邪馬台国の倭人は鉄器使用
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倭人は朝鮮半島投馬国経由で鉄を採取 【三国志東夷伝韓条】
3世紀に鉄器を使っているのは「当たり前」
倭人伝に書かれた【鉄鏃】なんて
時代劇の武将ヨロシク、自宅の庭で試射しまくってたわけで
リサイクル回収なんてしないw
あれ?3世紀の遺跡から鉄器ゼロ?
マジくそん???www >>850
日本最古の歴史書『古事記』(712年献上)では「大倭豊秋津島」(おおやまととよあきつしま)、
また、同じく歴史書『日本書紀』(720年完成)では「大日本豊秋津洲」(おおやまととよあきつしま) >>851
倭(ヤマト)国とは、
日本で唯一、大和朝廷から「倭(ヤマト)大國魂神社・倭(ヤマト)大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>852
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ 『古事記』・国産み神話。
次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。
豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。
筑紫国=白日別
豊 国=豊日別
熊襲国=建日別
肥 国=建日向日豊久士比泥別 > 肥国だけ長ったらしい名で、日向国だけ神の名がない不思議。
> 建日(熊襲国) 向日(日向国) 豊(豊国) 久士(奇なる地) 比泥(屁泥ヘドロ)別
> 肥国とは熊襲・日向・豊国・(奇なる地)聖地・阿蘇火山灰の泥地(有明の干潟?) ・を合わせた神の意か。
> 筑紫国は含まれない特別な地位の神。
> つまり肥国は特別な神々の国・卑弥呼の邪馬台国。
「奇・ キ ・ くし」
1.(名・造)普通とちがっている。めずらしい。すぐれている。ふしぎ。
2.思いがけない。 「奇を好む」「奇術」「奇跡」「奇妙」 元々、肥の国と宮崎(向日)とは一体の神国だった。
それと、久士布流多気(くしふるたけ)とは
聖なる地、久士(奇なる地) が舞い降りてくる霊山(拝み山)のことで、阿蘇山のことかも。
雨雪がふるは有っても火の石や灰が降り、噴火時は雷鳴と稲光が凄い神の力かと。
沖縄の御嶽(うたき)斎場御嶽(せーふぁうたき)のような存在。 肥国だけは豊国や熊襲国からさらに別れた国なのか。
そして筑紫は倭を統べる(しらす)国。 【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城が作られ、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫の降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
ttp://wi12000.starfree.jp/map/afumi_sawara_map_25.gif.html 天孫は豊葦原中国の王となるため、「筑紫に」降臨した。
筑紫の日向、後に伊都国と呼ばれる倭国の王都である。 まあ、筑紫島(九州)は筑紫国が始まりで
肥の国が筑紫以外の国々の監督者で宮崎(向日)は元々肥の国と一体の国だった。
そこに有明海は火山灰泥の干潟地帯で肥前長崎とも一体とされてたのと、
阿蘇山は聖地のような存在で、火山噴火時には鎮めるために巫女が祷ったんだろう。 所が火の国、卑弥呼に従わない国があった
それが南の狗奴国で争いが続いてた。 >>864
>肥の国が筑紫以外の国々の監督者で宮崎(向日)は元々肥の国と一体の国だった。
なるほど。
阿蘇山の東西で地名や土器が共通なんだったな。 >>865
肥後狗奴国は肥国の一部で、いわゆるお家騒動だったのだろう。
王は卑弥呼と似た名前で、素より(卑弥呼の即位の頃前から)不仲ともあるので、そもそも知り合いどころか同じ一族だったと思われる。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の他の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが知られている。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
卑弥呼が筑後山門の出身で、筑紫も含めた倭国女王になったからかもしれない。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上大願寺にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、倭国の内乱を筑紫の天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 【狗奴国】
狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。
邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。 .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. >>870
與止日女命が壹與なら、
卑弥呼が神功皇后、もしくは神功皇后は架空と考えてるのか?
>>871
こっちでは別物でどちらも存在してるし、
そこらへんの設定がよくわからない。 >>873
淀姫(壹與)は3世紀末から4世紀初め、神功皇后は4世紀後半。
神功皇后の妹が豊玉姫云々は、かなり後世に出てきた話らしいし。
なお、記紀は神功皇后のあたりでは年代を120年ほど繰り上げて神功皇后を卑弥呼に錯覚させようとしている。 >>873
>そこらへんの設定がよくわからない。
トンデモの戯言なんだから、無理を言ってはイカンぜよ。 わははははは @阿波 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神夏磯姫の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに筑紫香椎宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫香椎宮で急死してしまう。
景行は神夏磯姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神夏磯姫の末裔とされる田油津姫を倒し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵した。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神夏磯姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神夏磯姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め(宇佐神託事件など)、八幡神社は全国で最多の神社となった。 >>874
>神功皇后の妹が豊玉姫云々
いやいや神功皇后の妹が與止日女命という伝承でしょ。
與止日女命=台与の可能性があるとすれば、
いわゆる神功皇后の妹の與止日女命という存在は無かったことになる。
>>871
自分で書いているように、
豊玉姫は台与や與止日女命とは別物で、豊国のワダツミ姫。
佐賀平野はワダツミが入植して作ったから、
祖の豊玉姫女王を祀っただけ。
エビスさんがやたら多いのもそう。豊国末裔。
そう考えると、肥国王家というのは狗奴国と共に滅亡したんじゃないのか?
景行もヤマトタケルも豊国から出陣してるし。 延喜式式内社「豊玉比賣神社」があるところが、「邪馬臺国」。 以上。 @阿波 上(天子)、文林郎の裴世清を遣わして倭国に使せしむ。
また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。 その人華夏に同じ、
開皇二十年(600年)、倭王「姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌」
倭王が都する所が邪摩堆(ヤマト)、(卑弥呼の国)が邪馬臺(ヤマト)
『南史倭国伝』
倭國、其先所出及所在、事詳北史。 | 倭国、その先の出たる所および所在は、北史に事詳しく。
北史倭国伝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%8F%B2%E5%80%AD%E5%9B%BD%E4%BC%9D
倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、 居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
『北史倭国伝』では、「倭國」について、『 邪摩堆 (奈良・大倭)に居す、
則ち「魏志」のいわゆる (卑弥呼の)邪馬臺国なる者なり。』
とあり、邪馬臺国と奈良・大和朝廷の連続性を認めている。 >>877
>そう考えると、肥国王家というのは狗奴国と共に滅亡したんじゃないのか?
年代が少し違う。
ヤマトタケルは景行天皇の皇子なので、実在したとしたら4世紀前半。
もっとも、日本書紀では景行天皇本人が九州に遠征している。
その時の筑紫の梟師が、八咫の鏡を持つ神夏磯姫だった。
八咫の鏡そのものは、平原遺跡が作られた3世紀前半までにはすでに実在していたから、年代的には神夏磯姫が壹與の次くらいの倭国女王になるのだろう。
田油津姫はその末裔とされていて、仲哀天皇の時代なので神夏磯姫の孫くらいの世代の筑後山門の女王にあたるのだろう。
少なくとも狗奴国がそのまま滅亡したということはなさそうで、魏志倭人伝からは壹與の共立により何らかの政治的決着が図られたように読める。
しかしながら紛争の火種は神功皇后と武内宿禰、応神天皇による統一を待たなくてはいけなかったのだろう。
日本書紀が珍しく九州のことにページを割いているのは、その辺りの事情が背景にあるのかもしれない。 >>879
>上(天子)、文林郎の裴世清を遣わして倭国に使せしむ。
>また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。 その人華夏に同じ、
倭国は筑紫より大陸に近いことになる。
これは魏志倭人伝の末盧国、伊都国、奴国の順と同じだということになる。 >>879
>倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、 居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
ヤマトは半島から三千里だが、これは魏志倭人伝にある対馬海峡の三千里を継承しているだけ。
つまりここで言うヤマトは九州北部のことになる。 つまり中国の理解は、
魏志倭人伝の伊都国=倭
奴国=筑紫 倭(ヤマト)国とは、
日本で唯一、大和朝廷から「倭(ヤマト)大國魂神社・倭(ヤマト)大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。
「延喜式神名帳」の、大和国山辺郡条には、「大和坐大国魂神社」とある。 大和国の 「大和」である。
「延喜式神名帳」の、阿波国美馬郡条には、「倭大國玉神大国敷神社二座」とある。 阿波国なのに「倭」である。
これは、阿波国が「倭」であったことの証左である。 @阿波 >>882
「東西五月行、南北は三月行の国土」の内一番近い所までが、
新羅東南、水陸三千里くらいだと言ってるだけで都の位置までとは言ってない。
その国境は東西五月行、南北は三月行にして、各々海に至る。
その地勢は東が高くして西下る。 >>875
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>878
オイ、泡チョンコ!頭ン中を見せてみろ!
∧_,,∧ パカッ __,,
。゚( ゚^∀^゚)゚ 彡 ∨ ∨
/ つ#`Д´> ヤ、ヤメルニダァ
( ( つ O
し' と_)_)
アハハハハハハハハハハ
∧_,,∧ 泡チョンコの頭に人糞が詰まってんぞ!
。゚( ゚^∀^゚)゚ クサッ
/ つ#`Д´> み、見るなニダ!
( ( つ O
し' と_)_) ∧_,,∧
なっ、本当だろ!
∧_,,∧ ∧_,,∧ アハハハハハハハハハハ
。゚( ゚^∀^゚)゚ ( ゚^∀^゚)゚。 マジで人糞じゃん!クサッ
/ つ#`Д´>⊂ ヽ だから妄想しかできねぇんだw
( ( つ O ) つーかクッセーなオイ!
し' と_)_) し´ ∧_,,∧ >>884
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑) >>881
>上(天子)、文林郎の裴世清を遣わして倭国に使せしむ。
この間に、百済を通過〜竹島〜都斯麻国〜一支国、の行程がある。
>また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。 その人華夏に同じ、
悪質な抜粋詐欺だね。
北史を引き合いに出すなら、
倭国の中に、都斯麻国〜一支国〜竹斯国(〜秦王国)がある。
九州北部が竹斯国で、
秦王国が北九州市か下関かということだろ。 >『北史倭国伝』では、「倭國」について、『 邪摩堆 (奈良・大倭)に居す、
>則ち「魏志」のいわゆる (卑弥呼の)邪馬臺国なる者なり。』
>とあり、邪馬臺国と奈良・大和朝廷の連続性を認めている。
これも解釈詐欺だな。
邪摩堆が、畿内大和であるとは書かれていない。
邪摩堆は、魏志倭人伝の邪馬臺国と同じと書かれているだけ。
だから結局、北史の文中から邪摩堆あるいは邪馬臺国の位置を読み取るしかなく、
東に進んで海岸に至るとあるのだから、九州島から出ておらず、
竹斯国より東は倭に従っていると書かれているのだから、
文脈を読み取る限りは竹斯国に都があるように読めてしまう。 西日本新聞:2020・5・20
吉野ケ里インパクト 〜史跡指定30年(連載2)
全国の遺跡を見て回ったが、専門家の注目度が極めて高い「唐古・鍵」(奈良県)などでもほとんど見学者の人影はなかった。
ほぼ唯一の例外が吉野ケ里だった。
吉野ケ里は「歴史ロマンの見える化」に取り組み、92年の見学者は100万人を超えて、累計600万人に達し、
弥生集落跡の“老舗”「登呂」(静岡市)が年間20万人程度だったことと比べると、爆発的な勢いだった。
■ ■
発掘責任者の高島忠平(80)は「盛り上がっている時に本物を見せなければいけない」と主張し、
調査を続ける一方で、物見櫓(やぐら)や竪穴住居を再現した。その分かりやすさが見学者に好評だったのである。 吉野ヶ里は、2世紀の戦闘村であり、
其の国邑は南接・微高地の上峰町(旧三根=彌根)に、また其の墳墓群は東接の目達原(米多郷)にあった。則ち倭人伝に云う「不彌国」である。
なおこの「不彌国」は、末盧国・唐津から東南/東へ陸行600余里であるから、
此処から西へ100余里戻った佐賀市内のどこかに真正の「伊都国」があったことになる。 >>892
>なおこの「不彌国」は、末盧国・唐津から
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから「世界文化遺産」に選ばれたのも当然と言えば当然。
もし松浦や唐津や呼子が大陸からの玄関口だったら、もっと大陸の遺物が出土していなければならない。
福津や宗像のようにね。 もっと冷静に現実を見ないとw
また、魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも松浦や唐津や呼子に上陸していない。 @阿波 >>893
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww 福津や宗像から出る大陸の異物は5世紀以降 ウワハハハハ │ \ / |
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│ | | ファビョ━ l|l l|l ━ン!. |
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│ | (,,フ ノ \ |
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| 1.追撃論破 ▽ |
| 2. AA追加 |
| 3.人糞付与 |
| 4.罵声投入 |
| 5.指差爆笑 |
\_________________________/ >>896
>福津や宗像から出る大陸の異物は5世紀以降 ウワハハハハ
嘘はイカンぜよ。
末盧国(福津辺り) : 「田熊石畑遺跡」・「今川遺跡」・「徳重高田遺跡」・「鐘崎上八遺跡」・「手光於緑遺跡」・「朝町町ノ坪遺跡」・「朝町竹重遺跡」・「新原・奴山古墳群」
たとえば「今川遺跡」 @阿波
発掘者を驚かせたのは中国北辺の遼寧(りょうねい)地方で作られた遼寧式銅剣を再加した有茎両翼銅鏃(ゆうけいりょうよくどうぞく)や銅ノミでした。
また、二個の玉はアマゾナイト製(天河石)で朝鮮半島で産出し日本ではほとんど産しない石でした。溝内の三号竪穴式住居は、韓国・松菊里(しょうきくり)遺跡と同形の竪穴でした。
発掘者の中には朝鮮半島から直接ここに住みついた可能性が高い遺物内容であると言う人もいたそうです。 ・遼寧式銅剣を再加した有茎両翼銅鏃(ゆうけいりょうよくどうぞく)や銅ノミでした。
・二個の玉はアマゾナイト製(天河石)で朝鮮半島で産出し日本ではほとんど産しない石でした。
・溝内の三号竪穴式住居は、韓国・松菊里(しょうきくり)遺跡と同形の竪穴でした。
邪馬台国の倭人は、当時最新の鉄器使用が特徴だった。女王の館は荘厳流麗な城柵楼観だった。
それなのに福津・宗像辺りは、石器に銅器に竪穴ねぐらだっただと・・、時代遅れも甚だし・・、 ウワハハハハ、 >>892
>なおこの「不彌国」は、末盧国・唐津から
大陸からの玄関口「末羅國」は福津市( 万津浦)宗像方面。
だから「世界文化遺産」に選ばれたのも当然と言えば当然。
もし松浦や唐津や呼子が大陸からの玄関口だったら、もっと大陸の遺物が出土していなければならない。
福津や宗像のようにね。 もっと冷静に現実を見ないとw
また、魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも松浦や唐津や呼子に上陸していない。 @阿波 >>899
>それなのに福津・宗像辺りは、石器に銅器に竪穴ねぐらだっただと・・、時代遅れも甚だし・・、 ウワハハハハ、
女王国「阿波」 と 福津・宗像辺りの末盧国を同一視する、時代遅れも甚だし・・、 ウワハハハハ @阿波 たとえば「今川遺跡」
発掘者を驚かせたのは中国北辺の遼寧(りょうねい)地方で作られた遼寧式銅剣を再加した有茎両翼銅鏃(ゆうけいりょうよくどうぞく)や銅ノミでした。
また、二個の玉はアマゾナイト製(天河石)で朝鮮半島で産出し日本ではほとんど産しない石でした。
溝内の三号竪穴式住居は、韓国・松菊里(しょうきくり)遺跡と同形の竪穴でした。
発掘者の中には朝鮮半島から直接ここに住みついた可能性が高い遺物内容であると言う人もいたそうです。 @阿波 福津や宗像が沖ノ島と共に「世界文化遺産」に選ばれたのは5世紀以降の遺構・遺物で、
秦氏の時代から後のことだな。
それに比べ、
繁栄していた倭国の富をねらって元の大船団が押し寄せたのは、松浦半島一帯の津々浦々だった。
もっとも、上陸寸前の海難大事故でパーになったが、 パ、パ、パーーー >>903
>元の大船団が押し寄せたのは、松浦半島一帯の津々浦々だった。
それは、帰国のために、出航地松浦半島一帯に集結していただけ!
>もっとも、上陸寸前の海難大事故でパーになったが、 パ、パ、パーーー
違う! 帰国出航直前に台風に見舞われた。 わははははは @阿波 │ \ / |
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♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
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♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
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〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>902
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=彡 ''" 丶 「゙弋ー、l i 泡チョンがいるぅぅぅ!!!
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`ヽ{ レ'´ `く ヽl| |i / ″′ ヽ どうして泡チョンがいるのぉぉぉおぉぉ???
ヽ ノ ′,;ii/ /
ト- ==== ''" ,,;iill/ / } あっち行ってえええええ いやあああああああ!!!
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≧== 彡l||llx _ イ ∧ / ,勿 ヽ
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泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ 「阿波」のまえに撃沈、九州説! わははははは @阿波 >>910
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww >>912
オイ、泡チョンコ!頭ン中を見せてみろ!
∧_,,∧ パカッ __,,
。゚( ゚^∀^゚)゚ 彡 ∨ ∨
/ つ#`Д´> ヤ、ヤメルニダァ
( ( つ O
し' と_)_)
アハハハハハハハハハハ
∧_,,∧ 泡チョンコの頭に人糞が詰まってんぞ!
。゚( ゚^∀^゚)゚ クサッ
/ つ#`Д´> み、見るなニダ!
( ( つ O
し' と_)_) ∧_,,∧
なっ、本当だろ!
∧_,,∧ ∧_,,∧ アハハハハハハハハハハ
。゚( ゚^∀^゚)゚ ( ゚^∀^゚)゚。 マジで人糞じゃん!クサッ
/ つ#`Д´>⊂ ヽ だから妄想しかできねぇんだw
( ( つ O ) つーかクッセーなオイ!
し' と_)_) し´ ∧_,,∧ 古事記、日本書記の編纂者たちが前時代の歴史を神話として封印した。
中国史書などで当然、卑弥呼の史実は知ってて九州統一事業は、
卑弥呼王朝が「日の国」を中心に成した偉業だったが狗奴国だけが従わなかった。
建日向日豊久士比泥別・イザナギ,イザナミ神の国生みした分国、火の国(肥国)
建日・・・熊襲
向日・・・日向
豊・・・・豊国
久士・・・クシ降る聖地(阿蘇山)
比泥・・・有明干潟(屁泥・ヘドロ・阿蘇火山灰泥)
別・・・・イザナギ・イザナミ神の国生みした分国 阿蘇山周辺は九州島の中心地で、東西南北、軍を移動さすには最適な場所で
北東の豊後、南東の日向、西部は有明海の水運、で統一事業には最適。
その九州統一事業をそっくり神武の九州統一から東征神話と成ったんだろうな。 水銀朱は縄文以来の赤の顔料で、辰砂、朱沙も同じ物だ。鳥居やお寺の什器など、
いわゆる「朱塗り」の正体がコレだ(稀少で高価だったため、赤い漆すべてが水銀朱ではない。
ベンガラがもう一つの伝統的な赤。
ベンガラと云えば阿蘇谷が最大の産地で、
あの八幡製鉄までも製鉄原料として使ってたくらい豊富な埋蔵量で現在も生産してる。 古代日本において、朱−辰砂(硫化水銀)−は貴重な顔料として神秘的な意味づけが
なされていたと考えられており、実際、古墳などの遺跡や遺構に多く見受けられる。
辰砂が出土する遺跡の時期は、中国から色々な風習が伝わった時期に重なり、
また古代大和王朝が確立した時期でもある。
古代大和王朝では中国地方・奈良県・三重県・高知県・徳島県の
各地域の鉱山から採取された天然の辰砂を利用し貴重な交易資源だった。 >>919
>稀少で高価だったため、赤い漆すべてが水銀朱ではない
九州の前方後円墳は「忌部はん」 のお墓だから、「若杉山辰砂採掘遺跡」の水銀朱だろう。 @阿波 >>920
阿波「邪馬臺国」の決定的証拠 : 「其山有丹」=「若杉山辰砂採掘遺跡」 @阿波 >>921
思い込みを事実だと言い張ることで精神勝利するしか能のない泡チョンはさっさと首を吊れって(笑) >>922
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. 「諏訪大社は倭国(阿波)からの勧請」
長野県諏訪市にある「諏訪大社」は光仁帝の宝亀10年(779年)に阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社 御祭神 建御名方命」から移遷された、と社伝にあるそうだ。
その頃、現在の長野県にある諏訪大社は「南方刀美(みなとみ)神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられている。
つまり大国主命の息子神である建御名方神はここ徳島県石井町諏訪の「多祁御奈刀弥神社」に祀られ、ここから各地に広がっていった、ということである。
それにしても観光地として多くの参拝者が訪れる諏訪大社のご祭神が阿波から移遷された神様だと知っているひとはどれだけいるだろうか。
https://awanonoraneko.hatenadiary.com/entry/55289922 >>927
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〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >建御名方って国津神で天津神の武御雷に破れたわけだよね。
建御名方神は、阿波國名方郡式内社「多祁御奈刀弥神社 御祭神 建御名方命
武甕槌神は、阿波市式内社「建布都神社」 御祭神 武甕槌神
事代主命は、阿波市式内社「事代主神社」 御祭神 事代主命
式内社「事代主神社」 ・ 式内社 「建布都神社」は、ともに同じ倭国(阿波)阿波市にあり、『ともに日本唯一 阿波にだけ在る式内社』。
式内社「事代主神社」が全国で倭国(阿波)にだけ在ることから、「事代主命」は倭国(阿波)の人物。
同じく、建布都神(武甕槌神)も全国で倭国(阿波)にだけ在ることから、「建布都神(武甕槌神)」も倭国(阿波)の人物ということ。
事程左様に、記紀に登場する神々が、「阿波」に揃って祀られている。 @阿波 西日本新聞:2020・5・21
吉野ケ里インパクト 〜史跡指定30年(連載3)
現在も年間70万人が訪れる吉野ケ里遺跡は、埋蔵文化財行政の在り方にも大きな影響を与えた。
大規模集落を一気にめくる調査は難しい」というのは、「唐古・鍵遺跡」(奈良県)の
発掘保存に長年かかわっている同県田原本町埋蔵文化財センター長の藤田三郎(63)。
「ほとんどが私有地で、発掘作業は少しずつしか進まない。」
公園こそ2018年に整備されたが、調査は1936年から断続的に128次にもわたる。
■ ■
吉野ケ里と「対」で扱われることが多い「纒向遺跡」も同じで、
「ここはすごい遺跡と聞いてはいたが、吉野ケ里と比べたらこんなものか」と言われ、口惜しい思いをした、
と、纒向学研究センター所長の寺沢薫(69)は漏らす。
当初「卑弥呼の宮殿か」と話題になった大型建物跡も、近隣の建物群に囲まれて容易に再現できず、「見せる」点では吉野ケ里に遠く及ばない。
■ ■
再現が必ずしも人を呼ぶとも限らない。
元佐賀県文化財課長の高島忠平(80)が、吉野ケ里以上の規模と評価する平塚川添遺跡(福岡県朝倉市)も、
約12ヘクタールに再現された建物は12棟だが、公園の年間入場者は2万人程度にとどまる。
福岡県文化財保護課長などを務めた赤司は、「巨大テーマパークのような吉野ケ里に右倣えすることは、とうてい無理だ」と語る。 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. >>920
中国から真朱が下賜されたと魏志倭人伝に記されているのに畿内からは中国産の水銀朱は出ていない
中国産の水銀朱が出るのは九州の墓からなんだよな 弥生時代の畿内からは
朱丹の使われた遺跡は二ヶ所しかない。
三重県や徳島県で取れた朱丹は
九州に運ばれた可能性が高い。
九州は鉄を朝鮮半島にまで取りに行ってるから
三重や徳島まで取りに行っている
可能性は高い。 >>934
>三重県や徳島県で取れた朱丹は
少なくとも、卑弥呼時代に「丹」を産出していたのは、阿波の「若杉山辰砂採掘遺跡」だけ!
>九州に運ばれた可能性が高い。
九州に持ち込んだのは、筑紫忌部。
>三重や徳島まで取りに行っている可能性は高い。
九州から徳島へ取りに来た痕跡はないし、可能性も低い。 @阿波 >>930
戦国武将の領土の取り合いを見てもわかるだろう。
邪馬台国と狗奴国は年余にわたって、筑後〜肥前の取り合いをしていた。
免田式土器がしっかり分布しているからな。
平塚川添遺跡は狗奴国側の集落だったのが、劣勢になって鉄器を回収して放棄。
吉野ヶ里遺跡も戦乱に巻き込まれて衰退していったのだろう。 平塚川添遺跡についてはそうかもしれない。
ただ、吉野ヶ里は戦乱に巻き込まれず、平和的に解散したという見方が一般的だったはず。
むしろ佐賀平野では戦乱の危険性が回避されたのかもしれない。 吉野ケ里って、戦争の痕跡で有名な遺跡だよ。
首がない遺体とか
沢山の矢を射込まれた遺体とか。 西日本新聞:2020・5・21
吉野ケ里インパクト 〜史跡指定30年(連載4)
もともとは町外れの畑。冬は狩猟の銃声が響いていた。
それが1989年2月の報道を機に、修学旅行や観光客のバスが連なった。
ガイドなどを30年以上続ける国営吉野ケ里歴史公園の職員、福田幸夫(58)は「5月の連休には渋滞ができた」と思い起こす。
国営公園の話が正式に閣議決定されたのは92年10月27日。地域の期待はますます膨らんでいった。
■ ■
しかし、多額の整備・維持費を国に委ねたことで、吉野ケ里遺跡と地域との関係は大きく変わった。
遺跡の「調査」は地元教委が、「観光」は民間が協力。地域は主役の一端を担った。
「みんなでいろいろやってお客が来て、地域が良くなると期待したんですけどね」。
佐賀県の吉野ケ里町商工会前会長、宮原荘治(81)は悔しがる。
■ ■
国営公園の運営は建設省(当時)の外郭団体「公園緑地管理財団」(現公園財団)と決まった。
地域との協議の場は設けられているものの、地元が優先されることはなかった。あくまで運営は「国」。
引き継がれる予定だった地元民たちのガイドも、2001年の開園直前、「不要」と方針転換され、20人のガイドのうち15人が公園を去った。
県が運営主体になった三内丸山遺跡(青森市)が、当初から地元の民間団体にガイドを委ねているのとは対照的だ。 >>935
泡チョンコの主張やとアカゲザルとクロキジが生息しとらん日本列島は倭国ですらなくなるじょ?
ほなけん泡チョンコに信憑性なんて微塵も認められんと何遍も躾けてやっとるのに何で自覚できんのじょ〜?
無能すぎるじょ〜〜〜wwwww >>936
免田式土器は、濃淡はあるが、九州島に広く分布している。
それを、まるで卑弥呼の共立からその死までの間だけ作られていたかのように理解し、論じていると受け取れる。
もしそうなら、免田式土器は邪馬台国独自の産物ということになる。
そんなことは有るまい。
どの種族によって、いつ頃からいつ頃まで作られていたのか。最盛期はいつ頃だったのか。その解明がなくては畿内説の二の舞だよ???。 >>941
>もしそうなら、免田式土器は邪馬台国独自の産物ということになる。
「邪馬臺国」独自の土器は、「東阿波型土器」だよ。 @阿波 >>942
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〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ 吉野ヶ里は、2世紀の戦闘村(戦闘時に立てこもる砦)であり、
其の国邑は南接・微高地の上峰町(旧三根=彌根)に、また其の墳墓群は東接の目達原(米多郷)にあった。
これ則ち、倭人伝に云う「不彌国」である。
なおこの「不彌国」は、末盧国(唐津)から東南+東へ陸行して600余里であるから、
此処から西へ100余里戻った佐賀市内のどこかに、真正の「伊都国」があったことになる。 >>946
甕棺墓地があるが、あれはひと昔前の一時期に、あそこが墓地として使われていたことを示す。
砦といっても西洋の城塞のようなもの、或は日本の中世のお城のようなもので、
倭国大乱の前の推定100年間とかの間、軍の指令所とか、武器貯蔵庫とか、武人の住居や、王/殿様の宮殿施設とかの集合だったのだろうな。
つまりおれが云いたいのは、民百姓が住まいし、経済活動していた集落群はその外だったということさ。その両者を合わせてクニ(ここでは不彌国)といった。
しかしこの砦部分は、三世紀になり平和がやってくると不要になり放棄されることになる・・。 >>946
出土したもの全てが、卑弥呼の時代のモノというわけではなかろ。
掘れば、卑弥呼に時代を挟んで数百年間のブツがいっぺんに出てくる。極端な例では石器時代の遺物も出たそうだ・・、 〇これらの業務を監督し仕切る「大倭」
「租賦を収め、邸閣有り。国国は市有りて、有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。」
〇女王国への贈り物でさえ一大率が厳格にチェックし間違いは許されない関係。
〇邪馬台国には女王とは別に順位は低いが男(弟?)王も存在すること。御家騒動か?
女王国より以北には、特に一大率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。
常に伊都国で政務を執っている。(魏)国中における刺史(州の長官)のような存在である。
(邪馬壱国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行くとき、及び帯方郡の使者が
倭国へやって来たときには、いつも(この大率が伊都国から)港に出向いて調査、確認する。
文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。 〇邪馬台国の女王は「大倭」とは別に独自の倭王として外交をしてるのか?
〇江戸末期のように幕府とは対立し薩摩藩がイギリスと外交をしてるような感じか
倭女王、卑弥呼は狗奴国王、卑弥弓呼素と和せず、倭、載烏越等を遣わし、
郡に詣り、相攻撃する状を説く。
〇卑弥呼は冢に葬られてるが古墳ではない、冢と古墳の違いが分かってない
〇冢は平地に穴を掘って埋葬で、封土はするが土は盛らない
「卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。
其死有棺無槨封土作冢」 「棺」はあるが、「槨」はない。
土を覆って「冢」(つか)をつくる棺はひつぎです。
槨はその棺を保護するもの、外枠みたいなものと考えて頂ければいいかと、
「棺あって槨なし」というのは北九州の墳墓に見られる慣習です。
畿内では棺も槨もあります。 卑弥呼の行動は、
薩摩藩監視のもと独自に琉球国として明国などと外交してるような雰囲気
それでいて石垣や奄美とは対立し戦闘状態の時もある。
ただ違いは卑弥呼は行動監視はされてるが親族関係者のように黙認はされてる。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。