対馬海峡渡海の部分から、方角が全て45度ずつずれている。
夏至の太陽位置の関係だと思われるが、それはまた別の機会に論じるとして、
45度のずれをそのまま受け入れて進んで不弥国の位置を探してみる。

考古学的に、糸島市手前すぐで上陸して
福岡県道49号線沿いに東南(だから現代地図では東)へ三百里=68×0.3=20kmで、
紀元前から宮殿や王墓のあった吉武高木遺跡がある。
これが漢代の伊都。で、66-76年頃に糸島の伊都へ遷都した。
何百年か建替え続けられた吉武宮殿は、丁度その頃までで終了する。
もしくは、
もともと伊都というのは高祖山を中心とした、早良平野+糸島平野を含む地域だったのだろう。

内陸国の幅を含むのか、それとも国の中心地点同士の距離なのか、が不明なので、
そこから先は同じ検討はできない。
だが、漢代伊都から奴国までと、奴国から不弥国までは、同じ百里であり、
伊都奴国間と奴国不弥国間は「等間隔」である、という条件は確定される。

吉武高木遺跡→東南(だから現実地図では東)へ百里=68×0.1=6.8km
実際には、吉武高木遺跡から東へ11kmほどで須久遺跡群なので、
考古学的にはここが里程の示す奴国となる。

里程伊都(吉武高木)→奴国(須久)が東へ11kmなのだから、
奴国(須久)→東(だから現実地図では北東)へ同じく11kmに不弥国があったことがわかる。
宇美町か須恵町あたりとなる。
志賀島とも陸路で近い。