(田川)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
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資料の多い九州
邪馬台国卑弥呼や倭人について語ろう >>594
朝鮮起源説の盲信者がよくやるパターンだね。 みんなは万葉集の手持女王の歌を読んで違和感を感じないのだろうか?
テジカラ、イワトと読まれているのを
古事記の天岩戸と同じ表現がなされているのに。
古事記が出来上がる前に河内王は亡くなり
手持女王は、この歌を読んでいる
1度は手持女王の歌を読んでみてほしい そうなんでしょうね
でも文字として残ってるのは万葉集の歌が最古となりませんか 旧唐書に
倭国は、古(いにしえ) の倭の奴国也
日本国は、倭国の別種也
他のスレは倭人伝ばかりだけど
この一文は強烈だよね 倭種ではなく、倭国の別種ということは国家として元は同じということだよな >>605
日本国は倭国の別種
倭国は元 委奴国
委奴国は後に委国と奴国に分離
委国=倭国? 大和に向かった神武が筑紫にいた日向王家の分家にあたるのだろうな。
平原で見つからなかった内行花文鏡の破片を手に、故郷の筑紫を思いながら亡くなったのだろう。 >>607
>大和に向かった神武が
ハハハハ 神武はんは、山の中でジメジメした不便な所は嫌いなんだよ。 そんなところへわざわざ好き好んで行かないよ。 @阿波 >>193
>くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
[木毛]で、ウツギって読むんだけど、どこがクシフルの訛なのかさっぱり分からん >>587
>筑後川の支流の小石原川は、
>「夜須川」とも呼ばれる。
滋賀県守山市の伊勢遺跡は琵琶湖に流れ込む野洲川の流域の遺跡
こっちの方が、神々の集まった天安之河原にふさわしいようにも思う >>610
なんでそんな古いレスにレスしているんだ。 >>610フルとは
古代朝鮮語で神が降り立つ場所って意味だよ
ソウル(ソフル=ソブル=脊振山)も同じ語源に近い
瀬織津姫=セオリ・ツヒメ=脊振津姫
あり得ませんかねぇ? >>614
お前の言う古代朝鮮語ってのは誰が何を元に解読したものなんだ?
三国史記以前の朝鮮語の記録なんて日本書紀に断片的に見れるだけで実態が残っていないのだから解明不能な言語のはずなんだが? >>615
>>614の無能チョンコは>>613のリクエストに応じて出てきてくれたんだから、もっと丁寧にイビってあげなきゃダメだよ 私は九州倭人と韓国カヤ文明は
繋がっていたと思うよ
韓国の博物館の鉄鎧や金の首飾りや金の王冠は
九州の出土品とそっくりだよ
私は日本人ですけどね
ちなみに東京霞ヶ関から書いております。 >>617
韓半島の中南部は倭人が支配してたんだから当然だろ 古朝鮮語ネタとDNAネタは100%チョンコの妄想ってこと 君が代だいは 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけの娘、あれはや あれこそは 我君のみふねかや
こけのむすめ
これについて詳しくわかる文献とかありますか? ひょっとしたら
苔のむすまで〜ではなくて、
こけのむすめ
が正しいのでは?と思いまして。 3UOIjCl0(1/3) AAS
>>14
遣唐使、遣隋使が長安や洛陽で必死で買い揃えてたのが専門書ではなく向こうではやってた小説らしい
向こうの知識人階級の間では以外だったようで「日本人は小説好きだ」と記録に残されているほどだ これは余談ですが、
2013年『古墳墓碑:池田仁三・著』と言う本が発行され、
画像処理により志賀島から掘り出された金印の側面に、
金印受領者と思われる奴国王『常根津日子命(とこねつひこのみこと)』
と言う名前が刻まれていることが発見・報告されました。
これは、第3代・安寧天皇の第2皇子の名前であり、
福岡県堺の佐賀県・一貴山銚子塚古墳がその皇子の墓と言われています。
この『常根津日子命(とこねつひこのみこと)』の生存は西暦20〜66年となっており、
金印が授与された西暦57年と良く符合するという。
尚、この本には、古墳の積み石等の画像処理により、
今まで不明とされてきた沢山の古墳被葬者の名前を読み出して報告しています。
古墳に興味のある方はご一覧ください。
然し、『古墳墓碑』が発行されてから3年以上経っているのに、
この本はいまだに学会で取り上げられないので、
真偽の程、ちょっと不審に思っている所です。 「画像解析」どころか石棺表面は非破壊検査でスペクトル違いの光線を使って舐めるように撮影して専用ソフトで綿密に解析してる。
もしかして何か残ってないか?と。でも「無いものは無い」 素環頭太刀がある墓は王様の墓でいいのかな?
鏡より貴重? 中国のドラマとかだと、将軍クラスとかも剣を持っていた。
王族で内行花文鏡、王は璧とかかな。 ふつうの銅剣ではなくて
素環頭太刀ね
あまり出土してないし
舶来品だとおもうの 平群(へぐり)の地名が奈良にも福岡にもある理由について。
地名が複数あるということは、二つの理由が考えられます。
一、その地名が固有地名ではなく、一般地名の場合。
例、「宇治」京都南部と伊勢神宮の「宇治山田」です。
私は「宇治」を「二番目のやまと」と解釈しています。
「うじ」「うし」の意味については後日質問いたします。
二、大量移民が開拓地に、ふるさとの地名をつける。
北海道札幌の隣に「北広島市」がありますが、
広島の県民が集団移住して、「北広島」とつけたのです。
平群の場合も、北九州の平群族が奈良県生駒の平群郡を開拓したのです。
「へぐり」は「日来る」で東を指すとしたら、
平群族は、朝鮮か中国から北九州に渡来したのです。
ここまではよいのですが、
困った問題が出ました。
平群氏は、武内宿禰(たけのうちのすくね)の
九人の息子の一人を祖にしている民族なのです。
平群氏が渡来人であれば、葛城氏も西から渡来したとなります。
渡来人に関して。葛城氏は、雄略天皇に滅ぼされたことにして、
朝鮮に持っていた領土に一旦逃げ帰り、
秦氏、和迩氏、蘇我氏など名前を変えて、
渡来人として再登場したのではないかと思っています。
だから武内宿禰さんはあやふやな存在になってしまった。
共感した 福岡の古代史的に重要な若杉山がある
この同じ名前が四国にもある
やはり四国も倭国九州からの移住が多いのか 福岡の古代史的に重要な若杉山がある
この同じ名前が四国にもある
やはり四国も倭国九州からの移住が多いのか 福岡のキャンパーブログかなんかで若杉山の面白い記事見たことがあって
海側はワダツミ信仰で反対側(宇美側)はオオヤマツミ信仰で不仲
後にワダツミ信仰は真言宗に置き換わり、オオヤマツミ信仰は天台宗に置き換わって、やっぱり不仲
海側のふもとにある太祖神社は博多神楽の発祥地だけど、どういうわけか宇美八幡だけは独自に宇美神楽を実施してる どなたか教えてください
昔の糸島の苔とは、現在の場所はどこなのですか?
よろしくお願いいたします そう苔こけ
君が代に出てくる漢字は現在の糸島市の地名だと聞きました
千代、さざれ石、巌、苔
この苔が知りたいんです
よろしくお願いいたします 泊瀬朝倉宮御宇天皇代
泊瀬朝倉宮に宇御めたまひし天皇の代
万葉集の初っぱなはじまりに書かれてるこの文字
これは福岡の朝倉だろ
なんで岩波文庫の万葉集は奈良県の地名は推定で表記しているのか?
福岡にきまっとうもんおかしか
もう岩波の本は買わない
中古古本だけにする 福岡だけでなく、壱岐にも大分にも初瀬(泊瀬)の地名があるな。
しかし王都に相応しいのは福岡であろう。
朝倉橘広庭宮なども置かれており、大宰府との関わりも窺われる。
奈良の泊瀬の方は移転されてきたものだろう。 >>641、644
博多モンの希望を当然のように語られてもな・・・ 岩波文庫の万葉集の解説が気に入らないから読むのやめて
「九州王朝 木簡」でググってみたら
あるじゃないですか木簡、結構前から。
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-02b0.html
このblogの解説みると、奈良は郡をつかい、九州は評だった
みたいな解説。
仮題〜九州王朝からみた万葉集〜とか出版してほしい
売れるとおもいますぜ
令和にもなりましたし 古代、日本列島には、九州王朝、大和王朝、吉備王朝、出雲王朝、関東王朝などの国が勢力を競いながら
それぞれの地域を支配していた。
しかし、中国の歴代王朝が交渉を持ち、倭国と認識していたのは、
中国の最初の史書(山海経?)に現れたときから旧唐書までずっと、九州にあった。
それは、卑弥呼の倭国であり、700年近くまで存続していた。
九州王朝は、九州北部(筑紫や大宰府)に都を持ち、朝鮮半島の南部をも含めた海洋王国であった。
6世紀以前の記紀に中国との交渉史がまったく出てこないのは、
中国側の邪馬台国や倭の五王の朝貢記事と相容れない。
このことと、倭の五王と大和朝廷の天皇の即位年代や相続関係が一致しないということは、
倭の五王は大和朝廷の天皇とは別系統の九州王朝の大王たちだったからである。
磐井の反乱の磐井は九州王朝の大王で、反乱を起こしたのは大和政権の方だった。
6世紀の磐井の陵墓にある石人は当時の裁判を表現しており、九州ではすでに律令制が敷かれていた。
隋書に記述されている隋の煬帝に国書を送ったアメノタリシヒコは、
その妻妾の数まで記載されているように明らかに男王であるが、
当時の大和政権は、女帝の推古天皇である。
通説では女帝であることを隠し摂政の聖徳太子を大王として国書を送ったとするがこの解釈には無理がある。
九州王朝の男の大王が使者を送ったとすれば隋書の記述を無理なく理解できる。
遣隋使の派遣年次が日本書紀と隋書では異なっている。
遣隋使の答礼使である裴世清は、九州までしか訪問せず、大和には行ってない。
唐・新羅連合軍と白村江で戦ったのは九州王朝である。
旧唐書には、白村江の戦いで、倭の天皇・薩夜麻(さちやま)が捉えられたと記録されている。
斉明天皇は九州までは行ったが捕虜になってはいない。
→白村江で日本軍は壊滅的な敗北を喫したが
日本書紀にある大和朝廷にはその緊迫感がまったくない。
6世紀初めから700年ごろまで続く九州年号が存在するが、
記紀にはその断片しか記録がない。
年号の改元年と大和朝廷の天皇の崩御と即位年が
まったく一致しないことは不自然である。
九州王朝は年号を持っていたが、大和政権には独自の年号がなかった。
旧唐書には倭人伝と日本伝があり、
倭国の使者と日本国の使者が自分の正統性を主張し言い争いをしたと記録されている。 >>651
九州王朝すなわち倭国の制度が評。
畿内も7世紀までは倭国の支配下だったので、当然、評が使われていた。
郡になるのは白村江の敗戦により日本国が律令制度を立てたから。
天智天武の時代はその移行期の戦後体制の混乱であり、壬申の乱の原因。 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内大和政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 >>653
>郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領した
そんな記録はどこにもないし、郭務?は官吏であって武官ではない。
>同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能
すでに半世紀以上前に滅亡した国と同じな訳がない。
>神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった
完全な妄想で根拠なし。
>筑紫は震災からの復興もままならなず没落した
完全な妄想で根拠なし。 >>654
行政を行うなら、武官である必要はない。
百済復興が白村江の戦いの原因であり、倭国が百済の王子を立てていたから亡命政権があったとみなすこともできる。
完全には滅亡していなかった。
震災も事実だろ?
あとは倭国から日本国への国号変更の意味、7世紀以前の史料が存在しない理由を考えれば良い。 仮定を論証する方向ではなく
仮定の上に仮定を積み重ねていくのが
トンデモにありがちな残念な思考 >>655
行政を行う前に占領する必要があることに気づけよ無能
亡命政権があったとかってのはチョンコの民族願望でしかないし、隋書で百済之種遂絶と明記されている
震災=没落はトンスルフィクション
基本お前の言い分は全てチョンコ妄想でしかない >→白村江で日本軍は壊滅的な敗北を喫したが
日本書紀にある大和朝廷にはその緊迫感がまったくない。
この理由は何故に?
元寇は? >>653話題は飛ぶけど平群族については、どう思われますか? >>657
二千人いれば大宰府を占領できるだろ。
扶余豊璋を立てて百済再興を支援するために白村江で戦ったのも、筑紫を地震が襲ったのも、唐が都督府を設置しまくったのも事実。
それなのに倭の筑紫都督府は別だなんて、そんな言い訳が通るかよ。 旧唐書に倭国と日本が別扱いで書かれているのは
なぜですか >>660
無能過ぎて笑えない
官吏の仕事は何だよ無能?
なぜ武官と官吏の区別もつかない無能
お前のような無能の思考は洗脳教育で刷り込まれた民族妄想から抜け出すことは出来ないという好例 >>665あなたが2ちゃんで有名なこども部屋おじさんですか?
ゴールデンウィークでも一日中張り付いてお疲れ様ですw >>665
>お前のような無能の思考は洗脳教育で刷り込まれた民族妄想から抜け出すことは出来ないという好例
ブーメランだぞ? >>664
>倭国は九州
>本州は日本
>と言うことですか
ですね。
倭の王都は筑紫、卑弥呼は倭の女王、その所在地は邪馬台国。
さて、邪馬台国はどこでしょう? >>666,667
正体ばれたからってビビるなよwww じゃあ皆にgwの宿題だ
休み明けまでに提出しろよ
ズバリ邪馬台国の領地は、境界の頭の漢字であらわしてます
邪→どこ
馬→どこ
台→どこ(ただし、台は壹か臺か●かもしれません)
これを説いて発表したら有名人になれるよ
私からのプレゼントです >倭国は九州
>本州は日本
なかなかうまくできた言い回しだ。 卑弥呼は女王国の王で邪馬台国に住む。
邪馬台国の王はタカミムスビ。 能登舳倉(へくら)
地図を見てて、「なんて離れた小島なんだ」と思い
名前調べたらヘクラ島という。
ヘグリ「平群」に似てるなと思い舳倉古墳でググってみた
資料も人口数も極端に少ないから旅行者のblogの写真でと思っていたら
福岡の相島と似ている、いやそっくりだよ
西ノ宮、田心姫、龍の伝説、石積など
ここまで来てたんだなあと思った
興味ある人はググって見て下さい スサノオの時代に新潟県までは到達していた。
スサノオと五十猛が越後に農業を伝えたそうだ。
秋田は奈良時代になっても蝦夷との前線だから、倭国はそこより北には伸びていなかった。 >>675
>スサノオの時代に新潟県までは到達していた。
いわゆる、北陸忌部。 @阿波 千葉県勝浦市浜勝浦の遠見岬神社 宮司歴代の墓碑には「勝占忌部」と書かれている。 阿波忌部の後裔である。 私はあえて平群(ヘグリ=へ・クリィ)と書いてますけど
平群族が太平洋側を九州から四国や奈良や長野県まで
移住しながら渡って行った可能性は高いと思ってます
あの見渡しの良い場所を選び石積みの塚をつくる一族
ただ、忌部族はもっと後からの一族の予感がする
どちらかといえば伊勢信仰にちかいような
全て確証はありません、ただの私の予想です
あしからず >>679いい加減あなたうざいんですけど
こっちはべつに阿波市がいてもかまわないんだけど
>>680
>ただ、忌部族はもっと後からの一族の予感がする
ご指摘のように、忌部氏は記紀以降の氏族名です。 衰退した物部氏が忌部氏となったのではと考えています。
ただし、ここでいう「忌部一族」とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
「忌部一族」とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 阿波の郷土史家でも、「忌部一族」と「忌部氏」を混同しているようです。 @阿波 千葉県館山市大神宮の式内大社 「安房神社」 は天富命が祖父・天太玉命を祀った神社。 無能ヒトモドキも松傾も普段は他の在日チョンコ同様日本人のフリして暮らしてるはず
何故か?
それはチョンコであることが恥ずかしいからに他ならない
そして日本人のルーツにチョンコが無関係だと理解してるからに他ならない
自ら恥ずかしい存在だという自覚があり
何一つ自信を持つことが出来ない惨めさから
朝鮮起源説や反日活動で精神勝利するしかない
チョンコとはそういう存在
:_ ..、 ..__ 、___
_jllll′ ョ- 4il||l "lll'、 ‐ 、 _..-''lllliin 、 _ `''||ゞ'
,ョ广 ゙廴_j=冖゙゙'ll'、 .llll′ `||li '''l 、 ,j广 l|! "ll'、 、 __ョ=ョ 、 ,,_、 、 ..,,_
、l|′ :、_uil||l' _ __'||l |lll′ lll _. |ll'、:lll′ _lll′ lllll ゙'il|l′ "lll| ゙llll| l||l l||l′
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゙l||li、 |ll、 'll'、 ,__〃 ゙||lli ゙゙ 'l|l'′ ,,._lll′ ,,lll′ .|lll’ `'l|||′
`il|l' il|l `'ill||lll''~ ~~ ` -‐'~~ ..l广 .`'' ゙''′
; ∧,_∧: 悔しいニダァァアーーッ!!!
:<;l|l;`田´>;
;(6 9):
:ム__)__) 質問します
土蜘蛛って縄文人のことでいいのかな?
神功に制圧される人びとは、縄文人がころされたって
解釈でいいのかな?
神功って何人よ、弥生人?
なんだか悲しくなったわ 今年の科博の発表によって縄文人と弥生人の定義が曖昧になってきてるからなー │ そのエラのどこが日本人なんだ?バカチョン!
\ _________________
 ̄∨ 彡 /
ノ . | モルゲッソヨ・・・
∧_∧ ゲシゲシ .彡⌒ ミ <_______
( ・∀・) ∩<`Д´;;>___
(入 ⌒= ̄_)) つ つ /|
ヾヽ / ̄=/ / / |
|| ¬| ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄|
´ | | | | / ̄ ̄⌒⌒ ̄\
| __λ_ |
| ノ ヽ 〆| |
| ノ \|
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\\ | ○|/ /うわああああああああああああああ!!!!!!!!!!
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│ │ ドピュピュピュピュピュピュピュピュピュピュピュピュピュピュ!!
│ │ 〜○〜○〜○〜○〜○〜○〜○
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/ \ どなたか下記の説明できる?
>唐新羅連合軍と白村江で戦ったのは九州王朝である。
旧唐書には、白村江の戦いで、倭の天皇・薩夜麻(さちやま)が捉えられたと記録されている。
斉明天皇は九州までは行ったが捕虜になってはいない。
>→白村江で日本軍は壊滅的な敗北を喫したが
日本書紀にある大和朝廷にはその緊迫感がまったくない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています