邪馬台国畿内説 Part378
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1536690752/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>642
>敢えて行をかえる
平塚川添遺跡では、建物の基礎として「礎板」がある
>参考<
http://inoues.net/ruins/hiratuka.html <
纏向ではなかったものですね。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている めんどくさいから
出雲の柱の数3本でも地面に接している柱の面積は纒向の約二倍 つまり、纒向の掘立小屋の遺蹟は、出雲神社の15分の一の大きさなのだな。。。 出雲神社は、熊本城の近くの高天原の勢力に、征服された物的証拠なのではなかったのかな。。。 畿内には論客がいないのでなく論がなり立たないのであろうww 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 九州説の脳キウスが
またウソ連投を始めたぞ
また九州説が負けたんだな ヨコからすまん
>>748
ありがとう
久しぶりに円の面積の出し方に触れたよ 日常では話題にもならないが
円の面積 =半径×半径×π
パイ(円周率)も久しぶりに目にした 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>744
275年前後頃、だという根拠は知りませんが
また九州説がこりもせずイイカゲンな流言飛語してる、という事になりますね。 >>743
レスの流れも知らずに唯々イミフのことを言う>>1 >>734
呉とも外交をしてたと言う事
大和の邪馬台国の成立は200年前後と考えられるので、
大陸との関係を思考すれば自然と呉と絡む時期が早く、そして長くなる
なので呉系の文物が多く見つかるのも自然と言える >>763
鎌倉時代だったかな
建築技術が進歩してたと思うから
3世紀に創るとしたらもっと大きな柱や多くの数の木が必要だっただろうな 追記
鎌倉期の出雲3本柱
>この巨大柱は、3本の木を束ねたもので、出雲大社の宮司家に伝わる「古代の出雲大社」の
「絵図面」に描かれたものと同じであったことが判明します。<・・・
・・・・・・「故・福山敏夫」(京都大学名誉教)
なお「絵図面」では3本束ねた柱が 9個 >>768
自分の言ってることが変だと気付いていない? 日本の考古学の感覚だと鏡は即権威の象徴と考えられがちだが本場の中国では違う
埋葬施設を見ると主体の墓に鏡がなく周辺のその他の墓の方に鏡が添えられている事が良く見受けられる
これは王の妃や愛妾達の持ち物としての副葬品
地位の高い人間の墓には大きな立派な鏡が見つかる傾向があるが、これも単に富裕層の持ち物の豪勢さを示す程度の物でしかない
日本のような政治的な背景は見出しにくい
鏡をやたらと欲しがる倭人は中国人にはさぞや奇異なものに見えただろう >>770
えっ
鎌倉時代じゃなかったっけ?
どうでもいいけど○✖時代?でさえ、
大型建物を支えるのには相当 基礎がしっかりしていなければいけないという事 >>651
>紀年銘鏡で気がかりなのは以下ですが どのような位置づけかだれか解説していただけませんか?
(三角縁神獣鏡でないのは承知しています、また赤鳥は呉の年号とも理解しています)
赤烏元年 (238年)
半円方形帯神獣鏡 山梨県西八代郡三珠町鳥居原 狐塚古墳
赤烏七年 (244年)
半円方形(格)帯神獣鏡 兵庫県宝塚市安倉南 安倉高塚古墳 <
呉の年号だから、渡来して来た呉系楽浪鏡師らの中の(一部のら)の人(複数?)なんでしょうね。
この2例は、同じ形の鏡を造っているから、同じ)の人か、同じ鏡師グループが造ったんでしょうね。
しかし、後半は、埋葬場所が違いますから、
この鏡師らが別の豪族からの注文で製作をしたのか?、
地方を回って、売りさばいたのか?は、判りません。 上で騒いでるバカがいたが、正当な版築工法は瓦葺きの寺院建築とともに渡来するまで、倭にはない
古墳の盛土に対して版築とか説明されていることがあるが、それはあくまでも版築風
礎石や敷石で騒いだ時にも指摘されていたが、大型建物は纒向以外の前後の時代にもある
まずはそういった調査事例で、どのような工法を採っていたのかくらい調べてから物を言え
もっともそれができる能力と知力があれば、の話だかなw 鎌倉時代の出雲大社本殿の高さと柱そのものの重さを考慮してないアホがいるな >>652
>>半円方形帯神獣鏡<<
>「景初三年」 大阪府和泉市上代町 黄金塚
「赤烏元年」 山梨県西八代郡三珠町鳥居原 狐塚古墳<
ふーん。 >>710
>ではなぜ、倭国伝に藤原朝臣常嗣が載ってるんだろうね?
筑紫倭国の人間だったんだろ。 纒向の建物は、あまり大きな上部構造がなかったはずなのだな。
つまり倉庫。
王宮ではない。 面白い展開だな 畿内説ガンバレ
>>741
>家は走らないから <
おお笑い ナイスだよ 車軸や車輪は鉄とでも言うのかと思った >>780
藤原朝臣常嗣が筑紫倭国の人間だった
って証拠が必要だとか
まったく思わない?
九州説のひとって、そういうこと思わないわけ? >>772
>埋葬施設を見ると主体の墓に鏡がなく周辺のその他の墓の方に鏡が添えられている事が良く見受けられる
畿内に多く分布する三角縁神獣鏡とかいう鏡かな? >>776
神代の出雲大社はさらに倍の高さ96メートルだったという。
しかししばしば自然に倒壊したと伝えられており、半分、さらに半分にされて、それでも現在の神社としては最大の24メートルほどの高さであるという。 >>784
倭国伝に書いてあるということが証拠だろ。
逆に、日本人だという証拠は? 九州説は証拠を出す習慣かない
どこの世界でも、なんか主張するなら証拠を添えて出すのが当然なのだが、九州説の世界は違う
礼を尽くして頼むなら考えてやってもよい、とか思ってる
根拠を聞かれれば、この根拠厨がぁ、とか罵って怒りだす
だから他人と会話ができない
住んでる世界が違いすぎる 阿波でも、弥生時代の大形掘立柱建物(14棟、大型のものを含む)ぐらいあるんだけどwww なに大騒ぎしてんの? @阿波
「西長峰遺跡:弥生時代中期の大形掘立柱建物 分銅形土製品」 竪穴住居跡が26棟、掘立柱建物跡(14棟大型のものを含む)
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%B0%A4%C7%C8%BB%D4%2F%C0%BE%C4%B9%CA%F6%B0%E4%C0%D7 >>776
出雲大社と比べ
纏向の大型建物ってどの程度を想定してるかだな
倉庫程度なら理解できるかもね >>787
藤原常嗣 ふじわらの-つねつぐ
(796−840)平安時代前期の公卿。
延暦15年生まれ。北家藤原葛野麻呂の子。母は菅野池成の娘浄子。
天長8年(831)参議。右大弁を兼任して「令義解」編集にくわわる。
承和(じょうわ)5年遣唐大使として入唐、翌年帰国して従三位にのぼる。
渡航の苦難などは同行した円仁の「入唐求法巡礼行記」にくわしい。
承和7年4月23日死去。45歳。 >>792
馬鹿げたことを言い張れば言い張るほど
九州説の信用が落ちていく
善哉善哉 >>655
>>呉(赤鳥)の年号が入ってるから呉から賜ったも成り立つわけで<
>鳥居原狐塚古墳は須恵器が出てる5世紀の古墳だからな<
年号の方は間違える事はまずない訳で。
という事は、5世紀まで伝世があったか?、須恵器の年代比定は間違っていたのか?、
という事になる訳で。 >>795
40年前の調査だから盲信は禁物だけどな >>665
安倍自民の前から畿内説は存在するんだが
まあそれだと九州説は国家に反逆する説という事になって
国家反逆の罪でそろそろ終焉が近づいてるという事だけれども 呉系の3ー4世紀製作の鏡は宋(南朝)期に日本に流入している >>670
文献でも考古でも名称でも邪馬壹國女王之所都は筑紫にならないよ
文献なら邪馬台国は九州の南
考古なら畿内
邪馬台国が筑紫というなら文献と考古的証拠を上げてみいや >>677
けどたぶん違うだろうけどもし唐の認識がそうだったとしても
邪馬台国に何の関係があるのか >>701
>(出雲?)何処の国に属するのか、倭人伝で説明したら、
日本海ルートなら投馬国でも良いが<
「南≠東」などで×。 >>706
この畿内説ぅ、畿内説ぅ言ってる人、なんなの?。
大和説は現代史まで、歪曲改竄でもするのかい?。 >>689
卑弥呼が魏に使いを送った年は
魏志曰くと魏志を引用してり梁書、日本書紀、通史、太平御覧には景初三年六月
詔書は「其年十二月」に出たのだから出たのは景初三年十二月という事になる >>707の訂正
「正北抵東」は「正北抵新羅」の間違い。 >>696
アインシュタインとか言ってるけど絶対理解してないな?
理解してるならアインシュタインの相対性理論の基礎中の基礎
E=mc2とはどういう事なのかを説明して貰おうか >>797
むしろ人道に反する罪ですな、九州説が犯してるのは >>704
周りを見てみろ
今時魏志倭人伝にある南は東だから邪馬台国は畿内だと
主張している人間は誰もおらんぞ?
そもそもそれを根拠に邪馬台国は畿内だなんて言った人間は今まで誰も居ないだろ >>710
>>いや、旧唐書も唐会要も、倭国と日本国とは違う国である、として、
記載箇所を区別して、書き分けている。<
>ではなぜ、倭国伝に藤原朝臣常嗣が載ってるんだろうね? <
載っていないよ。
倭國伝に載っているのは、「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」。
>同じ国だからだよw<
唐会要は、違う国だ、として書いている。
>前は薜原朝常嗣と藤原朝臣常嗣は字が違うから別人と言ってたのは
もう止めたんだww <
止めないよ。
唐会要は、倭國伝に「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」と記載した事が史料事実だ。
つまり開成四年正月に来た遣使は、倭國の使節を名乗り、薜原朝常嗣と名乗った、
という事だから、大和日本国の遣使ではなく、九州倭国からの遣使であった。
という事は、平安朝の記録が怪しい。 >>809
どんどん九州説のトンデモ度が高まっていく 九州説はそのうち神だのみになるかも知れん
このまま理論の破綻が続いたらとうとう
神からお告げがあったので邪馬台国は九州ですとか言い出しかねない 九州説が盲信してるのは「史料」じゃなくて
ご自分の珍解釈に過ぎない「史料実態」だからな 寄生人種は日本人が嫌がることならなんでもいいんだよ 纒向には高床式どころか竪穴もほとんど無いのには驚くな >>809
>唐会要は、違う国だ、として書いている。
という証拠は? >>820
しかし学問の基礎は大切にしない
それが九州説 >>822
基礎も上屋も無いだろう
毎日日課のようにウソをつく ウソを吐くだけのザラコク、キウス、伊都クズは九州説にとってのガン 現状は、見学者がほとんどいなくなってた平塚川添で三角縁が発見されると、
重要性が改めて浮かび上ってイベントが開かれるよように
考古学成果に基づいて、広域倭国の連合の中で
北部九州がどのような役割を担ったのかというのが主流の考察だな >>620
正解
>>664
列島では年号が独自で制定してない時は
中国の年号を使ってたということよ。
>>730
三角縁は凸面だから姿見のならんよ
>>832
バカ 倭は元々100ヶ国あったからね
卑弥呼を共立したのはたった30ヶ国
4世紀には四道将軍で各地を征伐するし、伊吹山辺りの勢力はヤマト政権に抗っている
狗奴国との対立もあるしね
女王国の支配に抗った勢力も沢山いたんじゃないかな 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>809
>唐会要は、倭國伝に「開成四年正月、遣使薜原朝常嗣等來朝貢」と記載した事が史料事実だ。
そして続日本後紀と完全に一致ww
『続日本後紀』巻七
承和五年(八三八)四月乙夘《廿八》◆乙夘。勅遣唐大使藤原朝臣常嗣。
『唐会要』巻九十九
開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。
唐の開成四年は839年 >>834
>倭は元々100ヶ国あったからね
>卑弥呼を共立したのはたった30ヶ国
それ、時代が進んで地域首長の集約、統合が進んだと考えるのが一般的なんだが
例えば、よく最古の王墓というキャッチフレーズのつく吉武高木遺跡は、
室見川流域の早良平野の中心遺跡で、旧100余国と言われたときには、
一国と数えられていたと考えられる
要するに、自立した中心集落を一つの国として数える訳だ
しかし、魏志倭人伝では、伊都国と奴国の間に早良国(仮称)は入っていない
早良平野の中心集落が、吉武高木から野方遺跡の移っており、ここが伊都国から奴国への
経路上にあると考えられているにもかかわらず、だ
つまり、早良国は奴国に統合されたと考えられる
30余国とされた時代の国は、平野単位のやや広域の国で利水治水のための権力の
統合が進んだと考えられる
30/100だから、倭国の一部しか含まないという考え方は、ないとは言わないけれど
少数派の見方だよ
さらに、投馬国5万戸は四隅突出墓を作る範囲(丹波以西)、
邪馬台国七万戸は畿内第V様式土器を共通に使う範囲と、もう一段広域の政治統合が
進んでいたように見えるけれど 漢書の分爲百餘國のころは倭地のことはよくわかっていないから
統合が進んだ地域もあるだろうけど
実際は皆倭種の拘奴國以東に倭人の国がいくつあったのかは
わからなかったんじゃないかな
倭人伝の風習の卜骨は関東にも多いからね >>712
>版築って知ってる?<
礎板と版築とは、対象が違う。
版築は、土を積み固めながら積んで行って、高く積み上げる方法。
礎板は、柱様のものを建てる時に地面に敷いておく板。 >>720
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
どんどん崖っぷち死に体になるのが、目に見える様だな。 木製品が残存するのは、木材腐朽菌が繁殖できない水分量が多い泥炭質の土壌だよ >>838
>要するに、自立した中心集落を一つの国として数える訳だ
正解
>邪馬台国七万戸は畿内第V様式土器を共通に使う範囲と、もう一段広域の政治統合が
>進んでいたように見えるけれど
マイルール >>722
大和説は、何でも大和説者に「証拠は?」と言って、無限の不可知部分に持ち込んで、
議論に勝ったかのように、ヘイトスピーチするが、
自分からは、証拠を出す習慣がない。 >>723
大和説者は、自説にとっては都合の悪い史料事実を否定抹殺する、
「解釈と称する妄想」を垂れ流す行為を、歴史研究の方法だと勘違いした。
所詮は、「南→東」などの嘘吐き騙しの学問ごっこだからなの、大和説は、。 >>730
>なので数の足りない鏡を急いでそろえる際にあまり鏡式などにこだわっていなかった可能性もある<
ないね。
「尚方作」の方格規矩鏡を21枚以上揃えていたらしいし、
敵国の呉系の鏡は、明帝のメンツにかけても、選択しない。 日本国の歴史を「中華皇帝への土下座」から始めることはできない。
それがスサノオであったと書けるわけがない。
だから帥升から約100年後の女王・卑弥呼の時代を男王に変え、
その時代をBC660年などと大きくずらした。
それが神武東征紀の異様な誇張と神武127歳の理由。 >>741
馬鹿だね
走る、走らないは関係ないの。
車両の場合はレール、舗装、地盤を傷めないように
車輪の数を増やして圧力を分散させるのだ。
大型建物の柱も柱自体や地盤を傷めないように
地面に掛かる建物の重量を分散させるために柱の数を決める。
どちらも同じことだ。
これだから九州派は意固地で視野が狭いと云われるのだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています