の倭国各地から遅れて集合した兵は、北九州の遠賀川周辺に移動し、東遷のための船を準備しながら、神武や狗奴国・碩田国で戦った隊を待った。 13 豊受大神は東遷の準備を高天原で進めたのち、都萬国に向かいニニギなど国をつくってきた先人に、東遷の報告と加護を祈願した。 14 東遷の部隊は大きくは神武兄弟の4人が率いる4隊であった。 15 北部九州の兵による本体と、南九州兵による神武隊は、山陽道を進み武器や食料の準備、山陰・四国、丹波遠征隊への補充・支援が行われたと思われる。 16 戦いの中心部隊は高城隊で、狗奴国・碩田国と戦って、海を渡り山陰に進んだ後、四国に渡り土佐から物部川を遡り阿波に進んだ。その後、鳥取、丹波へと転戦した。 17 総力を挙げて、生駒越えで奈良に入るべく、転戦の部隊は芦屋周辺に集合した。 18 春、浪速の渡りを行い一旦、竜田に向かったが道狭く孔舎衛坂での生駒越えを決行した。しかし迎えた長髄彦(ながすねひこ)との戦いに敗れた。 神武と豊受大神による連合東遷は、神武が橿原で即位し、豊受大神が退位後、丹後に身を引いたことで終わった。 図38 連合東遷による建国の過程図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu38.jpg 【連合東遷説を要約3】 19 この時長兄の五瀬命は、流れ矢が肘にあたり倒れ、和歌山の竈山に葬られた。 20 東征隊は熊野に回り宇陀から奈良に入ることにしたが、熊野では嵐に遭遇し稲氷命、御毛沼命が亡くなった。 21 東征隊を追った豊受大神は、戦いが有った河内を避け淡路島に迂回し、和歌山に向かった。 22 豊受大神は五瀬命を竈山に慰霊し、熊野で苦戦する神武には神剣・布都御魂を届け励まし、熊野越えで進退極まった時は八咫烏を派遣した。 23 豊受大神と神武は宇陀の高倉山で再会し、このとき豊受大神は神武に東遷後の国造りを託した。 24 豊受大神は、お連れした天照大御神の御魂と共に橿原にはいり、新しい高天原をお見せし、加護を願った先人に報告と感謝を行った。天照御魂神社が残る。 25 その後、豊受大神は南九州出身の兵と北部九州出身の兵で、勢力争いが起きないよう摂津を経て丹波に身を引いた。 26 途中、伏見の稲荷山山頂の三峰から新しい国の安寧を祈った。 27 神武は橿原で即位した。 補足 神武兄弟の投馬国(都萬国)は、北部九州にある倭国クニグニの一員である。 【投馬国が倭国の一員である根拠】 1、 投馬国は天照大御神が派遣したニニギが建国したクニで、神武兄弟はその末裔である。 2、 魏志倭人伝では、投馬国に官・弥弥と副官・弥弥那利がいると記し、神武兄弟に王はおらず独立国ではなかった。 3、 ニニギの子に日高穂穂手見(ひこほほでみ)や神武の子に當芸志美美や建沼河耳など、ミミとつく名前が多い。 以上のことから、東征にあたり神武兄弟が当時にの倭国女王の台与(豊受大神)と相談し、倭のクニキグニの人たちと力を合わせるのは、自然な行動である。倭国の都・邪馬台(やまと)が奈良に遷り大倭となり、そして大和になったのはなんら矛盾がない。 筑紫の倭国は天照の孫の邇邇芸が建国した国で、その息子の代で海幸が国を追われて建国したのが都万国。 神武は筑紫の日向にいた山幸の孫。 魏志倭人伝では伊都国の官を禰宜と呼ぶ。 伊都の高祖宮の祭神は邇邇芸の息子の彦火火出見(山幸)である。 邪馬台(やまと)→大和 となったのは、邪馬台国東遷があったからと考える人は多い。 次は、邪馬台国東遷説その1からの抜粋である。そこに神武東征との関係の疑問が生まれる。 それの疑問に答えられるのは、この神武・倭国の連合東遷説かありません。 >邪馬台国東遷説その1 >200 :日本@名無史さん:2013/05/30(木) 21:47:17.26 邪馬台国東遷と神武東征とは違うものだと認識してるんですか?。一緒だと考 えるなら神武は邪馬台国の統領だったくらいは証明しないとねー。 それでも記紀を見る限り東征は有ったことになる。無ければ「おらが先祖の業 績」として東征話を書くわけは無いよね。書いた以上いつか、なんらかの東征 があって、その歴史の基に大和朝廷はできたと自慢しているわけだ。そこを皆 よおおおおおおくかんがえなよ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>106 >長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 龍についての情報、ありがとうございます。 勉強になります。 豊玉彦命を突然、竜王の名で呼ぶことはないと思われ、その背景に龍についての古い文化があり、 それが文字とともに当時、すでに伝わってきていたのかもしれないと考えました、 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >邪馬台国東遷説 その1より >262 :日本@名無史さん:2013/06/01(土) 20:27:25.05 畿内説は妄想だが、東遷説はそれ以上に酷いトンデモ 軍事的に100%ありえない 母国の支配が及んでない地域に遠征軍を派遣して何年間も過ごし遥か離れた場所にある適地を攻略できたことなど人類史上1度もない 日本だけでなく世界中探してもない 補給路を断たれて囲まれたら全滅するから東遷説を主張してるやつらはこのあえりないことをどうやって乗り越えたか絶対に答えようとしない 東遷説をトンデモと表現する方が時々見えるが、記紀は神武が最後まで生き残ったので、神武の記述が多い。 他の兄弟の部隊の行動は省くか、よく伝わっていなかった可能性があります。 上記では軍事的に100%ありえないとしている。 そんなことはありません。 日本書紀では吉備に3年とどまり兵器や糧食を蓄えたと記している。 吉備は国生みの際、伊邪那美が亡くなると伊邪那岐が向かった開拓地で倭国の一部だったと思われます。 兵站のことは十分に計画しています。 取り囲まれないよう、丹波も熊野、四国も事前に遠征してこと向けしていたことが、同名同種の山の記録で見えています。 世界に前例のない東遷をやってのけているのです。 豊受大神の高天原を捨て、女王の位も捨てた覚悟を思いやってください。 ひたすら国を想い、身を捨て天照大御神に仕えています。 大宰府天満宮に残る「翰苑」では、「 臺与幼歯方諧衆望」と記しています。 臺與(だいよ)は幼歯(ようし)にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。 記紀にあるのはそもそも東遷ではなく東征ですよ。 あと、神武が出発したのは高天原ではなく、筑紫です。 高天原から筑紫へはニニギの代で遷都しています。 >邪馬台国東遷説 その2より >908 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN >>902 ・日本列島は地殻変動によって陸地が大陸から切り離され島になったのであって、イザナギとイザナミが創り出したのではない ・死後の世界も高天原とかいう天上界も存在しない ・ヤマタノオロチのような頭が8つもある生物は地球上に存在しない ・白兎は人間の言葉を話さない 記紀をそのまま信用したい人は信用すればいい おれは信憑性のない神話より現代科学を信用する 連合東遷説とやや外れるが述べる。 記紀は神話として記しているが、記述の中に科学があると考える。 因幡の白兎は、大陸から伝わった伝承ではないことを発見した。 白兎の形をした波を、白兎海岸で見つけた。 白兎海岸の西端に気多の岬がある。 その岬の先80mに淤岐ノ島があって、白兎は隠岐の島から鰐の背伝いで渡ってきたのではない。 気多の岬と淤岐ノ島間の水面下に、テーブル条の岩群れがあって、それを鰐と言っているようだ。 沖からやってきた波は、淤岐ノ島で左右にわかれ、岬側を進んだ波はうねりのまま、岬で跳ね返され岩群れの上を越えて砂浜の海岸に進んでいた。 淤岐ノ島で砂浜側に進んだ波は、白波がたった状態で浜に進んでいた。 そこへ、岬側からの波があたり、波頭が後ろ側に倒れ、兎の耳の形に見えた。 二つの波が、水面下の岩群れの上で干渉し、白兎の形に見える自然現象だった。 このことが、因幡の白兎誕生のきっかけだった。 1800年ほど前の自然現象が、運が良ければ今も見ることができる。 是非、この感動を味わってほしい。歴史研究は感動があるから楽しい! 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 イザナギとイザナミが国土を作ったというのは、征服して領土を獲得したという意味だよ。 何しろ使った道具が武器である矛だからね。 銅矛文化圏の中心である博多湾の能古島から国産みが始まる。 >>114 レスありがとうございます。 いろいろな意見があって良いので、否定するわけではないですが、私の意見を述べます。 古事記の「国土の修理固成」の段に登場する矛は、イザナキ、イザナミが国生みにのため、船の航海で使用する櫂を神々から賜ったことを、当時の矛にたとえた表現と考えています。 出発地が博多湾であることは、同意見です。 具体的出発地は、小呂島(おろのしま)・能古島(のこのしま)を結んだ先が指し示す室見川河口と考えています。 出発地と到着地に同じ名前を付けることはよくあります。おのころ島はこの2島を暗示的に名付けた名前と思っています。 >>115 >出発地と到着地に同じ名前を付けることはよくあります。おのころ島はこの2島を暗示的に名付けた名前と思っています。 ここは面白いね。 しかし能古島からは実際に矛も出土するから、櫂云々は蛇足だと思う。 >>115 面白いと思っていただきありがとうございます。 伊邪那岐。伊邪那美の名が、魏志倭人伝のクニ名から一文字とり、「別天つ神五柱」の神が名付けた名前と定義1で発表しています。 5柱の神々が話し合った場所は、志賀島の志賀海神社と考えています。 伊都国が最初なので、伊都国が格順が1位のクニで、邪馬台国は2位です。 これについて、次の発表をしています。 http://www.zenyamaren.org/yamaren20-054.pdf 興味があれば読んでください。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . 神武天皇より前の神話はとりあえず世界の成り立ちと 皇室の由来について適当な辻褄合わせの説明ではないのかな? 出雲とか日向みたいな地名が出ているものはともかく 国産みみたいな神話の中にどれだけ歴史上の出来事が読み取れる んでしょう??神話の神々は実在した人物なのですか? 神武天皇から欠史八代はあくまでも天皇家の開祖についての 伝承で、四道将軍の派遣についての記述がある崇神天皇から 事実上の初代天皇じゃないのかな。景行天皇の時代になると 東国征伐の記事も現れる。蝦夷はそれまで一度も王化に従った ことがなかった。神武が「残りのわざわいは根強いが畿内(うちつ くに)は平穏だ…とりあえず、宮殿を建てよう」と言っている 時点ではまだ大和政権の支配域は奈良盆地の外を出ていないはず。 「日本は旧(もと)小国で倭国の地を併せたり」という中国の記事 からすると、神武・倭国の連合東遷説には大いに疑問ありです。 >>120 実在しているよ、普通の一般人というの? だから認識できない 「本当に、この人が神なの?(だったの?)」みたいな感じ こういう作品なども、ほとんど同じでしょ 『ボーボボ』・・・その他、 だから「神」を知っている人がいるという意味 探偵eyeというドラマがあったでしょ? 主人公が出てきて、なぜか「りん、りん」と言っていたり、 妹の子供の名前と同じ 主人公の名前も、 某ゲーム内に作成したキャラ名と同じ、 妹ではなくモレ(仮)が作成したキャラなんだけど あと、もれ(仮)の本当の名前・・・ 『松傾』 こういう名前の家 松の木の立てられている写真、 キュウリの葉、葱の華などが写っている写真も持っていたり これが家:兄弟妹(5月15日生まれ) ↓ 一般人なので名前などは書かないけど、 兄弟の弟のほうと結婚した もれ(仮)の家も一般人なんだけど 『もののけ姫』? 左目を射られた生物がいるでしょ、 神様?だと言っていたり そういう話じゃなかった? 『ハーン』 (小泉八雲)という人物がいるでしょ、wikiなどを読んでみて 左目が何やらと書いてない? 家に凄い刀(謎の刀、剣?)が飾ってあって、 銀という名前だったかな〜・・・、という親戚がいたという話も同じだし 伊達郡、東北地方(日本の東北)のほうに住んでいた事があるとも言っていたし、 アイヌ、エミシ(不明)関係? 川俣町が何やらとか よく考えてみると、おかしな話 百済から渡ってきた鏡、鏡の精。 この鏡を私(不明)だと思って、祀りなさいという話じゃなかった? それにしても、どういう話なんだろう 『雲外鏡』『紫の鏡』とか >>120 いろいろな考えがあってもよいのですが、ずいぶん古い観念の記紀の理解と思われます。 罵倒がはびこるこの掲示板の世界でも、研究は日々進んでいて少しずつ前進していると考えています。 私の研究では古代人は、文字が不自由な中でも大事な国の成り立ちを記録する工夫をしていたことが分かりました。 日本書紀が記す多くの一書もその一つです。 別天つ神五柱の神々の名づけの工夫もその痕跡です。 伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場するクニから一文字づつ採って名付けていたこともその一つです。 日本に多くある、同名・同種の山の配置もその工夫の跡です。 地名にも工夫の跡が見られます。 考古学は記紀を無視して日本の成り立ちを描くことは不可能ながら、記紀の神代を証明することは可能と考えます。 AIに先を越されて、がっかりしないよう日本人の手で日本誕生の経緯を解明したいものです。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . > 邪馬台国東遷説 その2より 967 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN 歴史が書かれた文献を信用しないのなら、歴史の検証なんてしようがない。 大体神話は内容を検証するのではなく、書かれた背景を検証するものなのは言うまでもない事。 重要なのは国生みが淡路島を念頭に描いてあるという事実で、イザナギイザナミがSEXする事じゃないw 968 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN いずれにせよ日本書紀で邪馬台国東遷説は証明できないよ むしろ、考古学的成果から銅鐸文化圏と剣鉾文化圏とかで検討した方が賢明だ (ちょっと古いかな) >967 が述べるように記紀の記述をまず信用しないと、歴史の検討なんて成り立たないでしょう。 >968 が述べるように記紀の記述から邪馬台国東遷説を証明することはできません。 最近は、邪馬台国東遷とか伊都国東遷と個別のクニの東遷を議論しているが、北部九州にあった倭国が東遷し、大倭、大和となったので倭国の東遷のレベルで考えたい。 記紀は神武が倭国の伊都国王を継ぐものなので、倭国東遷を当然のこととして改まって記述せず、最後まで生き残った神武の逸話を主体に記述したものと思われます。 アー タノシーデスネー 長江の鬲wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2RCL54jcK9b5z4Aih.U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 邪馬台国東遷説」その3より 次の指摘があったので答えます。 15 :日本@名無史さん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN 邪馬台国東遷についてはいくつか考慮点が有る。最初に @ 東遷が有ったか否かだが、有ったとするならば A それは何時ごろ有ったか、 B 東遷する前の邪馬台 国はどの辺りに有ったか、 C どこへ東遷したのか、 D 東遷した根本的な理由は なぜだったか、 E 東遷のやり方はどんなやり方だったか、 E 東遷を推し進めた立役者はどんな人だったか、 このような疑問を解決していただきたい。 答え @ 倭国の都・邪馬台を奈良に遷した遷都があった。 A 台与が最後の遣使を行った265年の数年後、7年を要した遷都で、277年の酉年に神武が即位した。 B 東遷前の都は、現在の朝倉市にあった。旧上座郡、下座郡で高天原と称していた。 C 奈良県橿原市に、宮を置いた。 D いろいろな理由があったと思われるが、日本列島の領域を認識したうえで、中央に都をおく必要があった。 E 倭国各地から兵を募り神武兄弟の4部隊が、海上、陸所を進んだ。 西日本を隈なく言向けしてしてから奈良に入った。 F 神武兄弟と台与(豊受大神)が相談して、高天原の遷都を決めた。 高天原からはニニギが筑紫に遷都したんだよ。 神武は筑紫から大和に移動した。 記紀をもっときちんと読もうよ。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 邪馬台国東遷説」その3より 次の意見がありました。 >210 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN 熊本の阿蘇周辺の鉄鍛冶集落からの出土鉄器は鉄鏃に偏りすぎている 鉄剣、耕地開発のための鉄器が少なすぎる この状況は鉄鍛冶技術をもつ他の地域が、九州内での戦争に備え阿蘇周辺での製造が想定できる 私の意見 これはよく分析していると思います。 神武東征の高城隊は、狗奴国と決着の戦いをやっていて、勝利し次の大分での戦いに備えて阿蘇周辺で武器の準備をした考えています。 弓での戦いを想定し鉄鏃を多く製作したのでしょう。耕地作業の鉄器が少ないのは納得できます。 最後の一行の分析は、よく想定したと感心します。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>141 >邪馬台国との決戦に備えた狗奴国の鍛治 レスありがとうございます。 当然でてくる意見と考えます。 ところが、この遺跡群が神武東征軍の痕跡とする根拠があります。 東征隊は自分たちが神の遣い鳥と認識していたようで、足跡に鳥の尾をイメージした〇尾という地名を残していました。 調べると鉄遺跡名に狩尾遺跡、小倉付近には高津尾遺跡が見つかります。 有名な西弥護面遺跡は住宅地になっていて、遺跡は残っていませんが、その近くに高尾野入り口の地名があります。 狩尾遺跡付近で鉄原料のリモナイトを採掘した山の名が天神山といわれていました。 今は採掘し終わって平地になっています。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>143 鳥をトーテムとするのは当時の倭のほとんどの部族が行なっていたので、根拠としては低いかと思います。 >>145 東征隊は東征の足跡を、高尾山や多くの〇尾山で記録していて、〇尾の地名づけも一連の行動と考えています。 下図はその足跡記録です。 図28 高尾山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu28.jpg >>147 >>148 高尾山は、全国に高雄山・鷹尾山を含めて56あります。 西日本のたかお山は神武東征、東日本は日本武尊東征の足跡でした。 二つの東征は一連の建国の事業と認識していたことが分かります。 東京の高尾山は、横浜インタ付近の高尾山から繋がり、山梨の高尾山に続いています。 北陸に進んだ部隊の足跡で、福井の大野で終わっています。 秋田の高尾山は、酒田の鷹尾山との組み合わせで鳥海山を差しはさんでいます。 二つの東征で、日本列島が鳥の海となった認識を残したものと考えています。 神武は東京経由で秋田まで東征したのではないのかな。。。 >>150 神武は東京経由で秋田まで東征したのではないのかな。。。 日本武尊東征については、いろいろな説があります。 このスレッドと外れるので、深入りしません。 >>151 >秋田まで東征したのではないのかな 秋田まで東征したのなら津軽までいってる可能性大 平安時代の藤原保則が蝦夷討伐で 878年に東北出羽国の秋田柵で俘囚(帰属した蝦夷)たちが秋田柵城司に対して大規模な反乱を起してる 秋田柵城が焼かれて出羽に駐留していた朝廷の派遣軍勢では対応できないほどの反乱規模になってる 蝦夷の東北社会は集落が散財して大きな権力集中の見られないことが特徴とされてたが この秋田柵での反乱では米代川や八郎潟流域に及ぶ蝦夷住民勢力が大規模な行動を起こし 雄物川以北を蝦夷達の占有地とすることを朝廷側に強く要求。 朝廷から出羽権守として派遣された藤原保則は鎮守将軍小野春風とともに 軍事威圧を背景にして説得し、その策によってようやく蝦夷達による秋田柵の反乱の鎮圧に成功し 藤原保則の日記に 「これによって津軽より渡島(北海道)に至るまで、雑種の夷人、帰付せざるもの、皆ことごとく同化さす。」と記されてる。 >>152 >>151 >秋田まで東征したのではないのかな >>150 への呼びかけの誤りでは? 畿内を開拓した神である三島溝杭耳が、八咫烏に化けて筑紫から来た神武を助けに来たそうだ。 三島溝杭耳が筑紫からの尖兵であったことがよくわかる話だな。 三島溝杭耳の息子が、うっかり神武と戦ってしまって後に成敗された長髄彦であり、三島溝杭耳の孫が、神武の妃となるイスケヨリ姫である。 賀茂建角身命は三島溝咋耳命、陶津耳命の別名を持ち饒速日尊と同世代のようである。 伝承をまとめると以下のようになっている。 賀茂角身命一族は日向高千穂に住んでいたが、建角身命の代に神武東征の際、日向の山中で高皇産霊神からの天啓を受け、 神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から大和へ至る道を先導した。 これにより天皇より八咫烏(やたがらす)の称号を得た。 神武天皇在位中は葛城にいて天皇を補佐し、天皇が亡くなられた後は岡田の賀茂に閑居したが、綏靖天皇に召しだされた。 妻は神伊可古夜日女で、氷上町の神野社に祭られている。 彼女との間に生まれた玉依姫は建角身命とともに京都下鴨神社に祀られ、その子賀茂別雷神は京都上賀茂神社に祀られている。 <賀茂始祖伝より> 賀茂建角身命が日向国の曾の峰(そのたけ)に降臨し、八咫烏に化身して神武天皇の東征を導いた後、奈良の葛木を経て、 山城国久我から鴨川をさかのぼって、現在の上賀茂神社がある愛宕郡の賀茂に移住してきたといわれる。 妻 伊可古夜日売(イカコヤヒメ)との間には、玉依日子(タマヨリヒコ)と玉依日売(タマヨリヒメ)が授けられた。 玉依日子は、後に、賀茂県主となる 玉依日売は、瀬見の小川で遊んでいたところに丹塗りの矢が流れてきたを拾い、床の間に飾っていたところ、懐妊したといわれる 生まれた男の子が成人した日、賀茂建角身命が、盛大な宴会を開き、「父親と思う者に盃を飲ませよ」と言ったところ、盃を天に向けて、天上に昇っていったといわれる。賀茂建角身命は、その子を「賀茂別雷大神」と名付けた。 丹塗りの矢は、火雷神(ホノイカズチノカミ)だったといわれる <山城国風土記逸文> 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 > 邪馬台国東遷説 その3より >214 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN この阿蘇周辺鍛冶遺跡の後に熊本県下ではもっとも早く、宇土半島の付け根、熊本平野の南端に畿内型の前方後円墳が造られ始めるんだよな そして、熊本市城南町、球磨〜南九州に分布する免田式土器が消滅する >220 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN 熊本も菊池川流域飛んで宇土半島はもとから北部九州の物流範囲だな 上記二つの見解は、神武・倭国の連合東遷説と符合します。 下図は定義12で載せた画像で、倭国は宇土地名で熊本平野の狗奴国を取り囲んでいました。 北部九州に残る祭礼「くんち」の分布と一致します。 図21 九州の宇都・宇土・鵜戸地名 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu21.jpg 宇土のの地名は、糸島市の日向峠の麓にある宇土に始まると思われます。 宇土半島付け根の畿内型前方後円墳は、連合東遷に参加した人が、東遷後奈良から故郷に戻り一帯を支配した人の墳墓と想定します。 北部九州や宮崎の古墳も皆、東遷から戻った人による築造と考えます。 庄内式土器が北部九州から東遷とともに、畿内に伝わったのか、 東遷から帰還した人が畿内から持ち帰り九州に伝えたのか結論は出たのでしょうか? >>160 その地図で宇土のある地域は 景行征西地域と全く一致する。 息長氏は宇土半島に領地があったという。 葦北国造の日羅 琳聖太子も一時期葦北にいて周防で領地をもったという。 やはり景行天皇の説話部分は息長氏かもしれんな。 宇土ウドではなく継体天皇に繋がる、オオド大々杼の原義にあるのかもしれん。 阿蘇のピンク色の凝結凝灰岩の輸出先とも関係があろう。 また宇の音がuではなくwの音写のつもりなら 倭の字音とも重なる。本来の倭国の範囲が示されていることになる。 >>161 >>162 >>163 意見やコメントありがとうございます。 魏志倭人伝が記す旁国の位置が定まらないのは、倭国領域が狗奴国を囲んでいて、山都町や宇城、宇土市、天草、島原などを想定していなかったためかと思われます。 「遠絶にして、つまびらかにできない」と言っているのは、このことかも知れません。 破鏡をご存知ですか。銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に後加工したものや穿孔したものが、墳墓からだけでなく住居跡や田んぼからも見つかります。 弥生後期の遺跡から出土する、神武東征由来の遺物です。 次は破鏡の分布図で、図40は弥生後期〜終末期の分布、図41は古墳時代前期の分布図です。「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎から借りています。 図40(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu40.jpg 図41(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu41.jpg 、 熊本平野、大分大野川流域の状況が特徴的です。 ほとんどが集落域からの出土ですが、弥生終末期にのみ見られ、古墳時代には全く見られなくなります。 当然なことで、神武東征が九州を発つ前に狗奴国や大分の従わないクニとの決着の戦いの痕跡だからです。 福岡平野で募られた兵は、家族との長い別れに、親子兄弟、妻とも家族の絆として鏡を分け持って出発したのです。 家族の証明はこの割れた鏡が合わさることでしか、確認できない時代です。 出征兵の親は、待てど帰らぬなか亡くなっていき、鏡とともに副葬されました。 兵たちは落とさないよう穴をあけ首にかけていたが、戦闘の中で田んぼに落とすこともありました。 突然の出立に、置き忘れることもあったでしょう。 妻や子は、小さなかけらをもって後を追いかけました。 鏡種を調べると、内行花文鏡と方格規矩神獣鏡が多く、三角縁神獣鏡は一面もありませんでした。 三角縁が東征後の鏡であることは明らかです。 東征を卑弥呼の前とする説がありますが、その時代にはこのような痕跡は全く見つかりません。 九州の三角縁神獣鏡は古墳から出土し、奈良から帰還した兵が持ち帰ったものと思われます。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2RimFEhQrlbtGwAJkGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 > 邪馬台国東遷説 その3より 751 :日本@名無史さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN 何度か書いているが、畿内説は元々自生説で、邪馬台国の候補地は 唐古・鍵遺跡だった。 その邪馬台国の唐古・鍵の人々が纏向を建設し移ったというわけ。 移った年代もわかるというものだろう。 その期待を受けて、唐古・鍵遺跡では100回を超える発掘調査が行われた。 いつか、何か出てくるという期待は、今の纏向に似ている、しかし、吉野ヶ里遺跡が発掘された頃、ついにあきらめられた。 理由は簡単、石器しか出てこないのだ。王のような存在も認められない。 環濠集落という名前は吉野ヶ里遺跡も唐古・鍵も同じで、一見、同じような 集落という印象があるが、実体は全く違う。 唐古・鍵がだめだというわけで、年代を100年ほど繰り上げて纏向が浮上した。1995年頃のこと。 近畿の弥生遺跡についての研究結果 近畿地方には、唐古・鍵遺跡だけでなく、近江の伊勢遺跡、稲部遺跡、摂津の東奈良遺跡、泉南の池上・曽根遺跡など大きな遺跡があります。 これらの遺跡は、北九州から戦乱を逃れたやってきた人たちが開拓したものと思います。 その代表的な人たちが加茂、賀茂と呼ばれた人たちで、瀬戸内海東部にはこの地名が多く見つかります。 図42(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu42.jpg その開拓のさなかに、伊邪那岐・伊邪那美が国生みでやってきます。 伊邪那岐はこれらの開拓地を訪ねめぐっていると思われます。 その痕跡が、後の海神、あるいは龍王と呼ばれる豊玉彦が残した竜王山です。 図43(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu43.jpg 奈良の唐古・鍵遺跡の真東に龍王山が見つかります。近江や摂津の遺跡の源流域にも竜王山が見つかります。 水利権を公的なものにするためでした。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 > 邪馬台国東遷説 その3より 865 :日本@名無史さん:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN 倭面土國は、邪馬台国の可能性も高いと思う。 それは、倭人伝の「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。 乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼」から来ている。 いわゆる倭国の大乱の70年か80年前が、帥升が後漢に朝貢した西暦107年と合い、男子の王が帥升を意味していると考えられるからである。 また、そのように考えることにより、倭国王・帥升が築いたあるいは支配した三十カ国あまりの王の跡継ぎを巡る争いが、倭国の大乱であり、その王に なった卑弥呼が巫女的な女王でありながら、魏から倭王と呼ばれ、三十カ国あまりを支配していた理由がわかるからである。 伊都国の王が代々女王国に統属していたというのもこれで理解できるし、官が置かれ、一大率が置かれていたことも理解できる。 私ホワイトケープの意見 >865 の意見に私も近い考えです。 倭国乱を光和年間(西暦177〜184)とすると、倭国王の帥升が後漢に朝貢した西暦107年は、倭国乱の前70〜77年となります。 77年ころ「別天つ神五柱」の神々が話し合い、伊都国宗家の男子と奴国王の娘、すなわち伊邪那岐と伊邪那美が結婚し天照大御神(卑弥呼)が生まれ、統一倭国王に共立されているる。 このことから、神世七代の初代・国之常立神は卑弥呼から7代前、天皇の一代、10〜11年説に従えば70〜77年になり朝貢した倭国王・帥升と一致する。 帥升を記紀に登場する人物比定は諸説あるが、神世七代の初代・国之常立神である可能性が高い。 記紀に7代も昔の系譜が記されたのは、初代倭国王の功績が大きいので、その系譜が大事にされ、記憶されていたためと考える。 代々の伊都国王の系譜である。 図45 系譜_伊邪那岐・伊邪那美(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu45.jpg 図46 系譜_神武 (http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu46.jpg 神代七代は、早良などの福岡側の王墓の人物の方が年代観が合うような気がするな。 伊都はヒコホホデミ(山幸)や木花咲耶姫など、日向三代との関係がうかがえるからね。 帥升はニニギかその前かわからないけども。 >>173 レスありがとうございます。 「神世七代」が伊都国王の系譜である根拠に次があります。 7代にあたる伊邪那岐が迦具土神を切った剣の名を古事記は「天之尾羽張(あめのおはばり)」亦の名は「伊都之尾羽張(いつのおはばり)」と記していて伊邪那岐が天族(海人族)のクニ、伊都国の七代に当たることがわかります。 奴国王の墳墓、須玖岡本遺跡から出土した漢鏡が、伊都国の三雲南小路遺跡出土の漢鏡より鏡種年代が古く、奴国王が帥升より古い時代に活躍したと思われます。 それが西暦57年に後漢から賜った「漢倭奴国王」の金印と考えます。 このことが、伊都国・邪馬台国連合と奴国・不弥国連合の戦になるきっかけになったと考えます。 結局、伊都国が覇権争いに勝ったことになります。 それって出雲の国譲り。 その結果に成立した伊都国の王権が日向三代でしょ。 それ以外には覇権争いの記録はないでしょ。 あ、日向三代の海幸山幸の争いがあるか。 >175 レスありがとうございます。 出雲国譲りも覇権争い、山幸彦・海幸彦の争いも覇権争いですが時代が違います。 出雲国を建てたのは、伊邪那岐・伊邪那美の子、須佐之男なので、伊邪那岐の前の時代の神世七代の時代の覇権争いではありません。 山幸彦・海幸彦も伊邪那岐の末裔なので時代が異なります。 伊邪那岐含めた神世七代は倭国乱の時代で、その名の通り覇権争いです。 イザナギの時代が戦乱の時代とは書いてないよ? 出雲の国譲りは明確に戦乱でいいだろうけど。 そもそもその年代観だと、神武がかなり後になってしまう。 >>176 イザナギの時代が戦乱の時代とは書いてないよ? 出雲の国譲りは明確に戦乱でいいだろうけど。 そもそもその年代観だと、神武がかなり後になってしまう。 伊邪那岐・伊邪那美の名が魏志倭人伝に登場するクニの名から、一文字づつ採った名であることを定義1で述べたことがあります。 表1 伊邪那美岐とクニ名・クニ代表の対応 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/hy01.jpg 倭国乱を収束するために「別天つ神五柱」が話し合って決めた名前なので戦乱の終わりの時の名前です。 倭国乱が水争いのような、河川ごとの争いでなく、博多湾沿岸国を中心にした北部九州の覇権争いと思われます。 北部九州の広範囲に、当時の甕棺から多くの武器が出土するのは、争いの痕跡といえます。 神武は伊佐那岐・伊邪那美の末裔なので、東征があったのは豊受大神(台与)の最後に晋に遣使した265年ころから後にあったと理解するのが、多くの出来事の前後関係があってきます。 年代をシミユレーションした結果は次の通りです。 図37 連合東遷関係者の年代シミュレーション http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu37.JPG アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2Rivcaei8JbT38AGR4dOfx7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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