邪馬台国四国説 part5
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wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様だが、
オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神
豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。
元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だった。
大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。 @阿波 ここは妄想スレですので実証的な考察を希望される方は直ちに見るのを止めて下さい >>4
もうここが、メインスレになってしまった以上、無理! わははははは @阿波 「天岩戸別神社」は徳島県名東郡佐那河内村上字牛木屋に鎮座し、ご祭神「手力男神」が祀られている。
この神(「手力男神」)は「古事記」に天岩戸を開けた神として書かれ、「佐那那縣(さなながた)に座す」と書かれている。
佐那河内村は、古く「佐那県(さなのあがた)」と称されたと「村史」に書かれ「古事記」と一致する。
その上、西に山を越えると天岩戸立岩神社があり、徳島市には式内社の天石門別矢倉比賣神社と天岩戸別豊玉比賣神社が鎮座することは、
天孫降臨の地が、阿波であると言わざるを得ない。 @阿波 「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。 @阿波 倭国とは、
日本で唯一、大和朝廷から「倭大國魂神社・倭大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。 @阿波 倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。 わははははは @阿波 トンデモ説は「当時」の自然環境を軽視しすぎ。 @阿波
・奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。
・纏向は湿地帯で王都に不適。
・対馬海流に流されて、末羅國=呼子・唐津は有り得ない。
・瀬戸内海航路は潮流対策施設不備につき、少なくとも卑弥呼時代は「通し航行」不可能。
・弥生の大洪水で稲作壊滅状態。 トンデモ説は「当時」の自然環境を軽視しすぎ。 @阿波
・奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。
・纏向は湿地帯で王都に不適。
・対馬海流に流されて、末羅國=呼子・唐津は有り得ない。
・瀬戸内海航路は潮流対策施設不備につき、少なくとも卑弥呼時代は「通し航行」不可能。
・弥生の大洪水で西日本一帯、灌漑稲作は壊滅状態。 「弥生人にとって、阿波はまさに理想の土地」
温暖な気候・多数の大河の恵み・大河流域の土地の恵み・黒潮流れる大海の恵み・山深い森林の恵み・多種類の希少鉱物の恵み
阿波に人が集まり、独自文化が発祥・全国展開したのは、当然といえば当然。 @阿波 西日本壊滅状態に何で阿波が入ってないんだ?最初から何も無いからだなw 「弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流」
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水により、灌漑水田稲作は壊滅である。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、
縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせる。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。 @阿波 弥生時代に壊滅して阿波は二度と立ち上がれなかったんだな 「東征毛人五十國西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」
これはずばり、四国(阿波)を中心とした東・西・北の展開記述である。
東征毛人五十五國 =近畿以東(北関東含む)
西服衆夷六十六國 =西瀬戸内・九州
渡平海北九十五國 =東瀬戸内・山陰・北陸
これは、倭国(阿波)から進出した忌部一族の開拓地域と符合する。 @阿波 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. 九州か畿内か
という二択を迫ってる時点で、その二つは真実を隠すための嘘でしかない 神武東征(阿波市→鳴門市)に関わる神社で、熊野の戦いの旧跡に祀られた神社
「熊野神社」
https://sueyasumas.exblog.jp/9791934/ 神武東征説話は吉野川下流の南岸勢力が北岸勢力を従属させた歴史の記憶で、「樫原神社」の東西にその舞台が連なっている。
前に紹介した「熊野神社」もそのひとつである。
「樫原神社」の南に四国霊場九番札所「法輪寺」があり、さらにその南の吉野川の近くには式内「事代主神社」がある。
そして、さらに「事代主神社」の西には、式内「建布都神社」がある。
神武東征で熊野の神の邪気に打たれた時、高天原から建布都の霊剣が降ろされ、これによって神武天皇は熊野の邪気を払い進軍することができたという。
熊野は和歌山ではなく「樫原神社」周辺の物語だったのである。 @阿波
「樫原神社」
https://sueyasumas.exblog.jp/9839297/ 阿波市 阿波町勝命北に鎮座する「勝命神社」
御祭神は菊理媛命(くくりひめのみこと)
「阿波誌」に、「菊理祠勝命村に在り、旧事記に云ふ伊奘諾伊弉冉二尊、泉津平坂に相争ふ。菊理媛神白す事あり伊奘諾尊聞きて之を善とす」とある。
なんと、伊奘諾尊と伊弉冉尊が泉平坂で相争ったとき、二人を仲裁した菊理媛神(くくりひめのかみ)が、阿波市阿波町で祀られているのである。
なんでこんなマイナーな神様を阿波で祀る必要があるのだろうか。 後は推して知るべし。 @阿波
http://goutara.blogspot.com/2012/11/blog-post_29.html 徳島県吉野川市山川町忌部山字峯石
「稚宮(わかみや)神社」
祭神は、思兼尊・長白羽命。 長白羽命は、荒妙を織った神。 神麻績部の祖神とある。 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/16991385/ 徳島県吉野川市山川町忌部山字白山
「白山(しらやま)比売神社」
石碑には「忌部社摂社 志良夜末比賣神社」とある。
「忌部神社」の七摂社の一つで、祭神は「伊佐奈美尊」である。
ここはイザナミ命の「遥拝所」。
この「白山比売神社」の南西には「高越山」があり、山頂に「イザナミ」が祀られていると言われている。
イザナミ命・イザナギ命の神号は海の霊物「イナサ(雄魚)」より名付けられたという説があり、イザナミ命の生前の名は「白山比売」であったという伝承がある。 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/17016171/ .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. 「広開土王碑」
*367年・・・百済が倭国に使者を送る。たぶん泣きついてきて助けを請う。
*369年・・・高句麗が百済に侵攻。高句麗大敗。援軍として倭国が参加しているかも。
*369年・・・その勢いで倭国は新羅を攻撃。大勝して朝鮮半島南半分を支配下に置く。
古代、朝鮮半島まで進出できる航海術を持っていたのは、「阿波の忌部一族(海人族)」だけ。
今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した阿波の「忌部一族」に対し、
畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。 @阿波 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. 「金銅製の甲冑」
徳島県小松島市 「子安観音古墳」から、金銅製の甲冑の破片4点が出土している。これは、金を施した希少なものである。
5世紀中ごろの制作と推定され、金銅製の甲冑は1872(明治5)年に国内最大の前方後円墳大仙凌古墳(旧称仁徳天皇凌)の出土例があるだけ。
大仙凌古墳の前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられる点から、「子安観音古墳」が大仙凌古墳より古い可能性が高い。
よって、大仙凌古墳の被葬者は、倭国(阿波)中央政権から極めて高い地位を与えられたことを示している。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 「全面に鍍金(金メッキ)された馬鐸」
鳴門市大麻町萩原の「ぬか塚」は、樋殿谷川をはさんで春日神社古墳群の対岸に立地している。
直径約30m、高さ約5mの円墳で、片袖式の横穴式石室を持っている。
玄室内からは、鉄刀、鉄鏃、馬具類(馬鐸、輪鐙、轡、辻金具)、須恵器、 径18cmの漢鏡、三塁環式環刀柄頭、切子玉や丸玉などの遺物が発見された。
このうち馬鐸は片面が扁平で文様はなく全面に鍍金(金メッキ)されており、分厚い作りで両側に鰭ひれがある。
この馬鐸が我が国唯一のものとして注目され、東京帝室博物館(現東京国立博物館)で収蔵されることとなった。 @阿波
鳴門市池谷には古墳が多くあるが、天河別神社古墳群のように史跡として残っているものばかりでなく、破壊され現在残っていないものもある。
池谷駅の西北約100mの所には古墳と思われるものがあったが、瓦用の粘土の採取や水田の造成のため、墳丘が削さく平へいされてしまった。
このとき、数多くの円筒埴輪の破片に混じって動物の足と思われる埴輪も採集された。
後に頭や鞍くらの埴輪の破片が見つかったことからはっきりと馬形埴輪だと分かった。 @阿波 「寺山3号墳は弥生の墳丘墓 邪馬台国期の特徴備える/徳島」
4世紀後半〜5世紀(古墳時代)の前方後方墳とされていた海陽町野江の寺山3号墳が3世紀初頭(弥生時代終末期)の墳丘墓とみられることが、
県埋蔵文化財センターの菅原康夫専務理事の調査で分かった。邪馬台国の時代に、県南部に大きな墓を築ける勢力があったとみられる。
寺山3号墳を含む寺山古墳群は、1977年にほ場整備計画が持ち上がり、79年の発掘調査後に水田の客土として削り取られて消滅した。
菅原専務理事は当時の写真や図面、出土品を基に、鳴門市大麻町の萩原墳丘墓に代表される弥生時代後期〜終末期の県内墳丘墓と比較した。
その結果、寺山3号墳(直径約12メートル)は規模は小さいものの、萩原墳丘墓(約20メートル)と同じ円丘で
▽頂上に石を並べて四方を囲んだ埋葬場所がある
▽墳丘の表面を積石で覆っている
▽徳島市の鮎喰川流域の集落で造られた「供献土器」が出土した−など七つの共通点を確認。「弥生墳丘墓と理解すべきであろう」と結論付けた。
破片が出土した中国鏡「内行花文鏡」の流入経路についても考察。「内行花文鏡」は萩原墳丘墓からも出土しており、
「阿波枢要地域からもたらされた可能性が高い」とし、県北部の勢力とのつながりが深かったとみている。
兵庫県立考古博物館(同県播磨町)の石野博信名誉館長(81)=奈良県橿原市=は「邪馬台国の時代に、墳丘墓を造れるだけの勢力が
徳島県南部にあったとは驚きだ。近畿と四国を結ぶ海路の拠点としての役割を担っていたのかもしれない」と話している。 @阿波 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. ねえねえなんで邪馬台国のスレッドばっかりたくさんあるの?キチガイなの? .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. 卑彌呼宗女壹與の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。 @阿波 .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 徳島で電化されてるのは自販機と信号の青だけらしいなw .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. 人類の品種
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3625-0
言葉の起源
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3623-0
日本語は海豚の言葉に由来する
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3622-0
ペンギン(ウルトラマン)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3626-0
殷と商&燕国と斉国(日本)
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3644-0
日本語と中国語との同源語
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3701-0
関東無政府主義国へようこそ!
ttp://x0000.net/topic.aspx?id=3629-0 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
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http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
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. .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
しかも同じく中国には7000年前からある竈(=火へんに土)も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. 他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
旧説の御用学者やミーハー相手のマスコミが阿波に跪くのは、時間の問題。
「考古学は残酷」
鉄器加工の先進地であるばかりでなく、国づくりに必要な当時の先端技術を縄文時代から育んで、すでに有していたことをはじめて知りました。
●阿波独特の文様 弧帯文土器
●吉野川から産する「王者の石」 阿波の青石・結晶片岩とそれを使った墳墓築造技術
●朱の生産
●吉野川の蛇紋岩を使った玉つくり
●上記の生産を可能とした鉄器作り & 銅鐸など金属器加工技術
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/1003awa04.htm @阿波 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. @「倭國亂相攻伐」して、卑弥呼を立てた。
A卑弥呼死後、狗奴国の男王卑弥弓呼が「統合倭国の王」として立った。
B「國中不服更相誅」して、壱与が立った。 @阿波 >>215
まともな反論が出来ない、ヘタレ説。
@「倭國亂相攻伐」して、卑弥呼を立てた。
A卑弥呼死後、狗奴国の男王卑弥弓呼が「統合倭国の王」として立った。
B「國中不服更相誅」して、壹與が立った。
「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」 @阿波 邪馬台国阿波コミックどうした?書ける時間あっただろw .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
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http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
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(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
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中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
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最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 藤原京 人口3万人
平城京 人口20万人
たった16年で人口6〜7倍
大量移民があったはずだが阿波から呼んだのか?
遷都藤原京のときは、阿波・讃岐・淡路などから天皇を追っての移民だろうが、
新都(大和朝廷)が軌道に乗った以後は、周辺諸国から大量に移民があったのだろう。 @阿波 >>234
単に敷地面積の差だろ
平城京は藤原京の7倍近く広い 枕詞「敷島の」に島など一つも無い大和奈良をかけられた不思議。
畿内から飛行機に乗って瀬戸内などなどの諸島を窓から見れば、まさに島を敷いたような海が見える、東西に四十四条広げた平城京の整った条理の一条ずつを各氏族の故郷の島に擬えたんだろう。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. 藤原京と平城京に関してもいろんな説が有るんだけどね。
http://asuka.huuryuu.com/kiroku/teireikai-38/teireikai38-2.html
>岸説)が有力でしたが、近年の発掘成果により、この説の京外(条坊道路の延長線にあたる地点)から、道路遺構や道路側溝が多数検出されるようになりました。〈中略〉
>このようにして藤原京は、平城京を超える大きな京域を持っていたことが分かってきました。 藤原京には見られない?が、平城京跡からは九州南部の部族隼人にまつわる遺物が沢山出てるからね。琉球諸島、南西諸島、から畿内へとつぎつぎ後発グループが到達したんだと思われる。 畿内には次々にいろんな部族が到達したんだな。
キナイコシが何を叫ぼうが、畿内は植民地だよ。女王国なんかではない。
もちろん阿波も。 >>241
>もちろん阿波も。
いくら言い張っても、「忌部一族」以外にはいないんだよ! わははははは @阿波 まあ富士王朝説も発掘された遺物の功績で実在した証拠たり得る。
それらは魏志倭人伝などよりもっと歴史を遡る。
邪馬台国論争などと言う泥仕合は仕組まれた罠なんだろう。
あの霊峰富士が古事記の神話に記載されない不自然さは異常。 >>244
>あの霊峰富士が古事記の神話に記載されない不自然さは異常。
異常でも何でもない。 古事記は「阿波」で起こった出来事なんだから。 もちろん、「国譲り」も「神武東征」もね。 @阿波 >>244
記紀の神代の物語は九州や出雲などが舞台であり、そこが倭国の中心領域であった。 出雲風土記には、「大国主」や「国譲り」の記述一切なし!
出雲風土記には、「忌部一族」の記述ばかり。 わははははは @阿波 島根県松江市宍道町上来待和名佐に和奈佐神社(祭神は阿波枳閇和奈佐比古命、あわきへわなさひこのみこと)が鎮座しているが、
海部氏関連で出雲は阿波と繋がっているようだ。 @阿波 萬葉集註釈 巻第三 「阿波国風土記に曰はく、奈佐の浦。奈佐と云ふ由は、その浦の波の音、止む時なし。
依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。」
奈佐の場所は徳島県海部郡海部町鞆浦の那佐湾か。播磨国風土記に、
17代履中天皇が阿波国の和那散(わなさ)へ行った時にシジミを食べたとある。 @阿波 萬葉集註釈 巻第七 「阿波国風土記に曰はく、勝間井の冷水(しみず)。此より出づ。
勝間井と名づくる故は、昔、倭健(やまとたける)の天皇命(すめらみこと)、
乃ち(すなはち)、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れまたひしに依りて、勝間と云ふ。
粟人は櫛笥(櫛箱)をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。」
今でも徳島市国府町観音寺に「勝間の井」があり、義経伝説では「舌洗いの池」と云われる。 @阿波 萬葉集註釈 巻第三 「阿波国風土記の如くは、天(そら)より降り下りたる山の大きなるは、阿波国に降り下りたるを、アマノモト山と云ふ、
その山の砕けて大和国に降りつきたるを、天香具山と云ふ。」
これにより阿波国が大和国の本(もと)の国だと記している。 @阿波 「天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)」
阿波國風土記ニモ
或ハ 大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、
或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、
或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。
これは、崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇 の称号です。
通説では天皇家や建国の歴史とは何の関わりもないはずの阿波国、その地誌で、何故、天皇の称号について書かれるのでしょうか?
役人が天皇に献上する書です。上記の天皇が阿波に関係なければ、書けるわけがありません。「お前、何書いとんねん!」では済まないのです。
※各地の風土記のうち、「天地初発より記された」風土記は、阿波国風土記のみである。 @阿波 神話は南九州から山陽を通り畿内へ。四国は未開地だった事がわかる。 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. >>261
と、思いたい気持ちはわからんでもない! わははははは @阿波 >>261
と、思いたい気持ちはわからんでもない! わははははは @阿波 残念ながら邪馬台国とは全く関係ないわな阿波は
あるとしたら古代から大好きだったろう風土を持つ畿内に浸入し
戦国時代畿内を制していた三好氏ごとく
発展途上の畿内であれやこれやとやってたぐらいだろう >>267
邪馬台国とは全く関係ないのは、九州!
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、 そのなかでも分かりやすいのが、
九州には自慢できる温泉が腐るほどあるのに、九州に在る温泉への天皇行幸が明治天皇行幸まで一切無いこと。
なんで九州各地の風土記に天皇の行幸記事が無いのだろうか?
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 地元九州から天皇(神武勢力)は発ったと
記紀にはハッキリと記録されてるところを鑑みると
日本列島各地を視察目的び巡幸していたのであろう
しかも残存している風土記は時の権力に検閲された眉唾ものの書物でもある 弥生時代とか弥生人とか単なる便宜上の時代区分だからね。
新石器時代→縄文→弥生、、、っていきなり代わった訳でも無いしな。
倭の五王が居られたと言う五世紀頃は間違いなく四国が大和の都だったんだろう。
それより百年ほど先に葛城襲津彦の葛城氏は既に奈良に拠を構えていた。
先発グループはとっくに畿内には入っていたが、まだまだ大和の中心は四国だったと思うのが自然だな。
ただ日本の歴史はずーと遡ら無いと全体像が見えて来ないだろう。
なんせ新石器→縄文→弥生(便宜上の区分)だけでも30000年以上栄えたんだから。ちなみに有史以来まだ2000年ちょっとだからな。 >>269
>残存している風土記は時の権力に検閲された眉唾ものの書物でもある
その検閲して眉唾ものにした、時の権力って、九州勢力じゃなかったのかい? わははははは @阿波 >>271
>それより百年ほど先に葛城襲津彦の葛城氏は既に奈良に拠を構えていた。
>先発グループはとっくに畿内には入っていた
それを、「忌部はん」 の畿内進出というんだよ。 @阿波 >>269
>残存している風土記は時の権力に検閲された眉唾ものの書物でもある
その検閲して眉唾ものにした、時の権力って、九州勢力じゃなかったのかい? わははははは @阿波 >>269
>残存している風土記は時の権力に検閲された眉唾ものの書物でもある
その検閲して眉唾ものにした、時の権力って、九州勢力じゃなかったのかい?
自分で自分の首を絞める、トンデモ九州説。 わははははは @阿波 >>269
九州説も結局は、奈良盆地で息の根を止められる運命なんだよ、畿内説同様にね。 @阿波 阿波説と言うか四国山上説だろうな。あれは結構信憑性あるよ。 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 初めて覗きに来たんやが九州説の奴らもここ荒らしとるんやな。
九州説スレに泡チョンが荒らしに来ても文句言えんな… あの人らに都合の悪いURLが貼られんのだが…もういろいろバレてるよ。
2017-02-11
「四大文明」は学説でも仮説でもなく、ただのキャッチフレーズだった .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. もう「稲作を伝えた弥生人」なんて信じてる人は殆ど居ないだろうな。 「稲作を伝えた弥生人」は朝鮮土器も中国土器も一切作らなかった
つまり「稲作を伝えた弥生人」は弥生人自身
稲作は単に朝鮮半島からパクってきただけ
弥生人の故郷はそのとき弥生人が作っていた土器を調べれば分かる
沿海州南西部だね まだ懲りてない人がいて藁
土器もだが、魔製石器も世界最古だった。
https://ameblo.jp/unicorn8905/entry-12332745367.html
>この磨製石器は約3万年前の旧石器時代のものとされ、こちらで磨製石器が発見されて以降、全国100以上の遺跡で発見されるようになり、磨製石器は人の手による加工技術が施された世界最古の道具と認められました。 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 日本に伝わった…………(クスッ
マウント取りたがるねー。
世界最古級の紀元前7000年頃の丸木舟も日本で出土してるんだよ。
そして先史以前の丸木舟の半数以上は現在の千葉県で発掘されている。
近世、安房国と呼ばれる徳島県の阿波国の忌部氏の東遷の遥か昔だよ。
古代丸木舟の出土数は千葉県が最多で茨城県、福島県と続く。
それが表してるのは長い歴史の中でその辺りが列島の中心だった時代があった事を示してるんだろう。
マウント取りたがり屋さんや@阿波さんの想定をかなり超えた時代なんだよね。
ちなみに古代中国最古の丸木舟は紀元前5000〜6000年頃だそうだ。
真に受ける人が居たら困るから敢えて書き込んどくだけだよ。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. >>325
>世界最古級の紀元前7000年頃の丸木舟も日本で出土してるんだよ。
で、紀元前7000年頃の丸木舟の証拠は?
. >阿波は紀元後2000年代まで未開です、、、(笑)
ウルサイファンタジーとちよと違ってトンチがバッチリ利いてます、上手い(笑) .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. コピペ
縄文時代(新石器時代)今から約1万3千年前から紀元前3百年ごろを言う。 従来は始まりを約1万年から8千年前としていた。
www.kataoka-el.co.jp › koukogaku4
縄文〜古墳時代区分
コピペその弐
弥生時代のはじまりは紀元前300年頃、終わりは紀元後300年頃(この間約600年)というのが、これまでの通説です。 最近、自然科学的な年代測定法により弥生時代中期の年代が100年近く遡り、始まりも500年近く早くなるという説も出てきています。
www.yoshinogari.jp › episode01
第一章 弥生時代の年代 1.弥生時代の始まりと終わり | 弥生ミュージアム
縄文時代と弥生時代(便宜上の単なる時代区分)年代の凄さは異常。
しかも新石器時代は紀元前11000年頃とか…その縄文時代との境界線は限りなく曖昧である。(あくまでも便宜上の時代区分)
混血交配は有っただろうが弥生人は縄文人の子孫、末裔であろう。 >>331
>混血交配は有っただろうが弥生人は縄文人の子孫、末裔であろう。
最後の1行がなんの脈絡も論理的繋がりもなくて草
願望を振りまくにはやめろって すぐ上の
>縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
に✕ること4…との流れも読めないのに理論的繋がりとか言ってるし(微笑
DNA研究で「縄文人と弥生人」が分かってきた
https://www.huffingtonpost.jp/foresight/jomon-man-dna_b_7601964.html
>これまでは、弥生時代の始まりとともに大陸や朝鮮半島から大量の渡来人(弥生人)が押し寄せ、先住民(縄文人)は圧倒され駆逐されたと信じられてきた。
(注、信じられて来た☓ / 教え込まれていた○)
(さらにDNA以外に風習なども)
>青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(鳥取県鳥取市青谷町)で学芸員が、
>「弥生時代は渡来人が作り上げたと言うが、それは違う。
>発掘を長いことやっていると、縄文の力を、ひしひしと感じる」と、やや憤慨しておっしゃっていたのを思い出す。
>この遺跡から発見された遺物の中に木の枕があって、そこに人間の歯が埋め込まれていた。これは縄文人の抜歯の風習の名残だ。
>弥生人も呪術のために、歯を抜き、枕に埋めていたわけで、われわれ日本人は、そうした伝統を受け継いだ縄文人の末裔なのだ。
今はもういろいろバレてるんだよ。 縄文末に沿海州系の土器を作る舟を操る人々が出雲あたりにやって来て、
彼らは当初農耕というものを知らなかったが、舟の力で早くも朝鮮南部と交流し、
イネというものを知っていた
彼らの土器にイネの圧痕が遺っていたからだ
やがて彼ら子孫の一部は九州北部へと広がり、朝鮮南部から稲作という農耕を導入する
これが彼らを狩猟採集経済から生産経済へと移行させる事になり、安定した食料供給が
可能になった彼らは人口爆発を引き起こした
彼らの子孫は西日本中に広がり、その先々で稲作を開始し、さらに人口爆発していったのである
そうして縄文系の人々の人口は渡来系の人々の人口にひっくり返されていったのである .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. どうしても稲作伝来ルートを列島→半島って史実を認めたく無い人が居るんだな。
本当にもういろいろバレてるから覆すことは無理だよ。
縄文時代(便宜上の単なる区分)に使ってた木製農耕具とやらも此方の弥生時代(便宜上の区分)に相当する半島の地層から出て来てたしね。残念賞でした。
もう諦らメロン。 >>336
じゃあ、そう言ってる頭のおかしな考古学者を出してみろよ
サギー華南ブタチックセロイピーノ .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. 阿波も朝鮮人みたいなもんなんだから仲良くしなよ(笑) .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. まだ言ってるし()
参考・・・縄文文化と長江文化の年代比較
【縄文時代】
紀元前16,000〜14,000年頃、沖縄県山下町第1洞穴、港川、ビンザアプ人。旧石器時代終末か縄文時代草創期の人類。沖縄県島尻郡具志頭村港川で人骨発見。
【長江文明の遺跡群】
玉蟾岩遺跡(ぎょくせんがんいせき)
湖南省道県。紀元前14000年? - 紀元前12000年? のものとされる。稲モミが見つかっているが、栽培したものかは確定できない。
湖南(フーナン)省道(ダオ)県白石寒(バイシーハン)村にある洞穴遺跡で、加速器質量分析法による測定から紀元前14000年〜紀元前12000年のものとされています。
加速器質量分析法(AMS:Accelerator Mass Spectrometry)とは放射性炭素(14C)年代測定法の感度・精度を追求した発展系で、重イオン用半導体検出器を用いることによって14Cをほとんどバックグラウンドなしで測定できるため年代の推定を更に正確にするものです
仙人洞・呂桶環遺跡(せんにんどう・ちょうとうかんいせき)
江西省万年県。紀元前12000年頃?。栽培した稲が見つかっており、それまで他から伝播してきたと考えられていた中国の農耕が中国独自でかつ最も古いものの一つだと確かめられた。
彭頭山文化(ほうとざんぶんか)
湖南省澧県彭頭山遺跡(澧はさんずいに豊)を代表とする。紀元前7000年? - 紀元前5000年?。散播農法が行われており、中国に於ける最古の水稲とされる。
河姆渡文化
浙江省余姚市河姆渡遺跡。紀元前5000年? - 紀元前4000年?下流域では最古の稲作。狩猟や漁労も合わせて行われ、ブタの家畜化なども行われた。
もうバレバレなんですよ? .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. 伝わっている☓
そりゃ縄文時代(便宜上の時代区分)の原日本人が編み出した物だから、むしろ此方の弥生時代頃に半島から縄文の農耕具と全く同じ物が出土してる。
なんでも伝えた事にしたがるあの人たち。 .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. あくまでも便宜上の時代区分だが、縄文時代の列島もやはり山海の幸に恵まれ過ぎる程恵まれていたからね。
団栗や豆などはクッキーにしたり肉団子にしたりとグルメだったから、、、。
食文化が違えば食器や調理具が違っていて当たり前なんだけどね。
古代のロマンを考察する時はそのぐらいの知識が無いと…としか。 阿波ってそもそも天皇の伝承はあるの?
妄想じゃなくて >>354
阿波については知らないから聞いてる
記紀にも削ぐわない阿波
こんなのがありますというだけで妄想をこじつける
巡行は里帰りではなく旅行 >>354
阿波については知らないから聞いてる
記紀にも削ぐわない阿波
こんなのがありますというだけで妄想をこじつける
巡行は里帰りではなく旅行 あるわけないから邪馬台国四国説なんて妄想が出てくるんだろw >>353
徳川幕府も認めているよ!
【徳島市大原町千代ヶ丸山 観音山古墳は、反正天皇の御陵跡であった】
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、 覺 阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候?其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」
と記録されているが、こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 一歩譲って、どのみち淡路も倭国(阿波)の領分だよ。 @阿波 >>357
>あるわけないから邪馬台国四国説なんて妄想が出てくるんだろw
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>363
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 トンデモ説はうらやむだけ。 わははははは @阿波 >>363
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 トンデモ説は妬むだけ。 わははははは @阿波 と、思いたい気持ちは理解できるよ。 わははははは @阿波 >>370
太陽が地球の周りを回っていると信じられていた天動説の時代には、地動説は異端だった。
ことほどさように、支配的な意見が必ずしも正しいとは限らない。 人間は完全ではないのである。 @阿波 少なくとも、
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 トンデモ説は妬むだけ。 わははははは @阿波 >>374
中卒じゃないんだが。 わははははは @阿波 中学中退の妄想バカなのか
小学校卒の妄想ジジイなのか >>353
徳川幕府も認めているよ!
【徳島市大原町千代ヶ丸山 観音山古墳は、反正天皇の御陵跡であった】
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、 覺 阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候?其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」
と記録されているが、こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 允恭天皇陵は河内の現藤井寺です四国なんか関係ありません >>382-383
「教科書に書いてあることを信じないこと 常に疑いを持って自分の目でものを見ること」
ノーベル医学・生理学賞受賞 本庶佑(京都大学特別教授) >>380
幕府はどうとでも真実を捻じ曲げられるから田舎へのパフォーマンスだろうな >>380
中学中退の妄想バカなの?それとも小学校卒の妄想ジジイなの?どっち? 「考古学は残酷」
鉄器加工の先進地であるばかりでなく、国づくりに必要な当時の先端技術を縄文時代から育んで、すでに有していたことをはじめて知りました。
●阿波独特の文様 弧帯文土器
●吉野川から産する「王者の石」 阿波の青石・結晶片岩とそれを使った墳墓築造技術
●朱の生産
●吉野川の蛇紋岩を使った玉つくり
●上記の生産を可能とした鉄器作り & 銅鐸など金属器加工技術
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/1003awa04.htm
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
旧説の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 わははははは @阿波 残念ながら砂鉄の謎が今回も明らかになりませんでしたw >>389
で、あんたは中学中退の妄想バカなの?それとも小学校卒の妄想ジジイなの?どっち? >>389
それと邪馬台国=倭国と何の関係性があるの?
だから妄想と言われる >>389
ベンガラも丹です
鉄器に乏しい国は1番になれません >>390
>残念ながら砂鉄の謎が今回も明らかになりませんでしたw
鉄器王国「阿波」の今後の研究に期待しましょう。 @阿波 >>391
>夜勤明けお疲れさまです。
夜勤なんかしないよ。 @阿波 >>396
資源を活かせない能力は阿波踊りのゴタゴタに引き継がれている無能県に未来はないのだよ >>399
卑弥呼の時代に栄華を極めたから、それでよい。 わははははは @阿波 邪馬台国がどこにあったのかなんて、3Cの古墳の数とその規模を見れば明らかな事 >>402
古墳しかないトンデモ説! わははははは @阿波 >>404
墓しかないトンデモ説! わははははは @阿波 >>405
で、あんたは中学中退の妄想バカなの?それとも小学校卒の妄想ジジイなの?どっち? >>406
「若杉山辰砂採掘遺跡」産の水銀朱を使った「忌部はん」 のお墓しかないトンデモ説! わははははは @阿波 >>407
で、あんたは中学中退の妄想バカなの?それとも小学校卒の妄想ジジイなの?どっち? 倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。
まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。
まともに反論・で・き・な・い・人・は、 罵詈雑言はい、どうぞ。 わははははは @阿波 >>405
全長100mくらいの古墳を作るのに今の金額で50億円くらいかかるそうな
鏡や丹どころの価値じゃないんだわ
そんなカネのかかる建造物が3C半ばに一番多くある場所はどこかという事だ >>412
「若杉山辰砂採掘遺跡」産の水銀朱を使った「忌部はん」 のお墓しかないトンデモ説! わははははは @阿波 >>410
中学中退の妄想バカなのか小学校卒の妄想ジジイなのか答えろよゴミ .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. >>417
>辰砂は赤土の事だととっくにばれてるぞw
九州のお墓は赤土まみれでおk? わははははは @阿波 >>418
中学中退の妄想バカなのか小学校卒の妄想ジジイなのか答えろよゴミ >>419
だから、九州のお墓は赤土まみれでおk? と聞いているんだがw わははははは @阿波 結論・九州のお墓は赤土まみれ わははははは @阿波 >>422
中学中退の妄想バカなのか小学校卒の妄想ジジイなのか答えろよカス >>402
卑弥呼は殉葬墓だからただ単に古墳の数だけではいいきれませんな 埴輪が出たらアウト >>423
だから、九州のお墓は赤土まみれでおk? と聞いているんだがw 答えろよカス わははははは @阿波 >>423
結局、物部東遷説も、奈良盆地で息の根を止められる宿命なんだよ。 畿内説同様にね。 @阿波 >>412
「若杉山辰砂採掘遺跡」産の水銀朱を使った「忌部はん」 のお墓しかないトンデモ説! わははははは @阿波 >>429
軍事に乏しい阿波が邪馬台国だとしたら魏は邪馬台国を傘下に置くより乗っ取った方が早いと判断するぞ .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. 「おおだいやまもと」と読むこの遺跡からは、なんと日本最古級(実は世界最古)の土器のかけらなどが発掘されたそうです。
https://www.marugotoaomori.jp/blog/2019/05/20739.html
ユネスコ世界文化遺産への登録を目指している、青森の縄文遺跡群。
その遺跡のひとつ、大平山元遺跡が、津軽半島の北東部に位置する外ヶ浜町にあります。
「おおだいやまもと」と読むこの遺跡からは、なんと日本最古級(実は世界最古)の土器のかけらなどが発掘されたそうです。
紀元前13,000年。
ということは、今から15,000年も前。
頭がくらくらするような、遠い時代です。 吉野ケ里と邪馬台国
2020/6/6 11:00 西日本新聞 オピニオン面 古賀 英毅
中国の史書「魏志倭人伝」に出てくる邪馬台国は、その詳細な記述故に注目を集めてきた。
佐賀平野では、吉野ケ里遺跡が物見櫓や城柵など倭人伝に記述された女王・卑弥呼の都の風景をほうふつとさせる巨大環壕集落ということが分かり、
「九州」VS「近畿」の邪馬台国論争が過熱した。
論争の当事者の回想も面白かった。
近畿(畿内)説では、当時は奈良県職員として埋蔵文化財調査をしていた纒向学研究センターの寺沢薫所長が「見学者の多さに驚いた」と振り返った。 >>435
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
それに引換えトンデモw @阿波 >>435
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」
それに引換えトンデモ九州w @阿波 >>438
>丹とは赤土のことです
九州のお墓は赤土まみれでおk? わははははは @阿波 >>440
>魏書に記載の丹が赤土だと言う事です
で、九州のお墓は赤土まみれでおk? わははははは @阿波 >>442
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 >>442
倭(ヤマト)国とは、
日本で唯一、大和朝廷から「倭(ヤマト)大國魂神社・倭(ヤマト)大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。 丹とは赤土のことです魏の山岳とは違うと記述してるのです 神武天皇(じんむてんのう、庚午年[注 1]1月1日[2] - 神武天皇76年3月11日[3])は日本の初代天皇(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月11日[3])。諱は彦火火出見[3](ひこほほでみ)、あるいは狭野[2](さぬ)。『日本書紀』での名は神日本磐余彦天皇。
狭野「2」(さぬ)は讃岐のさぬだろう。阿波に限定せず四国山地が倭人が中心とした根拠地だった時代が有ったのは間違いないだろう。 >>446
>狭野「2」(さぬ)は讃岐のさぬだろう。
いや、これも阿波の「佐野」に歴として存在しています。 @阿波
「五世神社」(名東郡佐那河内村下寺谷―神武天皇の兄・五瀬命を祀る神社。
「佐野神社」(徳島市渋野町佐野)―佐野皇子(神武天皇)を祀る神社。
「秋葉神社」(徳島市丈六町丈六寺山)―神武天皇の畝山の東北陵跡。 寝言ですね神武天皇の行程はものの見事に四国をスルーしてます >>448
そりゃ、当たり前! 神武東征は、倭国(阿波)国内での行軍なんだから。 わははははは @阿波 神武東征(阿波市→鳴門市)に関わる神社で、熊野の戦いの旧跡に祀られた神社
「熊野神社」
https://sueyasumas.exblog.jp/9791934/ 神武東征説話は吉野川下流の南岸勢力が北岸勢力を従属させた歴史の記憶で、「樫原神社」の東西にその舞台が連なっている。
少し前に紹介した「熊野神社」もそのひとつである。
「樫原神社」の南に四国霊場九番札所「法輪寺」があり、さらにその南の吉野川の近くには式内「事代主神社」がある。
そして、さらに「事代主神社」の西には、式内「建布都神社」がある。
神武東征で熊野の神の邪気に打たれた時、高天原から建布都の霊剣が降ろされ、これによって神武天皇は熊野の邪気を払い進軍することができたという。
熊野は和歌山ではなく「樫原神社」周辺の物語だったのである。
「樫原神社」 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/9839297/ 神武東征の参謀役となった速吸の門(鳴門海峡)の大人・宇志比古尊が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
何の縁も所縁も無ければ、こんなところに 「宇志比古尊」を祀るはずがない。 後は推して知るべし。 @阿波 神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷2号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。
西山谷2号墳は 標高74mの尾根上、南北径20m、東西径18m・高さ2mの円墳で、 中央に南北方向の結晶片岩石積の竪穴式石室がある。
竪穴式石室は全長4.72m、北幅1.05m、南幅0.83m、 墓壙は南北6.5m、東西4.8mで全体が結晶片岩で覆われている。
石室には粘土でつくられた棺台があり、刳抜式木棺があったと考えられている。
石室の床には水銀朱が塗られていて、特に北側が多量だった。
棺内北側から鉄鏃、ヤリガンナ、鉄剣、鉄斧、鉄片、青銅鏡など多くの副葬品が出土、棺外からは鉄槍や土器が出土した。
3世紀半ばの築造と推定されている。 @阿波 神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、吉野川北岸阿波市の「建布都神社」で祀られている。
「建布都神」の陵墓は「阿波市 伊笠山」山頂。
一方、長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など
中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。
長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。
長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。 @阿波 神武天皇の出生地は「阿波」
天孫三代目、彦穂々出見命(=山幸彦)の后・豊玉比売命を祀る二社が、全国唯一、阿波国にのみ配祀されている。
豊玉比売命は海神(わだつみのかみ)の娘で、神武天皇の祖母(または母)にあたるが、
当該二社の式内社は、神武天皇の出生地が阿波であることを強く伝えている。
一社は「和多都美豊玉比売神社」で、夫となる天孫彦穂々出見命(=山幸彦)と出逢った
和多都美宮の井の上(いのえ)の地(旧井上郷・現徳島県国府町和田)が鎮座地。
もう一社は徳島城城山の東斜面に鎮座する豊玉比売命の葬場「天石門別豊玉比売神社」である。 @阿波 こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 倭(ヤマト)国とは、
日本で唯一、大和朝廷から「倭(ヤマト)大國魂神社・倭(ヤマト)大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。 @阿波 こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。
トンデモ説は、こういう事実を示せず、妬むだけ! わははははは @阿波 >>461
図星! トンデモ説は、こういう事実を示せず、妬むだけ! わははははは @阿波 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. >>464
>事実は四国が記紀に記載があるのは国産みの部分のみ
記紀の記載は、すべて「阿波」 @阿波 記紀には四国と明示されてないが、オオゲツヒメの死は惨めな阿波の史実の断片を伝えている。 阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様だが、
オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神
豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。
元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だった。
大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。 @阿波 「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。 @阿波 オオゲツヒメを殺したのはツキヨミかスサノオか。いずれにしろ侵略され植民地と化した四国の悲しい歴史を伝えている。 「卑弥呼」とは「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「男弟」とは「月読尊」
「卑弥弓呼」とは「素戔嗚尊」の3兄弟。
「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 オオゲツヒメは殺されたのである。自然死と考えられ手厚く葬られた卑弥呼とは女性である以外の共通点はない。 >>472
トンデモだから、そう見える。 わははははは @阿波 そう四国が侵略された事を認めたくない者にはバラバラに見える 倭国(阿波)を侵略? わははははは 倭国(阿波)を侵略できる勢力がどこにいると。
「考古学は残酷」
鉄器加工の先進地であるばかりでなく、国づくりに必要な当時の先端技術を縄文時代から育んで、すでに有していたことをはじめて知りました。
●阿波独特の文様 弧帯文土器
●吉野川から産する「王者の石」 阿波の青石・結晶片岩とそれを使った墳墓築造技術
●朱の生産
●吉野川の蛇紋岩を使った玉つくり
●上記の生産を可能とした鉄器作り & 銅鐸など金属器加工技術
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/1003awa04.htm @阿波
丹を水銀と言い張るだけで何の根拠もないのが邪馬台国四国説 「イザナギノ命・イザナミノ命が生まれる前に生まれた神を祀る」
延喜式式内社で「大苫邊尊」を祀っているのは、全国でただ1社、阿波国の「宅宮神社」だけ。
祭神の「大苫邊尊(おおとまべのみこと)」は、「古事記」にイザナギノ命・イザナミノ命が生まれる前に生まれた神。
「古事記」の舞台はまさに「阿波」だった凄い事実。 @阿波
https://sueyasumas.exblog.jp/9761762/ >>476
>丹とは赤土のことです
九州のお墓は赤土まみれでおk? わははははは @阿波 >>4766
丹を赤土と言い張るだけで何の根拠もないのがトンデモ九州説。
九州のお墓は赤土まみれでおk? わははははは @阿波 >>447
祀って名前に便乗したたけじゃないか
>>444
お前それ良く書くが倭国が発布した証拠あんの? 一般に赤い鉱物を丹と言う魏人には山上まで土の山が珍しかったのだろう >>480
トンデモは祀ることも出来ないとさ。 わははははは @阿波 >>480
>お前それ良く書くが倭国が発布した証拠あんの?
発布した証拠=日本で唯一、「倭(ヤマト)大國魂神社・倭(ヤマト)大國敷神社」 が倭国(阿波)のみにある事実。 @阿波 >>480
トンデモは祀ることも出来ないとさ。 それを平気で祀ることが出来るのが倭国(阿波)のすごさ。 わははははは @阿波 さすがにコミック作成はいくら平気で神体を捏造阿波人でも自粛したようだなw >>480
トンデモは祀ることも出来ないとさ。 それを平気で祀ることが出来るのが倭国(阿波)のすごさ。 わははははは @阿波 >>486
ところで君は、物部東遷厨=左側スロープ=高鴨神社境内立小便犯人だろ? わははははは @阿波 倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。
まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。 @阿波 四国は興味深いよ
だけどね、リーダーシップを取れる国ではないんだよ
四国は倭国内の敗戦で国を追われた人が集められた土地だと思うのよ
古い神社や古墳や伝承はあるでしょう、
でも一番大事な本当に大事な
雅さ、華やかさ、風情がかんじられないのよ
人の心を打つ、惹き付けられる空気感が足りない
以上が大事なヒント
これがあればどんな店だって土地だって人は集まる 強い国
生き残る国
争いがおこる国
交通の拠点にもなる国
阿波にはいくつあてはまりますか >>496
>人の心を打つ、惹き付けられる空気感が足りない
中身がない感想はいらないから。 @阿波 図星つかれて思わずキャラを忘れてマジギレする@阿波w >>497
交通の拠点ではなくスルーされ続けてるだろ >>499
中身がない感想はいらないから。 @阿波 >>500
中身がない感想はいらないから。
まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。 @阿波 倭国(阿波)を否定するものって、>>496のような、漠然とした拒否感しかないんだよね。
まともに反論・で・き・る・人・は、 居ませんか? @阿波
>>503
>以上、阿波は中身がないと言う感想でしたw
まぁ、それが精一杯ってとこかwww @阿波 まぁなんせ、ぜんぜん隙がないもんね。 攻め手が無い。 わははははは @阿波 物部東遷厨=左側スロープ=高鴨神社境内立小便犯人、相当、コミックに危機感を抱いているようだね。 わははははは そのうち必ず、出るから! 乞うご期待! @阿波 危機がすこし伸びてよかったじゃん! 物部東遷厨=左側スロープ=高鴨神社境内立小便犯人。 わははははは @阿波 >>511
まぁ、それが精一杯ってとこかwww @阿波 証拠が一杯で他説を凌げるものなら簡単に描ける。そうじゃないから口先で誤魔化すしかない。だから阿波は永遠に未開の地。 >>511
ぜんぜん、具体的な反論が出来ない。 まぁ、それが精一杯ってとこかwww @阿波 まぁなんせ、ぜんぜん隙がないもんね。 攻め手が無い。 わははははは @阿波 こうしている間に真面目な畿内説九州説の検証が進んでいくんだよなw >>516
そう言いながら、幾星霜www 旧説はいつまでたっても旧態依然! 進歩なし! わははははは @阿波 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. 前から思ってたんですが
四国と九州は繋がっていたとかないですかね?
もしくは、四国から九州が見える位に近かったとか?
文字もなかった時代に九州特に佐賀宮崎とかの人が
四国に渡っていったと思うんですけど >>520
>文字もなかった時代に九州特に佐賀宮崎とかの人が
>四国に渡っていったと思うんですけど
逆だよ。 海を渡って全国各地に痕跡を残していったのは、後にも先にも「忌部一族」しかいないんだから。 @阿波 >>521
得た物が何も無いのに拡める事は出来ませんね。
知恵の結集である軍事力が乏しいことが証明しています。銅矛の出土数が物語っています。
丹はベンガラです。 >>522
>得た物が何も無いのに拡める事は出来ませんね。
???
>銅矛の出土数が物語っています。
銅矛? 銅矛が軍事力? わははははは 頭大丈夫? @阿波 >>520
縄文なら可能性はあるかも知れませんね
時間と離れる距離からして
弥生時代の福岡では海抜10mぐらいは海だったみたいですから周防灘の海底や四国大分の海抜に10m足したり引いたりしたらわかりやすいと思いますよ。
弥生時代には関門海峡ぐらいの距離ならくっついていたと言ってもおかしくは無いですが
関門海峡は神功皇后の時代は繋がっていた説もあります
それなら瀬戸内海側の方が可能性はあるかも知れません。
国を追われて辿り着いた人たちがイミテーション倭国を築いたが正解ですよ。軍事関係の乏しさが物語っています。頑張って下請けです。
海を渡ってまで行く理由もありません
丹はベンガラです
方言から探ると九州よりも関西からの影響が強いですよね高知など >>524
何が言いたいのか意味不明。 頭大丈夫? @阿波 >>523
まともに反論出来てませんね
いつの時代も軍事が重要なんですよ
卑弥呼を共立する前に七、八十年争ったとあります。このステージにすら立ててません
https://blog.goo.ne.jp/ikejun_2018/e/23791093865372ee4454b362d9900f6d/?img=0e948d6a1adfb0690a1ebe0f38824f2c
九州と四国全体の銅矛出土数は九州福岡・熊本の方が桁違いに多いです。比べるのが可哀想なくらいに徳島は皆無です
仮に不弥国(記載されているどの国でもいいです)などが九州だとして徳島が邪馬台国だとします 不弥国でなくても玄関口は福岡です。確定事項です。
出土数の多い福岡と皆無の代名詞・徳島が七、八十年争ったとします。結果は見えています
四国山上説はそもそも武力軍事に乏しいですから縄文式争いでしょうね
つまり四国に知恵はない
まともに争ったなら卑弥呼を共立する前に飲み込まれる
海を渡って飲み込まれたとしても銅矛の出土数が皆無なので争った形跡がない
形跡があったとしたら四国内で九州の武器を使用したのでしょう
流入した技術を活かす
知恵がない 武力がない 何も無い
そんな国の忌部など相手にするでしょうか
福岡や畿内を見て嫉妬しイミテーション倭国を自国に築いたヲチを認めなさい
卑弥呼を共立するステージにも立てないのですよ
このツイートの人と同じ様な考えですよね@阿波君
https://twitter.com/fumihiko1214/status/1207493492957560832
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) >>521だから文字もなかった時代にと聞いてるの?
忌部はそんなに古いのかな? >>523
>>527
悪い 鉄器のグラフ貼っちゃった
面倒だから鉄器でいいや 四国山上説と阿波説の負け〜
卑弥呼共立のステージにすら立てず
つまり丹はベンガラ もし忌部が古い漢字の時代からあったとするなら
呉音ならゴと発音
漢音からギと発音だよね
以下、白川静さんの本より
(忌)
「形声。音符は己。
説文に誋は“誡むるなり”とあって、敬いつつしんで神に仕える意味。
また忌は跪(ひざまずく意味)と音が近い。
己は折れ曲がる形であるから、ひざまずいて体を曲げる姿勢をいい、
忌はそのような姿勢でつつしんで神に仕えるときの心情、
思いをいう字であろう。禁忌を守り、身を清め、つつしむことを“いむ”という」
阿波さんに敬意を込めてまじめに書いてますから >>527
>いつの時代も軍事が重要なんですよ
で、その軍事力が銅矛だと? 古くさ! 卑弥呼の時代は鉄製武器だよ。 わははははは 頭大丈夫? @阿波 >>528
>忌部はそんなに古いのかな?
古いよ。 縄文時代から、全国へ進出している。 @阿波 >>532
呉音て今の大阪弁に近くなかったっけ?
YouTubeで発音の動画を前に見た
>>533
だから鉄器のグラフ出してる
銅矛と鉄器を入れ替えてみて
@阿波が虚しくなるだけだから >>534
全国で相手にされず嫉妬の上、自国にイミテーション倭国を築いた 中国の遊園地をイメージすれば解りやすいですね >>535
鉄器王国の倭国(阿波)になに言ってんの? 頭大丈夫じゃないね。 わははははは @阿波 そして現代の嫉妬の塊は@阿波
無い物強請りで妄想を膨らませるが卑弥呼共立のステージにすら立てず >>537
九州や畿内と比較したグラフを出してみてね >>537
君、この人(@fumihiko1214 )に書き込みが似てるよね >>539
後生大事に、ずっと過去の古ぼけたグラフに頼らざるを得ない、哀れな説よ。 わははははは @阿波 >>541
比較した最新版は?ある?自作してもいいよ >>541
512 日本@名無史さん[] 2020/06/09(火) 21:27:32.56 ID:
>>511
まぁ、それが精一杯ってとこかwww @阿波
502 日本@名無史さん[] 2020/06/09(火) 20:41:16.54 ID:
>>500
中身がない感想はいらないから。
まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。 @阿波 「考古学は残酷」
鉄器加工の先進地であるばかりでなく、国づくりに必要な当時の先端技術を縄文時代から育んで、すでに有していたことをはじめて知りました。
●阿波独特の文様 弧帯文土器
●吉野川から産する「王者の石」 阿波の青石・結晶片岩とそれを使った墳墓築造技術
●朱の生産
●吉野川の蛇紋岩を使った玉つくり
●上記の生産を可能とした鉄器作り & 銅鐸など金属器加工技術
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/1003awa04.htm @阿波 >>544
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/206y-5.jpg
魏志倭人伝に出て来る絹ですら皆無ですね
砂鉄ですかつまり丹はベンガラって認めた訳ですね
そちらのURLは畿内の下請けを証明した訳ですね
それがあっても出土数を比較したら虚しくなるだけですよ >>543
こちらには鉄の鏃(ヤジリ)のグラフがありhttps://note.com/susa404/n/nf7da456554b6
徳島は争いもなく平和だったのですね
卑弥呼共立前〜後には関係ない様ですね アンカー間違えたテヘッ
>>544
こちらには鉄の鏃(ヤジリ)のグラフがありhttps://note.com/susa404/n/nf7da456554b6
徳島は争いもなく平和だったのですね
卑弥呼共立前〜後には関係ない様ですね 魏志倭人伝に沿えない
記紀に沿えない
知恵もない
武力もない
過去〜現代に於ける存在感すらない
下手したらアベノマスクも到着してない
なぜならイミテーション倭国だから .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. お〜い@阿波 生きろよ 生きてれば畿内の下請け属国認定の可能性ぐらいはあるぞ 邪馬台国は弓を使うから鏃が出土しないとな
当時は鉄鏃だろうからな
https://note.com/susa404/n/nf7da456554b6
この中のグラフよな
その頃阿波の鏃はドングリかな? 鉄器も鉄鏃も絹にも乏しい
つまり知恵の無い地域出身の忌部が福岡で相手にされようか 畿内で相手にされようか
嫉妬し現実を知り阿波にイミテーション倭国を築いた
これが阿波説の現実と言うかヲチ 徳島・阿波内での「倭国大乱」を想像してみた
石を投げ合い ドングリの鏃を木の枝に差し込む
七、八十年も争いは続かないわな
@阿波 給付金の申請書届いた?田舎だから対応が早そうでそこだけ羨ましいよ 住みたくないけど https://pbs.twimg.com/media/Di9KL3cU0AAPdkq?format=jpg&name=small
これ見るとさ
工具や農具ですら福岡にトリプルスコア以上付けられてるわけですよ
この程度の文化圏から古くから全国に散らばったと言い張る@阿波大好きな忌部は出向先で何が出来る?
全国均一に文化を高めるなら理解できるけど一部が高くて自国は皆無 ありえなくね?
@阿波が良く書き込む天皇巡行は哀れみ惜しんだ天皇が低い文化を視察しただけだろ >>541
@阿波 給付金の申請書届いたー?
田舎だから対応が早そうでそこだけ羨ましいよ 徳島には恥ずかしいから住みたいないけど >>545
>砂鉄ですかつまり丹はベンガラって認めた訳ですね
頭狂ってますね。 わははははは @阿波 「考古学は残酷」
鉄器加工の先進地であるばかりでなく、国づくりに必要な当時の先端技術を縄文時代から育んで、すでに有していたことをはじめて知りました。
●阿波独特の文様 弧帯文土器
●吉野川から産する「王者の石」 阿波の青石・結晶片岩とそれを使った墳墓築造技術
●朱の生産
●吉野川の蛇紋岩を使った玉つくり
●上記の生産を可能とした鉄器作り & 銅鐸など金属器加工技術
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/1003awa04.htm @阿波 >辰砂は赤土の事だととっくにばれてるぞw
九州のお墓は赤土まみれだとさ。 わははははは @阿波 九州説も結局は、奈良盆地で息の根を止められる宿命なんだよ、畿内説同様にね。 阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 魏志倭人伝の「橘」や「楠」自生地は、黒潮流れる太平洋沿岸。 少なくとも、北部九州には自生しない。
よって、北部九州は「邪馬臺国」では有り得ない。 @阿波 倭(ヤマト)国とは、
日本で唯一、大和朝廷から「倭(ヤマト)大國魂神社・倭(ヤマト)大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。 @阿波 「前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料」
徳島県鳴門市大麻町萩原の「萩原2号墓」で、板材でつくった墓室・木槨(もっかく)を積石(つみいし)で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。
県教委と県埋蔵文化財センターによると、築造は弥生時代終末期の2世紀末〜3世紀初頭で、邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。
石で木槨を囲う例は、他には弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、
同古墳の構造に影響を与えたのは確実。
前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料となる。
http://www2.odn.ne.jp/kofun/hagiwara.htm
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >@阿波の書き込みは説得力があるな
それはバックに、正真正銘の本物 「阿波」 が控えているから。 @阿波 何にもな〜い何にもな〜い阿波には何にもない〜♪生まれ〜た〜生まれ〜た〜妄想が〜ひ〜と〜つ〜♪ >>577
そりゃ、正真正銘の本物には、誰がどうやっても勝てないわな。 それが道理というもの。 わははははは @阿波 朱(=水銀)の産地は別に四国だけではないのでは?
朱の産地=丹生は佐賀にも三重にも滋賀にも島根にもありますし
それに中国産の朱の使用も考えられるのでは? 邪馬台国は置いといて
記紀を読む限り阿波の国が大和王権?の発祥な気はしますが あと個人的には邪馬台国の領土は北九州の時もあれば拡大して九州から奈良まで広大な時代もあったのでは?
逆に北九州だけに縮小した時代もあったかもしれないし >>582
その根拠は?
新参で過去ログ読み切れてません
すみません >>579
>朱(=水銀)の産地は別に四国だけではないのでは?
たしかに、水銀鉱脈は四国だけではない。
しかし、少なくとも、縄文時代から卑弥呼の時代まで辰砂を採掘していたのは、「若杉山辰砂採掘遺跡」だけ。 阿波以外は、阿波による水銀朱被供給地域。 @阿波 んなぁことは無い
大分と佐賀と福岡は朱が出ていた
大分と佐賀は歴史的に抹殺されとる、予算もない >>586
>大分と佐賀と福岡は朱が出ていた
朱が出ていたのは、九州だけじゃないよ。 まっ、卑弥呼時代じゃないけどね。 @阿波 >>586
>大分と佐賀は歴史的に抹殺されとる、予算もない
んなぁことは無い。 予算もなく、抹殺されているのは「阿波」だろ。 @阿波 >>589
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
旧説の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 わははははは @阿波 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 四国から大和王権が伸展したと言うのもギャグでない限りあり得ないのである >>585
> しかし、少なくとも、縄文時代から卑弥呼の時代まで辰砂を採掘していたのは、「若杉山辰砂採掘遺跡」だけ。 阿波以外は、阿波による水銀朱被供給地域。 @阿波
この情報は誰の研究?もしくは論文ですか? >>595
「若杉山遺跡 国史跡に」 令和元年 6月22日(土) 徳島新聞朝刊
「辰砂採掘法の解明評価」
弥生時代後期から古墳時代前期に赤色顔料「水銀朱」の原料となった辰砂の採掘が行われた阿南市水井町の若杉山辰砂採掘遺跡が、国史跡に指定される。
国の文化審議会が21日、柴山昌彦文部科学相に答申した。
水銀朱は葬送儀礼などに用いられ、古代の西日本地域で重用された。
文化審は、原料の採掘方法が判明した全国唯一の遺跡として、歴史的価値が高いと評価している。
県内の国史跡は12か所になる。
指定されるのは、那賀川支流の若杉谷川の西側山腹斜面約1.2ヘクタール。
横穴状に岩盤を掘り進めた採掘抗跡と露天掘り跡の2か所の採掘場所が確認されている。
採掘抗跡は弥生時代後期に採掘が始まり、国内最古とされている。
採掘時に出た排石のほか、原石を砕いた石杵などの石器も見つかり、遺跡内で不要鉱物を取り除いて粉末にしていたことが分かっている。
また、石杵に香川県東部で産出する硬質の石が含まれることなどから、広範囲から辰砂を求めて人々が来ていた可能性が指摘されている。
遺跡は第2次世界大戦中に行われた水銀探索の最中に発見され、1969年に市史跡に指定。
市と県教委が2017〜18年度に行った発掘調査で2か所の採掘場所跡などを確認し、古代の採掘方法を解明した。
国史跡指定に当たり、遺跡の名称は従来の若杉山遺跡から若杉山辰砂採掘遺跡に変更される。 阿南市加茂町の「加茂宮ノ前遺跡」で、古代の祭祀などに用いられた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期の石臼や原料の辰砂が大量に出土した。
県教委などが、国内最大で最古級の生産拠点だったと発表した。
近くの水井町にある弥生時代後期〜古墳時代初期の「若杉山辰砂採掘遺跡」が国史跡の指定を受け、辰砂の採掘方法が判明した全国唯一の遺跡と評価された。
両遺跡は那賀川中流域での水銀朱生産の歴史をひもとく発見として注目されている。
「加茂宮ノ前遺跡」では石臼や石きねのほか、辰砂原石や水銀朱を塗った土器の破片、耳飾りなど約1千点が出土した。
祭祀に使われたとみられる円形に石を並べた遺跡や住居跡も見つかった。
過去の発掘調査では弥生時代中期末〜後期初期に水銀朱が生産されていたと判明していた。
今回の発見で、その起源が縄文時代後期までさかのぼることになった。 >>597
>>598
新聞社が調査した訳ではないでしょうに
どこの研究機関の誰の発表ですか?
あと記事には「邪馬台国」の一言も出てきてないのでは?
魏志が指す邪馬台国がざっくり3世紀前半として
邪馬台国の領土(時代により変化はあるでしょうが)が広ければ他の地域産出の水銀を使用していた可能性は十分にあるのでは? 泡バカは考古学的事実を列挙はするが
それが邪馬台国の位置論にどう関係するのかという説明は一切しない >>600
>新聞社が調査した訳ではないでしょうに
そんなに信用できないのであれば、徳島新聞社に問い合わせば? わははははは @阿波 >>600
>あと記事には「邪馬台国」の一言も出てきてないのでは?
なんで「邪馬臺国」を出さないといけないの? わははははは @阿波 >>600
>他の地域産出の水銀を使用していた可能性は十分にあるのでは?
「若杉山辰砂採掘遺跡」以外の採掘遺跡が見つかれば、その可能性はあるだろうがね。 わははははは @阿波 >>602
>泡バカは考古学的事実を列挙はするが
それさえ出来ないトンデモの分際で、何をか言わんや ! @阿波 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. 近畿大学、国立環境研究所、その他の共同研究では
三重県丹生鉱山周辺では縄文時代にすでに採取が行われていたと考えられ,辰砂原石が新徳寺遺跡,天白遺跡,および勢和村池ノ谷遺跡から出土している。
また徳島県水井鉱山のふもとにある若杉山遺跡では、弥生時代中期末から後期初頭には辰砂鉱石の精製が行 われていた。
一方,奈良県大和水銀鉱 山周辺には採取や精製が行われた遺跡は出土していないが,三重県丹生鉱山に隣接する宇陀地方の大和水銀 鉱山は古くから水銀鉱山として知られ,硫黄同位体分 析の結果から大和水銀鉱山産の朱を用いたと思われる 墳墓も確認されている
同時期に産地は他にもあったみたいでね
精製されていた遺跡が見つかったのは今のところ若杉山遺跡だけという感じですかね
でも他にも精製したという遺跡が今後発見されることもあるでしょうしね
それに精製した朱が北九州、奈良に流通していたということも考えられますし
同研究によると日本海側の墳墓に中国産の朱が用いられていたことから当時の物流も活発と伺えますし >>610
>精製されていた遺跡が見つかったのは今のところ若杉山遺跡だけという感じですかね
違うよ。 精製していた遺跡は「若杉山辰砂採掘遺跡」だけではないよ。 勉強不足!
辰砂鉱脈のない所(吉備など)でも精製遺跡はあるからね。 そういったところはおそらく、「若杉山辰砂採掘遺跡」の辰砂を精製したものだろう。 @阿波 ちなみに、金印を貰った卑弥呼というのは倭迹迹日百襲姫命とお考えでしょうか?
仮に倭迹迹日百襲姫命ということで話を進めるとして
倭迹迹日百襲姫命がいた時代の邪馬台国の中心地が四国であったという根拠は何でしょうか >>612
>ちなみに、金印を貰った卑弥呼というのは倭迹迹日百襲姫命とお考えでしょうか?
まったく、違います。 @阿波 >>612
>倭迹迹日百襲姫命がいた時代の邪馬台国の中心地が四国であったという根拠は何でしょうか
縄文石器文化圏(泥質片岩製の石棒・青色片岩製の柱状片刃石斧)、蛇紋岩製勾玉文化圏、銅鐸文化圏、神道祭祀文化圏、
水銀朱文化圏、積石塚墳墓文化圏、軽量薄型土器文化圏(東阿波型式)等々 同心円状に広がる文化圏の中心地、
それが正に邪馬台国(阿波)であった。 @阿波 >>614
> 縄文石器文化圏(泥質片岩製の石棒・青色片岩製の柱状片刃石斧)、蛇紋岩製勾玉文化圏、銅鐸文化圏、神道祭祀文化圏、
> 水銀朱文化圏、積石塚墳墓文化圏、軽量薄型土器文化圏(東阿波型式)等々 同心円状に広がる文化圏の中心地、
その同心円状に広がる文化圏の分布図というのは どちらで詳しく拝見出来ますか? ちなみに金印を賜った卑弥呼というのは 誰とお考えですか? あと邪馬台国がずっと定位置にあったとお考えのようですが
領土の拡大に伴い中心地も時期によって異なっていたとは考えられないのでしょうか >>615
分布地域を、図としているかどうかは不明です。 @阿波 >>616
「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日?女命」=「天照大神」 @阿波 >>617
>領土の拡大に伴い中心地も時期によって異なっていたとは考えられないのでしょうか
白村江で敗れるまでは、倭国(阿波)だね。 領土の拡大というより、「忌部一族」による全国の拓殖展開。 @阿波 >倭迹迹日百襲姫命
が四国を根拠地にしてた神社の数々の由緒などは此処に詳しく紹介されてる。
http://mb1527.thick.jp/momosohimejinja.html
邪馬台国論争などどうでも良いが四国を中心に動いていた時代は間違いなくあったことの証しだろう。 >>618
> 縄文石器文化圏(泥質片岩製の石棒・青色片岩製の柱状片刃石斧)、蛇紋岩製勾玉文化圏、銅鐸文化圏、神道祭祀文化圏、
> 水銀朱文化圏、積石塚墳墓文化圏、軽量薄型土器文化圏(東阿波型式)等々 同心円状に広がる文化圏の中心地、
訂正
その同心円状に広がる文化圏に関する研究資料というのは どちらで詳しく拝見出来ますか? >>619
「天照大神」に関しては個人というよりも役職
若しくは何代目というような引き継がれる神職の可能性もあったのでは? >>622
それだと中心としていた時代があったということであり
このスレ的にいう「邪馬台国=四国」説確定とは言えないですよね
しかも当該サイトには讃岐国に「派遣」されたとありますし
派遣とは中心地から「送り込まれた」と考えるのが一般的では? >>622のサイトを読むかぎり倭国大乱に対する大和朝廷の対策の一環とも感じられます
やはり中心地は他にあったのでは? >>625
>派遣とは中心地から「送り込まれた」と考えるのが一般的では?
その通り。 倭国(阿波)から瀬戸内開拓を任されたと言うこと。 @阿波 >>626
>倭国大乱に対する大和朝廷の対策の一環とも感じられます
倭国乱は、第七代孝霊天皇の皇女「倭迹迹日百襲姫命」の遥か昔の卑弥呼(天照大神)時代の出来事。
大和朝廷は8世紀、倭国(阿波)から遷都後の発足だよ。 時代がめちゃくちゃ。 @阿波 一度整理させてもらいますね
倭国大乱は、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇の150年頃〜200年頃
孝元天皇の時代に倭国大乱(吉備)に勝てた時代に倭迹迹日百襲姫命(孝霊の皇女)が活躍
孝元天皇の即位が186年として
魏志倭人伝にある景初2年もしくは3年(238年若しくは239年)に
倭迹迹日百襲姫命が「親魏倭王」の称号を得る(この時すでに崇神の時代)
時代的に問題ないのでは?
あと出来れば
>>629の
大和朝廷の8世紀の遷都後の発足って詳しく説明お願いします
「大和」って神倭伊波礼毘古命(神武天皇)からのスタートでまちがいないのでは? 百襲姫が阿波に居た時期があったことに異論はないし
阿波が中心地になった時期があった可能性があったことにも異論はないです
あしからず >>631
>倭国大乱は、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇の150年頃〜200年頃
倭国大乱なんてないよ。 倭国乱。 倭国乱は卑弥呼共立以前の話。 卑弥呼の時代に天皇制なんてないから。 @阿波 >>631
>「大和」って神倭伊波礼毘古命(神武天皇)からのスタートでまちがいないのでは?
大和朝廷は「文武天皇」の8世紀からだよ。 当然、神武天皇は倭国(阿波)に居る。 @阿波 >>633
あなたのお考え ざっくりで良いので年表チックにまとめて頂けると助かります >>635
少なくとも、縄文時代後期から卑弥呼時代も含めて7世紀後期に白村江の戦で敗れるまで倭国(阿波)。
大和朝廷は8世紀(文武天皇)、倭国(阿波)から遷都後の発足だよ。 @阿波
あなたの説は自説でしょうか?
それともどなたか研究者の方のもの? >>637
>なんで阿波から朝廷が出ていっちゃったんですかw
白村江で敗れ、唐軍の侵攻を恐れたため。 奈良大和は内陸であり、唐軍の侵攻から逃れるため。
また、すでに朝鮮半島からの渡来人も居住し、渡来人街もあり新王都建設に好都合だったと思われる。
>>638
もちろん、阿波の研究者が基本になっている。 @阿波 >>640
その内陸にある奈良よりも遠い場所に阿波があるのに逃げる妄想癖 >>644
なに言ってんの? 山に囲まれた、遠い場所にあるのが、奈良大和だよ。 @阿波 >>644
もし、山奥の奈良大和に王都があれば、遷都なんかしていないよ。 わははははは @阿波 人類の95‰は海に面した土地に住んでいます
それは、自然の摂理なのです >>648
そうでもないよ。 いまだに天皇家から麁布の調進依頼があるから。 わははははは @阿波 阿波から奈良大倭への遷都(7世紀後半〜710年)によって、忌部の本家は阿波に留まる一方、その一部が奈良大倭に渡り、 やがて諸国の忌部を統括することになる。
これが中央忌部である。 阿波に残った忌部の本家は、同家の本源的職掌である麁布・木綿及び高天原の山の幸を由加物として、践祚大嘗祭の度ごとに新都に送った。
母国からの調進である。
忌部の本家が阿波に残った理由は、天照大神以来、天孫(天皇)の祭祀に必要な神具は「高天原で採取調整されなければならない」という、
天岩屋戸神話に由来する神典を墨守したからである。 @阿波 https://pbs.twimg.com/media/Di9KL3cU0AAPdkq?format=jpg&name=small
全てはこれ
工具・農具・武器で悲しいぐらい劣る徳島が首都にな訳はない
卑弥呼以前の男王の争い7,80年にすら関係がない
文化的にも相手にされていないのが明白である
この様な状況で忌部が全国に散らばり活躍したなどあろうはずがない 福岡や畿内に嫉妬し見てきた物をイミテーションで造ったのがイミテーション倭国・阿波である
天皇巡行は文化的に劣る阿波を視察しただけに過ぎない >>654
しっかし空虚なスレだな。 わははははは @阿波 >>654
しっかし空虚なレスだな。 わははははは @阿波 >>657
しっかし空虚なレスだな。 わははははは @阿波 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. ちなみに阿波の研究家の間では 倭国乱は西暦で何年頃と考えられているのですか?
あと卑弥呼(=天照大神)は西暦何年頃に存在していたと考えられていますか?
卑弥呼が金印を賜ったのは魏志倭人伝に従って3世紀前半と認識されているんでしょうか? >>655
反論になってませんね
543 日本@名無史さん[] 2020/06/10(水) 13:12:46.64 ID:
>>541
512 日本@名無史さん[] 2020/06/09(火) 21:27:32.56 ID:
>>511
まぁ、それが精一杯ってとこかwww @阿波
502 日本@名無史さん[] 2020/06/09(火) 20:41:16.54 ID:
>>500
中身がない感想はいらないから。
まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。 @阿波 >>660
すべて、卑弥呼の死亡年(248年頃)が基準だね。 @阿波 >>664
君の先祖も「忌部はん」 だよ。 わははははは @阿波 古代の夏、殷商、周、は倭人の國だったんだろう。
現代中国の辺縁からベトナムの百越族は「夏の末裔だ説」は彼らも自らそう称し「契丹古伝」には「殷これ倭國」と有るアルし、周も、、、
倭人と倭人文化の謎 人民中国国務院発展研究センター 張雲方
http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2008-10/28/content_159390.htm
>『史記』の「呉太伯の世家」(家の伝記)によると、周公の長男である太伯は、世継ぎ問題で呉に行き、そこで「断髪、文身(刺青)」し、国を建てた。
>「断髪、文身」は「倭人」の習慣であり、太伯に帰順した千余の家は、「倭人」であったに違いない。
「周」とはその名の通り原日本人の別働隊(その氏族を月読と呼んだのかも)が「周回」するループのひとつの王朝だったんだろう。偉大なる倭人、まさに神国日本だな。 忌部は天皇の調達係
悪く言えば召し使い、生口
哀れな人たちが住む場所、これが阿波の語源
また戦いに追われた人たちも集められた場所 >>669そんな意味でいったのではない、
そういう時代もあったんだと言っただけ 阿波は「あわ/あば」哀れは「あはれ」なんだよね。別物だと言う証拠。
ちはやぶる神の世の神代文字=殷王朝の甲骨文字=片仮名
神代文字を組み合わせた旁の字が漢字。
そうじゃ無かったら万葉仮名から平仮名を…っていくら倭人が優秀でも漢字、片仮名、平仮名を生み出せた訳も無いだろう。 >>667
>忌部は天皇の調達係
トンデモは、調進もできず、蚊帳の外! 指をくわえて見るばかり。 わははははは @阿波 >>672
https://pbs.twimg.com/media/Di9KL3cU0AAPdkq?format=jpg&name=small
この低い文化レベルでは調達係どころか要無しだろ
資源を活かせないから畿内や吉備へと貢ぐしかなかった これが阿波の真実 >>672
四国の中でも徳島はかなり劣る 文化圏の違いか付き合わない様にされていただけなのか 「加茂宮ノ前遺跡」(縄文時代) 令和2年6月12日 徳島新聞朝刊
阿南市加茂町の「加茂宮ノ前遺跡」は、那賀川中流域の右岸の自然堤防上にある。
標高は26m前後。
今回の調査では、縄文時代中〜後期(約5500〜3千年前)にかけての遺物の大きな成果が得られた。
確認されたのは、屋外炉や土坑、溝などの遺構だ。
期待した「竪穴式住居」の発見には至らなかったが、屋外炉や縄文土器を捨てた土坑などが見つかったことから、集落の一端を捉えた可能性が十分にある。
一方、遺物では装飾品類がたくさん出土した。
縄文土器のほか、玉斧や?状耳飾り、耳栓などだ。
?状耳飾りは7点、玉斧1点、垂飾1点。
深瀬遺跡(阿南市深瀬朝)の翡翠製丸玉、田井遺跡(美波町由岐)の?状耳飾り、西原遺跡(東みよし町足代)の翡翠製大珠とを合わせて考えると、県内の縄文時代の装飾品の多様性がうかがえる。
他方、「加茂宮ノ前遺跡」を特徴付ける水銀朱関連の遺物については、今回の縄文時代中期の層からの出土はなかった。
ここで水銀朱が使われ始めた時期が、縄文後期だと裏付けられた。
ただし、豊富な装飾品類が示す通り、日常生活の中で祭祀が行われていたことが十分うかがえ、縄文後期までに、これまでに発見されている配石遺構(祭祀場)を築ける素地が出来上がっていたといえる。
2016年度に始まった発掘調査では、弥生時代〜古墳時代の鍛冶遺構や水銀朱精製関連の遺物、縄文時代後期の「竪穴式住居」や円形配石遺構、国内最古級の水銀朱関連の遺物が確認され、全国的に注目を集めた。(県埋蔵文化財センター専門研究員・田川憲) >>676
阿波ではビックリするのだろうが他ではあることなんだろ
ベンガラも丹という
魏志倭人伝の丹が水銀朱だと断定出来る理由と資料を示さないとそれこそ多勢派の波に流されてるだけですよ 歴史は多数決でないのは@阿波はご存知でしょう >>672
隋書に出てくる阿蘇は阿波説ではどこを比定してるの? >>677
>他ではあることなんだろ
なんだろ? わははははは アホですか? 哀れなり! @阿波 >>678
阿波のどこか。 阿蘇・阿毎・淡海・阿波岐原も「阿波」関連。 @阿波 現代でも沖縄県九州は地政学で言うと水際だろう。
(今、首都防衛を担う最強空挺師団を千葉習志野に置いとるのと似ている)
食器、調理器具と同様、祭祀を司どっていた時代の四国に鉄製品など必要性が少なかっただけだろう。後の世の最強水軍を持つ四国は畿内とを繋ぐ瀬戸内の航路が育んだ物だと推して知るべき。
なみはやは文字通り潮流が激しく速い。
ちなみに帝国海軍は村上水軍の航海術を下敷きにバルチック艦隊を撃破したんだろう。 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. >>682
日露戦争時、海軍幹部達の総括に拠ると「運」らしい
必死のパッチの頑張りもあったけど、
それプラス「まぐれ」「奇跡の連続」としか言いようがなかったらしい。
其の1
ロシア艦隊の船長が「騎士道」を重んじる理想家だから不具合を起こした艦を見捨てられず、
その艦に合わせて航行した為に日本の連合艦隊に追いつかれた。
(日本の連合艦隊は「連合」というと聞こえは良いが実際は
現行の艦隊だけでは数が少なすぎる為 泣く泣く演習用の旧艦隊を組み込んだだけ)
其の2
当時の海戦は現代のソナーやレーダーとは比べ物にならないくらいの御粗末武器、
日本海軍の魚雷がたまたま露艦隊の先頭艦の操舵室に当たり、
横に舵を切ったままの先頭艦を後続艦が追う いわゆるウロボロス状態になった
そのおかげで攻撃し放題の状況になっただけで何ら実力で勝てた訳ではない >>677
>他ではあることなんだろ
なんだろ? わははははは アホですか? 哀れなり! @阿波 >>677
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
旧説の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 わははははは @阿波 「卑弥呼」とは「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
「男弟」とは「月読尊」
「卑弥弓呼」とは「素戔嗚尊」の3兄弟。
「壹與」とは神武天皇の祖母(または母)にあたる「豊玉比売命」
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波
卑彌呼宗女「壹與」の時代に邪馬台国(粟国)と狗奴国(長国)が統一された。 これが記紀に言う、「出雲の国譲り」
記紀の「天の岩戸神話」における、天照大御神が岩戸に隠れたというのは、倭人伝に言うところの「卑彌呼の死」を意味する。
そして、天照大御神が岩戸から出てきたという記事は、倭人伝に言う「卑彌呼宗女 壹與」の登場を意味する。
なお、魏志倭人伝に云うところの「更立男王」は、須佐之男命。 @阿波
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
旧説の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 わははははは @阿波 >>690
@阿波は文字を持たなかったから、その歴史は全て関係ない地域のものだよ。 >>694
>その歴史は全て関係ない地域のものだよ。
関係ない地域には、「魏志倭人伝と記紀との整合性」を語れない。 @阿波 .
(8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の竈(=火へんに土)と釜と甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈(=火へんに土)のセットで炊く、
鼎で炊く、さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
同じく中国には7000年前からある竈も釜もそれまで知らなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. @阿波人からは鉄器の欠片しか出土していないだろ。
いらなくなった鉄器の欠片を与えると、それを両手でカンカン打ち鳴らして喜んでいたらしい。
続三国志に書いてある。 >で、そこから相当数の鉄器が出て来たの?
「阿南・加茂宮ノ前遺跡」
この遺跡の出土品は計約50万点にも達するらしいので、相当数の鉄器が出て来たのでは? @阿波
「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、
このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、
県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30〜40pで、
鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。
さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。17年2月には出土品の分析などから、
南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。 @阿波 >>677
他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
旧説の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 わははははは @阿波 続三国志より転載
阿南・加茂宮ノ前遺跡にやってきた倭人は、毛深い類人猿を発見した!!
毛人ではない。なんらかの獣。獣人。
倭人は鉄器を持ち込んで、
南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した。
@阿波人にいらなくなった鉄器の欠片を与えると、それを両手でカンカン打ち鳴らして喜んでいたらしい。
続三国志に書いてある。 ちなみに阿波の研究家の間では 倭国乱は西暦で何年頃と考えられているのですか?
あと百襲姫が3世紀前半として
卑弥呼(=天照大神)は西暦何年頃に存在していたと考えられていますか? >>702
>あと百襲姫が3世紀前半として
最初からやり直し! @阿波 >>703
>最初からやり直し!
鏡を見てごらん
毛むくじゃらのその獣。@阿波人。
>最初からやり直し! 続三国志を現代科学で斬る!!
@阿波から発掘された獣人骨をDNA解析したところ、
現代日本猿と5%の相同性が認められた。
続三国志には言葉の通じない@阿波人についての記録が残されており、
今後の研究成果が期待される。 >>703
「卑弥呼#倭迹迹日百襲媛命説」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/卑弥呼#倭迹迹日百襲媛命説
年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている。 >>703
あなた方、古代阿波研究家達は倭国乱(通説では西暦150年〜200年頃)を西暦何年頃と考えてるのですか?
あと卑弥呼(=天照大神)はさらに昔と言われてますが西暦何年頃に存在したと考えているのですか? >>708
@阿波人は今も人間になりたい。
@阿波人は、@阿波に住むといわれているUMA(未確認動物)である。全身が毛に覆われ、四足歩行するとされる。続三国志によると@阿波人には3種類いるとされ、@阿波橘、@阿波楠、@阿波朱であり、この3種は家族だともいわれている。人語を解さないため、遭遇した際は手近な棒などで追い払うか、いらなくなった鉄器の欠片を与えると、それを両手でカンカン打ち鳴らして喜ぶと、続三国志にも書いてある。
サルの出没にご注意ください!
>https://www.pref.tokushima.lg.jp/ippannokata/kurashi/shizen/5029788/
徳島市の住宅街にサル出没
>https://www.topics.or.jp/articles/-/264449
徳島空港にサル
>https://www.topics.or.jp/articles/-/229201 「加茂宮ノ前遺跡」(銅剣形石製品) 令和2年6月13日 徳島新聞朝刊
阿南市加茂町の「加茂宮ノ前遺跡」で見つかった「銅剣形石製品」は、県内で初めて出土した弥生時代の銅剣を模倣した石製品だ。
残存部分の大きさは、長さ24.1cm、幅(最大)5.1cm、厚さ(最大)1.3cm、重さ181.2g。
出土した場所は、加茂宮ノ前集落の調査範囲の東端に近い直径7mの「竪穴式住居」だった。
「竪穴式住居」の南周壁溝の辺りから横倒しの状態で見つかった。
出土した土器から推定すると、住居ができた年代は、弥生時代中期末ごろと考えられるものの、検討を要する。
「銅剣形石製品」は、加茂宮ノ前集落の人々が、近くで採った水銀朱を近畿に運び交換して手に入れた可能性が高い。
交易ネットワークを考える上で極めて貴重な資料だ。
「銅剣形石製品」の形は、「平形T式銅剣」に類似している。
本来、表と裏側に溝があったと考えられるが、面が削られたことによって失われかけている。
製作当初は細形ないしは中細形銅剣を模倣していたとみられる。
再加工することによって平形銅剣の形状に作り替えられた痕跡がある。
柄の部分から1.4cmの所にある穴2か所から分かる。
材料の石は畿内から北陸地方にみられるような黒色の堆積岩だ。
加茂宮ノ前集落では、近畿地方と同じように「銅剣」と、「銅剣形石製品」を使った祭祀が行われていた。
その後、平形銅剣という新しい形状の銅剣が使われることで、古い形の「銅剣形石製品」が再加工されるようになり、
地域独自の青銅器祭祀を行うようになった。(県埋蔵文化財センター専門研究員・田川憲) 続三国志より転載
阿南・加茂宮ノ前遺跡にやってきた倭人は、毛深い類人猿を発見した!!
毛人ではない。なんらかの獣。獣人。
倭人は鉄器を持ち込んで、
南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した。
@阿波人にいらなくなった鉄器の欠片を与えると、それを両手でカンカン打ち鳴らして喜んでいたらしい。
続三国志に書いてある。 >>711
相当、倭国(阿波)が羨ましくて、悔しいんだね。 その気持ち、分らんでもないよ。 わははははは @阿波 >>703
「卑弥呼 倭迹迹日百襲媛命説」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/卑弥呼 倭迹迹日百襲媛命説
年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている。 古代阿波研究家達は倭国乱(通説では西暦150年〜200年頃)を西暦何年頃と考えてるのですか?
あと卑弥呼(=天照大神)はさらに昔と言われてますが西暦何年頃に存在したと考えているのですか? >>713
>箸墓古墳の築造年代についても・・・
忌部の豪族墓をいくら言い張っても、詮無いことだよ。 時間の無駄!
畿内古墳の構造(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでもwww @阿波 古代阿波研究家達は倭国乱(通説では西暦150年〜200年頃)を西暦何年頃と考えてるのですか?
あと卑弥呼(=天照大神)はさらに昔と言われてますが西暦何年頃に存在したと考えているのですか? https://ja.m.wikipedia.org/wiki/忌部氏
これを読むかぎり忌部は統治ではなく祭儀担当でしかないのでは? 古代阿波研究家の論文や研究発表など、どのサイトで詳しく拝見出来ますか?
せめて阿波研究家による時系列を追った年表なりを見ないと妄想としか .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. 続三国志を現代科学で斬る!!
@阿波から発掘された獣人骨をDNA解析したところ、
現代日本猿と5%の相同性が認められた。
続三国志には言葉の通じない@阿波人についての記録が残されており、
今後の研究成果が期待される。 >>713
>箸墓古墳の築造年代についても・・・
忌部の豪族墓をいくら言い張っても、詮無いことだよ。 時間の無駄!
畿内古墳の構造(葺石・竪穴式石室など)や副葬品(水銀朱・勾玉・鉄器など)を見れば、一目で「忌部はん」 のお墓と判るのに、いつまでもwww @阿波 >>721
相当、倭国(阿波)が羨ましくて、悔しいんだね。 その気持ち、分らんでもないよ。 わははははは @阿波 >>724
「一目で〜〜と判る」
「〜〜というのは明らかだ」
「〜〜という伝承があった」
などなど
アカデミックなアプローチをするにおいて、こんな曖昧な表現は許されませんよ
確たる資料と物証を出さないと
でそれらの比較資料の主張はどちらのサイト若しくは期間で確認出来ますか? >>726
>アカデミックなアプローチをするにおいて、こんな曖昧な表現は許されませんよ
で、アカデミックなアプローチをだれがしたんだい? わははははは @阿波 >>728
で、アカデミックなアプローチをだれがしたんだい? わははははは @阿波 @阿波人は弱いんだから退治したら可哀そうだろ。
動物保護団体からクレームくるぞ。
逆だ。
保護してあげなくちゃ。 >>731
で、アカデミックなアプローチをだれがしたんだい? わははははは @阿波 @阿波人は人語を解さないからコミュニケーションを取ろうとしても無駄。
@阿波人にいらなくなった鉄器の欠片を与えると、それを両手でカンカン打ち鳴らして喜んでいたらしい。
続三国志に書いてある。 .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. モナー「北海道で発掘された土器片を年代測定したら1万6000年前の土器だった事が判明しました」
全世界「スゲーーー!!世界最古級だよソレ!!やっぱり日本はスゲーー!!」
その二年後だったか
シナー「我が国で発掘した土器片は1万8500年前の世界最古だったアルーーー!」
全世界「嘘つけ!!」
シナー「ほ本当アルーー!!」
全世界「じゃあ見せてみろよ…」
シナー「ギックゥーーぬぬ盗まれたアルゥゥ、しゃ写真なら有るアル」
全世界「ちゃんちゃん」
だったのはもうバレてるんだよ。 え?
遅れてるねー?
@阿波人なら百万年前から土器を作ってたよ。
土器の欠片を作ると、それを両手でカンカン打ち鳴らして喜んでいたらしい。
続三国志に書いてある。 マジでシラケた。
続三国志、、、あるアル夢物語かな…。 「突出部を廃して円墳化した西山谷2号墳」
前代にいったん登場した突出部を廃して円墳化した西山谷2号墳の墳丘形態は以後しばらくの間、
吉野川下流域北岸地域で再現されつづけ、ある種の地域的規範が形成されている。
https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12408409524.html 「加茂東原遺跡」(古墳期には鉄器を製作) 令和2年6月14日 徳島新聞朝刊
東みよし町加茂の「加茂東原遺跡」は、吉野川の南岸、標高68mの自然堤防上に営まれた集落だった。
付近には、玉造り工房跡が発見された弥生時代の稲持遺跡(東みよし町稲持)や、
古墳時代前期の前方後円積石塚である丹田古墳(東みよし町西庄)など著名な遺跡がある。
昨年7月から11月にかけて、加茂第2堤防の建設に伴う「加茂東原遺跡」の発掘調査が行われ、
縄文時代晩期(約3千年前)から江戸時代にかけての遺構や遺物を確認した。
古墳時代初め(3世紀)には、「竪穴式住居」2棟が造られた。
このうち、直径9mの大型住居である2号住居では、鍛冶炉や砥石が出土したことから、鉄器の製作工房だったとみられる。
調査地の真南2kmの山腹に、首長墓である丹田古墳が築かれているため、3世紀の住居2棟は丹田古墳を造った集団の集落の一部だったと推測される。
古墳時代中期は、加茂谷川西岸一帯で遺跡や古墳が見られない空白期。
その後、古墳時代後期以降に古墳23基、古墳群2か所が造営されている。
集落は、その時期から再び拡大し、7世紀の飛鳥時代にかけて発展を遂げたと考えられる。
天平勝宝4(752)年には、加茂谷川西岸一帯が東大寺の封戸(領地の一種)の一つである三津郷に発展する基礎となったと考えられる。 (県埋蔵文化財センター専門研究員・島田豊彰) 倭国(阿波)を掘れば、こんな遺跡がザックザク。 当たり前と言えば当たり前! @阿波 徳島新聞:2020・6・14
徳島市民はイモ好き? サツマイモ購入支出日本一、全国平均の2倍近く みよしは良さそうだな
アワの古代史は戦いの匂いがしないね
民族同志は平和だったのだろうね
>>745
平和になったのは、倭国乱を経て卑弥呼擁立以後の、壹與時代になってからだろう。 @阿波 徳島新聞:2020・6・14
徳島市民はイモ好き? サツマイモ購入支出日本一、全国平均の2倍近く .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. この武力って、どの武力かね? わははははは @阿波 >>754
読み取れないから教えて! わははははは @阿波 >>754
ねぇ、ねぇ、読み取れないから教えて! わははははは @阿波 大体、日本人は戦国時代でさえ殆ど人里を避けて合戦してたから四国に金属製遺物や闘争の痕跡が少ないってのは当たり前だ。
地政学上、現代も対馬など九州地方が国防の要点だし、飛鳥でも防人を送っていた事と同じ意味だろうね。
大和奈良に遷都されても九州の雄、狗吠、吠声の隼人は条理の近衛兵だった。
ちなみに幕末の薩摩藩の示現流の発する猿叫は人斬り集団新選組をも震え上がらせたのは有名。 >>754
ねぇ、ねぇ、読み取れないから教えて! わははははは @阿波 >>745
平和になったのは、倭国乱を経て卑弥呼擁立以後の、壹與時代になってからだろう。 @阿波 阿波人は日本語で書かれた図を読み取ることが出来ない >>760
ねぇ、ねぇ、読み取れないから教えて! わははははは @阿波 >>762
ねぇ、ねぇ、読み取れないから教えて! わははははは @阿波 徳島は四国の中でも最低で茨城にすら負けてると言う事だ >>766
ねぇ、ねぇ、読み取れないから教えて! わははははは @阿波 読み取れないのではなく読み取れたけど受け入れたくないのであろう阿波は全国最低レベルの未開地 >>768
いや、いや、本当に読み取れないんだよ。 だから教えて! わははははは @阿波 >>770
いや、いや、本当に読み取れないんだよ。 だから教えて! わははははは @阿波 このまま読み取れない方が幸せなんじゃないか?未開地阿波人にはw >>772
いや、いや、そう言わずに本当に読み取れないんだよ。 だから教えて! わははははは @阿波 .
最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>774
教えてくれない所を見ると、本当は君も読み取れないんじゃないの? わははははは @阿波 >>777
なにを誤魔化していると? わははははは @阿波 >>777
やっぱり教えてくれない所を見ると、本当は君も読み取れないんだね。 わははははは @阿波 四国の古代は何にもないとしか読み取れないよ わははははは @阿波の鉄器は最少レベル >>781
>四国の古代は何にもないとしか読み取れないよ
だから、どうして? わははははは @阿波 >>781
>四国の古代は何にもないとしか読み取れないよ
だから、どうして? やっぱり教えてくれない所を見ると、本当は君も読み取れないんだね。 わははははは @阿波 読み取ったから四国は何にもなかったと理解出来たんだよ わははははは @阿波は人より猿が利口の地 >>784
>読み取ったから四国は何にもなかったと理解出来たんだよ
どう読み取ったの? 本当に読み取れないんだよ。 だから教えて! わははははは @阿波 >>784
やっぱり教えてくれない所を見ると、本当は君も読み取れないんだね。 わははははは @阿波 原資料のサイトに直接質問したらどうだ?残念ながら阿波人につける薬は持ってないからw >>787
>原資料のサイトに直接質問したらどうだ?
やっぱり教えてくれない所を見ると、本当は君も読み取れないんだね。 わははははは @阿波 得意のバカの一つ覚えコピペで四国がダメダメな地だった事実から逃避する@阿波w >>789
話をそらさずに、本当に読み取れないんだよ。 だから教えて! わははははは @阿波 >>789
話をそらす所を見ると、本当は君も読み取れないんだね。 わははははは @阿波 いくらコピペ繰り返しても四国は何にもなかった地と言う客観的事実は覆らないよw 邪馬台国阿波説は客観的事実の前に敢えなく葬り去られましたとさw >>795
話をそらす所を見ると、やっぱり君も読み取れないんだね。 わははははは @阿波 読み取れない仲間は他に探した方がいいよw
邪馬台国阿波説の死亡診断書見たくなければw >>797
やっぱり君も読み取れないんだね、話をそらす所を見ると。 わははははは @阿波 >四国の古代は何にもないとしか読み取れないよ
だから、どうして? こっちを読み取れてないといくら決めつけても邪馬台国阿波説はもうタヒんじゃったよw >四国の古代は何にもないとしか読み取れないよ
だから、どうして? >>802
やっぱり君も読み取れないんだね。 わははははは @阿波 >>802
やっぱり君も読み取れないクソ資料だったんだね。 わははははは @阿波 そうだと君は安心なんだねwなお邪馬台国阿波説は死亡宣告が為されましたw >>805
結局、君も読み取れないようなクソ資料だったんだね。 わははははは @阿波 >>805
君も読み取れないようなクソ資料を持ち出すってことは、よっぽど倭国(阿波)に危機感を抱いているんだね。 わははははは @阿波 >>809
必死に話をそらしています。
君も読み取れないようなクソ資料を持ち出すってことは、よっぽど倭国(阿波)に危機感を抱いているんだね。 わははははは @阿波 邪馬台国阿波説は元々省みられてなかったどうでも良い扱いだったが最後となると…やっぱりどうでも良いなw そりゃ倭国内と言うより鼻先にいる外敵に対する防衛の地だからな。
防人は先、幸(さき)の守りだし。
九州に鉄器が多いのはそう言う事だろう。
食文化が違うと食器、調理器具が違うのと同じ。 >>812
>四国の古代は何にもないとしか読み取れないよ
コレでどうしたら、そう読み取れるの? 教えて頂戴。 わははははは @阿波 >>815
だから、どうしてそう読み取れるの? 教えて頂戴。 わははははは @阿波
>>817
必死に話をそらしています。
君も読み取れないようなクソ資料を持ち出すってことは、よっぽど倭国(阿波)に危機感を抱いているんだね。 わははははは @阿波 >四国の古代は何にもないとしか読み取れないよ
コレでどうしたら、そう読み取れるの? 教えて頂戴。 わははははは @阿波
https://pbs.twimg.com/media/Di9KL3cU0AAPdkq?format=jpg&name=small >>813
だとしたら九州が阿波を逆に飲み込むだろ
拠点には反乱に対峙する武力は有しておく物だよ
阿波はそれが皆無 >>822
その四国でも徳島が1番劣る
本州から遠い高知にすら劣っている地域を魏なりが相手にするわきゃない >四国の古代は何にもないとしか読み取れないよ
コレでどうしたら、そう読み取れるの? 教えて頂戴。 わははははは @阿波
https://pbs.twimg.com/media/Di9KL3cU0AAPdkq?format=jpg&name=small 鉄器加工の先進地であるばかりでなく、国づくりに必要な当時の先端技術を縄文時代から育んで、すでに有していたことをはじめて知りました。
●阿波独特の文様 弧帯文土器
●吉野川から産する「王者の石」 阿波の青石・結晶片岩とそれを使った墳墓築造技術
●朱の生産
●吉野川の蛇紋岩を使った玉つくり
●上記の生産を可能とした鉄器作り & 銅鐸など金属器加工技術
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/1003awa04.htm >で、そこから相当数の鉄器が出て来たの?
「阿南・加茂宮ノ前遺跡」
この遺跡の出土品は計約50万点にも達するらしいので、相当数の鉄器が出て来たのでは? @阿波
「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、
このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、
県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30〜40pで、
鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。
石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。
さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。17年2月には出土品の分析などから、
南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。 @阿波 古墳の副葬品などではなく、日々の生活空間「集落遺跡」から出土した鉄鏃
・矢野遺跡(弥生時代) 徳島県最大級の弥生時代の集落
・樋口遺跡 弥生時代後期〜近世にかけての複合集落遺跡 「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ない後進県にも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地9か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「高川原遺跡」・「鮎喰遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >四国の古代は何にもないとしか読み取れないよ
コレでどうしたら、そう読み取れるの? 教えて頂戴。 わははははは @阿波
https://pbs.twimg.com/media/Di9KL3cU0AAPdkq?format=jpg&name=small どうしてそう読み取れないか教えてちょうだい わははははは @阿波は邪馬台国四国説の喪主 >>827
お馬鹿さん大丈夫ですか?
鉄類が50万点とは書かれていない ガラス玉や管玉などを含めて50万点
あとは古い 下から3行に同時期に九州や中国地方にもあったとある
鍛冶炉は鏃や小型ナイフを作る為のちいちゃい炉である事からそこまでの生産力も機能も有していないだろう
この程度の生産能力で自慢されてもな
>>828
>>830
徳島大学出身はその程度? >>828
>>827
【小さな鉄器に加工する為の鍛冶炉】@阿波唯一の自慢 生産能力は九州や中国、畿内よりも劣ります。 しかも【石のやじり】も含まれている 石器時代ですか?
>>831 >>834
>生産能力は九州や中国、畿内よりも劣ります。
じゃ、倭国(阿波)の、数多有る鍛冶炉遺跡より、生産能力が勝るという鍛冶炉遺跡を挙げてごらんよ。 羨ましくて僻みのトンデモさん。 わははははは @阿波 九州や畿内は、倭国(阿波)からの鉄器被供給国。 @阿波 九州や畿内は、倭国(阿波)からの水銀朱被供給国。 @阿波 九州や畿内は、倭国(阿波)からの勾玉被供給国。 @阿波 九州や畿内は、倭国(阿波)からの古墳造営技術被供給国。 @阿波 九州や畿内は、倭国(阿波)からの軽量薄型土器製法被供給国。 @阿波 >四国の古代は何にもないとしか読み取れないよ
コレでどうしたら、そう読み取れるの? 教えて頂戴。 わははははは @阿波
https://pbs.twimg.com/media/Di9KL3cU0AAPdkq?format=jpg&name=small @阿波が故邪馬台国阿波説のために泣きじゃくってますw >>842
今も無いが正解だな
現代に於ける役割すらない >>844
>生産能力は九州や中国、畿内よりも劣ります。
じゃ、倭国(阿波)の、数多有る鍛冶炉遺跡より、生産能力が勝るという鍛冶炉遺跡を挙げてごらんよ。 羨ましくて僻みのトンデモさん。 わははははは @阿波 >>846
>武器や農具の遺物がゼロって言うのは凄いなw
じゃ、倭国(阿波)の、数多有る鍛冶炉遺跡より、生産能力が勝るという鍛冶炉遺跡を挙げてごらんよ。
羨ましくて僻みのトンデモさん。 わははははは @阿波 >>848
>逆に阿波に埋まってたその他って何だろうなw
それは、魏から貰った金印。
矢野神山には200基近い古墳があり、江戸時代、神陵(古墳)の一部を削り本殿を造営。
この本殿裏の神陵(古墳)が卑弥呼の陵墓だと伝え、神社に伝わる由緒には、塚に"金印"が埋められたことまで記されているという。
後円部の直径は約35m、頂上部には五角形の祭壇が築かれ、祭壇の上には永遠の生命を象徴するという鶴亀の石が祭られている。
八倉売神社:徳島県徳島市国府町西矢野 矢野神山
https://sueyasumas.exblog.jp/9415763/
http://www.genbu.net/data/awa2/yakurahime_title.htm >>846
>武器や農具の遺物がゼロって言うのは凄いなw
じゃ、倭国(阿波)の、数多有る鍛冶炉遺跡より、生産能力が勝るという鍛冶炉遺跡を挙げてごらんよ。
羨ましくて僻みのトンデモさん。 わははははは @阿波 >>846
>武器や農具の遺物がゼロって言うのは凄いなw
本当に君も読み取れないようなクソ資料って凄いね。
「矢野遺跡(弥生時代)」 徳島県最大級の弥生時代の集落
「鉄鏃」
弥生時代になると、大陸から鉄器が持ち込まれ、弥生時代の中ごろには、日本でも作られるようになりました。この鉄鏃は弥生時代の
終わりごろのものです。大きいもので長さが約10cm、幅が約3cmあります。おそらく戦いの武器として使われたのでしょう。 >>846
>武器や農具の遺物がゼロって言うのは凄いなw
本当に君も読み取れないようなクソ資料って凄いね。
「樋口遺跡発掘調査概要」
樋口遺跡は弥生時代後期〜近世にかけての複合遺跡であり、眉山南側の数少ない集落遺跡として注目される遺跡である。
3.出土遺物
今回の調査で出土した遺物としては、土師器(広口壺・二重口縁壺・小型丸底壺・小型丸底鉢・高杯)・須恵器・瓦器・青磁・管状上錘
・鉄鏃・鉄刀等の鉄製品とともに石棒・磨製石斧等の石製品などがあげられる。 >>846
>武器や農具の遺物がゼロって言うのは凄いなw
本当に君も読み取れないようなクソ資料って凄いね。
古墳の副葬品などではなく、日々の生活空間「集落遺跡」から出土した鉄鏃
・矢野遺跡(弥生時代) 徳島県最大級の弥生時代の集落
・樋口遺跡 弥生時代後期〜近世にかけての複合集落遺跡 .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>854
>農業史の面からも阿波は論外扱いだなw
「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。 @阿波 >>854
>農業史の面からも阿波は論外扱いだなw
「農業」だろうが「鉄」だろうが、倭国(阿波)に無いものはないんだよ、トンデモとは違ってね。 わははははは @阿波 トンデモ君、元気なくなったな。 わははははは @阿波 >>846
>武器や農具の遺物がゼロって言うのは凄いなw
本当に君も読み取れないようなクソ資料って凄いね。 弥生時代の可耕地を全く理解してないってバカにされてたなw >>857
その比率が全国的に見て乏しい事になぜきずかん >>861
>武器や農具の遺物がゼロって言うのは凄いなw
本当に君も読み取れないようなクソ資料って凄いね。 >>860
可耕地?
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州や畿内に、「可耕地」などあっても無用の長物! わははははは @阿波 >>864
可耕地?
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構の無い九州や畿内に、「可耕地」などあっても無用の長物! わははははは @阿波 昨日が命日だから邪馬台国阿波説の49日は8月2日になります もう、まともな投稿も出来ずに、オチャラケが精一杯かwww 哀れなり。 わははははは @阿波 ここの板でも畿内説は全く信用無いよ。 九州説もね。 わははははは @阿波 四国説は学会からも一般社会からもバカにされてますから畿内九州より上ですねw 他説の追随を許さない、「阿波」の圧倒的遺跡群。
旧説の御用学者やミーハー相手のマスコミが「阿波」に跪くのは、時間の問題。 わははははは @阿波 トンデモ君、元気なくなったな。 わははははは @阿波 >>876
それは、君に戦闘意欲がなくなったからだよ。 わははははは @阿波 いつもはとっとと居なくなる@阿波も流石に現状に危機感を抱いたようだなw >>878
いくら言い張っても、無駄! そもそも、阿波に対抗できるネタそのものがないボンクラ説なんだから、お話にならない。 わははははは @阿波 トンデモ君、元気なくなったな。 わははははは @阿波 阿波君、鉄器農機なかったな。 わははははは @阿波は中世まで未開 >>881
いくら言い張っても、無駄! そもそも、阿波に対抗できるネタそのものがないボンクラ説なんだから、お話にならない。 わははははは @阿波 鉄器も農機具もなくてどうやって女王国を維持したのか教えて下さいw 有り余るほど有ったからに決まってるじゃん。 アホですか。 わははははは @阿波 素手に鉄鏃の弓矢を持って戦ったのに決まってるじゃん。 アホですか。 わははははは @阿波 @阿波は鉄鏃の先っぽを物珍し気にいじくって怪我して逃げた >>890
ほれっ
大代古墳は全長約54mの前方後円墳
後円部南北径31m・東西径45m 前方部長23m、くびれ部幅18m、前方部前面幅21m、墳高は後円部6.7m、前方部3.3m
前方部、後円部とも2段築成 葺石はあるが、全体ではなく、裾部を列石状に区画している程度。
円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪の破片が出土(第1段テラス上や前方部墳頂に円筒埴輪列があり、後円部墳頂に形象埴輪が並んでいたと考えられている。)
後円部頂に南北方向に南北約7.4m、東西約4.5m残存深さ約80cmの墓壙の中に内法で長軸3.7m、北小口幅1.1m、南小口幅1.0mの竪穴式石室があり、その中に刳抜式石棺がある。
石棺内から、滑石製臼玉28・緑色凝灰岩製管玉1が出土した。
原位置から移動した遺物は、鏡片、装飾品(管玉・臼玉) 武器(鉄鏃・銅鏃・鉄剣片・鉄刀片・鉄鉾片)武具(短甲片) 農工具(鋤先・鉄鎌) 工具(鉄斧・刀子・ヤリガンナ・鉄鑿)など。
石棺の石材は、さぬき市津田町火山産の白色凝灰岩。4世紀末の築造と推定されている。さぬき市津田町「岩崎山4号墳」より少し新しい古墳とみられている。 >>890
ほれっ
鮎喰川下流域で最古の古墳と考えられるのは, 名東町節句山 1・ 2号墳であり, 1号墳は石蓋盤棺で鉄製品 (飽 ?)のみの出土の点などからして,
弥生時代の墳墓の可能性が指摘されている。 2号墳は箱式石棺に 竪穴式石室をしつらえた埋葬施設を有し,棺及び石室内部から舶載の四獣鏡や
勾玉,鉄剣,鉄刀子, 鉄斧 ,鉄鎌などが検出されており, 3世紀末ないしは4世紀前半に位置づけられるとされている。
いずれにしても,節句山 1・ 2号墳が古墳発生を考える上での重要な鍵を握っているように思われる。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>890
ほれっ、釣り針も持ってけ!
国高山古墳の副葬品:内行花文鏡、長方板皮綴短甲、鉄鏃(鳥舌鏃)、鉄剣、鉄槍、石製鞘入刀子、滑石製勾玉、鋤先、鉄製釣針ほか。 >>890
ほれっ、鉄斧も持ってけ!
西山谷2号墳は 標高74mの尾根上、南北径20m、東西径18m・高さ2mの円墳。
中央に南北方向の結晶片岩石積の竪穴式石室がある。
竪穴式石室は全長4.72m、北幅1.05m、南幅0.83m。
墓壙は南北6.5m、東西4.8mで全体が結晶片岩で覆われている。
石室には粘土でつくられた棺台があり、刳抜式木棺があったと考えられている。
石室の床には水銀朱が塗られていて、特に北側が多量だった。
棺内北側から鉄鏃、ヤリガンナ、鉄剣、鉄斧、鉄片、青銅鏡など多くの副葬品が出土。
棺外からは鉄槍や土器が出土した。
3世紀半ばの築造と推定されている。 ツクヨミかスサノオに殺されたオオゲツヒメの陵ってどこに在るんですか? >四国の古代は何にもないとしか読み取れないよ
コレでどうしたら、そう読み取れるの? 教えて頂戴。 わははははは @阿波
https://pbs.twimg.com/media/Di9KL3cU0AAPdkq?format=jpg&name=small >>846
>武器や農具の遺物がゼロって言うのは凄いなw
じゃ、倭国(阿波)の、数多有る鍛冶炉遺跡より、生産能力が勝るという鍛冶炉遺跡を挙げてごらんよ。
羨ましくて僻みのトンデモさん。 わははははは @阿波 大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われている。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日?女命」=「天照大神」 @阿波
「天石門別八倉比賣神社
https://bqspot.com/shikoku/tokushima/569 >>900
オオゲツヒメを祀った神社も阿波以外、にはない。 わははははは @阿波 武器もない 農具もない
信号機もない
掘って出るのはイモばかり♪
オラ 阿波いやだ―
阿波イヤだーー、はっ♪ しかし、黄泉の国の穢れを浄めた伊邪那岐命が国を産み神々を産んだと言う神話は世界一とも言われる阿波の鳴門の海の大渦潮でしか喩えられなかったのは何故なのか容易に推察出来るだろう。ちょっと頭を働かせなさいよ。 .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. >>906
神武東征の参謀役となった速吸の門(鳴門海峡)の大人・宇志比古尊が、日本で唯一式内社「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
何の縁も所縁も無ければ、こんなところに 「宇志比古尊」が祀られるはずがないのである。 後は推して知るべし。 @阿波 イザナミはスダチを食べたためこの世に戻れなくなった >>911
かもね。 わははははは まさに、記紀は阿波の物語。 実際に観たら判るが鳴門の渦潮はこの旅行ガイドの画像のように大渦の周りに大小の渦潮が発生しては消えてゆく。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000005.000023935.html
伊邪那岐命の左右の目から産まれ出た天照大御神と月読命はこの渦の中の一つずつを氏族の動向として暗喩した神話であろう。
目=渦潮の中心…天照大御神を頭目、眼目にした氏族は左(東/畿内)へ。
右目から産まれた月読命を頭目、眼目にした氏族は西(大陸?)へ。
鼻から産まれた須佐之男命は和歌「八雲立つ」の通り出雲→鼻先の朝鮮半島へ。
夫々の氏族の同棲を表した物であろう事は推察するに難くない。
そして南九州の雄、隼人と熊襲もまた夫々に分派したんだと思われる。
もともとは同族、或いはかなり近しい氏族だったんだろう。
すめらみことに追随し隼人は畿内へ、熊襲はさらに分派して阿波の対岸である熊野などへと分かれて行ったんだろう(のちの国栖人、土蜘蛛か)。
神武天皇派に行った者を隼人と呼び、最後まで祀ろわ無かった者を熊襲と呼んだのかも知れん。
いつの間にか消え去るが眼目を持って次々と発生して止まない鳴門の渦潮はそれら人々の流れを後世に伝える為にはそれを喩えるのが最適だったのであろう。 阿波では、伊邪那岐が伊邪那美から逃げ延びたルートも研究されている。 >>761
早くから、稲作の起源が長江中・下流域にあると主張してきた北京大学の厳文明教授は、
一九八八年に静岡市で開かれた「日本における稲作農耕の起源と展開」のシンポジウムで、
遺跡から出土した資料による栽培稲の年代と分布からみて、北回り説が最も可能性を
持ったルートだと講演しました。
中国・朝鮮・日本の水田跡や出土した農耕具にみられる個性、共通性から稲作伝播の様子を
解明したのが愛媛大学の田崎博之教授でした。
田崎教授は、中国・長江流域(馬家浜文化後期・紀元前約四〇〇〇年前)、
朝鮮半島(無文土器前期・紀元前七〇〇年前後)、
日本(縄文晩期終末=弥生早期・紀元前五〇〇年ころ)の水田跡の形、水利施設の有無、
水田が造られた地形、土壌などを比較しました。
また、掘り棒やクワ(鍬)、スキ(鋤)などの農耕具の共通性と個性を検討。
弥生時代の農耕具の主役であるクワが、長江中・下流域にはなく、
クワの系譜が山東半島―朝鮮半島―九州であることを調べました。
「農耕具の流れ・系譜からみて稲作伝播は北回りルートしか考えられません。
そうでないと、日本でのクワの成立はありえません」と同教授はいいます。
http://www.nouminren.ne.jp/dat/200205/2002050621.htm
. 熱帯ジャポニカ種が先に来てるから北回りはあり得ず阿波は未開地 >>920
朝鮮半島のイネにも熱帯ジャポニカがわずかではあるが出ている
朝鮮半島のイネもかつては熱帯ジャポニカがメインだったが経年変化で淘汰されたらしい さ〜て、暇になったし、
サツマイモを蒸かしたら、粟をこね回してアワモチでも搗くとするか、、、 >>923
わははははは 阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 碌な弥生集落遺跡や資源の無い九州に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 わははははは @阿波 鉄器もな〜い農具もな〜い阿波には何にもない♪
生まれ〜た〜生まれ〜た〜何が〜生まれ〜た〜♪
妄想ひとつ〜暗い徳島に〜生まれ〜た〜♪ 辰砂もな〜い鉄器もな〜い農具もな〜い九州には何にもない♪ うそですw 辰砂もな〜い鉄器もな〜い農具もな〜い九州には何にもない♪ うそですw 辰砂もな〜い鉄器もな〜い農具もな〜いタチバナもな〜いクスノキもな〜い九州には何にもない♪ .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. 熱帯ジャポニカ種が北から南に伝わるわけがありませんスレタイ見てどんな妄想してもいいとは思わないで下さいw かつて朝鮮半島には熱帯ジャポニカはないと言われていた
ところが近年になって朝鮮半島にも熱帯ジャポニカがある事が分かってきた
その朝鮮半島には熱帯ジャポニカはないと散々喧伝してきた詐欺師こそ、
何を隠そうサギー佐藤こと佐藤洋一郎である
このような件もあって佐藤洋一郎は考古学者や他の農学者からは胡散臭い、
信用の置けない人物と見られている訳である >>943
だったら中国から日本のイネが伝わった事になるから日本の最初のイネに
中粒種のイネがないとおかしいだろがゴミカス
最初に伝わった耕作用農具や炊飯器だって中国とは全く違っている 北から南へ熱帯由来の物がどう伝わるんだよ冷蔵庫でも持ってたのかw ウルサイファンタジーの人には悪いけどね。
竹田恒泰チャンネルであなたたちの出鱈目ぶりが赤裸々に語られてますよ。
https://youtu.be/hcrtCf7dGho
火○発症してしまうかも。だってウルサ過ぎるから。 変なのが現れたな。 イネがどうたらこうたらと。 そんなことは倭国(阿波)に関係ないよ。 @阿波 >>946
そのネズミ男が詐欺師にすぐダマされる馬鹿だという事をとっくに知っている >>948
清々しいほど反日を隠そうともしなくなったなw もう1億回は突っ込まれてるだろうけど、再確認。
>倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
→北部九州に国内の人々が流入=生口・賦役(収租賦)が北部九州へ
>博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
→!!!博多湾貿易が対外交渉の主役!!!
>西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
→は?纏向から楽浪土器とか出土してないじゃん。
>絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
→つまり北部九州が当時の倭国の中枢だね。
>倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
>それは桜井市纒向以外にありえない。
→なんでそうなるの???
この流れなら、北部九州以外にありえない。だろw >>952
>この流れなら、北部九州以外にありえない。だろw
魏志倭人伝の「橘」や「楠」自生地は、黒潮流れる太平洋沿岸。 少なくとも、北部九州には自生しない。
よって、北部九州は「邪馬臺国」では有り得ない。 @阿波 こう言う説も有るんだが…シナー、ニダーが全く関係ないのが良く判る
2019年08月01日
インカ帝国をつくったのは縄文人の末裔〜このトンでも説に、これだけの証拠が残っている。縄文(単なる便宜上の時代区分)
https://magokun.hatenablog.jp/entry/2019/10/31/005722
インカ帝国と言うとマチュピチュ、縄文人が四国山上に楽園を造ってたのと同じスタイル。しかも。
>鬼界カルデラ、いわゆるアカホヤの大噴火です。これは日本中に痕跡を残しており、特に九州南部には最大1mもの火山灰を降らせたことが鹿児島の上野原遺跡の地層調査で明らかになっています。
>アカホヤの大噴火が起こったのは約7300年前だが、黄河文明は約6800年前、南米エクアドルで見つかった縄文土器は約5500年前といづれも大噴火の後なのです。
>年代的に見てこれらの文明をつくったのは火山噴火から逃れた九州南部の縄文人だった可能性があると研究者は話しています。
>太平洋には日本からアメリカ大陸に向かって黒潮が流れており、その流れに乗って太平洋を渡ったと考えられるのです。
邪馬台国がどうのとかスケール小さ過ぎる。なんせ、旧石器時代〜新石器縄文〜弥生と言う便宜上の区分でも、なんせ…
>日本列島の後期旧石器時代は、約35,000年前に始まり、縄文時代へと移行する約15,000年前までの約20,000年間続いた。
> 遺跡は樺太から沖縄まで約10,000ヵ所以上が確認されている。
https://ja.wikipedia.org › wiki › 日...
日本列島の旧石器時代 - Wikipedia
だそうだから…現代人の想定を遥かに越えた文明が列島を中心にした環太平洋とその内陸部に遺されていても別に不思議じゃ無い。 インカ帝国と言うとマチュピチュ、縄文人が四国山上に楽園を造ってたのと同じスタイル。☓
原日本人が四国山上に佛國土を造って居たとしても同じスタイル○
だな。 @阿波人にとって四国山上は人間がやって来ない楽園だったろう。
だがそれは@阿波人が作った楽園ではない。
母なる大自然が作りたもうた最後の秘境。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
※炭素年代測定と他国からの共同研究を拒否して埋め戻す隠蔽工作をしたという
ウソのレッテルをしている中国人詐欺師にその証拠提出を無数に求めましたが、
その証拠が出てきた事はありません
. 阿波人は山上でウッキッキーっと平和に暮らしてたんだよな その末裔?は未だにテストを受けた100人中91人がカンニングして見つけられてるのに。その先祖が農耕器具など自分たちで作れたのかね…無理でしょうなあ。
集団カンニング発覚!氷山の一角か
https://news.livedoor.com/article/detail/18422952/
なんだって誤魔化す事にあらゆる手を使うあの人たち。 どうでもいい話ですが、倭国(阿波)には、朝鮮学校なんてないところ! 鳴門金時も良いが、倭国(阿波)には、朝鮮学校なんてないところ! まぁ、しかし、決して、絶対、朝鮮学校があるところに「邪馬臺国」はない! これ、ヘイトのつもりはないからね。 @阿波 まぁ、しかし、決して、絶対、朝鮮学校があるところに「邪馬臺国」はない! これ、ヘイトのつもりはないからね。 @阿波 >>970
8世紀奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
阿波国国府町の「観音寺・敷地遺跡」から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定) http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 やっぱり阿波には魏志倭人伝の時代の文字遺物はないんだね。
つまり阿波≠倭国が確定したわけだ。 >>973
>やっぱり阿波には魏志倭人伝の時代の文字遺物はないんだね。
魏志倭人伝の時代は、どこにもないよ! 砥石じゃだめだよ。 わははははは @阿波 >>974
>福岡じゃ3世紀からなのにな
じゃあなんで、3世紀の木簡が出ないんだい? わははははは @阿波 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. >>974
>福岡じゃ3世紀からなのにな
じゃあなんで、3世紀の木簡が出ないんだい? わははははは @阿波 >>979
阿波で最古の鏡ってどんなのがあったっけ? 文字を知った阿波人が驚愕した様子を描写したものが阿波踊りの由来である .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. 続三国志より転載
阿南・加茂宮ノ前遺跡にやってきた倭人は、毛深い類人猿を発見した!!
毛人ではない。なんらかの獣。獣人。
倭人は鉄器を持ち込んで、
南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した。
@阿波人にいらなくなった鉄器の欠片を与えると、それを両手でカンカン打ち鳴らして喜んでいたらしい。
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