(田川)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
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資料の多い九州
邪馬台国卑弥呼や倭人について語ろう 遠賀郡の西部で
初期の武器形青銅器の副葬がみられる
石棺墓が主流の先着の海の民の巣ですね 牡鹿はないかなあ
男鹿とか、龍の角に似てるし
昔は九州には鹿が沢山いたみたい
鹿を神様の使いとみて、鹿のつのを宝のように
思っていたかも
うろ覚えだけど、宗像神社だかどこだったかの
宝物殿には鹿の角が沢山あるらしい
私が言ってる昔は、勾玉や玉の流行るまえの
話ね
以上全て妄想ですwww >>449
妄想するなら何かしらの根拠がほしいな
「たしか・・・」とか「うろ覚え・・・」とかじゃなく >>451
妄想するだけなら頭の中だけでやってろ定期 とんぼの国
とんぼは横に飛べない
真っ直ぐに飛び獲物を捕獲するイメージ
戦士や狩人のイメージ
秋津トンボみたいに朱を塗ってたのかな
古代の歌にトンボでてくるけど
全部のトンボの意味が豊作や雅さ
を歌ってるとは感じない
これも個人的な妄想かな もうひとつ聞いてみたいんですが
倭人伝で対馬が南北に商いして食べ物を
買っている様な部分ありますでしょ
これ対馬の人は何を代価としたのでしょう?
まさか海産物じゃあるまいし
代価、これもしかして鹿の角? >>440
小倉も遠賀川流域も物部氏の支配地域
筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ、推定所在地は鞍手郡鞍手町新北)ニギハヤヒの出身地か
筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ、推定所在地は北九州市小倉北区、小倉南区、門司区一帯) 物部とつく地名は多く、その全てが饒速日に関連しているわけではない。 いや対馬国は何と米?を交換してたのか
ときいてん
お金はないだろうに >>454
海産物でしょ。自前の交易品はね。
あと、交通路のど真ん中にいるので、通過マージンを独占できる。
鉄原料→壱岐対馬の言い値 →日本側は逆らえない
翡翠絹→壱岐対馬の言い値 →半島側は逆らえない
壱岐対馬を領有する勢力が最強 そこを抑えるために大率を伊都においた。
つまり、上がりは全て卑弥呼のもの。 北部九州はもともと女系文化も強いから、男系の本貫とは限らない。 現代世界でも同じ。
資源国よりも加工貿易国(技術料を上乗せ)のが経済利益は上。
そしてさらにその上に流通アマゾンが来た。
流通を支配すれば輸送代だけで巨大な利益を手にできる。
弥生時代の壱岐対馬なんて代替ルートがないんだから最強。 自分が何も作らなくても手数料だけで莫大な利益が入ってくるからね。
そしてその利益こそが生活を維持する手段なのだから、
対馬海峡渡海技術は秘中の秘。
魏使は少なくとも対馬海峡部分は倭船で渡海した。 男系の天津神(対馬海峡勢力)と女系の国津神(博多湾勢力)を統合したのが卑弥呼。 その対馬海峡の航路について述べた魏志倭人伝は、当時にしてみれば極めて重要な資料だったはず。
適当な数字を当てはめただけなどということはない。 商売の航海ルートは秘中のヒミチュなの
だから数字や方角は正確には教えて貰えなかった 『三国志』魏書東夷伝弁辰条の「国出鉄韓濊倭皆従取之諸市買皆用鉄如中国用銭又以供給二郡」,同倭人条の「南北市糴」の記事について,対馬・壱岐の倭人は,コメを売買し,鉄を市(取)っていたと解釈した。
斧状鉄板や鉄鋌は鉄素材で,5世紀末に列島内で鉄生産がはじまるまで,倭はそれらの鉄素材を弁韓や加耶から国際的な交易によってえていた。
鉄鋌および鋳造斧形品の型式学的編年と分布論から,それらは洛東江流域の加耶諸国や栄山江流域の慕韓から流入したものであった。 >>467
日本語の名称の意味を考えれば当然の解釈ですよ。 >>469丁寧にありがとうございます
確かに倭人伝の頃は鉄だったのでしょう
でも鉄の交易より前に、両国の往来は
なかったのでしょうか
玉や銅やその他の時代もあったはずですよね >>469
ttp://doi.org/10.15024/00001186 とうとうニュース速報+きたな
【邪馬台国山門説】筑後に伝わる古代のロマン
卑弥呼・磐井の足跡たどる特別展開幕 九州芸文館
みんなのレスを読むのが楽しみ 東征とは何だったのだろう
各地に出向いたのではなく
福岡にいた豪族や地域住民と神社関係者を
引っ越しさせただけだったのでは?
集団島流しみたいな
そして畑や土地を横取りが目的
これも妄想ですかね? >>475
妄想だけなら文字にしないで自分の頭の中だけでやっとけよ
妄想を文字にするなら、せめて妄想の根源となった根拠くらい示せ
根拠がないなら文字にするな >>475
>東征とは何だったのだろう
東征は、倭国(阿波)国内で起こった出来事 だと、何度言えばw
卑弥呼の時代にそんな大遠征など出来るはずもないでしょ。
いい加減に常識の判断をしよう。 @阿波 >>477博学な阿波さんに質問
なぜ九州と関西に同じ名前の神社や地名が多いの? >>479
>なぜ九州と関西に同じ名前の神社や地名が多いの?
だから、倭国(阿波)を発った忌部一族の痕跡 だと、何度言えばw
それはなにも、九州と関西だけに限った話じゃないんだよ。 @阿波 >>480
オッケー分かった
御託は巣に帰って、、、
なんだ質問に答えたのか どうして泡は決まり切ったことしか書かないんですか?
無能だからですか?
根拠がほぼないからごく僅かなことしか書くことがないからですか? >>486
>どうして泡は決まり切ったことしか書かないんですか?
それはね、君が決まり切ったことしか書かないからだよ。 なんせ、それの回答なんだから当然w @阿波 >>480返答ありがとうございます
阿波さんは鳥取のしとり神社って知ってます?
倭って(し)とよむんですかね 海人族
初めて海を渡った人は、どんな気持ちだったのだろう
怖かったのか、胸がおどったのか
敵から逃げるのに精一杯で大波の恐怖さえ感じなかったのか
海上では何時でも死と同居してるも同然
小さな木造舟で大海を渡る
勇気あるなあ男だねロマン溢れてるスゴイ! >>490
目視できる島伝いは石器時代から航行してたわけだし、生活の糧だからロマンなんて全くなく淡々としてただろうな いや冬の玄海灘は半端ない
手漕ぎ船とか信じられない
冬の対馬なんか東北地方みたいな強風と波
とんでもない勇気いるぞ
北朝鮮だって冬は遭難多いだろ >>492
だから、対馬海流の流れに従うしか術がない と、何度言えばw @阿波 対馬海流の流れに従えば、壱岐から流れつくのは福津・宗像方面。 @阿波 >>495毎回毎回同じ書き込みしなくていいよ
毎回書いてたら嵐と同じだよ
阿波さんは物知りだし良いとおもうぞ
ただ四国愛が強すぎるだけなんだ
(’-’*)♪ 遠賀川一帯が興味深い
河口からかっての上流域まで全部
ここが商業ルート
一番豊かな地域か
沖出古墳あたりまで >>471
半島の南東部とは縄文の頃から貝交易で接触していたよ
沖縄近海でしか採れない貝の交易をしていた、九州北部の海人と呼ばれる人々がおそらく半島南東端にも渡っている
魏志倭人伝に言う狗邪韓国は韓伝じゃなく倭人伝のほうに記されているから、こうした倭人の国だったんだろうね
https://pbs.twimg.com/media/DsWScScV4AEIsU0.jpg >>498
遠賀川も興味深いが、福岡の繁栄には及ばない。
半島交易と西南諸島、瀬戸内海の交易の分岐点である那の津を中心とした倭国の姿が見えてくる。
そして博多湾を見守る筑紫の日向の高祖山が高千穂宮として戦略的山城として機能していたのだろう。 イザナギの国生み神話は博多湾の能古島に始まる。
アマテラスを祀るのが沖ノ島の国家的祭祀。
ニニギの天孫降臨は宗像氏族に守護されて志賀島(博多湾を守る笠沙の岬)に上陸し、海の中道(天の浮橋)を通り、飯盛山の猿田彦に導かれて高祖山(クシフル山)の高祖宮(高千穂宮、伊都城)に入る。
博多湾沿岸の国津神であった大山祇・綿津見一族の木花咲耶姫や豊玉姫を娶り、筑紫の日向三代の男王が倭王として金印を拝領した。 すいませんがクシフル山とは確定しているのでしょうか
やまともどの地域か確定しているのでしょうか
クシフル山は英彦山でいいんでしょうか
やまととは大和の読みで正しいのでしょうか
全くわからないけど クシフル山は福岡市と糸島市の間にある高祖山の最高部の名前だそうです。
高祖山は筑紫国にあり、南に日向峠、東に日向川、北に日向の小戸があるので、ここが筑紫の日向の中心でしょう。
倭国王権の発祥の地であり、東には三種の神器を副葬された須玖岡本遺跡、西には三種の神器を副葬された三雲南小路遺跡があります。 古代九州とはニコイチの国とも思えて
ヒミコ=ツキヨミ
肥後=肥前
糟谷=裏糟屋などなど
数えきれないほどニコイチみたいな地名が多いの
ならばヤマトに対してミナトかと
ミナトの隣がヤマトとか クシフルのクシとは櫛・孔雀・鯨波のどれかと
フルは分からない
九州で、フル、ハラ、マルと言えば国邑の意味。
クシはぐぐると神秘的なこととか。 >>507
明治の頃までは国土地理院発行の地図にも載っていたらしい。
昭和になって古田氏が地元民から聞き出して本にまとめた。 >>509
古田の地元聞き取り調査ほど信頼性の低いソースはないやんけ ソースが見つからないと地元の伝承にあったと言い張る古田氏
まぁ、そこ以外は概ね信者だけど 「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部。大正二年五月発行、『怡土志摩郡地理全誌』東京糸島会発行所収)
「福岡県地理全誌」は明治5年、陸軍省の「全国地理図誌」編集の命を受け、
旧福岡県(筑前15郡)が明治5年から7年にかけて調査し、5年から13年にかけて
編集した郡村地誌である。
第六巻は早良・怡土・志摩の各郡を収めた。 高祖山はもとは日向山と呼び、椚(日向峠に今でもある集落)の裏手の最高峰をクシフルと呼んでいたことがわかる。
高祖山には山麓から山頂まで囲む山城が律令時代にはあり、糸島平野に多数の王墓を抱える王都としての地域の特性を考えると、古代においても山城の基礎はあっただろう。
特に弥生時代に最大級の国邑であった奴国との陸路であった日向峠の上に砦を作るのは合理的である。
記紀の高千穂宮、魏志倭人伝の楼閣そびえる女王の王城も同じものかもしれない。 _ ―- ‐- 、
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/: : : : : : : j: ヘ、: : : : \| /くl´::<ニ二 ̄`> ミ:::::::::/ 汎用人型決戦兵器には
./: : : : : : : \::::ヘ: : : : : : :ヽ {::ア{:::::::}厂¨,`_______j:::::://
{: : : : : : : : : : ヘ:::ヘ: : : : : : :', V ヘ::::ノ` ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ .{::::|ヽ 凡庸人型ゴキブリってことか
',: : : : : : : : : : : :\ヘ: : : : : :ヘ. / ヘ¨ //:}::::|/
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〈: : : : :ー---‐‐r―'´ :.:.:. ヘ: . ヽ . . }ー、 ./::::<
〈: : : : : : : : : : 〈r-‐、:.:.:.:ヘ.:.:.:.:. ', : : ',: . .|: : 〉 /:::::::/ 最高峰だとはどこにも書かれていない
明治期に収集された伝承であり、それが事実かどうかは未確定 朝鮮だけでなく、アジア全体の普遍的な用語らしい。
シンガポールもイスタンブールも同じ語尾だとか。
https://www.shochian.com/harubaru2.htm 結果として、現在に測量結果ではそこが最高峰なんだよ。 (ヽ∧__∧
、ヽ`∀´> <呼ばれて無いのに
)>>518つ チョチョチョチョーン
>⌒)ノ
ゝノ/
パカチョン ノ~ノ
/| ///
| | ///
| |ミ ///.
|/ ̄ /
" ̄ ̄ ̄ ̄ 実際にはどこが「クシフル」かわからないのに頭おかしい まぁ一応のソースとされたhttps://ci.nii.ac.jp/ncid/BN10899797も郷土史家の由比氏が60年前に書いたものだからな 同じ本の高祖山の項目にはクシフルのはなしなんて1ミリもないらしいぞ 記紀では「高千穂」に訛る南北に走る「高地尾」リッジ上のピークが「クシフル」
「クシフル」(高地山)はこの山塊の最高峰(419m)にあたり「高祖山」(416m)よりわずかに高い
半島の方向は北北西にあたり 山頂からの視界も北北西側に開けている
「クシフル」へのエントリーは北方向の今宿からが便利 今宿の谷は征服者である後着の海の民の巣のひとつなのでしょう
今宿の谷は現在の福岡市西区 周船寺界隈から高祖城跡北限に至る領域も福岡市西区
「あまくだり先」が「高祖山」ではないところが興味深い なんといっても「高祖山」からは福岡平野への展望は望めない
「高祖宮」は「高祖山」の三雲側の山裾(80m)に位置し 「高祖山」は三雲側との関連性が深い
ずばり 「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」の「日向」は「高地尾」リッジから東側の領域と理解したい
ちなみに「細石神社」や「南小路遺跡」の標高は41〜43mであり 征服者の海の民の居住区とは考えにくいのだが
海の民が持ち込んだとおぼしき楽浪漢式土器は弥生中期後半〜後期にかけて継続的に集中出土している >>525
細石神社は無関係だろう
太閤検地の時には既に社殿も残ってないほど荒廃しきっていたんだから >>526
それは金印ネタの傍証であって、クシフルネタとは無関係なのでは? >>509>>512>>513マジか
これが本当の本物真実なら
国の始まり日本書紀は福岡で決まりやん 邇邇芸の国見の詔
「此処は韓国に向ひ、笠沙の御前に真来通りて、朝日の直さす国、夕日の日照る国なり。かれ、此処はいと吉き地」
宮崎県では韓国は見えない。
対馬海峡を挟んで朝鮮半島の対岸にあり、東に福岡平野、西に糸島平野を望む高祖山なら合致する。
後漢書は対馬海峡が倭国としていて、王都はその南岸の倭奴国。
魏志倭人伝では伊都国が倭の王都。
記紀は筑紫の日向の高千穂宮が王家の王城であったと伝える。
全て一貫している。 またニュース速報+に九州北部の古代史スレたってるぞ
ちょっと行ってくる 真偽不明のネタに妄想を積み上げてドヤ顔するのが九州説メンタリティ 高祖山は東西に弥生王墓が密集し、考古学的にも倭国王権の発祥の地、稲作文化の伝来地。 玄界灘側の筑紫平野の海岸線は最大で800メートルも内陸だったらしいから、水稲は筑後平野の方がやり易いではあるな >>538
現存する最古の「博多古図」(約800年前)から推測される約1,800年前の海岸線がこれらしい
画像サイズが大きいが地名が読めるギリギリまで縮小してある
参考までに
博多古図
https://i.imgur.com/EI1K3Tr.jpg
博多古図から推測される1,800年前の海岸線
https://i.imgur.com/lePABFm.jpg >>539
なるほど、そうだったのか。
海岸線は、かなり内陸にあったんだ。いろいろ考えなおさなくちゃならんな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています