怡土 (釋日本紀 卷十)
筑前の国の風土記に曰はく、怡土の郡。
昔者、穴戸の豊浦の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし
足仲彦(たらしなかつひこ)の天皇(仲哀天皇)、
球磨噌唹(くまそ)を討たむとして筑紫に幸しし時、
怡土の縣主等が祖(おや)、五十跡手(いとて)、天皇幸しぬと聞きて、
五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を抜取(こぢと)りて船の舳艫(へとも)に立て、
上枝(ほつえ)に八尺瓊(やさかに)を挂(か)け、
中枝(なかつえ)に白銅鏡(ますみのかがみ)を挂け、
下枝(しづえ)に十握劔(とつかのつるぎ)を挂けて、
穴門の引嶋(下關市彦島)に參迎(まゐむか)へて獻(たてまつ)りき。
天皇、勅して、「阿誰(たれ)人ぞ」と問ひたまへば、
五十跡手奏(まを)ししく、
「高麗の国の意呂山(おろやま・蔚山)に、天より降り來し日桙(ひぼこ)の苗裔(すゑ)、五十跡手是なり」
とまをしき。
天皇、ここに五十跡手を譽めて曰りたまひしく、
「恪(いそ)しきかも伊蘇志(いそし)と謂ふ。
五十跡手が本土(もとつくに)は恪勤(いそ)の国と謂ふべし」とのりたまひき。
今、怡土の郡と謂ふは訛れるなり。 (今井似閑採択) )
  
コピーですいません。下関市彦島は、いまの田川郡彦島だよね