平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)2
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『説文解字(後漢)』にて咫=八寸
漢尺=十寸=約23センチ 寸=約2.3センチ
咫=八寸=2.3×8=18.4センチ
八咫=18.4×8=147.2センチ前後
平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528537360 >>124
>「八咫鏡」の権威は、皇位とともに伝世することで付与されたもので、
>最初から「八咫鏡」ありきで王位が決まった訳ではない
じゃあ、平原遺跡の鏡も八咫の鏡でいいよな。
キナイコシは自己矛盾しているだろ。 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。 現実から眼を背けて悦に入ったじいさんこそ歴史から逃げてるじゃんか
実証性がまるでない妄想はチラシの裏にでも書いてたら? 伊都クズは歴史学のなんたるかを全く理解してないんだから、実証とか求めるだけ無駄だよ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>128
イメージが被るのは認めるのかい?
それは大事だな
証明にはならんが バカか証明できるのは数学だけだ。
それ以外の分野は全て仮説の検証にすぎん。 >>125
>残された最後の一枚なんだよ。
勝手に見つかってもいない「6枚目」を想定するところが、
捏造体質の九州説のやり方そのものだね >>126
>じゃあ、平原遺跡の鏡も八咫の鏡でいいよな。
残念ながらそうはいかない
「八咫鏡」という語は、記紀が初出であり、それ以前どこまで遡れるかは定かではない
皇室の三種の神器が「八咫鏡」と呼ばれるようになったのは、かなり後代の後付とみるのが
考古学的出土遺物との関係から考えると、妥当となる
3世紀(九州説の言い分を認めたとして、おそらく実際は2世紀)に破鏡されて、
墳丘内にばら撒かれて忘れられた平原1号墓のガラパゴス大鏡が「八咫鏡」と
呼ばれた可能性は最初からない
>キナイコシは自己矛盾しているだろ。
平原1号墓出土鏡を「八咫鏡」だと「言い出した」のが、昭和の憶測に過ぎないってのを
早く理解できるようになるといいね
伊都クズ「キナイコシ」はまあ、なんでも脳内改変するから、矛盾を矛盾だと理解できないんだよ >>136
>それ以外の分野は全て仮説の検証にすぎん。
その「仮説の検証」すらできない、妄想・憶測は科学じゃないってことだよww
平原1号墓が卑弥呼の墓だとか
平原1号墓出土鏡が「八咫鏡」だとかww >>139
文献内容から考察すれば、現在出土している鏡の中では可能性が高い、というところだろうね
何より八葉紐座が平原鏡のみ、というのが気になるねぇ
それと、やはり籠神社の鏡が内行花文鏡だった事が大きいかな >>140
>それと、やはり籠神社の鏡が内行花文鏡だった事が大きいかな
そうだね。
籠神社の鏡は天孫ニギハヤヒのものだったと伝えられている。
卑弥呼の先代の倭王であったろう三雲南小路も内行花文鏡だし、こちらはもう一人の天孫であるニニギのものだろう。
倭王の象徴が内行花文鏡であるのは間違いない。
すると、平原遺跡に眠る女王も倭王卑弥呼ということになる。 >>140
>何より八葉紐座が平原鏡のみ、というのが気になるねぇ
>それと、やはり籠神社の鏡が内行花文鏡だった事が大きいかな
籠神社の連弧文鏡が柿蔕8つになってないから、つながりはないって見ればいいんだろ? 籠神社の方が古い様式。
前漢と後漢。
平原遺跡のはそれより新しい、魏代のもの。
100年単位で時代が違うから、様式の差があって当然。 >>144
>前漢と後漢。
あのぉ、平原1号墓出土鏡のたった二枚の舶載鏡は
16号鏡 18.8センチ 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡 漢鏡5期 後漢鏡
17号鏡 16.5センチ 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡 漢鏡3期 前漢鏡
で、まったく年代的には同じなんですが、それは? それは古い倭奴国の権威を継承している証として墓に入れたんだよ。
でもそれとは別に、最新最大の内行花文鏡も、入れてあるわけだよ。
それぞれの鏡は意味があるんだよ。 籠神社の鏡は、ニギハヤヒが天照大神から授かった十種の神宝の一部とされている。
天照大神(海洋王)が出雲の大国主(陸上王)を倒してから、最初にあめつち(海洋と大地)の統一王となったのが、天照大神の孫であるニギハヤヒである。
その称号は先代旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命であり、天照と国照の二つが含まれている。
その象徴である籠神社の鏡は前漢と後漢の内行花文鏡であり、これが倭王の証であったのだろう。
同じく天照大神の孫であるニニギの王権とみられる伊都国(筑紫の日向)の日向三代の王墓(三雲南小路など)も、内行花文鏡が副葬されている。
この伝統は3世紀の平原遺跡において、世界最大の内行花文鏡である八咫の鏡として頂点を迎える。
本来は漢の皇帝から倭王の証として下賜されていた鏡が、漢の滅亡後に卑弥呼政権下で国産化され、今日の天皇家の象徴である三種の神器に継承されている(そのままの鏡ではないらしいが)。 いつからあったかわからないものは、歴史の研究には使えない 中国のよくわからん畑から農民が見つけたと言われる骨董市で売買された銅鏡? >>152
由緒がはっきりしていてきちんと保管されていたものよりも、土の中から掘り出したものの方がいいと?
バカだろ >>154
その由緒とやらもいつから存在していたのかわからないんだぜ?
バカだろ? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>148
>でもそれとは別に、最新最大の内行花文鏡も、入れてあるわけだよ。
まあ作った瞬間には最新かもしれないが、仿製鏡だから年代はまったくあてにならないよ
残りの鏡も全部仿製鏡だし
平原1号墓は2世紀の伊都国の第二家系の盟主墳だよ
倭国王墓ではない
伊都国王(首長)墓の可能性はワンチャンあるけど >>155
>その由緒とやらもいつから存在していたのかわからないんだぜ?
籠神社の国宝の『籠名神社祝部氏係図』と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』も
額面通りの古書ではないそうだしな >>157
>平原1号墓は2世紀の伊都国の第二家系の盟主墳だよ
伊都国にある王墓は倭王だし、平原遺跡は伊都国のそれまでの(三雲などの)王墓とは別系統だし、平原遺跡は3世紀以降だし。
いろいろ間違いすぎ。 >>159
>伊都国にある王墓は倭王だし、
これが間違い
伊都国の王ではあっても、倭王ではない
>平原遺跡は伊都国のそれまでの(三雲などの)王墓とは別系統だし、
それを第二家系と表現してるんだが?
古墳時代に入っても、三雲遺跡群と曽根遺跡群には、平行して累代的な古墳の造墓が見られる
>平原遺跡は3世紀以降だし。
平原遺跡とまとめるなよww
最初に5号墓が造られて、次に厚葬墓である1号墓と2号墓
さらにその次の世代の、3・4号墓が累代的に造られている
3.4号墓が古墳ではなく、方形集溝墓であることから、平原1号墓は古墳時代開始より2世代前の墓
2世紀後半が相当だよ
>いろいろ間違いすぎ。
>>159がな
平原遺跡とまとめて論じるやつは、情報量が足りない
情報を仕入れる能力が欠けた情弱だ
当然判断も古いまま思考停止している >>160
>伊都国の王ではあっても、倭王ではない
根拠なし
>それを第二家系と表現してるんだが?
じゃあ平原遺跡は第三家系かな?
別にそれで構わないよ。
>3.4号墓が古墳ではなく、方形集溝墓であることから、平原1号墓は古墳時代開始より2世代前の墓
古墳時代は畿内の勝手な定義だろ
副葬品からは、平原遺跡一号墓を2世紀に繰り上げることは不可能 >>161
>根拠なし
それが逆なんだよ
3世紀の伊都国に倭国王墓があるとする方が根拠がない >>161
>じゃあ平原遺跡は第三家系かな?
>別にそれで構わないよ。
ほら、また知識が決定的に欠けているのが露呈している
曽根遺跡群は、平原遺跡を含み、平原遺跡が一番古いんだよ
曽根遺跡群の第二家系が、平原遺跡の家系そのもの
こんなんで、平原1号墓を倭王の墓だとか卑弥呼の墓だとか言うんだから大笑いだって言うの! >>161
>古墳時代は畿内の勝手な定義だろ
何を血迷っているんだ?
奴国は那珂八万古墳から、伊都国は端山古墳から古墳時代に入っているだろ?
曽根遺跡群ではワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳が古墳時代
畿内説云々はまったく関係ない
>副葬品からは、平原遺跡一号墓を2世紀に繰り上げることは不可能
その最大の根拠の耳璫の括れだけでは、魏晋代にならないって教えてやっただろww >>165
>後出しジャンケン?
どこが?
平原1号墓と平原遺跡の区別もついていないのはそっちの責任だろ?
曽根遺跡群が平原遺跡とワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳を含む遺跡群だってのは
このあたりの古代史を論じるなら常識の部類だぞ? >>166
そのことの意味づけが不明確な以上、だから何なんだという話だよ。
重箱の隅をつついても、何も出てこないよ。
君の意見はいつも最後は妄想で補完しているから、無価値なんだよ。 >>167
>君の意見はいつも最後は妄想で補完しているから、無価値なんだよ。
どこが妄想だか、具体的に指摘してごらん?
まあ、平原1号墓と、平原遺跡全体、さらには曽根遺跡群という大きな広がりを
意識すらしていない、知識がまったくない人には無理かなw 意識高い系は、自意識過剰とも言う。
要するに、おまえは病気。 >>169
>意識高い系は、自意識過剰とも言う。
>要するに、おまえは病気。
具体的な論点で一切反論ができなくなると、
個人的な中傷に走るww
とても分かりやすいな
そして、九州説なのに平原5号墓も曽根遺跡群も知らない人から意識高い系と言われても
失笑しか出てこない
するってぇと、>>169は意識低い系で知識も十分にないのに、
「九州説が正しいんだー」って信じ込んじゃってるんだ
もっと、知識を増やしてみたら、考えが変わるかもよ?ww そうだね
平原1号はまさに共立女王卑弥呼の墓にふさわしいな ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. そうだね
平原1号はまさに共立女王卑弥呼の墓にふさわしいな 投馬国は半島南部だろ
いまさらなにを言ってるんだ?
そこに首都があるなら韓人の国家
九州側に首都が有るならそういうこと
右も左も必死過ぎて爆笑www 倭国の首都は九州北部であり、そこを含む地域が邪馬台国
投馬国は宮崎 >>174
投馬国は宮崎県妻。
倭国の王都は九州福岡。 >>174
>投馬国は半島南部だろ
>いまさらなにを言ってるんだ?
これを書き込む人の知能が本気で心配になる
旅程の途中で、どうして移動の起点が振り出しに戻るのか、まともに説明できていない
というか、説明できる方がおかしい
そんな書き方は、大陸史書にはない >>177
これを書き込む人の知能が本気で心配になる
旅程の途中で、どうして里程から突然全てが日程になるのか、まともに説明できていない
というか、説明できる方がおかしい
そんな書き方は、大陸史書にはない
里程は漢代の里程ダヨーーーーンwww(当時の橋頭保・狗邪韓国 は半島南岸
日程は魏代の日程ダヨーーーーンwww(当時のもっと広い投馬国は半島南岸 つまり
北部九州倭人倭
鉄素材を求めて
漢代には半島南岸狗邪韓国の狗邪族と血縁を深めて
鉄鉄鉄鉄鉄
鉄入手ルート(現代だと石油ルート
を求めて
勢力拡大して
魏代には投馬国をつくったのだなあ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>178
投馬国は狗邪韓国を中心とした半島南岸ですよ
水行20日が7000里なんですよ。 >>182
>投馬国は狗邪韓国を中心とした半島南岸ですよ
>水行20日が7000里なんですよ。
そういうインチキ読みだから九州説はダメなんだって
行程の途中で、起点が振り出しに戻る書き方なんてどこにもないだろ?
一例だけでここにあるって言張るのはただの循環論法で何の根拠にもならない >>184
>行程の途中で、起点が振り出しに戻る書き方なんてどこにもないだろ?
日程と里程をつなげて読む方がおかしい。 >>185
>日程と里程をつなげて読む方がおかしい。
おかしいと思うのは>>185の個人的感想以上のものではない
魏志倭人伝には
自女王國以北、其戸數「道里」可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳
と書かれており、旅程は「道里」が示されているのであって、
里程でも日程でもよい
と書くと、どうせ日程は道「里」ではないと言いたがるだろうけれど
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
日数で「道里」を表現するのも普通のこと
そして「水行=沿岸航行」では距離は測れない(歩測も使えない)ので、水行部分は
日程で表してあるだけ
短里なんてないんだよ 最後の一行が言いたいだけの屁理屈
これだから畿内説は信頼をなくす >>187
>最後の一行が言いたいだけの屁理屈
どこが屁理屈なのか、具体的に論点を絞って指摘して
そうしたらきちんと説明するから
それができないなら
「短里は捏造」 >>188
短絡的単細胞ですね。
畿内説は屁理屈が通らないと切れるんですね。 >>189
>短絡的単細胞ですね。
>畿内説は屁理屈が通らないと切れるんですね。
またごまかしてるww
屁理屈だと主張したいなら、どこがおかしくてどこが屁理屈なのか、
「具体的に指摘してくれ」って言ってるんだよ
具体的に指摘してくれたら、それに対してまた説明するって言ってるんだよ
切れるの真逆の理性的な態度だろ?ww
「具体的な指摘」ができないなら
「短里は捏造」 九州説は「具体的な根拠」「具体的な指摘」を求めるとたいてい消える キナイコシの言う「根拠」はどうせ屁理屈
説明しても理解できないコミュ障には付き合うだけ無駄 >>186
移動させる距離を日数で除すと言ってるだけで
距離=日数って意味で書かれてないぞ?
不適切な事例だね。チェリーピッキングの典型だ。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>192
ほら逃げたww
キーボードをちょっと叩くだけなんだから、十分な根拠があれば
相手の言い分をコテンパンにするくらいはすぐだろうにw
それができない惨めな敗残九州説w >>193
>移動させる距離を日数で除すと言ってるだけで
>距離=日数って意味で書かれてないぞ?
>不適切な事例だね。チェリーピッキングの典型だ。
またすぐ話をずらすww
『九章算術』の例は、「道里の表現」として「日数が当たり前に使われている」ことの例だ
実際、魏志倭人伝の表記も「距離=日数」の意味ではないだろう
九州説は,反論することだけが目的になっているから、いつも的外れww >>196
>実際、魏志倭人伝の表記も「距離=日数」の意味ではないだろう
無理筋を通そうとすると、里ではないものを里と言い張る羽目になる。 >>197
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
日数しか書いてないのが、「道里遠近」と書いてあるのが分からないのかな?
「日数が道里」なんだよ >>198
>無理筋を通そうとすると、里ではないものを里と言い張る羽目になる。
「道里=里数」では「ない」んだよ
まあ、ここは完全な典拠があるこっちが正しいのは確定だから、
がんばるならがんばりな
無駄だけどさw 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>202
>全くの誤読。論理の飛躍も甚だしい。
どこが誤読か、「具体的に指摘」してごらんww >>201、>>202
一言スレで、反論したつもりになるのが、九州説の能無しの常
まあ、どこぞのソント文化と同じだなw >>204
最後の行に論理の飛躍があって説明が足りないよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>206
それは、日本語が読めてないだけだろ?
九章算術は、計算の練習問題
そこで第六章均輸の第一問がこれ
今有均輸粟:
甲縣一萬戶,行道八日;乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以道里遠近,戶數多少,衰出之。問粟、車各幾何?
答曰:
甲縣粟八萬三千一百斛,車三千三百二十四乘。乙縣粟六萬三千一百七十五斛,車二千五百二十七乘。
丙縣粟六萬三千一百七十五斛,車二千五百二十七乘。丁縣粟四萬五百五十斛,車一千六百二十二乘。
均輸術曰:
令縣戶數,各如其本行道日數而一,以為衰。
甲衰一百二十五,乙、丙衰各九十五,丁衰六十一,副并為法。以賦粟、車數乘未并者,各自為實。實如法得一車。
有分者,上下輩之。以二十五斛乘車數,即粟數。
4県の日数と、戸数が書いてあって、そこから
欲以道里遠近,戶數多少,衰出之
道里の遠近と戸数の多少をもって、衰これを出す(計算する)ことを欲す
道里の遠近と戸数の多少から、損耗分(衰)を計算して
平等(均)に賦を負担するにはどうしたらいいかという問題
ここで道里の遠近を示すものが日数しか表記されていない
日数が、そのまま道里なんだよ
説明が足りないのではなく、足りないのは理解力
そして、誤読ではないことは明白
>>202はただのクレーマーの戯言 どこにも飛躍はないだろ?
九章算術に見られるとおり、道里は日数表記も普通
投馬国、邪馬台国へは日数で道里が示されている
投馬国、邪馬台国までが、女王国以北の其戸數道里可得略載の国
投馬国を邪馬台国より南に置く説は、魏志倭人伝の記述に合わない どこがどう間違っているかを「根拠」を挙げて論じられない時点で
九州説の立場を取る人間の能力の限界が明らか
基本的に個人の感想レベルのことしか書いてないのが九州説の書き込みの常 >>212
投馬国へ行って、そこからさらに進むんだから何も問題はないだろう?
魏志倭人伝にはそう書いてある >>212
投馬国へ行って、そこからさらに進むんだから何も問題はないだろう?
魏志倭人伝にはそう書いてある >>216
読み違いというのが誤読
順次進んでいくように読んでいけばよいだけ
ついでに言えば、邪馬台国以遠の国も、邪馬台国の向こうという意味で順次読みでよい 帯方郡から邪馬台国(福岡)まで水行10日
帯方郡から投馬国(宮崎)まで水行20日 東南大海中なのに、南だけで至るという矛盾
投馬国は、戸数道里略載の女王国以北の国なのに、邪馬台国より南になる矛盾
陸行一月を完全に無視するインチキ
よって>>218は成立の予知なし 朝鮮半島の西岸を南に四千里、南岸を東に三千里、対馬海峡を南に三千里。
おおむね東南、または南南東。 帯方郡から投馬国(半島南部)まで水行20日
投馬国から邪馬台国(福岡)まで水行10日 半島南部まで7千里
そこから邪馬台国まで5千里
半島南部まで20日
そこから邪馬台国まで10日
合計すると12000里ですがな。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 北部九州倭国の倭人は鉄器でお肌ツルンツルン✨
それ以外の毛人は鉄器なしでムダ毛ぼうぼうですがな。 渡海千里が一律の値とか、実測値じゃないのは明白だし、萬二千里は
淮南子などの古典から引用した観念的な世界の果てまでの距離
実測値じゃないもので何かを語っても意味ないよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています