どうすれば蒙古は日本を完全制圧できたか?
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文永の役の際、壱岐、対馬を完全制圧。兵を駐留させる。その後、博多を制圧さら
に東を目指す。つーかむしろ逆になぜそれをしなかったのか……? 文永の役の際のモンゴル軍の戦略は、日本軍の迎撃体制が整う前に騎馬部隊を博多に上陸させ
得意の機動戦で一気に九州を征圧する。
>>1だと対馬壱岐に時間がかかり過ぎ、九州上陸前に日本軍の反撃に遭ってしまう。
不利なだけでは? まず最初に日本に使者送ってから侵略までの間に時間があるから
日本はその間にも準備や情報収集してるんでないか
まあ南宋攻略の最中だし他にも目標はあるし
できるなら消耗せずに帰属させたかったんだろうけど 【ブーム失速、格闘技】 客離れ招いた非道プレー、顎砕キッド、ヌル山、青ボキ、ブーメランで一匹死亡
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1538272278/l50
大怪我させても勝てばOKという風潮を作った山本KID、この傾向、実は異常気象を引き起こしている! 敵軍が守備を一番固めている所に攻め込むのは兵法上の愚の骨頂
俺が蒙古軍の将軍なら優越な水軍力を駆使して、
関門海峡を封鎖したうえで、日本海から京を攻め、天皇と上皇を生け捕りにする
さらに海上から鎌倉を襲撃して、執権と将軍を生け捕りにする 当時の日本は統一軍事政権下で総兵力は20万はあったからな
当時の海運能力でこんな軍事国家を侵略なんか無理ゲーだろ とっくの昔から蒙古は日本の一部を制圧してる説もある↓
源氏=ゲン=元(モンゴル) 源平合戦=元平合戦 神風とか全部ウソ [無断転載禁止](c)2ch.net
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1505816832/
源氏はモンゴル人(元氏)の事だったのでは無いか?源平合戦はモンゴル人と日本人の戦いの記録だったのでは?
今の平家物語は偽書の可能性が濃厚
源氏の起源が9世紀とかいくら何でも眉唾
源氏はテムジンと共に日本に侵入した集団で元平合戦で平家(土着日本人)を滅ぼしました
歴史書は国家のプライドの塊なので都合の悪い事実はよく捏造されます。
ヌルハチとか神功皇后とかでは無くて義経伝説は本当はモンゴル侵攻の記憶です
頼朝や義経はどう考えてもモンゴル人
残酷過ぎてあれは日本人の戦い方ではありません
三宅島の神着の王葬山には蒙古王の墓という明らかに不自然な変てこな遺構があります
元寇を撃退したとか単なる威嚇だったとかならば日本に蒙古王の墓があるなんて絶対おかしいでしょう?
中国風建築の城郭遺跡が九州には異様に多いです(28ヶ所以上)
鬼の城とか言われていて誰が古代のいつ頃に築いたのか定説はありません
元寇が九州を完全制圧していたという証拠でしょう
神風なんて大嘘ですね
高松塚やキトラ(多分これもモンゴル人の古墳)を発掘して消された学者も多い
マルコ・ポーロもフビライ軍は京都まで侵攻したと記しています
天皇中心国家から急に幕府という意味不明な反乱集団が唐突(唐突という言葉も中国人の突撃という侵略者を意味する言葉とする説がある)に出現するのは不自然
実は源平合戦は元平合戦だった可能性が高いです。
たかが内戦如きで三種の神器を海に捨てたりしませんよ
日本の名家は源平藤橘と言いますがこれはモンゴル軍の元(モンゴル)、ペルシャ(コリアホワイト、高麗人)、唐(南宋)、契丹(タタール)のモンゴル人連合軍
日本は元寇によって侵略されて外国人に植民地経営され国際色豊かな他人種国家になったんです
サムライ文化は恐らくはモンゴル起源 流石にないわ
平家物語は偽書も何も物語やけど
源平合戦や頼朝などについては貴族の日記などの資料があるし、
元寇で負けて帰ってきたのは元史にも記されてるやろ >>9
大友氏に中国四国九州20か国を与えるといって寝返らせよう 群雄割拠の戦国時代なら地方勢力の一つを懐柔してそこを拠点にすれば日本制圧出来たかもしれんが
鎌倉時代では無理だろう フビライは大覚寺統の干された皇族に反幕で挙兵を持ちかければ勝てただろうな
壱岐対馬博多の割譲を条件にして
日本列島内に拠点を構築すれば、あとは約束を反故にして日本を完全制圧 日本人って玉砕大好き民族だから
モンゴルがあのレベルの兵力で
日本を制圧するのは無理だったと思う。
中華とか朝鮮とかとは民族性が違う。 朝鮮人の金方慶はまだやる気があったほう。
元人の総司令官ヒンドゥはぜんぜんやる気がなかった。
文永の役ではたった一日で帰ろうと言い出すし。
弘安の役ではフビライが約束した日までに江南軍が来ないから帰ろうと言い出すし。
とにかく帰ることしか考えてない人。 平家があっさり滅びず西国で頑張ってたらパワーバランスで奥州も生き残るわけで、その天下三分状態で元寇を迎えたら話は変わってくるかも 本土モンゴル人は日本に渡海させられると聞いて暴動起こしているようだが、
こんな調子で日本全土占領とかやる気あったのか? 少なくとも弘安の役ではその気があっただろうね。
昔の戦争は土地を占領するよりも、まず敵の主力を潰す。敵の主力が壊滅して抵抗力が
なくなれば土地や王朝は意のまま。
弘安の役で東路軍が志賀島戦闘をやっていたころ、幕府側の人が「敵もやっつけたが味方も
損害が多い。このままだと兵数の多い敵の方が有利だ」とこぼしている史料があったように思う。
十万の江南軍が合流した後ならなおさらだ。もし台風が来なければどうなったかわからない。 やる気があったのは高麗とフビライでモンゴル人達は海の向こうまで行くのは嫌だと暴動起こしているじゃん。 >>23
承久の変で19万動員出来る鎌倉幕府にはアウェイの土地じゃ敵わんだろ。 >>23
日本近海にいれば上陸拠点作れない限り台風の餌食やから
どっちにしても同じやで >>27
その承久の変の時期に攻めてきてたらモンゴル勝てたんじゃね?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%BA%97%E4%BE%B5%E6%94%BB
高麗とモンゴルの関係の始まりは1218年である。当時、金朝に属していた契丹族の一部(黒契丹と呼ばれる)が満洲から
高麗に乱入し、江東城(カンドンソン)に籠城したが、モンゴルと高麗が共同でこれを滅ぼしている[2]。その後の1220年
から1223年にかけて高麗王国は連年モンゴルへ朝貢していたが(以降とは異なり奴隷を要求されず)[3]、1225年にモンゴル
使節が殺害される事件が起きためモンゴルの侵攻を招いた。ただしこの時、モンゴルのチンギス・カンは西夏への遠征中で
あり、高麗侵攻はチンギスの死後、三男のオゴデイが大カーンに即位した後に行われた。
この時期、高麗と協力してさっさと日本に兵を出してれば、1220年に準備開始したとして攻撃実行はちょうど1221年ごろだろう 高句麗と倭(日帝)と歴代中国王朝とモンゴル帝国の敗北は全部チョンコのせい 現在ではチョンコがオゴデイ家臣に日本進軍を懇願したってのが一般的な解釈になってる
モンゴル帝国としては西進が征服の目的で、海の向こうとか割とどうでも良かったはず >>033丹波に上陸はムリ。海がない。
丹後ならわかるが。 >>15
同様のことを欧米列強がやれば、幕末に白人が日本を支配出来たのに 若狭湾から上陸して京に向かったら、鯖街道あたりで六波羅探題軍の虐殺になっただろうな。
突破して京近くにたどり着いても比叡山からわらわらと降りてくる武者法師の薙刀の錆 日本の地形だとモンゴルの騎馬戦術は効果減だからなあ >>37
それ全て食い止めてたとしたらものすごい国だな >>38
つうか馬大量に連れてくるのも難しいしな
一応描かれてるから連れてきてはいたんだろうけど >>15
日本侵略にくる外国勢力と組むほど馬鹿じゃないんじゃね? >>41
そもそも、当時は普通に両党が順番に即位してるから干されてる皇族いないし、
承久の乱以降、皇室に味方して幕府と戦う武士はいない。 天皇(上皇だったかもだけど)にしても敵国降伏祈願とかしまくってたしな
文永の役の前に結局出さなかったけど返書の草案を朝廷が書いてたけど
かなり強気に元の要求を拒絶してたし >>44
三別抄って蒙古を相手に最後まで抵抗した側だから逆じゃん >>44
それ日本は結局スルーしたから手を組んでないよ
別に日本侵略にきてもないし >>44
日本は三別抄の手紙を、それまで高麗からくる正式な国書と違うと訝しんでて信用しなかった >>24
>やる気があったのは高麗とフビライで
>モンゴル人達は海の向こうまで行くのは嫌だと暴動起こしているじゃん。
それ初耳だけど何の話?
最初の使者が海の向こうまで行くのは嫌だと途中で帰った話はあるけど >>47
鎌倉幕府は三別抄をスルーしてないよ。
三別抄の手紙を重視したから、朝廷が蒙古に出そうとした返信を握りつぶして、
大陸に調査団派遣してる。 >>49
朝廷が蒙古に出そうとした返書って蒙古に従ったり友好するようなものじゃなく、
クビライの国書の内容を手厳しく批判するものだよ
三別抄の手紙を重視したから朝廷が蒙古と交流するの止めたという意味なら、
幕府がこれを止めたからといって、蒙古との交流を止めさせたとは言えないと思う
喧嘩売ってるのかってくらいの内容だし
大陸に調査団(5回目の使者が連れて帰ったやつ?)にしても、
戦争が近いなら相手国の偵察はしたいだろうし、
それも三別抄の手紙を重視したからとは言えないと思う >>49
ってか朝廷が返書しようとしたのは1269年の第4回使節金有成の時で、
三別抄の使者が来たのは1271年だからその2年後
朝廷が蒙古に出そうとした返信を握りつぶしたのが、
使者が来た2年後より後ってのは遅すぎない?
幕府が蒙古を疑ってるのは2回目の使者の潘阜が
1268年に来て直ぐからだし(蒙古の凶心への要人を御家人に伝えてる)
三別抄の手紙を重視したから蒙古を拒絶するようになったんじゃなく
三別抄の手紙がくる前から元々だし >>50
元史に書いてあるじゃん。
『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國
「去歲九月、日本人の彌四郎らと太宰府西守護所に至る。守る者云えらく、先に高麗の給くところとなり、
屡々上国の来伐を言う。豈に皇帝の生を好み殺を悪み、先ず行人を遣わし璽書を下示せられるを期せんや。
然れども王京はここを去ること尚お遠し。願わくは先に人を遣わし奉使に従い回報せしめん。
良弼乃ち鐸を遣わしその使二十六人と同に京師至り見えんことを求めしむ」
ここに書いてある「しばしば上国の来伐を言う高麗」って三別抄のことだから。
三別抄の情報をもとに、返書より先に使二十六人を送ることになったのが分かる。
『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年三月乙丑の条
「安童言えらく、良弼、金州の戍兵を移し日本をして妄りに疑惧を生ぜせしむることなきを請う。
臣等以爲らく金州の戍兵はかの国の知るところにして、若しまた移戍せしめば、
宜とするところにあらず」
金州にモンゴル軍が駐屯してるって日本側が知ったのも三別抄情報だし。
日本の使二十六人はその調査を任務にしてたんだよ。 >>52
それ『高麗にあざむかれて元が日本に攻め寄せると脅かされた』とは言ってるけど、
使節を派遣する理由がそれだとは言ってないよ?
そもそもその会話では、使節の派遣目的を都が大宰府より遠いから
まずこの使者を遣わして〜と、言ってて、名目上はあくまで使者
もちろん本心はその後の記述で元が疑ってたように調査目的だろうけど
会話では調査が目的とも、調査する理由が高麗(三別抄)だとも言ってない
この会話でわかるのは、高麗(三別抄)が元の侵略を警告してたことのみ
でそれについては、幕府は三別抄の使者が来る前から疑ってるし、
そもそも4回目の使者が持ってきた国書で
「返書しないと将軍に命令して万の船で王城まで攻める」と脅してるんだから、
三別抄の使者に警告されるまでもなかった >>52
>金州にモンゴル軍が駐屯してるって日本側が知ったのも三別抄情報だし。
下の所も、 金州の駐屯軍について日本が知っているとは書いてるけど、
それが三別抄情報だとは書いてなくない? >>54
三別抄からの手紙には、金州にモンゴル軍が駐屯してるって書いてあるんだよ。
だからこれは明らかに三別抄情報。
『元朝名臣事略』野斎李公撰墓碑
「既にして至れば、宋人、高麗耽羅と共にその事を沮撓せんとす」
来日した趙良弼が「高麗耽羅」つまり三別抄からの妨害を受けたと書いてある。
三別抄からの妨害ってのは、>>52のようなモンゴル情報を日本に流すことだ。
外交交渉に当たった趙良弼がそれを障害だと感じてたんだから、鎌倉幕府が三別抄をスルーしてないのは確かだろ。 どっちにしても朝廷の返書中止とは関係なくないか?
使者出した原因も前々から蒙古が怪しまれまくりだったなら
それが原因とは限らないし
後押しになった可能性はあるが ボコボコにされたにしろ威力偵察や脅しにしろ、文永の役で4万以下で舐めプしたのが失敗
それで防衛強めてより攻めにくくなった
といって文永の役の頃に大軍で攻め込むことも南宋と戦争してる時にやらないだろうし
要するに当時では最初から完全制圧できる状況になかったんじゃね 完全制圧できるとしたら、>>29のタイミングだったろうな >>29
でも日本に攻め込むなら事前偵察は必要だし、
といって使者送ったら日本は警戒するし、
九州すら偵察なしで攻め込んだら文永の役以上にまごついただろうしで、
いきなり攻め込んだらそれはそれで元にも不利だったと思う 金だって滅亡してないし遼東の支配も確率してない時期にいきなり日本に大軍送れるわけない まあ日本征服には大軍必要→大軍送る→
その隙に別の国に攻め込まれる&被征服民の反乱
になるわな 結局は、元の国内も国外との関係も安定しないと
日本征服できるほどの規模の大軍送るのはデメリット多すぎるし、
といってそこまで元が安定してたことないような気がするしで
日本征服は最初から無理げーだったんだな
多少九州で優勢になったって補給確保できなければ
半島や大陸からの渡海補給が遭難すれば窮地に陥るし
九州以外がの武士の攻撃は続けくだろうし 元は渡海補給が得意だけどな。
江南地方の穀物を首都大都まで輸送する手段に、運河じゃなく海運使ってたのなんて
歴代中国王朝で元くらいだ。
馬の牧場もわざわざ渡海輸送が必要な済州島に作ってるし。 モンゴルは世界帝国だから人材登用で華人に拘りが全く無い。
だから南宋攻めた時に中国沿岸から中東まで貿易やってたイスラム人を大量登用したんだよ。
そいつらが海軍軍閥作って日本とか東南アジアとか海外進出を積極的に進めようとした。 モンゴル人は人口少ない。
よって、元寇の軍も、純粋なモンゴル人の数は少ない。
モンゴル人は被征服地の人材を積極的に雇用する。 >>63
でも弘安の役は軍ですら台風にやられてるわけだしなあ
江南→大都の台風襲来率がどんなか知らないけど、
日本までだと補給部隊も台風に遭うリスク高そう >>60
考え方としては、あえて遠方を征服して従順な子分の国にして、あとで挟み撃ちにするやり方もある
とくに高麗はこのあと50年がかりでモンゴルと激闘を繰り広げることになるから、あらかじめ日本を抑えて挟み撃ちにできていればこんな苦労もなかったかもしれない >>67
日本征服の難易度を100としたら高麗は2くらいだろ。
モンゴルと高麗は激闘なんか繰り広げて無いぞ。
高麗の武臣政権が江華島に引きこもってる間、モンゴル軍は半島で奴隷狩りやってただけ。
そもそも50年じゃ無いし。 >>67
でも高麗を完全に抑えてない段階で、日本に大軍送れるのかな
文永の役では高麗、弘安の役では高麗と南宋が造船担当してるし >>67
承久の乱のときの日本は朝廷とすら戦争するくらいなのに
従順な子分になんてなるかなあ
ゲリラ戦が続いたら地の利のないモンゴル側に不利だし 日本は→日本の武士は
>>65
実際のところ何人くらいいたんだろうねモンゴル人
高麗人除いても、残りは蒙古と他の混合だし >>68
1225年にモンゴル使節が殺害される事件が起きたため紛争勃発し、1231年に戦争に発展、6度にわたる戦闘を経て「蒙古軍が経る所の州郡みな灰燼となる」「骸骨野を蔽う」状況を経て1259年に国家として降伏するも、
なお抵抗勢力が三別抄を組織してさらに抵抗、日本討伐のために建造されていた船を焼き討ちにするなどの成果を挙げるも1273年に完全制圧して終戦
正式な戦争をしてた期間は1231年から1259年までの19年間だけど、その前後の戦闘を含めれば1225年から1273年までの49年間だね >>72
1225年にモンゴル使節が殺害されてから1231年までの間に戦闘なんか無い。
それに三別抄は高麗王朝に対する反乱だ。
高麗自身はモンゴル軍と共闘してるじゃん。
そもそも1231年から1259年までだって一方的に荒らされて「蒙古軍が経る所の州郡みな灰燼となる」
「骸骨野を蔽う」状態になったわけで激闘なんかじゃないだろ。 まるでベトナム戦争は南北ベトナムの戦争で対アメリカ戦争じゃないみたいな屁理屈だな >>74
どっちが屁理屈だよ?
「モンゴルと高麗の激闘」にモンゴルと高麗が共闘した戦いを含めるのはおかしいって
当たり前の話だろ。 >>74
あくまで高麗の政府は高麗王の方だからね
三別抄の行動を高麗のそれとするのはどうだろう
この頃の高麗王は王子は人質に出し、その王子に元の皇女の降嫁を願い、
実際それが叶えられてもいるほど元に従ってた つか、高麗王朝は目の上のたんこぶの三別抄をつぶすために積極的に元朝に取り入ってるし
三別抄は元朝にすり寄ろうとして拒絶されて、武装闘争に転じた ベトナム戦争のときの南ベトナム政府だってアメリカの傀儡政権だったけど、だからアメリカはベトナムと戦ったことにはならない、などと言うやつがいたらキチガイにしか見えない ベトナム戦争とは全く違うから何の例えにもならんよ。
高麗とモンゴルが共同で戦ったのを、高麗とモンゴルの激闘などというのはキチガイの主張。 ベトナム戦争だって、「ベトナム共和国」とアメリカが共同で戦った戦争だ >>78
高麗政府は別にモンゴルの傀儡政権じゃないよ
当時の政権は親モンゴルではあったし逆らえる立場でもなかったが ってか三別抄を高麗の政府として扱った国ってあったっけ
日本も三別抄にそうはしてないだろうし 一回モンゴルに取られた土地だったら近隣豪族は切り取り放題で頑張りそう ハングルは読めないけど漢字は読めるから中国語版のウィキペディアを見てるけど
三別抄が擁立した王もちゃんと高麗王として認めてるんだな
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%BA%AB_(%E6%89%BF%E5%8C%96%E4%BE%AF) 蒙古の戦い方を研究しないと分からんでしょうよ。
蒙古の戦い方をしったら、そもそも、日本制圧なんて、土台無理。
蒙古は人口少ない。よって、一度の戦いだけで、相手を征服できない。
何度も、攻撃、撤退、攻撃、撤退をループして、相手が疲弊するまでやる。
これには陸続き同士の国と大平原で戦闘しないといけない。
いちいち、渡海して戦わないといけない対日戦では、まず不可能な戦闘。 ヒット&アウェイってことか
三度目の日本遠征も準備してたらしいけど、
仮に何度もやったとしても日本が疲弊する前に
渡海の負担で元の方が疲弊しそうだな 何度も、攻撃、撤退、攻撃、撤退をループして、相手が疲弊するまでやるって倭寇が
元や高麗にやったことだな >>87
ヒットアンドアウェイだな。
ヨーロッパの地中海沿岸はアフリカから来るイスラム系海賊にズタボロにされたらしい。
そんな感じで数年間攻めれば良かったな。 またそんなデマを
オスマン帝国はビザンチン帝国を破って旧領を陸路進軍し、ハンガリーを拠点にウイーンを包囲してたんだよ
オスマン帝国領ハンガリーは1541年から1699年まで、150年以上継続してずっと支配してきた モンゴルが日本征服のため高麗に設置したのが征東行省。
それに対して九州四国の倭寇を仕切っていたのは征西将軍府。
つまり倭寇とはモンゴル高麗の「征東」と日本の「征西」の戦い。 >>90
地中海ではオスマン海賊とマルタ騎士団がお互いの商船を狙って海賊行為を繰り返してた。
アフリカ側にはオスマン海賊に支配されていた土地もある。
レパントの海戦でオスマン艦隊を撃破したけど、それでオスマン勢力が地中海から消えてなくなったわけではない。
逆に東ローマ帝国とハンガリーが落ちてから、それ以上ヨーロッパの侵略が進んでもいない。 >>90
塩野七生の本は全部読んだから、そのくらいは知ってるよ。 >>89
倭寇の活動は高麗や元にとって致命傷だったよ。
元は江南地方から首都までの穀物輸送を海運に依存していた。
高麗も全国で採れた年貢を海運で首都へ集積していた。
モンゴル軍が30年間朝鮮半島で暴れても高麗王朝が存続できたのは、
この海上輸送網が手付かずだったからだ。
一方、倭寇の襲撃は元と高麗の海運輸送網を直撃した。 >>6
800年前のモンゴル軍にそんな技術や経済力が有るか そこまで負担や犠牲を払って得るほどの価値がある島か >>1.へ
つまり「台風=神風」が、やって来なかったとしたら・・・って、意味か?
( よくある、SFネタだが )
:もしも、そうだったら。800年前から「九州」なんて土地は存在しなくて。
山口県の西は=「中国」だった、かもしれないな。
江戸時代後半から、ロシアがもっと東の列島まで来ていたら。今の現在「北海道」な
んて土地は存在しなくて・・・青森県から北は= "〇〇○スク” なんてロシアの国だっ
たかも、知れない。とか、言うのと同じ意味だ。 北方騎馬民族が得意だったのは馬に乗りながらの平野での戦い。
そもそも海を渡って侵略しようってのが無理な計画
長江に阻まれて南宋にすら苦戦した。
ベトナムも密林だらけだったせいで侵略できなかったんじゃ? 蒙古=モンゴル。としては、あまりそんなにヤル気が無くて・・・まー、東のほうに
そんな(日本)列島があるなら。
↓
"ついでに、ソイツらもヤッて来い!" って・・・ていどのツモリだったようだ。
( 実さいに、九州にやって来たのは。蒙古の「正規軍」ではなく=蒙古に支配されて
奴隷になっていた、朝鮮半島の連中だったらしい )
>>1. へ
もしも、蒙古=モンゴルが。
マジ=「本気」で、この列島を支配する必要があったとしたら。
↓
今の現在=この日本国という国家は、存在しなかっただろう。
たぶん21世紀の現在には=この列島は「中国」か「ロシア」に、なっていたと思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています