平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)2
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『説文解字(後漢)』にて咫=八寸
漢尺=十寸=約23センチ 寸=約2.3センチ
咫=八寸=2.3×8=18.4センチ
八咫=18.4×8=147.2センチ前後
平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528537360 じゃ
全部の古墳の築造年代比定の根拠をあげてくれい >>51
まだ矛盾があるのは事実
土器編年の年代については学者により幅があるが、各地の土器の並行関係はかなり研究が進んでいる
が、間違いはあるかもしれない
久住さんも結構つっこまれてたりするしね
年代については〜あたりとしか今は言えない 矛盾つーか、古墳の築造年代観が争点になる場合は大抵が資料不足
良好な埴輪や土器がたくさんあればほぼ確定だけど
数が少ないと出土状況が問題になる
副葬品はある程度の品目が必要
棺や埋葬施設の構造では年代の幅が広くて特定しづらい >>16
>一緒に作成された可能性はわかるかもね
>平原は全部同じじゃなかったよ
>詳しい事は忘れたけど
忘れた、じゃなくて確認しなよ
>>11に示されている新井氏の論文でも、鉛同位体比は確認できるんだから >>57
調べたい人が調べればいいんじゃない?
詳しい事を説明する義務は無いよ
調べて、せれは違うと思うなら意見してほしいとは思うけど まあ、平原1号墓出土鏡の方格規矩鏡が仿製鏡だと判断できる一番簡単な理由は
同笵鏡が多数あるから、だけどね
大陸で出土の銅鏡は、同笵鏡のあるものがほぼないそうだ >>59
ちとそれも怪しくなってきてるが…
中国出土の鏡の研究待ち 倭鏡こそ古墳時代後期にならないと同笵製作しないだろ そうやって皇室所縁の鏡の権威に擦り寄ろうとするのがせこいんだよ 伊勢神宮の物と比べるのがいいのだが見せないんだろ
もし違うものなら伊勢神宮の方が形代だろうな 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 記紀は天孫ニニギが八咫の鏡を携えて筑紫に降臨したと主張しているから、矛盾はない。 しかし、北部九州に八咫鏡があったとする地元の伝承や説話が一切ない
現在、ご神体として八咫鏡を祭る神社も一つもない
記紀の日向三代の物語に、天降り後に八咫鏡は一切出てこない
八世紀に編纂された記紀に八咫鏡が書いてあるからといって、
三世紀の北部九州に八咫鏡が存在したとする理由にはならない ニニギはアマテラスから八咫の鏡を授かって筑紫に降臨した。
記紀の神代の巻のハイライトのひとつ、天孫降臨のシーンである。 >>69
>ニニギはアマテラスから八咫の鏡を授かって筑紫に降臨した。
>記紀の神代の巻のハイライトのひとつ、天孫降臨のシーンである。
その後、崇神天皇のところまで、八咫鏡は一切出てこない
そして、高天原で八咫鏡に先に立って造った鏡とされる日像鏡・日矛鏡が、
九州ではなく和歌山の日前神宮・國懸神宮にあるし、奈良盆地の鏡作神社にも
八咫鏡の試作品とされる鏡が伝世されている
これらから考えると、畿内の地でヤマト王権成立の頃に八咫鏡が鋳造され、
それが伝世し神話化し、後付で記紀に説話が載せられたと考える方が合理的 神武は筑紫から八咫の鏡を持ち出していない。
大和に入った時は天羽羽矢を身柄を明らかにするためにニギハヤヒに提示している。
おそらく崇神や景行の時代に八咫の鏡が畿内に持ち込まれたのだろう。 和歌山の日前宮、國懸宮は伊都郡にあるんだよね。
筑紫の伊都から八咫の鏡を持ってきましたと言わんばかりの地名だよ。
持ってきたから、当然筑紫には今現在はないんだよ。
まあ、辺津宮あたりに1枚くらい残っているかもしれないけど。
記紀も筑紫から大和に王権が移ったとしているわけで、なんの矛盾もないな。
なんの理由もなく、ヤマト王権がその起源を筑紫とする建国譚を作ったと考える方が不合理だよ。
実際に筑紫の伊都から八咫の鏡と呼べる超大型鏡が出土してしまったからね。
キナイコシがそれにきちんとした説明をつけない限り、伊都が倭国の王都であったことは否定できないよ。 >>70
理由もなしに「合理的」って笑えるよな
アホだろ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>78
>伊都のオハバリだぞ?
と書いてある場合は、「いと」ではなく「いつ」と読む
古事記に出てくる伊都国は「伊斗村」であって、「伊都」は全て「いつ」と読ませている あと、記紀の伊都国関係で気になるのが、伊都々比古
垂仁紀の都怒我阿羅斯等来朝記事で、穴門辺りにいて、自分が王だといったのが伊都々比古
まあ、名前をそのまま読めば「伊都」の彦だから、伊都国関係者に見えるけれど、いたのが
北部九州ではなく穴門で本州側になる 門司と下関を分ける意味はないな。
そこは実質的に九州北部だよ。 史記での「咫」の字の使用全例
矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫は、尺(10寸)+咫(8寸)で、18寸の長さ
八寸曰咫
咫尺,八寸
咫は8寸である
徒欲日夜望咫尺之地
舜無咫尺之地
奉咫尺之書
今拘學或抱咫尺之義
言拘學守義之士或抱咫尺纖微之事
咫尺で、「少しの(ながさ)」程度の意味
日本語で「ちょっと」を「一寸」と書くのと同じ発想
咫を円周を測るのに使っている例はない 漢書での「咫」の字の使用全例
長尺有咫
石砮長尺有咫
尺有咫で、18寸
八寸曰咫
張晏曰:「八寸曰咫。」
咫は8寸
豈其與水爭咫尺之地哉?
奉咫尺之書
但日夜望咫尺之地
履咫尺之難
臣聞天威不違顏咫尺
且盲不見咫尺
咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喻輕率也。
咫尺は、それ「あるいは長さ咫あるいは長さ尺」を簡単に言うもので、比喩である
咫を円周を測るのに使っている例はない 三国志での「咫」の字の使用全例
未能進咫尺之地
終日行不離咫尺
加咫尺之書
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 後漢書での「咫」の字の使用全例
其長尺有咫
石砮矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫で18寸
八寸曰咫
八寸為咫
咫は8寸
舜無咫尺之地
今拘學或抱咫尺之義
咫尺天儀
咫尺龍沙
咫尺言不以為遠也
夫欲千里而咫尺未發
去營咫尺
今以曲俗咫尺之羞
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺 で使われているのが23件
尺有咫 で使われているのが 7件
八寸曰咫 で使われているのが 6件
「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている
「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる
「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸
ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ
要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」 長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」
咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない
これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね
つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない 平原1号墓出土鏡を、円周が八咫だから、八咫の鏡という人がいるが、
咫=8寸という長さの単位ではあっても、史記から後漢書の範囲で
咫を長さを表すのに使っている例は、石砮や矢の長さで「尺有咫」という慣用句的な
決まった表現で18寸を表す場合だけで、基本的には「咫尺」で「わずかな長さ」を
比喩的に表す熟語でしか使わない
平原1号墓が卑弥呼の頃であることを想定するならば、その時代に「咫」で
具体的な長さを測ることはない
したがって、平原1号墓出土鏡が円周が八咫であると認識されることもないし
八咫鏡と呼ばれることも、考えられることもない
しかも、破鏡供献されているので、千年以上後になって、発掘され復元されるまで
その間、その周囲の長さが知られることもない
この鏡が八咫鏡の語源となることもない
つまり、どうやっても平原1号墓出土鏡は八咫鏡とは無縁の鏡である 邪馬台国の時代を含む大陸史書の全例検索をしても、
「咫」が長さの単位として使われている例が、事実上ない
「尺有咫」という決まり文句中で使われる例はあるが、
そのたびに「八寸曰咫」という注が付き、当時、既に「咫」が
実用される長さの単位ではなかったことが分かる
その状態で、「何かを測った」「何を測ってもいい」と主張すること自体が
意味を持たないんだよ 大きい鏡という意味の普通名詞ではない、と考える限り
八咫鏡の「本物」は誰が何と言おうと、伊勢の神宮の御神体の鏡だ
そして、その八咫鏡は見てはいけない鏡なので、実見記録はないがその入れ物については実見記録がある
八咫鏡は遷宮の際に、御桶代に入れた上で御船代に載せて、移動するが
「そのオケの大きさが平原の鏡と一致する」と主張する伊都国説の人がいる
しかし、神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に 「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、 蓋口径九寸であると記録されているそうだ
また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、 その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、円の直径は九寸としている。
この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう
どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない
八咫厨のいう「オケ」は、「黄金鑵」の外側の御桶代のことだろう
まあ、聞きかじりだと、いい加減なことを考えるってことだな
本物の伊勢の八咫鏡と、平原1号墓出土鏡は大きさが異なることが明らかであり、
その意味で平原遺跡出土の大型内行花文鏡は記紀において八咫鏡と呼ばれる鏡ではない >八咫鏡は一尺六寸三分(49センチほど)と記載がある。
>>90をよく読んで
それ、八咫鏡の大きさじゃなくて、御樋代の大きさだよ
八咫鏡そのものは誰も見てはいけないから、大きさも測った人はいない
この御樋代の大きさから、八咫鏡の大きさを想定している人が多いけれど、
その中にさらに黄金鑵があって、八咫鏡はその中に入っている
黄金鑵の内径が9寸という話
平原出土鏡は入らないでしょ?
