平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)2
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『説文解字(後漢)』にて咫=八寸
漢尺=十寸=約23センチ 寸=約2.3センチ
咫=八寸=2.3×8=18.4センチ
八咫=18.4×8=147.2センチ前後
平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528537360 >>187
>最後の一行が言いたいだけの屁理屈
どこが屁理屈なのか、具体的に論点を絞って指摘して
そうしたらきちんと説明するから
それができないなら
「短里は捏造」 >>188
短絡的単細胞ですね。
畿内説は屁理屈が通らないと切れるんですね。 >>189
>短絡的単細胞ですね。
>畿内説は屁理屈が通らないと切れるんですね。
またごまかしてるww
屁理屈だと主張したいなら、どこがおかしくてどこが屁理屈なのか、
「具体的に指摘してくれ」って言ってるんだよ
具体的に指摘してくれたら、それに対してまた説明するって言ってるんだよ
切れるの真逆の理性的な態度だろ?ww
「具体的な指摘」ができないなら
「短里は捏造」 九州説は「具体的な根拠」「具体的な指摘」を求めるとたいてい消える キナイコシの言う「根拠」はどうせ屁理屈
説明しても理解できないコミュ障には付き合うだけ無駄 >>186
移動させる距離を日数で除すと言ってるだけで
距離=日数って意味で書かれてないぞ?
不適切な事例だね。チェリーピッキングの典型だ。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>192
ほら逃げたww
キーボードをちょっと叩くだけなんだから、十分な根拠があれば
相手の言い分をコテンパンにするくらいはすぐだろうにw
それができない惨めな敗残九州説w >>193
>移動させる距離を日数で除すと言ってるだけで
>距離=日数って意味で書かれてないぞ?
>不適切な事例だね。チェリーピッキングの典型だ。
またすぐ話をずらすww
『九章算術』の例は、「道里の表現」として「日数が当たり前に使われている」ことの例だ
実際、魏志倭人伝の表記も「距離=日数」の意味ではないだろう
九州説は,反論することだけが目的になっているから、いつも的外れww >>196
>実際、魏志倭人伝の表記も「距離=日数」の意味ではないだろう
無理筋を通そうとすると、里ではないものを里と言い張る羽目になる。 >>197
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
日数しか書いてないのが、「道里遠近」と書いてあるのが分からないのかな?
「日数が道里」なんだよ >>198
>無理筋を通そうとすると、里ではないものを里と言い張る羽目になる。
「道里=里数」では「ない」んだよ
まあ、ここは完全な典拠があるこっちが正しいのは確定だから、
がんばるならがんばりな
無駄だけどさw 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>202
>全くの誤読。論理の飛躍も甚だしい。
どこが誤読か、「具体的に指摘」してごらんww >>201、>>202
一言スレで、反論したつもりになるのが、九州説の能無しの常
まあ、どこぞのソント文化と同じだなw >>204
最後の行に論理の飛躍があって説明が足りないよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>206
それは、日本語が読めてないだけだろ?
九章算術は、計算の練習問題
そこで第六章均輸の第一問がこれ
今有均輸粟:
甲縣一萬戶,行道八日;乙縣九千五百戶,行道十日;
丙縣一萬二千三百五十戶,行道十三日;丁縣一萬二千二百戶,行道二十日,各到輸所。
凡四縣賦,當輸二十五萬斛,用車一萬乘。欲以道里遠近,戶數多少,衰出之。問粟、車各幾何?
答曰:
甲縣粟八萬三千一百斛,車三千三百二十四乘。乙縣粟六萬三千一百七十五斛,車二千五百二十七乘。
丙縣粟六萬三千一百七十五斛,車二千五百二十七乘。丁縣粟四萬五百五十斛,車一千六百二十二乘。
均輸術曰:
令縣戶數,各如其本行道日數而一,以為衰。
甲衰一百二十五,乙、丙衰各九十五,丁衰六十一,副并為法。以賦粟、車數乘未并者,各自為實。實如法得一車。
有分者,上下輩之。以二十五斛乘車數,即粟數。
4県の日数と、戸数が書いてあって、そこから
欲以道里遠近,戶數多少,衰出之
道里の遠近と戸数の多少をもって、衰これを出す(計算する)ことを欲す
道里の遠近と戸数の多少から、損耗分(衰)を計算して
平等(均)に賦を負担するにはどうしたらいいかという問題
ここで道里の遠近を示すものが日数しか表記されていない
日数が、そのまま道里なんだよ
説明が足りないのではなく、足りないのは理解力
そして、誤読ではないことは明白
>>202はただのクレーマーの戯言 どこにも飛躍はないだろ?
九章算術に見られるとおり、道里は日数表記も普通
投馬国、邪馬台国へは日数で道里が示されている
投馬国、邪馬台国までが、女王国以北の其戸數道里可得略載の国
投馬国を邪馬台国より南に置く説は、魏志倭人伝の記述に合わない どこがどう間違っているかを「根拠」を挙げて論じられない時点で
九州説の立場を取る人間の能力の限界が明らか
基本的に個人の感想レベルのことしか書いてないのが九州説の書き込みの常 >>212
投馬国へ行って、そこからさらに進むんだから何も問題はないだろう?
魏志倭人伝にはそう書いてある >>212
投馬国へ行って、そこからさらに進むんだから何も問題はないだろう?
魏志倭人伝にはそう書いてある >>216
読み違いというのが誤読
順次進んでいくように読んでいけばよいだけ
ついでに言えば、邪馬台国以遠の国も、邪馬台国の向こうという意味で順次読みでよい 帯方郡から邪馬台国(福岡)まで水行10日
帯方郡から投馬国(宮崎)まで水行20日 東南大海中なのに、南だけで至るという矛盾
投馬国は、戸数道里略載の女王国以北の国なのに、邪馬台国より南になる矛盾
陸行一月を完全に無視するインチキ
よって>>218は成立の予知なし 朝鮮半島の西岸を南に四千里、南岸を東に三千里、対馬海峡を南に三千里。
おおむね東南、または南南東。 帯方郡から投馬国(半島南部)まで水行20日
投馬国から邪馬台国(福岡)まで水行10日 半島南部まで7千里
そこから邪馬台国まで5千里
半島南部まで20日
そこから邪馬台国まで10日
合計すると12000里ですがな。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 北部九州倭国の倭人は鉄器でお肌ツルンツルン✨
それ以外の毛人は鉄器なしでムダ毛ぼうぼうですがな。 渡海千里が一律の値とか、実測値じゃないのは明白だし、萬二千里は
淮南子などの古典から引用した観念的な世界の果てまでの距離
実測値じゃないもので何かを語っても意味ないよ 逆だよ
短里説が否定されたら、その時点で九州説が即死するだけw 魏志倭人伝に、これは短里です、なんてどこにも書いてないだろww 地形からして、
唐津市〜糸島市の弥生時代における居住可能部分に、
末蘆国四千戸と伊都千戸があるわけだね。
末蘆は山海に沿ってるから内陸は考えなくていい。
四千戸対千戸=4対1
末蘆国というのは糸島市にかなり近い部分までを含めないと
四千戸が入らない。 >>230
>魏志倭人伝で対馬海峡は三千里。
実際に距離の異なる渡海がすべて一律で「千餘里」と書かれているのだから、
「計測不能」だったという証拠にしかならないだろうに 朝鮮半島側の出発点。末蘆側の到着点。が不明なのだから、
千里が確定する部分は壱岐対馬の間だけだよ。
>又渡一海 千余里 至末盧國
海を渡って、千余里で、末蘆国に到着する。
という文章だから、海峡渡海+唐津側での沿岸航海部分も含みうる。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 北部九州倭国が邪馬台国と狗奴国に分裂して戦う
北部九州の国土が荒廃する
当たり前のことだな
2世紀の倭国乱
3世紀の平原女王墓
4世紀の衰退
邪馬台国が統一して
5世紀以降の大繁栄 『東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國』
これもよくよく読んでみると、
東には、鉄器の無い毛人(毛を剃れないからムダ毛ぼうぼう)がいて、
五十五國を「軍事的に征服」した
西は衆夷、つまり大国主が配置した地方首長=夷=ヒナモリ卑奴母離だから、
もともと北部九州倭国の鉄器供給行政区分の中の話だから、
大勢の夷が「政治的に服従」した
ということであって、
考古学的にも文献史学的にも無理のない話なのだな >>236
>4世紀の衰退
キナイコシは伊都が衰退したと言っていたのを、最近では九州が衰退したと言い換える詐欺を働いているだけ。
実際には4世紀の九州は栄えている。
中心が伊都から筑後や小倉、筑豊などに分散して言っただけ。
記紀では景行天皇や神功皇后がいた時代が4世紀なので、九州については話題は尽きない。
朝鮮半島へも盛んに軍事行動を起こすほど、余裕があった。
沖ノ島の祭祀が盛んとなるのもこの頃からだろう。 5世紀6世紀に大繁栄しとるからなあ
宮地嶽とかどう説明するんかのう 魏は新興国です
238年にようやく公孫氏を滅ぼしました
が、魏は265年には滅亡しました
よって
魏の尺度なんぞが東夷世界で使われた可能性は限りなくゼロ 壱岐対馬を方可で2倍換算したとして、
1万二千余里で到着するのは、伊都ではなく奴国。
楽浪土器の集積地である伊都
弥生時代ダントツの繁栄地である奴国
その奴国のほうを里程が示しているというのは 政治外交の中心も
経済産業の中心も
北部九州にあったということだ 伊都国と奴国は事実上は一体だろ。
当時の中国の都市のような城郭があったわけではないからね。
間に高祖山があっただけだ。 伊都に王がいたのは倭国乱の70-80年前からとあるからな。
その前は奴国側に王がいて中国から見た倭国中心とは奴国のことだったのだろう。
魏志倭人伝は北部九州説でほぼ解読されたが、あとは何か問題点があるかな。
個人的には青玉が翡翠かどうかだな。
九州にも翡翠産地はあるようだが、弥生時代の翡翠製品は基本的に糸魚川産だから、
産青玉を翡翠産地と考えるなら、倭国に新潟県も入れないといけなくなる。
魏使が伊都の玉造り工房を見て、てっきり九州で翡翠を産していると思い込んだとか。
あるいは製品としての【翡翠装飾品】ということであれば、九州で生産している、で合っているよね。 倭国大乱は桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)。
70〜80年遡ると、1世紀後半になる。
永初元年(107年)、倭国王帥升が後漢へ使者を送っているが、帥升が男王の一人であった可能性が高い。
57年の漢委奴国王印をもらったのも、ギリギリでこの年代となる。 考古学的に判明している弥生奴国の描写が全く無いんだから、
魏使は伊都までしか来ていないし、伊都が最終目的地だったわけだよね。
それにもかかわらず不弥國までの道里が記されている。
夷人は里を知らないと明記しているのだから、誰かが測定したわけで、
つまりは漢使。漢代の楽浪郡吏が実測していたわけだね。
だから行程表の数値は全て漢代の実測であり、
これが漢代の楽浪郡における測定技術力ということになる。 伊都よりも逆に手前については、
壱岐一大國は経由していることが確実なわけだけど、
原の辻遺跡に、船着場、卜占、三重環濠集落、が見つかっている。
魏使は原の辻に立ち寄っていたことが確実にもかかわらず、
三重環濠のことが書かれていないということは、
三重環濠集落は魏使にとって驚きの対象ではなかった、ということを意味しているね。
日本人にとっては、弥生時代に大規模環濠集落があった、ということで驚きだけど、
三国志動乱時代の大陸文物を目にしてきた魏使にとっては、なんとも思わなかった、ということになる。
原の辻の三重環濠集落が特記されていない、という事実は、邪馬台国論争で重要なファクター。 末蘆國についても奇妙な点がある。
海岸線にへばりつくように住んでいるとの記載があるので、
末蘆國は海沿いであり、内陸の山間集落や平野部などは含まない。
当時の末蘆国は、壱岐対馬への玄関口にあたり、
菜畑遺跡以来ずっと栄え続け、桜馬場などの地域王も擁した弥生の先進地域。
集落部分はそれなりに発展していたことが考古学的にわかっている。
にもかかわらず、前の人が見えないほど草木が茂った道などと書かれている。
ということは、末蘆国の中心地である唐津市を歩いていないことが明らか。
末蘆国で上陸して伊都に入っているのだから、
末蘆国の上陸地点とは、
伊都より手前で、
伊都との間に、末蘆国の弥生遺跡のない部分であることになる。 >>247
>魏使は伊都までしか来ていないし、伊都が最終目的地だったわけだよね。
>それにもかかわらず不弥國までの道里が記されている。
少しだけ足を伸ばしたのでは? >>249
末盧国は唐津と糸島の間ということでしょう。 魏史が奴国に足を踏み入れていれば、
工房群のことが必ず記録されていただろうし、
半島系集落とか本州からの人々の風俗とかも記録されていただろうね。
考古学的に判明している奴国の情報が皆無なので、魏史は伊都までしか来ていない。
一方で楽浪郡史は長期間伊都に滞在したことが考古学的に確定している。
魏使は伊都までしか来ておらず、夷人は里を知らないのだから、
不弥国までの距離を測定したのは、楽浪郡史であることが確定する。
漢委奴国王金印が奴国側で出土しているから漢本国の漢史も奴国まで来たかもしれないが、
考古学的には常駐の跡は残っておらず、魏史のように数回もしくは金印授与時1回の来倭だろう。
東夷伝世界の全てが東夷伝里で統一記載されており、楽浪郡では東夷伝里が使用されていたわけだ。
楽浪郡があるまさにその場所の、朝鮮半島の横幅四千里を基準数値として解析するのが正しく、
約200kmが四千里だから、東夷伝里の1里は50メートルである。
魏史は伊都が目的地だったから、現地報告は伊都までしか無い。
一方の楽浪郡史は不弥国までの距離を測定している。
最大都市である奴国まででなく、その先の不弥国までの距離が記されているということは、
漢代の倭国最高権力者が不弥国で政務を執り行っていたことを強く示唆する。
考古学的な裏付けは必要だが。 倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。 魏志倭人伝によると、いわゆる糸島の伊都に王が存在するのは、
倭国乱の70-80年前から、とある。
これは見つかった王墓が三雲南小路以降であることとも合致する。
だから楽浪郡史が距離を測定したのは、それよりも前、1世紀前半であろう。
楽浪郡史が居住する場所の里が最も正確なのはそうだが、
朝鮮半島の横幅は楽浪郡が所在する場所では細くなっており200kmであるが、
四千里というのは帯方郡よりさらに南の韓人居住部分の横幅であり、
少し太くなって270kmほどある。
よって270÷4=67.5
短里は約68メートルというのが、現在求められる最も正確な数値だろうな。 それと対海國だが、これは國であって島ではないぞ。
対馬の行政区画は今でこそ対馬市一つになっているが、もともとは上県と下県に分かれていた。
対海國が方可四百里というのは、対馬島全部のことではなく、
対馬島にあった2つの國のうち、上県か下県のどちらか片方に相当する、
対海國のことだ。
形状ならびに現代の実測値と比べれば、対海國も一大國も多少はずれるが、
1世紀の楽浪郡史が測定した数値ということを考えれば十分に東夷伝里で成り立つ。
有効数字一桁であれば尚更正確であると言える。
>>249とも関係するが、
壱岐から出発して東松浦半島に到着し、沿岸航海して末蘆国のどこかに上陸する。
その航海経路の全距離が東夷伝里の千里。
陸路として福岡県道49号線に続くわけだ。 倭国乱は桓霊の間=桓帝と霊帝の時代146年 - 189年とあるから、
倭国乱の開始は146年以降。
だから伊都に男王がいたのは146-80=66年以降。
単純な話で、57年の委奴国王がいたのは糸島市の伊都ではないことになる。
よって、漢代の楽浪郡史が漢代倭地の地理を実測したのは、
57年金印授与時に漢本国へ詳細な行程を報告するのが目的であり、
その行程報告をもとに、漢使の出張費が計上されたわけだ。
現代の外交官の出張と同じこと。
だから里程の最終報告書があがったのは57年より少し前の55-56年頃であり、
その時の委奴国王の王宮は不弥国にあった可能性が高い。 対馬海峡渡海の部分から、方角が全て45度ずつずれている。
夏至の太陽位置の関係だと思われるが、それはまた別の機会に論じるとして、
45度のずれをそのまま受け入れて進んで不弥国の位置を探してみる。
考古学的に、糸島市手前すぐで上陸して
福岡県道49号線沿いに東南(だから現代地図では東)へ三百里=68×0.3=20kmで、
紀元前から宮殿や王墓のあった吉武高木遺跡がある。
これが漢代の伊都。で、66-76年頃に糸島の伊都へ遷都した。
何百年か建替え続けられた吉武宮殿は、丁度その頃までで終了する。
もしくは、
もともと伊都というのは高祖山を中心とした、早良平野+糸島平野を含む地域だったのだろう。
内陸国の幅を含むのか、それとも国の中心地点同士の距離なのか、が不明なので、
そこから先は同じ検討はできない。
だが、漢代伊都から奴国までと、奴国から不弥国までは、同じ百里であり、
伊都奴国間と奴国不弥国間は「等間隔」である、という条件は確定される。
吉武高木遺跡→東南(だから現実地図では東)へ百里=68×0.1=6.8km
実際には、吉武高木遺跡から東へ11kmほどで須久遺跡群なので、
考古学的にはここが里程の示す奴国となる。
里程伊都(吉武高木)→奴国(須久)が東へ11kmなのだから、
奴国(須久)→東(だから現実地図では北東)へ同じく11kmに不弥国があったことがわかる。
宇美町か須恵町あたりとなる。
志賀島とも陸路で近い。 吉武遺跡にずっと宮殿があったのだから、
クニグニに王がいたとはいえ、吉武宮殿は特別な場所で、
倭国全体の政治は吉武宮殿に王達が集まって決めていたのだろう。
後のヤマト政権ですらあちこち都を移したり、
御所となると各代でちがったりするのだから、
倭国も宮殿は吉武宮殿でも、大王の王宮あるいは
関白将軍のようなその時々の最高実力者の居館は時代ごとに別の場所にあったわけだ。
漢から見た倭人関係の最大イベントが金印授与であり、
漢代の楽浪郡史が必死こいてまとめた報告書は
金印授与の漢使が出張するための地図里程であり、
それが伊都はおろか奴国すら通過して不弥国まで至っているということは、
57年に金印を手にした委奴国王がそこにいたからであろう。
それが吉武宮殿の代々の大王なのか、
それともその時に権力を持っていた関白や将軍だったのか。
なぜそれまで朝貢などしていなかったのに、急に金印授与を求めたのか。
なぜ委奴国が登場するのは一瞬だけで、
107年には倭国になっており、金印も貰わなかったのか。 >>257
>もともと伊都というのは高祖山を中心とした、早良平野+糸島平野を含む地域だったのだろう。
これが筑紫の日向であり、高祖山の西麓に新たに建てられた宮が高千穂宮だろう。
そして日向三代と卑弥呼がそこを王宮とした。
不弥国の意味はよくわからないけどね。 >>258
>107年には倭国になっており、金印も貰わなかったのか。
金印はおそらく漢代はずっと倭王の証として使われ、魏になって改めて卑弥呼に金印が与えられたのだろう。
漢代の金印は伊都の細石神社に保管されていたというから、2世紀になっても国璽として使われていたのだろう。 一)考古学的に判明している弥生奴国の描写が無いから魏使は奴国に行ってない。
二)魏使は伊都までで、しかも倭人は里を知らないのに、
不弥国までの里程を歴史学者の陳寿が採用していることから、信頼できる里程情報供給者は漢代の楽浪郡官吏の可能性が高い。
考古学的にも楽浪土器の裏付けあり。
三)考古学的に判明している弥生唐津は十分に発展しているのに、魏使は藪の中を進んでいるので、
末蘆國の上陸地点は唐津よりも東であり、かつ末蘆國の他の集落も通っていない。
つまり伊都にかなり近い地点で上陸している。
四)東夷伝里の最も正確な値は、楽浪郡に最も近い、韓人エリア部分における朝鮮半島の横幅。
270km=四千里、東夷伝里=67.5m、が最も正確。 有効数字一桁だから、四千里=3500〜4400として、1里=77.1〜61.4メートルの幅ができるね。 朝鮮半島の横幅は260kmを採用して、260÷4千里で、東夷伝里=65m、
のほうが計算しやすい。
その場合、末蘆国上陸地点から伊都までは、65m×500=32.5kmとなる。
要するに、
『親魏倭王』金印を届けた
魏使は、20日+10日で、筑前深江駅の辺りに上陸し、
その日のうちに魏代伊都の三雲南小路に入った。
『漢委奴国王』金印を届けた
漢使は、7千里+4千4百里で、鹿家駅の辺りに上陸し、
日向峠を越えて5百里歩いて早良区の漢代伊都、
平地を百里で最大都市の奴国、
そして平地を百里で不弥国にあった漢代有力者の居館に着いたわけだ。
楽浪人の居住区は三雲南小路にあって、本国の漢使が来るにあたって、
倭国の許可を得て東夷伝里での里程を測定させてもらった。 漢代伊都が高祖山の東側だったとすれば、峠越えになる。
弥生時代に峠を越えての直線距離の測定はまず不可能だっただろうから、
伊都までの五百里は道路距離なんだろう。
だとすれば、
末蘆国上陸地点→漢代伊都の道路距離は、峠越え
伊都→奴国、奴国→不弥国の道路距離は、都会の平地
なのだから、地図上での直線距離は峠越えの部分は短くなる。 末蘆國の県庁所在地は唐津。
海沿いの集落群。
西はどこまでかわからないが、已百支國の県庁所在地は伊万里だと思われるので、
東松浦半島のどこかで已百支國と接するのだろう。
東は深江くらいまでで、そのギリギリのところに魏使は上陸した。
前原まで東に行くと伊都だね。 漢代の唐津は栄えていたし、地域王がいたから、
漢使が来たら立ち寄って接待を受けたんだろうね。
柏崎遺跡の頃だろうか。
その時に貰った漢鏡などが伝世して唐津王墓から出土してるんだろう。
楽浪土器はあまり出ないから、楽浪郡使は素通りしてたみたいだけど。
倭国乱の時にいろいろあったみたいで、
桜馬場までで唐津の王墓は途絶える。
だから魏使が来た時は唐津に有力者はいなくて立ち寄る必要が無いから、
船は唐津を素通りして魏代伊都に近い深江の辺りで上陸したのだろう。
一大國の原の辻遺跡での一大率の入国管理の臨検は必須だから、
漢使も魏使も、たとえ形式上だけの検査で、実質は接待だったとしても、必ず立ち寄っただろう。 三雲の遺跡群が何にも比定できなくて宙ぶらりんになるのは、やはりおかしいのではないか。 三雲遺跡群は魏代の伊都中心部。
魏使は戦時に来たから距離測定する余裕は無く、
伊都に近い末蘆國東端で上陸して三雲へ陸行一日。
高祖宮の卑弥呼と外交。
里程を測定したのは漢代の在倭楽浪人。
測定した理由は金印漢使が来倭するから。
55年時漢代の伊都中心部は吉武遺跡群。
漢使は平時に来たから各地域王に饗応され、
対海國、一大國、で宴会。
そして唐津湾東端で末蘆國王による宴会。
陸路で漢代伊都中心の吉武へ入って宴会。
奴国で宴会。
そして不弥国が目的地。 問題は、
伊都(吉武遺跡)→奴国(須久遺跡)が百里なら、
奴国(須久遺跡)→不弥国も百里なので、
不弥国は那珂川の東部となる。
そのエリアは知る人ぞ知る、弥生の渡来人居住域。
吉武高木王が、金属製武器と博多湾水軍を東征王族将軍スサノオに指揮させて、
九頭竜川流域(頭部)の石剣部族ヤマタノオロチの
若狭湾(胴体)水軍を破り、
丹後半島(尾部)に扇谷遺跡を建設して、鉄製品を長期間量産した。
考古学的に吉武高木王は日本海沿岸を制覇していたわけだ。
それが紀元前2、3世紀の頃だから、57年には、
吉武高木王が日本海沿岸の覇者アマテラスとなって、200-300年が経過していたわけだ。
権威は確立している。
それが57年になって急に朝貢して金印を必要とする動機とは、
一つは、朝鮮半島に進出して、半島の異民族を従えるための権威が欲しかった、
というのがあったが、
漢使が金印を届けた委奴国王が不弥国にいたということになれば、
アマテラスの権威を上回りたい欲求を持つ渡来人有力者が出現した、
という可能性が浮上する。 アマテラスやニニギをどの年代に想定するかの問題だな。
三雲遺跡などに代表される伊都国の成立が天孫降臨なら、吉武高木遺跡はそれよりずっと昔になる。
>>270
>アマテラスの権威を上回りたい欲求を持つ渡来人有力者が出現した、
こんな人物の存在は記録されていない。 >>268
三雲遺跡群は伊都国でいいんだよ
それを否定する人は、全部トンデモと思っておけば間違いない 到と至だな。
到は、国の中心地点への到着。
至は、国の境界へ至る。入国。
日程はどちらも、至。
帯方郡から南に水行20日で、投馬国の境界に至って入国。
投馬国内での東への移動は無視して、
投馬国から南に水行10日で、邪馬台国に入国。
里程では、
まず七千里で、狗邪韓國に到着。だから狗邪韓國の大きさは無視。
対海國には至るだから、境界に至って入国しただけで、
対海國の大きさ分の四百×2は足さないといけない。
一大國も至るだから、同じく三百×2は足す。
末蘆國にも至る。末蘆國中心の唐津柏崎遺跡に到着したのではなく、
末蘆國に上陸(入国)したわけだ。
そこから五百里で、伊都に到着。これを吉武遺跡とする。
そこから百里で、奴國には至る。奴國との境界に至って奴國入国。
さらにそこから百里で、不弥國に至る。
完璧だな。
結果的には奴國の幅は百里=6.5km。
須久遺跡部分の県道49号線の、川と川の間が5kmだから考古学とも整合。 弥生時代に金印漢使が不弥国へ行くための「実用」行程の報告書なわけだ。
55年か56年に在倭の楽浪官吏が作成して漢本国へ送った報告書。
もちろん楽浪人か倭人の案内役はついていて、
漢使は、自分の行き先が本当に倭の不弥國であるかどうか、職務上確認するために、
あらかじめ実用行程を報告させておいたのだな。
現代人のように真北が上の広域地図を持って移動するのではなく、
大まかな距離と太陽方角だけを頼りに移動する。まだ羅針盤や方位磁針は無い。
だから、里程の陸上部分は、直線距離ではなく、道路距離。
峠道などがあると、その部分の里程は直線距離よりも長くなる。
方位磁針もないから、方角については、真北真南である必要はなく、
太陽の実方向だな。
梅雨時と台風シーズンを外すから、7月末に来倭した。
それはあらかじめ決まっているから、倭国現地で報告書を作成する楽浪官吏も
7月末の太陽方向を基準に報告書を作ったわけだ。
朝出発する時に進行方向を見定めるのだから、
夏至近くの朝の太陽を基準に方角を決めると、全ての出発時方向が真北真南からすると西へずれる。
だが、漢使が金印を持って来るのは「57年7月末」の1回だけなので、
それで楽浪官吏の仕事は達成されたわけだな。 魏代伊都が三雲遺跡群で確定。
女王墓は平原遺跡1号+2号の複合墓域。
漢代伊都の到着目標が吉武高木宮殿でピンポイントの確定。
吉武高木宮殿から東へ6.5km(5.9〜7.4の誤差範囲)で奴国。
そこから北東へ同距離進んだ場所にある弥生時代の大型建物が委奴國王の居館だ。
古代漢帝国の測定技術で記録され、陳寿が伝え残してくれたピンポイントの座標だ。
盛んに発掘されており、専門家なら建物候補はわかるだろうな。 全て中国史書からの情報だが仕方がない。
漢委奴国王は糸島の伊都にいなかった。
魏志倭人伝に残された金印漢使の出張記録によって、不弥國にいた。
だが、107年に朝貢したのは委奴国王ではなく、倭国王師升。
生口160人をドヤ顔で押しつけて、金印を貰わず引き揚げた。
新伊都男王は、三雲南小路に始まり、
新伊都女王の平原卑弥呼女王墓へと連続しているのだから、
日本中探しても卑弥呼のいた魏代伊都というのは三雲遺跡を中心とする糸島市しかない。
と、いうことは・・・
57年に晴れがましい金印授与を受けた、不弥國の委奴国王は、失脚したわけだ。
紀元前から数百年大王として君臨した吉武高木神<アマテラス。
それと本拠地を異とする不弥國王。
考古学的にごく短期間の、まさに一人の人間の一代限りの栄光。
葦原那珂津国。
そのような人物が記紀に残っている。 そのような人物は魏志倭人伝には残っていないが、
出自についての手がかりがある。
高句麗伝。
濊伝。
そして各地に残る積石墓。
失脚した老年の本人は記紀の通り。
だが、直系の濃い子孫は積石墓を残し、
倭国女性に産ませた子孫ははるか東国へ落ち延びて前方後方墳を残した。 弥生大都会の中にあって環濠で集落を囲い、沿海州民の如く家畜を飼っている。
木沓はまさか漢使の残していった置き土産か。
木の机は書斎の机。
弥生時代は木簡に墨書だから書き損じた時は鉄製刀子で削り取る。
その時に鉄製刀子が机にも当たるわけだ。 短里論争の時に注意が必要なのは、
道路距離と直線距離を区別する必要があるということ。
例えば、アメリカの真っすぐなハイウェイなら、
道路距離で10km進めば、直線距離でも10km進む。
だが、つづら折りの峠道だと、
道路距離で10km進んでも、直線距離では1kmも進まないことになる。
東夷伝里が65mというのは、行程の検討をしやすいように、
現代地図での直線距離に置き換えた便宜上の数値であって、
本来の絶対値はもっと大きいわけだ。
道路距離は直線距離に対して、平地だと1.1倍。峠道だと1.2倍以上になる。
弥生時代の道路事情にもよるが、
1.1倍とするなら、東夷伝里の絶対値は71.5m
1.2倍とするなら、東夷伝里の絶対値は78mとなる。
日向峠を越えての百里と、福岡平野での百里は、道路距離は同じ百里でも、
地図上での直線距離は前者が短くなる。 奴國を弥生銀座だけに限定するから、手前百里にあるめぼしい遺跡は吉武遺跡しかないが、
奴國が福岡市全体だとすると、素直に三雲遺跡が伊都でそこから百里で奴國となる。
奴國は二万戸もあるんだからそれくらい広いのではないか。
魏使は唐津を通っていないという縛りがあるが、
楽浪人はその縛りが無いのだから、末蘆の起点が唐津でも構わないわけだ。
なにも57年までさかのぼらなくても、2世紀くらいに測定したのだとすれば、
壱岐から素直に唐津へ渡海+沿岸航海で千里。
唐津から伊都中心の三雲までで五百里となる。
末蘆から伊都への進行方向が若干北東にずれすぎるが。 一つに、三国志東夷伝においては、それぞれの民族の小国名が列挙されているが、
小国への里程と戸数、官名まで書かれているのは、倭人伝のみ。
楽浪官吏が命令されていたにせよ自発的意思にせよ、
小国の情報まで報告するのなら、楽浪郡に近いほど調査活動しやすいわけだが、
最も遠い、しかも海を隔てた倭人伝のみが詳しく書かれている。
三国志東夷伝全体を通してみた場合、倭人伝のみが特別扱いされている。
そして当時において、倭人のみが特別に扱われた件とは、金印授与。
金印魏使は伊都までしか来ていないのだから、
不弥国までの里程を必要としたのは金印漢使となる。
二つに、倭人領において楽浪官吏が里程を測定する場合、
考古学的に楽浪官吏は伊都三雲遺跡を主な滞在地にしていたと判明しているわけだから、
里程を調べるのに東西の末蘆国や奴国を調べるのは当然として、
ならば伊都国の北にある国(斯馬國)や南にある国が次の候補となろう。
さらに奴国を起点に考えるなら、
伊都の次の奴国を調べる動機は栄えているからであろうから、
同じ理由でもって、次に調べるのは栄えている場所であり、
それは考古学的に甕棺ロードとして連続していて、河川でも繋がっている、
奴国南方の国々へと調査の目を向けるのが普通。
東方の渡来人地域の千戸ほどの小国を奴国の次に調べるのはおかしい。
楽浪郡からやってくる楽浪官吏にとっての交通の便を考えるなら、
対馬海峡から末蘆国へ入って、西隣り(巳百支国)を調べるほうがたやすい。
よって、伊都をも通過して、
不弥国まで真っすぐの里程が記されているのは、
金印漢使が不弥国を目標としていたからである可能性が高いわけだ。 陳寿の手元にある資料は、
@金印漢使のために作成された、「漢代不弥国」までの里程。戸数、官(王)名。
A魏使の報告書に記載された、「魏代伊都」までの日数、戸数、官名。
見聞録の部分は、
@は魏略に残る。漢使が見た光景。
Aは魏志倭人伝から魏略を引いた部分。魏使が見た光景。どちらも夏。
@57年とA239年で、200年ほどの歳月が流れている。
@の時代は、里程のそのまま。
漢代伊都中心部は末蘆から五百里の早良平野吉武遺跡にあり、伊都全体で一万戸。
福岡平野に奴国二万戸あり。その北東に不弥国。
Aの時代は、北部九州は統一国家邪馬台国。
その中に昔の地名として、対海国、一大国、末蘆国、が残っている。官名などは微妙に変化。
伊都は1世紀後半に三雲遺跡を中心とする魏代伊都へ遷都しており、千戸。
伊都までは魏使が訪れたから情報更新。
伊都より東については魏使が行ってないのだから情報の更新無し。
旧伊都が早良、旧奴国が那の津、などになっていたかもしれないし、
旧伊都と旧奴国合わせてまるごと博多にでもなっていたかもしれない。
不明。
里程についても、魏使は戦時で里測定などしていないから、更新なし。
だから、魏使は末蘆東端で上陸して三雲の魏代伊都へ直行したにもかかわらず、
末蘆伊都間が五百里のまま。陳寿も変えようがない。 現代の我々は正確な地図と、考古学資料を突き合わせるから、
あれこれ検討できるが、
陳寿には@Aの文字資料しかないのだから、
里程と日程については何の疑問も沸かなかっただろう。
陳寿にとっては、吉武宮殿=高祖宮と考えても何の矛盾もないわけだからな。
伊都一万戸が千戸になったのも、倭国乱があったから、ですむ話。
洛陽など灰燼と化したのだからな。 細かい部分は疑問だらけだが、倭がどこかで倭奴国と奴国、伊都国のすり替えをしたことは確かだ。 魏略では伊都までなのに『自帯方至女国万二千余里』と書かれているからね。
伊都から帯方に帰った梯儁の話だとそこまでしか必要なかったわけだな。
A型気質の陳寿は我慢ならずに原典全てを復活させてしまったんだろうw 木簡に書ける文字はだいたい10文字前後。
外交文書のような長文を作成する際には、
全体を眺めて文章のバランスを推敲しなくてはならない。
紙なら広げた一枚に全て書きこむが、
木簡の場合は10文字ずつだから、木簡を何本も並べて推敲する必要がある。
例えば魏帝が卑弥呼に宛てた外交文書が255字。
全文を眺めて推敲するには木簡25本をずらっと並べることになる。
小さい机に硯と筆。
大きな机に木簡をずらりと並べる。
右上の木簡一つを手に取り、それを小さい机に置いて書きこむ。
書き終わったら大きい机の右上に戻す。
次々に小さい机に置いては書き、書き終わると大きい机に戻していくが、
途中で書き間違いに気づいたり、校正したりする時は、
大きい机のその場所で鉄製刀子でシャッシャと削りとって消すわけだ。
その時に刀子が大きい机の表面にぶつかって刀キズがつく。
つまり大きい机の上にまんべんなく刀子のキズがついているということは、
木簡長文をそれだけ何通も書いたということである。
硯や甕棺墓の分布から、1世紀に文字を使う貴族が住んでいたのは福岡県北部だけなのだから、
倭人貴族同士で連絡する場合、苦労して木簡長文をやり取りするくらいなら、
直接会うなり、使者を送って口頭で伝達させるほうが早い。
だから1世紀に木簡長文を何度もやりとりした机ということは
非常に高い確率で漢委奴国王金印の関わる外交文書を漢の光武帝とやり取りした時のものである
ということになる。
大きな机の年輪年代はいずれも1世紀であり、誤差を考えると国宝金印と関連する可能性が非常に高いことになる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています