百済の「日本」
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
禰軍墓誌の「日本餘噍」は扶余勇のことだろう
百済あたりから、幾重にも、倭国に渡ってきた王族がいたのだろうね ・兵庫医科大学名誉教授の欠田早苗氏(解剖学)
頭型の分布は朝鮮半島から渡ってきた人たちのルートを示していると考えるわけです。
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い。
で、この(過)短頭の人たちは百済、対馬、瀬戸内沿岸とつながっています。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 秦人とは秦国を、漢人とは漢帝国を自分のアイデンティティにしている中国人
秦人とか漢人とかが半島経由で倭国に大変多くきているがね >>3
河内に古墳ができた4-5世紀には多数の渡来人が半島からやってきた
韓式土器という半島と同じものが主に河内で作られている
河内には大和とは別に新しい勢力があった 秦人は半島に来てないし、漢人も中原の人間は半島に来てないな。
中原の原始青磁や三足や耳の付いた中国系土器遺構が半島に一切無いからだ。
楽浪漢人は遼東半島の名のみの漢人だろう。 欽明元年に秦人(7000戸)、漢人が帰化
ただし、近くの国からだが >>8
実際には秦や漢とは時代が違うし、その痕跡も半島にはない訳ですから、
その秦人とは秦韓人の後裔である新羅人、漢人とは楽浪帯方漢人の後裔である
百済人の事を指しているように思えるんですが、この推測はどうでしょうか? >>9
欽明紀の記事は金官伽耶が投降した直後ですから、金官伽耶にいられなくなった人々
任那地方へは鉄関係で秦人漢人が亘ってきたのでしょう
もとは楽浪に逃れてきた中国人
金官伽耶は新羅へ投降したので、新羅人難民は生まれませんので
欽明紀の秦人は新羅人ではないと想像しています >>10
どうも釈然としませんな。
というのは、半島には秦代どころか、商代には既にあった原始青磁や
三足や耳の付いた中原の中国系陶磁器が全く伝わっていないんですよ。
楽浪郡帯方郡には中原の中国系陶磁器とは全く別なものが伝わっているんです。
原始青磁もなければ、三足や耳の付いた器形もない。
楽浪瓦質土器という中原からしたら、非常に稚拙な土器文化が最初に伝わり、
話の6Cになっても中原の中国系陶磁器は伝わっていないんです。
俺が思うに、秦人、漢人は元は遼東半島あたりにいた名のみの秦人、漢人で、
彼らが楽浪郡や秦韓を作ったのではないかと。
そう考えれば、考古学的にも整合するような・・・ >>10
今、秦の地図を見て、そこに遼東郡という文字を見付けて、妙に納得できたような気がします。
秦人、漢人といっても遼東のような僻地の人々は中原の人々のような高い文化を持った人々ではなかったのでしょうね。
田舎者もいたという訳です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/秦#/media/File:China_Qin_Dynasty.jpg 後漢書の「辰韓,耆老自言秦之亡人,避苦役,适韓國,馬韓割東界地與之。
其名國為邦,・・・,有似秦語,故或名之為秦韓」からは、
辰韓は秦人が苦役を逃れて移った国で言葉も秦語と似ているとあります
史記でも漢が4郡をおいて中国人に封じさせていますから
半島には中国人流れがいたのではないですか >>13
間違いないと思います。
でも、楽浪にも帯方にも秦韓(新羅の北部)にも中原の中国系陶磁器はなく、
非常に稚拙な土器文化しか伝わってないところからして、実際に朝鮮半島に
入ったのは、遼東系の名のみの秦人、漢人、中国人がほとんどだったと考えられます。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 Wikipediaの「伽耶」の項目参照
辰韓諸国と弁韓諸国
朝鮮半島南部の洛東江下流地域には、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて
無紋土器を用いる住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら支石墓を築造し、
青銅器を用いる文化を所有していた。 紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景に社会統合が進み、
慶尚北道の大邱・慶州地域に辰韓諸国が現われ始めた。
朝鮮半島南西部の弁韓地域には、紀元前10世紀から黄海沿岸に位置する山東半島・
遼西・遼東半島の物と非常に類似した様式の土器や石器が見られるようになる。
とありますから、中原の中国人ではなく、山東半島や遼東の人が渡ってきたのではありませんか >>16
山東半島はないでしょうね。
山東半島は中原の中国系陶磁器文化のエリアですから。
朝鮮半島は6000年前の櫛目文土器時代から遼東半島の影響を受けて成立している文化。
その後の農耕文化も稲作も無文土器も支石墓も青銅器も、みーんなみんな遼東半島の
影響で成立している。
ところが、戦国時代に遼東は燕に攻略されて併合され、中国系にされてしまった。
しかし、遼東半島と朝鮮半島の交流は変わらず、秦代、漢代に名のみの秦人、漢代が
移り住んできた。
こういう流れだったように思います。 遼東あたりは燕の影響も受けやすいところですから
文化的にも中原そのものではありえないと思います
しかし、秦語を話しているという後漢書を信じれば
秦の影響を受けていることも事実なわけで
これらを中国人とするか中国人としないかは主観的な問題ではないでしょうか 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. アメクニオシハラキヒロニワノスメラミコト(欽明)は金官伽耶の人ではないか?
>>8の帰化した秦人(7000戸)・漢人は欽明のサポーター
王位を獲得して晴れて彼らに戸籍を与えたと読めるのだが 金官伽耶の最後の金仇衡王を欽明とする見方もあるが
金仇衡王一家は新羅に厚遇された
その兄弟の脱知爾叱今が国元に残されているのが気になる
脱知爾叱今が住民7千戸とともに倭国にわたったのでは? アー タノシーデスネー 長江の鬲wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL54jcK9b5z4Aih.U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 新羅、百済、高句麗、大倭、大唐を継承した日本だから大日本帝国のアジア支配は正統 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>24
日本が百済・高句麗を継承したとはよく解ってるじゃないか
しかし、日本が新羅・大唐を継承したとは知らなかった 戦後、騎馬民族説など渡来系をやたら忖度する風潮があったが百済系が被差別になってる事実。
聖大明神供奉者・村由緒書上
泉州泉郡南王子村の来歴について左に申し上げます。
/ 信太大明神に供奉してきた 者がおり、その時、六人でした
/ 名前 アズ / ホンバヲヤホ / ヒガシバン /ト/ホン パキタラホ / チツネン / アソハン /ホンハホヘホ / それからどれほど年数が経ったか 分り難いのですが、
貞観年中の頃、聖大明神が官社の列に加えられた折に、この六人 の者は改名しました。
/ アズ太夫 / ヒガシバン若太夫/ホンハキトラホ安太夫 / チツネン助太夫
/ アソバン 五郎太夫/ホンバホヘホ甚太夫/ホンバヲヤホ 与太夫/… 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>28
百済系かどうかはわからない 差別はイマキかどうかだと思う
イマキが擁立した河内の政権が潰され その人民が差別されたと思っている
連はイマキが多いが連を皇室とは別の神を祖とする書紀は身分制度として差別した
当時皇室はできたてだから、前王権の人民を格下に扱っただけ? 2万年前に入った人々はD4j8という遺伝子を持つ
それは、ブリヤート人とイヌイット人と日本人に観測される。
D4j8は中国・朝鮮には存在しない。
しかし4万年前にも海から入ってきていた。
最初に入ってきたのは南の方からだった。
https://www.youtube.com/watch?v=QztuMDOa6E4 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >戦後、騎馬民族説など渡来系をやたら忖度する風潮があったが百済系が被差別になってる事実。
騎馬民族が来襲して征服した唱えた学者はおそらく5世紀のことをいっているのだろうが
旧唐書か新唐書の600年代の部分を引き合いに出すなどご都合主義
泉州泉郡南王子村は百済系なのかどうか いつごろ来た人たちか ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 2万年前に入った人々はD4j8という遺伝子を持つ
それは、ブリヤート人とイヌイット人と日本人に観測される。
D4j8は中国・朝鮮には存在しない。
しかし4万年前にも海から入ってきていた。
最初に入ってきたのは南の方からだった。
https://www.youtube.com/watch?v=QztuMDOa6E4 >>30
>イマキが擁立した河内の政権が潰され その人民が差別されたと思っている
イマキが擁立した河内の政権が潰されって何の話しだ?
今来才伎(いまきのてひと)か?
彼らが擁立した「河内の政権」って何だ?
河内の王朝の初現は4世紀第3四半期あたりの仲哀、
よく言われる応神ではない。 大阪最大の被差別部落・津守も文化人類学者中沢新一氏によると、
百済系ツゲ氏だそうだ(大阪アースダイバー)
被差別部落の源流がすべて渡来系と言う意味ではない、
その多くは移配俘囚であろう。
平均的な倭人から見て「異人」であった人たち、
習俗習慣が異なった人たち、
彼らが被差別になったのであろう、 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>36
>河内の王朝の初現は4世紀第3四半期あたりの仲哀、
仲哀なんて本拠地が下関で、香椎に移動して亡くなったので、畿内なんて全く関係ない筑紫の倭王だよ。 >>41
>畿内なんて全く関係ない筑紫の倭王だよ。
河内王朝最初の大王墓である津堂城山古墳。
面白いのは水鳥の埴輪が出ていること。
お父さんのヤマトタケルを連想させる。
神戸の五色塚古墳は凱旋する神功皇后軍を迎え撃とうと、
カゴ坂皇子が「仲哀天皇陵を造る」という口実で兵を集めていた所。
五色塚古墳=4世紀後半。
時代も合う。
九州王朝説はUFOやネッシー、日ユ同祖論とおなじ類。 朝鮮人はひたむきに日本人との血のつながりを主張する
日本人は頑なに朝鮮人との血のつながりを否定する
朝鮮人は日本人に劣等感を持っている
日本人は朝鮮人に優越感を持っている
こんな感じに見えるな 普通の日本人は朝鮮人には興味が無いよ
優越感持ってるのはネトウヨだけ >>36
イマキに何を含めるかだが 相対的に使った
河内王朝の人々が新しい政権(大和?)から棄民扱いされたのではないか
外国人とは限らない 貧乏ともかぎらない 同族のものは大和にいても対象だろう
差別は自然発生ではなく政府の権限を利用した
もちろん差別することが新政府を擁立した部族たちの満足を買ったわけだ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
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>漢人とは楽浪帯方漢人の後裔である
百済人の事を指しているように思えるんですが、この推測はどうでしょうか?
漢人の漢をアヤと読みますというより、アヤという音に漢を当てはめたのです。
アヤは伽耶とか安羅とかのあたりを指すと考えられますので弁辰の人という意味でしょう 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 わかってほしいならわかってもらえるように説明しろ
察してちゃんかよ たぶん朝鮮民族が理性と知性を獲得することは不可能。
理性と知性は遺伝によって決定している可能性が高いのだ。
IQの違いと脳の遺伝子に違いは発見されていない。脳内物質・ホルモンには違いがある
性格の違いは脳内物質・ホルモンにあり、性格の違いが学習機能に違いをうんでる可能性がある
「カッ」としやすい人間は理性的でなく、学習能力が低く知的能力も低い傾向がある。
トルコ、パキスタン、インド、エジプトは韓国より貧しいが自然科学分野でノーベル賞をとっている
見通し可能な将来にわたって朝鮮民族が自然科学分野でノーベル賞は取れないだろう。
理性と知性を持っていない人間と会話によって問題解決は不可能であり
力によって制裁によって押さえつけるしかないであろう。彼等は遺伝子的に問題があるのだ。 朝鮮人は正気を失うほど激しく怒る。自分の命などどうなってもかまわないような状態になって、
牙を剥き出した動物へと変身する。口から泡を吹いて、まるで獣のような顔になるのだ。
残念なことにこの怒りの衝動、自分を見失ってしまう悪癖は、男だけの専売特許ではない。
朝鮮の女も恐ろしいばかりのヒステリーを撒き散らす。
朝鮮人は幼い頃から自分の気分を制御することは躾けられないようだ。
子どもたちも大人たちを見習って、気に入らなければそれこそ狂ったように駄々をこねるが、
結局自分の意志を貫いて達成するか、さもなければ長い時間をかけて鎮静させることで落ち着くのである。
(H・B・ハルバート『朝鮮滅亡』)1906年
『朝鮮人は、自分の知的水準を引き上げ、精神世界を拡大しようとするという努力があわれにもないのに、
社会的地位を高めようという激しい欲望だけはある。 自分のものでなくとも少しばかりの金を自由に
動かすことができるとか、何人か働くのを監督するとか、ともかく物の面、
金の面で人間を支配できるようになると、おしなべて有頂天になる。朝鮮人は、有力者になる、
あるいは名声を博すということだけで、まるで逆上してしまい、ますます尊大な態度をとるようになる。
朝鮮人特有のこの感心できない性向が、じつは企業、あるいは教育、宗教の分野で、
朝鮮人を登用する際に起こる、ごたごたの原因の一つなのである』
(H・B・ハルバート『朝鮮滅亡』)1906年 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>54
続日本紀延暦4年6月坂上田村麻呂の奏上が真実で7つの姓をもつものをひきつれ
7つの姓が朱・李・多・皀郭・皀・段・高の七姓漢人なら東漢は中国人ではないのか >>58
イマキとは新しくきた渡来人のことで、昔からいる渡来人と比較しての言葉
河内王朝の人々は大和にもとからいるひとから見れば新しいのではないか
大和が政権を握ったとき河内政権がつぶされ、それに属す人民が棄民扱いされたということはないか 欽明元年の「秦人ら7000戸あまりが近くの国から渡来して、各地の国郡に配置した」が気になります
当時、部族社会ですから、団体で7000戸余りが来たのです
各地の国郡に分散したという意味は専業集団ではなかったということですよね だから農民ですね
農民を招聘することはありませんから、団体で押し寄せてきたのです
やむにやまれぬ事情があればこそですよね、倭国にとっても脅威です
近くの国からやむにやまれぬ事情で7000戸が集団で押し寄せてきた
この推測は間違ってますか?どこから来たのですか? アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
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>欽明元年の「秦人ら7000戸あまりが近くの国から渡来して、各地の国郡に配置した」
何書? >>63
意味が分からない。
河内王朝というのは普通にそれ以前の大和にあった王朝(実質10代崇神から)の延長上にある。
戦後、騎馬民族説をはじめ王朝交代説が幅を利かせたが、全部証明もされないし今では話にならない。 南朝から都督を得た倭の五王政権は大和の延長ではないことは考古学的に認められている
河内の古墳群と大和の古墳群が平行して存在するからだ
経済的には河内のほうが発展した 倭の五王が都督を利用して半島と経済を一体化したからだ
騎馬民族説は妄想だ
実際は辰王という権威と正統性のある王が倭国に渡ってきて旧領土の支配権を主張し都督を得た >>69
お前が考古学の研究の現状を知らないことはよく分かった 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 そもそも畿内の王権の中心が大和であるという思い込みが間違いでは?
畿内全体で一つの王統が移動していたということでいいだろう。 >>711
トンデモ研究のリンクなんか貼っても無意味だぞ >>73
大和の王権が河内に移動したとしてどのようになぜ中国南朝から都督を得ようとしたのか
また得ることができたのかを説明すべきだ
>畿内全体で一つの王統が移動していたということでいいだろう。
いいだろうはいい加減な態度だ それほどに大和に固執していては真実はわからんよ >>75
それなりに根拠を持って書いていることはわかっただろうから
トンデモというだけでなく、反論すべきだ >>74
九州に何の遺跡があって倭の五王が九州なのだ
九州説は古代史の濡れ落ち葉だ
誰も止めないから九州説と心中すれば? >>69
>南朝から都督を得た倭の五王政権は大和の延長ではないことは考古学的に認められている
>河内の古墳群と大和の古墳群が平行して存在するからだ
あのなぁ、生駒山超えて両方が存在してるからって何なんだ。
三輪王朝から河内王朝まで墳墓、埴輪、土器、副葬品において文化的断絶はない。
これが考古学の答えだ。
君は三王朝交代説か?はっきり言う、古い。
そんなもの昭和の亡霊の様な説だ。 >>69
>騎馬民族説は妄想だ
>実際は辰王という権威と正統性のある王が倭国に渡ってきて旧領土の支配権を主張し都督を得た
結局、騎馬民族説かその亜流ではないか、くだらんw
辰王(笑)
どこに住んだのか、またその証明は大変だぞw
まぁ無理だからあきらめろ。
もう一度言う、百済からの渡来民は被差別部落を形成した。
それが歴史の真実だ。 大和にこだわりすぎ。
戦前の神武からの万世一系説から抜け出せていない。 >>80
ファッションじゃないから新しいも古いもない
断絶があるから言っている 文句があるなら示しておいた博物館に言え
韓式土器・馬・縫製・鉄・須恵器・漢字がなぜ一挙に到来したのか
これらがくるまでの大和は土器文明、徒歩、貫頭衣の土人の世界なのだ
これが断絶でなくてなにか 考古学は古墳だけではない
そうよ被差別部落はこの河内王朝の連中なのだと先から言っている(イマキという相対的な言葉で)
河内が大和と同じ系統の王朝の連中なら差別されまいよ やっとわかったか >>81
前掲のサイトの全体を読んだのか また日本書紀を読んでいるのか
仁徳が堀江の開削をしその南に宮を作ったと出ているだろう
その京に大通りを作り、それは南門からまっすぐ南に丹比まで達したとあるだろう
大阪の上町台地は孝徳が都する前からの河内の倭の五王の都なのだよ
君ね、大和の明日香みたいなところより上町台地を調べるべきなんだよ
ここが日本の中枢だったと思うよ いいヒントをやってしまったかな 畿内説が河内や摂津を中心に展開していたら手強かっただろう。
内陸の大和を主張するから馬鹿にされる。
弥生時代は海運が主力だから、内陸は発展が遅れる。
なぜ畿内説が大和にこだわるかというと、神武が即位したから、くらいしかない。
纒向や箸墓は、後からこじつけただけ。 >>86
政治にしたがっているのは妄想が認めてもらえない陰謀史観のキチの方だけどな では、なぜ畿内と言いながら、何もない大和を中心にしようとするんだ? まあ、大和大和と馬鹿が言い続けてくれた方が揚げ足取りやすくていいけどね。 揚げ足を取ったつもりで自分が盛大に引っくり返ってるのに気が付かないトンデモさん 「大和」は昔から日本書紀を信奉するグループがいただけのことさ
このグループは執拗だ 日本書紀にあわせて証拠を捏造しようとする
いまでも捏造しようとする文献を史料扱いしている
歴史は嘘に嘘を重ねなければならなくなってしまっている 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 自分の説をすべて証明できているわけでもないのに
他人の説を間違っていると決めつける人が多いね
>>1
「餘噍」は人名とは読めないそうじゃないですか
だからそもそも、禰軍墓誌の件と百済の王族が日本の王族になったかという件は
関係がない 「餘噍」は日本書紀景行紀27年12月の段にも使われている 取り逃がしたものという意味
禰軍墓誌の「日本餘噍」は「日本の取り逃がしたもの」という意味
このとき倭国はまだ日本と言っていないから
白村江の戦いで取り逃がした百済人のこと 扶桑の国に身を隠してどうの・・といっている
倭国に逃げ込んだ百済の残党という意味になる。その長は扶余勇なのだ。
なぜって、旧唐書の劉仁軌の条に勇は南にあるとか倭国に逃げて居るとか書いてるだろう?
その扶余勇が倭国にわたって何をしたかが問題なんだよ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >だからそもそも、禰軍墓誌の件と百済の王族が日本の王族になったかという件は
関係がない
いささか表現に問題がある。百済の王族が倭国にわたって行動したにすぎない
その人物を日本書紀は「アメミコトヒラカスワケノスメラミコト」と名づけた
日本書紀はそこまでしかいっていない
その後、誰かが血筋の正統性を「アメミコトヒラカスワケノスメラミコト」に求めた
つまり日本書紀を書いた人はそのように利用されることを知らなかった 鬼室福信とか億礼福留とか黒歯常之とか
こいつら倭人系なんでそ? 日本は中華文明の一員ではないのだが
中国は金印・銀印・銅印を周辺国へ与えた
序列は金銀銅でオリンピックと同じ
日本は金印を貰ったが歴史上常に半島は銅印しか貰ったことがない
つまり中華秩序で見ても日本が兄で朝鮮は弟 直近では義慈王は伽耶地方奪取に成功したから伽耶の王たちが百済の貴族になった可能性はある
したがって、将軍に倭人が混じっていても何の不思議もない 印綬は官位の階級を示す目的であるから、中国の配下と考えられる国に金印紫綬はありえない
卑弥呼の金印紫綬は中国との関係では上下関係にないと考えられるがいかが? >>83
>断絶があるから言っている 文句があるなら示しておいた博物館に言え
>韓式土器・馬・縫製・鉄・須恵器・漢字
韓式土器 いつの時代の物なのだ
馬 4世紀前半
須恵器 4世紀末
漢字 弥生時代には少し入ってるね
>>1はアホw 大阪の複数の被差別部落は百濟人が祖
アホで臭い百済人 >>83
>そうよ被差別部落はこの河内王朝の連中なのだと先から言っている(イマキという相対的な言葉で)
>河内が大和と同じ系統の王朝の連中なら差別されまいよ やっとわかったか
分るかアホ。
河内にも大和にも被差別部落はあるのに何言ってんだおまえ。
分かったかアホ。 >>104
悪あがきはみぐるしい 自分でもいやになるだろう
>>106
河内国にきっちり収まっていたわけではない
>>105
おまえはヘイトするから被差別はこの辺で終わりにする >>107
>悪あがきはみぐるしい 自分でもいやになるだろう
具体的に断絶がないという証拠を書いてあるわけで悪あがきはおまえ。
辰王が日本に来た?
いつどこに?
日本の歴史上の誰なのだ? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 博物館の資料により断絶があるといっている
文句があるなら掲載しておいた博物館に言えといってるだろう
どこにだって? 上町台地といっているだろう
誰かって? 自分で調べればよい ただし書紀が書いていればの話だが
これはお願いだが よく読んでから書き込むようびしてほしい 繰り返しはごめんだ >>110
>博物館の資料により断絶があるといっている
どこの博物館のなんという資料にどこが断絶してると書かれてるのだ、はっきり言え。 >>110
>どこにだって? 上町台地といっているだろう
それは辰王の話か?
天皇になったとでもいうのか、ボンクラ。 >>111
河内に馬・鉄・・・・を持ち込んだのは誰か?
>>112
71に貼り付けたサイトに書いてある
>>113
天皇称号は後にできたから天皇になるとかいう議論は成り立たない >>114
持ち込まれて受け入れられただけで
在来の社会も文化も断絶なんかしてないね >>115
断絶とはそれまでの緩やかな連続性とは画期すべき急激な変化の意味 >称号を持ち込んだ
お前たちの言う「外」(日本人ではない、人々?)が、
本物だという事を言いたんだろう
なぜ理解出来ないんだ、低脳なんじゃないのか その後、自称?帝・・・皇・・・その他、
そういうのが現れたんだよ
と言ってる人もいた 『日本国王 足利』
というのは何なの?正しいような気もするんだけど >>114
>河内に馬・鉄・・・・を持ち込んだのは誰か?
馬は4世紀前半でおそらく崇神の時代に来日した任那のソナカシチあたりであろう、
秋津遺跡の馬の歯、箸墓の木製鐙などが4世紀前半である。
その馬の文化が普通に河内にも来ただけだが何言ってるの?
>天皇称号は後にできたから天皇になるとかいう議論は成り立たない
言葉尻とらえるなボケナス。
ならば大王(おおきみ)でいいから言えよ。 鉄は徳島の矢野遺跡にすでに壺に入った砂鉄が見つかっているから弥生時代から。
>>1って何が言いたいの? 『卑弥呼 金印』
こういうのも後付けような気がするし、
発掘されたんだから・・・〜(卑弥呼の家?)〜・・・正統なんだよみたいな 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>120
大王の名は記録上の獲加多支鹵とアマタリシヒコ以外に知らない
>>121
5世紀の河内を中心とした生産は家内手工業でなく専業的分業体制だと考えられている
同じ鉄でも鏃と剣や鎧とでは大違い >>121
>>1って何が言いたいの?
注目しませんが扶余勇が倭国に渡ってきました
そういう例がたくさんあるでしょう >>120
>馬は4世紀前半でおそらく崇神の時代に来日した任那のソナカシチあたりであろう、
>その馬の文化が普通に河内にも来ただけだが何言ってるの?
馬文化の高句麗が南下して百済を圧迫し、馬文化が百済に影響した
百済から河内に伝わった 任那からでは筋がとおらない
具体的にソナカシチの名前を挙げる根拠は? 考古学研究の現実を知るべし
高田寛太「古墳時代の日朝関係史と国家形成論をめぐる考古学史的整理」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第170集、2012 年
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1985&file_id=22&file_no=1 >>99
失礼した、>>1 はあなたの言う通り百済の王族が来た、としか書いてないね
私の勘違い。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>129
多くの人が金と人生をかけて得た結論は、長らく恣意的な歴史観に支配されていたようだ
高田寛太「古墳時代の日朝関係史と国家形成論をめぐる考古学史的整理」
(『国立歴史民俗博物館研究報告』第170集、2012 年)のなかで示されている
国立歴史民俗博物館研究報告第110集2004年2月「倭と伽耶の鉄」は既読である
その論を一歩進めて、三韓を支配していた辰王が何らかの事情
(高句麗の圧迫で馬韓から百済が生まれ、馬韓にいた辰王の支配地が狭まった?)
で倭国に移ったと考えたのが倭の五王=辰王論なのだ
この考えによれば任那地方は最初から倭の五王の支配地となる
そして次に新羅が強くなり辰王不在で任那も失ってゆくという流れを書いた
https://sites.google.com/view/jhistory/ 倭の五王が都督を得たのは半島南部の支配の正統性を持っていたからである
南朝が百済の地を倭の五王に認めなかったのは、辰王が馬韓から逃げたからだろう >>129は「読むべし」というので紹介された文献を目を通したが、単に研究の歴史を紹介するだけであった
その中で比較的最近の研(「倭と伽耶の鉄」)究が紹介されていたが、それはすでに読んでいた
それを発展させて倭の五王=辰王と考えると何もかも説明がつくといっている
半島南部での戦闘の後がない・分業など経済的交流である・都督を得た・武は百済を欲したが得られなかったetc
この妄想に異論があればどうぞ
>>129は「読むべし」といっているが、文献からさらに具体的な個々の研究内容を知っていっているのだろうか >>128
>任那からでは筋がとおらない
日本での馬の痕跡をいつごろからだと思ってるのか?
4世紀前半 箸墓の木製鐙 秋津遺跡の馬の歯
4世紀中頃 山梨塩部遺跡
>具体的にソナカシチの名前を挙げる根拠は?
時代的にそれしかなかろう。 >>128
>馬文化の高句麗が南下して百済を圧迫し、馬文化が百済に影響した
>百済から河内に伝わった
ということは400年頃の好太王軍の南下ではなく。
475年の百濟の熊津遷都以降に河内に伝わったと?
時系列が無茶苦茶なんだが。 >>138
乗馬が普及するのは河内に馬がきてから
馬の先例は鉄における鏃のようなもの
>>139
高句麗の南下は何度も起こっている
それによって、百済が生じ、百済が南下し、王が殺され、最後は滅びた
その過程で馬の文化が伝わったと考えられている >>136
馬具のルーツはどこだと認識されている?
倭で断絶があったことを前提として研究されてる? >>141
馬具は残るから研究対象になりやすいがルーツなど専門家でないからわからない
それより馬の生産すなわち牧が作られていることのほうが馬利用の発展の文化を考える上で重要と思うが
馬生産は河内北部で興りそれが全国展開された
それ以前とされる馬具は鉄における鏃のようなものだと先ほどから言っている つまり「百済から伝わった」には考古学的根拠なしだな
お疲れ様 誉田丸山古墳出土の金銅製鞍はご存知と思うが、
Wikipedia
1952年(昭和27年)に国宝に指定されている。日本における最古の例に属し、大陸からもたらされたと考えられる。
森浩一によると、誉田丸山古墳出土とされるこの鞍金具は古墳出土の鞍のなかでも最優秀品というべきものであるが、
これらの優秀品に注目して、5世紀ごろの我国の古墳から出土している馬具が実用品ではないと、よく論じられているが、
実際は各府県の古墳出土の馬具のうち鞍金具を伴うものは1割にも満たず、大部分は轡だけという実用本位の馬具である。
本例のように工芸的に優れた馬具は王者の乗馬に用いられたものであり、
大集団のなかでも金色燦然として注目を集める効果が充分あったに違いないとしている
この鞍は直感的には中国のにおいがしますが、解説どおり大陸から輸入されたのでしょう。国宝ですが。 考古学の結果と文献史学をあわせて古代史を紐解いています
考古学の結果を検証しているのではありません
考古学に興味のある方にはこの板は適切ではありません 誉田丸山の馬具のことすらろくに知らないのに
日本への馬匹文化の流入を語るとかありえない ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 文献の方法論も考古学の方法論も無視してるくせによく言うw 良馬の代表的産地
陸奥、出羽、常陸、下総、上総、安房、下野、上野、武蔵、甲斐、信濃、日向、薩摩
良牛の代表的産地
伊勢、伊賀、大和、近江、越前、丹波、但馬、播磨、石見、出雲、筑紫、朝鮮南部
(『国牛十図』にあげられている牛の生産地は)渡来した移住民、あるいは帰化人がそれぞれ定住し、その子孫が住んでいた地方であり、今日も牛の産地として有名である。
このことは決して偶然の一致ではなく、むしろそれらの地方において、古来それらの外来人によって牛の飼育・繁殖の基礎がつくられ、その畜産の伝統が培われた結果、
これらの有名な牛(但馬牛など)がつくられたといってよい。
(『日本畜産史』法政大学出版局) 馬のことはよくご存知ですね 素人の私は一つ一つの遺物について詳しくありません
古代史の流れは国際的視点から本来このようでなかったかと言っているだけです
馬を見て演繹的に辰王にたどりつくには何人分の人生が必要でしょう
歴史の中に政治的動機を見つけることを主眼にしております
これは証明できないことですから考古学や文献を補助として使っているのです >>152
では、この場合、辰王ではないと反論してみては?
それができなければ、学問として仮説が否定されなかったということだろう? 論理的でない主張をしてる相手に
論理的な反論をしても無意味だから 否定できないだろうから言っておくが、
学問であるかないかを君が決めること自体が専横だ 君自身が宗教的さ
あのサイトは心ある学者なら一瞥くらい与えるさ >>140
>乗馬が普及するのは河内に馬がきてから
いや箸墓のある磯城も秋津遺跡のある葛城も塩部遺跡のある甲斐も河内ではないのだが。
なんで河内に拘泥してるのだ、アホなのかお前は。
>馬の先例は鉄における鏃のようなもの
5世紀中ごろから騎馬用甲冑・桂甲も岡山の天狗山全国的に出ている。
>高句麗の南下は何度も起こっている
それによって、百済が生じ、百済が南下し、王が殺され、最後は滅びた
その過程で馬の文化が伝わったと考えられている
ならば5世紀前後からであり百済の熊津遷都より早いわけでおまえの言ったことと矛盾している。 × 5世紀中ごろから騎馬用甲冑・桂甲も岡山の天狗山全国的に出ている。
〇 5世紀中ごろから騎馬用甲冑・桂甲も岡山の天狗山古墳など少数だが全国的に出ている。 >>154
そんなことないよ
論理的に反論すれば論理的に考えてみるよ
論理的反論を待ってるよ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 論理的思考が出来ない相手を論破することはできない
なぜなら自分の主張の論理的構造を理解していないため
自説が論破されていることを理解できないからだ 長江やら江南なんて提唱している頭の湧いた考古学者なんて一人もいないが何か?
いるなら出してみな。 まぁ今時珍しい騎馬民族説またはその亜流者である>>1w
こんなのとっくに絶滅したと思ってたのに。
楽しいので転がそうw >>162
やってみなけりゃわからんよ
あきらめるのか? 自説の構築にあたり諸情報を客観的に検証したわけでないことを自白してるw
その時点で周囲からは学問的な討論は不可能と判断されるわけだがw >>144
>この鞍は直感的には中国のにおいがしますが、解説どおり大陸から輸入されたのでしょう。国宝ですが。
考古学桃崎祐輔 さんのいうように慕容(ぼよう)鮮卑。
全国3位上石津ミサンザイの陪塚(ばいちょう)七観山古墳出土の金銅製輪鐙も同じく。
北燕宰相・馮素弗(ふうそふつ)の生きた時代5世紀初頭の流行したもの。
日本が入手したのはAD404年の帯方界侵入以外にあり得ない。
で>>1は何が言いたいのだ? 誤字脱字が多いので正書
考古学者・桃崎祐輔 さんのいうように慕容(ぼよう)鮮卑。
全国3位の上石津ミサンザイの陪塚(ばいちょう)七観山古墳出土の金銅製輪鐙も同じく。
北燕宰相・馮素弗(ふうそふつ)の生きた時代5世紀初頭の流行したもの。
日本が入手したのはAD404年の帯方界侵入時期以外にあり得ない。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 鉄について興味深い記述
国立歴史民俗博物館研究報告第110集2004年2月「倭と伽耶の鉄」のなかで次のように述べられている
「公孫氏滅亡後は倭は魏・韓と国際関係を結び、3世紀前半、辰王政権下の三韓地域から倭に流入したものとして
馬型帯鉤(長野県淺川端出土)がある。鉄は一貫して弁韓から輸入していた」
近つ飛鳥博物館は
「鉄鋋が朝鮮半島南東部に集中して遺跡や墳墓に見られ、次に大阪・奈良に埋納されていると述べている」
大阪奈良での埋納は400年あたりからのようだ 鉄鋋は威信財である
国立歴史民俗博物館研究報告ははっきり辰王政権を認めている
その後辰王がいなくなっているが、辰王が何処に行ったかを推測する資料として重要な研究だ >>174
鉄は半島に渡っていた海洋民、後の物部だろ。
辰王っていつの時代の人物を考えてるのか分からんが、
物部系尾張族、丹波=タバナ國とも一致する。
大した話ではない。 >>170
>>171
精緻な馬具に関する思考はわかった。立派な馬具が燕からきたとしても
それをもって河内の文明は百済以南からきたのではないとするのは馬鹿げている 物部は河内の高安山古墳群を形成した渡来人の支配をしていたから
実行集団かもしれないが 物部はあくまで部族長どまりだろう 大王ではない
各論になったら顔を出してくれ >>177
金官王は辰王の血筋は引いているだろうな
欽明は金官王の兄弟だろうから辰王系だろう >>170
古代史に命懸けでやってるわけではありませんので
辰王ではありえないと論証されれれば受け入れます
騎馬民族も根拠のない仮説ながら物議されましたね
私もその類ですよ でも反証されるまでは生き続けます 半島南部で鉄を採掘してた主体の王を辰王というならその通りであろう。
しかしそれと百済が何か関係あるのか。
大和では纏向古墳群のホケノ山以降、鉄具の出土量で九州を逆転していく。
では纏向古墳群は何族の墓か。
崇神のお母さんの部族・物部だ。
しかしそれと百済が何か関係あるのか。 百済にこだわらないでくれ 三韓地区の代表で百済といっている だから辰国も含んでいる ごめんね
ただ、「日本」という名称は厳格な意味での「百済」と密接な関係がある 百済王には「辰斯王」がおり、扶余隆の墓誌に「辰朝人」とかでるように
百済も元をたどれば辰国の系統であることを誇りに思っているところがある
百済は辰国に属していたのだからいいだろう >>168
都督を得たのは武力ではない 正当な支配権を持っていたので南朝は許した
正当な支配権を持っていたのは三韓の王辰王でしかない
それが倭国にわたって三韓(百済を除く)の地を支配した
百済を欲したのは元の領地だからだが、馬韓の伯済が実効支配したので取れなかった
騎馬民族説などの荒唐無稽な説ではない 政治経済的にみた結論だ >>184
>それが倭国にわたって三韓(百済を除く)の地を支配した
考古学的、または文献史的(この場合は記紀)の根拠は? >>185
記紀は史書としてはたよりないので中国史書を参考にするしかない
宋書、梁書あたり >>186
つまり中国史書の恣意的解釈以外に何も根拠がないというわけだね。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>187に問う
記紀は恣意的に造られたものだから冊封を受けたことは書かれているわけがない
三国史記には冊封の事実が書かれているのでまだましだ
言っておくがここの古代史は国際的視点から見ているので、記紀は参考程度なのだ
史書まがいの記紀から半島支配の根拠を示せということこそ臍が曲がっている
したがって中国史書を言ったまでだ ところが
「>中国史書の恣意的解釈以外に何も根拠がないというわけだね。」とおっしゃる
はて、なにをどのように都合よく解釈したのか言ってもらわねばわからないのだがのう
あなたすでに倭の五王が辰王であることを認めていて根拠を示せといっているようだね
梁書にも宋書にも辰王なんて出てこないはずだが
梁書、宋書に依拠しているなら、該当箇所を引用してみろよ 「馬韓最大,共立其種為辰王,都目支國,盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。」
「初,朝鮮王準為衞滿所破,乃將其餘?數千人走入海,攻馬韓,破之,自立為韓王。準後滅?,馬韓人復自立為 辰王。
建武二十年,韓人廉斯人蘇馬ィ等詣樂浪貢獻。光武封蘇馬ィ為漢廉斯邑君,使屬樂浪郡,四時朝謁。
靈帝末,韓、?並盛,郡縣不能制,百姓苦亂,多流亡入韓者」 >>189
>記紀は恣意的に造られたものだから冊封を受けたことは書かれているわけがない
>三国史記には冊封の事実が書かれているのでまだましだ
>言っておくがここの古代史は国際的視点から見ているので、記紀は参考程度なのだ
記紀は、冊封を受けたことをごまかすために時代を大きくずらしたりしているので逆に面白い。
古代天皇の100歳を超える年齢などその証拠。
この中からいろいろ見つけれるわけだ。
例えば10代崇神が4世紀前半に固まりつつある。
ならば時系列的に神話上の人物、スサノオも実在で倭国王帥升である可能性が極めて高い。
君の意見はところで君の意見は考古学的根拠がないので無理だ。 状況証拠を挙げて倭の五王=辰王説だといっている
>>174半島で鉄を支配していたのは辰王だと国立民俗博物館の報告書は認めている
この辰王がいなくなり、倭国に急にいなくなり畿内で鉄鋋が威信財として埋納される
ますます状況証拠は固まるばかり
辰王ではありえないと証拠があれば引き下がります
>>192
どうぞ記紀を生涯の友として謎解きを楽んでください
>ところで君の意見は考古学的根拠がないので無理だ。
そういいきれますか? 冊封を隠すのとおなじく
古墳を封鎖しているが これらに墓誌があるかもしれない 「讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。」
珍は突如、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事を自称した なぜか?
倭国を別にするとその地域は辰王の元領地に一致するではないか これだけでも証拠といえるが いかが? 飛躍し過ぎ
どの史書にもそんなことは書かれていない >>196
後漢書にでているが・・・
「韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西,有五十四國,其北與樂浪,
南與倭接,辰韓在東,十有二國,其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南,亦十有二國,
其南亦與倭接。凡七十八國,伯济是其一國焉。大者萬餘户,小者數千家,各在山海間,
地合方四千餘里,東西以海為限,皆古之辰國也。馬韓最大,共立其種為辰王,都目支國,
尽王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。」
飛躍とは自分の無知をさらけ出した発言だ アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL6WAQsxbu3kAXBGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>197
どこにも倭王が辰王だったなんて書かれてないぞ >>194
>状況証拠を挙げて倭の五王=辰王説だといっている
ということは百舌鳥羽曳野の大古墳の主が辰王だというわけだな。
あ〜ぁアホくさい。 ≫>194
>>ところで君の意見は考古学的根拠がないので無理だ。
>そういいきれますか? 冊封を隠すのとおなじく
>古墳を封鎖しているが これらに墓誌があるかもしれない
西郷どんの右腕と言われた男・元堺県令(今でいう知事)税所篤という男が大仙陵の前方部を盗掘している。
その時の記録がこれだ。
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/kofun.html#cmsNINHYA06
ここからどうやって辰王なるものをを想定するのか。 あほくさと言っても倭の五王=辰王が否定できたわけではない
封鎖されている古墳はひとつではないし 盗掘結果が大仙陵のすべてではない
封鎖されている古墳のすべてを掘り返せば文字はあるかもしれない あればはっきりする可能性はある
ないかもしれない なければ決着は別の方法でつけることになるだけ
ちょっと論理がおかしい
>>199どこにも倭王が辰王だったなんて書かれてないぞ
書いてあれば、倭の五王=辰王説なんて仮説を唱える必要がない
倭の五王=辰王を否定しろといっているわけだが
私が言うことにけちをつけるだけでは否定したことにはならない事に気づいてますか 前方後円墳などの古墳やその遺物、日本独自といってもいい。
前方後円墳自体が東瀬戸内発祥であり、外国の出自ではない。
埴輪ももちろんそうだし、竪穴式石槨、石棺もそう。
鏡は大陸からだが、鏡を大量に副葬する文化は日本独自、。
武具では騎馬用甲冑の桂甲が漸次的移行を示し、
突然大量に入ってきたわけではないことは、
騎馬民族説およびその亜流を否定できる。 >>203
仮説を否定しろといってるだけ 悪魔の証明の意味がわかっていないな
まぁ否定できないといっているわけだな いつでもいいから否定しにきてよ
>>204
決定打が欲しいね 中国の王朝に叙爵の上表するときに倭王が辰王の後継だと主張していない
つまり、同時代においてそのように認識されていたという根拠がない
また、現在の史学界においては辰国の存在そのものに疑義がもたれている
UFOが存在するという仮説を否定しろと主張しているのと
同じなのに気がついていない時点で学説ではなく宗教と同じ >>206
>中国の王朝に叙爵の上表するときに倭王が辰王の後継だと主張していない
>つまり、同時代においてそのように認識されていたという根拠がない
論理性を疑うな 叙綬するとき出自を書くルールが中国史書に存在するとはしらない
書かれていないから否定できたとする頭の構造にはおそれいる
>また、現在の史学界においては辰国の存在そのものに疑義がもたれている
>>197に後漢書に「辰国」と書かれていることを示しておいたが読んでいないのか?
宗教は盲目なりという言葉を差し上げよう 漢書朝鮮傳
「傳子至孫右渠,所誘漢亡人滋多,又未嘗入見;真番、辰國欲上書見天子,又雍閼弗通。元封二年,漢使?何?諭右渠,終不肯奉詔。
師古曰:「辰謂辰韓之國也。雍讀曰壅」 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL6WAQsxbu3kAXBGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 倭の五王=辰王説は考古学的に証明されない。
以上。 大山陵は最新の須恵器の編年では5世紀前半、つまり仁徳で間違いない。
●5世紀初頭 全国2位・誉田御廟山(応神) 全国3位・上石津ミサンザイ(菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ) )
●5世紀前半 全国1位・大仙陵(仁徳)
こういう大古墳は天皇が亡くなってから造り始めたのでは間に合わないので、間違いなく生前墓(寿陵)。
応神の後の次期大王最有力候補である皇太子・菟道稚郎子のために上石津ミサンザイという大古墳を造った。
が菟道稚郎子は大王にはならず、皇位を仁徳に譲り自殺したと伝わる。
困った。
次の仁徳は上石津ミサンザイを超える大古墳を造らないと恰好がつかない。
だから必死で大古墳を造ったら世界一の古墳ができたというわけだ。
大仙陵が上石津ミサンザイと同じ方向でさらに大きく造られているのはこのためだ。
というわけで辰王って何の話? 5世紀の河内の急激な発展は文化の自然な伝播では説明できない
武が全国統一したのも急速であり、計画性がないと考えられない
経済は専業集団による分業と見られている
したがって流通路が必要になるがそれも整備したことになる
半島南部の出土品と畿内の出土品は酷似し国際的分業の可能性が指摘されている
これらの事柄から、断絶的な発展のスピードを説明するためには
これを指揮した倭の五王は畿内から半島へ手を伸ばしたのではなく
半島から畿内にやってきて、半島の技術を持ち込んだと考えざるを得ないのである 国内だけで古代史を完結しようとするのは愚かだ
君は国内史学の餌食になったのだよ >>215
>これを指揮した倭の五王は畿内から半島へ手を伸ばしたのではなく
>半島から畿内にやってきて、半島の技術を持ち込んだと考えざるを得ないのである
河内平野に最初に墓を造った大王は仲哀。
おそらく近年2重目の濠がみつかった津堂城山古墳で間違いなかろう。
4世紀後半、古事記の没年干支を信用してAD362年没。
倭の五王と全然関係ないね。
残念だったねw >>216
国内外の考古学的成果を無視した主張は愚かだ
君は自分が特別だと思い込む六拾弐病に冒されている 次の話題に移ろう
半島から倭国に渡った貴人を見つけよう >>216
>国内だけで古代史を完結しようとするのは愚かだ
同意
半島との関わり抜きに倭国は語れない >>217
>河内平野に最初に墓を造った大王は仲哀。
仲哀は穴門豊浦と筑紫香椎を宮とする九州の倭王だよ。 半島や中国の史書に出ていて消息不明で倭国にわたった可能性の貴人は何人もいるだろう 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>221
仲哀は熊襲との戦争で死んだのかもいれないね。
どっちにしてもここの>>1がいうように、
半島から畿内にやってきたのではなく、
逆に畿内から半島へが正解だね。 >半島から畿内にやってきたのではなく、
>逆に畿内から半島へが正解だね。
「俺好きな彼女がいるんだ」って口先だけだろう? 具体名を出さなくっちゃねぇ〜 逆コースでもいいんだけれど具体名を出さないとわからんじゃん 倭の五王=辰王説は否定できていない
次の話題に移ろう 倭の五王がどこから来たかといえば来てないでしょ、別に。
ずっと畿内にいた勢力なんだから。
なんで来たことにされるの。 逆に神功皇后の4世紀には半島に積極的に進出してるね。
韓国の慶州や馬山に畿内系布留式土器が大量に見つかり
倭人の移住が想定されるようだ(熊谷公男)
古事記では屈服した新羅王の門に住吉大神を祀るとある。
新羅2代目王・南解次次雄(ナカツツノオと読める)
が娘婿にしたのが4代目王・昔脱解(韓国語でソコタレ)
中筒男から底筒男へ、住吉さんの華麗なリレーというわけだ。 >>232
そもそも五王が畿内にいたという根拠がない。 >>233
>新羅2代目王・南解次次雄(ナカツツノオと読める)
>が娘婿にしたのが4代目王・昔脱解(韓国語でソコタレ)
これは驚き。
新羅王統は倭国王統の分家だったのか。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 発掘品から言えば、倭と最も関係が深いのは新羅、百済よりも伽耶だ。
ところが、新撰姓氏録の諸蛮に、新羅、百済、高句麗は多いが伽耶はほとんどない。
この不思議。 >>237
家系なんて有名どころに繋ぎたくなるのは今も昔も変わりないからな >>233 逆ですね
新羅(まだ新羅という名ではなかったが)の南解次次雄王など三人を祖とする一族が
住吉あたりに陣取って住吉津を経営し倭国の貿易のビジネスを独占していた
そこに辰王が河内に入ってきて半島と一体になって巨大なビジネスを展開したが、
新羅連中に貿易で上前をはねられるのが癪に障って堀江を開削し難波津をつくった
てなところ
神功皇后の話は住之江の筒男三神は新羅を追い出されたというほうが当たっている
書紀では筒男三神の直前に三韓に屯倉を置いているなど国際関係を上から目線で整理している 「新羅(まだ新羅という名ではなかったが)の南解次次雄王など三人を祖とする一族が
住吉あたりに陣取って住吉津を経営し倭国の貿易のビジネスを独占していた
そこに辰王が河内に入ってきて半島と一体になって巨大なビジネスを展開したが、
新羅連中に貿易で上前をはねられるのが癪に障って堀江を開削し難波津をつくった」
という夢を見たニダ… >>238
>神功皇后在位を西暦換算してよ
古事記の没年干支や日本書紀の応神即位元年を参考に、
AD362年から390年までの28年間だと思う。 神功皇后の在位と南解次次雄の他界年と「新羅王統は倭国王統の分家だったのか」
の整合性を述べよ ニダの使い方が不適切
ヘイトゆえこの話題を打ち切る 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 まだ「悪魔の証明」を学んでいないのか
この場合成り立たないことを言えばすむ(たとえば矛盾を突けばいいんだ)
それができないといっているのだな >>252
おまえの話しのどこに整合性があるのだ。
説というより願望のようなものは矛盾以前の話しだ。 南解次次雄は西暦24年に他界している=神武はBC660年に即位している=嘘 >おまえの話しのどこに整合性があるのだ。
整合性がないというのならその整合性のなさの具体を示せばすむんだよ
それができなきゃ負け犬の遠吠えなんだよ
まだ一度も矛盾を突けてないじゃないか 期待はずれだ 「俺の仮説の矛盾点を指摘してみろ!」とはトンデモさんの常套句だが
仮説でも妄想でも矛盾がないように組み立てるのがあたり前なので
最初から矛盾を内包してる仮説を主張しているのなら、それはキチかバカ
問題は、自説内の矛盾ではなく、自説を取り巻く学問世界との整合性にある
歴史学の場合は、史料・考古資料、あるいは蓄積された研究成果との整合性が問われる
そういったことを理解せず、根拠なく、「自分は凄いんだ」と思い込んで
ネットで暴れたり、大枚をはたいて自費出版に走る年寄りが散見されるが
滑稽さを通り越して哀れですらある 今日もキナイコシが暴れているのか。
ヒキニートかよ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >「俺の仮説の矛盾点を指摘してみろ!」とはトンデモさんの常套句だが
仮説でも妄想でも矛盾がないように組み立てるのがあたり前なので
最初から矛盾を内包してる仮説を主張しているのなら、それはキチかバカ <
矛盾がないことを認めたね 仮説は生きている キチでもバカでもなかった
>問題は、自説内の矛盾ではなく、自説を取り巻く学問世界との整合性にある
歴史学の場合は、史料・考古資料、あるいは蓄積された研究成果との整合性が問われる
そういったことを理解せず、根拠なく、「自分は凄いんだ」と思い込んで
ネットで暴れたり、大枚をはたいて自費出版に走る年寄りが散見されるが
滑稽さを通り越して哀れですらある<
自説内の矛盾を指摘しろなどととは一言も言っていない
たとえば古代の経済論があればそれから否定されてもいい
お前(達)にそんなことができるほどの器量があるとも思えないがなぁ
指摘されれば反論するし もっともだと思えば修正する
そもそも お前(達)はやり込めようと意気込んできたわけだが
お前(達)を引っ張り込むだけの説得性がこの仮説にあったということだ
今すぐ否定しなくて結構 時間はたっぷりある いつでも否定しにくればよい
ところで別の仮説(扶余勇あたりで)で戦ってみるかい? 整合性というなら神武には語る価値はないし、
天孫降臨などSFにすぎず、
日本古代史文献は妄想の産物になる
だが多くの者が歴史の把握の依存先にしている
重要なことはなざ朝鮮史書に上代を記してその王して南解~としてるのかなのだ 音「ナカツツノオ」を新羅人が漢字で表現すると「南解次々雄」となる?
文字「南解次々雄」を倭人が読むと「ナカツツノオ」となる?
どちらが正解? 三人セットで日本語として理解できるので、文字が後からついた。 底筒男=脱解は無理?
底筒男、上筒男に対応する新羅人は? >上筒男に対応する新羅人は?
日本にいた倭人であろう。
「屈服した新羅王の門に住之江大神を祀る」わけだ。
中筒男が祀られ、つまり統治者となり、底筒男=昔脱解を娘婿にした。
タバナ=‘丹波=尾張・海部=住吉神
符合する。 ナカツツノオが先にあって南解次次雄があとからついたといってるが
南解次次雄は古代の朝鮮語ならナカツツノオと読める? 漢字の音読みだから、何語であるかは関係ない。
あえて言えば、「なかつつお」という日本語だよね。 音読みで次次をツツ、雄をオは苦しい 他に例でも?
逆に訓読みすればツツオは納得されるが 『日本書紀』応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、羽田矢代宿禰は紀角宿禰・石川宿禰・木菟宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国した
三国史記には辰斯王が狩りに行って帰ってこないので阿花王を立てたとある。
普通、王様が狩りに行くのならお供を何人も連れていくだろう。
帰ってこないから次の王なんておかしい。
これは何か異変があったのだ。
日本書紀はそこのところを詳細に伝えている。
『日本書紀』応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、
羽田矢代宿禰は紀角宿禰・石川宿禰・木菟宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。
これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。
そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国した
こっちが正解w
百済なんて日本の傀儡www >>273
お前が苦しかろうが関係ない。
倭人の脱解を娘婿にする時点でお里が知れている。 >>265
急に短気になったね 説明できなくなったからかい?
>266の
文字「南解次々雄」を倭人が読むと「ナカツツノオ」となるが正解のようだね >>274
その件が書いてある通りだとする。
応神は辰王であるから辰王が百済王を殺させたということで不思議はない
「百済なんて日本の傀儡」というには先に倭の五王=辰王を否定しなくては説得力がない 先に辰王=倭の五王が論証されてないので全く意味がない スレ主は倭の五王=辰王を主張している
最初から読めば、まだ寸分も否定されていないことがわかる
その流れの中で突然>>274のように倭国は半島の下流ではない例を出しても
倭の五王=辰王が否定されないので主張を繰り返して一蹴したまでだ
>>274は誰も処理しない道端の犬の糞みたいなものであるが処理してやった え?最初から読んでも1ミリたりとも論証されてないぞ 最初から読み流れをつかめ むつかしければ>>264は一応の結論だ
それをふまえて反論しろ 論理の流れがわからないなんて人間として最低だ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 「俺の歴史的大発見を発表させろ!」地方の博物館に急増する“歴史的新発見おじさん”たち
https://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20180527/Cyzo_201805_post_163508.html
歴史ブームも、光あるところに影がある。
若い世代には歴史をテーマにしたあらゆる形態の作品が人気を博したり
『応仁の乱』や『観応の擾乱』といった、マニアックなジャンルの歴史書がベストセラーとなる昨今。
だが、人気の裏にはさまざまな問題もあった。
「突然やってきて、展示物などに持論を語った上で
『自分がやってきた研究成果を発表する機会をつくってほしい』
という人が、最近多いんですよね」
そう話すのは、近畿地方にある郷土資料館の職員だ。
すでに10年あまり資料館で働いているが、最近になり、
リタイアした団塊の世代による独自研究の「持ち込み」が増加しているという。
「ちゃんと、これまでの歴史を学んだ上で新たな視点を提示するような研究なら聞く価値があります。
でも、だいたいはトンデモ論。
原典になる史料や基本文献、学術論文をあたることもなく、
一般読者向けの軽めの本だけをたくさん読んで
『これまでにない発見をした』という人が多いんですよ」(同)
その「発見」の内容もさまざまだ。
長らく論争になっている、邪馬台国がどこにあったのかについて持論を述べる人もいれば、本能寺の変の真相を語る人もいる。
だが、もっとも多いのは、その地域に関わるものだ。
「どこの地域でも在野の郷土史家という人はいます。
でも、持ち込みをするようなタイプの人は、そうした人々にも拒否されています。
なにせ、地域の古い神社の由緒をもとにオカルトを論じたりとかするんです」(同) 朝鮮人が日本人との関係性を主張したい気持ちは理解できる
古代から近現代にかけ空気のような存在で貨幣経済ですら
日本統治時代までなく、文化的にも貧かったし今だに自然科学で
ノーベル賞すら取っていない。清国やロシア帝国に勝利し最後には
アメリカとすら戦った歴史を持つ日本が羨ましいのだろう。
でも遺伝子が否定しているのだ。日本人の優秀性は君らと共通する血ではないのだ。
科学や数学、免疫学にいたるまでの実績の差は否定できないではないか
君らに同情もするし憐れみも感じる、しかし事実を受け入れ諦めることも大事だ。
それが君らを苦しみから解放するだろう。日本に対する執着を棄てなさい。 「論証されていない」というより反論せよ それができないなら放置しておけ
君も素人の仮説にけちをつけるだけの素人じゃないか
同サイトの「扶余勇」はプロも唸る内容だよ そろそろ頭の病院に行け、どこの低脳なんだ、
『倭猿』というのは何なの?
やまたいスレによると、
倭人・・・朝鮮人だぞと言ってる人ばかりなんだけど
『やまとねこ』 詳しいことは、わからないけど、
当時、その他大勢のような人々がいたでしょ
そのような人々が日本人? これは他のスレにも書いていることなんだけど
お前のような人間は、
相手にされていないだろう
しょうがないから付き合うか(仕事など)とか、
その程度 旧唐書の劉仁軌の状によれば「扶余勇は倭国に渡った」 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>271
朝鮮にも日本語話せる人いるだろ
朝鮮の歴史書は日本や中国の史書も参考にして編纂してるんだから
そもそも南解次次雄の名乗りは当時の倭系新羅人が決めたんだから、
倭音で書いて不思議じゃないう。同時代の新羅人がそれをどう読んでいたかは別の話。 >そもそも南解次次雄の名乗りは当時の倭系新羅人が決めたんだから、<
当時の倭系新羅人とは編纂時の日本語がわかる新羅人という意味でしょうか?
そうすると神功のころの出来事(倭国にのりこまれた)をもとに
自国の創世記的人物を見繕ったということですか 自虐的な歴史ですね
もっといいアイデアはありませんか 六興出版の三国史記の解説に三国史記が引用した文献が書かれていますが
その中に日本書紀と古事記はないんです 朝鮮と中国の史書ばかりです >>304
三国史記は12世紀の成立で、当時は李朝から現在までのような小中華意識からくる上から目線ははないんじゃないの?
そしたら建国以降の倭の影響がでかすぎたんだろう
それでも初代は瓢公をもって倭血統を分離してみせたりと何かと手配してるじゃないか
そんな自虐はあり得ないというが、
4代脱解尼師今は倭国からやってきたと明記している
それは誰に強制された記述だというんだい? つまりさ、瓢公がいて、多婆那国があって、
日本側史書の記述があって、
その文脈上で解釈されて中筒男なわけよ
いきなり何もなしにそう解読してるわけじゃない >>306
基本ベースとはどこにもかかれていない
引用とはベースにしたという意味だろう >>309
日本書紀は百済三書のパクリだから、三国史記はそれを再利用してるのよ >>307
わたしから筒男のことを持ち出していません これで終わりです ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 扶余って川べりに住む皮革の民。
日本に来たとして、それは部落民。 >>281
>>274は誰も処理しない道端の犬の糞みたいなものであるが処理してやった
俺が道端の犬の糞みたいな>>274だが、全然反論になってない。
百濟人は日本に来たが被差別民。
信太山、藤井寺の林、津守などなど。 三国何やら?
嘘の話(後付け)だからなと言ってる人ばかりじゃない?
なぜだと思う 家の話と、お前の家(不明)の話?
なぜか合致していないんだよ・・・ 他のスレにも書いている事なんだけど
家は『松傾』?こういう名前の家 普通に考えたら外から来た人を王にはしないと思うけどね
それまで統治してた人も居るだろうし技術を渡して厚遇されてたってレベルじゃないの? アフリカのシャーマンの多くは村人と遺伝子が異なるそうだよ 村人と交際し続けたら混ざるはずだから近親婚してるだけじゃないの?
そもそも多いの比率がどの位なのか分からんけど
結局支配するには力が必要なことに変わりは無いと思うから余程の人数で来ないと無理だよね 逆にシャーマンの家計に村の外からの血を入れてる可能性も有るのかそっちの方が有りそうかな? キュウリのような葉、葱の華・・・・
などの写っている写真があるでしょ、
あれは『松傾』?の家の写真なんだけど
とあるスレに貼り付けた後だったかな?
「ホンモノだぞ」みたいなことを言ってる人がいたり ちなみに芸能人?とか、そういう家でもない、
寺院に通っていたとか 移民や難民の扱い見てれば今より余裕が無い時代ならどうなるか予想がつくよね これはアニメの話なんだけど、
ゴキブリが嫌いだと書いてあったりしない?
『何者にもなれない お前たち』画像をググってみて よく分からんけど自分は自分で十分じゃないの何に成りたいのか知らんけど それで、お前は何なんだ、
もうそろそろ頭の病院に行く時期だろう 頭の病院、刑務所に行くか、
自殺か・・・決めろと言っているんだよ 他のスレにも書いていることなんだけど
はやくしろと言っているのが、わからないのか? 意味不明だけど結局渡って来た人が王に成るのは無理があるってことに反論は無いってことね どこの池沼なんだ?
意味がわからないのなら、
書き込みなんてするな 『葱の華』画像などを調べてみた?
あの写真は『松傾』
こういう名前の家なんだけど 調べると出てくる、お神輿?
のようなものを担いだりする家でもないし、何だと思う ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 他国から来た人を他国の人が統治させたならありうるだろう キュウリについて調べていくと
日本では河童?
むかーしの中国では河伯と書いてあるし 天智天皇が扶余勇だと言いたいのでしょ。ここの>>1は。
でも無理。
継体・欽明以降の日本人最多ハプロである縄文系D1bがこの千年間でもっとも繁栄してる事から
皇室のDNAは縄文系であろう。
仮に弥生系O1b2であってもいいが、扶余系のCはありえない。
戦後、誰々は渡来系、というなんでも渡来系に結びつけようとする論説が左翼や在日の間から広まったが、
そういう妄説をDNAが一刀両断にしてくれた。 俺が子供のころ、大阪で「MBSナウ」というニュース番組があった。
古墳発掘のニュースで、被葬者は渡来系、被葬者は朝鮮系、これを連発してたものだから、
俺は子供心にも日本はかつて朝鮮からの渡来民に征服されたなどと思ってた。
ところが前方後円墳自体は日本発祥、逆に朝鮮南部に拡がる事が分かった。
「MBSナウ」とは正反対ではないか。
今思うに、MBSは在日どもから圧力を掛けられていたのであろう。
フリーアナウンサーの桑原 征平も若いころ、国の名前を嚙んだだけで、
朝鮮人団体から圧力をかけられてたことを発言してる。
とんでもない連中が日本でのさばっていた。
もうそろそろ脱却しよう。
良い時代が来たもんだ。 MBS(毎日放送)は今でも反日だよ。TBS系列だし。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 扶余は日本でも扶余と名乗っていたはず。
扶余豊璋など。 書紀には数名の百済佐平の名があり50余名の百済達卒が冠位を与えられている
書紀には中大兄皇子が百済貴族に朝鮮山城を築かしめたとでているが
百済貴族の大集団は百済王子の扶余勇に忠誠を立てている なぜならともに百済を去ったからだ
もし書紀のいうとおり中大兄皇子が朝鮮山城を築かしめたなら
その間扶余勇は何をしていたのかの疑問に書紀は答えなければならない
扶余勇は旧唐書にその名が記載される程の大人物である
大宰府の周囲51kmの羅城は中大兄皇子がいた明日香が何個も入るスケールである
スケールとデザインとも明日香の人間が作らせたとするより百済人自身が作ったと考えるほうが合理的である >>348
日本の王は苗字を持っているかどうかわからないが
明らかでないではないのと同じ理由を適用すればどうか? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 歴史書の陰謀論なんてオカルト
古墳時代から朝鮮は日本にとっくに抜かれてて日本を乗っ取るのは不可能 >>357
>日本には地名などの固有名詞に同じような名前が散在する(コマ(高句麗)、クダラ(百済)、シラギ(新羅)、カヤ(伽耶)などは国名そのものである)。これは、大陸から渡ってきた集団が、日本の各地に住み着き、祖国での名をつけたからである
全部和語だろうね。
百済はアケ王擁立に見られる様に5世紀初頭あたりから日本の傀儡国家。
その程度の国から来た王はその程度でしかない。
戦後、渡来人をやたら買い被る風潮があったが、それは事実に反する。
イマキノテヒトは百済から来た単なる工人。
その他、百済人が大阪あたりで被差別民になってるのは事実。 やはり予想通り天智天皇が扶余勇だと言いたかったのか、ここの>>1はwww
小林恵子だなんだ、そんな馬鹿なこと言ってたよね。
でもDNAで一刀両断にされましたw 他のスレにも書いていることなんだけど、
お前は、どこの国の人間なんだ? 天智天皇、中臣鎌足の渡来人説は最近出来た作り話ですか? 渡来人説は基本的にすべてトンデモです。
畿内説が、九州からやって来た王を認めたくないので、どこかよその国から来た王をでっち上げたのです。 2年ほど前から 日本にある朝鮮山城には迎撃用として立地がふさわしくないものがあり
説明に疑問を感じ 朝鮮人政治を仮定すると氷解する 浮いていたピースの扶余勇がはまった
中臣鎌足のことはまだ考えていないが渡来系ですか? 外国の史書からわかるかどうか 歴史学の方法論を無視した妄想の上に妄想が重ねられていく 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>365
その「方法論」は何かを解き明かしましたか?
その「方法論」が信頼されていないのでは?
日本の古代史を空白にして、名無しの首長と名無しの墳墓だけが積み重なっていく。
それは歴史とは呼べないですね。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 急に仏教仏教言い出した時点で「あー」ってわかるじゃん >>361
日本人だからこそ日本の歴史を知りたいんだろ?たとえ天皇が百済人だったとしても真実は真実だろ
感情論で真実から逃げちゃダメだよ >>364
わかるが
じゃあ中国の歴史書に「当時は百済王家が倭王を兼ねていた」となぜ書かなかったのか?という疑問は残る
それが事実だとして、日本書紀にはそれを隠蔽する理由があるが、
中国の歴史書が日本に気を遣う理由はない >>274
5世紀は倭王は朝鮮半島の統治を中国皇帝からも認められてた
その後倭は朝鮮半島南部の権力と領地を徐々に喪失していったんだろ >>69
それは倭王武の上表文と矛盾する
倭の五王は、海を北に渡ってそこを制覇した
南に、ではなく >>375
どの段階から天皇が実在したか分らないレベルだから資料分析とか不可能じゃないかな
この段階から実在したって証拠見たこと無いんだけど専門家でも意見が割れてるんでしょ 百済王家と天皇家が同祖だとしても、百済人が倭国を建てたということではない。
また、百済王は扶余であり、朝鮮民族ではない。 >じゃあ中国の歴史書に「当時は百済王家が倭王を兼ねていた」となぜ書かなかったのか?という疑問は残る<
https://sites.google.com/view/jhistory/ の扶余勇の項の主張は
白村江敗戦で倭国に渡った扶余勇が政権を認められたとのみ書いているから
「当時は百済王家が倭王を兼ねていた」はこの板では新説となるが倭国王の誰が百済の誰に当たるのか?
上記サイトは根拠なく孝徳についても百済人説を採っているが >>383
誰にも当たらないが一番可能性高いでしょそのHP根拠の部分想像で埋めてるし
仮に百済と倭国が同等の力を持っていた場合百済で負けた王が倭国で政権立てるとか不可能でしょ
そしてそれが出来たなら名前を隠す必要が無いから資料にそう書いて有る可能性高いし >>383
どっちでもいいんだけど
倭王の王位継承がゴタゴタして、倭人以外が倭王になったのなら、
それは特異事項なのだから、特異事項があれは歴史書に当然書くじゃん >>381
いや古墳でわかるじゃん大王がいたことは
その河内の大王の墓から韓系土器が出てくるわけだから、
どこの影響下の勢力かわかるでしょ
6世紀の朝鮮半島南部に前方後円墳が作られたのと同じだよ
6世紀の半島南部の前方後円墳をもって、「日本の勢力下だった」とするなら
5世紀の河内の大王墓の韓系土器をもって「韓系の国の影響下または移民勢力の大王だった」と言わなければならない 片側だけを言うのはフェアじゃないし、事実を歪めてるよ >>386
土器にしろ古墳にしろ「お、あれいいじゃん家でも真似しよう」なだけの可能性も有るんですが
可能性を2択に絞るのはおかしくない?お宅の古墳(土器)イイね作り方教えてよで済んじゃうのに 「当時は百済王家が倭王を兼ねていた」はないとおもう
扶余豊や善光や翹岐が倭国に逗留していた立場の疑問はのこる
>仮に百済と倭国が同等の力を持っていた場合百済で負けた王が倭国で政権立てるとか不可能でしょ
そしてそれが出来たなら名前を隠す必要が無いから資料にそう書いて有る可能性高いし<
倭国は敗戦状態だった 中国史書は一国をならしめた王の出自には介入しないのでは? >>388
当時は人海戦術がたよりの部族社会だから技術だけのまねはできない
技術移転にはかならず部族の移動がある >>386
>6世紀の半島南部の前方後円墳をもって、「日本の勢力下だった」とするなら
>5世紀の河内の大王墓の韓系土器をもって「韓系の国の影響下または移民勢力の大王だった」と言わなければならない
一理ある。 >>389
どっちかって言うと日本側の書物に残ってないのが変じゃないってことまあ負けた歴史を残したくないって言われたらそれまでだけど、
それ言ったら倭国に来て政権を取ったってこと事態の根拠がほぼ無いしね
それと倭国も負けてるけど本土を失ってる百済に比べたらその時点なら遥かに強いはずだよね?外征に全戦力は割かないだろうし
仮に倭国で政権立てるとしたら倭国に残った戦力<百済からの難民の戦力じゃないと成り立たないと思うんだけど >>391
いや所詮技術だから真似できるでしょ出来なかったらずっと同じことしてるんだから
当時の人間が頭悪かったって仮定するのは早計すぎない? 最古の方形周溝墓が唐津に会って
方形周溝墓も日本中に広まってるが
だからといって唐津が日本全体を
支配下に入れたはずもないからね。 技術を持った連中が移住してくるのと
そいつらが支配者になるかどうかは別の問題
飛躍がありすぎる そういうことだねあらゆる可能性はあるけど確定と言うには証拠が足らないのが現状
可能性は否定しないけど確定だって言われると否定せざる負えない
お互いに相手の意見を全否定しないである程度認め合うのが建設的だと思う >>396
個人では行動できない 集団で行動している 集団は招聘されて移動する
支配しているものが外国から招聘する 招聘されたものがすぐに支配者にはなりえない >>393
https://sites.google.com/view/jhistory/ の扶余勇の項を読んだら疑問は解けている
>どっちかって言うと日本側の書物に残ってないのが変じゃないってことまあ負けた歴史を残したくないって言われたらそれまでだけど、
それ言ったら倭国に来て政権を取ったってこと事態の根拠がほぼ無いしね <
唐の管轄化にあって唐が認めた
>それと倭国も負けてるけど本土を失ってる百済に比べたらその時点なら遥かに強いはずだよね?外征に全戦力は割かないだろうし
仮に倭国で政権立てるとしたら倭国に残った戦力<百済からの難民の戦力じゃないと成り立たないと思うんだけど<
倭国は扶余勇と戦う理由がない >>395
極論を言えば、最初の倭王政権は唐津に誕生した。 >>400
部族社会では構成員は黙々と部族長の言うことを聞いて従わねば死が待っている >>402
どうして自分の意見を極論といわねばならないのか? ヤマト王権下の職能集団なんぞいくらでもいるだろ
それで一々支配関係とかアホか 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>401 >>403
俺は昔の人間もそんなに馬鹿じゃないと思うから自国内に別政権とか認めないと思うし
部族長が気に入らなかったら下克上すると思うよHPは根拠の部分が「ことである」「であろう」としか書いて無いから説得力ないし
可能性としては否定しないけど逆に言ったら普通に真似しただけで日本に渡って普通に暮らしただけって言う可能性も有るって言っとく そもそも海外派遣軍が一回敗北したくらいでビビって降伏するくらいなら始めから戦ってねーよ 百済と新羅「天皇にいぬ🐶になって日本を守護します」 >>408
陸上でも負けた。
海軍国であった倭国にとって、海軍の壊滅は致命的。
王都は海に面した博多湾沿岸だったからね。 九州説は古代史の濡れ落ち葉です 許してやってください >>408
>そもそも海外派遣軍が一回敗北したくらいでビビって降伏するくらいなら始めから戦ってねーよ<
同意する けれども倭国王(書紀では存在が伏せられている)が封禅の儀に参列を約束した事実から降伏したと判断している
@百済が潰れているにもかかわらず大軍を送った
A一回負けたくらいで降伏した
B扶余勇の乗り込みを許した
などこの倭国王は弱すぎて百済の臣下みたいにみえる
耽羅の王は百済の佐平になっていたが まさか倭国王も百済の臣下?はないだろうな
>>407
誰も外国人の支配など認めはしないし そのようなことがあれば大戦争が起こる筈 でも無かった
HPでは倭国が唐の管理下にあるので政権の選択権は戦勝国にあるとしたが
408に対する答えのような状況にあっても扶余勇の乗り込みは許される
孝徳百済人説とともに当時倭国は百済支配下にあった? これが意外な真実? >>412
政権の選択権は唐にあった、というほうが自然だとは思うが、
だとすると、その事項が新旧の唐書になぜ書いてないのか、という話になる
唐が倭を占領、属国下に置いて、倭王の選定までしていたのなら、そんな重大な事績は歴史書に残すはずなんじゃないか 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 俺はもう飽きたから皆で妄想に付き合ってあげて
>>412 >>414
倭国軍が壊滅してるなら百済軍も壊滅してるだうし難民文官交じりの2000人で支配できるわけないでしょ >>413
少なくとも倭王は廃したようだけど、後継者に据えたはずの天智天皇がなくなって、壬申の乱まで起きたので、倭国内の勝手に任せてみた、みたいなところじゃないの? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>413
旧唐書もだいぶ後に書かれているからその後の帰趨をみて記録の取捨選択したのではないか
短命に終わった政権の詳細を詳しく書いても仕方がないよね >>416
これを黙って認めたら書紀の血縁による連結は嘘だと認めることになるんだよ
中大兄も嘘っぱちだよ それでもいいんだな いちおう、中大兄も天皇家の血縁ではあるのだろう。
しかし大海人と年齢が合わないなど、明らかに改竄の痕跡がある。
白村江から壬申の乱にかけては、かなりの混乱と情報撹乱があったと思われる。 中大兄と大海人の年齢があわないとかまだいってる情弱がいたんだwww >>419
百済からおん出された扶余隆のことはきっちり書いてるだろ >>422
扶余勇のころにはスメラミコトも天皇もまだない
中大兄がスメラミコトになったのは書紀上のこと
HPの孝徳のところでも言ったが書紀の中大兄は人格が一定でない >>424
彼は唐の完全な子会社の頭取だが実際は任地に赴任していない
唐の都で任を全うした 百済王の太子と王子の違いがあるわな >>426
…百済に入れなかったのは隆の孫の扶余敬だよ
扶余隆は熊津に入ってるが新羅の圧迫で逃げ出してる 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 孝徳百済人説は書紀の著者の書き方からの直感だがHPでも書いたように
重祚した皇極の行動に一貫性が見られず重祚は創作の可能性が高い
そのあたりは実にごちゃごちゃし称制まで飛び出す有様
実際は孝徳の後は孝徳の王子が倭国王となり百済崩壊に出会い、従兄弟の豊勇を援助した
と考えれば、>>412での>>408に対する答えを補完する そもそも新羅の援軍要請に応えたのって
これを奇貨として百済を滅ぼしてしぶとい高句麗を孤立させるためで
倭国は史料通り放っておくのが一番妥当な扱いな訳だが 唐の目標は高句麗で倭国をそれほど脅威に感じていなかったが、
勇を温存させてしまったから、「余勇在南」で警戒を怠れなかった 国際関係とか言いながらそんな分析はできないから、
真っ当に指摘しても無駄骨になるぞ >>432
この妄想は遺跡や外国の文字史料と整合性をとっている
「聖なるものは名を記さず」とNHKで断言した学者もいたらしい(=古墳の主は明らかにさせない?)
「もうそろそろ、天智称制はいいのではないか」と改竄を口にする歴史家もいる
日本の史料は屈折している可能性が高いので注意が必要 全然整合性なんてないが?
妄想に合わせて学者が誰も言ってないような解釈をしてるだけ >>386
>6世紀の半島南部の前方後円墳をもって、「日本の勢力下だった」とするなら
>5世紀の河内の大王墓の韓系土器をもって「韓系の国の影響下または移民勢力の大王だった」と言わなければならない
こいつアホか。
わしは今、英国発祥のポロシャツに米国発祥のジーンズをはいて、
米国のDELLのPCを使ってるが葬式は大阪の一心寺になる予定。
日本の金持ちがベンツに乗っているからと言って日本がドイツに支配されたわけではない。
こんなアホまだいたのか。 >>441
じゃあ前方後円墳の全国展開をもって「ヤマト朝廷の全国支配」を語るのもダメと言うことだな アホらしい韓式土器の入ってる王墓自体は「韓式」じゃないだろ 「法の上に『国民感情法』がある」といわれる韓国を彷彿とさせるぜ
さすがに血筋は争えないじゃないか 笑ろうたぜ ヘイト野郎 >>442
>じゃあ前方後円墳の全国展開をもって「ヤマト朝廷の全国支配」を語るのもダメと言うことだな
意味が分からない。
墓制というのはその人間のアイデンテティが最も発露するもの。
もちろん太古から終始一貫続いてきた訳でなく
仏教が入ってきたりして変遷はあったけれども基本的には変らない。
一方、副葬品などは舶載品と言って昔から海の向こうのものをありがたがる傾向があったりする。
今もブランド品が大好きなオバハンが葬式は欧米スタイルではやらないだろ。
それと同じ。
おまえは土器と墓制を同列に扱ってる時点でアホなんだよ。 日本書紀こそ捏造の可能性が高い
書紀の直近の聖徳太子の存在すらいまだに議論している
書紀の何が遺跡遺物文字資料(墓誌など)と照らし合わせて史実として確定したのか
文字史料がでないのは書紀の神秘性を守るのに成功している 紀でも元々任那が(ミヤケを含めて)直轄領であるという書き方はされていない
栄山江流域の前方後円墳の被葬者には諸説あるが
共通するのは百済が当該地域を併合する上で倭王権の影響力を利用しているという見方 >>446
>墓制というのはその人間のアイデンテティが最も発露するもの。
個人の主観です。 >>446
>一方、副葬品などは舶載品と言って昔から海の向こうのものをありがたがる傾向があったりする。
九州北部の王墓は、歴代ずっと三種の神器を副葬されている。 >墓制というのはその人間のアイデンテティが最も発露するもの<
全国展開された前方後円墳時代は身分関係が全国的に確立され
身分に応じて墳墓の大きさ副葬品が規定されたとみられている
この時期に「その人間のアイデンテティ」の考え方は夢想 >>446
仏教式の墓制に変わった瞬間からインドの属国だったんだな日本は 日本は東征、北魏は南征して移動。
ご主人様が地元にいなくなって暴れたカスが元配下の百済、新羅と柔然プッ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>449
>個人の主観です。
いやいやこれは古代史の常識。
今でもクリスマスを祝い、ブランド品が好きな日本人でも、
葬式まで西洋スタイルではしないだろ?
葬送儀礼だけは別。
この感覚は昔から変わらない。 >>452
>全国展開された前方後円墳時代は身分関係が全国的に確立され
身分に応じて墳墓の大きさ副葬品が規定されたとみられている
この時期に「その人間のアイデンテティ」の考え方は夢想 <
前方後円墳というスタイルが日本独自の王族及びその配下の人間の墓の型式という話なので
君の話は見事にズレている。 >>443
王墓から韓式土器? どの王墓?
韓式土器が出てくるのは群集墓からだよ〜ん
知ったかぶりは逝ってよし そろそろ頭の病院に行け、
河伯(日本では河童?)のほうが、むかーしから存在しているし、
日本に住んでいるんだけど ちなみに、
あのキュウリ・・・などの写っている写真なんだけど
『松傾』
このような名前 あと謎の311?人工地震を起こされて
お前はデスラーか!頭おかしくなるわ!!
と言っていた人はどうしたの?死んだの? 陰謀スレというのがあるんだけど、
そのスレを読んでいたとき
生きてたのか!
本当にそう、もう私ではない、だっつーの、そういう事なんだっつーの!
(神さまの)真似なんてしているから、こんな事になってしまった
・・・・・・・・・・・・このような事を書いている人がいたりw >>412
「仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長(旧唐書劉仁軌伝)」とあるが
新唐書百済伝に「定方執義慈、隆及小王孝演、『酋長』五十八人送京師」
とありこの部分は旧唐書では「偽將五十八人等送于京師」となっている。
また新唐書百済伝には「熊津、馬韓、東明、金漣、コ安五都督府 擢酋渠長治之」と「酋長」よりも偉い豪族・貴族であろう「酋渠長」の語も見える。
酋長=偽将であり、また百済の5区分して納めさせている「酋渠長」程の存在でもない(なお百済の五方の長官は2等官である達率)考えられるので
連れてきたのが劉仁軌であることから酋長は精々捕虜になった倭の武将程度であろう 頭の良い人は知っているんだけどw
本当の半島の人々(日本語も話せない)と、
日本から百済というところに渡り、一時的に住んでいた人々と・・・系統が違う もれ(仮)が、中国や半島に行き、
そこで子供が生まれたとしよう
子供は、
そこの人(生まれ?)となるだろう そういう人物がいたでしょ
百済の人と書いてあるんだけど、
実際は日本人で、百済に帰化し、また日本に帰ってきたみたいな人
500年代頃の人物? 三國志厨なんだろうwと言ってる人がいたり
そこしか知らない とある辞典によると『百済』〜『蝦夷』だと書いてあるし、
そこの・・・というのが『松傾』?
そのようなことが書いてあったり、何なんだろう >>466
仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會、高宗甚スは麟コ二年 封禅は乾封元年で翌年
連れて行ったのではない いく事が決まっただけ 仁軌領は仁軌の管理下程度の意味
おまえさん長い間やってるようだがもうやめたほうがいい 書紀は金春秋を人質というが金春秋は客人だ 書紀は蔑視が趣味のようだ
扶余豊も人質と呼ばれているから扶余豊は客人なのだ
蔑視が趣味の書紀がおなじ外国人の翹岐には下にも置かぬ客人扱いなのだ
なぜ彼を蔑視しない?それは書紀の立場上許されないからだろう
翹岐はスメラミコトに認定された人物だからと思う
https://sites.google.com/view/jhistory/ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 河内は百済の属国だった
だから河内には百済の王子が「現地を支配するために」派遣されていた
それを日本人はプライドを守るために「人質」と書いた
これが真相だろ 根拠はDNAだよ
当時の河内に住む過半数は百済人だった 当時ってのはいつ?
なんで半数なんて割合が出せる? >>474
酋長についての話なんだがそこケチつけられてもなあ
これも新唐書の該当部分だと「及封泰山、仁軌乃率新羅、百濟、儋羅、倭四國酋長赴會」
「管理下程度」なんて解釈してるのあんたぐらいだろう
大体封禅は乾封元年の正月にやるんだからその前に到着してないといけないし へえ領を連れて行くって訳してるの?
どうしても新唐書に持っていくのだね 新唐書は信頼していない
酋長が武将程度だとしても倭国は降伏した事実は変わらないんだろう? ガンダムでも観ていたほうが良いんじゃないのか?
現実もサングラス(の台詞)と同じような話だから 封禅の儀に出席する捕虜を連れて行ったら皇帝が喜んだって?
捕虜を参列させての封禅の儀はないだろう 権威がなくなるじゃないか どこの皇帝なんだ?
それと、いつの話をしているんだ? 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>479
史書は遺物により検証されなければならない
夏王朝の洪水伝説は宇宙からの写真によって裏付けられつつある
書紀の何が検証され史実化したのだ
古墳があるにもかかわらず直近の聖徳太子すら実在が揺れ動いている
古墳の封鎖は書紀の神秘化に成功している
そのような状態で書紀を研究しても妄想と変わりないと思われる >>466
旧唐書では「定方・・虜義慈・・・偽將五十八人等送于京師」となっている
偽將五十八人等のなかに佐平禰軍も入っていることは知っているだろう
旧唐書では「立酋渠為都督、刺史及県令」となっており酋渠長という言葉はない
>「酋長」よりも偉い豪族・貴族であろう「酋渠長」の語も見える<
はしたがって根拠のない階級付けである
酋渠はその地方を治めていた人物のことであろう
>酋長=偽将であり、また百済の5区分して納めさせている「酋渠長」程の存在でもない
(なお百済の五方の長官は2等官である達率)考えられるので
連れてきたのが劉仁軌であることから酋長は精々捕虜になった倭の武将程度であろう<
偽将の中には佐平もはいっており「酋渠長」程の存在でもないという主張は間違っている
酋長は精々捕虜になった倭の武将程度であろうとの推測はまったくの曲解である >>491
>史書は遺物により検証されなければならない
早く検証してよ
>古墳があるにもかかわらず直近の聖徳太子すら実在が揺れ動いている
持ち前の思い込み力でおもっいきり誤解してるとみた 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析によると、ちょうど朝鮮人とオロチ、ギリヤーク(ニヴフ)の
中間あたりの位置を示す。
オロチ、ギリヤーク(ニヴフ)の分布位置と朝鮮半島のちょうど中間あたりはウデヘ、ナナイの
住む沿海州南部あたりで、これは弥生開始土器の示す沿海州南部と整合している。
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/1-thumb.jpg
http://f.hatena.ne.jp/nyankosensee/20110813183224 >>493
>早く検証してよ<
書紀のことと思うが
https://sites.google.com/view/jhistory/ の聖徳太子の項で書紀を検証してる
現存する法隆寺釈迦三尊像光背は書紀およびその他の文字資料からは説明できない
書紀およびその他の文字資料は改竄されている
>持ち前の思い込み力でおもっいきり誤解してるとみた<
上記サイトの聖徳太子の項は持ち前の解析力でおもいっきり古代史学を挑発している
この件について反論があればどうぞ >>492
旧唐書の「立酋渠為都督、刺史及県令」の部分は
新唐書で「五都督府、擢酋渠長治之」となっており、
このあたりの新唐書と旧唐書の内容に矛盾がある訳ではなく言及している範囲が違うだけ
渠も長もかしらの意味で、そもそも固有の官職でもないので酋渠と酋長が全く別物ですとはならない
旧唐書の高句麗伝では敗北した高句麗将兵について「太宗簡傉薩以下酋長三千五百人,授以戎秩,遷之內地」(なお傉薩については「大城置傉薩一,比都督」とある)と
「傉薩以下の3500人」について酋長としている。 途中送信してしまった
で当然偽将なら佐平とはならないし、酋長だったら高官とはならない
国王はかすりもしない >>497
私年号の研究書でも読んだら?
あんな低レベルで挑発とか解析力とか、どんだけ現実が見えてないんだ?
一度、家族に相談した方がいいぞ、まじで >>497 >>498
旧唐書には69条で酋長がヒットします
全部を見ていませんが、高句麗の例でもわかるように酋長という位はありません
XX酋長といえばXXのなかの長という意味だと考えられます
「国王はかすりもしない」とのことですが、唐の軍門に下った国の国王は
もはや王ではなく、その地域の長にすぎないので酋長と呼んでいるようです
いい例が李光弼は武将ですが父が李楷洛といって契丹出身で玄宗のときの活躍で営州都督となっていますが
李光弼の父を旧唐書では其先契丹之酋長父楷洛として紹介されています
このみかたから「倭国酋長」は「属国となった倭国の元王」と読み取れます
どうでしょう? >>431
一貫性のない行動なんて歴史上の人物にも現代の人間にもあるし
人間は一貫性のある行動ばかりするわけじゃないだろ
単にその時の皇極の精神状態が安定してなかったんじゃね 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 軍門に下った国の長を歴史書で国王とは呼べない 酋長は適語です
大酋長という言い方もありましたから69条の中から王の例を探してくださいな 軍門に下った根拠が封禅の記事じゃ循環論法だし
新羅王の王号も剥奪しちまってるじゃねーか ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 新羅をふくめ4国の4長をひとつの言葉で表すなら酋長が適語 封禅に出席=降伏
降伏したからもはや国王とは呼べない
したがって酋長 循環していない 旧唐書の酋長は蛮夷の長を指している
蛮夷がまだ中国の組織体系に入っていない場合は
契丹8部族のように遊牧民の組織は中国とはちがうし、国という概念もない
その地域の称号をつければ中国史書が乱れるので
長であればなんでも酋長っていうんだろう >>466はあっちこっちから都合に合わせて引っ張り出して
>酋長=偽将であり、また百済の5区分して納めさせている「酋渠長」程の存在でもない<
などと言ったが>>509を読めば恥ずかしいだろう
オイラを大御所と呼べ >>501
人を何人も計画的に殺した
難波からみんなを引き連れて去った
王でもないのに他国の王位を授けたり
筑紫に朝鮮山城を築いたかと思うと近江へ遷都したり
というレベルの話なんだ 精神状態の話ではない
精神状態に一貫性がないのは多重人格障害の君なんかが典型的だと思う >>509
だから単に酋長って書いたらそこらの雑多な長で
身分を説明する程度の人間じゃないってだけじゃん
倭国王が委細を述べる程度の人間じゃないと思うなら後はご自由に >>512
XX酋長は蛮夷のXXの長というはっきりした意味になる
XXの雑多な酋長の意味ではない
中国語または旧唐書の読解力の問題だ
512が「雑多な長」にこだわるのは、倭国王では都合が悪いからだ
先入観で史書を読むべきでない 悪い癖だ 先入観なしに「新羅及百濟耽羅倭四國酋長」は四國の酋長計4人と読めますね
「その他酋長」ならどう書きますかね、
「酋長等自新羅及百濟耽羅倭四國」ぐらいですか?
こう書けば人数もぼけてきますし酋長の種類もはっきりしなくなりますよね
皇帝が喜んだのだから四國のトップ以外には考えられないがなぁ
その他酋長を皇帝が喜んだというのでは皇帝の権威にかかわると思うのだ
封禅の儀だからね でも王とは書いてないなぁ
封禅の儀で皇帝の威と徳を知らしめようとするならば
元王でそれを皇帝が教化したと直接書いた方が効果的 それよりも河童(河伯?)というのは何なの、
老婆談と、ほとんど合致しているんだけど
橋が架かった、
完成したので来てください
という招待状が届いたことがあったとか 『日本昔話 天狗の羽うちわ』
これと同じような話、
むかーし福島県の山の上のほうに
住んでいた事があるんだよと言っていたり ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>515
旧唐書は蛮夷がまだ唐の支配下にない場合その長を酋長と書いている
蛮夷には国でなく族もあるから酋長というのだろう
この場合、四国とかいてあるから国王ともかけるわけだが
国王とかくと唐と対等感が出てくるのを嫌ったのではないか
>封禅の儀で皇帝の威と徳を知らしめようとするならば
元王でそれを皇帝が教化したと直接書いた方が効果的<
四国酋長で十分言い表せていると思いますよ >>478
>河内は百済の属国だった<
隋書の「以倭為大国」があるのですがこれとの関係は? 中国は遠国の日本の事なんて100%理解してないのにアフォだね >>522
「A以B為C」は役職を与えるときなどにつかわれる
隋書「新羅百濟皆以倭為大國」=「新羅も百濟も倭を大国としてあつかっている」(珠を求めるために)
倭は政治的軍事的大国ではなかった(6世紀ー7世紀)>>478は真実?
>中国は遠国の日本の事なんて100%理解してない<
よく観察しているように思うが 中国の日本見聞力は聞きかじったマルコポーロの黄金の国ジパングレベルだろ
邪馬台国の位置めちゃくちゃぶりや梁代倭人図の黒人を見れば一目瞭然w 中国史書に限らず地図など測量するまでいい加減なもの
倭国が政治的にしっかりしていた印象は書紀によるが現実は正反対かも知れない
>>1の百済云々が真実性を帯びてくる 梁職貢図の黒ンボ倭人が正確だと思ってんのw天皇の代数や名前もめちゃくちゃw
大陸王朝が海を越えて日本を直接支配したことないから無理w >>474
問題は「酋長」とは、国王か否か、でしょ
百済や新羅は「酋長」として誰が行ったのかわからないの?
百済や新羅が酋長として国王みずから行ったのなら、倭も国王が行ったと想像できるし、
百済や新羅が国王以外の有力者や王子を出したのなら、倭もそうだろう >>521
あくまで河内は、な
香港がイギリスの植民地だったようなもん >>529
皇帝が喜んだのは国王が行くからよ
実際誰が出席しようが国王は出席する意思をみせた
横並び発想で誤魔化そうとするのはよくないね >>530
大和はちがうようだな
香港のようになったいきさつは倭の五王に関係? >>523
隋書のはあくまで「倭国の使者が
そう言っていた」……ってだけの話なんで
事実かどうかは、また別の話 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 話なども、すり替えたり、
自分の都合の良いように改変しようとしたり、
繋げたり・・・そういうのがいるとか
とある時代になり、
そういうことをしたのがいる
わかりやすく言うと、
ほとんど『松傾』の家の話なんだよ 大和には倭王旨系(物部系)の国があったんだろ
河内は倭の五王系
両方滅びて継体系が立ち、
継体系も滅びて前方後円墳体制が終わった
その後は八角噴の天智系 >>541
>大和には倭王旨系(物部系)の国があったんだろ <
物部は大和か? 大阪北部は物部の支配というが
>河内は倭の五王系<
そうだと思う
>両方滅びて継体系が立ち<
倭の五王系は滅んだ?継体は河内に進出していない とみている
>継体系も滅びて前方後円墳体制が終わった
その後は八角噴の天智系<
扶余勇からネ 天武も八角 天武は勇の従兄弟だから(https://sites.google.com/view/jhistory/の扶余勇と孝徳参照) >>541
大和の纒向も物部だろ。
なんだ、畿内政権は物部政権だったんだ。 物部守屋が蘇我馬子に殺されてから前方後円墳が作られなくなったからな
天皇でいえば
敏達天皇(前方後円墳)→用明天皇(方墳)
敏達天皇の死後、物部守屋が殺され、その後の用明天皇は前方後円墳じゃなくなってる 仏教導入以降
古墳でなく寺を建てるようになったからね 古墳の主や時期は証拠はあるの?
文字資料を出さないから決まらないだろう 時期は埴輪や須恵器、副葬品の編年で決まる
天皇陵は文献の記載と考古学的な年代観をすりあわせて考えられている >>544
そもそも敏達天皇の墓ではなく、物部一族の誰かの墓なのでは?
大きいからという理由で天皇に割り振っただけで。
それとも敏達天皇も物部氏の家系だっけ? >>545
仏教を反対していた物部氏を排斥したからだろ。
順序が逆? 仏教導入が稲目を意味するなら時代が合わんけど。
古墳を排して氏寺を推進したのは馬子だよ。 >>547
文献の記載を信用? 推定の域を出ないね
王墓級からは被葬者がわかる文字は絶対出ないだろう 国を保てなくなり頼むから併合してやったのに、
恩を仇で返すバカチョン民族。
従軍慰安婦問題?
そんな問題はない!
親が金に困り娘を売った。
娘は知らなかった。
それだけだ。
恨むならチョンなんかに生まれた運命を恨め。
恩を仇で返すバカチョン民族。
世界の三大嫌われ民族
チョン公
ユダ公
露助
東洋のユダ公=チョン公。
在日、巣へ帰れ、失せろ、消えろ。
在日は、羞恥心がないから、日本人の蔑む仕事をやる。
そういう仕事は、金になる。
アイデンティティがないから、金しか頼るものがない。
白丁←検索のこと。 蘇我は葛城出自を自称している。
葛城は室宮山古墳のように前方後円墳が出来た時期もあったが短期間で消える。
鴨都波墳墓のように基本は方墳。
蘇我が外威になって以降、天皇墳gs方墳になってるのは面白い。 天皇家なんて、主体的な立場ではなかったのだな。
墓制からは、物部や蘇我に従属する立場だった。
7世紀以降のでっち上げなのかもね。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 中韓の捏造データを信じ込む日本人は昔から変わってない >>556
>中韓の捏造データ<
百済あたりから王族がわたってきたとするこのスレではどんな捏造データを信じてますか? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 結局 酋長=倭国王ということでよろしかったでしょうか? >>560のつづき
ところが、この時期、称制で国王はいないのです
倭国王とは誰のことでしょう >>562
酋長=倭国王について反論がとまりましたので同意されたのかと
反論を続けてくれないと同意されたと思うじゃないですか 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 酋長=倭国王ですが、書紀は称制ですので、旧唐書と不整合です
書紀は嘘かというとそうでもありません
書紀は敗北した倭国の記述を一旦止め、新たに登場した扶余勇政権を倭国の歴史としたのです
https://sites.google.com/view/jhistory を読んで反論してください 扶余勇説は嫌韓者を刺激するだろうが反論がない 負かされるのが怖いんだろう
やはり扶余勇説は事実なんだろう あのサイトは史料を使って筋書きを作ってある
あのサイトのどの部分でもいいから史料を使ってここが違うといえば反論になる
しかしいままですべての反論は撃破されている
いくらでも反論を受け付けますよ どうぞ つまみ食いと珍解釈で物語を作ってもそれは学問じゃない
古田系はそういう基礎を理解できてないからまともな議論ができない 古田と一緒にしてもらいたくない まったくのオリジナルだ
学問を自認するならどこが珍解釈か学問の観点から具体的に指摘してほしい 珍解釈
・倭の五王が辰王家の出だとの主張
学問的理由
・いずれの史料にもそのような記載はない
・考古資料でもその主張を裏付けることができない
・これまでにそのような主張をしたまともな研究者はいない 自分の馬鹿さをすべて周囲のせいにできるんだから
傲慢系既知害はある意味最強なんだよなぁ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >いずれの史料にもそのような記載はない <
資料をつなぎ合わせて補完することはできる
>考古資料でもその主張を裏付けることができない <
国立歴史民俗博物館研究報告第110集2004年2月「倭と伽耶の鉄」のなかで裏付けられている
>これまでにそのような主張をしたまともな研究者はいない<
他の研究者が主張していないのが理由なら学問が進む道はない
ここの説を古田と同一視した時点で君は研究的思考ができないことがわかった 先学の業績をチェリーピックしておきながら
都合が悪くなると先学を全否定する頭の悪さは
トンデモさんによく見られることだよね >>576
歴博の報告のどこにもそんなことは書かれていない
自分の都合によいように勝手に脳内変換しているだけ 部品を交換するだけで別の武器になりうる
半島と分業していた可能性まで指摘されていますが・・・
読んでないんじゃないの? >>576
どんな学問も研究史を理解することがスタートなんだよ
それを理解できてない時点で研究的思考以前だということ >>576
自分勝手に解釈することを史料をつなぎあわせるとはいわない >>576
歴史民俗博物館研究報告のどこに書いてあるの?
該当箇所を引用してみてよ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 分業の可能性がなんで倭王が辰王になるのかいな?
ガイキチの脳内構造はマジで理解不能 いやいや、しっかりした史料は国際間でジグゾーパズルのようにつながりますよ
それをするのが歴史家でしょう
一国内だけで完結させ他国からは影響を受けただけなんてほうが非現実的ですよ
その点歴博資料はよくできていましたよ >>588
やっと国際分業を認めたね
倭の五王はなぜそんなことができたのですか
その資料には争いの跡がないとまで書いてありますよ
つまり侵略したのではないのです もともとの支配者だからです
じゃ、誰なのですか? よく読みましたか? 妄想にはじまり
妄想を積み上げ
気に入らない現実を
攻撃し始める
すべては思い上がり >>595
都督は実際に支配しているんですよ 争いなくどうして都督になっているのですか
具体的にお答えください 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 辰王は論理的帰結なんです それ以外ありえないのです >>590
加耶諸国が倭に鉄素材を供給する換わりに
倭から軍事増援に期待していたなんて
それこそ30年前から文献・考古の双方で
指摘されてたけど何か? 結局、歴博報告のどこにも倭王が辰王の後裔であるとは書かれていない
勝手に脳内変換していただけだということが明らかになったなww 数ある可能性の、しかもかなり確率の低い主張をしてるのに
それしかないとか言っちゃってる時点で客観的な判断ができてないよね 考古学では日韓関係の研究がドンドン進んでる
百済や任那だけじゃなく新羅とも関係が深いらしいよ 加羅諸国だって時期によって盛衰があって
それと倭や新羅との関わりが研究されてる
倭が加羅を支配?
ないないw >結局、歴博報告のどこにも倭王が辰王の後裔であるとは書かれていない<
書かれていればこのサイトで主張する意味がない
歴史のパズルを解いている
五王が辰王の後裔であるとの説を拒否するならどのような経緯で
都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓を得ることができたのかを述べてもらわねばならない
>百済や任那だけじゃなく新羅とも関係が深いらしいよ<
辰王説では当然のことである
>倭が加羅を支配?ないないw<
宋書の都督の範囲を嘘だとでもいうのかい? >>608
喚いても仕方ない。
現物があるのだから。 >>576
>他の研究者が主張していないのが理由なら学問が進む道はない
中身はよう知らんが、これは良い言葉だ。
キナイコシのアホに100回聞かせてやりたいね。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>565に戻って再開します
酋長=倭国王ですが、書紀は称制ですので、旧唐書と不整合です
書紀は嘘かというとそうでもありません
書紀は敗北した倭国の記述を一旦止め、新たに登場した扶余勇政権を倭国の歴史としたのです
https://sites.google.com/view/jhistory を読んで反論してください 昔からあった話じゃない。チョンの歴史小説家が桓武天皇の話聞いて妄想して書いちゃったいつもの病気。 桓武天皇、三貴神の話?
何度も現れるとか、フェニックス一輝? 太陽、月・・・などの話
何度も何度も現れる、フェニックス一輝?
書いてない?
神代から人皇(天皇)の時代に移った時にも現れる だから、新羅や百済は酋長として誰を出したんだよ
そこ洗えよ 昔からあった話とは何?
ここの扶余勇説はオリジナル >新羅や百済は酋長として誰を出したんだよ<
国王が列席に同意したから皇帝は喜んだのだ
誰が実際に出席しようが国王が出席したことになる 見苦しいあがき >>620
だからそんな言葉遊びじゃなくて、
事実として誰が出席したのかを聞いてるんだよ 事実として誰が出席したか記録に残ってないなら、
「わからない」と正直に答えなよ
正直に言わずにごまかすから、「ごまかしてばっかでうさんくさい人間が唱える理論もうさんくさいよね」って感想にしかならないわけじゃん ああ「ごまかしてばっかでうさんくさい人間が唱える理論もうさんくさいよね」
といいたかったのか くだらない論法だ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 扶余勇、扶余善光の敗北者百済王族は満州の愛新覚羅皇室、李朝王族と立場変わりませーん!傀儡王族は天皇にはなれない! >扶余勇、扶余善光の敗北者百済王族は満州の愛新覚羅皇室、李朝王族と立場変わりませーん!<
善光は白村江に行っていない
倭国での扶余勇の行動はとても強い すばらしい 飛鳥の誰かとは思えない
さすがアメミコトヒラカスワケと諡号を送られるだけの事はある 主義主張とは相容れないかもしれないが事実は認めなきゃ
そこからまた新たな歴史が始まるのだよ
いいかい?認めなきゃ時代の孤児だよ おまえなぁ 日本の将来を心配させるような発言をするなよ まず扶余勇って口承、文献、証拠で存在証明した方がいいんじゃないw 扶余勇の実在は旧唐書でいいんじゃないの
あとは天智天皇陵だけれど宮内庁がだめだというだろう Wikipediaも日本語と英語とで認めているよ 内容は違うけれど Wikiのすべてが正しいとは世の中誰も思っていないのにそんな反論をするのはお前だけだ 敏達天皇の皇居は百済大井宮
舒明天皇の皇居は百済宮
百済に住んでいた
つまり百済の王子が倭国に人質として来ていたように、
倭の王子も交換人質として百済に行っていたってわけだよ
「百済宮」って書いてあるのに無理矢理日本の地名に当てはめようとする旧来の解釈は意味がわからないわな
普通に考えて、同盟の条件として百済が王子を人質に出すなら、倭国も同じことをするだろう 奈良に百済って地名があるのだから仕方ない
どこぞの証拠もない思い込みよりはよほど確度が高い そして敏達天皇の息子で舒明天皇の父親である押坂彦人大兄皇子の別名は皇祖大兄
皇居は水波宮(みまたのみや)=任那
舒明天皇の息子が天智と天武
それぞれの天皇がどういう人生を送ってどういう人脈を築いたか、もうわかるでしょ
天智も天武も百済生まれ、百済育ち
だから、天智も天武も幼少期の事績が記紀に記されないし年齢も不詳だし、
天武は天智の「弟」扱いなわけだ
たとえるなら会社の職歴で、年齢じゃなく入社年度で「先輩後輩」が決まるように
日本に来たのが天智のほうが早かったから天智が「先輩=お兄さん」扱いだった >>639
そこと百済大井宮、百済宮の比定地は違うから意味がない 百済大井宮は河内長野説が一般的
百済宮は広陵町説が一般的
吉備池廃寺が百済大寺という説に物証はない ・敏達は百済の大井に宮を造った
・舒明は百済宮に移った
・百済から来た翹岐は百済の大井の家に移った
同じ場所だろうか?この場合の百済は河内の意味?
百済国と同じ呼称は強い結びつきがあった?誰かが河内を指摘したように 天智天皇
父方のひいお婆ちゃんが新羅王族(広姫)
母方のひいお婆ちゃんが中国王族(漢王の妹、大俣王)
百済生まれ
16歳のときに父、舒明天皇が崩御したため、倭に帰国
母、皇極天皇が皇位につき、天智は皇太子となる
20歳のとき、百済時代からの盟友である中臣鎌足とともに蘇我入鹿を暗殺
百済復興のため、白村江の戦いを主導
42歳で天皇として即位 >>638>>639>>640
外国の歴史で確実な扶余勇が倭国の誰なのかを確定させてから
倭国の歴史を述べないと無駄骨を折ることになるぞ
地名や宮の位置を推定するのはいいが歴史の不動点にはならないのではないか? >>646
天智天皇から推量しても不動点は得られない
方法が悪い >>646考え直し
広姫は新羅王族ではなく百済王族だろう
広姫の父は息長真手王
「息長」というのは、福岡の香春神社の祭神が「辛国息長大姫」というように、韓国系王族のこと
その子孫が渡来系氏族の「息長氏」
息長氏は近畿北部にいて、そこは新羅王の出身である「タバナ国」もある場所だから
息長真手王も新羅王族かなと想像したが
それは推論が行き過ぎだったわ
韓国系ひっくるめて「息長」に込めてるんだろう
息長真手王の娘を皇后にした敏達天皇は百済と関係が近い
系図にある「もう一人の息長真手王」は継体天皇の時代の人で
継体天皇も百済と関係が近い
(百済系王族をひっくるめて息長真手王としたんだろう、出雲系の王をみんな大国主としたように) 敏達天皇
538年、百済で生まれ育つ(百済大井宮)
青年時代は父、欽明天皇の念願である任那復興のため、百済に駐在して百済や新羅との交渉にあたる
百済にて百済王族の広姫を皇后とし、押坂彦人大兄皇子を生ませる
新羅との交渉により「任那の調」を送ることを約束させる
押坂彦人大兄皇子を任那に駐在させる(水波宮)
572年(34歳)父、欽明天皇の崩御に伴い倭に帰国し皇居を訳語田幸玉宮(奈良県桜井市)に移す
改めて額田部皇女を皇后に立てる
585年(47歳)崩御 このように不動点なくさ迷うのは無限の時間を持っている人か
このスレでやられっぱなしで悪意を抱いているやつだ 敏達天皇の弟である用明天皇ももちろん百済生まれ百済育ち
だから生まれ年がわからない
用明天皇の息子が厩戸皇子=聖徳太子
有名な「10人の言葉を聞き分けた」という逸話は
「10カ国語(くらいたくさんの言葉)を理解した」ということだろう
聖徳太子は父母ともに海外育ちのマルチリンガルだろうからな
俺の言ったことの証拠に
5世紀後半〜6世紀中盤にかけて、朝鮮半島南西部に複数の前方後円墳が作られる 扶余勇の実在の件は済んだのかい?
扶余勇についてほかに何か疑問は? マルチリンガルの父母から英才教育を受けた聖徳太子は当時の人には天才に見えただろう 敗北感をごまかすために念仏を唱えているのだな
畿内説野郎の断末魔の叫びをみんなでよく見よう 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 記紀で6世紀〜7世紀の人で生まれ年や青年期の事績がわからない皇族は
百済や任那に駐在してたと考えたほうがいいよ
韓国南西部の前方後円墳の数見れば、どれだけの倭王族が朝鮮半島に駐在してたかわかるよね >>639
大きい地名から順に書いていくから、大和の百済とあれば奈良盆地だが、いきなり百済とあれば半島だよ。
筑紫の日向の時と似た誤魔化しだ。 >>643
「一般的」という表現に何の根拠もないし >>646
>天智天皇
>百済生まれ
>16歳のときに父、舒明天皇が崩御したため、倭に帰国
>百済復興のため、白村江の戦いを主導
筋が通っているな。 >>649
>韓国系ひっくるめて「息長」に込めてるんだろう
ちょっと乱暴では?
しかし息長の姫(神功皇后)がなぜ半島出兵に拘ったのかも関係するし、大事なポイントかもね。 >>652
7世紀以前の畿内政権は、歴史の不動点となる確かなものが何もない。 百済王族と皇統が同じ時期に代替わりしてるのはよく知られた事実。新羅王統とは同期しない。
百済三書は単に日本の歴史の朝鮮語版という噂も。
ピドンの乱とかそっくり。 >>660
>韓国南西部の前方後円墳の数見れば、どれだけの倭王族が朝鮮半島に駐在してたかわかるよね
倭とは、そもそも朝鮮半島南岸から九州北岸の対馬海峡を中心とする国だからね。
王都は九州側の福岡。
後漢書にそう書いてある。
その状況は白村江まで変わらなかったということ。 白村江の戦後に書かれた記紀は、倭の歴史の中の半島側の部分を削って、奈良盆地の弱小勢力の話を誇張して書かれたものなのだろう。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>638
百済側も人質取ってたというなら取ってたという記録を残してるだろうに
何らの史料もなしに語るのは妄想にしかならない 記紀を中心に展開してもなにも不動点はでない
お持ちの畿内説に扶余勇の事実をひとつ加えて練り直せば新たな展開があるよ 高皇産霊尊(タカミムスビ)の子供が月読(ツクヨミ)で、月読の本拠地が壱岐
※『日本書紀』顕宗天皇3年2月条[原 1]における月読神社の創建伝承
=月読の親はイザナギではなくタカミムスビ
高皇産霊尊は「高」「霊」の通り高霊加羅(朝鮮半島南部)の王族のこと
その息子が思金(オモイカネ)でしょ?
思金の「金」は金属を産出する加羅を表してるわけだ
つまり高霊加羅から倭国に移住してきたのが月読であり思金であると
大胆に推測すると
高天原とは加羅山のことであって
そこが倭王家の故地
だから倭王家は任那奪還にこだわり続けたわけだ
任那加羅には50以上の国があったと言われてて
そのうちの3つの王家が倭に移住してきたんだろう
それがアマテラス、ツクヨミ(タカミムスビ)、スサノオである、と
倭奴国の王が安曇氏だとすると、
その後継である住吉の大神が、4世紀にヤマトの神功皇后と結託して新羅を攻めたのも
もともと当時朝鮮半島南部は住吉氏の領地であって、
そこを拠点に新羅を攻めたんだろう
そして百済や新羅を服属させ高句麗まで攻め上がって「宋書」や「広開土王碑」に記されることになったと https://sites.google.com/view/jhistory/ を読んで気が狂ったのね 可哀想
念仏は純粋培養された日本人にありがちな気が狂ったときの現象 >>670
人質ではなく、普通に交流していた、ではいけないのか?
または、そもそも類縁関係の王家であった。 >>676
だとしたら百済にも前方後円墳がないとおかしい 神功〜倭の五王時代に朝鮮半島南部に攻め入って支配した領地を
継体前後の政権のごたごたで失ったわけじゃん倭は(任那四県割譲→562年任那滅亡)
栄山江地域の前方後円墳はちょうどその時期だよね
任那日本府がどこにあったかわかるでしょ >>678
神功皇后は九州倭国の女王だ。
しかし継体は違う。
継体は倭国の中で反乱を起こした側だ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>679
九州王は住吉大神だろ
住吉氏の出先機関が大阪にあって
その住吉氏とヤマトが結託してクマソ(反ヤマト、反住吉の九州勢力)討伐をしようとしたんだけど
途中で方向転換して新羅討伐に向かった
(新羅討伐に反対した仲哀は殺された)
神功皇后は息長氏だから、もともと朝鮮半島に行くつもりだったんだろうね
氏族のふるさとなわけだから 息長氏である神功皇后は、旦那である仲哀天皇よりも、息長氏族としての意向を優先した
つまり、息長氏(百済)の宿敵である新羅を、ヤマトと住吉氏の力を借りて討伐しようと 継体(オオド)は、即位前から百済に鏡を贈られてる
つまり、北陸の出身というのはウソで、
やはりこいつも任那出身だろう
任那の倭王族だから、百済は鏡を贈ることができたし、贈る意味があった
雄略天皇や武烈天皇といった暴君がライバル皇族を殺しまくってるときも、任那にいたから生き残ることができた >>681
>九州王は住吉大神だろ
武内宿禰のこと 住吉大神=武内宿禰の可能性も高いわな
だから、神功の息子の応神を祖とする倭の五王は、住吉氏の領地である大阪に都を置いたわけだ 「敗北を認める勇気がないのだな」と言って火に油を注ぐ >>685
あくまでも本拠地は首都である福岡でしょ。
住吉神社は博多住吉が本宮。 濡れ落ち葉同士の私語には誰も関心がない
一度外気(https://sites.google.com/view/jhistory/ )に当たって気分転換してはどうか この地球は「敗北を認めることが敗北だ」という奴らで満ち溢れているからなぁ 論理的な者は論理の間違いを指摘されれば引き下がる
「敗北を認めることが敗北だ」という者は絶対引き下がらない 力でくる
論理的な者と敗北を認めないものが共存するには論理的な者からの歩み寄りしかない
しかしそれをやると敗北を認めないものは付け上がるからなぁ 倭王が百済から渡ったのなら朝鮮側に記録されるって
新羅王の祖が倭人てのは日朝双方で一致してるだろ
三国史記は同時代どころかずっと後世
の成立だから遠慮は無用だし、
そもそも半島統一した新羅寄り史観なんだから
隠すとしたらそれは不都合な事実
百済王が倭系だから隠したというなら分かるがな >>691
百済本紀自体が残ってなかったんだから仕方ない 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 新羅が倭の分家なら、倭が百済の分家や兄弟国でも全然構わないよな。 >>692
何も残ってないなら史書を書けないよ
日本の記紀だって底本がある
錯綜する伝承を公的統一した後に、
それが無くなった、焼いたにすぎない
朝鮮もまとめた後に捨てたんだよ 新羅が倭の分家であるかないかの議論が
https://sites.google.com/view/jhistory/
の主張にどのような影響あるのか説明してくれ >>696
面白い考察だな。
まだ全部は読めてないけど。
「これらの遺構は、扶餘勇が白村江敗戦で倭国に渡ってきた百済貴族達に作らせた朝鮮半島式の防衛設備と考えざるを得ない。
したがって、天智天皇は扶余勇である可能性が至極濃厚である。」
ここは短絡的ではないか?
ふと思ったが、扶桑とはどこのことだ?
百済王家が扶余なのと関係あるのか?
熊津都督には扶余隆が任命された?
では筑紫都督には誰が任命された?
あと、話が太宰府と難波で行ったり来たりしてちぐはぐな印象だった。
でも、問題提起としては迫力があった。 天智は近江朝
近江は越で継体の出身
越は地理的に新羅や高句麗のルートだ
百済救援の天智だが、むしろ新羅と交流してる立場じゃないか >ここは短絡的ではないか?<
朝鮮半島に根ざすものを天智天皇が造らしめたのだから扶余勇とUnifyせざるをえない
>ふと思ったが、扶桑とはどこのことだ? 百済王家が扶余なのと関係あるのか? <
禰軍墓誌は婉曲に書かれている 扶桑は中国では日本列島も含む地域を指している
>熊津都督には扶余隆が任命された? では筑紫都督には誰が任命された? <
筑紫都督が誰かはわからない 「倭奴国は倭国の極南界」
1世紀の倭国の領地は朝鮮半島南部、九州北部、本州日本海側
王都は倭奴国=博多
王族は安曇氏
朝鮮半島南部には倭人が雑居→新羅建国に関わる
倭国大乱により倭国(本国)政権交代
朝鮮半島南部の倭人の分裂
邪馬台国に従いたくない倭奴国系勢力→新羅と合流
邪馬台国に従う勢力→狗邪韓国 政権交代は1世紀から3世紀の間だけでも数回あったのだろう。
倭奴国が金印をもらったのは、考古学的には伊都国の時代だから、奴国の安曇氏が衰退して、伊都国に天孫族がやって来ていただろう。
これが卑弥呼の前の男王達70〜80年。
倭国大乱で天孫族は大和に都落ち、かわって卑弥呼が伊都で即位したと考えるとつじつまが合う。 糸島も安曇だよ
当時も天孫(糸島皇祖神社ヒコホホデミ)は海神(安曇王家)の娘と婚姻を結んでる >天智は近江朝
近江は越で継体の出身
越は地理的に新羅や高句麗のルートだ
百済救援の天智だが、むしろ新羅と交流してる立場じゃないか<
扶余勇は大宰府から近江に遷都するのに旧豪族の助けを買っただろうか
白村江を救援した倭国王は封禅の儀に列席する人物で扶余勇ではない
https://sites.google.com/view/jhistory/ を読めばわかるがこれは歴史ジグゾーパズルだ
不動点から解決しなければ無駄骨を折るだけだ 安曇氏族に
百足足尼という人物がいる
くたらのすくねである >>702
天孫が糸島で、安曇が志賀島(そしておそらく博多も)だろ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 扶余勇の件はいつでもどうぞ
翹岐の件は百済の大井の家に移ったあとを書紀は書き忘れた? ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 倭国は百済人の集落なんだろう
だから百済と言葉が通じたのだろ
縄文人には国という概念が無かったのだろう
征夷大将軍というのは白人がインディアンを狩るのと同じものだろう
全て想像だが アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 翹岐が移った百済の大井を河内長野市大井と断定している
書紀は河内といわずなぜ百済と言っているのか
河内は百済人の国だったに違いない
百済人の国に百済の王の弟翹岐が来て消息がなくなり4年後に孝徳が河内に遷都しているなら
孝徳が誰であるかは明らかだろう 翹岐=孝徳が否定されなければ、次に翹岐が皇極にもてなしを受けたのが事実かの疑問が起きる
大和が河内の支配を翹岐に委ねるなら、大和には畿内全域の統治能力すらない証である
そのような政権がはたして実在しえたのかのだろうか
歴史を大和を中心に組み立てるためには翹岐が皇極に挨拶しなければならなかっただけではないのか 百濟人は日本で被差別民になりました。
信太山、藤井寺の林、津守など。
>>1の妄想、見事に崩れるw 結局不動点を得れば妄想歴史は切り崩せる
扶余勇は旧唐書によれば倭国にわたった これは不動点
倭国の誰に対応するかはhttps://sites.google.com/view/jhistory/ であきらかにされた
扶余勇のことを書いていないあるいは上記サイトの対応を否定できない限り
その近辺の古代史説は邪説である 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 扶余勇について触れない古代史説は
国民を誤った方向に誘導し真実に近づくのをはばむ計略を持っているか
中国史書を読んでいないアホかのどちらかである 百済大井宮について書かない歴史書に価値はない
対等な同盟を結んだなら人質は交換になるのは当然 書紀は客人でも人質というから人質にこだわらないほうがよい
百済大井宮についての見解をキボンヌ >>719
百済にあったってことだろ
多くの日本の皇子が百済や任那で育った 第30代 敏達天皇(百済大井宮)
第34代 舒明天皇(百済宮) >>722
彼らは百済で百済王族の子女をめとり子供を作ったりしてるわな当然
記紀で名前だけ残って事績が残らない皇族 書紀は西国の民が百済宮を作ったと書いている
舒明は百済宮で崩御したと書いているがそれでも倭国のスメラミコトか? 倭国の支配権も同時に持っていたのかもな。
倭と百済は王室の交流が盛んなので、後世からは区別されるが、当時は大きな区別がなかったのかも。
言葉も近かったんだっけ? 百済の王子が倭国で育ってるんだから倭国の皇子も百済で育ってるやついるだろ 百済なんてアケ王擁立以降、日本の傀儡だから。
高句麗に押され、任那4県まで日本に割譲してもらったヘタレ。
その程度の百済王が日本に来て天皇になどなるかアホ。
そうあってほしいと夢見るのは勝手だがいい加減うざい。 >>727
逆だろ
任那四県を倭から奪った
倭は百済に押された 誰が好き好んで領地を明け渡すんだよ
圧力に負けて仕方なく明け渡したに決まってるだろ
任那四県割譲の責任で大伴氏は失脚してるじゃん 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >倭国の支配権も同時に持っていたのかもな。
倭と百済は王室の交流が盛んなので、後世からは区別されるが、当時は大きな区別がなかったのかも。
言葉も近かったんだっけ?
「かもな」ぐらいで説を述べなさんな
証拠がひとつでもあれば考えましょう >>728
任那を奪うような力のあった百済人が日本で被差別民にはなりませんよ、
残念でした、あっかんべ〜w >任那を奪うような力のあった百済人が日本で被差別民にはなりませんよ<
論理に違和感があるが
根拠もなく歴史の学問スレを俳諧するこいつらは何なんだ 好太王碑を書いてあるように正しく読めば一発で分かること >>733
>論理に違和感があるが
百済人の地位などたいしたことはない。
一部は被差別民だということ。
意味わからないの? 百済も新羅も倭国に朝貢する立場
新羅に至っては4代目に日本人が新羅王に即位して以降は武烈まで王を名乗れなかった(寐錦)
両国とも直系の後継者を倭に人質として差し出るレベル
江戸時代の参勤交代と同じ そろそろ頭の病院に行けw
『倭猿』というのは、どういう意味なの? >>733
>俳諧?
急に俳句の話し始める気なのか??? >>734
時代が違うだろ
100年も経てば情勢も変わる 好太王碑の碑文
そもそも新羅・百残は高句麗の属民であり、朝貢していた。
しかし391年に倭が百済・加羅・新羅を破って属民とした。
399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。
ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し
王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので大王は救援することにした。
400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので
これを追って任那・加羅に迫った。
ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
碑文では、高句麗と隣接する国・民族はほぼ一度しか出てこず、遠く離れた倭が何度も出てくる。
倭の古代朝鮮半島における戦闘等の活動は、朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』、中国側の史書『宋書』においても記録されている。
2011年に発見された職貢図新羅題記にも「倭に属していた」という記述がある。 >>742
朝鮮半島南部を属国にした倭の五王系王朝は王位継承がうまくいかず北陸の継体天皇に交代する
この時点で朝鮮半島南部の権限の引き継ぎもうまくいかず、
任那に離反されてる(四県割譲)
継体天皇の時代に、倭の朝鮮半島南部の権限は大きく後退しており
百済も「属国」ではなく「対等な同盟国」となっている そりゃそうだ
任那の官からしたら
「倭の五王にだから俺ら仕えてたんですけど、継体なんて人知らないし、俺ら独立しますんで」
ってな感じだろう 話を元に戻す
百済で育った倭国の皇族がいる話を裏付ける史料を挙げてくれ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>743
じゃあなんで百済の政治組織の中に科野氏とか紀氏や日羅みたいな倭人が入り込んでるんだよ
だいたい四県割譲は継体じゃなくて欽明だろはいやりなおし! >>741
451年、宋の文帝は允恭天皇を「倭本国・新羅・任那・加羅・辰韓・馬韓(百済)六国諸軍事 安東将軍」と認めている
475年9月、高句麗の長寿王は百済の漢城を強奪し、百済の蓋鹵王を殺害し百済は滅亡。
477年3月、雄略天皇が蓋鹵王の息子 文周に久麻那利の地を与え百済王に就かせ再興させが半年後に解仇に暗殺される。
479年11月、雄略天皇は人質として預かっていた5人の子供の中から東城を選出し、筑紫の武人500人を付けて帰国させ、百済王に就かせた。
490年、北魏に攻め込まれ、慌てて高句麗の真似をして南斉の冊封に下るなど混乱を極める。。
501年、東城王が暗殺され武寧が即位。
503年、武寧は倭国に朝貢。
513年、高句麗から漢城を取り戻せず領土不足であった百済に継体天皇が任那四県を割譲すると、五経博士漢高安茂を貢上した。
552年、聖明王が「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、とりつきにくいものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」という上表文と共に金堂の仏像一体、幡、経典を貢上した。
554年、倭国と大伽耶の助力を得て新羅を攻めるも聖明王は戦死し、威徳が即位。
561年7月、欽明天皇が威徳王に援軍を授け、任那と共に新羅を攻めるも敗退。
642年、義慈王は倭国に王子の豊璋と善光を人質に出し、朝貢を再開。
660年、百済滅亡。
百済が倭国に朝貢していない期間は泗?時代のわずか80年だけである。 >>743
「任那に離反される」と「対等な同盟国だった」はフィクション
561年の新羅侵攻と滅亡期まで続く朝貢の記録がその証拠 三国史記の百済紀には642年唐に朝貢したとは書いてあるが倭国に朝貢した記述はないがのう
書紀は客人を人質とかいう >>748も単なる使いを朝貢といってるんではないか? 持論を展開するのは自由ですが、
@百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反されたという根拠
B対等な同盟国だった証拠
C人質が客人であったという証明
この4つを明らかにしてください。 当時の中華(中国)の皇族の話じゃないの?
本当の皇族?
少し調べてみると、
そういう人物(人物達)がいると書いてない? 皇、天皇号?
当時は無かったような事も書いてあるし、
中国や半島(一部)には、いたんじゃないの? そもそも王族の王子は豪族が育てるのが当時の習慣だっただろ 『中国 皇族』
日本の『天皇号』?
この辺り、小学生でも、すぐにわかるはず そっち(中華?系の人々)とは関わるなと言っているんだよw
みたいな事を言ってる人達がいたり
一部メディア、ネットにもいるでしょ >>754-758
持論を展開するのは自由ですが、
@百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反されたという根拠
B対等な同盟国だった証拠
C人質が客人であったという証明
この4つを明らかにしてください。 >>759
「百済宮」「百済大井宮」と言う名前
四県割譲という事実(誰が好き好んで領地を自分から明け渡すのか)
白村江に突入する経緯(百済派に主導権を握られる倭国朝廷)
日本書紀は常に、日本を持ち上げ、唐以外の他国を見下した書き方、言葉選びをする事実 >>760
>「百済宮」「百済大井宮」と言う名前
その理屈で言ったら平城宮に住んだ元明天皇は北魏育ちで平城京の住民も全員北魏出身者になってしまう
日本側にも朝鮮半島側にも皇太子や次期天皇が百済に住んだ記録は皆無だから@への答えにはならない
>四県割譲という事実(誰が好き好んで領地を自分から明け渡すのか)
高句麗侵攻によって首都を失い、30年以上国土が半分以下の状態の百済に土地を「割って譲ってあげた」から「割譲」
百済が倭国に貢上した五経博士漢高安茂は北魏から下賜された唯一無二の存在であり、4つの町より価値は高い
よってAの「離反された」を証明できていない
>白村江に突入する経緯(百済派に主導権を握られる倭国朝廷)
その土地などに明るい者に軍事の先導をさせるのは古今東西どこにでもある戦略
Bの証明にはなっていない
>日本書紀は常に、日本を持ち上げ、唐以外の他国を見下した書き方、言葉選びをする事実
逆に自国を最上としない国史が存在する国家があるのなら教えてください
改めて
@百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だった証拠
C人質が客人であったという証明
この4つを明らかにしてください。 どっちもどっちな説明だな。
それぞれ理があるし、それぞれに言い過ぎな部分もある。
たしかに、なぜ唐と対立してまで百済に肩入れしたのかという疑問はあった。
そして百済生まれの皇族がいるのもポイントだな。
しかしながら、日本書紀の姿勢は何の証拠にもならないだろう。 >>762
あなたはこれまで随所で思い込みや妄想の持論を連投しまくって、突っ込まれると答えずに逃げるという行動をずっとしていたので、今回他者の意見に一定の理解を示したのは正直言って驚きです。
歴史探求にイマジネーションは必要不可欠ですから、その点においてあなたの知識とイマジネーションは非常に優れていると言えます。
今回せっかく一定の理解を示してくれたのですから、今後はムダな妄想連投や謎掛けのような無意味な投稿をやめませんか?
その知識と建設的な議論をしたいと思っている人は多いと思います。
あなたの持論に興味を抱く人も少なくないと思います。
しかし、多くの真摯な歴ヲタは持論を展開する場合は証拠(ソース)を携えているものです。
あなたはこれまで頻繁に証拠を出せ、ソースは?とやられていますよね?
それがないとあなたが自身で調べ、イマジネーションによって育てた説はただのトンデモ空論に成り下がってしまうのです。
例えば百済宮という名称が皇宮に付けられただけでは百済生まれや百済育ちの皇族がいた証明にはなりませんが、歴代皇宮の中で唯一外国名がついているのは百済出身者の影響力が強かった証拠ではないか?という提示からスタートすれば誰でも受け入れやすいですし、そこから始まる議論の中であなた自身も新しい気付きや発見があると思うのです。
せっかくの知識とイマジネーションも第三者と共有できなければ存在しないのと同じです。
一方的に持論を展開したいだけならブログなどをやっていた事でしょう。
これを機に論の証明と命題提示というスタンスで一緒に歴史を議論しませんか?
きっと楽しい議論になると思いますよ。
些か嫌味な言い回しをしましたが、あなたに自覚してもらいたくての苦言です。
理解してもらえたら幸いです。 ●倭の五王の間接支配
倭の五王→(支配)→筑紫君→(支配)→任那
●倭の五王系王朝の滅亡と継体天皇の即位
倭の五王系王朝が衰退し、筑紫君が独立、継体天皇が立つ
筑紫君→(支配)→任那
継体vs筑紫君
●任那の独立戦争(任那四県割譲の真実)
任那→(反乱)→筑紫君
物部アラカイ=任那の「安羅国」の官
大伴金村=任那の「金官国」の官
どちらも「筑紫君の部下として」任那に派遣されていた倭人
この二人が主君を継体王朝に鞍替え
在任那豪族、継体天皇、百済の三者が連合し任那を筑紫君から奪う→筑紫君は任那を失う
●任那領地の分割
百済「俺も戦争に協力したんだから任那を得る権利があるよね」→四県割譲
こういう流れでしょ 物部アラカイ=安羅の官
大伴金村=金官の官
この二人が任那離反の主役
だからこそ、百済王との交渉役になったし、
後、本格的に筑紫君磐井を潰すときの将軍にもなってるわけだ >>764-765
結局お前は妄想を垂れ流すことしか出来ないってことでOK? @百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だった証拠
C人質が客人であったという証明
この4つを明らかにしてください。 >>767
お前が納得しないだけ
何度も説明して理解できないならお前の頭が悪いか、最初から納得する気がないかのどちらか まあとにかく倭の五王系が衰退して中央の力が弱くなったから磐井に反乱くらったり任那を奪われたりしたってことだろ
その一連の流れはわかるじゃん @百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だった証拠
C人質が客人であったという証明
この4つを明らかにしてください。 >>767
その馬鹿は「証拠」とか「根拠」とか「証明」って日本語を理解できないからいくら詰めてもムダ 逆にお前が納得する証拠ってなんなの?w
古代史なんだからある程度は状況証拠で推論的に見てくしかないだろ 絶対的証拠があったら議論や論争なんて起きないしこんなスレッドが立つ必要もない
絶対的証拠がないからこそみんな推論ベースで議論してんだろ?
それを「証拠はなんだ!証拠はなんだ!」とか言い出すキチガイって前提から間違えてんだよなw >>773
いや断言する根拠でしょ
きっとこうに違いない!じゃただのファンタジー
こうこうこういう史料のこの部分を自分はこう読み取ったからこういう考えだ!ってやるのが普通 @百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だった証拠
C人質が客人であったという証明
この4つを明らかにしてください。 >>774
そういう読み取りはできないと言い出すキナイコシという人がいて日本史板荒らしてるからな。 >>777
馬鹿(ばか)には反復(はんぷく)調教(ちょうきょう)で躾(しつ)けるのが最(もっと)も効果的(こうかてき)だから仕方(しかた)がないのだよ。 >>778
それが議論だろ
主張するなら反論があって当然
その反論を反証するのも議論
メンタル弱いなら議論にも5ちゃんに向いてない 倭国天皇の住居に百済って名付けるくらいだから天皇は百済人だ〜
↓
平城宮は?
↓
そう思うに至った史料は?
↓
ぼくがそう感じたんだ〜
これが議論と言えるのか? >>778
邪馬台国関連スレでウリナラファンタジー撒き散らしてる張本人が何言ってんだよ(笑) 百済人とは言ってない
その時点で読み間違えてる人間にモノを理解させるのは難しい >>751
百済本紀642年を読み直したが倭に朝貢したとは書いてない 第30代 敏達天皇(百済大井宮)
第34代 舒明天皇(百済宮)
敏達天皇と舒明天皇は百済で育った(皇子時代)
つまり同盟の担保としての王子(皇子)の交換だよ
百済の王子も日本で育ってるだろ? >>783
最初は百済に住んだ皇族がいたはずと言い
次に百済で育った皇族がいるはずだとスライドし
続いて百済で生まれた皇族がいたはずだとスライド
次に書くことはみんなお見通し
自分の書いたことに責任持ちな 領土の割譲を「仏教のためだしプラスの取引だっただろ」とか本気で言ってるとしたら頭お花畑すぎる >>787
別にどっちでもいいよ
百済で青年時代を過ごした皇族がいるなら、
百済で妃をめとって、子供作ってるのもいるだろ
その子供は「百済生まれ」じゃん
そういうことだよ
敏達天皇の皇后の謎についてはいろいろ言われてるだろ >>786
だから住居に百済ってついてることは百済育ちの根拠になりえないだろって何度言えば分かるんだ?
百済は倭国に朝貢する立場で忠誠の証拠として自分の息子を人質に出してるだけ
倭国が百済に行かせるのは坊主と学者だけ >>789
百済で青年時代を過ごした皇族を挙げろって言ってんのだよアホなのか? 敏達天皇の皇后についてもう一度調べてみなよ
あー最初の奥さんは百済人だったんだなってわかるだろ
親が死んで倭に帰国したらすぐに倭国内の名家の女と結婚し直してる
な?
これが「推論」だよ
これに対して「証拠はなんだ!」とか言い出すのはナンセンス >>790
倭の五王系が滅びてからはそんな強い力持ってないよ
倭王が六国諸軍事に任命されたのなんて過去の栄光だから
継体天皇は筑紫の支配にすら手こずってるのになんで任那や百済を安定支配できるんだよ
ちったあ考えればわかるだろ 継体朝の時点で百済との関係は一方的な支配、属国関係ではなくなってるんだよ
オオドは百済から銅鏡を贈られてるだろ?即位前に
即位前にだぞ
頭が上がらないのはどっちか、考えればわかるだろ
即位前から継体を支援して、倭王の地位につかせてやったのが百済王家ってことじゃん 馬鹿には反復調教
503年、武寧は倭国に朝貢。
513年、高句麗から漢城を取り戻せず領土不足であった百済に継体天皇が任那四県を割譲すると、五経博士漢高安茂を貢上した。
552年、聖明王が「仏教は、あらゆる教えの中で最もすぐれたものです。その教えは難しく、とりつきにくいものですが、真の悟りを導くものです。今や仏教は、遠くインドから中国、朝鮮まで広まっています。このすばらしいみ仏の教えを、ぜひ日本でも広めていただきたいと思います。」という上表文と共に金堂の仏像一体、幡、経典を貢上した。
554年、倭国と大伽耶の助力を得て新羅を攻めるも聖明王は戦死し、威徳が即位。
561年7月、欽明天皇が威徳王に援軍を授け、任那と共に新羅を攻めるも敗退。
642年、義慈王は倭国に王子の豊璋と善光を人質に出し、朝貢を再開。
660年、百済滅亡。 即位前にオオド(継体天皇)は百済王から銅鏡を贈られてる
普通に考えろよ
どっちに恩があるか、頭が上がらないのはどっちか
国際情勢を見て物言えよ
それがわからないのは記紀史観に毒されてるだけだよ 継体朝の時点で百済との関係は一方的な支配、属国関係ではなくなってるんだよ
だったら朝鮮側は「割譲」という上から目線の言葉を残さない
広開土王碑を見れば記述の仕方は明らか >>798
朝貢する側が鏡を差し出しただけ
はい論破 >>797
敏達天皇はその期間の天皇だぞ
はい墓穴
また俺の勝ちか
>>800
即位前の、皇室との血筋も薄いオオドになぜ朝貢するんだよアホ たとえば、孝徳紀に人質として留まる金春秋は人質ではない 彼は忙しい人間だすぐ帰る
かわりに従者37名をともなったサトクホウサコンタスイがきたがこれも人質と呼んでいる
これらは、孝徳の政治のサポートをお願いしたのだろうと思える >>799
広開土王碑?
それ西暦400年前後の話だろアホ
継体天皇以降の話してんだよ今は
継体天皇は即位前から百済の支援を受けていた
そのおかげもあって倭王として即位できた
そりゃ任那四県も割譲してしまうわな >>798
百済本紀ちゃんと読めよ
威徳王は北斎の後主から下賜された鏡をまだ皇太子だったオオドに渡してるんだぞ?
しかも下賜された翌年にだ
普通の感性なら威徳王は北斉と倭国を同等に畏敬してた証拠と取る >>802
それはウリナラファンタジーで解決済み
>>803
朝鮮語の文体の話をしてるんだ無能
割譲の意味をこくご辞書で引け無能 倭の五王系王朝が滅亡する少し前から、
ポスト倭の五王として百済はオオドに目を付けて支援してたんだろ
だから鏡に書かれたオシサカ宮も河内のオシサカのことではないよね
その当時はオオドは河内になんていないんだから
オオドがいたオシサカ宮は任那にあったんだろ
だから百済は目を付けたし支援した >>801
お前が買ったところを一度も見たことがないのだが?
論破されて逃げたところや反証できずに論点すり替えてるところなら何度もリアルタイムで目撃してるが >>806
馬鹿には反復調教
百済本紀ちゃんと読めよ
威徳王は北斎の後主から下賜された鏡をまだ皇太子だったオオドに渡してるんだぞ?
しかも下賜された翌年にだ
普通の感性なら威徳王は北斉と倭国を同等に畏敬してた証拠と取る >>804
オオドは皇太子ではない
その時点でお前の説は成り立たない
遠い血筋だろ
血筋の近い皇子たちが全員死んだから遠い血筋のオオドが選ばれたって書いてあるだろ
それは記紀通りだよ
雄略天皇がライバル皇族を殺しまくったせいでいなくなったわけだよ
全部答えてるのに、お前が納得したがらないだけ >>804
事実かどうかわからないことをもって国の関係を決めるな
朝貢とは書いてない 朝貢をどのような意味に捉えているのか?
過去の上下関係などギョウキ=孝徳説の否定にはならない 北斉から下賜された鏡は百済王の証明
それを翌年に無条件で渡してる
北魏から下賜された五経博士を差し出してる
百済が倭国に媚びてる揺るぎない証拠
こういう反論できない物的証拠や状況証拠を「根拠」という >>809
百済が接触した時点ですでに天皇候補=皇太子だぞ >>810
百済王の証明たる鏡を差し出すのはどんな立場なのか得意のイマジネーション働かせろやw >>811
任那四県を百済に差し出してるなんて最大の媚だなw >>810
お前はお前の身分を証明する運転免許証を差し出さなければならない状況を考えろ
交通犯罪を犯して刑が確定したとき(罪人)か
逃げられないようにする拘束力としてだけだろ >>814
割譲の意味を国語辞書で調べるべき
国土が狭くて国民が苦しんでる助けてください
↓
百済の国民は我が臣民だから助けねば
↓
割譲(割って譲ってやる) >>814
差し出したという記録を出してみて
そんだけ自信満々に言うんだから当然あるよね記録 >>811
少なくとも百済が倭国を北斉や北魏と同等かそれに近い立場だと考えてなければ、恐れ多くてできないことだよな >>815
身分を証明する唯一の物を差し出さなければいけない状況がいかに惨めだか分かるよね >>814
で、オオドが出国したって記録はどこにあるの?
またウリナラファンタジー? >>780
バカだなあ
論の矛盾をするのが議論だよ。
根拠は必要だが証拠の提出は裁判所でやれ。 @百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ ↑
答えない限りいつまでもしつこくコピペ繰り返すからw
お前が建てたスレ全てで同じことするからww
議論の最低条件も提示できない無能に議論の場は与えないからwww >>826
今のところお前の妄想と思い込みしか出てきてない @百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ 何一つ根拠もなしにここまでファンタジー展開できるのはある種の才能だよ
ウリナラマンセー!
さすが実在の証明が自称被害者しかいない従軍慰安婦なんてものを国をあげて捏造したり
自分たちが分配するからと北朝鮮の分まで貰った労働者へのお見舞金を盗んで、50年以上たった今になって再請求したりする国だけあるわ
何度も約束破るし、基本ウソしかつかないし、そのくせ困るとすり寄ってくるし
ウリナラマンセー! @百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ ここは歴史の不動点を求めて議論するスレだ
百済の大井は倭国内の大井でよいだろう 任那四県を差し出してまで百済に媚びていたのに
記紀では「かわいそうだから割譲してあげたんだ、エッヘン」
これが記紀史観、皇国史観なんだけど
それに毒されてると事実が見えなくなるんだよな
歴史事実はフラットに見ないとね >>832
お前本当は韓伝も三国史記も読んだことないだろ
「割譲」は中国側、朝鮮側、日本側すべてで記載されてる揺るぎない事実だぞ? >>832
朝鮮側の記録で割譲以外の表現使ってる文献あるなら出してみて
出せないならいつものウリナラファンタジーに認定 任那四県割譲の合理的な説明は>>764
磐井から奪った任那の領地を、継体と百済で山分けしただけ >>835
その空想の元となった根拠を示して
出せないなら根拠なし=ウリナラファンタジーに認定だから @百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ >>833
そんな記述見たことない
捏造
原文出せよ @百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ >>836
それ以外に合理的な説明ができないからだよ
古今東西の歴史見て、領土は戦争やそれに近い軍事的圧力で取るしかないのが事実だろ
誰が好き好んで自分から領土を明け渡すんだよ
反論するなら世界史上で戦争やそれに近い軍事的圧力以外で領地を明け渡した実例を複数上げてね >>841
領土の分配なんてそれこそ古今東西数多あるんだが? 磐井の領地だった任那を継体と百済王家で奪った
それを山分けした
結果的に、倭国の領土としては百済に上げた分が減ってしまった
これが四県割譲の真実だろうなあ
そうとしか考えられないしなあ
>>839
そんな記述はない、お前の勝手な捏造
あるというなら、あると言う側が示せよ
本に書いてあるんだろ?示せるよな?
示せないならお前の負けだから >>841
@百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ >>843
@百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ >>842
だから、
奪った領地を分配したんだろ?
そう言ってるじゃん
アホなの?
>>846
ああ原文読めない奴が勘違いして「ある!ある!」と言い張ってるのかw
なるほどなあ >>849
@百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ @百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ 推論ベースで議論するのが古代史だって言ってんだろ
一方「三国史記」「韓伝」に「割譲」と記載がある!と言い張ってる奴は根拠を示さないと負けだからな >>853
お前はこれにさっさと答えないとずっと負けっぱなし人生だぞ
一度くらい引き分けてみろ
@百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ 逆に「百済大井宮」と記紀に書いてあるのに、
それを河内や大和に当てはめる根拠を知りたいね
「宮の跡が出てきた」とか言うなよ
宮の跡なんかあるに決まってるからな
だってずっと百済に住んでたわけはなく、倭に帰国してんだから >>855
お前まさか百済宮は百済にあったとか思い込んでんのか?
斜め上行くファンタジーだなwww >>855
@百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ >>857
百済宮なんだから百済にあるに決まってんだろ 百済本記に百済大井宮が国内にあったという記述があるんだろうな
ウリナラファンタジーという並行異次元にはwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
まじでウケる >>859
バカ丸出し模範解答さんきゅーっすwwww >>859
@百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ >>854
はい逃げた
俺は「推論ベースが古代史議論だろ」と言ってる
絶対的証拠がないから議論してるんだから、
証拠を求めることがナンセンス
一方お前は「割譲という記述があった!絶対にあった!」と言い張るんだろ?
だったら証拠を出さないと負けだぞって言ってる
お前このくらいのロジックもわからないのか? >>859
奈良県北葛城郡広陵町にある百済寺は百済にないよ?w
滋賀県東近江市百済寺町にある百済寺は百済じゃないよ?ww
平安京も平安宮も北魏にないよ?wwwwwwwwww >>863
推論の元となった根拠を示せってのがそんなに難しいのか?
馬鹿だから出せないのか? ないから出せないのか? 負け犬だから理解できないのか? >>863
@百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ >>864
推論の問題だよ
「百済大井宮」とだけ出てきて、それがどこにあったか普通に推論したら
まず第1候補は百済だろ >>867
それ本気で言ってるの?
ムキになって開き直ってるだけ? >>867
@百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ >>867
百済と付いてるから百済にあったと言うなら大井は何だ? >>867
お前さ、属国の中に宗主国の帝が住んでたら誉れ高きこととして絶対に記録に残すだろ
そんな記録は一切ないのにどんな顔して百済大井宮なんだから百済にあったに決まってるニダー!とか言ってんの? >>871
属国ではないし、百済三書は失われてるだろ
三国史記の成立なんて400年以上先だぞ @百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ >>872
それはお前のファンタジー
朝貢の記録が残ってるんだから属国
北魏から下賜された五経博士を送ってるんだから属国
北斉から下賜された百済王の証明である鏡を送ってるんだから属国
反論できる? >>872
@百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ 困ったらコピペw
全部答えただろ
>>874
だったら任那の領地を差し上げてるんだから倭は属国だな
って答えてるだろ >>876
今のところ一つも答えられてない
差し上げたと思い込んでる根拠を示せと何度も言ってる
だから
@百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ >>876
五経博士の価値を知らない無知が歴史を語ろうとするから穴だらけになる
もっと視野を広げて朝鮮半島を取り巻く世界史を学び直せ @百済で育った倭国の皇族がいる史料
A任那に離反された、明け渡したという根拠
B対等な同盟国だったという根拠
C人質が客人であったという根拠
この4つを明らかにしろ @百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ >>804
>普通の感性なら威徳王は北斉と倭国を同等に畏敬してた証拠と取る
鏡は下賜するものなのでは? >>811
>北魏から下賜された五経博士を差し出してる
北魏から下賜された博士をさらに、倭に下賜している。 >>882
百済王の証明だぞ?
つまり外国にとっては国号の次に大切なもの
それを貢上してる
しかも北斉の冊封にすら入っていない倭国が属国の百済から下賜される理由がない
馬鹿なのか? >>884
馬鹿なのか?宗主国から下賜されたものを他国に譲る意味が分かってない無能 >>833
割譲って、普通は立場の強い側が要求して、それに対して応じるよね。 >>882
@百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ >>837
>@百済で育った倭国の皇族がいる史料
これは提示されているのでは?
百済生まれの天皇がいるんでしょ?
生まれてすぐ帰国したわけではないよね? @百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ >>885
倭国が百済の属国であったようにしか見えないぞ。
鏡をもらってかわりに四県を割譲したなら、割りに会ってない。 >>895
@百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ >>895
さすがに目玉がウンコで満たされてるワイ属の眼力はスゲーな
物事が全て逆に見えるんやw >>898
五経博士は中国が下賜した国宝
今で言ったらノーベル物理学賞と平和賞と生理学賞をいっぺんに取ったような官
4つの村より遥かに価値があるから割譲の条件として提示し、百済は渋々これを受け入れた >>898
領地の価値は石高
つまりお金ね
当時の仏教徒経典は今で言ったら科学技術の結晶なの
つまりお金になる
当時の日本は国民を食わせるのに十分な石高があって貯蔵米も有り余ってた
百済の新羅侵攻の時にあげた米の量を見れば有り余って処理に困ってたのも分かる
そして当時の日本は仏教を教える僧も経典も仏像も全く足りてなかった
だから4村の石高より五経博士のほうが価値があった
しかも新羅に立った一人しか下賜されなかった五経博士 はい、
任那の地は宗主国である百済様に献上いたしましたとさ
それを記紀では悔しくて「かわいそうだから譲ってあげたんだ!」と書きましたとさ
めでたしめでたし頭がめでたし >>898
@百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ >>903
@百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ >>903
それを論とするなら倭国が百済に朝貢した記録か何かを出さなきゃウリナラファンタジーのまま >>903
根拠のない思い込み=ウリナラファンタジー >>907
身分を証明する唯一の物証
複数受け取ってる卑弥呼とはレベルが違う
朝鮮は李氏朝鮮まで金印すら与えてもらえなかったんだぜ? >>903
なんだ倭国の歴史は敗北の歴史だったのか
それをあとから捏造した勝利の歴史を歴史書に書いて
自分たちだけで満足して喜んでたってわけだ
韓国人みたいだなジャップって
>>907
だな
下賜された鏡で喜んでるんだからマジで属国やん >>910
猿芝居して精神の安定を保たないほど狂ってきたかw
ザマァwwwww >>907
@百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ >>910
@百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ @百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 倭と百済が一つの国なら、博士がただ国内で移動しただけ。 >>915
@百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 任那四県割譲
この時点で百済は属国でもないし任那もろくに支配できてない証拠やん
百済や任那を属国にしてたのは5世紀の話で、それがそのまま白村江まで続いてたとか言っちゃう方が妄想もいいとこやろ
アホなん? 結局答えられないんだから敗北宣言なんだよ
そっとしといてやれよ >>919
それはすでに論破済
@百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ >>919
それだってAに答えれば反証できるでしょ?
なんでしないの? 負け続け逃げ惑う性質はワイ族のDNAに深く刻み込まれてるんだろうな 論破済w
まさか五経博士が対価だ!ってのが論破のつもりなのか?ww
すごいなこいつw >>923
そのくせ見栄っ張りでウソばっかりつく性質もねwww >>924
4県割譲してやる条件として北魏から下賜された五経博士を要求したのは倭国側
それに渋々同意したのが百済
やっぱり北魏に怒られるから返してくださいって泣きついた記録も北魏側にある
今のムン大統領も全く同じことしてるのが笑える
歴史に学べない無能民族 >>924
@百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ >>926
韓国の歴史と政治に精通してるのに韓国を忌み嫌う
なんか悲しいね
向こうが一方的に悪いのは分かってるけど、なんだか物悲しい >>928
彼を知り己を知れば百戦殆うからずという孫武の教えを実践しているだけ
たしかウリナラランドじゃ孫武もチョーセン人なんだよなw
ウケるしwww >>929
@百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
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A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
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A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 @百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ @百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
A任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
B対等な同盟国だったという妄言の根拠
C人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 日本書紀の卑弥呼=神功皇后の強制解釈こそ日本が隠蔽したい歴史の真実 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
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この4つを明らかにしろ >>926
何度も騙されてんのに何度も助ける無能国家JAPAN 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
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この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
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この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
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4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
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この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
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3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
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この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ コピペくん大発狂やんw
お前の負けだから
あきらめろw 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ >>973
負け犬よ妄想に浸って現実逃避するのはよせ
余計に惨めだぞ
悔しかったら的確に答えて論破して俺を黙らせてみろ
1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 高句麗、南北朝の外国文献の証明で百済は日本の下僕的地位を一生独占(^^) 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ >>978
下僕は些か失礼だと思う
正式な属国と定義しなければ
感情論しかないここの無能ワイ族と同じになってしまう 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
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この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
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3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
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3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
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2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
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この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
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この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
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この4つを明らかにしろ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
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この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
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2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 1 百済で育った倭国の皇族がいると思い込んだ史料
2 任那に離反された、明け渡したと妄想した根拠
3 対等な同盟国だったという妄言の根拠
4 人質が客人であったと勘違いした根拠
この4つを明らかにしろ 結局このスレ主は朝鮮民族として日本国を貶めることで自らの劣等感をかき消そうとする行為にほかならない
歴史を語る資格を持たぬ者には議論の場を与えるべきではない
よってこのスレを埋める
当然次スレと同じ者が立てたスレにも同様の措置を行う
以上 このスレッドは1000を超えました。
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