(田川)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
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資料の多い九州
邪馬台国卑弥呼や倭人について語ろう >>138
>この地図で「貝の消費地 北部九州の弥生のクニグニ」と書かれているオレンジ色の範囲が邪馬台国かな
邪馬台国というより、倭国だろう。
邪馬台国は王都となっているから、福岡。 前スレで取り上げた事がニュース速報+でスレたってた
http://n2ch.net/r/-/newsplus/1542397410/154-?guid=ON&rc=168
やっぱり貝輪と海人族のつながりは興味深い
あと大分の金細工の鉄鏡のトルコ石使用も謎のまま 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:39828eafcc6c2073b074103bd7eecdc9) 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 大分の鉄鏡を気にしてたら
またニュース速報+にスレきたわw
初期の邪馬台国は女王は大分から来て福岡に
住み着いたのかなあ
http://n2ch.net/r/-/newsplus/1542374845/?guid=ON&rc=879
またロックされるのかな 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:39828eafcc6c2073b074103bd7eecdc9) 大分の鉄鏡のトルコ石が
どこから伝わったか説明できる人いる?
不思議だよね
私たちの想像以上に昔の人達は活動的だったのかも 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 万葉集に
「河内王を豊前国(=大分県か田川郡鏡山神社)の鏡山に葬る時」
という題のつけられ「豊国の鏡の山の
岩戸立て隠りにけら」という歌がある。
河内王が鏡山を墓として埋葬されたという歌だが、
このときの岩戸とは死者が他界に行く入口を指している。
古来から日本では他界に去った死者の霊は
山の神となって生者の守り神となると考えられていた。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>138
誰かがその辺をまとめてこっちの板にも持ってきたみたいだよ
瀬戸内海も日本海も九州の海人の勢力圏だったというのは面白いね
【九州説】邪馬台国 魏志倭人伝を正しく読む
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542023631/593-602 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ごほうらの貝がー、銅釧がー、って言ってコピペして回ってる人は
東遷厨って呼ばれる人なんだってね 面白い見解があったのでコピーさせていただきました
546: 11/25(日)17:08 ID:qvgWxeKF0(1) AAS
倭国の政変は3世紀末〜4世紀前半頃で、卑弥呼の時代より少し後
卑弥呼のいた弥生末に九州中心に分布していた破鏡が古墳前期には瀬戸内海〜畿内へ移動している
一枚の鏡を割って割符とし、穴を開けて紐を通し兵士たちが持って移動した
166 :ホワイトケープ :2018/10/06(土) 18:57:54.78
破鏡をご存知ですか。銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に後加工したものや穿孔したものが、墳墓からだけでなく住居跡や田んぼからも見つかります。
弥生後期の遺跡から出土する、神武東征由来の遺物です。
次は破鏡の分布図で、図40は弥生後期〜終末期の分布、図41は古墳時代前期の分布図です。「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎から借りています。
図40(画像リンク[jpg]:vbsoft.sub.jp
図41(画像リンク[jpg]:vbsoft.sub.jp
熊本平野、大分大野川流域の状況が特徴的です。
ほとんどが集落域からの出土ですが、弥生終末期にのみ見られ、古墳時代には全く見られなくなります。
当然なことで、神武東征が九州を発つ前に狗奴国や大分の従わないクニとの決着の戦いの痕跡だからです。
福岡平野で募られた兵は、家族との長い別れに、親子兄弟、妻とも家族の絆として鏡を分け持って出発したのです。
家族の証明はこの割れた鏡が合わさることでしか、確認できない時代です。
出征兵の親は、待てど帰らぬなか亡くなっていき、鏡とともに副葬されました。
兵たちは落とさないよう穴をあけ首にかけていたが、戦闘の中で田んぼに落とすこともありました。
突然の出立に、置き忘れることもあったでしょう。
妻や子は、小さなかけらをもって後を追いかけました。
鏡種を調べると、内行花文鏡と方格規矩神獣鏡が多く、三角縁神獣鏡は一面もありませんでした。
三角縁が東征後の鏡であることは明らかです。
東征を卑弥呼の前とする説がありますが、その時代にはこのような痕跡は全く見つかりません。
九州の三角縁神獣鏡は古墳から出土し、奈良から帰還した兵が持ち帰ったものと思われます。
素晴らしい見解と思いませんか? >>155はニュース速報+のスレから
【歴史】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か「日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」 福岡・西新町遺跡 班長レベルじゃないかな
割って仲間同志の割り符としたとか
しかし銅鐸は何に使ったのかね >>155
大元の出処はこのスレの166みたいだな
神武・倭国の連合東遷説
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1535685239/
そのホワイトケープってコテは他にも同一地名や山名の分布とか分析しててなかなか本格的に調べているように見える >>144
水銀の生成法から大陸製ってことが判明してる 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 お疲れ様です。
私初めて>>160を読ませてもらいましたが
スゴイ!びっくり、素晴らしい
一度でファンになりました。 >>167
こっちじゃなくあっちに書いてやれよマヌケ 根拠もない妄想なんですが
倭国の人達は
倭の全体の土地が家(神社や宮)と考えて
クニグニの名前をつけてないかな?
大工の専門用語と被るね。
宗像→棟方(神社や家の屋根)
投馬(つま)→妻(建物の端の壁)
偶然bゥな。
建鋳z詳しくないけbヌ調べたら、もbチとあるかも?=@ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 「戦」いくさ
単とは頭に鷹の羽根を3枚頭にさして
戈を手に持った姿
単+戈=戦
その昔、田川(鷹羽)の戦士達は頭に鷹の羽根をさしていて
とても勇敢だったらしい
信長の時代だったかな、九州の兵士は
滅茶苦茶に強かったから、なかなか手を出さなかった
島津軍もほんとに強かったそうだ 日本書記や古事記の中つ国葦原とは
福岡県筑紫郡那珂川辺りだね
ヤマタノオロチは那珂川を含めて裂田の溝を含めている
洪水被害の多かった地域に「さくたのうなで」を
造ったことで地域に安定をもたらした
裂田神社の横の地中の大岩(花こう岩)が
ヤマタノオロチで剣の刃が欠けた所
偶然かも?その地域は山田ノオロチ
神話の始まりは、やはり福岡
@東京 つまりヤマタノオロチとは
水害洪水で住民に被害をもたらす
川のこと ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 豊中国葦原を筑紫郡山田一帯とするならば
那珂川の上流側に天の高原があることになる 日本、古倭奴也。
去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。
國無城郛、聯木為柵落、以草茨屋。
左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。
置本率一人、檢察諸部。
旧唐書と新唐書
平家物語をよんでも当時の人々の家は 今日、江戸東京博物館に行ってきました
企画展「古代を彩る至宝(玉)」を見てきました
全国に翡翠、赤メノウ、碧玉など
いろんな勾玉がありますね
あぁいろんな所を旅したくなった 最近ニュース速報+に古代史歴史スレが、よく立つね。
これ気に入った
963: 12/11(火)09:13 ID:R4ELcWF90(12/17) AAS
>>954
邪馬台国畿内説などと言う学説は存在しない
卑弥呼が居た三世紀半ばは、西日本は出雲や吉備や近畿などいくつかの豪族が割拠して
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他を軍事的に統括することは出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な常識であり、異を唱えるものなど居ない。
しかるに、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺を軍事的に統括することが出来ずにいるのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括することが出来たと主張することになる。
このような説はバカが言う説であり、もはや学問の体をなしていない。
邪馬台国畿内説は検証を加える以前に、立論の段階で失敗してしまっており、学説として成立していない。
邪馬台国畿内説は、ただのファンタジー >>183
>全国に翡翠、赤メノウ、碧玉など
>いろんな勾玉がありますね
>あぁいろんな所を旅したくなった
勾玉の発祥・供給地も倭国(阿波) と、何度言えばw
勾玉製作の本家本元 倭国(阿波)へいらっしゃい。 @阿波 >>184
>卑弥呼が居た三世紀半ばは、西日本は出雲や吉備や近畿などいくつかの豪族が割拠して
>緩やかに連合している状態であり
妄想過多。 各地で「忌部はん」が活動・活躍しているだけのこと。 @阿波 >>184
そもそも畿内説って言葉の時点でセンスがない 大和では遺跡が全く足りないから拡大しただけだからね。 >>189
>大和では遺跡が全く足りないから拡大しただけだからね。
それ以前に、海だね。 海が欲しいから拡大した。 海に接していないとお話にならない。 @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 忘れない内にコピーしとこ
: 09/05(水)23:12 AAS
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部。大正二年五月発行、『怡土志摩郡地理全誌』東京糸島会発行所収)
「福岡県地理全誌」は明治5年、陸軍省の「全国地理図誌」編集の命を受け、
旧福岡県(筑前15郡)が明治5年から7年にかけて調査し、5年から13年にかけて
編集した郡村地誌である。
第六巻は早良・怡土・志摩の各郡を収めた 【筑紫の日向】
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、峰々に楼閣があった。
その中に高祖神社がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。 クジフルとは久智古?久智振?
あと津の意味は、港?船着き場?市場?
どなたか教えてください 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>195
漢字がなかった頃の地名だから、漢字は全て当て字。 >>189
>大和では遺跡が全く足りないから拡大しただけだからね。
それ以前に、海だね。 海が欲しいから拡大した。 海に接していないとお話にならない。 @阿波 >>195
本来の意味は船着き場です。でも発展すれば港にも市にもなるでしょ 猿田彦
実は、猿田→さるた→去る田
天照の領地の古代米を配った、もしくは苗を配った人
古代米をサルタと言う場所も有るんだよ
やっぱり人間だもの
食べさせてくれる人(農業指導者)が初期の神になったはず
もちろん妄想だけどね、当たってる気もする 大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。 @阿波 「忌部はん」 はみんな農業神でもあり、最先端のスーパー頭脳集団なんだよ。 @阿波 >>193高祖村24戸
これよく読んで思ったのは
倭人伝の住民2万などの表記は嘘かも。無理がある
何人が調べたのか知らないけど
万の数字を数えるのは想像以上に難しいぞ
筑前国郡絵図 福岡県立図書館 怡土郡
これに高祖村の椚地区が何処なのか記してある : 09/05(水)23:12 AAS
>「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべ>しと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
>其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
>民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
>田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
江戸時代にこの状況だったから、三世紀の高祖村なんて、どうだったんだろうね。
此処に出てくる原田家というのは、中世以来のこの地の領主・旧家だろ。原田大六も其の家系だったのかな。 逆に、今の椚集落はかつての五郎丸とやらの中にあるということだな。
つまりは高祖城の城郭の中ということだ。
高祖城、怡土城の城域は200ヘクタールとされているが、椚は含まれていなかったように思う。
しかし実は椚やその傍を通る日向峠も城域に含まれていたのだろう。
そうでないと伊都の防衛に不足するもんな。
伊都と博多を結ぶ主要交通路を遮断する山城が高祖城というわけだ。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>215
>伊都と博多を結ぶ主要交通路を遮断する山城が高祖城というわけだ。
読んでて哀れになるから、妄想の九州説を書き連ねても無駄だと思うよ?
高祖城なんて、3世紀以前にはあるはすもないんだから >>215
>伊都と博多を結ぶ主要交通路を遮断する山城が高祖城というわけだ。
妄想は聞き飽きた と、何度言えばw @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 筑前・高祖城 (別名:高祖山城,原田城)
>形態・朝鮮式山城(416m/380m)
>建長元年(1249年)に原田種継によって築かれた。 高祖山城は元・怡土城の一部を利用して築かれている。 筑前・高祖城主の原田一族は、中国人の血筋だった、、、 伊都城と書いたほうがいいのか?
もともと中国の国邑は城壁を持つのが普通だしな。
奴国は城壁など持たない広域都市だったろうけど。 「年魚あり」これってどの古文に書いてあるのかな
忘れて見つけられない 筑紫の日向のクジフル山にある宮なら、高千穂宮と呼ぶべきかな。
魏志倭人伝も記紀も、伊都が倭の王都ということで一致していることになる。
そもそも、これだけの大国?で王都の場所がはっきりしていないなんておかしいけどな。
隋書や唐書を読んでも、倭の王都はそもそも筑紫なんだよ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 西向きの伊都・高祖・日向ではねえ
糸島は、博多奴国から監視されてたんじゃないの 西向きだからいいんだよ。
神武が長髄彦と戦った時の言葉に、天神は太陽を背にするべきだとある。
高祖宮はまさにその通りの配置なんだよ。
糸島平野から見ると、高千穂の神奈備を日の出る方角に仰ぎ見ることになる。
これは神仙思想や天照の太陽信仰にも通じる。 >>227
ウソはイカンぜよ
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」
倭国(阿波)の「竺紫(とくし)」で、倭国(阿波)の「阿波岐原」
高らかに、倭国(阿波)を讃えていますね。 @阿波 西は日の没するところ
ま、仰ぎ見るということは、臣下だったということだな 糸島平野は、筑紫平野の1/30ほどしかない。しかも西向きのどん詰まり。
笑わせんな。 >>233
まぁまぁ、トンデモ九州同士、喧嘩はおよし。 @阿波 怡土城の城郭は、山頂と西麓にあるので、三雲地区から見上げることになる。
福岡側からは見えない。
臣民は東を仰ぎ見て、天神は太陽を背に君臨する構図になる。 雑穀か。
古代の中原の主食はアワ、アワめしが一番の御馳走だったのだ。 福岡の出城で、糸島の監視台だったのだろうな。
そう考えると配置が良くわかる。 もめないで答えてくれ
年魚ありってどの古文にのってるのさ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています