邪馬台国の倭人は鉄器使用
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倭人は朝鮮半島投馬国経由で鉄を採取 【三国志東夷伝韓条】
3世紀に鉄器を使っているのは「当たり前」
倭人伝に書かれた【鉄鏃】なんて
時代劇の武将ヨロシク、自宅の庭で試射しまくってたわけで
リサイクル回収なんてしないw
あれ?3世紀の遺跡から鉄器ゼロ?
マジくそん???www >>692
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑) >>693
>思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑)
これを無視せざるを得ない九州説。 哀れ! わははははは @阿波
↓
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 >>694
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑) >>695
逃げ回らずに、答えてみ、ヘタレ君! みっともないよ。 わははははは @阿波 >>696
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑) >>698
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑) 卑弥呼時代は邪馬台国が九州と奈良の2か所、並列で有ったんだよ。
九州邪馬台国は卑弥呼の領地で奈良邪馬台国は男王の領地
これと似た話はアマテラスと弟王スサノオの神話に良く似てる。
日本の歴史上で都が2か所同時の時代が多い
飛鳥と藤原の宮、藤原と平城、平城と平安、明治の京都と東京のように。 卑弥呼、邪馬台国は火の国の斎王だったで、 今の熊本平野の北半分で
南半分がクコチヒコの狗奴国
これは福岡、御笠川を小船で登り太宰府までそこで筑後川の上流宝満川を下れば
有明海に入り南へ水行で熊本の菊池川か白川を登れば邪馬台国に着く。
不弥国から小船で水行すれば十日、内陸行で1か月がピッタリはまる。 じゃあ、卑弥呼ほどの国際通がなぜこんな奥まった阿蘇などに籠ってるのか
伊都国か今の太宰府辺りなら街で使節とも直ぐ面会できるのにと
昔から不思議で九州説は胡散臭く感じてたが有ることに気づいたんだよ。
それはね、「鉄」鉄器、文明をもひっくり返す鉄の存在で軍事面からも鉄はハイテク製品で
農具でも斧、鍬や鎌、ノコギリなんかだと開懇が楽になる。
肥後の国は弥生時代の遺跡から鉄鏃が大量にでてくる
今までは、倭人伝にもある鉄は韓国からの輸入が定説だったが
最近熊本、菊池市辺りの遺跡から製鉄で出るカスのスラグ鉱滓(こうさい)が出土する。
卑弥呼は鉄鉱山、製鉄、利権を持った邪馬台の管理者だった。 それじゃ、阿蘇に製鉄のための鉄資源はどこにあると疑問が湧くが
阿蘇には阿蘇赤土リモナイトてのがあって、焼けばベンガラ、古墳に使ってる赤色。
このリモナイトは正式名褐鉄鉱で、鉄の酸化鉱物、沼地などにある赤土
阿蘇リモナイトは褐鉄鉱や湖沼鉄と云われ、古代イギリスでは湖沼鉄から鉄器を作ってる
湖沼鉄は低い温度800度ほどで溶解し加工しやすい。この時スラグ鉱滓がでてくる。 この肥後には何度となく天皇の熊襲征伐など神話などにも登場する地域で
景行天皇や王子の日本武尊(ヤマトタケル)の熊襲征伐とか筑紫の君岩井の反乱や
北部にはワカタケル大王名の鉄刀が江田船山古墳から出土したりで
何かといわく付きの土地がら。
神話の景行天皇が廻った地は製鉄炉の遺跡がある地域が多いらしい
から鉄生産地の視察の雰囲気なのが不思議。 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. 日本独自の製鉄と云えば、たたら製鉄でこれは川などにある砂鉄を使う、
たたら製鉄は古墳時代に発展する製鉄で高温なので技術的に難しいが
湖沼鉄は土管や壷に炭を入れて火を付け、下からフイゴで風を送り
その上からか湖沼鉄を入れるだけで 下からドロドロの鉄が出てくる、
量は少ないが矢じりや農具くらいは出来る
今でも、アフリカの部族ではこのやり方で鉄を手に入れてる。 その余の旁国は遠絶にして詳らかにすることを得べからず。
次に斯馬国あり。次に己百支国あり。次に伊邪国あり。次に郡支国あり。次に彌奴国あり。
次に好古都国あり。次に不呼国あり。次に姐奴国あり。次に対蘇国あり。次に蘇奴国あり。
次に呼邑国あり。次に華奴蘇奴国あり。次に鬼国あり。次に為吾国あり。次に鬼奴国あり。
次に邪馬国あり。次に躬臣国あり。次に巴利国あり。次に支惟国あり。次に烏奴国あり。
次に奴国あり。
これ女王に境界の尽くる所なり。 その東には大山(伊勢国から見える富士山)あり。
その南に狗奴国あり。男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。
女王に属せず。 郡より女王国に至ること万二千余里。 旁国は遠すぎて詳しい事はわからないと使節が書いてる。 だから近畿地方の国。
次に斯馬国あり。(志摩国)
次に伊邪国あり。(伊勢国)
次に好古都国あり。(高津国、高津の宮)
次に不呼国あり。
次に姐奴国あり。
次に対蘇国あり。
次に蘇奴国あり。 (添の国、奈良北部の広い郡)
次に華奴蘇奴国あり。(添下郡、そのかの国)
次に鬼国あり。 (紀伊国)
次に為吾国あり。(伊賀国)
次に鬼奴国あり(紀の国)
次に彌奴国あり。(美濃国)
次に邪馬国あり。(山城国、山背国、平安京まえの京都)
次に躬臣国あり。(越コシの国)
次に巴利国あり。(播磨、針間国)
次に支惟国あり。(吉備国?)
次に烏奴国あり。(宇治国、古くは内、うのくに) .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. 郡より邪馬台国までは一万二千里。
郡より狗邪韓国までが七千里。
狗邪韓国より伊都国までが三千里の計一万里
伊都国より不弥国までが七百里ほどで
不弥国より邪馬台国までが南千三百里。水行十日で陸から行けば1か月。
で、大体熊本平野の北部地域になる。 南に水行二十日で投馬国が不明。サツマ? 薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。
西海道に属する。
で、かなり古くからツマと発音する大きな港「津」があって
後にサツマと呼ばれる様になった、ちなみに八女地域も妻と呼ばれて
このツマ、津間、には瀬戸内の鞆の浦のような風待ち港の意味があるのかもな。 推奨NGワード
↓
@阿波
釜と甑
釜と竈
氏名と所属団体 肥後と筑後の違いがわかっていないアホがいるな。
熊襲タケルは肥前だし、筑紫の君岩井は筑後だ(肥後には肥の君がいた)。
そもそも魏志倭人伝の里程では熊本平野には届かないし、菊池平野には狗奴国の菊池彦がいた。 肥後は欲を出さずにくまもんの弟くなもんを商標登録しとけ
邪馬台国とちがってライバルいないから狙い目だぞw >>715
古代倭王が、九州に居たら、絶対湯治に行くよね。 九州の風土記や万葉集などにも書くよね。 九州に居なかったから書こうにも書けないよね。 わははははは @阿波 714←中国から来た来た詐欺のサギー華南ブタチックボルネオチックセロイピーノwwww 「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、狗邪韓国に到る。七千余里。」
「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。
「又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。
「又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。
「東南陸行。五百里。伊都国に到る。
「東南、奴国に至る。百里。
「東行、不弥国に至る。百里。
〇合計、「郡より不弥国までが万七百里で、残り不弥国から邪馬壱国まで「千三百里。」
「南、投馬国に至る。水行二十日。
「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。
郡より女王国に至る。万二千余里。」 投馬国、ツマは端っこの意味があり、筑紫島の端っこ後世のサツマ
つま【▽端/妻】
1 物のはしの部分。へり。
㋐建物の長手方向の端部で、棟と直角をなす壁面。妻壁。⇔平 (ひら) 。
㋑切妻 (きりづま) や入母屋 (いりもや) の屋根の側面の三角形の壁面。
3 物事のいとぐち。てがかり。端緒。 不弥国より放射説で行けば、南、投馬国に至る。水行二十日。
南、邪馬壱国に至る。 女王の都とする所。水行だと十日、内陸徒行だと一か月。
で丁度、投馬国までの中間地点と言うことで、肥後国の北部が女王国。 >>719
>〇合計、「郡より不弥国までが万七百里で、残り不弥国から邪馬壱国まで「千三百里。」
そもそも、加算が間違いの元! どこにも、加算して「万二千里」などとは書かれていない! @阿波 「自郡至女王國 萬二千餘里」
加算も何も、郡から女王国までは万二千余里、有りますよ。と言ってるが
日本語不自由なんか?勉強ガンバレよ。 >>723
>加算も何も、郡から女王国までは万二千余里、有りますよ。と言ってるが
その通り。 郡から女王国までは直線距離で万二千余里、有りますよ。と言ってる。 @阿波 >>722
/ | | | |i :ili、 l | | ヽ
. / | }| ヽ\,__ili_i、 l | l ハ
_,. イ! | | 「 il|ヘ | | !
; i|l|i|リ ,;iii yz ,z, | | l | |
≠y、li|li|i ″ '´ rぅxヾ寸、 ll ! l |
气 ` ゙r; ; 、、 ゝ‐′リii小从 |「`ヽ ヘ.{
:ツ / 〃 { \`‐=彡'″{^Yl} | '. ` ひぃぃぃ!!
=彡 ''" 丶 「゙弋ー、l i 泡チョンがいるぅぅぅ!!!
| 、 \ 、 |
n r !|l l ;;l :! キムチわるいぃぃぃぃ!!!!!
_, | || l | | |
. , /⌒ー'⌒ヽ.〈 ! l{ ' Vl | いやあああああああ!!!!!!
/ /「「「「「「「「「「「い jll{ ?j|
\ ll /!i|i|i|i|i|i|i|i|i|i|i|i|} |i /ノ ,;i }` 、
`ヽ{ レ'´ `く ヽl| |i / ″′ ヽ どうして泡チョンがいるのぉぉぉおぉぉ???
ヽ ノ ′,;ii/ /
ト- ==== ''" ,,;iill/ / } あっち行ってえええええ いやあああああああ!!!
. ノ /iilil{ / {
≧== 彡l||llx _ イ ∧ / ,勿 ヽ
 ̄`xl|i彡'´ / ハ 〈 彡'´ ノ >>724
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>724 直線距離で万二千余里
地図もない古代に直線距離なんて何で測るんだい、感か?
そもそも倭人伝に直線距離なんて何処にも書いてない
道のりで測るのが基本。 >>728
>地図もない古代に直線距離なんて何で測るんだい、感か?
行ったことも、見たこともない遥か彼方の大海に浮かぶ国や島が、現実に描かれている。 なんらかの測量法があったことは確実。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf.jpg >>728
>道のりで測るのが基本。
海上では不可能。
なんらかの測量法があったことは確実。
15世紀だが、測量に関しては邪馬台国時代とそれほどの測量技術の差異はないはず(光学機器がない)。 @阿波
「混一疆理歴代国都之図」
https://imgur.com/PAiNBQf.jpg 根拠
自女王國以北について:
「自女王國以北 其戸数道里可得略載 其余旁國遠絶 不可得詳」
”自女王國以北は女王國を含む”
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北には 一大率を特に置き、検察す。諸國は之れを畏れ憚る。常には伊都國に治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国内とその北方に対しては、一人の大率を特別に設置して、検察している。諸国は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。(大率は)普段は伊都国で働いている。(大率とは)(陳寿と三国志完成当時読者の暮らす西晋における)刺史(監察官)と同職のようである。
解説
まず、余旁國との対比によって、自女王國以北は女王國も含むことがわかる。
また刺史は、もともと漢の設置した監察職であったのが、三国志の戦乱期には一時的に長官職となったが、
西晋初代皇帝が全国統一を果たすに及び、職権乱用を粛清されて元の監察職へ戻された。
女王國は女王が支配しているのだから、女王國をも担当する大率は支配官ではなく、女王國の監察官である。 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. 三国志に出てくる「治」は433文字。うち、「治+地名」は24か所。
うち22例にて、"A+治+地名B"は、
「A自らの中心拠点を(Aの管轄域の主要地である)Bに設置した」の意味で使われている。
☆袁紹因表太祖爲東郡太守治東武陽 袁紹は太祖曹操を兗州東郡の太守に任命し、曹操は東武陽県に郡治を置いた
☆徙爲東郡太守治東武陽 (臧洪を)東郡太守に転任させ、臧洪は東武陽県に郡治を置いた
☆郡所治廣武 郡庁所在地の廣武県
☆治廣ィ如舊 (烏丸校尉の閻柔は)元からの如く廣ィ(上谷郡の寧城)で執務した
☆辰王治月支國 辰王は月支國で政務を執っている(魏志韓伝)
☆焉徙治綿竹 (益州牧)劉焉は綿竹県に州治を移した
☆焉徙治成都 (綿竹の大火災)劉焉は成都に州治を移した
☆羣下推先主爲荊州牧治公安 先主(劉備)は公安県に州治を置いた
☆治成都 (劉備は)成都を首都とした
☆先主爲漢中王遷治成都 劉備は漢中王になると、成都を首都とした
☆移治味縣 (庲降都督)馬忠は主要拠点を味県に移した
☆州舊治壽春 揚州の州治は昔から壽春県にある
☆繇乃渡江治曲阿 (揚州刺史)劉繇は長江を渡って曲阿県に州治を移した
☆權徙治秣陵 孫権は首府を秣陵県に移した
☆以慈爲建昌都尉治海昬 太史慈を建昌都尉(6県担当)に任命し、太史慈は海昬県に主要拠点を置いた
☆領荊州牧治公安 (劉備は)荊州牧を拝領し、公安に州治を置いた
☆以普爲吳郡都尉治錢唐 (呉郡都尉)程普は銭唐に軍事拠点をおいた
☆領江夏太守治沙羨 江夏郡の太守になって、程普は沙羨県に郡治を置いた
☆領丹楊太守治建業 (呂範を)丹楊郡の太守にして、呂範は建業県に郡治を置いた
☆拜抗都督信陵西陵夷道樂鄉公安諸軍事治樂鄉 陸抗は都督となって、信陵〜公安の軍事担当となり、樂鄉に主要拠点を置いた
☆假節開府治半州 (鎭軍大將軍の孫慮に)軍政府を開設させて、孫慮は幕府を半州に置いた
☆爲吳興郡治烏程 (烏程候から皇帝になった孫晧は)呉興郡を新設して、烏程県に郡治を置いた
★使司隸校尉留治関中 司隸校尉を関中に留めて治めさせる
★司隸校尉治弘農 司隸校尉に弘農郡を治めさせた >>739
糸チョンコロは脳が完全に麻痺状態やけん新コロ感染しても自覚できんと思うわ 郷土愛に狂う糸クズを筆頭に、思考を停止させた古田信者や、在日朝鮮人の如きキナイコシがいくら声高に駄々をこねようとも、伊都国は女王国に従属する一介の諸国であり、女王国には成り得ないのは明白。
一大率は伊都国に「治」を常設し、女王国の北限で監視する女王国の監察官であることに疑念の余地はない。
無論だが、女王国は「九州」である。
【根拠】
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”(長)官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。みな女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
長官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き、特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。伊都國に常治す。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)伊都国に(魏の帯方郡「治」のような)役所を常設した。(一大率とは魏の)刺史(「部」)と同職のようである。
【解説】
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、女王國に従属している「皆」は前節の爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指している。 つまり伊都国の王も役人も住民も女王国に従属している。
そして、諸國が「畏れている」のは前節の一大率の事であり、「伊都國」も前節の諸國に含まれるのは明白である。
また、三国志における刺史は西晋以降は監察官であり、国内の刺史「部」に務め、植民地や属国に(楽浪・帯方)郡「治」を置き、部下(太守や官吏など)を配していた。
伊都国に刺史の如き一大率が役所を常設した以上、伊都国は女王国の植民地ないし属国であることに疑いの余地は皆無である。 >>741
>無論だが、女王国は「九州」である。
「丹」の採れない北部九州奴国(博多)に、卑弥呼が居るわけがない。 以上。 @阿波 >>742
オイ、泡チョンコ!頭ン中を見せてみろ!
∧_,,∧ パカッ __,,
。゚( ゚^∀^゚)゚ 彡 ∨ ∨
/ つ#`Д´> ヤ、ヤメルニダァ
( ( つ O
し' と_)_)
アハハハハハハハハハハ
∧_,,∧ 泡チョンコの頭に人糞が詰まってんぞ!
。゚( ゚^∀^゚)゚ クサッ
/ つ#`Д´> み、見るなニダ!
( ( つ O
し' と_)_) ∧_,,∧
なっ、本当だろ!
∧_,,∧ ∧_,,∧ アハハハハハハハハハハ
。゚( ゚^∀^゚)゚ ( ゚^∀^゚)゚。 マジで人糞じゃん!クサッ
/ つ#`Д´>⊂ ヽ だから妄想しかできねぇんだw
( ( つ O ) つーかクッセーなオイ!
し' と_)_) し´ ∧_,,∧ 弥生時代の2遺跡、製鉄炉の違いは? 淡路市教委が再現検証
https://www.sankei.com/region/news/170731/rgn1707310035-n1.html
今回は地面に直接炭を置く炉▽ 穴を掘って溝をつけない炉▽ 穴と溝のある炉−の
3種類に炭とくぎを入れ、同じ時間燃焼させる実験を行った。
市職員が牛皮とハスの茎を使った天然素材のふいごを使って30分ずつ燃焼。
地面に直接置いた炉は796度、溝のない炉は730度が最高温度だったが、
舟木遺跡型の穴に溝のある炉は15分で1000度を超えた。 なぜ炭の燃焼で鉄を融解させることができるのか 投稿日時 - 2018-05-30 17:32:21
炭の燃焼温度は、約1000℃ぐらいで鉄が融解する温度は、1500℃程度です。
なのにたたら製鉄や反射炉では、鉄は、融解します。
炭がいくら燃焼してもその温度が1000℃ならばそれ以上に
温度が上がることは無いと思うのですがなぜ鉄が融解するのでしょうか?
純鉄が溶けるのは1535℃と言われていますが、炭素を含む鉄はその含有率に応じて、
1150℃程度まで融点が低下します。
炭の燃焼温度が約1000℃というのは大気の自然対流で酸素を供給する場合の温度で、
ふいごなどで空気を強制的に送り込むと燃焼が激しくなり、更に高温になります。
多分2000℃位は出ていると思います。 鉄などの切断や溶接に使われるアセチレンの燃焼温度は305℃です、
でも鉄や金属を溶かして切断や、溶接が出来ます。
実はアセチレンだけでなく酸素を使って約4000℃まで温度を上げるから
溶かすことが出来るのです、
炭であっても、
大量に空気をフイゴで送り酸素量を増やせば温度は鉄が溶ける以上に上げられます、
空気(酸素21%)でなく酸素100%を送ればやはり4000℃位まで上がると思います >倭人たちは高温管理には熟知してて、鉄器、製鉄、には難なく生産出来たはず。
ガラスの成形に適した粘度は104 ~ 107.6ポアズで、ソーダ石灰ガラスでは690~1000℃程度、
ホウケイ酸ガラスでは820~1250℃程度のときにその粘度となる。
遺跡から出土するガラス玉
九州地方の弥生時代の遺跡からは、土器などの遺物とともにガラスが出土していることから
裏付けられています。これらのガラスは、国内で原料から生産していた訳ではなく、
製品や資材として作られたものが国内に持ち込まれ、加工・使用(流通)していたものと ...
青銅器
銅のとける温度は1083℃でなかなか溶けにくいのですが、
ここにスズを加えると銅もつられて875℃で溶けて青銅になります。 倭人たちは狭い出入り口を「と戸・門」と言った
神々の出入り口を「神の戸、神戸」といい
潮の流れで船がギシギシ鳴るので「鳴戸・鳴門」といい、
島に挟まれた浅瀬の通りを「瀬戸」といい
長い通り口を「長門」といい
音が出るほど流れの速い出入り口を「音戸」音戸瀬戸と言う
と云った具合で人の出入りする所を「と・戸・門」と言ったようで
連山などが途切れ人が通れる場所を山の戸「山戸・山門」と言ったのかも知れん、
阿蘇盆地、外輪山のちょうど途切れ白川が有明海への出口辺りとか
生駒・和泉連山がちょうど途切れた場所に奈良大和川が流れ大阪湾へ
自然と「邪馬台」と云う地名が付いたような。 伊都国、記紀における呼称は筑紫の日向
イザナギが禊をして、ニニギが降臨して、神武が旅立った神代の王都 「古事記」に書かれた神武東征の神話どうりだと筑紫の日向だと順路に矛盾がある
阿蘇の「邪馬台」なら東20kmほどで神武の祖母、豊玉姫命の祖母山の
麓にある高千穂コースならすんなり50kmほどで日向宮崎、海に出る。
神武東征(じんむとうせい)は、磐余彦尊が日向を発ち、奈良盆地とその周辺を
征服して、はじめて天皇位についた(神武天皇)という一連の説話をさす用語。
神倭伊波礼毘古命は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、
葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。
舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。
宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って
彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、
さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。 >>749
糸チョンうぜぇけん自スレに閉じこもっとけカス! 福岡の吉武高木遺跡・弥生時代(紀元前4世紀ころ)の遺跡で,
「三種の神器」をイメージさせる鏡・玉・剣を副葬した「最古の王墓」(3号木棺墓)
記紀神話によれば、アマテラスの誕生の地、その孫のニニギ天孫降臨の地は、
「筑紫の日向(ひむか)」であると記されている。
と律令時代の日向国、現在の宮崎県高千穂地方とは、なんか時代的なずれがある
何代目かの巫女アマテラスが阿蘇・邪馬台国に進出し卑弥呼の歴史時代となった。
卑弥呼は東アジアの国際情勢をキチンと把握してる。 >>750
>舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。
日向が伊都国、筑紫が奴国のことだと考えると配置がピッタリかもしれない。
宇佐は現在の宇佐市ではなく、小倉だ。
宇佐も日向も笠沙も、のちに地名が九州全体に再配置されているが、本来は全て福岡県北部のことだろう。 >>754
奴国(二万戸)(田川辺り) @阿波
奴国(田川辺り) : 「上本町遺跡」・「下伊田遺跡」・「五徳畑ケ田遺跡」・「真崎遺跡」 >>754
末盧国(福津辺り) : 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」・「新原・奴山古墳群」
伊都国(直方辺り) : 「感田上原遺跡」・「帯田遺跡」
奴国(田川辺り) : 「上本町遺跡」・「下伊田遺跡」・「五徳畑ケ田遺跡」・「真崎遺跡」
不弥国(築上町辺り) : 「築城五反田遺跡」・「上別府沖代遺跡」・「安武・深田遺跡」・「安武・土井の内遺跡」・「赤幡森ヶ坪遺跡」
投馬国(宿毛辺り) : 「橋上遺跡」・「ニノ宮遣跡」・「高知坐神社遣跡」・「福良遣跡」 @阿波 >>753
>筑紫が奴国
肥国推しさんがいつも、肥国が筑後の地を奪われて、肥前と肥後に分断されたというが、
筑紫が奴国であれば、奴国の工房群が南下して筑後に勢力拡大していくから
考古学的に検討する手掛かりがありそうだな。
サンクス。 >>759
横からだけど
宇佐神宮は何度か遷ってるよ。 宇佐神宮は宇佐に遷ったから宇佐神宮と呼ばれるようになったんだろ >>761
【大分宇佐八幡宮の勧請元は、阿波國神山町宇狭に鎮座する「宇佐八幡宮」(辰の宮)である。】
大分の宇佐八幡宮の開基は725年。
一方、阿波国 国府町井戸 「八幡神社」の開基は、白鳳二年(674年)。 御祭神は、誉田別命・仲哀天皇・三女命(いわゆる宗像三神)。
「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年 宇佐八幡宮ヨリ御分遷 誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至 迄幾度改修・・・」 以下略
大分の宇佐八幡宮の創建より遡ること51年、白鳳二年(674年)にこの阿波国 国府町井戸 「八幡神社」 は、阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。
よって、大分の宇佐八幡宮も、 阿波国『国府町井戸 八幡神社』 より51年遅れて、 神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)から勧請されたものであろう。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 宇佐の次の岡田が小倉だから、宇佐は博多と小倉の間になる。
その間にある重要な場所は宗像だな。 香椎宮の勧請元は
徳島市南佐古七番町の椎宮八幡神社
寛文年間(1661〜73)名東郡矢三村(古八幡)より当地へ遷座と伝わる。 @阿波 【大分宇佐八幡宮の勧請元は、阿波國神山町宇狭に鎮座する「宇佐八幡宮」(辰の宮)である。】 @阿波 >>755
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>756
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>757
オイ、泡チョンコ!頭ン中を見せてみろ!
∧_,,∧ パカッ __,,
。゚( ゚^∀^゚)゚ 彡 ∨ ∨
/ つ#`Д´> ヤ、ヤメルニダァ
( ( つ O
し' と_)_)
アハハハハハハハハハハ
∧_,,∧ 泡チョンコの頭に人糞が詰まってんぞ!
。゚( ゚^∀^゚)゚ クサッ
/ つ#`Д´> み、見るなニダ!
( ( つ O
し' と_)_) ∧_,,∧
なっ、本当だろ!
∧_,,∧ ∧_,,∧ アハハハハハハハハハハ
。゚( ゚^∀^゚)゚ ( ゚^∀^゚)゚。 マジで人糞じゃん!クサッ
/ つ#`Д´>⊂ ヽ だから妄想しかできねぇんだw
( ( つ O ) つーかクッセーなオイ!
し' と_)_) し´ ∧_,,∧ >>762
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑) >>765
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>768
♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
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♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
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└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
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♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
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((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
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♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ 泡モ脳ナシ♪
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└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ 推奨NGワード
↓
@阿波
河姆渡
良渚
木骨泥墻
鬲
甑
竈
鼎
耜
オクキョン
氏名と所属団体
サギー
チンク
ツカポコタカ 宇佐神宮の御祭神のうち、神武時代にいたのは誰かを考えたら自然に当時の場所が導かれる。 >『北史倭国伝』には、倭國」について、『邪摩堆(奈良・大和)と 「魏志」のいわゆる
>(卑弥呼の)邪馬台国との関係を、噴石が降って来る阿蘇山まで行って調査してる。
北史倭国伝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8F%B2%E5%80%AD%E5%9B%BD%E4%BC%9D
『南史倭国伝』 倭国の先祖の所出および所在
原文 日本語訳
倭國、其先所出及所在、事詳北史。 | 倭国、その先の出たる所および所在は、北史に事詳しく。
倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海中依山島而居。
居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
『北史倭国伝』では、「倭國」について、『邪摩堆(奈良・大和)に居す、則ち「魏志」のいわゆる
(卑弥呼の)邪馬台なる者なり。』とあり、邪馬台国と奈良・大和朝廷の連続性を認めている。 また、魏志倭人伝には記述されていない概念として、
『其国境、 東西五月行、 南北三月行、 各至於海』が、北史では記述されている。
そのため、魏志倭人伝で曖昧とされた旅程日数・方角・総距離については、明確化されている。
北史では邪馬台国への行程のほか、邪摩堆(奈良・大和)への行程も記述されており、
対比する形で比較検証ができる。
北史『有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行祷祭。
有如意寶珠、其色青、大如鶏卵、夜則有光、云魚眼精也。
新羅、百濟皆以倭為大國、 多珍物、並敬仰之、恒通使往來。』
阿蘇山あり。その石、故無くして火起り天に接する者、俗以って異となし、因って祷祭を行う。
如意宝珠あり、その色青く、大きさ鶏卵の如く、夜は則ち光りあり。云う魚の眼精なりと。
新羅・百済、皆倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬仰し、恒に通使・往来す。 「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、狗邪韓国に到る。七千余里。」
「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。
「又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。
「又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。
「東南陸行。五百里。伊都国に到る。
「東南、奴国に至る。百里。
「東行、不弥国に至る。百里。
〇合計、「郡より不弥国までが万七百里で、残り不弥国から邪馬壱国まで「千三百里。」
「南、投馬国に至る。水行二十日。
「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。
南、邪馬壱国に至る。 女王の都とする所。水行だと十日、内陸徒行だと一か月。
郡より女王国に至る。万二千余里。」 >>779
>〇合計、「郡より不弥国までが万七百里で、残り不弥国から邪馬壱国まで「千三百里。」
そもそも、その加算が間違いの元! どこにも、加算して「万二千里」などとは書かれていない! すべて直線距離で表されている。 @阿波 >>778
>阿蘇山あり。
熊本の「阿蘇山」は、好字令以後の後付け名称! @阿波 魏志倭人伝では博多湾から邪馬台国までは「千三百里。」
郡より女王国に至る。万二千余里。」 とハッキリ書いてある
しかし、北史倭国伝 では7世紀の倭国の広さを秦王国などがあり
『其国境、 東西五月行、 南北三月行、 各至於海』と言って
奈良・大和国のスケールが桁違いに巨大化してる。 >>777
その部分の出処は隋書と同じ
卑弥呼から300年後に倭を訪れた裴世清が「ここが邪馬台国だ」などと分かるわけもなく
単にヤマトという地名の音が同じだったからそう思い込んだに過ぎない
北史には邪馬台国時代の記述もあるが里程は短里だし方角も不弥国から南に向かっていて畿内ではない
いっぽう裴世清のルートは竹斯国から東と記載されているから明らかに別の場所に行ってる 裴世清の7世紀ころには今は無き写本が沢山あった、
倭国のヤマトを表記するのにワザワザ「居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
2種類の表記でヤマトを分ける必要があった。
5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝では
「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では俀国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」
(魏志に則ればいわゆる邪馬臺者)、唐代の『北史』四夷伝では
「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。
これらの正史は、現存の宋代の『三国志』より古い写本を引用している。 >>784
>卑弥呼ヤマトと奈良ヤマトは別の場所だが
>元は同じ係累だと認識できたから。
その通り。 @阿波 倭人伝には灼骨而卜(卜骨)
隋書には知卜筮(卜骨、筮竹)
考古学では卜骨は弥生時代の東の本州から広範囲に出土する
古墳時代後期に亀卜も加わる
南行して會稽東冶之東より東行のほうが考古とは一致している
所詮素人の遊びなので考古学を無視すれば→↓パズルでどこでも比定可能 卜骨は壱岐から大量に出土しているから、
邪馬台国領に初めて入国した張政がそれを記録したものが
倭人の風習として採用された、ということで解決ずみ。
これを論破することもできないのだから、
邪馬台国論争で九州説畿内説の対比には使えない。 >>788
>裴世清は元興寺を訪れてるから飛鳥しかないわな
元興寺も、もちろん倭国(阿波)。 飛鳥の地ももちろん、倭国(阿波)。 @阿波 壱岐にあればいいで自己満足済w
後は考古無視して→↓パズルでどこでも比定可能
それが150年間 壱岐にあれば→↓パズルでどこに比定しても考古学に則っているという自己満足 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています