(田川)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
資料の多い九州
邪馬台国卑弥呼や倭人について語ろう 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>68
>私は、阿波の丹だけでは
>倭人の身体に朱を塗る風習や古墳内に塗る量に
>到底追い付かないと思うのです。
おなたがそう思うのは自由です。
ただ、全国唯一の辰砂採掘遺跡や出土した朱のイオウ同位体比を見る限り、
今現在は、あなたのその思いは外れていると言わざる得ませんね。 @阿波 >>73
徳島産の辰砂とほぼ同じ同位体比を有する辰砂は九州でも採れてる。
文献では三重産の辰砂だけは区別できるけど?そうでないものが徳島産なんて結果は出てない。
https://kindai.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=11089&item_no=1&attribute_id=40&file_no=1&page_id=13&block_id=21
「古代日本の主な朱産地である三重県丹生鉱山と徳島県水井鉱山および奈良県大和水銀鉱山の間には有意差 があり、丹生産かどうかを区別することが可能」
「弥生時代から古墳時代にかけた西日本各地の支配者階級の墳墓から出土した朱を我々が分析したところ、
イオウ同位体比が大きくプラス値に傾き、中国貴州省辰砂鉱山産とよく似た値を示す朱と、
マイナスの値を示して三重県丹生鉱山産とよく似た値を示す朱の存在を明らかにした。」
「一つの鉱山鉱脈において深さなどが異なってもイオウ同位体比に違いは少ないことを 明らかにしている。」
「古代では露頭部分付近から採取された朱を用いていたと思われるが、地中深くから採掘している現在の鉱 山鉱 石 のイオウ同位体比分析の結果はそれほど変わらないと考えられる。」
「丹生産辰砂鉱石は日本の他鉱山鉱石とイオウ同位体比の値が大きく異なっていた。丹生鉱山は縄文時代から朱の採掘が行われていたことから、弥生時代および古墳時代も朱が採掘されていたと考えられる。 」
「古代 における一大辰砂鉱石採取鉱山であ る丹生鉱山産のイオウ同位体比 が他鉱山 と異なることは貴重なデータであり、今後遺跡から出土する朱の産地推定に役立つと考える。」 >>73
徳島産の辰砂とほぼ同じ同位体比を有する辰砂は九州でも採れてる。
文献では三重産の辰砂だけは区別できるけど?そうでないものが徳島産なんて結果は出てない。
https://kindai.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=11089&item_no=1&attribute_id=40&file_no=1&page_id=13&block_id=21
「古代日本の主な朱産地である三重県丹生鉱山と徳島県水井鉱山および奈良県大和水銀鉱山の間には有意差があり、丹生産かどうかを区別することが可能」
「弥生時代から古墳時代にかけた西日本各地の支配者階級の墳墓から出土した朱を我々が分析したところ、
イオウ同位体比が大きくプラス値に傾き、中国貴州省辰砂鉱山産とよく似た値を示す朱と、
マイナスの値を示して三重県丹生鉱山産とよく似た値を示す朱の存在を明らかにした。」
「一つの鉱山鉱脈において深さなどが異なってもイオウ同位体比に違いは少ないことを明らかにしている。」
「古代では露頭部分付近から採取された朱を用いていたと思われるが、地中深くから採掘している現在の鉱山鉱石のイオウ同位体比分析の結果はそれほど変わらないと考えられる。」
「丹生産辰砂鉱石は日本の他鉱山鉱石とイオウ同位体比の値が大きく異なっていた。丹生鉱山は縄文時代から朱の採掘が行われていたことから、弥生時代および古墳時代も朱が採掘されていたと考えられる。 」
「古代 における一大辰砂鉱石採取鉱山である丹生鉱山産のイオウ同位体比 が他鉱山と異なることは貴重なデータであり、今後遺跡から出土する朱の産地推定に役立つと考える。」 実はみやま、大牟田、荒尾あたりに大きな国があったんだよ
ただ大規模な古墳や遺跡は見つかっていない
なぜなら意図的に隠されたから
特に大牟田、荒尾は炭鉱があったし、遺跡なんか出ちゃ迷惑だったんだよ
という仮説 >>76
いや、普通に遺跡密集地帯で
鍛冶遺跡が多いですよ
筑紫と肥の国境で戦の痕跡も多いですね >>74
>古代 における一大辰砂鉱石採取鉱山
少なくとも、今現在、卑弥呼の時代に「辰砂鉱石採取」をしていたと、認められない。 @阿波 >>77
根拠を示さないと! 投稿する意味なし。 @阿波 >>77
>筑紫と肥の国境で戦の痕跡も多いですね
つまりは邪馬台国と狗奴国の国境だろ。 >>80
>つまりは邪馬台国と狗奴国の国境だろ。
その「邪馬台国と狗奴国」に相応しい集落遺跡群を示せないというお粗末。 @阿波 >>78
していなかったという断定さえできなければ、鉱脈がある場所では十分可能性は残る。「古代では露頭部分から採取」していたのなら遺跡は残らない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>82
ところで、九州では朱の精製跡さえないのかね? 辰砂鉱脈のない吉備にさえあるのに。 @阿波 >>85
大きめの遺跡にはたいていあるよ
吉野ケ里にもあるし。
北部九州の朱丹の使用量は大きいからね。 >>86
>吉野ケ里にもあるし。
ウソはイカンぜよ。 @阿波 >>83
>でも精製してたら遺物は残る
そして、朱の取引に使われたのではないかと推定されている分銅(石製)は
畿内の亀井遺跡から出土している
河内の中心集落だよ >>88
>そして、朱の取引に使われたのではないかと推定されているその取引された朱が、若杉山産の朱という落ち。
>分銅(石製)は 畿内の亀井遺跡から出土している
出荷元の倭国(阿波)では、祭祀具にまで、昇華している。
「西長峰遺跡:弥生時代中期の大形掘立柱建物 分銅形土製品」
竪穴住居跡が26棟、掘立柱建物跡(14棟大型のものを含む)
注目されるのは分銅形土製品がある。分銅形土製品には目・鼻・口など顔が線刻されており、祭祀に用いられたと思われる。
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%B0%A4%C7%C8%BB%D4%2F%C0%BE%C4%B9%CA%F6%B0%E4%C0%D7
>河内の中心集落だよ
「西長峰遺跡」程度では倭国(阿波)の中心遺跡とはならない。 @阿波 >>88
>分銅(石製)は 畿内の亀井遺跡から出土している
その分銅(石製)は、まず間違いなく倭国(阿波)の「青石」だよ。 @阿波 なんで阿波が福岡説にはりついてんだよ
畿内は潰し終わったのか >>91
>なんで阿波が福岡説にはりついてんだよ
面白いから。
>畿内は潰し終わったのか
やはり、畿内を潰すのは倭国(阿波)の役割だと? もはや他力本願に成り下がったか、九州説。 @阿波 >>89
ふんどうがたどせいひん
天秤(てんびん)に乗せて重さを量る分銅と「形が似ている」ことから名称が付けられた土製品。
形が似ているだけで、分銅として使われてないじゃんww >>93
>形が似ているだけで、分銅として使われてないじゃんww
だって、これ、分銅の親分(化身)だから、分銅として使ったら罰が当たるよ。 @阿波 >>94
>だって、これ、分銅の親分(化身)だから、分銅として使ったら罰が当たるよ。 @阿波
おいおい、「分銅と形が似ている」といっても、似ているのは弥生時代の分銅じゃなくて
江戸時代とかの分銅だぞww
後藤分銅でググってごらん
プラナリアの頭形土製品って名前にした方が、有名になっただろうに 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>96
>土製仮面はどうする? @阿波
登録、ログインしないと見られない 転載ですが
このHPは見やすく九州の古墳の発掘品の一覧表です
http://www.netpia.jp/history/kofun_fukuoka.htm
この表には土器や石製品等は含まれていません
当時と現在では海岸線が違うはずなので
海岸線をうまく重ねると面白いかもしれません。
しかし凄い量の品々ですね >>99
肝心かなめの弥生時代後期の遺跡がすくないねぇ。
しかも、ほとんど古墳ばかり。
申し訳ないけれど、遺跡発掘の少ない倭国(阿波)の遺跡に比べて、パッとしたものがない。 @阿波
@阿波 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>100
ところでどうして倭国(阿波)と書くの?
徳島とでも書けばいいのに。
倭と阿波は関係ないみたいだけど。
ウィキペディアには
「『阿波』の名称と由来
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために粟国、南の地域は長国と呼ばれていた。
(中略)
のち、律令制において長国造の領域を含め令制国としての粟国が成立した。
和銅6年(713年)、元明天皇による好字令で、地名を二字で表記するため『粟』は『阿波』に変更された。」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%B3%A2%E5%9B%BD
粟の方も倭国とは関係ないようだし。
「アワの語源は五穀の中でも味が淡いためだとか、穂が大きいところから大穂 (オオホ)が転じたものとか、
『ア』は小さい意味を、また『ワ』は丸いことを意味し、 穎果の形状からきたもの、
などの諸説があり、この他にも次のような説がある。
中国 ではアワを『黄禾』ともいっており、 禾(カ)はノギ偏の元祖で稲などの穀類を表わし、 黄色い穀類という意味である。
これを[A-Fa]と発音したために、これが日本に伝来 したとき、アワとなったとする説。朝鮮語では[ho-a]と発音し、これがアワとなった とする説などである。」 >>102
>倭と阿波は関係ないみたいだけど。
「倭大國魂神社」・「倭大國敷神社」と
「倭」が付く物証が全国で「阿波」にしかない。 他所にあれば倭国(阿波)とは言わない。
ゆえに、唯一「阿波」が倭国(阿波)である。 @阿波 壱岐の原の辻をもっと調査して欲しい。
ここ見ると畿内の影響受けてたとは思えないんだよなぁ。 >>104
>何の物証なのかわかりません
「倭」が付く物証
と、何度言えばw @阿波 >>107
>「倭」が名前に付いてるのが何?
「倭」が名前に付いてるのが倭国(阿波)にだけ。 @阿波 >>107
>「倭」が名前に付いてるのが何?
「倭」が名前に付いてるものが無いところは論外。 @阿波 >>110
倭は、中国人が発音から当てた字で日本側が使ってるのはおかしいね。 >>111
>倭は、中国人が発音から当てた字で日本側が使ってるのはおかしいね。
そうだねぇ、倭は、中国人が発音から当てた字で倭国(阿波)にだけ使ってるのはおかしいね。 @阿波 第三者視点から研究するほうが公正かつ正確(思い入れフィクションが入りにくい)ということで支那文献に記載の漢字を積極的に使おうとするけど
日本人は背が小さくて「矮」小だから倭國とか「邪」馬壹国とか「卑」弥呼とかを積極的に使うことに抵抗がある
邪馬壹国や卑弥呼に関してはどう読むかの論争があるからアレだけど、倭國はワのクニで間違いないんだから和国で良いんじゃないかっていつも感じる >>113
>倭國はワのクニで間違いないんだから和国で良いんじゃないかっていつも感じる
倭國はワのクニで間違いないんだから
「倭大國魂神社」・「倭大國敷神社」と
「倭」が付く物証が全国で唯一「阿波」にしかない「阿波」が倭国(阿波)で良いんじゃないかっていつも感じる。 @阿波 >>114
う〜ん
あれだけ聖徳太子が嫌がってた「倭」だよ
むしろ「倭」の蔑称的な意味合いが薄れてしまった後年に作られたって解釈するほうがhiSTORYとしては自然だと思うけどな >>115
>むしろ「倭」の蔑称的な意味合いが薄れてしまった後年に作られたって
う〜ん
むしろ「倭」の蔑称的な意味合いが分からなかった時代に作られたって解釈するほうがhiSTORYとしては自然だと思うけどな。 @阿波 >>116
なるほど、それは一理あるかもしれんね
てかここ福岡説のスレなのに何で阿波説を説いてるの? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>117
>てかここ福岡説のスレなのに何で阿波説を説いてるの?
それはね、福岡が「筑紫忌部」によって今日があるからだよ。 @阿波 筑紫忌部族は久留米の高良玉垂の子孫
よく判らないのは高良大社と香春神社の関係性
九州の詳しい人がいたら教えて下さい
>>120
筑後一宮高良大社の末社はおしなべて武内宿禰を祭り神としているため、高良の神とは武内宿禰のことと考えられます。
筑前一宮住吉神社の住吉の神も、武内宿禰のことと言われます。仲哀天皇の崩御の夜に神功皇后との間に密事ありと伝えられます。
つまり4世紀末において、筑前筑後を支配した筑紫の倭王こそ、武内宿禰です。
密事から十月十日後に誕生した応神天皇の家系が、その後の倭国の正統とされています。 香春宮の田油津姫は、景行天皇と共闘していた筑紫の梟師すなわち倭王である神夏磯姫の末裔と伝えられています。
神夏磯姫は年代的には壹與(肥前一宮河上神社の淀姫)の直後の倭国(邪馬台国)の女王です。
景行天皇の九州上陸の際に、八咫の鏡を含む三種の神器を掲げて神威を示しました。
田油津姫も、倭国の王の一人であったと考えられます。
当時の倭国(九州北部)には、高良玉垂宮、香椎宮、穴門豊浦宮、岡田宮、箱崎宮など、多くの宮があり、それぞれに宮様、つまり王族がいたのでしょう。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>123
>>124
おそくなりましたが
詳しい説明ありがとうございます
最近、気になる古本(¥38000(ToT)高すぎ)がありまして
八幡大菩薩愚童訓
これを知ってる人いますか?
これ?
https://www.kosho.or.jp/products/list.php?transactionid=af9e172c24876f96dc04d2f4de42e882a99fdba1&mode=search&search_only_has_stock=1&search_word=%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%A4%A7%E8%8F%A9%E8%96%A9%E6%84%9A%E7%AB%A5%E8%A8%93 >>128値段がぜんぜん違うw
教えてくれてありがとう
(^3^)/ アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 ニュース速報+より
(4): (新潟県) [NZ] 11/18(日)14:20 ID:uKzdSSEW0(1) BE AAS
BEアイコン:miyabi.gif
弥生人骨、予想覆し「渡来系」大半…鳥取の遺跡
2018年11月18日 13時59分
鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期の人骨について、
鳥取県埋蔵文化財センターや国立科学博物館などが実施しているDNA分析調査の中間報告会が17日、
同町の市青谷町総合支所で開かれた。
大半の人骨のルーツが大陸からの渡来系だったといい、同博物館の篠田謙一副館長は「日本人の成り立ちを知る重要な手がかりだ」と話す。
遺跡からはこれまでに約5300点の人骨が出土。
調査では、頭蓋骨約40点から微量の骨を削り取り、DNA分析を行っている。
報告会では、母から子へ受け継がれるミトコンドリアのDNA配列を分析し、母系の祖先をたどった調査結果を篠田副館長が説明。
市民ら約130人が聞き入った。
篠田副館長によると、九州北部の遺跡から出土した弥生前期の人骨の分析では、在来の縄文系と渡来系の遺伝子が見つかった。
当時の人が両方の祖先を持っていたことを示しており、青谷上寺地遺跡の人骨についても、両方の遺伝子が検出されると予想していたという。
しかし、今回DNAを抽出した人骨32点のうち、31点が渡来系で、縄文系は1点だけ。
DNAの型は29種類に分かれ、血縁関係がほとんどないことも分かった。
青谷は遺跡の発掘調査から、大陸などとの交易拠点だったと考えられており、分析からも、多くの渡来人が入ってきて、
交易で栄えていたことがうかがえるという。
また、従来の研究では、稲作の普及や定住生活の広がりに伴って弥生後期には日本人の中に渡来系と縄文系が交ざっていたと考えられていた。
しかし、今回の調査結果は定説に当てはまらず、篠田副館長は「これまでの説について発展的に考える契機になる」と述べた。
外部リンク[html]:www.yomiuri.co.jp ごめんなさいニュース速報だった
http://n2ch.net/r/-/news/1542518427/147-?guid=ON&rc=154
もしかして島根出雲鳥取あたりは渡来系かな
九州は縄文と渡来系の両方でるから倭人かな?
👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:39828eafcc6c2073b074103bd7eecdc9) 環日本海交流圏だな。
出雲は公益により発展し、九州北部では天津神と国津神が対峙または共存していた。 それは後付け。
塗矢伝説と言って、父親が不明だったものを神様にこじつけただけ。
むしろ母親が大山積や三島の神(鴨主)の家系だ。 朝で時間がないからニュース速報+のコピーですまん
11/17(土)04:55 ID:QsczJxFn0(1) AAS
どうやら邪馬台国は九州で決着のようだな
71 :名無しさん@1周年 :2018/11/17(土) 02:13:12.52 ID:WkLyAWvr0
北部九州は縄文時代から西日本の中心だからな
そしてそれは弥生時代から古墳時代にかけても継続した
縄文時代の貝の交易マップと、北部九州の海人族・安曇の分布がほぼ一致している
縄文時代の貝の交易
外部リンク:blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp
画像リンク[jpg]:www.gondo.com
安曇族ゆかりの地
画像リンク[jpg]:4.bp.blogspot.com
また、縄文時代には貝で作った貝輪が北部九州の有力者の証だったが、弥生時代以降にはそれをモデルにして銅で作った
銅釧(どうくしろ)というものがこれに代わり、やはり同様の分布を示す
銅釧出土地
画像リンク[png]:www.city.ichihara.chiba.jp
銅釧は北部九州が発祥で、邪馬台国の時代に盛行したとされる
外部リンク[htm]:www.city.ichihara.chiba.jp
>南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、
>古墳時代前期前半で終焉に向かいます。
やはり、邪馬台国の時代に至っても北部九州の海人が東海以西の日本各地を席巻していたのは間違いなさそうだ
銅釧の出土を見ると、畿内も大阪湾南岸は既に北部九州の勢力下に入っていたようだ
現在の和泉市や泉佐野市のあたりなのを見ると、和泉(イズミ)も安曇(アズミ)由来の地名のようだな
72 :名無しさん@1周年 :2018/11/17(土) 02:29:56.78 ID:eKkX3/450
>>71
画像リンク[jpg]:www.gondo.com
この地図で「貝の消費地 北部九州の弥生のクニグニ」と書かれているオレンジ色の範囲が邪馬台国かな
魏志倭人伝に出てくる侏儒国は種子島だと言われているけど、「女王国を去ること南に四千里」という位置情報とも
完全に一致している
こっちのスレもたってます
>>138
>この地図で「貝の消費地 北部九州の弥生のクニグニ」と書かれているオレンジ色の範囲が邪馬台国かな
邪馬台国というより、倭国だろう。
邪馬台国は王都となっているから、福岡。 前スレで取り上げた事がニュース速報+でスレたってた
http://n2ch.net/r/-/newsplus/1542397410/154-?guid=ON&rc=168
やっぱり貝輪と海人族のつながりは興味深い
あと大分の金細工の鉄鏡のトルコ石使用も謎のまま 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:39828eafcc6c2073b074103bd7eecdc9) 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 大分の鉄鏡を気にしてたら
またニュース速報+にスレきたわw
初期の邪馬台国は女王は大分から来て福岡に
住み着いたのかなあ
http://n2ch.net/r/-/newsplus/1542374845/?guid=ON&rc=879
またロックされるのかな 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:39828eafcc6c2073b074103bd7eecdc9) 大分の鉄鏡のトルコ石が
どこから伝わったか説明できる人いる?
不思議だよね
私たちの想像以上に昔の人達は活動的だったのかも 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 万葉集に
「河内王を豊前国(=大分県か田川郡鏡山神社)の鏡山に葬る時」
という題のつけられ「豊国の鏡の山の
岩戸立て隠りにけら」という歌がある。
河内王が鏡山を墓として埋葬されたという歌だが、
このときの岩戸とは死者が他界に行く入口を指している。
古来から日本では他界に去った死者の霊は
山の神となって生者の守り神となると考えられていた。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>138
誰かがその辺をまとめてこっちの板にも持ってきたみたいだよ
瀬戸内海も日本海も九州の海人の勢力圏だったというのは面白いね
【九州説】邪馬台国 魏志倭人伝を正しく読む
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542023631/593-602 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ごほうらの貝がー、銅釧がー、って言ってコピペして回ってる人は
東遷厨って呼ばれる人なんだってね 面白い見解があったのでコピーさせていただきました
546: 11/25(日)17:08 ID:qvgWxeKF0(1) AAS
倭国の政変は3世紀末〜4世紀前半頃で、卑弥呼の時代より少し後
卑弥呼のいた弥生末に九州中心に分布していた破鏡が古墳前期には瀬戸内海〜畿内へ移動している
一枚の鏡を割って割符とし、穴を開けて紐を通し兵士たちが持って移動した
166 :ホワイトケープ :2018/10/06(土) 18:57:54.78
破鏡をご存知ですか。銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に後加工したものや穿孔したものが、墳墓からだけでなく住居跡や田んぼからも見つかります。
弥生後期の遺跡から出土する、神武東征由来の遺物です。
次は破鏡の分布図で、図40は弥生後期〜終末期の分布、図41は古墳時代前期の分布図です。「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎から借りています。
図40(画像リンク[jpg]:vbsoft.sub.jp
図41(画像リンク[jpg]:vbsoft.sub.jp
熊本平野、大分大野川流域の状況が特徴的です。
ほとんどが集落域からの出土ですが、弥生終末期にのみ見られ、古墳時代には全く見られなくなります。
当然なことで、神武東征が九州を発つ前に狗奴国や大分の従わないクニとの決着の戦いの痕跡だからです。
福岡平野で募られた兵は、家族との長い別れに、親子兄弟、妻とも家族の絆として鏡を分け持って出発したのです。
家族の証明はこの割れた鏡が合わさることでしか、確認できない時代です。
出征兵の親は、待てど帰らぬなか亡くなっていき、鏡とともに副葬されました。
兵たちは落とさないよう穴をあけ首にかけていたが、戦闘の中で田んぼに落とすこともありました。
突然の出立に、置き忘れることもあったでしょう。
妻や子は、小さなかけらをもって後を追いかけました。
鏡種を調べると、内行花文鏡と方格規矩神獣鏡が多く、三角縁神獣鏡は一面もありませんでした。
三角縁が東征後の鏡であることは明らかです。
東征を卑弥呼の前とする説がありますが、その時代にはこのような痕跡は全く見つかりません。
九州の三角縁神獣鏡は古墳から出土し、奈良から帰還した兵が持ち帰ったものと思われます。
素晴らしい見解と思いませんか? >>155はニュース速報+のスレから
【歴史】邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か「日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」 福岡・西新町遺跡 班長レベルじゃないかな
割って仲間同志の割り符としたとか
しかし銅鐸は何に使ったのかね >>155
大元の出処はこのスレの166みたいだな
神武・倭国の連合東遷説
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1535685239/
そのホワイトケープってコテは他にも同一地名や山名の分布とか分析しててなかなか本格的に調べているように見える >>144
水銀の生成法から大陸製ってことが判明してる 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 お疲れ様です。
私初めて>>160を読ませてもらいましたが
スゴイ!びっくり、素晴らしい
一度でファンになりました。 >>167
こっちじゃなくあっちに書いてやれよマヌケ 根拠もない妄想なんですが
倭国の人達は
倭の全体の土地が家(神社や宮)と考えて
クニグニの名前をつけてないかな?
大工の専門用語と被るね。
宗像→棟方(神社や家の屋根)
投馬(つま)→妻(建物の端の壁)
偶然bゥな。
建鋳z詳しくないけbヌ調べたら、もbチとあるかも?=@ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています