百済の「日本」
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禰軍墓誌の「日本餘噍」は扶余勇のことだろう
百済あたりから、幾重にも、倭国に渡ってきた王族がいたのだろうね ・兵庫医科大学名誉教授の欠田早苗氏(解剖学)
頭型の分布は朝鮮半島から渡ってきた人たちのルートを示していると考えるわけです。
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い。
で、この(過)短頭の人たちは百済、対馬、瀬戸内沿岸とつながっています。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 秦人とは秦国を、漢人とは漢帝国を自分のアイデンティティにしている中国人
秦人とか漢人とかが半島経由で倭国に大変多くきているがね >>3
河内に古墳ができた4-5世紀には多数の渡来人が半島からやってきた
韓式土器という半島と同じものが主に河内で作られている
河内には大和とは別に新しい勢力があった 秦人は半島に来てないし、漢人も中原の人間は半島に来てないな。
中原の原始青磁や三足や耳の付いた中国系土器遺構が半島に一切無いからだ。
楽浪漢人は遼東半島の名のみの漢人だろう。 欽明元年に秦人(7000戸)、漢人が帰化
ただし、近くの国からだが >>8
実際には秦や漢とは時代が違うし、その痕跡も半島にはない訳ですから、
その秦人とは秦韓人の後裔である新羅人、漢人とは楽浪帯方漢人の後裔である
百済人の事を指しているように思えるんですが、この推測はどうでしょうか? >>9
欽明紀の記事は金官伽耶が投降した直後ですから、金官伽耶にいられなくなった人々
任那地方へは鉄関係で秦人漢人が亘ってきたのでしょう
もとは楽浪に逃れてきた中国人
金官伽耶は新羅へ投降したので、新羅人難民は生まれませんので
欽明紀の秦人は新羅人ではないと想像しています >>10
どうも釈然としませんな。
というのは、半島には秦代どころか、商代には既にあった原始青磁や
三足や耳の付いた中原の中国系陶磁器が全く伝わっていないんですよ。
楽浪郡帯方郡には中原の中国系陶磁器とは全く別なものが伝わっているんです。
原始青磁もなければ、三足や耳の付いた器形もない。
楽浪瓦質土器という中原からしたら、非常に稚拙な土器文化が最初に伝わり、
話の6Cになっても中原の中国系陶磁器は伝わっていないんです。
俺が思うに、秦人、漢人は元は遼東半島あたりにいた名のみの秦人、漢人で、
彼らが楽浪郡や秦韓を作ったのではないかと。
そう考えれば、考古学的にも整合するような・・・ >>10
今、秦の地図を見て、そこに遼東郡という文字を見付けて、妙に納得できたような気がします。
秦人、漢人といっても遼東のような僻地の人々は中原の人々のような高い文化を持った人々ではなかったのでしょうね。
田舎者もいたという訳です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/秦#/media/File:China_Qin_Dynasty.jpg 後漢書の「辰韓,耆老自言秦之亡人,避苦役,适韓國,馬韓割東界地與之。
其名國為邦,・・・,有似秦語,故或名之為秦韓」からは、
辰韓は秦人が苦役を逃れて移った国で言葉も秦語と似ているとあります
史記でも漢が4郡をおいて中国人に封じさせていますから
半島には中国人流れがいたのではないですか >>13
間違いないと思います。
でも、楽浪にも帯方にも秦韓(新羅の北部)にも中原の中国系陶磁器はなく、
非常に稚拙な土器文化しか伝わってないところからして、実際に朝鮮半島に
入ったのは、遼東系の名のみの秦人、漢人、中国人がほとんどだったと考えられます。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 Wikipediaの「伽耶」の項目参照
辰韓諸国と弁韓諸国
朝鮮半島南部の洛東江下流地域には、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて
無紋土器を用いる住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら支石墓を築造し、
青銅器を用いる文化を所有していた。 紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景に社会統合が進み、
慶尚北道の大邱・慶州地域に辰韓諸国が現われ始めた。
朝鮮半島南西部の弁韓地域には、紀元前10世紀から黄海沿岸に位置する山東半島・
遼西・遼東半島の物と非常に類似した様式の土器や石器が見られるようになる。
とありますから、中原の中国人ではなく、山東半島や遼東の人が渡ってきたのではありませんか >>16
山東半島はないでしょうね。
山東半島は中原の中国系陶磁器文化のエリアですから。
朝鮮半島は6000年前の櫛目文土器時代から遼東半島の影響を受けて成立している文化。
その後の農耕文化も稲作も無文土器も支石墓も青銅器も、みーんなみんな遼東半島の
影響で成立している。
ところが、戦国時代に遼東は燕に攻略されて併合され、中国系にされてしまった。
しかし、遼東半島と朝鮮半島の交流は変わらず、秦代、漢代に名のみの秦人、漢代が
移り住んできた。
こういう流れだったように思います。 遼東あたりは燕の影響も受けやすいところですから
文化的にも中原そのものではありえないと思います
しかし、秦語を話しているという後漢書を信じれば
秦の影響を受けていることも事実なわけで
これらを中国人とするか中国人としないかは主観的な問題ではないでしょうか 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. アメクニオシハラキヒロニワノスメラミコト(欽明)は金官伽耶の人ではないか?
>>8の帰化した秦人(7000戸)・漢人は欽明のサポーター
王位を獲得して晴れて彼らに戸籍を与えたと読めるのだが 金官伽耶の最後の金仇衡王を欽明とする見方もあるが
金仇衡王一家は新羅に厚遇された
その兄弟の脱知爾叱今が国元に残されているのが気になる
脱知爾叱今が住民7千戸とともに倭国にわたったのでは? アー タノシーデスネー 長江の鬲wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL54jcK9b5z4Aih.U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 新羅、百済、高句麗、大倭、大唐を継承した日本だから大日本帝国のアジア支配は正統 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>24
日本が百済・高句麗を継承したとはよく解ってるじゃないか
しかし、日本が新羅・大唐を継承したとは知らなかった 戦後、騎馬民族説など渡来系をやたら忖度する風潮があったが百済系が被差別になってる事実。
聖大明神供奉者・村由緒書上
泉州泉郡南王子村の来歴について左に申し上げます。
/ 信太大明神に供奉してきた 者がおり、その時、六人でした
/ 名前 アズ / ホンバヲヤホ / ヒガシバン /ト/ホン パキタラホ / チツネン / アソハン /ホンハホヘホ / それからどれほど年数が経ったか 分り難いのですが、
貞観年中の頃、聖大明神が官社の列に加えられた折に、この六人 の者は改名しました。
/ アズ太夫 / ヒガシバン若太夫/ホンハキトラホ安太夫 / チツネン助太夫
/ アソバン 五郎太夫/ホンバホヘホ甚太夫/ホンバヲヤホ 与太夫/… 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>28
百済系かどうかはわからない 差別はイマキかどうかだと思う
イマキが擁立した河内の政権が潰され その人民が差別されたと思っている
連はイマキが多いが連を皇室とは別の神を祖とする書紀は身分制度として差別した
当時皇室はできたてだから、前王権の人民を格下に扱っただけ? 2万年前に入った人々はD4j8という遺伝子を持つ
それは、ブリヤート人とイヌイット人と日本人に観測される。
D4j8は中国・朝鮮には存在しない。
しかし4万年前にも海から入ってきていた。
最初に入ってきたのは南の方からだった。
https://www.youtube.com/watch?v=QztuMDOa6E4 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >戦後、騎馬民族説など渡来系をやたら忖度する風潮があったが百済系が被差別になってる事実。
騎馬民族が来襲して征服した唱えた学者はおそらく5世紀のことをいっているのだろうが
旧唐書か新唐書の600年代の部分を引き合いに出すなどご都合主義
泉州泉郡南王子村は百済系なのかどうか いつごろ来た人たちか ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 2万年前に入った人々はD4j8という遺伝子を持つ
それは、ブリヤート人とイヌイット人と日本人に観測される。
D4j8は中国・朝鮮には存在しない。
しかし4万年前にも海から入ってきていた。
最初に入ってきたのは南の方からだった。
https://www.youtube.com/watch?v=QztuMDOa6E4 >>30
>イマキが擁立した河内の政権が潰され その人民が差別されたと思っている
イマキが擁立した河内の政権が潰されって何の話しだ?
今来才伎(いまきのてひと)か?
彼らが擁立した「河内の政権」って何だ?
河内の王朝の初現は4世紀第3四半期あたりの仲哀、
よく言われる応神ではない。 大阪最大の被差別部落・津守も文化人類学者中沢新一氏によると、
百済系ツゲ氏だそうだ(大阪アースダイバー)
被差別部落の源流がすべて渡来系と言う意味ではない、
その多くは移配俘囚であろう。
平均的な倭人から見て「異人」であった人たち、
習俗習慣が異なった人たち、
彼らが被差別になったのであろう、 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>36
>河内の王朝の初現は4世紀第3四半期あたりの仲哀、
仲哀なんて本拠地が下関で、香椎に移動して亡くなったので、畿内なんて全く関係ない筑紫の倭王だよ。 >>41
>畿内なんて全く関係ない筑紫の倭王だよ。
河内王朝最初の大王墓である津堂城山古墳。
面白いのは水鳥の埴輪が出ていること。
お父さんのヤマトタケルを連想させる。
神戸の五色塚古墳は凱旋する神功皇后軍を迎え撃とうと、
カゴ坂皇子が「仲哀天皇陵を造る」という口実で兵を集めていた所。
五色塚古墳=4世紀後半。
時代も合う。
九州王朝説はUFOやネッシー、日ユ同祖論とおなじ類。 朝鮮人はひたむきに日本人との血のつながりを主張する
日本人は頑なに朝鮮人との血のつながりを否定する
朝鮮人は日本人に劣等感を持っている
日本人は朝鮮人に優越感を持っている
こんな感じに見えるな 普通の日本人は朝鮮人には興味が無いよ
優越感持ってるのはネトウヨだけ >>36
イマキに何を含めるかだが 相対的に使った
河内王朝の人々が新しい政権(大和?)から棄民扱いされたのではないか
外国人とは限らない 貧乏ともかぎらない 同族のものは大和にいても対象だろう
差別は自然発生ではなく政府の権限を利用した
もちろん差別することが新政府を擁立した部族たちの満足を買ったわけだ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
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>漢人とは楽浪帯方漢人の後裔である
百済人の事を指しているように思えるんですが、この推測はどうでしょうか?
漢人の漢をアヤと読みますというより、アヤという音に漢を当てはめたのです。
アヤは伽耶とか安羅とかのあたりを指すと考えられますので弁辰の人という意味でしょう 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 わかってほしいならわかってもらえるように説明しろ
察してちゃんかよ たぶん朝鮮民族が理性と知性を獲得することは不可能。
理性と知性は遺伝によって決定している可能性が高いのだ。
IQの違いと脳の遺伝子に違いは発見されていない。脳内物質・ホルモンには違いがある
性格の違いは脳内物質・ホルモンにあり、性格の違いが学習機能に違いをうんでる可能性がある
「カッ」としやすい人間は理性的でなく、学習能力が低く知的能力も低い傾向がある。
トルコ、パキスタン、インド、エジプトは韓国より貧しいが自然科学分野でノーベル賞をとっている
見通し可能な将来にわたって朝鮮民族が自然科学分野でノーベル賞は取れないだろう。
理性と知性を持っていない人間と会話によって問題解決は不可能であり
力によって制裁によって押さえつけるしかないであろう。彼等は遺伝子的に問題があるのだ。 朝鮮人は正気を失うほど激しく怒る。自分の命などどうなってもかまわないような状態になって、
牙を剥き出した動物へと変身する。口から泡を吹いて、まるで獣のような顔になるのだ。
残念なことにこの怒りの衝動、自分を見失ってしまう悪癖は、男だけの専売特許ではない。
朝鮮の女も恐ろしいばかりのヒステリーを撒き散らす。
朝鮮人は幼い頃から自分の気分を制御することは躾けられないようだ。
子どもたちも大人たちを見習って、気に入らなければそれこそ狂ったように駄々をこねるが、
結局自分の意志を貫いて達成するか、さもなければ長い時間をかけて鎮静させることで落ち着くのである。
(H・B・ハルバート『朝鮮滅亡』)1906年
『朝鮮人は、自分の知的水準を引き上げ、精神世界を拡大しようとするという努力があわれにもないのに、
社会的地位を高めようという激しい欲望だけはある。 自分のものでなくとも少しばかりの金を自由に
動かすことができるとか、何人か働くのを監督するとか、ともかく物の面、
金の面で人間を支配できるようになると、おしなべて有頂天になる。朝鮮人は、有力者になる、
あるいは名声を博すということだけで、まるで逆上してしまい、ますます尊大な態度をとるようになる。
朝鮮人特有のこの感心できない性向が、じつは企業、あるいは教育、宗教の分野で、
朝鮮人を登用する際に起こる、ごたごたの原因の一つなのである』
(H・B・ハルバート『朝鮮滅亡』)1906年 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>54
続日本紀延暦4年6月坂上田村麻呂の奏上が真実で7つの姓をもつものをひきつれ
7つの姓が朱・李・多・皀郭・皀・段・高の七姓漢人なら東漢は中国人ではないのか >>58
イマキとは新しくきた渡来人のことで、昔からいる渡来人と比較しての言葉
河内王朝の人々は大和にもとからいるひとから見れば新しいのではないか
大和が政権を握ったとき河内政権がつぶされ、それに属す人民が棄民扱いされたということはないか 欽明元年の「秦人ら7000戸あまりが近くの国から渡来して、各地の国郡に配置した」が気になります
当時、部族社会ですから、団体で7000戸余りが来たのです
各地の国郡に分散したという意味は専業集団ではなかったということですよね だから農民ですね
農民を招聘することはありませんから、団体で押し寄せてきたのです
やむにやまれぬ事情があればこそですよね、倭国にとっても脅威です
近くの国からやむにやまれぬ事情で7000戸が集団で押し寄せてきた
この推測は間違ってますか?どこから来たのですか? アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
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>欽明元年の「秦人ら7000戸あまりが近くの国から渡来して、各地の国郡に配置した」
何書? >>63
意味が分からない。
河内王朝というのは普通にそれ以前の大和にあった王朝(実質10代崇神から)の延長上にある。
戦後、騎馬民族説をはじめ王朝交代説が幅を利かせたが、全部証明もされないし今では話にならない。 南朝から都督を得た倭の五王政権は大和の延長ではないことは考古学的に認められている
河内の古墳群と大和の古墳群が平行して存在するからだ
経済的には河内のほうが発展した 倭の五王が都督を利用して半島と経済を一体化したからだ
騎馬民族説は妄想だ
実際は辰王という権威と正統性のある王が倭国に渡ってきて旧領土の支配権を主張し都督を得た >>69
お前が考古学の研究の現状を知らないことはよく分かった 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 そもそも畿内の王権の中心が大和であるという思い込みが間違いでは?
畿内全体で一つの王統が移動していたということでいいだろう。 >>711
トンデモ研究のリンクなんか貼っても無意味だぞ >>73
大和の王権が河内に移動したとしてどのようになぜ中国南朝から都督を得ようとしたのか
また得ることができたのかを説明すべきだ
>畿内全体で一つの王統が移動していたということでいいだろう。
いいだろうはいい加減な態度だ それほどに大和に固執していては真実はわからんよ >>75
それなりに根拠を持って書いていることはわかっただろうから
トンデモというだけでなく、反論すべきだ >>74
九州に何の遺跡があって倭の五王が九州なのだ
九州説は古代史の濡れ落ち葉だ
誰も止めないから九州説と心中すれば? >>69
>南朝から都督を得た倭の五王政権は大和の延長ではないことは考古学的に認められている
>河内の古墳群と大和の古墳群が平行して存在するからだ
あのなぁ、生駒山超えて両方が存在してるからって何なんだ。
三輪王朝から河内王朝まで墳墓、埴輪、土器、副葬品において文化的断絶はない。
これが考古学の答えだ。
君は三王朝交代説か?はっきり言う、古い。
そんなもの昭和の亡霊の様な説だ。 >>69
>騎馬民族説は妄想だ
>実際は辰王という権威と正統性のある王が倭国に渡ってきて旧領土の支配権を主張し都督を得た
結局、騎馬民族説かその亜流ではないか、くだらんw
辰王(笑)
どこに住んだのか、またその証明は大変だぞw
まぁ無理だからあきらめろ。
もう一度言う、百済からの渡来民は被差別部落を形成した。
それが歴史の真実だ。 大和にこだわりすぎ。
戦前の神武からの万世一系説から抜け出せていない。 >>80
ファッションじゃないから新しいも古いもない
断絶があるから言っている 文句があるなら示しておいた博物館に言え
韓式土器・馬・縫製・鉄・須恵器・漢字がなぜ一挙に到来したのか
これらがくるまでの大和は土器文明、徒歩、貫頭衣の土人の世界なのだ
これが断絶でなくてなにか 考古学は古墳だけではない
そうよ被差別部落はこの河内王朝の連中なのだと先から言っている(イマキという相対的な言葉で)
河内が大和と同じ系統の王朝の連中なら差別されまいよ やっとわかったか >>81
前掲のサイトの全体を読んだのか また日本書紀を読んでいるのか
仁徳が堀江の開削をしその南に宮を作ったと出ているだろう
その京に大通りを作り、それは南門からまっすぐ南に丹比まで達したとあるだろう
大阪の上町台地は孝徳が都する前からの河内の倭の五王の都なのだよ
君ね、大和の明日香みたいなところより上町台地を調べるべきなんだよ
ここが日本の中枢だったと思うよ いいヒントをやってしまったかな 畿内説が河内や摂津を中心に展開していたら手強かっただろう。
内陸の大和を主張するから馬鹿にされる。
弥生時代は海運が主力だから、内陸は発展が遅れる。
なぜ畿内説が大和にこだわるかというと、神武が即位したから、くらいしかない。
纒向や箸墓は、後からこじつけただけ。 >>86
政治にしたがっているのは妄想が認めてもらえない陰謀史観のキチの方だけどな では、なぜ畿内と言いながら、何もない大和を中心にしようとするんだ? まあ、大和大和と馬鹿が言い続けてくれた方が揚げ足取りやすくていいけどね。 揚げ足を取ったつもりで自分が盛大に引っくり返ってるのに気が付かないトンデモさん 「大和」は昔から日本書紀を信奉するグループがいただけのことさ
このグループは執拗だ 日本書紀にあわせて証拠を捏造しようとする
いまでも捏造しようとする文献を史料扱いしている
歴史は嘘に嘘を重ねなければならなくなってしまっている 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 自分の説をすべて証明できているわけでもないのに
他人の説を間違っていると決めつける人が多いね
>>1
「餘噍」は人名とは読めないそうじゃないですか
だからそもそも、禰軍墓誌の件と百済の王族が日本の王族になったかという件は
関係がない 「餘噍」は日本書紀景行紀27年12月の段にも使われている 取り逃がしたものという意味
禰軍墓誌の「日本餘噍」は「日本の取り逃がしたもの」という意味
このとき倭国はまだ日本と言っていないから
白村江の戦いで取り逃がした百済人のこと 扶桑の国に身を隠してどうの・・といっている
倭国に逃げ込んだ百済の残党という意味になる。その長は扶余勇なのだ。
なぜって、旧唐書の劉仁軌の条に勇は南にあるとか倭国に逃げて居るとか書いてるだろう?
その扶余勇が倭国にわたって何をしたかが問題なんだよ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >だからそもそも、禰軍墓誌の件と百済の王族が日本の王族になったかという件は
関係がない
いささか表現に問題がある。百済の王族が倭国にわたって行動したにすぎない
その人物を日本書紀は「アメミコトヒラカスワケノスメラミコト」と名づけた
日本書紀はそこまでしかいっていない
その後、誰かが血筋の正統性を「アメミコトヒラカスワケノスメラミコト」に求めた
つまり日本書紀を書いた人はそのように利用されることを知らなかった 鬼室福信とか億礼福留とか黒歯常之とか
こいつら倭人系なんでそ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています