平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)2
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『説文解字(後漢)』にて咫=八寸
漢尺=十寸=約23センチ 寸=約2.3センチ
咫=八寸=2.3×8=18.4センチ
八咫=18.4×8=147.2センチ前後
平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528537360 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 このスレ、まだやるの?
平原1号墓出土鏡が八咫鏡ってことはないってのはもう、さんざんやったじゃないか このスレ、まだやるの?
平原1号墓出土鏡が八咫鏡ってことはもう、さんざんやったじゃないか 平原の方格規矩鏡が国産ってのは
本当に確定なのか?
畿〇説の大御所先生が言ったから
というのじゃなくて
その根拠を説明できる人いるかい?
>この遅さなら聞ける 一番の専門家が鑑定して、それを疑うなら議論の共通基盤は何一つ持てないから無駄だよ
柳田先生は九州の編年の専門家
専門家だから当然九州説なんかは支持していないが、畿内説の大御所というポジションでもない
その柳田先生の鑑定で、鋳上がりの悪さなどから仿製鏡と判定されてる >>7
いやべつに
その根拠を簡潔に説明してって言ってるだけ
形?
材質?
銘文?
純粋な学問的興味 >鋳上がりの悪さ
それは科学的にどの程度の悪さなの?
魏の洛陽は董卓が焼き払って
復興期の銅鏡生産は笑止レベルだったわけだけど
それと科学的に比べてどの程度の悪さとか、
学術的な話が聞きたい。 >一番の専門家が鑑定して、それを疑うなら議論の共通基盤は何一つ持てないから無駄だよ
超スローなスレで
学術的な根拠呈示マダー?w 鉛同位体比でも、仿製鏡という結論になるそうだ
柳田先生の判断基準ではないけれど、これで十分だろう
「平原鏡から三角縁神獣鏡へ」 新井宏
http://arai-hist.jp/thesis/archeaology/yamataikoku/113hirabaru.pdf >>11
仿製鏡であるという根拠が、
超大型内行花文鏡を代表とする仿製鏡と組成が似ているから、
ということだろ?
じゃあ、
超大型内行花文鏡を代表とする仿製鏡
とやらが、
九州説者の一部が言っているように、
中国からの青銅器を溶かして作ったものであるなら、
そもそも仿製鏡であるかどうかを、
鉛同位体比では判定不可能、ということになる。
鉛同位体比で判定するなら、
銅鐸はどうなんだという話とも繋がる。 3世紀以前に日本で青銅原料が採掘されていた証拠がないのだから、
原料の全ては舶載
なのになんで
原料をもって舶載か仿製か議論できるのか? >>14
一緒に作成された可能性はわかるかもね
平原は全部同じじゃなかったよ
詳しい事は忘れたけど
個人的には楽浪産の可能性もあるかも、と思う
>>9
私もそれは疑問に思ってたよ
ちょっと曖昧だよね
実際の中国出土鏡の写真とか、統計とか無いし、柳田さんの主観でしかないから
中国では引き出しに入れられたままの鏡も沢山あるらしいし(by柳田)
日本の研究者も限られた鏡しか実見できてないのでは?と思った 平原の方格規矩鏡が国産ってのは
本当に確定なのか?
畿〇説の大御所先生が言ったから
というのじゃなくて
その根拠を説明できる人いるかい?
>この遅さなら聞ける >>16
原料では舶載か仿製かはわからないでしょ?
いつ作られたか(いつの時代の舶載青銅器を溶かして作られたか)の判断はできるかもしれません。
形式についても、
董卓によって破壊された洛陽にて
銅鏡製作が再開されたばかりのものは
漢代の銅鏡を見ながらの習作が多いというのは専門家も周知しているところで、
逆に
形状がつたないからこそ、魏の鏡、とも言えるわけですな。 まあ、実際に最近、平原の方格規矩が中国製であることを示唆する研究成果が発表されてる
ただし、中国製と見なす場合の根拠は、三角縁との製作技術の共通性だから、
平原の方格規矩を中国製と見なすなら、三角縁も中国製と見なすことになる
さらに、製作技術の特徴からは三角縁よりも古く位置付けることにもなる
よって、平原の方格規矩が中国製であったとしても、卑弥呼の鏡にはなり得ない、というオチ ん?
どちらも中国製だったら、
三角縁は4世紀だから
平原のは3世紀になって
まさに卑弥呼の鏡になるよね 三角縁を中国製としたら景初と正始の紀年銘を持つので卑弥呼の鏡として確定 >>21
平原の方格規矩鏡が国産という根拠が知りたい >>22
確定しないじゃん
3世紀遺跡から全然でないんだから。 三角縁が3世紀鏡で伝世とするなら、
北部九州の漢鏡も伝世で、北部九州の全ての年代が繰り上がってしまう。
三角縁が遺跡の実年代とするなら、
4世紀にバイナラwww 卑弥呼の朝貢239
銅鏡百枚
重臣に配る→重臣が無くなる3世紀後半
3世紀のうちには大半が副葬
ごく一部が4世紀以降に >>24
・製作から副葬にタイムラグがあるのは普通のこと
・兵庫県の権現山51号墳で布留0併行の土器と供伴、3世紀に遡るのは確実
・中国製とした場合、4世紀に景初、正始の年号を入れる意味がない >>19
その共通性?がちょっと知識が無くわからないのだが
技術は平原からの流れとは聞いたがね
三角は殆どが4世紀以降の墓からだから、明らかに平原とは時代が違う鏡
平原と三角は同位体比は同じじゃなかったと思うが… 他の鏡と外型を共有してるとの指摘
三角縁が平原の鏡の流れというのはガセ
三角縁が4世紀だというのは30年前までの年代観
固執してるのは某統計学者とその信者 >>27
権現山51号墳は出土した都月型特殊器台埴輪から布留1式新段階ぐらいだよ
4世紀前半の墓だね ・製作から副葬にタイムラグがあるのは普通のこと
はい、北部九州の王墓群の年代が全て更新されましたー
・中国製とした場合、4世紀に景初、正始の年号を入れる意味がない
邪馬台国が勝者となった場合
その立役者の卑弥呼様の華々しい外交記念年の景初、正始の年号を入れるのが
なによりの忠誠心ですねー >>29
まぁ、三角も古いのは3世紀の物もあると思うが、卑弥呼が貰った鏡は3世紀前半の鏡になるから、三角の出土状況ではちょっと厳しいかと思う
紀年鏡は全て4世紀以降の墓からなんだよね
三角は確か大分のが古いと記憶にあるが… >>29
ありがとう
平原の方が古いから、技術的に平原からの流れというのはその事だね >>30
都月型は箸墓でも出土
権現山51号も箸墓も特殊壺の特徴を色濃く残す特殊壺形埴輪を供伴しており、都月型でも古相
箸墓は周濠最下層および外堤内から布留0出土で築造時期確定 >>35
良心を持たない連続句読点には理解できないだろうなw 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>29
>三角縁が4世紀だというのは30年前までの年代観
この30年、エセ学者が詐欺まがいの年代比定を繰り返し、妄想を繰り広げてきたということだ。 >>37
ちょっと調べてみた
文様では箸墓の後発と思われる要素はあるが
、土器編年は布留0みたいだね
三角の同笵関係,京都府の椿井大塚山古墳,岡山県の備前車塚古墳出土鏡との関連で4世紀前半との説もある
鏡の並行関係も考えて、総合的には布留0後半、箸墓の後の3世紀末あたりでは?
そうなると、三角は製作されてすぐに副葬の可能性が高いかな 土器や埴輪は古墳築造時のものなので古墳の年代観に直結する
椿井とかの三角縁は編年上では複数の段階のものが混じって副葬されてるから
古墳の築造は副葬鏡中の最新段階と見なされるが
三角縁の製作開始年代は古墳築造よりも遡ることになる >>49
>三角縁の製作開始年代は古墳築造よりも遡ることになる
年代詐欺 古墳の築造を埴輪等で見るか
副葬品で見るかは古墳ごとに統一されてないだろ?
お互いを独立に評価して矛盾がないという研究成果とか見たことないわ。 じゃ
全部の古墳の築造年代比定の根拠をあげてくれい >>51
まだ矛盾があるのは事実
土器編年の年代については学者により幅があるが、各地の土器の並行関係はかなり研究が進んでいる
が、間違いはあるかもしれない
久住さんも結構つっこまれてたりするしね
年代については〜あたりとしか今は言えない 矛盾つーか、古墳の築造年代観が争点になる場合は大抵が資料不足
良好な埴輪や土器がたくさんあればほぼ確定だけど
数が少ないと出土状況が問題になる
副葬品はある程度の品目が必要
棺や埋葬施設の構造では年代の幅が広くて特定しづらい >>16
>一緒に作成された可能性はわかるかもね
>平原は全部同じじゃなかったよ
>詳しい事は忘れたけど
忘れた、じゃなくて確認しなよ
>>11に示されている新井氏の論文でも、鉛同位体比は確認できるんだから >>57
調べたい人が調べればいいんじゃない?
詳しい事を説明する義務は無いよ
調べて、せれは違うと思うなら意見してほしいとは思うけど まあ、平原1号墓出土鏡の方格規矩鏡が仿製鏡だと判断できる一番簡単な理由は
同笵鏡が多数あるから、だけどね
大陸で出土の銅鏡は、同笵鏡のあるものがほぼないそうだ >>59
ちとそれも怪しくなってきてるが…
中国出土の鏡の研究待ち 倭鏡こそ古墳時代後期にならないと同笵製作しないだろ そうやって皇室所縁の鏡の権威に擦り寄ろうとするのがせこいんだよ 伊勢神宮の物と比べるのがいいのだが見せないんだろ
もし違うものなら伊勢神宮の方が形代だろうな 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 記紀は天孫ニニギが八咫の鏡を携えて筑紫に降臨したと主張しているから、矛盾はない。 しかし、北部九州に八咫鏡があったとする地元の伝承や説話が一切ない
現在、ご神体として八咫鏡を祭る神社も一つもない
記紀の日向三代の物語に、天降り後に八咫鏡は一切出てこない
八世紀に編纂された記紀に八咫鏡が書いてあるからといって、
三世紀の北部九州に八咫鏡が存在したとする理由にはならない ニニギはアマテラスから八咫の鏡を授かって筑紫に降臨した。
記紀の神代の巻のハイライトのひとつ、天孫降臨のシーンである。 >>69
>ニニギはアマテラスから八咫の鏡を授かって筑紫に降臨した。
>記紀の神代の巻のハイライトのひとつ、天孫降臨のシーンである。
その後、崇神天皇のところまで、八咫鏡は一切出てこない
そして、高天原で八咫鏡に先に立って造った鏡とされる日像鏡・日矛鏡が、
九州ではなく和歌山の日前神宮・國懸神宮にあるし、奈良盆地の鏡作神社にも
八咫鏡の試作品とされる鏡が伝世されている
これらから考えると、畿内の地でヤマト王権成立の頃に八咫鏡が鋳造され、
それが伝世し神話化し、後付で記紀に説話が載せられたと考える方が合理的 神武は筑紫から八咫の鏡を持ち出していない。
大和に入った時は天羽羽矢を身柄を明らかにするためにニギハヤヒに提示している。
おそらく崇神や景行の時代に八咫の鏡が畿内に持ち込まれたのだろう。 和歌山の日前宮、國懸宮は伊都郡にあるんだよね。
筑紫の伊都から八咫の鏡を持ってきましたと言わんばかりの地名だよ。
持ってきたから、当然筑紫には今現在はないんだよ。
まあ、辺津宮あたりに1枚くらい残っているかもしれないけど。
記紀も筑紫から大和に王権が移ったとしているわけで、なんの矛盾もないな。
なんの理由もなく、ヤマト王権がその起源を筑紫とする建国譚を作ったと考える方が不合理だよ。
実際に筑紫の伊都から八咫の鏡と呼べる超大型鏡が出土してしまったからね。
キナイコシがそれにきちんとした説明をつけない限り、伊都が倭国の王都であったことは否定できないよ。 >>70
理由もなしに「合理的」って笑えるよな
アホだろ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>78
>伊都のオハバリだぞ?
と書いてある場合は、「いと」ではなく「いつ」と読む
古事記に出てくる伊都国は「伊斗村」であって、「伊都」は全て「いつ」と読ませている あと、記紀の伊都国関係で気になるのが、伊都々比古
垂仁紀の都怒我阿羅斯等来朝記事で、穴門辺りにいて、自分が王だといったのが伊都々比古
まあ、名前をそのまま読めば「伊都」の彦だから、伊都国関係者に見えるけれど、いたのが
北部九州ではなく穴門で本州側になる 門司と下関を分ける意味はないな。
そこは実質的に九州北部だよ。 史記での「咫」の字の使用全例
矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫は、尺(10寸)+咫(8寸)で、18寸の長さ
八寸曰咫
咫尺,八寸
咫は8寸である
徒欲日夜望咫尺之地
舜無咫尺之地
奉咫尺之書
今拘學或抱咫尺之義
言拘學守義之士或抱咫尺纖微之事
咫尺で、「少しの(ながさ)」程度の意味
日本語で「ちょっと」を「一寸」と書くのと同じ発想
咫を円周を測るのに使っている例はない 漢書での「咫」の字の使用全例
長尺有咫
石砮長尺有咫
尺有咫で、18寸
八寸曰咫
張晏曰:「八寸曰咫。」
咫は8寸
豈其與水爭咫尺之地哉?
奉咫尺之書
但日夜望咫尺之地
履咫尺之難
臣聞天威不違顏咫尺
且盲不見咫尺
咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喻輕率也。
咫尺は、それ「あるいは長さ咫あるいは長さ尺」を簡単に言うもので、比喩である
咫を円周を測るのに使っている例はない 三国志での「咫」の字の使用全例
未能進咫尺之地
終日行不離咫尺
加咫尺之書
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 後漢書での「咫」の字の使用全例
其長尺有咫
石砮矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫で18寸
八寸曰咫
八寸為咫
咫は8寸
舜無咫尺之地
今拘學或抱咫尺之義
咫尺天儀
咫尺龍沙
咫尺言不以為遠也
夫欲千里而咫尺未發
去營咫尺
今以曲俗咫尺之羞
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺 で使われているのが23件
尺有咫 で使われているのが 7件
八寸曰咫 で使われているのが 6件
「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている
「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる
「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸
ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ
要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」 長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」
咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない
これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね
つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない 平原1号墓出土鏡を、円周が八咫だから、八咫の鏡という人がいるが、
咫=8寸という長さの単位ではあっても、史記から後漢書の範囲で
咫を長さを表すのに使っている例は、石砮や矢の長さで「尺有咫」という慣用句的な
決まった表現で18寸を表す場合だけで、基本的には「咫尺」で「わずかな長さ」を
比喩的に表す熟語でしか使わない
平原1号墓が卑弥呼の頃であることを想定するならば、その時代に「咫」で
具体的な長さを測ることはない
したがって、平原1号墓出土鏡が円周が八咫であると認識されることもないし
八咫鏡と呼ばれることも、考えられることもない
しかも、破鏡供献されているので、千年以上後になって、発掘され復元されるまで
その間、その周囲の長さが知られることもない
この鏡が八咫鏡の語源となることもない
つまり、どうやっても平原1号墓出土鏡は八咫鏡とは無縁の鏡である 邪馬台国の時代を含む大陸史書の全例検索をしても、
「咫」が長さの単位として使われている例が、事実上ない
「尺有咫」という決まり文句中で使われる例はあるが、
そのたびに「八寸曰咫」という注が付き、当時、既に「咫」が
実用される長さの単位ではなかったことが分かる
その状態で、「何かを測った」「何を測ってもいい」と主張すること自体が
意味を持たないんだよ 大きい鏡という意味の普通名詞ではない、と考える限り
八咫鏡の「本物」は誰が何と言おうと、伊勢の神宮の御神体の鏡だ
そして、その八咫鏡は見てはいけない鏡なので、実見記録はないがその入れ物については実見記録がある
八咫鏡は遷宮の際に、御桶代に入れた上で御船代に載せて、移動するが
「そのオケの大きさが平原の鏡と一致する」と主張する伊都国説の人がいる
しかし、神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に 「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、 蓋口径九寸であると記録されているそうだ
また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、 その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、円の直径は九寸としている。
この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう
どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない
八咫厨のいう「オケ」は、「黄金鑵」の外側の御桶代のことだろう
まあ、聞きかじりだと、いい加減なことを考えるってことだな
本物の伊勢の八咫鏡と、平原1号墓出土鏡は大きさが異なることが明らかであり、
その意味で平原遺跡出土の大型内行花文鏡は記紀において八咫鏡と呼ばれる鏡ではない >八咫鏡は一尺六寸三分(49センチほど)と記載がある。
>>90をよく読んで
それ、八咫鏡の大きさじゃなくて、御樋代の大きさだよ
八咫鏡そのものは誰も見てはいけないから、大きさも測った人はいない
この御樋代の大きさから、八咫鏡の大きさを想定している人が多いけれど、
その中にさらに黄金鑵があって、八咫鏡はその中に入っている
黄金鑵の内径が9寸という話
平原出土鏡は入らないでしょ?
『皇太神宮儀式帳』は、遷宮のときに新しく用意する御道具が記載されていて
黄金鑵は遷宮のたびに作ったりしないから、載っていない
原本引用しておくから確認してみて
『皇太神宮儀式帳』
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h248/image/01/h248s0016.html
御樋代一具 深一尺四寸 内八寸三分
径2尺 内一尺六寸三分
『延喜式』は電子テキストで参照できる
『延喜式』4(伊勢大神宮)・造備雑物条〔24〕
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/000008.html
樋代一具。正宮料。高二尺一寸。深一尺四寸。内径一尺六寸三分。外径二尺。 そもそもウィキペディアの「八咫鏡」のページの
説文解字の解釈が大間違いだったからな
咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、「周を計る尺度」なり)
「周を計る尺度」が誤訳もいいとこ
「周(の時代)の尺である」が正しいのは、説文解字の注釈まで
ちゃんと読めば確認できる
既にこの部分はさすがに修正されてるね
っていうか、5ちゃんねるの議論を経て修正されてるww 説文解字の「咫」は、清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》を載せていて、
それに拠ると以下のとおり
周尺也。
通典引白虎通曰。夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
按奄字未詳。疑是手之誤字。
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。 周尺也。
周尺である
夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
夏王朝の法は「日」で、太陽の数が10なので、10寸を尺とした
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
殷王朝の法は「十二月」で、1年が十二月なので、12寸を尺とした
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
周王朝は地によりて生じた、地は陰であり、それで婦人を法とした
婦人の奄を広げると8寸になるので、8寸を尺とした
按奄字未詳。疑是手之誤字。
奄の字はよく分からない、手の誤字ではないかと疑う 上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
ここまで述べてきた文で見るように、十寸で尺となる
ここに及び、その字、これより下では、周制(周の制度)では、八寸を尺としたという話だ 別周制之異乎古也。
周代の制度でも古い時代とは異なる別の制度があった 王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步
王制(礼記の一篇)によれば、古くは周尺の八尺を歩としていた
今は、周尺の六尺四寸が歩である 鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
鄭注では、周尺の数(長さ、寸の数)はいまだに詳しいことははっきりしない。
礼制の(記述)から考えて、周(の制度で)も、なお十寸で尺としていたようだ(と鄭注に書いてある) >>88
>咫=8寸という長さの単位ではあっても、史記から後漢書の範囲で
円周率の代わりですね。
π/4を0.8で近似していたのです。
それ以外には、0.8に新たな単位を設定する合理的理由が見当たりません。
後世の鯨尺と同じです。 鄭注は、後漢の鄭玄(じようげん)が経書に施した古典の注釈。また,その経書。じょうちゅう。
孔子の「礼制」による既成の秩序維持の考え方は周王朝期の礼制に依拠している
後漢の鄭玄は古文経の『周官』を中心として『儀礼』と『小戴礼記』を三礼として総合的に解釈する体系的な礼学を構築した
その書物が「鄭注」で、この部分はその内容の紹介 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
考えてみるに、春秋戦国時代には、変乱法度が多かった。
(周尺も十寸だったとしたが)六国時代(一応は周代)には、あるいは周尺は八寸だったとも言う
歩を以てさらに八をなす ハッパ六十四である 鄭意八寸爲尺。周末始有之。
與許說異。然許亦曰諸侯力政。
鄭注の(鄭玄の、としてもよいが)意味するところは、八寸で尺と為すということだ
周末にこれ(一尺八寸)が始まった
異なる説も当然成り立ちうる
そうではあっても、またいうことには、
諸侯(六国の王)が(王制、礼制ではない)力政を行っている 周末というのは、周朝の威が衰えた六国(春秋戦国)時代のこと
力政についてもう少し解説
史記の秦本紀に、「周室微,諸侯力政,爭相併」とある
周室(周の宮室)微え(おとろえ、衰微し)、諸侯力政、相併せるを爭う
互いに併呑しようと争っていた
この力政に、力政:用武力征伐。という注が付いていて、力政とは、武力を用いて征伐すること、とある 分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。
(周朝が衰え、天下が)(秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙の)七国を為す
田のうねは畮を異にする(七国の国ごとに異なる)
車の涂(みち)は軌を異にす(七国の国ごとに異なる)
律令も、国ごとに異なる法令を使っていた >>91
記載が無い物をあったと断定するのはどうか?
内宮も度々火事になっているみたいだし、鏡もはじめからそのままの状態かどうか?もわからない
黄金〜の記載はかなり後世の遷宮での記述なので注意 伊勢のヤタの鏡は謎なので、これをどうこう言ってもまぁ、意味がないな 律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)に相当する
公定尺は、令で定められることになる
律令の方が国ごとに異なるということは、公定尺の長さも異なることになる 則其說亦未嘗不合也。
則ちその説くところ、また、未だ嘗て合わざらずなり。
結局は周代の尺が10寸と8寸の両方あって説くところが合わないという話になる 左傳。天威不違顏咫尺。
左伝には、「天(子の)威(徳)、(龍)顔を違らざること咫尺」と書いてある
左伝は、左氏春秋伝のこと 左丘明の作と伝えられる「春秋」の注釈書
左氏伝 僖公九年に「天威不違顏咫尺」とあることの引用
天威は、天子の威徳、顔は天子の顔(竜顔)、顔を違らざるは天子の顔近くで恐れ多い様子をいう
天威不違顏咫尺は、「天威咫尺」「天顔咫尺」という四字熟語のもとネタ
この部分は、単に「咫尺」の用例 咫尺並言。不云二尺也。
咫尺を並べて言う。二尺と云わざるなり。
咫尺を並べて言うということは、区別があるということ
だから、二尺とは言わない
この部分全体が、説文解字の「咫」の「周尺也」の注な訳だが
「周尺=咫」ではないことが分かる 國語、列子皆言其長尺有咫。
國語、列子皆、その長さ尺有咫と言う。
「国語」でも、「列子」でも、みんな、その長さ尺有咫という使い方をしている
『国語』は、21巻から成る国別の春秋時代史で、
『春秋左氏伝』の著者とされる魯の左丘明の編纂といわれている
『列子』は春秋戦国時代の人、列禦寇の著書とされる道家の文献
国語には「石砮其長尺有咫」、列子には「其劍長尺有咫」という表現がある 亦不言其長二尺也。
またその長さ、二尺と言わざるなり。
(天威咫尺で二尺と言わなかったように)また、二尺とは言っていない
「左伝」でも「国語」でも「列子」でも、咫と尺を並べて使っていても、
二尺とはしていない 是可證周未嘗八寸爲尺矣。
是れ、周未だ嘗て八寸を尺と爲さざる證なるべし。
こうしたことは、周の時代にいまだかつて八寸を尺と
したことはないという証と見てよいだろう
咫と尺はあくまで区別されている
説文解字では、咫の項に「中婦人手長八寸,謂之咫。周尺也。从尺只聲。」とある
これだけだと、「咫」の長さは婦人の手の大きさの八寸で
かつ、周尺の長さ(=八寸)のように読める しかし、段玉裁の《說文解字注》を見ると、周代でも尺は10寸であり、咫の八寸とは区別されていたことが分かる
周代には、春秋戦国時代も含まれる
段玉裁の《說文解字注》でいう六国時だ
この時期には、各国の制度が度量衡も含めばらばらになった
それで、周代の尺の長さが10寸なのか8寸なのか混乱し、分からなくなっていた
それで、秦の始皇帝による度量衡の統一が必要だった訳だ その際に咫は、もともと身体尺だったことから、統一公定尺の体系には入れられなかった
さらに、咫は使いどころがほぼない
八寸の言い換えで、八寸を咫という以外に使い道がない
7寸や9寸は、寸で示すしかないのだから、8寸も寸で示せば、もう咫の使いどころはない そうして、咫が「咫尺の書」などの決まった言い方でしか使われなくなって
それから、3世紀までには400年くらい時間が経っている
ここまできちんと把握すれば
円周が八咫になるように作ったとか、円周を測ったら八咫だったとかいうのは、
時代背景を考えれば意味がない
昭和の時代に思いついた人がいるってだけの単なる憶測だよ 皇統と無縁の八咫鏡の例が記紀に書かれている
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。
小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係
つまり、普通名詞としての「八咫鏡」だよ
単に大鏡を意味する普通名詞としての「八咫鏡」があり、そのうち
皇室の権威とともに伝世し、伊勢神宮のご神宝・ご神体となったものが、
三種の神器の一つとして固有名詞化した訳だ
それ以前の大鏡を普通名詞として「八咫鏡」と呼ぶのは自由だが、
普通名詞としての「八咫鏡」は当然皇位の象徴ではないし、王権の所在を示すものでもない
5枚もあって破鏡されているものを、王位の証と考えるのは牽強付会にすぎる >>115
>さらに、咫は使いどころがほぼない
>八寸の言い換えで、八寸を咫という以外に使い道がない
円周の近似値という使い方がある。
6でも7でもなく8寸だけに新たな呼称が与えられた理由を説明しろよ。 また、皇統と無関係の「八尺瓊勾玉」も日本書紀に出てくる
日本書紀 巻第六
活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇
昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。
是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」。
因以獻之。是玉今有石上~宮也。
もともとは、「八咫鏡」も「八尺瓊勾玉」も普通名詞として、
三種の神器以外にも使われていたことが分かる 6枚以上あって、それでは困るから卑弥呼の死をきっかけに一枚だけ残して割ったんだろう。
皇位の象徴がたくさんあったら困るからね。
むしろ破鏡の必然性があったことになる。 剣、勾玉、鏡のセットは大王家の独占物じゃないよ
普通の豪族の古墳でも出ている
山口の赤妻古墳とかね
畿内では大王墓は発掘できないand/or盗掘済みで、出てないってだけだよ 山梨県の笛吹市平林2号墳でも揃ってるね
自分でもちょっとググってごらんよ
普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ
つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ
平原1号墓を、副葬品だけで王墓と主張するのはピント外れなんだよ
そもそも伊都国に邪馬台国を持ってきたら、邪馬台国七万餘戸も満たせないし
平原1号墓も径百歩に合わない
本当に無理な屁理屈、アクロバティック解釈を重ねないと通らない説は、
正しくないと判断するのが当然 >>120
>むしろ破鏡の必然性があったことになる。
破鏡の必然性ww
皇室の「八咫鏡」は破鏡されていないから、別の文化だなw
当然、平原遺跡は皇統とは無縁の地方首長の家族墓地に過ぎない >>120
>6枚以上あって、それでは困るから
勝手に見つかってもいない「6枚目」を想定するところが、
捏造体質の九州説のやり方そのものだね
>それでは困るから
紀伊の日前神宮・國懸神宮ご神体の日像鏡・日矛鏡は、「八咫鏡」の前に
作った同型鏡という伝承があるね
また、大和の鏡作神社のご神鏡も「八咫鏡」の前に作った試作品で、
うまく作れなかったもの、という伝承がある
同型鏡があるのはかまわないみたいだよ?
それで困ることはない
「八咫鏡」の権威は、皇位とともに伝世することで付与されたもので、
最初から「八咫鏡」ありきで王位が決まった訳ではない >>123
>皇室の「八咫鏡」は破鏡されていないから、別の文化だなw
残された最後の一枚なんだよ。 >>124
>「八咫鏡」の権威は、皇位とともに伝世することで付与されたもので、
>最初から「八咫鏡」ありきで王位が決まった訳ではない
じゃあ、平原遺跡の鏡も八咫の鏡でいいよな。
キナイコシは自己矛盾しているだろ。 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。 現実から眼を背けて悦に入ったじいさんこそ歴史から逃げてるじゃんか
実証性がまるでない妄想はチラシの裏にでも書いてたら? 伊都クズは歴史学のなんたるかを全く理解してないんだから、実証とか求めるだけ無駄だよ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>128
イメージが被るのは認めるのかい?
それは大事だな
証明にはならんが バカか証明できるのは数学だけだ。
それ以外の分野は全て仮説の検証にすぎん。 >>125
>残された最後の一枚なんだよ。
勝手に見つかってもいない「6枚目」を想定するところが、
捏造体質の九州説のやり方そのものだね >>126
>じゃあ、平原遺跡の鏡も八咫の鏡でいいよな。
残念ながらそうはいかない
「八咫鏡」という語は、記紀が初出であり、それ以前どこまで遡れるかは定かではない
皇室の三種の神器が「八咫鏡」と呼ばれるようになったのは、かなり後代の後付とみるのが
考古学的出土遺物との関係から考えると、妥当となる
3世紀(九州説の言い分を認めたとして、おそらく実際は2世紀)に破鏡されて、
墳丘内にばら撒かれて忘れられた平原1号墓のガラパゴス大鏡が「八咫鏡」と
呼ばれた可能性は最初からない
>キナイコシは自己矛盾しているだろ。
平原1号墓出土鏡を「八咫鏡」だと「言い出した」のが、昭和の憶測に過ぎないってのを
早く理解できるようになるといいね
伊都クズ「キナイコシ」はまあ、なんでも脳内改変するから、矛盾を矛盾だと理解できないんだよ >>136
>それ以外の分野は全て仮説の検証にすぎん。
その「仮説の検証」すらできない、妄想・憶測は科学じゃないってことだよww
平原1号墓が卑弥呼の墓だとか
平原1号墓出土鏡が「八咫鏡」だとかww >>139
文献内容から考察すれば、現在出土している鏡の中では可能性が高い、というところだろうね
何より八葉紐座が平原鏡のみ、というのが気になるねぇ
それと、やはり籠神社の鏡が内行花文鏡だった事が大きいかな >>140
>それと、やはり籠神社の鏡が内行花文鏡だった事が大きいかな
そうだね。
籠神社の鏡は天孫ニギハヤヒのものだったと伝えられている。
卑弥呼の先代の倭王であったろう三雲南小路も内行花文鏡だし、こちらはもう一人の天孫であるニニギのものだろう。
倭王の象徴が内行花文鏡であるのは間違いない。
すると、平原遺跡に眠る女王も倭王卑弥呼ということになる。 >>140
>何より八葉紐座が平原鏡のみ、というのが気になるねぇ
>それと、やはり籠神社の鏡が内行花文鏡だった事が大きいかな
籠神社の連弧文鏡が柿蔕8つになってないから、つながりはないって見ればいいんだろ? 籠神社の方が古い様式。
前漢と後漢。
平原遺跡のはそれより新しい、魏代のもの。
100年単位で時代が違うから、様式の差があって当然。 >>144
>前漢と後漢。
あのぉ、平原1号墓出土鏡のたった二枚の舶載鏡は
16号鏡 18.8センチ 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡 漢鏡5期 後漢鏡
17号鏡 16.5センチ 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡 漢鏡3期 前漢鏡
で、まったく年代的には同じなんですが、それは? それは古い倭奴国の権威を継承している証として墓に入れたんだよ。
でもそれとは別に、最新最大の内行花文鏡も、入れてあるわけだよ。
それぞれの鏡は意味があるんだよ。 籠神社の鏡は、ニギハヤヒが天照大神から授かった十種の神宝の一部とされている。
天照大神(海洋王)が出雲の大国主(陸上王)を倒してから、最初にあめつち(海洋と大地)の統一王となったのが、天照大神の孫であるニギハヤヒである。
その称号は先代旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命であり、天照と国照の二つが含まれている。
その象徴である籠神社の鏡は前漢と後漢の内行花文鏡であり、これが倭王の証であったのだろう。
同じく天照大神の孫であるニニギの王権とみられる伊都国(筑紫の日向)の日向三代の王墓(三雲南小路など)も、内行花文鏡が副葬されている。
この伝統は3世紀の平原遺跡において、世界最大の内行花文鏡である八咫の鏡として頂点を迎える。
本来は漢の皇帝から倭王の証として下賜されていた鏡が、漢の滅亡後に卑弥呼政権下で国産化され、今日の天皇家の象徴である三種の神器に継承されている(そのままの鏡ではないらしいが)。 いつからあったかわからないものは、歴史の研究には使えない 中国のよくわからん畑から農民が見つけたと言われる骨董市で売買された銅鏡? >>152
由緒がはっきりしていてきちんと保管されていたものよりも、土の中から掘り出したものの方がいいと?
バカだろ >>154
その由緒とやらもいつから存在していたのかわからないんだぜ?
バカだろ? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>148
>でもそれとは別に、最新最大の内行花文鏡も、入れてあるわけだよ。
まあ作った瞬間には最新かもしれないが、仿製鏡だから年代はまったくあてにならないよ
残りの鏡も全部仿製鏡だし
平原1号墓は2世紀の伊都国の第二家系の盟主墳だよ
倭国王墓ではない
伊都国王(首長)墓の可能性はワンチャンあるけど >>155
>その由緒とやらもいつから存在していたのかわからないんだぜ?
籠神社の国宝の『籠名神社祝部氏係図』と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』も
額面通りの古書ではないそうだしな >>157
>平原1号墓は2世紀の伊都国の第二家系の盟主墳だよ
伊都国にある王墓は倭王だし、平原遺跡は伊都国のそれまでの(三雲などの)王墓とは別系統だし、平原遺跡は3世紀以降だし。
いろいろ間違いすぎ。 >>159
>伊都国にある王墓は倭王だし、
これが間違い
伊都国の王ではあっても、倭王ではない
>平原遺跡は伊都国のそれまでの(三雲などの)王墓とは別系統だし、
それを第二家系と表現してるんだが?
古墳時代に入っても、三雲遺跡群と曽根遺跡群には、平行して累代的な古墳の造墓が見られる
>平原遺跡は3世紀以降だし。
平原遺跡とまとめるなよww
最初に5号墓が造られて、次に厚葬墓である1号墓と2号墓
さらにその次の世代の、3・4号墓が累代的に造られている
3.4号墓が古墳ではなく、方形集溝墓であることから、平原1号墓は古墳時代開始より2世代前の墓
2世紀後半が相当だよ
>いろいろ間違いすぎ。
>>159がな
平原遺跡とまとめて論じるやつは、情報量が足りない
情報を仕入れる能力が欠けた情弱だ
当然判断も古いまま思考停止している >>160
>伊都国の王ではあっても、倭王ではない
根拠なし
>それを第二家系と表現してるんだが?
じゃあ平原遺跡は第三家系かな?
別にそれで構わないよ。
>3.4号墓が古墳ではなく、方形集溝墓であることから、平原1号墓は古墳時代開始より2世代前の墓
古墳時代は畿内の勝手な定義だろ
副葬品からは、平原遺跡一号墓を2世紀に繰り上げることは不可能 >>161
>根拠なし
それが逆なんだよ
3世紀の伊都国に倭国王墓があるとする方が根拠がない >>161
>じゃあ平原遺跡は第三家系かな?
>別にそれで構わないよ。
ほら、また知識が決定的に欠けているのが露呈している
曽根遺跡群は、平原遺跡を含み、平原遺跡が一番古いんだよ
曽根遺跡群の第二家系が、平原遺跡の家系そのもの
こんなんで、平原1号墓を倭王の墓だとか卑弥呼の墓だとか言うんだから大笑いだって言うの! >>161
>古墳時代は畿内の勝手な定義だろ
何を血迷っているんだ?
奴国は那珂八万古墳から、伊都国は端山古墳から古墳時代に入っているだろ?
曽根遺跡群ではワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳が古墳時代
畿内説云々はまったく関係ない
>副葬品からは、平原遺跡一号墓を2世紀に繰り上げることは不可能
その最大の根拠の耳璫の括れだけでは、魏晋代にならないって教えてやっただろww >>165
>後出しジャンケン?
どこが?
平原1号墓と平原遺跡の区別もついていないのはそっちの責任だろ?
曽根遺跡群が平原遺跡とワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳を含む遺跡群だってのは
このあたりの古代史を論じるなら常識の部類だぞ? >>166
そのことの意味づけが不明確な以上、だから何なんだという話だよ。
重箱の隅をつついても、何も出てこないよ。
君の意見はいつも最後は妄想で補完しているから、無価値なんだよ。 >>167
>君の意見はいつも最後は妄想で補完しているから、無価値なんだよ。
どこが妄想だか、具体的に指摘してごらん?
まあ、平原1号墓と、平原遺跡全体、さらには曽根遺跡群という大きな広がりを
意識すらしていない、知識がまったくない人には無理かなw 意識高い系は、自意識過剰とも言う。
要するに、おまえは病気。 >>169
>意識高い系は、自意識過剰とも言う。
>要するに、おまえは病気。
具体的な論点で一切反論ができなくなると、
個人的な中傷に走るww
とても分かりやすいな
そして、九州説なのに平原5号墓も曽根遺跡群も知らない人から意識高い系と言われても
失笑しか出てこない
するってぇと、>>169は意識低い系で知識も十分にないのに、
「九州説が正しいんだー」って信じ込んじゃってるんだ
もっと、知識を増やしてみたら、考えが変わるかもよ?ww そうだね
平原1号はまさに共立女王卑弥呼の墓にふさわしいな ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. そうだね
平原1号はまさに共立女王卑弥呼の墓にふさわしいな 投馬国は半島南部だろ
いまさらなにを言ってるんだ?
そこに首都があるなら韓人の国家
九州側に首都が有るならそういうこと
右も左も必死過ぎて爆笑www 倭国の首都は九州北部であり、そこを含む地域が邪馬台国
投馬国は宮崎 >>174
投馬国は宮崎県妻。
倭国の王都は九州福岡。 >>174
>投馬国は半島南部だろ
>いまさらなにを言ってるんだ?
これを書き込む人の知能が本気で心配になる
旅程の途中で、どうして移動の起点が振り出しに戻るのか、まともに説明できていない
というか、説明できる方がおかしい
そんな書き方は、大陸史書にはない >>177
これを書き込む人の知能が本気で心配になる
旅程の途中で、どうして里程から突然全てが日程になるのか、まともに説明できていない
というか、説明できる方がおかしい
そんな書き方は、大陸史書にはない
里程は漢代の里程ダヨーーーーンwww(当時の橋頭保・狗邪韓国 は半島南岸
日程は魏代の日程ダヨーーーーンwww(当時のもっと広い投馬国は半島南岸 つまり
北部九州倭人倭
鉄素材を求めて
漢代には半島南岸狗邪韓国の狗邪族と血縁を深めて
鉄鉄鉄鉄鉄
鉄入手ルート(現代だと石油ルート
を求めて
勢力拡大して
魏代には投馬国をつくったのだなあ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>178
投馬国は狗邪韓国を中心とした半島南岸ですよ
水行20日が7000里なんですよ。 >>182
>投馬国は狗邪韓国を中心とした半島南岸ですよ
>水行20日が7000里なんですよ。
そういうインチキ読みだから九州説はダメなんだって
行程の途中で、起点が振り出しに戻る書き方なんてどこにもないだろ?
一例だけでここにあるって言張るのはただの循環論法で何の根拠にもならない >>184
>行程の途中で、起点が振り出しに戻る書き方なんてどこにもないだろ?
日程と里程をつなげて読む方がおかしい。 >>185
>日程と里程をつなげて読む方がおかしい。
おかしいと思うのは>>185の個人的感想以上のものではない
魏志倭人伝には
自女王國以北、其戸數「道里」可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳
と書かれており、旅程は「道里」が示されているのであって、
里程でも日程でもよい
と書くと、どうせ日程は道「里」ではないと言いたがるだろうけれど
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
日数で「道里」を表現するのも普通のこと
そして「水行=沿岸航行」では距離は測れない(歩測も使えない)ので、水行部分は
日程で表してあるだけ
短里なんてないんだよ 最後の一行が言いたいだけの屁理屈
これだから畿内説は信頼をなくす >>187
>最後の一行が言いたいだけの屁理屈
どこが屁理屈なのか、具体的に論点を絞って指摘して
そうしたらきちんと説明するから
それができないなら
「短里は捏造」 >>188
短絡的単細胞ですね。
畿内説は屁理屈が通らないと切れるんですね。 >>189
>短絡的単細胞ですね。
>畿内説は屁理屈が通らないと切れるんですね。
またごまかしてるww
屁理屈だと主張したいなら、どこがおかしくてどこが屁理屈なのか、
「具体的に指摘してくれ」って言ってるんだよ
具体的に指摘してくれたら、それに対してまた説明するって言ってるんだよ
切れるの真逆の理性的な態度だろ?ww
「具体的な指摘」ができないなら
「短里は捏造」 九州説は「具体的な根拠」「具体的な指摘」を求めるとたいてい消える キナイコシの言う「根拠」はどうせ屁理屈
説明しても理解できないコミュ障には付き合うだけ無駄 >>186
移動させる距離を日数で除すと言ってるだけで
距離=日数って意味で書かれてないぞ?
不適切な事例だね。チェリーピッキングの典型だ。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>192
ほら逃げたww
キーボードをちょっと叩くだけなんだから、十分な根拠があれば
相手の言い分をコテンパンにするくらいはすぐだろうにw
それができない惨めな敗残九州説w >>193
>移動させる距離を日数で除すと言ってるだけで
>距離=日数って意味で書かれてないぞ?
>不適切な事例だね。チェリーピッキングの典型だ。
またすぐ話をずらすww
『九章算術』の例は、「道里の表現」として「日数が当たり前に使われている」ことの例だ
実際、魏志倭人伝の表記も「距離=日数」の意味ではないだろう
九州説は,反論することだけが目的になっているから、いつも的外れww >>196
>実際、魏志倭人伝の表記も「距離=日数」の意味ではないだろう
無理筋を通そうとすると、里ではないものを里と言い張る羽目になる。 >>197
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
日数しか書いてないのが、「道里遠近」と書いてあるのが分からないのかな?
「日数が道里」なんだよ >>198
>無理筋を通そうとすると、里ではないものを里と言い張る羽目になる。
「道里=里数」では「ない」んだよ
まあ、ここは完全な典拠があるこっちが正しいのは確定だから、
がんばるならがんばりな
無駄だけどさw 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>202
>全くの誤読。論理の飛躍も甚だしい。
どこが誤読か、「具体的に指摘」してごらんww >>201、>>202
一言スレで、反論したつもりになるのが、九州説の能無しの常
まあ、どこぞのソント文化と同じだなw >>204
最後の行に論理の飛躍があって説明が足りないよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>206
それは、日本語が読めてないだけだろ?
九章算術は、計算の練習問題
そこで第六章均輸の第一問がこれ
今有均輸粟:
甲縣一萬戶,行道八日;乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以道里遠近,戶數多少,衰出之。問粟、車各幾何?
答曰:
甲縣粟八萬三千一百斛,車三千三百二十四乘。乙縣粟六萬三千一百七十五斛,車二千五百二十七乘。
丙縣粟六萬三千一百七十五斛,車二千五百二十七乘。丁縣粟四萬五百五十斛,車一千六百二十二乘。
均輸術曰:
令縣戶數,各如其本行道日數而一,以為衰。
甲衰一百二十五,乙、丙衰各九十五,丁衰六十一,副并為法。以賦粟、車數乘未并者,各自為實。實如法得一車。
有分者,上下輩之。以二十五斛乘車數,即粟數。
4県の日数と、戸数が書いてあって、そこから
欲以道里遠近,戶數多少,衰出之
道里の遠近と戸数の多少をもって、衰これを出す(計算する)ことを欲す
道里の遠近と戸数の多少から、損耗分(衰)を計算して
平等(均)に賦を負担するにはどうしたらいいかという問題
ここで道里の遠近を示すものが日数しか表記されていない
日数が、そのまま道里なんだよ
説明が足りないのではなく、足りないのは理解力
そして、誤読ではないことは明白
>>202はただのクレーマーの戯言 どこにも飛躍はないだろ?
九章算術に見られるとおり、道里は日数表記も普通
投馬国、邪馬台国へは日数で道里が示されている
投馬国、邪馬台国までが、女王国以北の其戸數道里可得略載の国
投馬国を邪馬台国より南に置く説は、魏志倭人伝の記述に合わない どこがどう間違っているかを「根拠」を挙げて論じられない時点で
九州説の立場を取る人間の能力の限界が明らか
基本的に個人の感想レベルのことしか書いてないのが九州説の書き込みの常 >>212
投馬国へ行って、そこからさらに進むんだから何も問題はないだろう?
魏志倭人伝にはそう書いてある >>212
投馬国へ行って、そこからさらに進むんだから何も問題はないだろう?
魏志倭人伝にはそう書いてある >>216
読み違いというのが誤読
順次進んでいくように読んでいけばよいだけ
ついでに言えば、邪馬台国以遠の国も、邪馬台国の向こうという意味で順次読みでよい 帯方郡から邪馬台国(福岡)まで水行10日
帯方郡から投馬国(宮崎)まで水行20日 東南大海中なのに、南だけで至るという矛盾
投馬国は、戸数道里略載の女王国以北の国なのに、邪馬台国より南になる矛盾
陸行一月を完全に無視するインチキ
よって>>218は成立の予知なし 朝鮮半島の西岸を南に四千里、南岸を東に三千里、対馬海峡を南に三千里。
おおむね東南、または南南東。 帯方郡から投馬国(半島南部)まで水行20日
投馬国から邪馬台国(福岡)まで水行10日 半島南部まで7千里
そこから邪馬台国まで5千里
半島南部まで20日
そこから邪馬台国まで10日
合計すると12000里ですがな。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 北部九州倭国の倭人は鉄器でお肌ツルンツルン✨
それ以外の毛人は鉄器なしでムダ毛ぼうぼうですがな。 渡海千里が一律の値とか、実測値じゃないのは明白だし、萬二千里は
淮南子などの古典から引用した観念的な世界の果てまでの距離
実測値じゃないもので何かを語っても意味ないよ 逆だよ
短里説が否定されたら、その時点で九州説が即死するだけw 魏志倭人伝に、これは短里です、なんてどこにも書いてないだろww 地形からして、
唐津市〜糸島市の弥生時代における居住可能部分に、
末蘆国四千戸と伊都千戸があるわけだね。
末蘆は山海に沿ってるから内陸は考えなくていい。
四千戸対千戸=4対1
末蘆国というのは糸島市にかなり近い部分までを含めないと
四千戸が入らない。 >>230
>魏志倭人伝で対馬海峡は三千里。
実際に距離の異なる渡海がすべて一律で「千餘里」と書かれているのだから、
「計測不能」だったという証拠にしかならないだろうに 朝鮮半島側の出発点。末蘆側の到着点。が不明なのだから、
千里が確定する部分は壱岐対馬の間だけだよ。
>又渡一海 千余里 至末盧國
海を渡って、千余里で、末蘆国に到着する。
という文章だから、海峡渡海+唐津側での沿岸航海部分も含みうる。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 北部九州倭国が邪馬台国と狗奴国に分裂して戦う
北部九州の国土が荒廃する
当たり前のことだな
2世紀の倭国乱
3世紀の平原女王墓
4世紀の衰退
邪馬台国が統一して
5世紀以降の大繁栄 『東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國』
これもよくよく読んでみると、
東には、鉄器の無い毛人(毛を剃れないからムダ毛ぼうぼう)がいて、
五十五國を「軍事的に征服」した
西は衆夷、つまり大国主が配置した地方首長=夷=ヒナモリ卑奴母離だから、
もともと北部九州倭国の鉄器供給行政区分の中の話だから、
大勢の夷が「政治的に服従」した
ということであって、
考古学的にも文献史学的にも無理のない話なのだな >>236
>4世紀の衰退
キナイコシは伊都が衰退したと言っていたのを、最近では九州が衰退したと言い換える詐欺を働いているだけ。
実際には4世紀の九州は栄えている。
中心が伊都から筑後や小倉、筑豊などに分散して言っただけ。
記紀では景行天皇や神功皇后がいた時代が4世紀なので、九州については話題は尽きない。
朝鮮半島へも盛んに軍事行動を起こすほど、余裕があった。
沖ノ島の祭祀が盛んとなるのもこの頃からだろう。 5世紀6世紀に大繁栄しとるからなあ
宮地嶽とかどう説明するんかのう 魏は新興国です
238年にようやく公孫氏を滅ぼしました
が、魏は265年には滅亡しました
よって
魏の尺度なんぞが東夷世界で使われた可能性は限りなくゼロ 壱岐対馬を方可で2倍換算したとして、
1万二千余里で到着するのは、伊都ではなく奴国。
楽浪土器の集積地である伊都
弥生時代ダントツの繁栄地である奴国
その奴国のほうを里程が示しているというのは 政治外交の中心も
経済産業の中心も
北部九州にあったということだ 伊都国と奴国は事実上は一体だろ。
当時の中国の都市のような城郭があったわけではないからね。
間に高祖山があっただけだ。 伊都に王がいたのは倭国乱の70-80年前からとあるからな。
その前は奴国側に王がいて中国から見た倭国中心とは奴国のことだったのだろう。
魏志倭人伝は北部九州説でほぼ解読されたが、あとは何か問題点があるかな。
個人的には青玉が翡翠かどうかだな。
九州にも翡翠産地はあるようだが、弥生時代の翡翠製品は基本的に糸魚川産だから、
産青玉を翡翠産地と考えるなら、倭国に新潟県も入れないといけなくなる。
魏使が伊都の玉造り工房を見て、てっきり九州で翡翠を産していると思い込んだとか。
あるいは製品としての【翡翠装飾品】ということであれば、九州で生産している、で合っているよね。 倭国大乱は桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)。
70〜80年遡ると、1世紀後半になる。
永初元年(107年)、倭国王帥升が後漢へ使者を送っているが、帥升が男王の一人であった可能性が高い。
57年の漢委奴国王印をもらったのも、ギリギリでこの年代となる。 考古学的に判明している弥生奴国の描写が全く無いんだから、
魏使は伊都までしか来ていないし、伊都が最終目的地だったわけだよね。
それにもかかわらず不弥國までの道里が記されている。
夷人は里を知らないと明記しているのだから、誰かが測定したわけで、
つまりは漢使。漢代の楽浪郡吏が実測していたわけだね。
だから行程表の数値は全て漢代の実測であり、
これが漢代の楽浪郡における測定技術力ということになる。 伊都よりも逆に手前については、
壱岐一大國は経由していることが確実なわけだけど、
原の辻遺跡に、船着場、卜占、三重環濠集落、が見つかっている。
魏使は原の辻に立ち寄っていたことが確実にもかかわらず、
三重環濠のことが書かれていないということは、
三重環濠集落は魏使にとって驚きの対象ではなかった、ということを意味しているね。
日本人にとっては、弥生時代に大規模環濠集落があった、ということで驚きだけど、
三国志動乱時代の大陸文物を目にしてきた魏使にとっては、なんとも思わなかった、ということになる。
原の辻の三重環濠集落が特記されていない、という事実は、邪馬台国論争で重要なファクター。 末蘆國についても奇妙な点がある。
海岸線にへばりつくように住んでいるとの記載があるので、
末蘆國は海沿いであり、内陸の山間集落や平野部などは含まない。
当時の末蘆国は、壱岐対馬への玄関口にあたり、
菜畑遺跡以来ずっと栄え続け、桜馬場などの地域王も擁した弥生の先進地域。
集落部分はそれなりに発展していたことが考古学的にわかっている。
にもかかわらず、前の人が見えないほど草木が茂った道などと書かれている。
ということは、末蘆国の中心地である唐津市を歩いていないことが明らか。
末蘆国で上陸して伊都に入っているのだから、
末蘆国の上陸地点とは、
伊都より手前で、
伊都との間に、末蘆国の弥生遺跡のない部分であることになる。 >>247
>魏使は伊都までしか来ていないし、伊都が最終目的地だったわけだよね。
>それにもかかわらず不弥國までの道里が記されている。
少しだけ足を伸ばしたのでは? >>249
末盧国は唐津と糸島の間ということでしょう。 魏史が奴国に足を踏み入れていれば、
工房群のことが必ず記録されていただろうし、
半島系集落とか本州からの人々の風俗とかも記録されていただろうね。
考古学的に判明している奴国の情報が皆無なので、魏史は伊都までしか来ていない。
一方で楽浪郡史は長期間伊都に滞在したことが考古学的に確定している。
魏使は伊都までしか来ておらず、夷人は里を知らないのだから、
不弥国までの距離を測定したのは、楽浪郡史であることが確定する。
漢委奴国王金印が奴国側で出土しているから漢本国の漢史も奴国まで来たかもしれないが、
考古学的には常駐の跡は残っておらず、魏史のように数回もしくは金印授与時1回の来倭だろう。
東夷伝世界の全てが東夷伝里で統一記載されており、楽浪郡では東夷伝里が使用されていたわけだ。
楽浪郡があるまさにその場所の、朝鮮半島の横幅四千里を基準数値として解析するのが正しく、
約200kmが四千里だから、東夷伝里の1里は50メートルである。
魏史は伊都が目的地だったから、現地報告は伊都までしか無い。
一方の楽浪郡史は不弥国までの距離を測定している。
最大都市である奴国まででなく、その先の不弥国までの距離が記されているということは、
漢代の倭国最高権力者が不弥国で政務を執り行っていたことを強く示唆する。
考古学的な裏付けは必要だが。 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。 魏志倭人伝によると、いわゆる糸島の伊都に王が存在するのは、
倭国乱の70-80年前から、とある。
これは見つかった王墓が三雲南小路以降であることとも合致する。
だから楽浪郡史が距離を測定したのは、それよりも前、1世紀前半であろう。
楽浪郡史が居住する場所の里が最も正確なのはそうだが、
朝鮮半島の横幅は楽浪郡が所在する場所では細くなっており200kmであるが、
四千里というのは帯方郡よりさらに南の韓人居住部分の横幅であり、
少し太くなって270kmほどある。
よって270÷4=67.5
短里は約68メートルというのが、現在求められる最も正確な数値だろうな。 それと対海國だが、これは國であって島ではないぞ。
対馬の行政区画は今でこそ対馬市一つになっているが、もともとは上県と下県に分かれていた。
対海國が方可四百里というのは、対馬島全部のことではなく、
対馬島にあった2つの國のうち、上県か下県のどちらか片方に相当する、
対海國のことだ。
形状ならびに現代の実測値と比べれば、対海國も一大國も多少はずれるが、
1世紀の楽浪郡史が測定した数値ということを考えれば十分に東夷伝里で成り立つ。
有効数字一桁であれば尚更正確であると言える。
>>249とも関係するが、
壱岐から出発して東松浦半島に到着し、沿岸航海して末蘆国のどこかに上陸する。
その航海経路の全距離が東夷伝里の千里。
陸路として福岡県道49号線に続くわけだ。 倭国乱は桓霊の間=桓帝と霊帝の時代146年 - 189年とあるから、
倭国乱の開始は146年以降。
だから伊都に男王がいたのは146-80=66年以降。
単純な話で、57年の委奴国王がいたのは糸島市の伊都ではないことになる。
よって、漢代の楽浪郡史が漢代倭地の地理を実測したのは、
57年金印授与時に漢本国へ詳細な行程を報告するのが目的であり、
その行程報告をもとに、漢使の出張費が計上されたわけだ。
現代の外交官の出張と同じこと。
だから里程の最終報告書があがったのは57年より少し前の55-56年頃であり、
その時の委奴国王の王宮は不弥国にあった可能性が高い。 対馬海峡渡海の部分から、方角が全て45度ずつずれている。
夏至の太陽位置の関係だと思われるが、それはまた別の機会に論じるとして、
45度のずれをそのまま受け入れて進んで不弥国の位置を探してみる。
考古学的に、糸島市手前すぐで上陸して
福岡県道49号線沿いに東南(だから現代地図では東)へ三百里=68×0.3=20kmで、
紀元前から宮殿や王墓のあった吉武高木遺跡がある。
これが漢代の伊都。で、66-76年頃に糸島の伊都へ遷都した。
何百年か建替え続けられた吉武宮殿は、丁度その頃までで終了する。
もしくは、
もともと伊都というのは高祖山を中心とした、早良平野+糸島平野を含む地域だったのだろう。
内陸国の幅を含むのか、それとも国の中心地点同士の距離なのか、が不明なので、
そこから先は同じ検討はできない。
だが、漢代伊都から奴国までと、奴国から不弥国までは、同じ百里であり、
伊都奴国間と奴国不弥国間は「等間隔」である、という条件は確定される。
吉武高木遺跡→東南(だから現実地図では東)へ百里=68×0.1=6.8km
実際には、吉武高木遺跡から東へ11kmほどで須久遺跡群なので、
考古学的にはここが里程の示す奴国となる。
里程伊都(吉武高木)→奴国(須久)が東へ11kmなのだから、
奴国(須久)→東(だから現実地図では北東)へ同じく11kmに不弥国があったことがわかる。
宇美町か須恵町あたりとなる。
志賀島とも陸路で近い。 吉武遺跡にずっと宮殿があったのだから、
クニグニに王がいたとはいえ、吉武宮殿は特別な場所で、
倭国全体の政治は吉武宮殿に王達が集まって決めていたのだろう。
後のヤマト政権ですらあちこち都を移したり、
御所となると各代でちがったりするのだから、
倭国も宮殿は吉武宮殿でも、大王の王宮あるいは
関白将軍のようなその時々の最高実力者の居館は時代ごとに別の場所にあったわけだ。
漢から見た倭人関係の最大イベントが金印授与であり、
漢代の楽浪郡史が必死こいてまとめた報告書は
金印授与の漢使が出張するための地図里程であり、
それが伊都はおろか奴国すら通過して不弥国まで至っているということは、
57年に金印を手にした委奴国王がそこにいたからであろう。
それが吉武宮殿の代々の大王なのか、
それともその時に権力を持っていた関白や将軍だったのか。
なぜそれまで朝貢などしていなかったのに、急に金印授与を求めたのか。
なぜ委奴国が登場するのは一瞬だけで、
107年には倭国になっており、金印も貰わなかったのか。 >>257
>もともと伊都というのは高祖山を中心とした、早良平野+糸島平野を含む地域だったのだろう。
これが筑紫の日向であり、高祖山の西麓に新たに建てられた宮が高千穂宮だろう。
そして日向三代と卑弥呼がそこを王宮とした。
不弥国の意味はよくわからないけどね。 >>258
>107年には倭国になっており、金印も貰わなかったのか。
金印はおそらく漢代はずっと倭王の証として使われ、魏になって改めて卑弥呼に金印が与えられたのだろう。
漢代の金印は伊都の細石神社に保管されていたというから、2世紀になっても国璽として使われていたのだろう。 一)考古学的に判明している弥生奴国の描写が無いから魏使は奴国に行ってない。
二)魏使は伊都までで、しかも倭人は里を知らないのに、
不弥国までの里程を歴史学者の陳寿が採用していることから、信頼できる里程情報供給者は漢代の楽浪郡官吏の可能性が高い。
考古学的にも楽浪土器の裏付けあり。
三)考古学的に判明している弥生唐津は十分に発展しているのに、魏使は藪の中を進んでいるので、
末蘆國の上陸地点は唐津よりも東であり、かつ末蘆國の他の集落も通っていない。
つまり伊都にかなり近い地点で上陸している。
四)東夷伝里の最も正確な値は、楽浪郡に最も近い、韓人エリア部分における朝鮮半島の横幅。
270km=四千里、東夷伝里=67.5m、が最も正確。 有効数字一桁だから、四千里=3500〜4400として、1里=77.1〜61.4メートルの幅ができるね。 朝鮮半島の横幅は260kmを採用して、260÷4千里で、東夷伝里=65m、
のほうが計算しやすい。
その場合、末蘆国上陸地点から伊都までは、65m×500=32.5kmとなる。
要するに、
『親魏倭王』金印を届けた
魏使は、20日+10日で、筑前深江駅の辺りに上陸し、
その日のうちに魏代伊都の三雲南小路に入った。
『漢委奴国王』金印を届けた
漢使は、7千里+4千4百里で、鹿家駅の辺りに上陸し、
日向峠を越えて5百里歩いて早良区の漢代伊都、
平地を百里で最大都市の奴国、
そして平地を百里で不弥国にあった漢代有力者の居館に着いたわけだ。
楽浪人の居住区は三雲南小路にあって、本国の漢使が来るにあたって、
倭国の許可を得て東夷伝里での里程を測定させてもらった。 漢代伊都が高祖山の東側だったとすれば、峠越えになる。
弥生時代に峠を越えての直線距離の測定はまず不可能だっただろうから、
伊都までの五百里は道路距離なんだろう。
だとすれば、
末蘆国上陸地点→漢代伊都の道路距離は、峠越え
伊都→奴国、奴国→不弥国の道路距離は、都会の平地
なのだから、地図上での直線距離は峠越えの部分は短くなる。 末蘆國の県庁所在地は唐津。
海沿いの集落群。
西はどこまでかわからないが、已百支國の県庁所在地は伊万里だと思われるので、
東松浦半島のどこかで已百支國と接するのだろう。
東は深江くらいまでで、そのギリギリのところに魏使は上陸した。
前原まで東に行くと伊都だね。 漢代の唐津は栄えていたし、地域王がいたから、
漢使が来たら立ち寄って接待を受けたんだろうね。
柏崎遺跡の頃だろうか。
その時に貰った漢鏡などが伝世して唐津王墓から出土してるんだろう。
楽浪土器はあまり出ないから、楽浪郡使は素通りしてたみたいだけど。
倭国乱の時にいろいろあったみたいで、
桜馬場までで唐津の王墓は途絶える。
だから魏使が来た時は唐津に有力者はいなくて立ち寄る必要が無いから、
船は唐津を素通りして魏代伊都に近い深江の辺りで上陸したのだろう。
一大國の原の辻遺跡での一大率の入国管理の臨検は必須だから、
漢使も魏使も、たとえ形式上だけの検査で、実質は接待だったとしても、必ず立ち寄っただろう。 三雲の遺跡群が何にも比定できなくて宙ぶらりんになるのは、やはりおかしいのではないか。 三雲遺跡群は魏代の伊都中心部。
魏使は戦時に来たから距離測定する余裕は無く、
伊都に近い末蘆國東端で上陸して三雲へ陸行一日。
高祖宮の卑弥呼と外交。
里程を測定したのは漢代の在倭楽浪人。
測定した理由は金印漢使が来倭するから。
55年時漢代の伊都中心部は吉武遺跡群。
漢使は平時に来たから各地域王に饗応され、
対海國、一大國、で宴会。
そして唐津湾東端で末蘆國王による宴会。
陸路で漢代伊都中心の吉武へ入って宴会。
奴国で宴会。
そして不弥国が目的地。 問題は、
伊都(吉武遺跡)→奴国(須久遺跡)が百里なら、
奴国(須久遺跡)→不弥国も百里なので、
不弥国は那珂川の東部となる。
そのエリアは知る人ぞ知る、弥生の渡来人居住域。
吉武高木王が、金属製武器と博多湾水軍を東征王族将軍スサノオに指揮させて、
九頭竜川流域(頭部)の石剣部族ヤマタノオロチの
若狭湾(胴体)水軍を破り、
丹後半島(尾部)に扇谷遺跡を建設して、鉄製品を長期間量産した。
考古学的に吉武高木王は日本海沿岸を制覇していたわけだ。
それが紀元前2、3世紀の頃だから、57年には、
吉武高木王が日本海沿岸の覇者アマテラスとなって、200-300年が経過していたわけだ。
権威は確立している。
それが57年になって急に朝貢して金印を必要とする動機とは、
一つは、朝鮮半島に進出して、半島の異民族を従えるための権威が欲しかった、
というのがあったが、
漢使が金印を届けた委奴国王が不弥国にいたということになれば、
アマテラスの権威を上回りたい欲求を持つ渡来人有力者が出現した、
という可能性が浮上する。 アマテラスやニニギをどの年代に想定するかの問題だな。
三雲遺跡などに代表される伊都国の成立が天孫降臨なら、吉武高木遺跡はそれよりずっと昔になる。
>>270
>アマテラスの権威を上回りたい欲求を持つ渡来人有力者が出現した、
こんな人物の存在は記録されていない。 >>268
三雲遺跡群は伊都国でいいんだよ
それを否定する人は、全部トンデモと思っておけば間違いない 到と至だな。
到は、国の中心地点への到着。
至は、国の境界へ至る。入国。
日程はどちらも、至。
帯方郡から南に水行20日で、投馬国の境界に至って入国。
投馬国内での東への移動は無視して、
投馬国から南に水行10日で、邪馬台国に入国。
里程では、
まず七千里で、狗邪韓國に到着。だから狗邪韓國の大きさは無視。
対海國には至るだから、境界に至って入国しただけで、
対海國の大きさ分の四百×2は足さないといけない。
一大國も至るだから、同じく三百×2は足す。
末蘆國にも至る。末蘆國中心の唐津柏崎遺跡に到着したのではなく、
末蘆國に上陸(入国)したわけだ。
そこから五百里で、伊都に到着。これを吉武遺跡とする。
そこから百里で、奴國には至る。奴國との境界に至って奴國入国。
さらにそこから百里で、不弥國に至る。
完璧だな。
結果的には奴國の幅は百里=6.5km。
須久遺跡部分の県道49号線の、川と川の間が5kmだから考古学とも整合。 弥生時代に金印漢使が不弥国へ行くための「実用」行程の報告書なわけだ。
55年か56年に在倭の楽浪官吏が作成して漢本国へ送った報告書。
もちろん楽浪人か倭人の案内役はついていて、
漢使は、自分の行き先が本当に倭の不弥國であるかどうか、職務上確認するために、
あらかじめ実用行程を報告させておいたのだな。
現代人のように真北が上の広域地図を持って移動するのではなく、
大まかな距離と太陽方角だけを頼りに移動する。まだ羅針盤や方位磁針は無い。
だから、里程の陸上部分は、直線距離ではなく、道路距離。
峠道などがあると、その部分の里程は直線距離よりも長くなる。
方位磁針もないから、方角については、真北真南である必要はなく、
太陽の実方向だな。
梅雨時と台風シーズンを外すから、7月末に来倭した。
それはあらかじめ決まっているから、倭国現地で報告書を作成する楽浪官吏も
7月末の太陽方向を基準に報告書を作ったわけだ。
朝出発する時に進行方向を見定めるのだから、
夏至近くの朝の太陽を基準に方角を決めると、全ての出発時方向が真北真南からすると西へずれる。
だが、漢使が金印を持って来るのは「57年7月末」の1回だけなので、
それで楽浪官吏の仕事は達成されたわけだな。 魏代伊都が三雲遺跡群で確定。
女王墓は平原遺跡1号+2号の複合墓域。
漢代伊都の到着目標が吉武高木宮殿でピンポイントの確定。
吉武高木宮殿から東へ6.5km(5.9〜7.4の誤差範囲)で奴国。
そこから北東へ同距離進んだ場所にある弥生時代の大型建物が委奴國王の居館だ。
古代漢帝国の測定技術で記録され、陳寿が伝え残してくれたピンポイントの座標だ。
盛んに発掘されており、専門家なら建物候補はわかるだろうな。 全て中国史書からの情報だが仕方がない。
漢委奴国王は糸島の伊都にいなかった。
魏志倭人伝に残された金印漢使の出張記録によって、不弥國にいた。
だが、107年に朝貢したのは委奴国王ではなく、倭国王師升。
生口160人をドヤ顔で押しつけて、金印を貰わず引き揚げた。
新伊都男王は、三雲南小路に始まり、
新伊都女王の平原卑弥呼女王墓へと連続しているのだから、
日本中探しても卑弥呼のいた魏代伊都というのは三雲遺跡を中心とする糸島市しかない。
と、いうことは・・・
57年に晴れがましい金印授与を受けた、不弥國の委奴国王は、失脚したわけだ。
紀元前から数百年大王として君臨した吉武高木神<アマテラス。
それと本拠地を異とする不弥國王。
考古学的にごく短期間の、まさに一人の人間の一代限りの栄光。
葦原那珂津国。
そのような人物が記紀に残っている。 そのような人物は魏志倭人伝には残っていないが、
出自についての手がかりがある。
高句麗伝。
濊伝。
そして各地に残る積石墓。
失脚した老年の本人は記紀の通り。
だが、直系の濃い子孫は積石墓を残し、
倭国女性に産ませた子孫ははるか東国へ落ち延びて前方後方墳を残した。 弥生大都会の中にあって環濠で集落を囲い、沿海州民の如く家畜を飼っている。
木沓はまさか漢使の残していった置き土産か。
木の机は書斎の机。
弥生時代は木簡に墨書だから書き損じた時は鉄製刀子で削り取る。
その時に鉄製刀子が机にも当たるわけだ。 短里論争の時に注意が必要なのは、
道路距離と直線距離を区別する必要があるということ。
例えば、アメリカの真っすぐなハイウェイなら、
道路距離で10km進めば、直線距離でも10km進む。
だが、つづら折りの峠道だと、
道路距離で10km進んでも、直線距離では1kmも進まないことになる。
東夷伝里が65mというのは、行程の検討をしやすいように、
現代地図での直線距離に置き換えた便宜上の数値であって、
本来の絶対値はもっと大きいわけだ。
道路距離は直線距離に対して、平地だと1.1倍。峠道だと1.2倍以上になる。
弥生時代の道路事情にもよるが、
1.1倍とするなら、東夷伝里の絶対値は71.5m
1.2倍とするなら、東夷伝里の絶対値は78mとなる。
日向峠を越えての百里と、福岡平野での百里は、道路距離は同じ百里でも、
地図上での直線距離は前者が短くなる。 奴國を弥生銀座だけに限定するから、手前百里にあるめぼしい遺跡は吉武遺跡しかないが、
奴國が福岡市全体だとすると、素直に三雲遺跡が伊都でそこから百里で奴國となる。
奴國は二万戸もあるんだからそれくらい広いのではないか。
魏使は唐津を通っていないという縛りがあるが、
楽浪人はその縛りが無いのだから、末蘆の起点が唐津でも構わないわけだ。
なにも57年までさかのぼらなくても、2世紀くらいに測定したのだとすれば、
壱岐から素直に唐津へ渡海+沿岸航海で千里。
唐津から伊都中心の三雲までで五百里となる。
末蘆から伊都への進行方向が若干北東にずれすぎるが。 一つに、三国志東夷伝においては、それぞれの民族の小国名が列挙されているが、
小国への里程と戸数、官名まで書かれているのは、倭人伝のみ。
楽浪官吏が命令されていたにせよ自発的意思にせよ、
小国の情報まで報告するのなら、楽浪郡に近いほど調査活動しやすいわけだが、
最も遠い、しかも海を隔てた倭人伝のみが詳しく書かれている。
三国志東夷伝全体を通してみた場合、倭人伝のみが特別扱いされている。
そして当時において、倭人のみが特別に扱われた件とは、金印授与。
金印魏使は伊都までしか来ていないのだから、
不弥国までの里程を必要としたのは金印漢使となる。
二つに、倭人領において楽浪官吏が里程を測定する場合、
考古学的に楽浪官吏は伊都三雲遺跡を主な滞在地にしていたと判明しているわけだから、
里程を調べるのに東西の末蘆国や奴国を調べるのは当然として、
ならば伊都国の北にある国(斯馬國)や南にある国が次の候補となろう。
さらに奴国を起点に考えるなら、
伊都の次の奴国を調べる動機は栄えているからであろうから、
同じ理由でもって、次に調べるのは栄えている場所であり、
それは考古学的に甕棺ロードとして連続していて、河川でも繋がっている、
奴国南方の国々へと調査の目を向けるのが普通。
東方の渡来人地域の千戸ほどの小国を奴国の次に調べるのはおかしい。
楽浪郡からやってくる楽浪官吏にとっての交通の便を考えるなら、
対馬海峡から末蘆国へ入って、西隣り(巳百支国)を調べるほうがたやすい。
よって、伊都をも通過して、
不弥国まで真っすぐの里程が記されているのは、
金印漢使が不弥国を目標としていたからである可能性が高いわけだ。 陳寿の手元にある資料は、
@金印漢使のために作成された、「漢代不弥国」までの里程。戸数、官(王)名。
A魏使の報告書に記載された、「魏代伊都」までの日数、戸数、官名。
見聞録の部分は、
@は魏略に残る。漢使が見た光景。
Aは魏志倭人伝から魏略を引いた部分。魏使が見た光景。どちらも夏。
@57年とA239年で、200年ほどの歳月が流れている。
@の時代は、里程のそのまま。
漢代伊都中心部は末蘆から五百里の早良平野吉武遺跡にあり、伊都全体で一万戸。
福岡平野に奴国二万戸あり。その北東に不弥国。
Aの時代は、北部九州は統一国家邪馬台国。
その中に昔の地名として、対海国、一大国、末蘆国、が残っている。官名などは微妙に変化。
伊都は1世紀後半に三雲遺跡を中心とする魏代伊都へ遷都しており、千戸。
伊都までは魏使が訪れたから情報更新。
伊都より東については魏使が行ってないのだから情報の更新無し。
旧伊都が早良、旧奴国が那の津、などになっていたかもしれないし、
旧伊都と旧奴国合わせてまるごと博多にでもなっていたかもしれない。
不明。
里程についても、魏使は戦時で里測定などしていないから、更新なし。
だから、魏使は末蘆東端で上陸して三雲の魏代伊都へ直行したにもかかわらず、
末蘆伊都間が五百里のまま。陳寿も変えようがない。 現代の我々は正確な地図と、考古学資料を突き合わせるから、
あれこれ検討できるが、
陳寿には@Aの文字資料しかないのだから、
里程と日程については何の疑問も沸かなかっただろう。
陳寿にとっては、吉武宮殿=高祖宮と考えても何の矛盾もないわけだからな。
伊都一万戸が千戸になったのも、倭国乱があったから、ですむ話。
洛陽など灰燼と化したのだからな。 細かい部分は疑問だらけだが、倭がどこかで倭奴国と奴国、伊都国のすり替えをしたことは確かだ。 魏略では伊都までなのに『自帯方至女国万二千余里』と書かれているからね。
伊都から帯方に帰った梯儁の話だとそこまでしか必要なかったわけだな。
A型気質の陳寿は我慢ならずに原典全てを復活させてしまったんだろうw 木簡に書ける文字はだいたい10文字前後。
外交文書のような長文を作成する際には、
全体を眺めて文章のバランスを推敲しなくてはならない。
紙なら広げた一枚に全て書きこむが、
木簡の場合は10文字ずつだから、木簡を何本も並べて推敲する必要がある。
例えば魏帝が卑弥呼に宛てた外交文書が255字。
全文を眺めて推敲するには木簡25本をずらっと並べることになる。
小さい机に硯と筆。
大きな机に木簡をずらりと並べる。
右上の木簡一つを手に取り、それを小さい机に置いて書きこむ。
書き終わったら大きい机の右上に戻す。
次々に小さい机に置いては書き、書き終わると大きい机に戻していくが、
途中で書き間違いに気づいたり、校正したりする時は、
大きい机のその場所で鉄製刀子でシャッシャと削りとって消すわけだ。
その時に刀子が大きい机の表面にぶつかって刀キズがつく。
つまり大きい机の上にまんべんなく刀子のキズがついているということは、
木簡長文をそれだけ何通も書いたということである。
硯や甕棺墓の分布から、1世紀に文字を使う貴族が住んでいたのは福岡県北部だけなのだから、
倭人貴族同士で連絡する場合、苦労して木簡長文をやり取りするくらいなら、
直接会うなり、使者を送って口頭で伝達させるほうが早い。
だから1世紀に木簡長文を何度もやりとりした机ということは
非常に高い確率で漢委奴国王金印の関わる外交文書を漢の光武帝とやり取りした時のものである
ということになる。
大きな机の年輪年代はいずれも1世紀であり、誤差を考えると国宝金印と関連する可能性が非常に高いことになる。 小さな土壙が多数あるのは、木簡を削った際に出る木屑を埋めて捨てるため。
燃やして燃料にでもしたいところだが、
木屑を燃やすと飛んでいって火事になるから危ない。
しょうがないから下男下女に土壙を掘らせて、定期的に捨てさせていたのだろう。
長文の外交文書を何度もやり取りしていたから、大きな机には刀子のキズがいっぱいつくし、
木屑を捨てる土壙もいっぱい必要だったわけだ。
委奴国から漢へ送られた外交文書については、
土壙内の成分が木性なら木簡、竹性なら竹簡だったことになる。
墨の成分など検出できたら面白いのだがな。さすがに腐っているか。
奇跡的に残っている木薄片があればX線でみれば書き損じて削り取られた文字が残っているかもしれん。
硯についても無いと思って発掘したから見つからなかったのが、
伊都三雲で見つかって、有るんじゃないかと思って調べ直したら次々見つかったわけで、
「封泥」についても、無いと思って発掘したから見つかってないだけで、
有るんじゃないかと思って調べ直したら、既に見つかっているのかもしれん。
大事に取っておいたとしたら、家財道具に紛れて見つけにくいが、
洪水で流されたようだから、机の周囲の土の中に埋まってるかもしれん。
封を開けたらもう用済みとして捨ててくれていたら、土壙の中にある。 ラノベ作家にでもなればいいのに
有り余る妄想力が人の役に立つかもよ >>287
>硯や甕棺墓の分布から、1世紀に文字を使う貴族が住んでいたのは福岡県北部だけなのだから、
>非常に高い確率で漢委奴国王金印の関わる外交文書を漢の光武帝とやり取りした時のものである
3世紀においても事情はかわらない。
倭国が3世紀までに畿内に遷都したという証拠もない。
魏との交渉を成し得た勢力は九州北部にしかない。 伊勢二所皇太神御鎮座伝記の、神鏡座事によると
一名日像八咫鏡是也。八咫。古語八頭也。八頭花崎八葉形也。故名八咫也。
中䑓圓鏡形座也。圓外日天八座。
ということだから、大きいから八咫鏡だとか、
内行花文鏡の八連弧が八咫だとかいうのはまちがい
八咫。古語「八頭」也。「八頭花崎八葉形」也。故名八咫也。 >>291
文様の事でしょ?
頭花崎は先端を意味するし、八葉はそのままだし
籠神社の鏡が内行花文鏡と判明した事も大きいね 八葉は蓮華のことだと指摘されても現実を受け入れることができない伊都クズ "形"は文様を意味するとしてもおかしくないよ?
様相を表しているともとれるからね
冷静に考えれば、籠神社の鏡と同時期の鏡にその形式の鏡の出土はあるか?で考察してみたらいいと思うが 伊都国の王墓はどれも内行花文鏡がザクザク
畿内にその一派が流れていって土着したのは間違いなく、それが十種の神宝の持ち主である饒速日であり、その末裔が古代のヤマト王権で権勢を振るった物部氏とされている。
そこに後から神武が合流したとされている。
籠神社の鏡は前漢鏡と後漢鏡なので、実は神武の実年代は伊都国が成立した後の倭国大乱の頃なんだよ。
神武と卑弥呼は実年代が被っている。
しかし大和に落ち延びた神武は中国と交渉した記録がない。
中国と交渉した卑弥呼は倭国の王都である伊都に居たんだよ。 卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。
倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。
有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。
しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。
その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。
敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。
これが、リアルな2世紀末の歴史。 有明海側の王家と思っているものは
委奴国王家の子孫だよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 仏教伝来後のバイアスがかかった情報だな。あてにはならないってことだ。
それでも最後のは内行花文鏡の影響が伺えると言えなくもない。 >>302
>伺えると言えなくもない。
九州説のご都合バイアスがかかってなお
「伺えると言えなくもない。」ww
無関係ってことだなww >>303
いつもそれ出すけどさぁ、
鏡の八葉座の部分にそっくりなんだけどね
八葉の形(様相)だったらそのまんま >>301
その注釈自体がはるか後世の誤解による情報の可能性がある。
なぜならそのままの語義と解釈が一致していないからだ。
当時は八咫の大きさの鏡の存在そのものが確認されていなかった。 >>304
>鏡の八葉座の部分にそっくりなんだけどね
八連弧が八葉座に見えるなら目がおかしいぞ >>307
見えるよな?
逆にやっぱりそうじゃん、の部類だと思うがね 葉っぱの形が8枚。
つまみは頭が八つ。
八咫の鏡は「八頭花崎八葉形」
平原遺跡の鏡だな。
葉っぱのような円弧がある内行花文鏡でも、鈕座が8つあるのは平原遺跡の超大型内行花文鏡だけの特徴。 仏教伝来前の鏡に仏教用語を当てはめてもねえ。
その説明には無理がある。 八頭花崎八葉形っていつ書かれたと思ってるの?
ひょっとしてバカ? >>305
>当時は八咫の大きさの鏡の存在
八咫の大きさの鏡なんてどこにもないんだよww >>313
平原遺跡出土の大型連弧文鏡があるやんけマヌケ >>312
>八頭花崎八葉形っていつ書かれたと思ってるの?
いつか書かれたかは関係ないだろ。
平原の鏡と同じものを見て書かれたことは確実。
他に八頭の鏡なんて見つかっていないのだから。 >>315
弥生の鏡なんだから仏教は関係ないとか
アホなこと抜かしてただけはあるな
>いつ書かれたかは関係ないだろ >>318
八頭花崎八葉形と書いた人物がバリバリに仏教の影響下にあるわけだが 伊都クズの主張
平原の鏡は八咫鏡だ!
理由1 円周の長さが8咫だ!
実際 漢籍の用例検証で完全論破w
理由2 御鎮座記の記述と一致する!
実際 時代背景による用語の吟味もせず結論ありき
平原鏡は八咫鏡だ→御鎮座記とあってる→平原鏡は八咫鏡だ
とループ
ただのキチガイですな 歴史のことなのに
いつのことであるかどうかなんて関係ない
と言ってしまう伊都クズの思考はイミフだよな 伊都クなんとかさんが歴史学ってものを全く理解してないことは明白だな 伊勢神宮にある鏡と宮中にある鏡は形や文様はやっぱ違うの? 三種の神器のうち神鏡は宮中三殿の賢所の神体であるため、この儀式では動かない。 この間、伊勢まで取りに行ったんじゃないの?
思い違い? 明治天皇は伊勢神宮にある鏡を見てどうして以後見るなと言ったの? 伊勢神宮にいくと清々しい感じになるのだけれど、あれは八咫の鏡から発せられるものなのだろか? 伊勢はないと思う。
皇居の方のは、平氏とかが持ち出していたね。 >>351
森林浴以上の雰囲気は本当に感じられるんだよなぁ >>355
川崎の重度統合失調症症患者「松傾」は日暮れ前に首を吊れ
前から何度も何度も繰り返し繰り返し死ねと命令されているだろう?
むしろ松傾へのレスは「首を吊って死ね」以外にないではないか
なぜ素直に命令をを聞いて死ぬことができないのか・・・
いくら無能な統合失調症症患者とは言え、日本語くらい読めるのだろう?
これだけ多くの者達に望まれているのだから
さっさとセルフ絞首刑を実行しろ 伊都チョンも泡チョンも無能ヒトモドキも松傾も高天チョンも琉チョンも
普段は他の在日チョンコ同様日本人のフリして暮らしてるはず
何故か?
それはチョンコであることが恥ずかしいからに他ならない
そして日本人のルーツにチョンコが無関係だと理解してるからに他ならない
自ら恥ずかしい存在だという自覚があり
何一つ自信を持つことが出来ない惨めさから
朝鮮起源説や反日活動で精神勝利するしかない
チョンコとはそういう存在
:_ ..、 ..__ 、___
_jllll′ ョ- 4il||l "lll'、 ‐ 、 _..-''lllliin 、 _ `''||ゞ'
,ョ广 ゙廴_j=冖゙゙'ll'、 .llll′ `||li '''l 、 ,j广 l|! "ll'、 、 __ョ=ョ 、 ,,_、 、 ..,,_
、l|′ :、_uil||l' _ __'||l |lll′ lll _. |ll'、:lll′ _lll′ lllll ゙'il|l′ "lll| ゙llll| l||l l||l′
'llL_ "'´ |ll、゙゙''冖′ lll 、 llll 〃 ..ulll!' ‖ ,jlll′ _|lll′ ||l ゙llll ./゙l||| l||′
゙l||li、 |ll、 'll'、 ,__〃 ゙||lli ゙゙ 'l|l'′ ,,._lll′ ,,lll′ .|lll’ `'l|||′
`il|l' il|l `'ill||lll''~ ~~ ` -‐'~~ ..l广 .`'' ゙''′
; ∧,_∧: 悔しいニダァァアーーッ!!!
:<;l|l;`田´>;
;(6 9):
:ム__)__) >>358
神秘のチカラだろ
そういう雰囲気があったからこそ聖地となり、伊勢が留まったのだろうよ やっぱ大型のほうは下賜された内行花文鏡を溶かして作ったんかな? 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹いて
様々なスレを逃げ回り、あらためて妄想を書きなぐる 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹いて
様々なスレを逃げ回り、あらためて妄想を書きなぐる _人人人人人人人人人人人人人人人_
> チョンコロがいるぞ殺せ!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
倭人
三 ( ´・ω)
三 ー(‐∪─→
三 / ̄ ̄ ̄ 》  ̄\
三三 | ナウマン象U ・ | 死にたくないニダ!!!
三 と| ι| | 三┏<;`Д´ >┛
三 /_∧∨ ̄ ̄/_∧U 三 ┛ ┓ | []_]∧∧
| | |/ 支\
| ( `ハ´) < 餌の時間アル
| ヽ( つと)
|ブリ || (ヽ ) ) ( ̄◎
| ブリッ )し'し' |~~~|
| ⊆=⊇  ̄゛
 ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄
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ホルホルホル ♪ ̄ ̄ ̄; :  ̄ ̄|
|. ∧_,,∧ .人. |
| <ヽ`∀´> (__) .....|
|:::(つ= ) \ /:::::::|
__∧___ ̄
待ちわびたニダ♪ 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン、海人族スレでは摂津チョンコ
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹き、様々なスレを逃げ回る
そして突如として別キャラでネチネチと書き殴ることも少なくない
しばらくすると記憶喪失を発動させて懲りずに妄想を書きなぐるが、読解力に乏しく、
また思考に一貫性がないのでアルツハイマーの可能性が高い 世界最大の銅鏡と
日田の金銀鉄鏡だと
どちらがすごかっの? 考古すると邪馬台国女王卑弥呼の鏡と南の狗奴国男王卑弥弓呼の鏡
八咫を重視するか鉄鏡を重視するか まあ、その両者が覇権を争っていたということでいいのではないか。
魏王の鏡を狗奴国が獲得したので、邪馬台国側は八咫鏡で対抗したとも考えられる。 径2尺周8咫の鏡だから「八咫鏡」
これほどわかりやすい説明があるだろうか。 貴族が土器を作らんわなあw
大型内行花文鏡が畿内に進出して巨大古墳を作ってる時点で、
九州からの神武東征で確定 しかも今のところ見つかっている畿内の大型内行花文鏡はいずれも、平原の鏡よりわずかに小さく作られているんですよ。
彼らは平原の鏡のことを知っていて、それよりも大きい鏡を作ったりしないように気をつけていたのかもしれませんね。 北部九州倭国から鏡や鉄器を貰って、
お返しに生口を送る(土器)
御恩と奉公、いや租税と賦役 貴族が土器を作らんわなあw
大型内行花文鏡が畿内に進出して巨大古墳を作ってる時点で、
九州からの神武東征で確定 >>386
そうだろうねえ。
時代も場所もピッタリだから。 平原女王よりちょっと前の時代の赤坂今井墳墓にも女王がいるのだが、
平原の伊都と、赤坂今井の丹後のどちらにも、
鉄器やガラス製品が豊富に出土するんだよね。
貴重な鉄器や、女王の好むガラス製品をお互いに融通して仲が良かった。
なのに平原遺跡だけ大量の銅鏡があって、赤坂今井墳墓には銅鏡がない。
これも平原遺跡が卑弥呼女王墓であって、
平原遺跡の大量の方格規矩鏡が魏から貰ったものであるからに他ならないね。
超大型内行花文鏡は魏から貰った方格規矩鏡を溶かして作った。
でないと、方格規矩鏡が国産なのだったら、鉄器やガラス製品と同じく、
赤坂今井墳墓にも方格規矩鏡が流通していたはずだ。
国産で長いあいだ作りつづけていたのではなく、
赤坂今井女王が亡くなった後で、平原卑弥呼女王の亡くなる数年前に、
魏から大量に貰った、ということ。
方格規矩鏡が伊都から出してはいけない門外不出だったかというとそうではなく、
青龍三年銘のは太田南古墳から出土しているので、
方格規矩鏡を一旦入手したら、丹後にもお裾分けしていた証拠が残っている。 対馬海峡
↓
伊都<魏使滞在>→日本海沿岸→丹後<鉄器・ガラス>
↓
北部九州<鉄器>
伊都が首都ですな。 ウジ虫脳の糸チヨンコや在日脳のキナチヨンコでも理解できる伊都国の正体
統属(読み)トウゾク
統制のもとに属すること。
統属とある以上、
伊都国は王も官も民も全てが
女王国の統制のもとに属する国あるいは植民地
倭人伝全体を読めば首都である可能性はゼロである。
妄想でしか語れない糸チヨンコやキナチヨンコは無能だから
これに一切の反論ができない=いつもの完敗が確定しただけのこと。
伊都国は女王国の植民地だというのが確定したのでこのスレは終了。 女王国は女王に統属するか否か?
いい加減に答えろよ。 郷土愛に狂う糸 チヨンコを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、民族願望の塊であるキナチヨンコや泡チンコがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
無論だが、女王国は「九州」であり、平原古墳が卑弥呼の冢である可能性は低くない。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 >>388
長杉
もっと短くても意味は通じる。
平原遺跡の卑弥呼女王と赤坂今井墳墓女王は仲良しで、
鉄器やガラス製品をやり取りしていた。
なのに赤坂今井墳墓には銅鏡がない。
平原遺跡の大量の方格規矩鏡は卑弥呼の晩年に魏から一括して貰ったものだから。 >>391
世有王 皆統屬女王國
伊都国には魏の時代には王が居た、倭の国々はみな女王国に統属していた
女王国に倭の国々は統属し、女王国は女王の治める中心地であった。 >南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一日
(投馬國から)南へ進んで、(北部九州広域国家の)邪馬台国へ至る。
(北部九州邪馬台国の中での)女王卑弥呼が都としている伊都國までは、
(投馬國から)水行十日と陸行一日かかる。
(対馬海峡渡海と、末蘆國上陸して伊都國までの徒歩)
(古代は墨書なので転写間違い、二十日→十日→一日)
伊都が首都である。 郷土愛に狂う糸 チヨンコを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、民族願望の塊であるキナチヨンコや泡チンコがいくら声高に駄々をこねようとも、
伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
無論だが、女王国は「九州」であり、平原古墳が卑弥呼の冢である可能性は低くない。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 .
ウジ虫脳の糸チヨンコや在日脳のキナチヨンコでも理解できる伊都国の正体
統属(読み)トウゾク
統制のもとに属すること。
統属とある以上、
伊都国は王も官も民も全てが
女王国の統制のもとに属する国あるいは植民地
倭人伝全体を読めば首都である可能性はゼロである。
妄想でしか語れない糸チヨンコやキナチヨンコは無能だから
これに一切の反論ができない=いつもの完敗が確定しただけのこと。
. .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. >>388
長杉
もっと短くても意味は通じる。
平原遺跡の卑弥呼女王と赤坂今井墳墓女王は仲良しで、
鉄器やガラス製品をやり取りしていた。
なのに赤坂今井墳墓には銅鏡がない。
平原遺跡の大量の方格規矩鏡は卑弥呼の晩年に魏から一括して貰ったものだから。 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と双つの直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
釜が伝わったのは古墳期の5C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>405
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、朝鮮ヒトモドキどもは
通称「松菊里型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に
「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが愚の骨頂です
松菊里遺跡は1975年に発見され、1977年に命名されました
板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の研究者が先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
松菊里遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです
松菊里に水田遺構は発見されておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にある麻田里(マジョンニ)遺跡の「紀元前300年」です
朝鮮ヒトモドキどもは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、炭素年代測定を意図的に行わず隣国からの共同研究を頑なに拒んだ上に理由もなく埋め戻すという隠蔽工作を行いました
韓国では玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為として、すでに歴史学の恥部となっています
しかも松菊里型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明し、証拠として北緯36度線より北にあるにもかかわらず炉の形跡がない、一柱支から三柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキどもを指導し支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは日本人特有と言えるY染色体O2b1で朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます >>401
長杉。
平原遺跡卑弥呼女王と赤坂今井墳墓女王は鉄器やガラス製品をやり取りしていた、
のに赤坂今井墳墓には銅鏡がない。
平原遺跡の方格規矩鏡は卑弥呼晩年に魏から一括して貰ったものだから。 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約5500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
アー タノシーデスネー 7000年前の江南の河姆渡遺跡の釜と竈(=火へんに土)と甑!wwww
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
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| |r┬-| | / < 反日洗脳に侵された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキwww
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(___) / Intcal20で俄然盛り上がって来たね。
双方ヒートアップして楽しい。
けどこれで平原遺跡は年代的に卑弥呼の母とか言われてきたのが
一気に主役に躍り出るね。 これまで平原の信頼できる年代推定は行われていない。 【平原遺跡の年代について】
・平原の管玉と同類のものは、日本からは出土せず、
韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から多量に出土していて、
時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から四世紀と考えられている
・耳璫も晋代(265 – 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、
漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から出土したものと同型である。
結論
平原遺跡は3世紀中頃、卑弥呼の没年の前後に作られた王墓であり、
被葬者は女性であることから、卑弥呼の墓である可能性が高い。 ∩_
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| |r┬-| | / < 反日教育に侵された
\ ` ー'´ // 在日ヒトモドキ丸出しw
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
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日本最古の稲作遺構である菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の
中国とは全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国の耕作用農具が日本最古の稲作遺構には一つも伝わっていないのだ。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜、鋤、犂 《すべて石刃》
クワ、エブリに該当する耕作用農具が当時の中国にない!
耜、鋤、犂に該当する耕作用農具が日本最古の稲作遺構にない!
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>420-421
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\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
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今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
遺跡のメイン部分が今も空き地である事などグーグル地図の航空写真で確認すれば
容易に分かる事であるし、それ以前にこれは国の研究機関の公表である事をお忘れなく
. >>424
朝鮮ヒトモドキは玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、同遺跡は意図的に炭素年代測定を行わないまま埋め戻されました。
そして1999年にイ・サンギル氏、イ・ヒョンソク氏、ガク・ジョンチョル氏らによる学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」が発表されて以来20年以上も研究対象になっていない遺跡です。
同論文には、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社に売却され既に「文殊中学校」になっていると明記されています。
加えてウルサン市の公式サイトには、玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の地は大韓住宅公社運営の「オクヒョン第二住公アパート」になっていると明記されています。
いずれにしても韓国本国ですら正確な位置を把握していない程度の遺跡であることは明白で、その無価値さを証明するように玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡を示す記念碑はこの地球上に存在すらしていません。
何より本国唯一の学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」に紀元前15世紀や紀元前11世紀という記述は皆無なのです。
これらの主張をしたのは元国立歴史民俗博物館副館長の藤尾慎一郎氏ただ一人であり、そう主張した2019年に同氏は副館長から一般研究員に降格しました。
よって突如として玉峴(オクヒョンorオクキョン)遺跡の水田遺構が日本最古の水田遺構より古いという主張は、中国における玉蟾岩土器を模倣した悪質な反日愛国行為としてすでに韓国歴史学の恥部となっています。
にも関わらず、在日ヒトモドキは国の研究機関の公表だとホラを吹き始め、以前にも増して現実を直視することから逃げ回っているのです。
※玉蟾岩土器とは
1998年に青森県の大平山元遺跡から出土した土器が2008年の炭素年代測定で約1万6,500年前の世界最古と公表されました。
しかし突如として翌年に中国湖南省の玉蟾岩洞穴から件の土器が発掘され、炭素年代測定で約1万8,000年前の物だと主張。
しかし、ロシア国立博物館から再調査の依頼を受けた途端に盗難に遭い、忽然と姿を消してしまったと言い張っています。
出典元:
学術論文「蔚山ムゴドン オクヒョン遺跡」
https://library.knou.ac.kr/user/login?returnUrl=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061&__referer=http%3A%2F%2Fopenlink%2Elibmeta%2Eknou%2Eac%2Ekr%3A8090%2Flink%2En2s%3Furl%3Dhttp%3A%2F%2Fkiss%2Ekstudy%2Ecom%2Fthesis%2Fthesis%2Dview%2Easp%3Fkey%3D257061
ウルサン市公式サイト「ムゴドン オクヒョン遺跡」
http://ulsan.grandculture.net/Contents/Index?local=ulsan >>425
玉蟾岩土器事件たたいて華南ブタ広鼻半ニグロの日本人アピールが超ウケる(Very嘲笑wwwwwwww
おまえの正体
五毛党(ごもうとう、英語: 50 Cent Party、拼音: wǔmáo dǎng)とは、
中華人民共和国における中国共産党配下のインターネット世論誘導集団を指す
ネットスラングである。正式名は網絡評論員(インターネットコメンテーター)
であり[1]、2005年ごろまでは書き込み1件当たり5毛(5角(=0.5元)を口語で
こう呼ぶ)が支払われていたことからこの蔑称が名づけられた。網軍[2][3]と
呼ばれることもある。
通常は一般人を装い、インターネット上のコメント欄や電子掲示板などに、
中国共産党政権に有利な書き込みをする。または共産党「それに関連する事」を
批判する人に対する集団攻撃をする。ネットを通じ、世論誘導をする役割を
担っている。2015年時点で、約1050万人程度いると見られている[4][5]。
中国政府が世論操作のためにSNSに投稿させている「やらせ書き込み」は、
年間で4億8800万件に上るという[6]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%AF%9B%E5%85%9A#:
. >>426
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| |r┬-| | / < 反日洗脳に侵された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
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◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
ところが、縄文末に渡来した弥生人は龍信仰を伝えませんでした!
. >>428
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| |r┬-| | / < 反日教育に洗脳された
\ ` ー'´ // 哀れな在日ヒトモドキ
/ __ / まるだしで草wwww
(___) / 倭国大乱後の最初の倭王(三種の神器が揃っている)、それも女王の墓だから、卑弥呼が最有力候補だねえ。 >>1
SD-1009は海水生簀。
SM-1001はその排水溝で、
魚が逃げないよう下流にスクリーンが張られており、
スクリーン手前には、ゴミ沈殿堆積への対策として大型土坑が掘られていた。
サバ、アジ、マダイ、などの海水魚を、海水ごと輸送してきて、
海水生簀SD-1009で養殖。
運んできた海水並びに、周囲の河川水+塩添加で塩水を維持。
輸送で疲労した魚に、
桃や人糞などを餌として与えて、栄養をつけることで魚の品質を向上させていた。
桃の種や、人糞中の蛙の骨などは、魚が食べないため、下流へ流れて、
スクリーン手前の土坑に沈殿。
海水はアルカリ性なので、スクリーン手前の土坑に沈殿した骨は溶けずに残った。
SD-1009とSM-1001は、庄内3式期〜布留0式期であり、
布留0式が副葬されていたホケノ山古墳被葬者の生前活動時期に一致する。
内行花文鏡片、大量の鉄器、そして海水魚への熱烈なこだわり。
ホケノ山古墳被葬者は、北部九州からやってきた海人族であった。
今や世界中に普及した倭食の歴史を物語る貴重な遺蹟である。
. ∧_∧ 从从
<丶`∀´> ビシッ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
_/ ⌒ヽ (⌒) < 世界は韓国から孤立しているニダ!!
⊂二 / へ ノ ~.レ-r┐ \_______________
/ / ヽノ__ | .| ト、
_ _レ /〈 ̄ `-Lλ_レ
/ __ノ  ̄`ー‐---‐′
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ノ )  ̄ ̄ ヽ (
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