『皇太神宮儀式帳』は、遷宮のときに新しく用意する御道具が記載されていて
黄金鑵は遷宮のたびに作ったりしないから、載っていない
原本引用しておくから確認してみて
『皇太神宮儀式帳』
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h248/image/01/h248s0016.html
御樋代一具 深一尺四寸 内八寸三分
径2尺 内一尺六寸三分
『延喜式』は電子テキストで参照できる
『延喜式』4(伊勢大神宮)・造備雑物条〔24〕
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/000008.html
樋代一具。正宮料。高二尺一寸。深一尺四寸。内径一尺六寸三分。外径二尺。 そもそもウィキペディアの「八咫鏡」のページの
説文解字の解釈が大間違いだったからな
咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、「周を計る尺度」なり)
「周を計る尺度」が誤訳もいいとこ
「周(の時代)の尺である」が正しいのは、説文解字の注釈まで
ちゃんと読めば確認できる
既にこの部分はさすがに修正されてるね
っていうか、5ちゃんねるの議論を経て修正されてるww 説文解字の「咫」は、清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》を載せていて、
それに拠ると以下のとおり
周尺也。
通典引白虎通曰。夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
按奄字未詳。疑是手之誤字。
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。 周尺也。
周尺である
夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
夏王朝の法は「日」で、太陽の数が10なので、10寸を尺とした
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
殷王朝の法は「十二月」で、1年が十二月なので、12寸を尺とした
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
周王朝は地によりて生じた、地は陰であり、それで婦人を法とした
婦人の奄を広げると8寸になるので、8寸を尺とした
按奄字未詳。疑是手之誤字。
奄の字はよく分からない、手の誤字ではないかと疑う 上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
ここまで述べてきた文で見るように、十寸で尺となる
ここに及び、その字、これより下では、周制(周の制度)では、八寸を尺としたという話だ 別周制之異乎古也。
周代の制度でも古い時代とは異なる別の制度があった 王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步
王制(礼記の一篇)によれば、古くは周尺の八尺を歩としていた
今は、周尺の六尺四寸が歩である 鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
鄭注では、周尺の数(長さ、寸の数)はいまだに詳しいことははっきりしない。
礼制の(記述)から考えて、周(の制度で)も、なお十寸で尺としていたようだ(と鄭注に書いてある) >>88
>咫=8寸という長さの単位ではあっても、史記から後漢書の範囲で
円周率の代わりですね。
π/4を0.8で近似していたのです。
それ以外には、0.8に新たな単位を設定する合理的理由が見当たりません。
後世の鯨尺と同じです。 鄭注は、後漢の鄭玄(じようげん)が経書に施した古典の注釈。また,その経書。じょうちゅう。
孔子の「礼制」による既成の秩序維持の考え方は周王朝期の礼制に依拠している
後漢の鄭玄は古文経の『周官』を中心として『儀礼』と『小戴礼記』を三礼として総合的に解釈する体系的な礼学を構築した
その書物が「鄭注」で、この部分はその内容の紹介 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
考えてみるに、春秋戦国時代には、変乱法度が多かった。
(周尺も十寸だったとしたが)六国時代(一応は周代)には、あるいは周尺は八寸だったとも言う
歩を以てさらに八をなす ハッパ六十四である 鄭意八寸爲尺。周末始有之。
與許說異。然許亦曰諸侯力政。
鄭注の(鄭玄の、としてもよいが)意味するところは、八寸で尺と為すということだ
周末にこれ(一尺八寸)が始まった
異なる説も当然成り立ちうる
そうではあっても、またいうことには、
諸侯(六国の王)が(王制、礼制ではない)力政を行っている 周末というのは、周朝の威が衰えた六国(春秋戦国)時代のこと
力政についてもう少し解説
史記の秦本紀に、「周室微,諸侯力政,爭相併」とある
周室(周の宮室)微え(おとろえ、衰微し)、諸侯力政、相併せるを爭う
互いに併呑しようと争っていた
この力政に、力政:用武力征伐。という注が付いていて、力政とは、武力を用いて征伐すること、とある 分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。
(周朝が衰え、天下が)(秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙の)七国を為す
田のうねは畮を異にする(七国の国ごとに異なる)
車の涂(みち)は軌を異にす(七国の国ごとに異なる)
律令も、国ごとに異なる法令を使っていた >>91
記載が無い物をあったと断定するのはどうか?
内宮も度々火事になっているみたいだし、鏡もはじめからそのままの状態かどうか?もわからない
黄金〜の記載はかなり後世の遷宮での記述なので注意 伊勢のヤタの鏡は謎なので、これをどうこう言ってもまぁ、意味がないな 律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)に相当する
公定尺は、令で定められることになる
律令の方が国ごとに異なるということは、公定尺の長さも異なることになる 則其說亦未嘗不合也。
則ちその説くところ、また、未だ嘗て合わざらずなり。
結局は周代の尺が10寸と8寸の両方あって説くところが合わないという話になる 左傳。天威不違顏咫尺。
左伝には、「天(子の)威(徳)、(龍)顔を違らざること咫尺」と書いてある
左伝は、左氏春秋伝のこと 左丘明の作と伝えられる「春秋」の注釈書
左氏伝 僖公九年に「天威不違顏咫尺」とあることの引用
天威は、天子の威徳、顔は天子の顔(竜顔)、顔を違らざるは天子の顔近くで恐れ多い様子をいう
天威不違顏咫尺は、「天威咫尺」「天顔咫尺」という四字熟語のもとネタ
この部分は、単に「咫尺」の用例 咫尺並言。不云二尺也。
咫尺を並べて言う。二尺と云わざるなり。
咫尺を並べて言うということは、区別があるということ
だから、二尺とは言わない
この部分全体が、説文解字の「咫」の「周尺也」の注な訳だが
「周尺=咫」ではないことが分かる 國語、列子皆言其長尺有咫。
國語、列子皆、その長さ尺有咫と言う。
「国語」でも、「列子」でも、みんな、その長さ尺有咫という使い方をしている
『国語』は、21巻から成る国別の春秋時代史で、
『春秋左氏伝』の著者とされる魯の左丘明の編纂といわれている
『列子』は春秋戦国時代の人、列禦寇の著書とされる道家の文献
国語には「石砮其長尺有咫」、列子には「其劍長尺有咫」という表現がある 亦不言其長二尺也。
またその長さ、二尺と言わざるなり。
(天威咫尺で二尺と言わなかったように)また、二尺とは言っていない
「左伝」でも「国語」でも「列子」でも、咫と尺を並べて使っていても、
二尺とはしていない 是可證周未嘗八寸爲尺矣。
是れ、周未だ嘗て八寸を尺と爲さざる證なるべし。
こうしたことは、周の時代にいまだかつて八寸を尺と
したことはないという証と見てよいだろう
咫と尺はあくまで区別されている
説文解字では、咫の項に「中婦人手長八寸,謂之咫。周尺也。从尺只聲。」とある
これだけだと、「咫」の長さは婦人の手の大きさの八寸で
かつ、周尺の長さ(=八寸)のように読める しかし、段玉裁の《說文解字注》を見ると、周代でも尺は10寸であり、咫の八寸とは区別されていたことが分かる
周代には、春秋戦国時代も含まれる
段玉裁の《說文解字注》でいう六国時だ
この時期には、各国の制度が度量衡も含めばらばらになった
それで、周代の尺の長さが10寸なのか8寸なのか混乱し、分からなくなっていた
それで、秦の始皇帝による度量衡の統一が必要だった訳だ その際に咫は、もともと身体尺だったことから、統一公定尺の体系には入れられなかった
さらに、咫は使いどころがほぼない
八寸の言い換えで、八寸を咫という以外に使い道がない
7寸や9寸は、寸で示すしかないのだから、8寸も寸で示せば、もう咫の使いどころはない そうして、咫が「咫尺の書」などの決まった言い方でしか使われなくなって
それから、3世紀までには400年くらい時間が経っている
ここまできちんと把握すれば
円周が八咫になるように作ったとか、円周を測ったら八咫だったとかいうのは、
時代背景を考えれば意味がない
昭和の時代に思いついた人がいるってだけの単なる憶測だよ 皇統と無縁の八咫鏡の例が記紀に書かれている
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。
小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係
つまり、普通名詞としての「八咫鏡」だよ
単に大鏡を意味する普通名詞としての「八咫鏡」があり、そのうち
皇室の権威とともに伝世し、伊勢神宮のご神宝・ご神体となったものが、
三種の神器の一つとして固有名詞化した訳だ
それ以前の大鏡を普通名詞として「八咫鏡」と呼ぶのは自由だが、
普通名詞としての「八咫鏡」は当然皇位の象徴ではないし、王権の所在を示すものでもない
5枚もあって破鏡されているものを、王位の証と考えるのは牽強付会にすぎる >>115
>さらに、咫は使いどころがほぼない
>八寸の言い換えで、八寸を咫という以外に使い道がない
円周の近似値という使い方がある。
6でも7でもなく8寸だけに新たな呼称が与えられた理由を説明しろよ。 また、皇統と無関係の「八尺瓊勾玉」も日本書紀に出てくる
日本書紀 巻第六
活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇
昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。
是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」。
因以獻之。是玉今有石上~宮也。
もともとは、「八咫鏡」も「八尺瓊勾玉」も普通名詞として、
三種の神器以外にも使われていたことが分かる 6枚以上あって、それでは困るから卑弥呼の死をきっかけに一枚だけ残して割ったんだろう。
皇位の象徴がたくさんあったら困るからね。
むしろ破鏡の必然性があったことになる。 剣、勾玉、鏡のセットは大王家の独占物じゃないよ
普通の豪族の古墳でも出ている
山口の赤妻古墳とかね
畿内では大王墓は発掘できないand/or盗掘済みで、出てないってだけだよ 山梨県の笛吹市平林2号墳でも揃ってるね
自分でもちょっとググってごらんよ
普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ
つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ
平原1号墓を、副葬品だけで王墓と主張するのはピント外れなんだよ
そもそも伊都国に邪馬台国を持ってきたら、邪馬台国七万餘戸も満たせないし
平原1号墓も径百歩に合わない
本当に無理な屁理屈、アクロバティック解釈を重ねないと通らない説は、
正しくないと判断するのが当然 >>120
>むしろ破鏡の必然性があったことになる。
破鏡の必然性ww
皇室の「八咫鏡」は破鏡されていないから、別の文化だなw
当然、平原遺跡は皇統とは無縁の地方首長の家族墓地に過ぎない >>120
>6枚以上あって、それでは困るから
勝手に見つかってもいない「6枚目」を想定するところが、
捏造体質の九州説のやり方そのものだね
>それでは困るから
紀伊の日前神宮・國懸神宮ご神体の日像鏡・日矛鏡は、「八咫鏡」の前に
作った同型鏡という伝承があるね
また、大和の鏡作神社のご神鏡も「八咫鏡」の前に作った試作品で、
うまく作れなかったもの、という伝承がある
同型鏡があるのはかまわないみたいだよ?
それで困ることはない
「八咫鏡」の権威は、皇位とともに伝世することで付与されたもので、
最初から「八咫鏡」ありきで王位が決まった訳ではない >>123
>皇室の「八咫鏡」は破鏡されていないから、別の文化だなw
残された最後の一枚なんだよ。 >>124
>「八咫鏡」の権威は、皇位とともに伝世することで付与されたもので、
>最初から「八咫鏡」ありきで王位が決まった訳ではない
じゃあ、平原遺跡の鏡も八咫の鏡でいいよな。
キナイコシは自己矛盾しているだろ。 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。 現実から眼を背けて悦に入ったじいさんこそ歴史から逃げてるじゃんか
実証性がまるでない妄想はチラシの裏にでも書いてたら? 伊都クズは歴史学のなんたるかを全く理解してないんだから、実証とか求めるだけ無駄だよ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>128
イメージが被るのは認めるのかい?
それは大事だな
証明にはならんが バカか証明できるのは数学だけだ。
それ以外の分野は全て仮説の検証にすぎん。 >>125
>残された最後の一枚なんだよ。
勝手に見つかってもいない「6枚目」を想定するところが、
捏造体質の九州説のやり方そのものだね >>126
>じゃあ、平原遺跡の鏡も八咫の鏡でいいよな。
残念ながらそうはいかない
「八咫鏡」という語は、記紀が初出であり、それ以前どこまで遡れるかは定かではない
皇室の三種の神器が「八咫鏡」と呼ばれるようになったのは、かなり後代の後付とみるのが
考古学的出土遺物との関係から考えると、妥当となる
3世紀(九州説の言い分を認めたとして、おそらく実際は2世紀)に破鏡されて、
墳丘内にばら撒かれて忘れられた平原1号墓のガラパゴス大鏡が「八咫鏡」と
呼ばれた可能性は最初からない
>キナイコシは自己矛盾しているだろ。
平原1号墓出土鏡を「八咫鏡」だと「言い出した」のが、昭和の憶測に過ぎないってのを
早く理解できるようになるといいね
伊都クズ「キナイコシ」はまあ、なんでも脳内改変するから、矛盾を矛盾だと理解できないんだよ >>136
>それ以外の分野は全て仮説の検証にすぎん。
その「仮説の検証」すらできない、妄想・憶測は科学じゃないってことだよww
平原1号墓が卑弥呼の墓だとか
平原1号墓出土鏡が「八咫鏡」だとかww >>139
文献内容から考察すれば、現在出土している鏡の中では可能性が高い、というところだろうね
何より八葉紐座が平原鏡のみ、というのが気になるねぇ
それと、やはり籠神社の鏡が内行花文鏡だった事が大きいかな >>140
>それと、やはり籠神社の鏡が内行花文鏡だった事が大きいかな
そうだね。
籠神社の鏡は天孫ニギハヤヒのものだったと伝えられている。
卑弥呼の先代の倭王であったろう三雲南小路も内行花文鏡だし、こちらはもう一人の天孫であるニニギのものだろう。
倭王の象徴が内行花文鏡であるのは間違いない。
すると、平原遺跡に眠る女王も倭王卑弥呼ということになる。 >>140
>何より八葉紐座が平原鏡のみ、というのが気になるねぇ
>それと、やはり籠神社の鏡が内行花文鏡だった事が大きいかな
籠神社の連弧文鏡が柿蔕8つになってないから、つながりはないって見ればいいんだろ? 籠神社の方が古い様式。
前漢と後漢。
平原遺跡のはそれより新しい、魏代のもの。
100年単位で時代が違うから、様式の差があって当然。 >>144
>前漢と後漢。
あのぉ、平原1号墓出土鏡のたった二枚の舶載鏡は
16号鏡 18.8センチ 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡 漢鏡5期 後漢鏡
17号鏡 16.5センチ 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡 漢鏡3期 前漢鏡
で、まったく年代的には同じなんですが、それは? それは古い倭奴国の権威を継承している証として墓に入れたんだよ。
でもそれとは別に、最新最大の内行花文鏡も、入れてあるわけだよ。
それぞれの鏡は意味があるんだよ。 籠神社の鏡は、ニギハヤヒが天照大神から授かった十種の神宝の一部とされている。
天照大神(海洋王)が出雲の大国主(陸上王)を倒してから、最初にあめつち(海洋と大地)の統一王となったのが、天照大神の孫であるニギハヤヒである。
その称号は先代旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命であり、天照と国照の二つが含まれている。
その象徴である籠神社の鏡は前漢と後漢の内行花文鏡であり、これが倭王の証であったのだろう。
同じく天照大神の孫であるニニギの王権とみられる伊都国(筑紫の日向)の日向三代の王墓(三雲南小路など)も、内行花文鏡が副葬されている。
この伝統は3世紀の平原遺跡において、世界最大の内行花文鏡である八咫の鏡として頂点を迎える。
本来は漢の皇帝から倭王の証として下賜されていた鏡が、漢の滅亡後に卑弥呼政権下で国産化され、今日の天皇家の象徴である三種の神器に継承されている(そのままの鏡ではないらしいが)。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています