邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part15
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 世有王
@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが妥当である。 2か所目は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の文である。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。
水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りであり、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。 【里程】
漢代に楽浪郡を支配していた公孫氏が独自に制定したの里(短里)で実測
日本側の地名は漢代の地名(倭国の中に、末蘆国、伊都国、奴国・・・
魏が公孫氏の楽浪郡を滅ぼして押収した資料に短里使用が使用されており
これが魏略や三国志魏書の参考資料となる。
【日程】
魏代に魏使が出張日誌に記録
日本側の地名は魏代の地名(邪馬壹国、狗奴国、投馬国、などは魏代に新登場
この出張日誌が三国志魏書の参考資料に加わる。
※公孫淵は自立を目指し燕王を自称し独自の年号を制定しており、度量衡も独自のものを制定したと考えられる
短里も公孫淵が制定したものであろう。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 魏使の旅は帯方郡の海岸から始まり狗邪韓国の南岸へ(7000里)
狗邪韓国の南岸から対馬国の北岸(1000里)
対馬国の北岸から対馬国の南岸(800里)
対馬国の南岸から一支国の北岸(1000里)
一支国の北岸から一支国の南岸(600里)
一支国の南岸から末盧国の北岸(1000里)・・・呼子、名護屋浦付近が末盧国への上陸地点
末盧国の北岸から末盧国と伊都国の国境(500里)・・・糸島市中央部
末盧国と伊都国の国境から伊都国と奴国の国境(100里)・・・ここまでで12000里になり日向峠付近、女王国の中心地
1里は80mくらいで計算が合う。 >対馬国の北岸から対馬国の南岸(800里)
>一支国の北岸から一支国の南岸(600里)
二行紛れ込ませて、なんとかすり抜けようと必死の糸島 末盧国が、唐津であったにせよ、呼子であったにせよ、
誰がどう見ても、怡土郡(糸島郡)は、東南500里の方角にはならない。
(新井白石以降の弁士が、神功皇后伝説のフェイクにけっ躓いただけだ。正しい伊都国は佐賀平野) >>7
>対馬国の北岸から対馬国の南岸(800里)
>一支国の北岸から一支国の南岸(600里)
今どき島巡り仮説かよw >>10
45度まではズレてないな
25〜20度くらいかな
九州の北岸や朝鮮半島南岸が傾いてるからだな。 方位を八つに分けてるから、
左右20〜25度くらいまでは許容範囲ということで、ザックリ書いたんだろうね。 >>14
実際、左右20〜25度くらいだと感じられないからな
流石に45度も違うと気づくな。 倭人伝の冒頭書き出しに、
倭人あり、帯方東南大海の中・・・、となってるから、
東や南や東南は多用してるけど、わずかなことならというわけで南西とか南南西とかは避けたんだろううね 福岡近辺の北部九州では実際に東に進んだつもりが地図で確かめると北東に進んでたってことよくあったからな。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part15
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1539434516/
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part15 このスレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541115802/
頭悪いんじゃないの?
どっちかに統一したら? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 前スレは2ヶ月ちょいで消費したけど、これは年単位で店ざらしになりそうだね 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>23
>ここに対する有効な反論が全くないからな。
何か論じられてたっけ? ここって論を戦わせるスレじゃなくて各自の妄想を開陳するだけの場だよな 研究発表が出る度に空想妄想を羅列した誹謗中傷をする人ならたくさん居る
そういうのも論争じゃないけどさ、論争になってないのは誹謗中傷する人のせいじゃん 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>29
>妄想空想と誹謗中傷は区別しようよ。
妄想空想の矛盾点を具体的に指摘すると、
誹謗中傷モードに転換するんだよw
トンデモ説の人はいつもそう 史書を作成した国の解釈だと、こんな感じだそうだ。
石器時代〜明治時代の国の移り変わり
https://youtu.be/6Z0avSjgtHo >>32
>誹謗中傷して回っているくせに。
どの書き込みのどの部分が「誹謗中傷」にあたるのか、
具体的に特定して具体的に指摘してくれ
それから、「回っている」に関しても、具体的にその根拠を示してくれよな
できなければ、印象操作で相手を貶めようとしているのは>>32の方だww 玄海原発見学して名護屋城博物館などに行って旅宿よぶこに宿泊してきたが
名護屋城博物館で確認したが秀吉軍は名護屋城から壱岐対馬を経由して釜山へ向かい
帰りは釜山から対馬壱岐を経由して名護屋城へ帰還で間違いないとのこと
当然の話だが阿波の主張は出鱈目だったな。 >>35九州王
>帰りは釜山から対馬壱岐を経由して名護屋城へ帰還で間違いないとのこと
>当然の話だが阿波の主張は出鱈目だったな。
なんか必死さが伝わって来るね。
帰還港は相島経由で福津辺りだよ。
そこから、陸路か又は博多沿岸航行で、名護屋に帰還挨拶・報告にいったのさ。 残念でした。 @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 【大分】邪馬台国は筑後川流域?「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」謎に迫る 日田で古代史サミット
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1542374845/
「古代史サミット−−光り輝く日田の古代文化」が20〜22日、日田市で開催される。
1933(昭和8)年に同市日高町の3世紀のダンワラ古墳から出土した「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」
(国指定重要文化財)=九州国立博物館保管=の謎を軸に、女王卑弥呼が治めた邪馬台国の九州北部説を探るとともに、
福岡県浮羽・朝倉地方から日田にかけての筑後川流域を有力視する古代のロマンを追う。
サミットは、全国邪馬台国連絡協議会や文化庁などによる実行委主催。
20日午後1時から日田市立博物館で特別シンポジウム「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の謎に迫る!」を開催。
安本美典・元産業能率大教授▽七田忠昭・佐賀城本丸歴史館長▽井上悦文・全邪馬連九州副支部長らが、
金銀象嵌(ぞうがん)が施された国内唯一の出土品で中国の皇帝級が所有する同鉄鏡や古代文化について議論する。
コーディネーターは歴史作家で全邪馬連九州支部長の河村哲夫氏。
さらに、21日午後1時からパトリア日田で井上氏の「日田の古代文化」
▽河村氏の「古代日田のポテンシャル」▽安本氏の「邪馬台国と日田について」のリレー講演。
22日は久津媛神社、鏡坂、吹上遺跡、小迫辻原遺跡など古代の遺跡をバスで巡る。
シンポジウムと講演会参加費(資料代を含む)は1500円で高校生以下は無料。バスツアーは同7000円(昼食代込み)。
井上氏は「九州北部の真ん中の日田は物流や軍事拠点として倭国(邪馬台国)の中でも重要な位置づけだったのではないか」と話す。
毎日新聞 2018年11月15日
https://mainichi.jp/articles/20181115/ddl/k44/040/274000c >>37
相島、福津なんて通りません
自分で名護屋城博物館に問い合わせてみたらw >>40
>相島、福津なんて通りません
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも名護屋に上陸していない。推して知るべし。
もし古代より、名護屋やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって名護屋周辺が「世界文化遺産」になっている。 @阿波 元寇は侵略軍だから大軍が一度に上陸出来る広い砂浜海岸
博多湾の海ノ中道とか上陸には最適
名護屋浦や呼子付近は守るに硬く攻めずらいから元軍の上陸には向かないので
朝鮮通信使は目的地が江戸ですから方向違いです
魏使は天然の良港の名護屋浦や呼子付近に上陸して唐津市街地を通って伊都国へ。 >>42
もし古代より、名護屋やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって名護屋周辺が「世界文化遺産」になっている。 @阿波 阿波さん もっと学習したほうが良いよ
律令制下においても登望駅が置かれ大陸との交通の拠点になっていたのとかしらんの
ここは支石墓・甕棺墓等の上陸地とも目されるし
武器形青銅器と密接な関係にある金海式甕棺墓の上陸地とも目される
登望駅は大友に置かれたが
[とも]が海人からみの[艫]だとすると 偏を省いた[盧]は[末盧]の[盧]と共通で
[末盧]の命名が意味でも了解可能化してしまう >>45
末盧国の字を選んだのは魏使で日本側じゃない。
後世の地名の字との共通性は無効。 >>42
その辺は壱岐から千余里ないね。近過ぎるから間違いだ。 >>47
前から疑問なんだが、史書の中の距離って本当に直線距離なのか? >>48
壱岐-九州北岸だったら、直線的になるだろう。曲がる理由がない。見えてるし。
対馬-壱岐間と同じ千余里だったというんだから東西に回り込むことになるはず。 今のGoogle Mapってフェリーの航路も表示されてるでしょ
浅瀬のある島には近づかず、浅瀬のない島は真横を抜けるってのが良く分かる
当時はコンパスを使った航海術なんてあるわけないから潮に乗るか目視で島伝いに進んでたはず
俺は末盧国=伊万里港付近説支持はなんだけど、壱岐の内海から出港し、鮫島を目印に「博多~比田勝~巌原~郷ノ浦~芦辺」航路に乗り、加唐島を目視できたら方向転換
加唐島の手前から馬渡島の横を通って鷹島を目指し、伊万里湾の最奥まで行くと千余里
一方、福津を目指すなら壱岐の内海から出港し、鮫島を目印に「博多~比田勝~巌原~郷ノ浦~芦辺」航路に乗り、玄界島から相ノ島を経由するって航路になると思うんだが、そうなると千里に届かない ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. [道里]は[可得略載]なのですと
[道里]とは[道程(みちのり)]を[里]を単位として記したものだ >>45
苦しいな
往古より、大陸からの着岸地は相島経由の福津周辺。 これ、常識。
もし、名護屋やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、 宗像地方に替わって名護屋周辺が「世界文化遺産」になっている。 @阿波 >>54
現地行ったことある?
福津は長い遠浅の砂浜だから漂着地には最適だが船で上陸には最も適さない地域 >>55
横レスするけど、昔の港では小型船は砂浜に引きずりあげて停泊する方が普通でしょ
船ごと上陸させてるのに停泊と呼ぶのもおかしいけどさ >>57
外洋船ってそんな小さいの?
レッドクリフの映画のイメージでもっとでかい船を想像してた。
船じゃなくて舟? >>57
発掘されてる当時の木船のほとんどは20人以下の平船
俺は福間でウエイクボード(平船と同じウエイク艇で曳航する)をするんだが、よくあんな船で沖に出れたなと感心する >>59
おぉ、現地を知ってる人が来た
で、実際の福津浜に船で上陸できるの? >>60
福津って言っても広いからね
福間〜津屋崎は干潮だと浜辺から50メートル行っても腰高だから難しいと思う
でも福津の北端の神湊(こうのみなと)はキール船でも接岸できるし、宗像族の遺跡も多数ある >>59
その船は倭の船で魏の船じゃないんじゃないのか? >>65
キール(竜骨)船は唐代入ってから
魏の船もキールのない平底船で30人は乗れなかったと思われ >>66
ここを読むと赤壁の戦いの頃の軍船の最も大きな「楼船」というタイプは100人以上乗れたようだぞ。
https://sangokushirs.com/articles/547 >>66
「楼船 ろうせん
周囲に板を立て並べて、矢石を防ぐように作られた大型船。その形が監獄に似ていることから、この名前がつけられた。
また、多層の船体を持つことから楼船とも呼ばれた。
長さ20m前後、艪の数は片舷20前後。
戦国時代から建造されはじめ、秦、漢時代になると次第に大型化してゆき、三国時代には外洋へ出るための大型海洋船にまでなった。
孫権が東南アジアに使者を使わせたときの船は、7枚の帆を張り600人から700人の乗員を乗せていた。」
http://www1.cts.ne.jp/fleet7/Museum/Muse053.html >>68
そこのページでもっとも信用できる一文は、
>三国志時代の水軍の資料は、ほとんど残っておりません。ですから、17世紀ごろの明の時代に書かれた「三才図会」が参考にされています。
だろ
楼船が当時すでに実在していたかどうかすら不明ってことじゃないのか >>70
赤壁の戦いは史実じゃないのか?
そんな大規模な水戦があったのに30人乗り以下の軍船しかなかったのか? >>66
中国って近代までキール無いジャンク船でしょ >>71
戦いがあったことは史実だけど戦況経緯とかはほとんど全部フィクションだしな
それなりの積載量のある大きな船もあったっぽいけど、軍船にも大きな物があったのかどうか? そもそも、対馬海峡を渡る技術は倭人が独占していたと思われ、当然、倭船を使ったはず
。 >>75
これもまるっきりのウソ?
「孫権が東南アジアに使者を使わせたときの船は、7枚の帆を張り600人から700人の乗員を乗せていた。」
http://www1.cts.ne.jp/fleet7/Museum/Muse053.html >>76
そんなはずないと思うよ。
倭人に送り迎えしてもらわないと来ることもできない国に朝貢する理由なんかないから。 >>77
典拠を示せない記事レベルの信憑性しか認められない >>79
「『三国志』(いわゆる正史のひとつ)には、闘艦(楯板で囲った船)・楼船(やぐら船)・蒙衝(個人的には大勢の兵を乗せた戦闘艦だと思っています)などの名前が出てきます。
また、名称は不明ですが、武帝紀(つまり曹操伝)に『209年春、譙で軽快な舟を作り、水軍の訓練を行った』という記述もあります。呉の領域だけでなく、華北も含めて大小さまざまな船が作られていたことがわかります。
小型または即席の舟としては、筏や夏侯尚伝に出てくる“油船(獣皮で防水した舟)”などがあります。
反対に、大きなものでは董襲伝にある五楼船(5つの楼のついた大型船?あるいは5階立ての楼のある船?)や、『晋書』王濬伝にある「大船連舫,方百二十步,受二千餘人(およそ60m四方で2000人以上が乗り込む多胴船)」なんてのもあります。
一説には、孫権が外国に派遣した船は7本の帆柱がある大型船だったとも言われています(ソースはたしか『南州異物志』)。」
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1328534788 何人ぐらいのったとかの文章ぐらいしか分からなくて構造はほぼ不明で、説明文の多くは想像でしょ >>77>>80
絶対ないとは言えないけど
レッドクリフから1,500年後の元寇船が鷹島沖で見つかってる
2011年発見の方は推定全長20mのキール船で当初は壱岐で強奪された船と目されてたが、その後に木材が朝鮮半島のものと判明
2014年発見の方は推定全長24-40mの平船で外板三重構造で船内に隔壁がある江南軍の船
以下に淡水船とはいえ、この船の1,500年にそこまでの船が作れたのかは甚だ疑問 >>84
江南軍の船は淡水用か海岸線からそう離れない用なんだろうな >>83
いずれにしても倭人の船でなく魏の船で?30人以下の小舟ではないと考えられる。だから砂浜に引き上げるなんてことはない。
着けられる地形もある程度制限される、
ジャンク船だから喫水は小さいとはいえ座礁するような浅瀬には着けられないはず。 >>87
それは勘違いじゃない?
キールがないのが、ジャンク船。 >>89
渡来系弥生人が中国から渡来したとか、徐福とか言ってる時点で信憑性ゼロ。
日本には古代中国から渡来定着した痕跡遺構など一切ない。 >>90
北部九州に多い甕棺墓は江南地方の墓制だろ >>91
弥生の甕棺墓は朝鮮南部の壺棺墓文化を取り入れて、弥生独自に発展したものというのが定説。 >>88
キールは唐代の沿岸部で発達
ジャンクも唐代の河川域で発達 >>91
文化の流入はあっても生物としての人の流入は殆どないってのが現在の定説 >>96
人数は少なくても、技術者わ支配層が少数で来日したんだろ。
キナイコシの「定説」は聞き飽きた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています