木簡に書ける文字はだいたい10文字前後。

外交文書のような長文を作成する際には、
全体を眺めて文章のバランスを推敲しなくてはならない。
紙なら広げた一枚に全て書きこむが、
木簡の場合は10文字ずつだから、木簡を何本も並べて推敲する必要がある。
例えば魏帝が卑弥呼に宛てた外交文書が255字。
全文を眺めて推敲するには木簡25本をずらっと並べることになる。

小さい机に硯と筆。
大きな机に木簡をずらりと並べる。

右上の木簡一つを手に取り、それを小さい机に置いて書きこむ。
書き終わったら大きい机の右上に戻す。
次々に小さい机に置いては書き、書き終わると大きい机に戻していくが、
途中で書き間違いに気づいたり、校正したりする時は、
大きい机のその場所で鉄製刀子でシャッシャと削りとって消すわけだ。
その時に刀子が大きい机の表面にぶつかって刀キズがつく。
つまり大きい机の上にまんべんなく刀子のキズがついているということは、
木簡長文をそれだけ何通も書いたということである。

硯や甕棺墓の分布から、1世紀に文字を使う貴族が住んでいたのは福岡県北部だけなのだから、
倭人貴族同士で連絡する場合、苦労して木簡長文をやり取りするくらいなら、
直接会うなり、使者を送って口頭で伝達させるほうが早い。
だから1世紀に木簡長文を何度もやりとりした机ということは
非常に高い確率で漢委奴国王金印の関わる外交文書を漢の光武帝とやり取りした時のものである
ということになる。
大きな机の年輪年代はいずれも1世紀であり、誤差を考えると国宝金印と関連する可能性が非常に高いことになる。