【九州説】邪馬台国は福岡県山門郡にあった!その2
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九州に決まっとろうが
福岡県山門郡周辺を今すぐ発掘せよ!
邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!
*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁 新井白石が「古史通或問」において大和国説を説いたのちに「外国之事調書」で筑後国山門郡説を説いた。
以降、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」(内藤湖南ら)と「九州説」(白鳥庫吉ら)の二説に大きく分かれている。ただし、九州説には、邪馬台国が”
移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説がある。「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。 張氏の解説を踏まえて進めていきたい。
多くの学者は「到」「至」「従」「始」「又」を考えずに解釈してきたらしい。そのため、「帯方」「対馬」「一大」「末蘆」「伊都」「奴」と、いわゆる「直線読み」をしてきた。さらに「放射読み」をしてきた学者は、「起点」を
間違えて、「邪馬台国」までたどり着けなかった。「直線読み」は、文献を全く理解出来ない、まるで小学生並みの解釈だ。
では、何が正しいのか?問題はまず「伊都国」「奴国」の解釈に出てくる。『東南に陸行すること五百里、伊都国にいたる。』の「起点」は「末蘆国」である。しかし、「伊都国」の前には「到」があるため、そこは「起点」にはなりえない。
つまり、次の「奴国」の「起点」も「末蘆国」である。さらに『東行して不弥国にいたるに百里』と続くが、やはりこれも「末蘆国」が「起点」であり、「伊都国」や「奴国」を「起点」にしてはいけない。
「伊都国」を「起点」にしてしまっている学者が多い。これを正しく訳すと「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国までは百里ですよ。」ということになるし、
それ以外の読み方はできないそうだ。まだ途中だが、ここまでくると、今までの学者の解読が
いかにいい加減かが分かってしまう・・・。
距離、方位等を考えると比定地は現在の「潜木」となる。
ここでひとつ矛盾が生じた。実は「奴国」には「至」が使われていることだ。つまり、今までの解釈では「奴国」も「起点」になる
はずだが、張氏は違うとはっきり言っている。
「起点」になるためには、まず「距離」が書かれた後に「地名」が書かれなければいけないが、「奴国」の場合、
「地名」の後に「距離」が来ている。
この場合は「・・・ならば・・・」と仮定として読まなければいけないそうだ。
つまり「末蘆国から伊都国までは五百里、末蘆国から奴国へ“行くならば”百里ですよ。」・・・つまり「奴国」へは行っていない、当然そこを「起点」にしてはいけない
ということだ!・・・続く!
参照:張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・・〜」 山門と邪馬台は「ヤマト」として古代からの地名として呼ばれ同一性がある。山門やまとという地名を探ってみる。
710年に出来た『日本書記』神功記には「轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛」とあり、(神功皇后が)山門県に転至ましして、即ち土蜘蛛田油津媛たぶらつひめを誅殺したとある。ほかにもある。
藤原忠平、紀長谷雄たちが勅命によって、927年(延長5)にまとめあげた『延喜式えんぎしき』という古文書がある。
宮中の年中儀式、百官の儀、作法から諸国のことなど記した書に「山門五郷、大江、鷹尾、山門、草壁、大神」となっている。.草壁が大草に変わったが他の4地名は今も残っている。
では山門をヤマトと呼んでいいのだろうか。.931年〜939年に日本最初の漢和辞典『倭名類聚妙わみょうるいじゅしょう』の中に、つぎの注釈がある。
「山門郷 夜万止(やまと)と訓む、草壁 久佐加部(くさかべ)と訓む、大神 於保美和(おおみわ)と訓む、、、、」つまり、.『日本書記』『延喜式』『倭名類聚妙』の三古文書をつなげば
神功皇后のころから、山門の地名はあり、夜万止(やまと)と呼ばれたことになる。
つまり卑弥呼から百年位のちの時代、すでに「やまと」と呼ばれていたことになる。山門郡は弥生時代の後期、
「やまと」と呼ばれいたのだ。.この点でも、邪馬台国は、このあたりにあり山門郡に位置していたことになる ここからはよく知られている文面になる。
『南して投馬国にいたるに水行二十日』に関して、ここでは距離が示されていないため、「邪馬台国」の比定の後になる。
さてさて問題の『水行十日、陸行一月』だが・日本では、「まずは水行を十日、その後で陸行を一月」と読んでいるが、張氏は「これも間違い」と指摘している。
もしそのように読むならば、間に「又」のような字が入らなければいけないし、水行十日の後、どこに着くのか、
陸行一月はどこから始まるのかが書かれていなければならないと言っている。それがなければ、上記のようには読めないそうだ。
従って、正しい読み方は「水行するならば十日、陸行するならば一月」・・・「ならば」が正解だそうだ。当時の船は命がけなほど危険な乗り物だったため、
「末蘆国(佐世保)」についた後、好きな方を選べるように両方記載したと思われる。
現代でも、「電車なら〇〇駅から〇分、車なら〇〇インターから〇分」と記載するようなものだろう。この場合の「起点」は文献上、「末蘆国」以外に無いのは
上記の説明の通りだが、さらに追加すると、「水行」したり「陸行」したりできる地域でなければ「末蘆国」に
なり得ないのだから、「直線読み」や「畿内説」で当てはまるかどうか、考えてもらいたい。ここまでで、素直に理解された方は、この本の信憑性を理解してもらえると思う。
張氏は、1・語学的に絶対に無理が無いこと。
2・原文を絶対に修正しないこと。
3・国々の位置が陸上にあること。・・・という前提を絶対に守らなければいけないと言っている。これを見ただけで、幼い時から感じていた矛盾を払拭された感じがする。・・・続く!
参照 張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・・〜」 @中国の史書に出てくる最初の日本の個人名は、『後漢書東夷伝』には建武中元2年(西暦57年)に倭奴国(倭やまとの奴国なこく?)は後漢へ朝賀し、
貢物こうぶつ(みつぎもの)を奉じていました。使人は自ら大夫と称した。光武帝から印綬(「漢委奴國王印かんのわのなのこくおういん」)(委=倭)を授けられている。
この金印は江戸時代天明4年2月23日に志賀島しかのしまで地元の百姓により巨石の下から出土発見され、現在は国宝に指定され福岡市博物館で保管・展示されている。
博多湾はかつて那津なのつと呼ばれていた事から、奴国は福岡市周辺に比定される。のちの魏志倭人伝にも奴国は登場するが同一の国であれば3世紀になっても存在していたことになる。 『南して邪馬台国にいたり、女王の都するところ、水行すれば十日、陸行すれば一月』・・・
ここで問題になるのは、肝心な「邪馬台国」までの距離が記されていないことだろう。
しかし「魏志倭人伝」には『都より女王国までは、万二千余里』・・・つまり1万2千里なのだから、引き算すれば残りの距離が出てくる。
翻訳と計算が正しくできていれば・・・の話だが・・・!「帯方」から「其北岸」は約七千里、「其北岸」から「対馬国」が約一千里、「対馬国」から「一大国」が約一千里、「一大国」から「末蘆国」が約一千里・・・
残りは二千里ということになる。つまり、水行十日=二千里になる。「魏志倭人伝」を忠実に読むならば、「邪馬台国」は「末蘆国」から「南」に水行、或いは「陸行」できて、約二千里・・・一千里の約二倍の距離にあって、
『七万余戸』、つまり七万人ほどが生活できる場所で無ければならない。
これだけでも比定地は限られてくるが、「魏志倭人伝」はここで終わっている訳ではない。当然、この後の文献内容ともつじつまが合わなければ正しいとは言えない。
そのすべてを考えると、張氏は「邪馬台国は現在の出水平野あたりになる。」と解釈している。さらに「条件を当てはめると、現在の水俣市と阿久根市が考えられるが、水俣市では地形的に七万人が住むのは難しい。従って阿久根市が邪馬台国にふさわしい条件だ。」
と言っている。「えーーー」っと言われる人も多いだろう。「畿内説」は問題外で、「北九州説」も完全に否定されてしまったからだ。
しかし、まだ比定されていない「投馬国」にもたどり着ける地域でなければ「魏志倭人伝」と矛盾してしまうため、他の地域では有り得ないということだ。・・・続く!
参照:張 明澄著「誤読だらけの邪馬台国〜中国人が記紀と倭人伝を読めば・・・〜」 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 出水・阿久根に邪馬台国なんて、七万戸どころか七千戸もおぼつかぬわ
出水郡大字田舎邑字辺鄙の阿久根なんぞに女王之所都つったって、誰も卑弥呼詣でにはやってこない。
開店休業・年末閉店! よりによって、真っ先に干ばつがやってくる阿久根ねえ?? 海岸線は今と弥生時代は違うだろうから
海岸沿いから20キロ内陸部を掘れば鏡とか金印とか出てくるで 阿久根市は現在2万人くらいの人口だから
韓の半分の7万戸から干ばつでだいぶん減ったんだな 壱岐から南千里、平戸の狭い水道を抜けてで佐世保はいいところに目を付けたものだ。
ではあるが、福岡県の博多那国や筑後山門郡、佐賀県の吉野ケ里一帯や、熊本県の菊池山門郷など、
古代国邑の戸数の多そうなところはあらかたぬけることになるなあ。
今、阿久根辺りは、第三セクターののんびり鉄道なんだろ。
海辺の自然豊かな土地のようだから、住んでみたい気もないではないが・・・。 >>16
本当にそれ
リゾートみたいな島もあるし
邪馬台国云々より阿久根に住みてーわw このスレでは北部か南か
と言う趣旨になって来そうだな
北部は比定地が多いし遺跡も豊富にあるが
魏志倭人伝の記述と一致しない
魏志倭人伝の記述に一致させると南九州が有利だがこれと言った遺跡が見つかっていない
と言う事で日向に一票
距離と帯方郡から南東で一致
神武の東征は日向からだったはず >>17
筑後川河川事務所調査課の興梠(こうろぎ)さんて、宮崎県西臼杵郡高千穂町出身のお人なのかねえ
あそこの高千穂神社の境内の荒立神社の宮司さんも代々興梠さんで、とてもめづらしいお名前。
ちなみに、
この高千穂神社の本殿背後の小さな御神体山が卑弥呼さんのお墓(冢)で、
荒立神社が殉葬奴婢百余名を祀って(弔って)いるお社(おやしろ)とみてるんだけど(奇遇)。 高千穂神社境内に以下の境内社がある。
>荒立神社・四皇子社 :
本殿左側に鎮座し、猿田彦大神・天鈿女命(荒立神社)と、神武天皇・五瀬命・稲氷命・三毛入野命(四皇子社)を祀る。
荒立神社は明治末年に同町の村社を合祀したものであるが、元の地にも復祀されている(現荒立神社)。
>その他境内社:略 「梅原猛、天皇家の“ふるさと”日向をゆく」より
>もし興梠(コウロギ)さんという人と出会ったら、宮崎県高千穂町の出身と思ってまず間違いない。
>興梠一族が代々宮司を務める「荒立神社」には、
サルタヒコ・アメノウズメの立派な神像が仲良く並んでいらっしゃって、神話を目の当たりにするようだ。
>本来はさらに二対、計三対6体の神像を祀っていたのだが、そのうち二対の像は、明治年間に高千穂神社にお遷りになってしまった。
>ちなみに、お遷りになった神像のうち、一対は荒魂(神霊の荒々しい状態)、もう一対が和魂(神霊が優しくなごんだ状態)、
そして荒立神社に残る一対が、荒魂と和魂の中間の状態を示すのだそうである。 >>24
あれー、レスが被ったよ(またまた奇遇・・・)>>25 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ついに解明した。
※金印が重要で 、「漢委奴国王」を初代天皇として数えていたとすると年代が合う。
西暦57年 漢委奴国王(初代の神武天皇)
西暦57〜137年 倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)
西暦146〜189年 倭国大乱、桓帝と霊帝の間(146年 - 189年)
西暦181年 ニュージーランド北島の超巨大火山「タウポ火山」の大噴火
西暦181年 「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 (『後漢書』)
西暦182年、「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。 (『後漢書』)
西暦193年(183年の間違いと思われる) 倭国が大飢饉となり1000人以上が食料を求めて朝鮮半島に渡る。(『新羅本記』)
西暦183年 大飢饉によって九州は壊滅的なダメージを受ける。九州の王族の権威失墜
西暦184年、黄巾の乱が勃発(漢の衰退)
西暦184年頃、漢が衰退したことによって漢委奴国王印の権威喪失。
西暦184年頃、大飢饉によって人々が神頼みになり巫女の卑弥呼が女王になる。首都が筑紫から宗教色の強い大和に移る。 筑紫と大和は遠過ぎる。
それは中国から見て同じ国とは思わないだろう。
少なくとも、魏志倭人伝には倭国が東遷したなど書かれていない。 魏志倭人伝では「邪馬壹国」と記載されてるけど、その後の考証で、「邪馬臺国」だということが分かったんだよね。
「邪馬台国」なら「台」の字をトと読めるんだけど「臺」だとダイとしか読めない。そして山門の読みは今も昔も「ヤマト」
結びつけるのは、無理が有りますよね。 >>31
そうだね、東征はその後だったと思うね、
権力亡者がわんさかいる中で、記紀にあのように書かれたのだから、
規模や程度はともかく、東征の主役・主人公として認められたのは日向出身の神武で、
博多や、吉備は、その左右将軍的な役割だったのだろう。 >>25
>お遷りになった神像のうち、
>一対は荒魂(神霊の荒々しい状態)、
>もう一対が和魂(神霊が優しくなごんだ状態)、
>そして残る一対が、荒魂と和魂の中間の状態を示すのだそうである。
神像は後世のものであろうが、この↑ 多様な表情はたいへん気になる。
あたかも、奴婢百余名の(喜)怒・哀・楽を表しているようでならない。 神話通り紀元前660年に神武が大和を作った説が出ないのはなぜ?
紀元前7Cとか稲作は既に広まってるし、なかなか良い時代だと思うがな
神武東征した後に越の勢力に九州を占領された
とか ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>30
魏志倭人伝には卑弥呼によって倭国大乱がおさまったとあるから
新しい首都ができた可能性は高いだろうね。
「筑紫と大和は遠過ぎる。 それは中国から見て同じ国とは思わないだろう。」というのは意味不明 越の国はもともと九州が起源だという説がある。
そこに他の部族が入って来て東に追いやられたみたいだ。
出雲も同じ。
九州の中でも、豊国はもともと博多湾沿岸にいたが、東に追いやられた。 >>32
著者は詩や文学の素養もあるだろうから、言葉遊びしてる。
現代でも市場(イチバ)という言葉があるが
日本では栄えている場所をイチという。ヤマタイ国の中心地もイチ
(ちなみに箸墓は、オオイチの墓と呼ばれている)
なので壹(イチ)の字を当て字して邪馬壹国
それから宗教施設(邪馬台国の政治中心地)は山の台地にあるから
臺の字を当て字して邪馬臺国 >>39
そりゃあ朝鮮半島経由で入って来てるのがほとんどなんだから
ルーツをたどればそうなるだろう >>39
普通に越で良いんじゃないのか?長江流域から舟に乗れば対馬海流に流されて九州、朝鮮南部、中国地方、能登半島、東北に漂着する >>42
で、長江から漂着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜と、漂着時に伝わった中国系言語の単語は?
で、長江から漂着したとウソブいている頭の湧いた考古学者の氏名と所属団体は?
. 末盧国から東南陸行500里の伊都国へ
>伊都国が1000余戸か1万余戸だったかは議論の余地を残すが、それは「イツ」と呼ばれた国だったとみている。
>伊都国へは、末盧の港(唐津=津は川の港)から松浦川に沿って唐津街道を通り、山あいを縫うようにして東南へ抜ける。
>多久市まで28キロメートル。そこから7キロメートルほど先の眼前が広くひらけたところが佐賀平野の小城市。伊都国はすぐそこだ。 倭人伝の末盧国の港を呼子に比定する論者もある。
そして一大率は呼子の津に臨んで、荷物を改めた・・・、と論じた原田大六の例もある。
しかし「津」とは、河口からやや川をさかのぼったところなどを利用した「川の港」のことである。
呼子に、さしたる川はなく、津もなかった。もちろん一大率が臨んだ場所でもなかった。
その代わりこの地は、入り組んだ内湾が発達しており、海岸のあちこちに優れた舟着き場を築くことができた。
このような港は「浦」という。
名付けて、名護屋浦、殿ノ浦である。朝鮮出兵の折には、此処に各藩の軍勢が終結した。 倭人伝の中に卑弥呼を佐治(卑弥呼の政治を補佐する)弟の存在が書かれているが
卑弥呼の政治を補佐する人のことを佐治と呼んでいたのだろう。
伊都で卑弥呼の政治を補佐する人は伊都の佐治
伊都佐治(いとさち)=一大率 「津」の旁は「筆」で渡船場
川をさかのぼったところに限定されるものではない >>47
河をさかのぼったところなど、と書いているが、
これは松浦川を想定したので、その他のケースは「など」に含めたつもりだった。
もっと単純に言えば、
淡水の港が「津」、海水の港が「浦」ではないかな。(少なくとも呼子は津ではない) ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 「津」に川や淡水の意味はない
主張するなら用例を挙げるべし
「浦」の旁は草と耕地 >>50
さっそく勉強しました。
古代中国においては「津」と「関」は特別な意味がありそうですねえ。。
[中国の津・関]
>古来、中国では国内旅行にも身分証明書を必要とした。
>旅行者を取り締まるため陸上交通では関,水上交通では津を置いた。
>漢代では旅行者の身分を証明する文書は一般に伝と呼ばれたが,そのうち木簡に書いたものを棨(けい)といい,
>本人の居住する郷の嗇夫(しよくふ)という官が前科のない旨を証明し,県の長吏が副署し,
>津関においてとどめないように依頼する形式であった。… 洛陽八関 後漢の霊帝の時期
>「洛陽近郊には、四関(函谷関、伊闕、成皋関、孟津関)で構成される地域(=洛陽盆地)と、
>後漢末にはさらに八関(函谷関、広成関、伊闕、大谷関、轘轅関、旋門関、小平津関、孟津関)が置かれ」
>「漢代には洛陽盆地を取り囲むように関所が置かれた。
>管理機構の都尉治を除いて全部で八つ、洛陽八関(らくようはっかん)と称する。>この広大な盆地に出入りする道はこの関所を通過する八本しかないのである。まさに盆地全体が天然の要塞でもある。
>八関のうち函谷(かんこく)、轘轅(かんえん)、大谷(たいこく)の三関は遺跡が残存している。」 洛陽八関 後漢の霊帝の時期 (つづき)
>以上のようにすべては軍事上の要に置かれていました。
>函谷関は有名で孟嘗君の鶏鳴の故事によれば、日没に閉じて日の出もしくは一番鳥で開けていたようです。
>曹操が董卓の暗殺に失敗して逃げるときによれば、中牟の関門に詰めていた守備兵に捕獲されています。 古代日本の陸の関と海の関:(唐津は海の三関に数えられた)
>わが国の陸の関は、神功皇后のとき、
忍熊王の乱を防御するために和気関(岡山県和気町)を設けたのが始まりといわれる。
その後、大化改新(645)によって関塞(せきそこ)の法を定めて鈴契(れいけい)を与え、
大宝令(701)に至って制度が確定した。
>当時の関塞 (かんせん)としては、東海道の伊勢鈴鹿関(三重県亀山市関町)、東山道の美濃不破関(岐阜県関ヶ原町)、
北陸道の越前愛発席(福井県敦賀市。のちに近江逢坂関〈大津市〉に変わる)を三関とよんで、もっとも重要視し、
非常事態には、この三関を閉じて防御体制を固めた。
>また、海の関(水関)を船筏で通過する際に過書を必要としたのは、
兵庫水関(神戸市)、長門水関(山口県下関市)、唐津水関(佐賀県唐津市)の三関であった 末盧国のころからの伝統を引きついだと思われるのだが、
大化改新の頃の佐賀県唐津港は、
海の三関の一つとされるほどの海上交通の要所であり、、
水関が置かれ、通交には過書(過所とも書く)が必要であったという。 熊本が栄えていたからこそ、福岡の邪馬台国に対抗しうる狗奴国になる。
邪馬台国が熊本では、その南に強国を設定できない。 >>58
陳寿の記事は、最大のライバルで共立交渉の相手方であったはずの博多奴国(那国)を、「遠絶不可得詳」でおしまいにしている。
その当て馬として、南の狗奴国を面白おかしく書いたのではないか。
古来中国では、「北」が天子の座る上座で、
南は、弱小卑属の末席という扱いである。
南の邪馬台国のそのまた南にあった狗奴国が、それほどの強国であったか極めて疑わしい。 私は邪馬台国が肥
クナ国が日向大隅の熊襲国推しですね。 だから狗奴国対策に関しては、
帯方郡からは、張政ら数人が、錦の御旗を以て応援に駆け付けただけにとどめている。
その後は、
卑弥呼の宗女台与が共立され、台与は魏の後継の王朝へ朝貢もしているのであるから、
狗奴国騒動は、間もなく収まったというわけだ。
で、めでたしめでたし・・・、というのがマッチポンプ小説家・陳寿の落としどころさ。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 空白の四世紀と言われるが
四世紀以前は全部空白だよな 九州説寄りだけど畿内が気になる事もある
大和尊が西暦97年に熊襲討伐とあるが
これが事実ならこの頃すでに大和に文明があったという事じゃないのか? >>64
四世紀の遺物として、石上神社の「倭王旨に贈った剣」がある
空白ではない TV番組の水戸黄門でいえば、
狗奴国男王・卑弥弓呼は悪代官役、狗古智卑狗が悪徳商人だな。
で、卑弥呼が女・水戸黄門で、カッコよく助けに入った梯儁・張政は助さん格さんって寸法だ。
どうせ最後は、狗奴国の悪代官と悪徳商人に天誅が下る・・・、、
陳寿は、歴史家で小説家で脚本家、一人三役の才能を持ち合わせていたような印象だ。 森村伊作ブログ:末盧国から東南・伊都国へ
>伊都国(イツ国)へは、末盧港(唐津)から松浦川に沿って唐津街道を通り、山あいを縫うようにして東南へ抜ける。
>多久市まで28キロメートル。そこから7キロメートルほど先の眼前が広くひらけたところが佐賀平野の小城市。
>伊都国は、今の小城市街の南、JR長崎本線と唐津線の分岐する久保田あたりだった。
此のあと伊作氏は、川船でクリークを進み、佐賀市ー諸冨ー大川ー柳川ー筑後船小屋へ。
ここで上陸して、みやま市瀬高からー南関ー山鹿へ至るルートを考えた。
いわば、白鳥らの肥後山門説の変形ともいえよう。 >>65
ほぼ確実な年代として応神天皇が4世紀末。
逆算すると日本書紀の景行天皇の九州巡行は4世紀初め。
古事記ではその代わりに景行天皇の息子である小碓尊の熊襲征伐がある。
これもやはり4世紀前半であろう。
空白でもなんでもない。
ちなみに景行天皇が都としたのが豊前で、小碓尊が熊襲梟師を倒したのが肥前。 刑務所、自殺・・・、
どれでも良いから、好きなのを選んで
わかりやすく言うと死刑という意味なんだけど いつまで言っているんだ?(同じ事をwみたいな話)
と言ってる人もいたり 伊作氏の川船ルートでは、
伊都国は田んぼの中の働き人の小集落になり、
また、不彌国も筑後川を渡った大川市鐘ヶ江の船宿兼川魚漁師兼イネ作り集落といった感じにならざるを得ない。
此処をどのように解決するか、大きな難関があった。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 紀元前から大和王国はあった
紀元前春愁時代に大陸から国を追われて来たグループが縄文人と結合して全国に散らばり
各地で国が出来て大和を都とした、これを第一次渡来グループとする。
数百年の平和的な農耕時代を経て
再び大陸から国を追われたグループが九州北部と半島南部に漂着、九州倭国を結成、やがて金印を授与される、これが第二次渡来グループ
三國志の時代に国を追われたグループが再びやってきた、第三次渡来グループだがこの頃になると在来の第一次渡来グループと領地争いが激化して倭国は乱れに乱れた、これが卑弥呼の邪馬台国時代 >>69
68だがもとい
何代から実在したと考えられる? >>79
>68だがもとい
>78の間違いかい?
少しもちつけw 神武は存在した
7世紀までの天皇は歳を半分にすれば辻褄が合う 西都市の、妻(ツマ)、あるいは都万(ツマ)、というから投馬国でよさそう。
ついでに、伊都国もイツ国と読んだのかもしれないね アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>81
桜島の噴煙を見てイヅクモ
→ イヅモ(出雲)
→ ツマ >>75
>紀元前から大和王国はあった
>各地で国が出来て大和を都とした、これを第一次渡来グループとする。
畿内説は神武から始まる大和の万世一系説の亡霊。 >>82
>神武は存在した
>7世紀までの天皇は歳を半分にすれば辻褄が合う
畿内説は神武から始まる大和の万世一系説の亡霊。 三瀦(みずま)は、
かってあのあたりを制した水沼の君に由来するらしい。
みずぬまが訛って、みずまになったとか。今、「水沼2000年の森」とかいう記念公園ができてる。 伊作氏の天然クリーク川船ルートはマニアックすぎるようなので、これに代わる路を考えた。
やはり古代の道の便利さということになると、
背振山や天山の南面の麓道、今の小城市と鳥栖市を東西に結ぶ県道筋が便利ではなかったか。
諸川の上流部を東西に往来するので渡河に便利、山林に近く薪もあって野営にも便利。
奇しくも今、長崎−鳥栖間の高速道路も、この山麓地帯を走り抜けている(つづく)。 >伊都国(イツ国)へは、末盧港(唐津)から松浦川に沿って唐津街道を通り、山あいを縫うようにして東南へ抜ける。
>多久市まで28キロメートル。そこから7キロメートルほど先の眼前が広くひらけたところが佐賀平野の小城市。
つまり、唐津から小城市までは35qほどである。
しかし伊都国まで陸行500里ということは、@75mとして37.5q位になる。オギ市街ではちとショート気味だ。
で、さらに東へ2-3qほどの、県道または高速道路沿いにそれらしきがあればバッチリなのだが・・・、 >三國志の時代に国を追われたグループが再びやってきた、第三次渡来グループだがこの頃になると在来の第一次渡来グループと領地争いが激化して倭国は乱れに乱れた、これが卑弥呼の邪馬台国時代
ここだな、これが九州倭国だ >>94
大和における神武による建国とかいう馬鹿げた神話に引きずられているだけだろ。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>96
94は畿内説じゃないと言う事は読み取れてるの?それともただのバカ? >>75
確かに九州の土器の搬入はほとんど無いから
大和の支配領域は九州までは及んでない
個人的には九州倭国が新興勢力で大和の方が古いと言う考え方はありかな Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している
これが今のおおよその意見。
でもこれはヒミコを見つけられない馬鹿たちの言い訳。
卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地が高天原。
その高天原最有力地・奈良県御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
http://goo.gl/maps/dojwZbNsi8q
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。 邪馬台国畿内説の話じゃないっての
巻向のc14の分析が正確なのかはっきりしてほしい、その年代が事実なら大和は古くからあった文明と考えざるを得ない、
同時期に九州は戦乱に明け暮れ、畿内は平和だった、九州とは全く別のかなりでかい規模の独立政権が畿内にあった事になる C14 に限らず、
古代ものには、そんなに正確な年代を期待することはできない。良くて100年単位だろうな。 >>93
>伊都国(イツ国)へは、
>末盧港(唐津)から東南へ、多久市まで28キロメートル。そこから7キロメートルほど先が佐賀平野の小城市。
これは唐津始点のようだ。古代の末盧港は、鬼塚駅近くの中原遺跡で、今の唐津競艇場の南隣りだな。
ここからだと、小城市中心まで31qほどになる。 末廬国=佐世保松浦は秀逸だと思う。
しかし佐世保であれば、いちおう大都会で、旧百余国時代の都であったであろうから、
官の名が書かれていてしかるべし。
倭人伝にいうような、前を行く人を見ずの草ぼうぼう状態は解せぬ。、 佐世保=末盧国で、そこを起点に伊都国、奴国、不彌国、都万国、邪馬台国へ渡ったのなら、
帯方郡の駐在所も、佐世保にあってよかろうもん。
なのにその伊都国と駐在所が、東南の嬉野温泉・塩田宿にあったということは、
さては郡使や一大率たちは、毎晩芸者を揚げてドンチャンやらかしてたのか・・・?? >>109
宮ノ本が流通の中継拠点だった訳だから
普通に末廬国=佐世保で良いと思う
これに関しては全然異議なし 誤読だらけの〜は
陳がアバウトに書いた距離と方角を
張氏がくそ真面目に読んだ結果だからな
それでも佐世保までは秀逸だと思う
でもそこからが分からん 郡から使者が常に駐したのが伊都国となっているので、温泉の有る嬉野が伊都国というのも矛盾は感じられないと思います。 アバウトな距離感で言ってるなら
末廬国は唐津でもええんちゃうの?
東南の吉野ヶ里をイト国に比定できるぞ >>114
そうだな、
温泉好き、酒好き、女好きには、こたえられん。一切の矛盾なしだな。 21 名前:日本@名無史さん :2018/11/02(金) 22:30:21.38
>>19
「其山有丹」だから辰砂が採れる場所でないといけない。
鉱脈が中南九州にはあるようだ。
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45700769.html
佐世保にも水銀の鉱脈はあったようだ。
http://motamota.hatenablog.com/entry/2018/08/15/100442
でも福岡はどうかな? >>116
あまり無いけど、鬼塚古墳(盗掘済み)とかかな? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 普通に張氏の説であってるような気がするけどな、倭国大乱は異常気象で米をめぐって領地の取り合いをしていたから、一ヶ所で何百年も留まっていられる訳がない 倭国大乱は異常気象で米をめぐって領地の取り合いをしていたというのに、
嬉野温泉辺りで、飲んだくれてる場合じゃないわな
嬉野=伊都国は失格! 戦乱の度に民族浄化されてただろ
たぶん邪馬台国もそうなってる可能性があるよ
だから見つからない
もしも大和王権に繋がったのなら、日本書紀に書いてあるはずだ >>123
同意。
邪馬台国は天皇家から見て黒歴史にしたい存在だったのだろうね。
だから神功皇后を120年繰り上げて上書きしようとした。 それにしても畿内には戦乱の跡とか見つかってないの? 卑弥呼の呪術が衰えて殺されたのか
天に雄叫びをあげながら力尽きて死んだのか
そのまま乱世に戻ったのなら
卑弥呼の息のかかってるグループは根絶やしにされて邪馬台国は消滅してるだろ >>126
そうなっててほしいのかな
ま、その後どういう経過をたどったのか、
それは伊都国や、不彌国や、邪馬台国のあった場所が確定したらわかるだろう。 >>127
世の常だろ
かつての絶対的王者も力がなくなれば滅亡する
物部氏も蘇我氏も豊臣家も滅んだ
政権が変わって生き残れたのは徳川家ぐらいじゃね? >>106(続き)
古代の末盧港は、鬼塚駅近くの中原港遺跡で、今の唐津競艇場の南隣りだった。
ここから東南500里ということは、1里74mとして、伊都国まで37q。
途中の小城市中心までは約31qだから、あと6qになる。 >>129(続き)
この小城から6q付近には「川上」という集落地名がある。
「川上」は、記紀にもよく出てくる砦・塁の名であり、
わが故郷の夜神楽でも「川上のタケル云々・・・」のセリフは、子供でも暗記している。
この川上に惹かれて、一帯を探し回り、さらにグーグルマップとも照合した結果、
川上集落の北側の、鳥栖〜長崎高速道路と背振山地との間に、官衙の跡らしき区画割りを見出した。
(概要は、九州スレにて既に述べた)
県道や市道に取り囲まれた東西1q余、南北250mほどの広さに、10余の区画割りが認められる。
小城から5.5q、末盧国・唐津中原からは36.5qで、497里≒500里、になる。
(倭人伝の里の驚くべき正確さよ!)、 狗邪韓国→対馬
対馬→壱岐
マップでは76kmと67km
だが島の到着地点によっては
76.76で行けるんだよな >>126
卑弥呼の宗女である壹與が統一したことになっているから、その時点では勝ち組だったはず。 千里、千里、千里、五百里、百里・・・、といっても、
自然の地理地形のことだから、そうそうピッタシカンカンに並んでいるわけはない。
とはいえ、四捨五入では、ちと荒っぽいかもしれないので、
プラス/マイナス25%くらいの範囲に入っていれば、まずまず合格扱いでよいのではないか。
それにつけても陳寿は、1万2千里をうまくまとめたものだ。 https://www.youtube.com/watch?v=aljW2VJn7f8&t=18s
みなさん 邪馬台国は 球磨郡に ありましたよーー
隼人 熊襲 と よばれた 人たちですよーー 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 実際には一万里ちょっとのところを、一万二千里に水増ししたかもしれない。 「伊都国官衙」に比定した佐賀川上のこの区画は、今は近傍の寺の名を取って大願寺地区と呼ばれている。
その中心区画(約250m×125m)に、古代の廃寺跡がある。
この廃寺は、かってイ寺(椅寺)と称し、
665年築城の佐賀・基肄城と同はんの百済系瓦が出土しているので、すでに7世紀には存在したようである。
またここに藤原氏の守護神を祀る太神宮(五社大明神)も同居し、神仏習合の形を伝えている。なおこの社殿は現存している。 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 通例、伊都国は「イト国」と読まれる。
しかしこれは、京都を「キョウト」と読む畿内のお公家風の読み方からきたものであろう。
日向では、三世紀の投馬国を「都万(ツマ)」と伝えるように、伊都国も「イツ国」だったとみるべきである。
また倭人伝には、伊都国に常治する「一大率」という実力者がいたと書かれているが、
この一大率も、「伊都太率=イツ太率」と呼ばれた(書かれた)とみるべきである。
女王共立に伴って王を退いたかっての伊都国王を慮って、女王卑弥呼が「率」の高位を与えた。
それがのちに畿内大和−大宰府の関係に変わっても、日本国天皇ー筑紫太宰の師として引き継がれたのであろう。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>142
日本のイネはDNA解析で広州直系タイプで朝鮮半島南部で発見されたプラントオパールより古い種だっていう国立遺伝学研究所の倉田のり教授の研究成果はどう見てるの? 佐賀川上の伊都国官衙遺構とみている一帯は、
周囲の水田地帯より、数メートル〜十数メートルほど高く、丘陵と台地の中間のような土地地形である。
見晴らしは良く、南に佐賀平野〜有明海が広がる。
倭人伝には、伊都国の東南至奴国百里とあるが、これは、「もし東南に行くならば奴国あり・・・」の仮定形である、
高台の官衙から見わたせば、朝夕の炊事時、東南の方向に立ちのぼる太煙りが目に入り、
「なるほど、二万戸の民のかまどはにぎわいにけりだな・・・」というわけで、あえて奴国へ足を運ぶこともなかったわけだ。 佐賀川上の(推定)伊都国官衙遺構から東へ約2qで佐嘉川にさしかかる。
川の手前には、肥前一宮の與止日女神社(河上神社)がある。
川を渡ったところが久池井地区で、平安時代には肥前国庁が置かれ、国分寺・国分尼寺・春日大明神もあって栄えた。
倭人伝以前の時代、
此処はおそらく旧百余国のうちの有力な一国であり、王・王族も居たに違いない。
しかし、卑弥呼共立に伴う国邑合併で、東隣にあった不彌国に組み込まれたのであろう。 良スレです
キナイコシが荒らしに来るでしょうが無視ください
さて
吉野ヶ里級の環濠集落は北部九州にいっぱいあったと思います
我流根拠=吉野ケ里周辺に北部九州に人口が集約されてたとは思えないから
畿内で大規模な環濠集落が多数見つかれば良いのですが >>144
ギリヤークせんせーはレス返しはることあるなー
勉強になりますよ?
まースレちなのはがまんしたれ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>148
いやいや、クマソタケルも倭王の一人だし、壹與もいたなら、倭国の中の肥国の王都と言える。 古代のことだから、日常的な渡河往来は簡単ではない。
それに、カワカミノタケルは、河をせき止めて誰も近づけなかったと云う。
佐嘉川ともなれば、手前側と向こう側は、別々の国だったと考えるべきでしょう。 堰き止めたということは、両岸が支配下でないといけない。
川上タケルのもとの称号が熊襲タケルであるのだか、佐賀から南はずっと、おそらく有明海沿岸、すなわち肥国全てが川上タケルの支配域だろう。
それは狗奴国が九州のどこに想定するとしても、それを含むはず。 境目になる川だから佐嘉川なわけですね
堺の堺川や寒河江市の寒河江川と同じような名付け方ですねえ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ま、両岸を支配しているのなら、河をせき止める必要はない。
要は、河は往来の障壁であったというたとえ話、或はカワカミノタケルにアクセスできない言い訳だったのだろう。
狗奴国は、倭人伝の構成からいえば付けたりの与太話だな、
それなのに、その弱小狗奴国の位置・範囲を先に決めておいて、
あとから主人公たる邪馬台国の場所をはめ込むのは、本末転倒の見本。 そもそも魏志東夷伝に、手厚き「倭人の段」が書き加えられたのは、
倭の強国女王に、親魏倭王の称号を与え、良き盟友関係にあったことを強調するためのものであった。
で、その強国ぶりを印象付けるために、アテ馬としてやんちゃ坊主の狗奴国を登場させだけのこと。
(注1:北の上座に対して、南は下座の身分の低き者であることを示す。)
(注2:まして南の邪馬台国の、そのまた南の狗奴国は、下の下の身分の国邑を意味する)
合わせて張政らの軍師派遣は、「傀儡政権たる邪馬台国樹立を目的のため」などという物騒な下心からではなく、
狗奴国対策上、やむを得ない「先方から依頼されての支援だったのですよ〜〜」という言い訳にすぎぬ。
ま、大帝国のすることは、昔も今もさほど変わらぬな・・・。 倭人伝の行程だが、仮に陳寿が伊都国からの放射記載を採用して、
東南至奴国・・・、東至不彌国・・・、東南至投馬国・・・、東南至邪馬台国女王之所都・・・、でもよかったはず。
なのに、なぜわざわざ東行し、格別の用もない不彌国まで移動したのか。
それは、南至投馬国・・・、南至邪馬台国・・・、と何が何でも「南至る」の表現を使いたかったからである(つづく)。 邪馬台国は狗奴国に負けて狗奴国は大和に滅ぼされた、そう考えるのが妥当
信長の安土桃山ですら栄華を誇ったのは僅か数年しかない
邪馬台国は魏志倭人伝に書かれた時代に多少力を持っていたとはいえ、女シャーマンに頼る政権は長続き出来ない 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、
そこでテン(滇)王国を作った。同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。
テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。 >>164
で、長江流域から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、長江流域から渡来定着したとウソブいている頭の湧いた考古学者の
氏名と所属団体は?
いつ立証するんだインドシナ華南ブタ広鼻ベトナミーのおまえは? >>162
魏志倭人伝には、壹與が即位してまとめたと書いてある。 >>166
その通りだね。
宗女の壹與が後継者となったのだから、倭国全体の女王支持は継続されたわけだ。 これは、すでに周知の件ではあるが・・・、
【北極星】
>史記・天官書などの記述によると,
>北極星は天帝太一神の居所であり,この星を中心とする星座は、天上世界の宮廷に当てられて紫宮,又は紫微宮とよばれ,
>漢代には都の南東郊の太一祠において、しばしば太一神の祭祀が行われた。
>その後,後漢のころには、北辰北斗信仰が星辰信仰の中核をなすようになり,北辰は群霊を統御する最高神とされた。
古来中国では、この北辰にちなんで、北を最高の上座とし、下位の者ほど南の下座に座るようになった。
そこで陳寿としては、「倭国のはるか南の下座の女王でさえ、天子様に忠誠を誓っております」、
ということを強調するために、ぜひとも「南至る邪馬台国女王之所都・・・」としたかった。
そこで伊都国から、わざわざ東行百里して、不彌国まで足を延ばしたというわけだ。 >>164
で、長江流域から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、長江流域から渡来定着したとウソブいている頭の湧いた考古学者の
氏名と所属団体は?
いつ立証するんだよ華南ブタ広鼻ベトナミーのおまえは? >>164
テンの遺跡から出土した金印は
シガ島の物とそっくりだったから、漢委奴国王は本物と見て問題無いだろうね 日本書紀の神功紀に引用される『晋書』起居註に秦始2年(266年)に、倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。
卑弥呼#神功皇后説にもあるように、江戸時代にはこの女王は卑弥呼と考えられていたが、卑弥呼は249年(正始10年)までに逝去(『梁書』)してしまっていることから、
近年ではこの倭国女王は台与のことであると考えられている。
なお、この正始10年(4月に改元されて嘉平元年)(249年)は、中国では曹操に始まる曹氏の魏から、司馬懿に始まる司馬氏の晋へ禅譲革命が行われる265年12月(泰始元年)に至る契機となった年である。
この朝貢の記録を最後に中国の史書から邪馬台国や倭に関する記録が途絶え、次に現れるのは150年の後の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)である。
↑
だから266年以降に再び戦乱が
起きたと考えるのが妥当 >>171
日本書紀に登場する筑紫の梟帥である神夏磯姫が、壹與のすぐ後くらい(4世紀前半)だろう。
八咫の鏡を含む三種の神器を掲げて登場する。
景行天皇の記事に出てくるのだが、これが本来の倭国女王だろう。 >>172
>起きたと考えるのが妥当
この表現が出た時は、たいてい根拠のない話だ。 博多湾岸の那の津を根拠地にした王族があり、
其王が光武帝57年に朝貢し、倭国の南界まで制していると述べて漢委奴国王印を拝受したのは、大いにありうる。
またその金印は、志賀島から出土した例の物でよいのではないか。
その後、安帝の107年に臺に詣で、印綬の栄に与かれなかった面土国の師升なる者の記述もあるが、
倭奴国王が南界まで制しているはずなのに、別の王が来るのはおかしなことと思われたのも、これまた有りうることだ。
しかし、そうであったということは、倭には別の有力な「面土」なる王が居たことになる・・・、
この面土国王については、
すでに、佐賀平野・吉野ヶ里東接の目達原(めたばる、米多郷)を根拠地にした大王だったのではないか、との意見がでている。
博多湾岸の倭奴国王と張り合う地理・地政的好位置にあったわけで、まさに適切な論と思う。
、 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>176
>九州説者がよく指摘する 「其國本亦以男子為王 住七八十年」は非常に重要な情報である。
>邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
>卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
たしかに「其国本亦以男子為王。住七八十年」は重要な情報である。
が、それほどその王家が安定していたというのなら、その後に続く、
「倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。」
というような、桓霊の大騒動は、起こらなかったであろう。
鬼道卑弥呼の登場は、まさにこの大騒動の結果として、大王家の交代・統治手法の大変革があったことを雄弁に物語っている。 うん、
大六の孫の大八が良く頑張っておるようだな。。。。 >>179
>大六の孫の大八が
ww
するってぇと、大六の子は、大七だったのかい?ww >>176
魏志倭人伝ではイトコクを邪馬台国とは別の都市と書かれてるだろが
邪馬台国が倭国の首都でイトコクは支配下の国と読むのが普通
よって邪馬台国はもっと南にあったのは
疑う余地が無い >>180
そういうこった。
んでその次は、大九か第九だろうな。年末でもあるし、おごそかに行こう・・・ >>178
>が、それほどその王家が安定していたというのなら、その後に続く、
勝手な決めつけ。
江戸幕府だって最後は倒れたからな。
安定していても倒れることはある。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは(魏で皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。
女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内の北である若狭湾沿岸になってしまう。が、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。
「刺史」・・・各地方を治める監察官
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職 >>184
「一大率」は一大國の司令官という意味にしかとれなと張さんは書いているぞ。 大率という役職の存在を知らなければそう読むだろうけどね。 >>186
大率と言う役割があろうが一がついてるから
一大国の司令官が正しい 司令官は通常一人だから
一の意味は一大国にかかってくる 「一大率」の本部は「一大國」
「一大率」の治所は「一都」 「伊都」「壹都」と綴るのも良し
「一大率」は「倭州」の「率衆王」 自分のシマを越えて他所にもジャイアンしたがる
「一大率」の別名は「奴母離」 代行執行者を主要國に「卑奴母離」として配置
「一大率」の異父妹の女王が死ぬと「男王」に化けて周囲に迷惑をかける
「一大率」のうじ素性は「海の民」 砂丘状に住まい高い山に昇りたがる >>190
なんだそれ?
意味不明だ。
一大國は壱岐だよ。 女王国より以北の一大国には特別の率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。
(魏)国中における刺史(州の長官)のような存在である。(邪馬壱国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行くとき、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たときには、
いつも港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。
―魏志倭人伝より 「一大率」の本部は、佐賀川上の「伊都国」
「一大率」の治所も「伊都国」 「伊都」は「イツ」と綴るも良し
「一大率」の旧名は「伊州」の「伊都国王」 自分のシマを越えて他所にもジャイアンしたがる
「一大率」の別名は「伊都太率・イツ大率」 <百済の官位(『通典』百済伝による官位)>
1 (等級)、左率(『隋書』では佐平)。中国の一品相当
2 (等級)、達率(『隋書』では大率)。〃 二品
3 (等級)、恩率。 〃 三品
4 (等級)、徳率。 〃 四品
5 (等級)、扞率。 〃 五品
6 (等級)、奈率。 〃 六品
おいおい、「達率、又は大率」は、れっきとした百済の官位ではないか。
しかも伊都国に常治の大率だから、伊都大率(イツダイソツ)でセイカ〜イであろう。
>2 (等級)、達率(『隋書』では大率)。〃 二品 「太率」が百済の官位制度であったということは、
伊都国も、邪馬台国も、馬韓クダラの流れか、、、
対馬国、投馬国、斯馬国、邪馬国、邪馬台国、・・・やはり、一連の新渡来人の国々だったんだな。 >>192
>一大國は壱岐だよ。
あの島は 3世紀の呼称が「一大」
「壱岐」というのは「壱」「一」「壹」「伊」の分岐で発生する拡張域
故意にやっているんだろうが 時と共に地名の逆転が発生している
当時の「壱岐」は「壱岐」ではなくて「壱」「一」「壹」「伊」で称されるのシマの本部
そして
早良平野とかこそは 3世紀の呼称での拡張域の「壱岐」
早良平野に残存する「壱岐」の名は これはんぱない
早良平野の女王は「伊支馬」の別称を持った「邪馬壹國女王」の「壹與」 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>190
>「一大率」の本部は「一大國」
一大率を伊都国に置くという記述と矛盾している。 >>199
「一大率」のうじ素性は「海の民」 砂丘状に住まい高い山に昇りたがる
あとから外来したこの「海の民」 は砂丘状に住みたがり
三雲のような農耕で暮らす民の領域を根城にはしたがらない
三雲を伊都國にしたがる比定がクズ
伊都國は石棺墓が分布する糸島水道沿岸部 旧 「志摩郡」 >>190
「矛盾」という語の意味も読みも分かんねえんじゃねえの、、、 女王国より以北の『一大国』には特別の『率』を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。
―魏志倭人伝より― 「一大率」というのは「倭州」の「率衆王」のひとりの「率善中郎將」の別称だろ
いまひとりの「銀印青綬」を假されたおひとは5萬戸の「投馬國王」で
これが女王の生んだ子の場合には婿として倭國王を称するのも可 >>195
「『魏志』には”一大石””一大蛇””一大統”という言葉が出てくるので、”一大率”もこれらの”一大...”の中の一つだと思われがちであるが、じつはそうではない。
三字をさらに区切るなら、
”一大石”は”一 大石”
”一大蛇””は一 大蛇”
”一大統”は”一 大統”
というような、”一”は”一つの”という意味になる。
したがって、ちょうど英語のaやanのような冠詞になる。そして”大”を加えると、まさに、a bigと同じ意味になって、石、蛇、伝統いうのにちょうどいいようになる。
しかし、”率”にa bigというのはおかしいし、例え”大”をbigといわずにgreat、largeといい変えてもおかしい。
日本で”率”を”軍団”と誰かがでっち上げたから、”一大率”を”一つの大率”と取っても違和感がなくなったが、もともと”率”は”軍団”ではなく、”師”であり、分かりやすくいえば”司令官”という意味である。」
誤読だらけの邪馬台国
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/ 当時のキャラクタセット未詳なるも
太○→大率
太○→太宰 の可能性無きにしもあらず
○は ttp://www.kxue.com/static/zi/21A14.gif >>207
「諸国を検察するのにたった一人の司令官を置くのは、どう考えても辻つまが合わない。”率”は”司令官”であるから”小率”は絶対になく”大”とわざわざ書かなくても当然”大”である。
したがって”一大”が固有名詞でない限り、ここには”一”の”大”も出てくるはずがなく、したがって一大というのは、固有名詞であり、一大率は一大国の司令官である。つまり、一大国の司令官を使って諸国を統治していたのである。」
誤読だらけの邪馬台国
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/ 率と帥は、意味も発音も同じとされている。
帥升も大率も、筑紫の帥、倭王のこと。
卑弥呼は倭王の上に君臨する天皇のような存在とされたのだろう。
ただしそれは倭国の中だけの話で、中華皇帝はそのようなことは認めるわけもなく、卑弥呼はあくまでも倭王の称号に落ち着いたというわけだ。 百済の官位を見ると、大率の他に徳率など、いくつかの官位があった。
倭ではそこまで細かく分けずに、大率だけを置いたという意味で通じてしまう。 >>208
では、太宰の帥は二重表現だったのだな。
帥も率も宰も同じこと。 >>209
「女王国以南の投馬国は、天領の邪馬台国と全く同じで、邪馬台国からの司令官が統治していたと思われる。一大国の司令官が統治したのは、狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国が主だと思われる。
そして、司令官による統治は、つまり、軍政だということである。だから諸国は恐れたり、畏怖したりしたのである。
しかし、司令官による統治は、軍政だということであるから、小国に対してはできたが、伊都国のように“世有王”という半独立国にはできない。
したがって、いつも伊都国に対する統治の仕方は、国の中に刺史に似たような長官を置いたのである。つまり、一大国の司令官で統治するような軍政を行わずに、刺史のような長官で、伊都国王に一目おきながら伊都国を統治したのである。」
誤読だらけの邪馬台国
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/ >>213
頭おかしい。
大率が伊都に置かれ、女王国以北の狗邪韓国から伊都まで(伊都も女王国)を支配したとあるだろ。 >>213
壱岐が倭国の玄関口みたいな国だから
他国から縄張りを荒らされないように
警備に特化した特別な官を置いたら
回りの国々は恐れをなした
みたいな意味? >>218
絶版の本なので図書館で読むか、中古でご購入ください。 >>213
「日本では、読解力のなさで、揃いも揃って”一大率”が”刺史”のごとく糸国を統治した、と訳しているが、”率”と”刺史”では、全く統治の仕方が違う。
“率”による支配は、あくまで軍政で。吏治ではない。そして、”刺史”による支配は、吏治であって軍政ではない。
“率”による支配は、あくまで軍隊を率いた指令軍の常駐統治である。つまり、いつも軍隊が目を光らせて見張っている統治の仕方である。
しかし”刺史”は常駐統治ではなく、定期的に回って見る、いわゆる巡視式の統治である。だから質的に同じではないのである。
どの国についてもいえることであるが、昔から属国や属領に対する行政は、中国史家の分類法によると土法と流法に大別されるようになる。
土法というのは、その土地の人を行政官に取り立てる方法である。そのメリットとして、当地の習俗や人々の価値観等に詳しいから、うまく支配できる。しかし、ときには、官民が一致団結して中央に反旗をひるがえすこともある。
流法というのは、中央から絶えず行政官を定期的に取り替える方法であり、官民が一致団結して反旗をひるがえすことはないが、行政官は上層部だけが流官で中堅部から下が土官であるから支配の仕方に問題があるともいえる。
女王国以北の諸国の中で、伊都国と狗邪韓国、対馬国、一大国、末盧国の四箇国を比べると原文で何をいいたいかが、非常にすっきり分かるようになる。」
誤読だらけの邪馬台国
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/ >>212
>では、太宰の帥は二重表現だったのだな。
>帥も率も宰も同じこと。
二重表現ではなくて省略形だ、→大宰府の師(率・宰) 帥升、大率、太宰の帥は役職としては同じということになる。 >>226
そういうことになるね。
それぞれが倭国九州の時代を代表しており、倭国九州の変遷を語る貴重な役職名。 魏志の時代に大倭が認識されていたのかってなるし、何気にそれが一番重要な一説 >国有市、交易有無、使大倭監之。
邪馬台国には大倭王がいて、使大倭は、市を監督だろ。 >使大倭監之
これ本当に何なんだろな、突然大倭が出てきて
訳分からん、大倭があの大和の事なら、散々謎の都市邪馬台国の生態をのべながら、みなさんご存じの大和が監督してますよって言うのも
文脈的におかしいし
大と言う役職でもあるのかなと思ってしまう >>233
魏志倭人伝訳
租税を収め、高床の大倉庫がある。国々に市があって有無を交易し、「大倭」にこれを監督させている。女王国より以北の一大国に「率」を置いて検察し
「大倭」の役割の後に「率」の役割が書かれてるから文脈的に役職だと思われる 原文
収租賦有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之 女王國以北 特置一大率檢察 大倭も九州のことだよ。
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日 >國國有市 交易有無 使大倭監之
(邪馬台国には大倭王がいて)、その大倭の使いが、市を監督だろ。
ここのところを解説すると、、、
自女王国以北、特置一大率、檢察諸国、諸国畏憚之。常治伊都国、、、、、
王遣使詣京都帶方郡諸韓国及郡使倭国、皆臨津搜露。伝送文書賜、、、、、
下戸與大人相逢道路、逡巡入草。伝辞説事、或蹲或跪、両手據地、、、、、
↑このように「女王国」となっているのは、
卑弥呼がまだ、邪馬台国だけの王であった時代のことで、女王=大倭王だった時代なわけだ。
(注)この女王が卑弥呼と呼ばれていたかどうか不明。おそらくただの「弥呼」だったのだろう。
その後に以下の文章が来て、
あれこれあったが、結局一人の女を共立し、卑弥呼と名付けることで倭国が出来上がった、、、となる。
つまり卑弥呼には、共立前の女大倭王の時代と、共立後の卑弥呼の時代とがあったのだ。
其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。 つまり交易有無 大倭監督って言うのは
邪馬台国は置いといて
「交易の有無は倭国の長が見張ってる」
と言う意味合いかな? >>236
>倭奴国は倭国の極南界である。
単純に読み下すと、倭奴国王の上に、さらに倭王がいることになる。
よって、倭王の下僕の倭奴国王に金印を与えるなどということは有り得ない。
だからここは、
今、倭奴国王と自称する者は、倭地(中国でいう倭国)の南界(南の果て)まで極めて(制しており、
事実上の倭地=倭国の王である、だから金印を授けるのである、・・・このように読むべし。 >>238
そのとおり、
「交易の有無は倭国の長(大倭とその使い)が見張ってる」・・・、という主旨だな。 で、交易つまり経済を見張る太倭とその使いとは別に、
太倭が特に伊都国に置いた大率は、肩怒らせて軍政による統治をおこなっていた、・・・こういう二重の仕組みだな。 卑弥呼の上に大王がいると言う事でもないだろ
この場合卑弥呼が主語じゃなくて倭国のルールを述べてる訳だから
「交易の有無は国が管轄してる」
って事で良いんじゃね >「交易の有無は国が管轄してる」
さらに意訳すると
「交易の有無は倭国の長による厳しいルールの元に国が監視している」
っていう感じ? この時代は
大倭=ヤマトではなくて大倭=ダイワ
でOK? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>242
この時代は、共立以前のことを書いているので、卑弥呼=大倭王ということよいと思う。
>「交易の有無は国が管轄してる」
これは現代の三権分立(立法・司法・行政)に基づく考え方だろうね。
しかし当時は王(大倭王)=立法・司法・行政だった。
だから万事が皇居で決められ、今言う所の国家機関(今の霞が関)はなかった。 >>244
ヤマトって言ったんなら、違う漢字を当てただろ 魏志倭人伝訳
倭人は帯方郡の東南、大海の中に在る。山島に依って国邑を作っている。
昔は百余国あり、漢の時、朝見する者がいた。
今、交流の可能な国は三十国である。
帯方郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を通り過ぎ、南へ行ったり東へ行ったりして、倭の北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里。
(注/梁書倭伝「乍開乍閉」=開いたり閉じたり
海を渡り始めて、千余里で対海国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、
およそ四百余里四方。土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余人住んでいる。
良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。 魏志倭人伝訳2
また(さらに)、南に一海を渡る。千余里。名はカン海という。一大国に至る。官は、また(対海国と同じく)、ヒコウといい、副はヒドボリという。
およそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多い。三千人ばかり住んでいる。いくらかの田地がある。
田を耕しても、やはり、住民を養うには足りないので、また(対海国と同じく)、南北に行き、商いして米を買い入れている。
また、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余人いる、山と海すれすれに沿って住んでいる。草木が盛んに茂り、行く時、前の人が(草木に隠されて)見えない。
魚やアワビを捕ることが好きで、水の深浅にかかわらず、みな、水に潜ってこれを取っている。 魏志倭人伝訳3
末盧国を起点に東南に陸上を五百里行くと伊都国に到着する。官はジシといい、副はエイボコ、ヘイキョコという。
千余人いる。代々、王が有り、みな女王国に従属している。帯方郡の使者が往来し、常に足を止める所である。
東南、百里で奴国に至る。官はシバコといい、副はヒドボリという。二万余人いる。
東へ百里行けば不弥国に至る。官はタボといい、副官はヒドボリという。千余人いる。
南へ水行二十日、投馬国に至る。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余人。
南へ水行十日 邪馬壱国に至る。陸行なら一月かかってたどり着くのが女王の都である。
官にイシバがある。次はビバショウといい、次はビバクワシといい、次はドカテイという。およそ七万余人。 魏志倭人伝訳4
女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来るが、その他のかたわらの国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。次にシバ国が有る。
次にシハクシ国がある。次にイヤ国がある。次にトシ国がある。次にミド国がある。次にカウコト国がある。
次にフウコ国がある。次にシャド国がある。次にタイソ国がある。次にソド国がある。次にコイフ国がある。
次にカドソド国がある。次にキ国がある。次にヰゴ国がある。次にキド国がある。次にヤバ国がある。次にキュウシン国がある。
次にハリ国がある。次にシユイ国がある。次にヲド国がある。次にド国がある。ここは女王の境界の尽きる所である。 魏志倭人伝訳5
女王国の南に狗奴国があり、男子が王になっている。その官に狗古智卑狗がある。女王には属していない。郡より女王国に至るまで、万二千余里。
男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな自ら大夫と称した。
夏后(王朝)の少康(五代目の王)の子は、会稽に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。
今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであったが、
後にはしだいに飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、
身分の尊卑によっても違いがある。その(女王国までの)道のりを計算すると、まさに(中国の)会稽から東冶にかけての東にある。 魏志倭人伝訳6
その風俗はみだらではない。男子は皆、(何もかぶらず)結った髪を露出しており、木綿で頭を縛り付けている。
その着物は横幅が有り、ただ結び付けてつなげているだけで、ほとんど縫っていない。婦人はおでこを髪で覆い(=おかっぱ風)、折り曲げて結っている。
上敷きのような衣をつくり、その中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着ている。
稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹綿を生産している。その土地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギがいない。
兵器には矛、盾、木の弓を用いる。木の弓は下が短く上が長い。竹の矢は鉄のヤジリであったり、骨のヤジリであったり。
持っている物、いない物は儋耳、朱崖(=中国・海南島)と同じである。 倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。屋根、部屋がある。父母と兄弟(男子)は別の場所で寝たり休んだりする。
赤い顔料をその体に塗るが、それは中国で粉おしろいを使うようなものである。食飲には、籩(ヘン、竹を編んだ高坏)や豆(木をくり抜いた高坏)を用い、手づかみで食べる。
人が死ぬと、棺に収めるが、(その外側の入れ物である)槨はない。土で封じて盛った墓を造る。
始め、死ぬと死体を埋めないで殯(かりもがり)する期間は十余日。その間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、
洗ったり浴びたりする。それは(白い絹の喪服を着て沐浴する)中国の練沐のようなものである。 魏志倭人伝訳8
その行き来し海を渡って中国にいたる際は、常に一人に、頭をくしけずらせず、シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、
肉を食べさせず、婦人を近づけさせないで喪中の人のようにさせる。これをジサイという。もし無事に行けたなら、
皆でジサイに生口や財物を対価として与えるが、もし病気になったり、危険な目にあったりすると、これを殺そうとする。そのジサイが慎まなかったというのである。
真珠や青玉を産出する。その山には丹がある。その木はタブノキ(枏=楠)、コナラ(杼)、クロモジ(橡)、クスノキ(樟)、(楺櫪)、(投橿)、ヤマグワ(烏號)
フウ(楓香)がある。その竹はササ(篠)、ヤダケ(簳)、真竹?(桃支)。ショウガや橘、山椒、茗荷などがあるが、(それを使って)うまみを出すことを知らない。アカゲ猿や黒雉がいる。
真珠や青玉を産出する。その山には丹がある。その木はタブノキ(枏=楠)、コナラ(杼)、クロモジ(橡)、クスノキ(樟)、(楺櫪)、
(投橿)、ヤマグワ(烏號)、フウ(楓香)がある。その竹はササ(篠)、ヤダケ(簳)、真竹?(桃支)。
ショウガや橘、山椒、茗荷などがあるが、(それを使って)うまみを出すことを知らない。アカゲ猿や黒雉がいる。 魏志倭人伝訳9
その風俗では、何かをする時や、何処かへ行き来する時、ひっかかりがあると、すぐに骨を焼いて卜し、吉凶を占う。
先に卜する目的を告げるが、その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。火によって出来た裂け目を見て、兆しを占うのである。
その会合での立ち居振る舞いに、父子や男女の区別はない。人は酒を好む性質がある。
大人を見て敬意を表す場合は、ただ手をたたくのみで、跪いて拝む代わりとしている。人々は長寿で或いは百歳、或いは八、九十歳の者もいる。
その習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ場合がある。婦人は貞節で嫉妬しない。
窃盗せず、訴えごとも少ない。その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその一家や一族を没する。
尊卑にはそれぞれ差や序列があり、上の者に臣服して保たれている。 魏志倭人伝訳10
租税を収め、高床の大倉庫がある。国々に市があって有無を交易し、大倭にこれを監督させている。
女王国より以北の一大国に率を置いて検察し、諸国はこれを恐れはばかっている。率は常に伊都国で政務を執っている。
魏で言う所の国中における州の長官のような存在である。邪馬壱国の王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、
諸韓国に行くとき、及び帯方郡の使者が倭国へやって来たときには、いつもこの率が伊都国から港に出向いて調査、確認する。
文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。
下層階級の者が貴人に道路で出逢ったときは、後ずさりして道路脇の草に入る。言葉を伝えたり、
物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付け、うやうやしさを表現する。貴人の返答の声は「アイ」という。比べると(中国で承知したことを表す)然諾と同じようなものである ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 大倭は複数人、大率は一人いたってことだろ
どちらも役職 >>259
(例)読み下し
>租賦を收む。国に邸閣有り。
>国々に市あり、有無を交易す。大倭をしてこれを監さしむ。
大倭は複数人、大率は一人いたってことだろ
↑これで良いのではないか。
なんせ大倭は多くの国々を監督するのだから。(で、複数人の大倭を統率するのが大倭王ということになるかな) 魏志倭人伝訳11
その国は、元々は、また狗奴国と同じように男子を王と為していた。居住して七、八十年後、倭国は乱れ互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。
名は卑弥呼という。鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。
王となってから、まみえた者はわずかしかいない。侍女千人を用いるが自律的に侍り、ただ、男子一人がいて、
飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所に出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している。 魏志倭人伝訳12
女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。
また、侏儒国がその南にある。人の背丈は三、四尺(72p〜96p)で、女王国を去ること四千余里。また、裸国と黒歯国があり、また、その東南にある。船で一年行くと着く。
倭地を考えてみると、遠く離れた海中の島々の上にあり、離れたり連なったり、巡り巡って五千余里ほどである 魏志倭人伝訳13
景初二年(238)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた。
太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を引率して送らせ、都(洛陽)に至った。その年の十二月、詔書が倭の女王に報いて、こう言う。
制詔、親魏倭王卑弥呼。
帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利を送り、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈をささげて到着した。
汝の住んでいる所は遠いという表現を越えている。すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだいとおしく思う。今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し(与え)、
装封して帯方太守に付すことで仮(かり)に授けておく。汝は種族の者を安んじ落ち着かせるそのことで、(私に)孝順を為すよう勉めよ。汝の使者、難升米と牛利は遠くから渡ってきて道中苦労している。
今、難升米を以って率善中郎将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し(与え)、引見してねぎらい、下賜品を与えて帰途につかせる。
今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝が献じた貢ぎの見返りとして与える。
また、特に汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤を下賜し、皆、装封して難升米と牛利に付す。
帰り着いたなら記録して受け取り、ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。そのために鄭重に汝の好物を下賜するのである。 魏志倭人伝訳14
正始元年(240)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、
これを倭王に授けた。並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、その有り難い詔に感謝の意を表して答えた。
その(正始)四年(243)、倭王はまた大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣し、生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した。掖邪狗等は等しく率善中郎将と印綬を授けられた。
正始六年(245)、詔して倭の難升米に黄色い軍旗を賜い、帯方郡に付して仮に授けた。
正始八年(247)、(弓遵の戦死を受けて)帯方郡太守の王頎が着任した。倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、
倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。 魏志倭人伝訳15
卑弥呼は死に、冢を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。
また、卑弥呼の宗女、十三歳の壱与(イヨ)を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。
壱与は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。そして、臺(中央官庁)に至り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なる雑錦二十匹を貢いだ。
終劇 >窃盗せず、訴えごとも少ない。その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその一家や一族を没する。
これ、本当に日本人か? >>270
「一族郎党、同罪である」
「閉門蟄居を申しわたす」
江戸時代まで、いや、戦前まで、似たような文化だったよ。
まさしく日本だよ。 >>275
男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな自ら大夫と称した。 これじゃね
其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人
その(正始)四年(243)、倭王はまた大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣し、生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した。掖邪狗等は等しく率善中郎将と印綬を授けられた。 >>266
>壱与は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた。そして、臺(中央官庁)に至り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、模様の異なる雑錦二十匹を貢いだ。
>終劇
この 終劇 というのが、何とも言えん風情があるな、、、。どことなく中国雑技団風。 >使大倭、使大夫
分かりやすく言えば、ようするにパシリのことか、、、 >>280
「自ら大夫と称す」だからもっと勇ましい役職だろ
俺はパシリだ!って変だし >>270
縄文時代までは火炎土器とかクッキーとか
食ってたのに弥生時代になってから急に殺伐とした雰囲気になったな 「大夫の身分に相当する者」すなわち今でいえば大臣や側近というほどの意味で使われたとみられる。 >>223
>使大倭監之
>
>張氏はこれをどう読んでる?
その部分だけ
「収租賦 有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭 監之
訓読ー租賦を収むに邸閣ありて、国々に市あり、有無を交易し、大倭にこれを監せしむ。
解説ー租税・賦課を収める倉庫があり、各国に市場があって、産物を交易しており、大倭に市場を監督させている。
“邸閣”とかいうのも、国の中にはあるとのことである。
“邸閣”とは何だろうか。“邸閣”と『辞海』によると、”備蓄資糧之所”であるから、つまり、倉庫のことである。
各国に市場があって交易しており、倭人の中のお偉方がきちんと監督している。
前述のように”大倭”というのは、ただ”倭人のお偉方”というほどの意味であって官名ではない。ましてや、”大倭”とは倭国の美称とか、大和朝廷とか、途方もない解釈の仕方をする人がいるが妄想にすぎない。
“使大倭”というのは、大倭に何かをさせる、やらせることであり、”使”は使役を示す動詞であり、名詞や形容詞ではない。もしも、”使”と”大倭”を組み立てて官名を作るならば中国語の習慣として、”大倭使”になるはずである。
似た文例が「東沃沮伝」にもあって、
又使 大加 統責 其 租税
また大加にその租税を統責せしむ、という文句がある。
この文句は”又 使大加 統責 租税”と区切ってしまったら、中国人が声に出して読むことができない文句になってしまうから、こういう区切り方はできない。
陳寿を日本人と見なして読むなら話は別になるが...。
大切なことは“使大倭”というのは”大倭に…させる”という意味で、”使大倭”とかいう変てこな名詞はない。
大倭とは何だろうか。
大倭とは倭人の中のお偉方であり、身分のやや高い倭人が大倭である。
つまり、倭人に中で身分の高い倭人が大倭、身分の低い倭人が小倭、ということである。」
誤読だらけの邪馬台国
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/ >>270
「日本語で”妻子”といえば、ただ妻だけでなく、子供までを含んでいう。中国語で”妻子”といえば、ただ妻だけであるが、子供までは含んでいない。
ほうを犯した人を罰するのに、妻を没収すれば、罪人はこたえるだろう。子供を没収したところで、口べらしにしかならないから、何んの罰にもならない。つまり、ここでは妻を没収するということになる。」
誤読だらけの邪馬台国
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>282
大夫はもともと中国の身分制度。
倭人は中国の文化にわりと精通していた。
年月を間違えずに朝貢してくるとか、褒められている。 >>284
倭国王権と身分制度が成立したからね。
弥生時代とは、倭国王権の成立と拡大の時代だよ。
その礎となった技術が水稲稲作だ。
土木灌漑と暦法が必要となるが、それは君主の権利と義務だよ。
そして稲作文化の上陸地は九州北部、玄界灘沿岸であり、そこが倭国の発祥の地であり王都でもあるわけだ。
弥生時代の倭国は、前漢後漢と時代が並行しており、常に漢に朝貢してその影響を受け続けていた。
倭国王はその冊封の証として、内行花文鏡を受け取っていた。
その弥生時代の倭国の最後を飾るのが卑弥呼であり、漢の滅亡に伴い、内行花文鏡を内製して巨大化させた。
それが平原遺跡の超大型内行花文鏡。 越の国と越は絶対関係あると思うけどな
中央政権が重点的に形成されたのは九州だが
稲作は九州以外でも同時進行的に広がっていたと思う
対馬海流に流されてたどり着くのは九州、半島南部、そして能登半島のある北陸
九州北部と半島は大陸に近い為に異民族の流通が頻繁にあって戦乱に巻き込まれざるを得なかったが、北陸は平和裏に稲作を発達させる事が可能だった、だが平和も永遠にと言う訳には行かないから強固な中央政権を作る必要があった
それが畿内大和だ >>293
なぜ奈良へ行く?
必然性が感じられない。
〜思う、〜思うばかりでなぜ思ったのか、さっぱりわからない。 >>293
中国の越と越の国は無関係
「越の国
大化の改新以前の日本古代における呼称である。その後、7世紀に設けられた地方行政区分としての「国」に引き継がれた。当時は高志国と書かれ、越国は8世紀以降の書き方である。」
「越の字は、高志国が分割され越前・越後などの国が生まれてから使われるようになったと考えられている。」
「越の字が統一表記として採用されたのは、大宝4年(704年)に国印が鋳造されたとき」
「古くから交易や交流などはあったもののヤマト王権の勢力が十分に及ばない日本海側の地域」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E5%9B%BD >>295
出して来ると思ったよ
だがこういうのってwikiが必ずしも正しいとは言えない、表記うんぬんは、文献によって古志と書かれたり、漢字なんか宛てるだけだからな
>>294
思って何が悪いんだ? >>296
なぜ思ったのかを書いてくれないと説得力はない >>294
なぜ思ったか?
お前は読解力が無さすぎるな
長江流域から舟を出すと九州と半島だけでなく
能登半島にもひっかかるんだよ
ちなみに輪島は古代から倭人が住んでいたから
倭島が変化して輪島
なぜ奈良へ行くか?
巻向から北陸産の土器がかなり出土している
米どころの北陸が大和政権の後ろ楯的な役割を
担っていたんだろ >>296
中国の越は「コシ」なんて読み方はしないぞ。
中国語の越と日本語のコシには類似点は一切ない。 >>298
そんな昔から北陸は米どころだったのか?
イネは熱帯植物だと思うが、北陸の気候は古代の農業技術とイネの品種で栽培が可能だったのか? >>299
エツが越になってコシとも読めるから
古志になって高志だろ
読める読めんで言えば大和だってヤマトとは読めない >>300
新潟は近年からだが福井まで下ると可能だった
福井から近江はすぐ側だし畿内までもそう遠くはない >>301
「表記うんぬんは、文献によって古志と書かれたり、漢字なんか宛てるだけ」なのか。
エツが越になってコシとも読めるからっていうんならもともと越の国と越は関係なんかないじゃん。 >>303
能登と加賀は後に独立したが
元は越の国だよ
ま、そう言うのを屁理屈って言うんだろな
寝るわ >>298
「輪島は古代から倭人が住んでいたから倭島が変化して輪島」じゃあないみたいだぞ。
「太古・古墳時代の頃、日本は中国などから倭と称されていました。能登半島は日本海に大きく突き出した地形のため、古来、大陸からの多くの者が、渡来者として、あるいは漂流者として能登にやってきました。
渤海交流史などを見ても、渤海国は、何度も荒波を超えて日本へ使節を派遣していますが、その中でも石川県にたどり着いた回数が一番多いのです。
その大陸の者たちが、輪島を能登半島の先端に見つけたとき、倭の半島という意味だろうか、それとも島と勘違いしたのでしょうか、倭島と呼びました。これが、現在の輪島の名に由来です。」
http://www.geocities.co.jp/une_genzaburo/WajimaHistory.htm >>305
だから越じゃなくて古志だから
能登と加賀は古志であって越ではないから そもそも陸稲は縄文時代に南部九州で根付いた産業でしょ
噴火で南部九州にいれなくなった縄文人が北部九州に流れ、大陸からの知恵を借りて徐々に水稲に変化していった
水稲に変化した理由は雨季と乾季を再現するためっていう段階が必要とも言える
陸稲飛び越して水稲始めるには北部九州からの伝播を待つしかない >>307
屁理屈
越前から越後までを分割する過程で能登と加賀が成立しただけ
九州の香椎も語源は同じとも言われている
そもそも倭国は対馬海峡から日本海沿岸の国だったが、その最初の支配的勢力が越
なんだろう
次に出雲が台頭し、続いて筑紫が台頭した
旧勢力は福岡を追い出されて次々に日本海沿岸を東に追われたのかもしれない >>308
それ!
稲作文化は揚子江から同じ亜熱帯の南九州に亜熱帯式栽培(雨季と乾季を超える陸稲栽培)として伝播し、温帯である北九州は亜熱帯式栽培を人為的に再現した水稲によって栽培が可能になった
当時はまだ亜寒帯だった朝鮮半島で水稲栽培が出来るようになるのはまだ少し先の話 当時の北陸は朝鮮半島と同じく亜寒帯だから陸稲はもちろん水稲も無理 >>310
「(複雑な)水稲の栽培技術が隣から隣りへ伝搬する・・」なんてこたーない
灌漑技術・土木技術を含めた複雑高度な諸技術と水稲種モミを持った種族・人種が、各地に渡来して伝搬したのだ。
そこんとこはっきり区別しろ。 継体天皇の話を読んでいると、北陸も九州もそれぞれ畿内とは別の国であったことがよくわかる 弥生時代前期は越が九州北部も支配していたんだろう。 >>312
バカなのか?陸稲から派生した水稲技術がそんなに簡単に伝播するわけねぇだろマヌケ
長江から南部九州に伝播し、北部九州に伝播するまでに軽く1,000年は掛かってるわ >>314
出雲崎という如く、越は古代出雲の一部だったのだ。越と出雲の言葉にも共通するところがある。
で、のちに、そのあいだに朝鮮渡来の別種が割って入ったというわけだ。 >>315
バカはそっちだ。
だから、複雑高度な諸技術の体系が、そう簡単に伝搬するわけない・・・、といっているのだ。
1000年かかっても不思議ではない。 >>316
朝鮮というと現朝鮮人が来たようで気色悪いから百済系渡来の別種と言ってほしいぜ >>317
どこの誰が簡単に伝播したなんて書いてるんだ無脳 越と出雲は類縁だが別の勢力ではないかな。
次々に寒冷地に追いやられ、一番良いところ、つまり博多湾沿岸は常に新しい渡来人が占拠していた。
その記憶が筑紫の日向、豊葦原瑞穂の国への天孫降臨などの伝承になったのだろう。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>319
陸稲栽培が水稲栽培に変わるのは、単に、技術の伝搬だけが要因ではない。
地域の人口密度が10人/平方キロ程度の低レベルであれば、縄文的陸稲栽培段階にとどまる。
地域の人口密度が数十人/平方キロに達すると、食糧確保のため、収穫量の多い水稲へ変わろうとする。
つまり、陸稲から水稲への移行には、人口密度が高まることも必要なのだ。
だからある時期・ある場所で、人口の規模と密度の大きい種族によって水稲栽培が始まり、
それが人口増加と共に各地へ広がったのだ。 >>322
で、どこの誰が簡単に伝播したなんて書いてるんだマヌケ 越より呉の方が造船技術は高い
よって越の影響力が呉を超えて日本列島にもたらされることはない
終了 呉は肥国の祖かもね。
倭人は呉の太伯の末を自称したという。 倭猿、倭猿が〜という話?
本当に何の話なんだろう
『倭猿』 >>311
捏造
朝鮮南部も北陸も縄文時代から稲作やってるわ
カス、うせろよ無知 前方後円墳と前方後方墳の分布をよく確認した方がいいよ
前方後方墳は近畿以東を中心に分布するが
吉野ヶ里遺跡にあるのは前方後方墳
「狗奴国」の範囲がわかるじゃん
つまり狗奴国は「卑弥呼共立に反対した国」であって
各国の連合勢力であった
その中心は佐賀であって、邪馬台国勢力(前方後円墳勢力、北部九州〜瀬戸内海〜奈良)を避けた、奈良以東に広がっていた
そして卑弥呼とヒミココはもとより和せず、なのだから、
仲の悪い近隣国なわけじゃん
狗奴国=佐賀、邪馬台国=福岡ってわかるよね 邪馬台国=福岡
邪馬台国連合=北部九州、瀬戸内海、奈良
狗奴国=佐賀
狗奴国連合=佐賀、東国 何でもかんでも
長江流域→九州→本州じゃないぞ
稲作、人の流入は
長江流域→九州北部
長江流域→朝鮮南部
長江流域→北陸
長江流域→本州各地
同時多発的に広まった ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>331
交通手段もなくそんな広い領域が統治できるとは思えない。
馬がいたネイティヴアメリカンだって部族は散逸してたようなのに。 >>331
狗奴国と東国が繋がるとは思えない。
東国は出雲の影響下だ。
大宮しかり鷲宮しかり。 >>332
で、長江流域から稲作、人の流れがあった事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系炊飯器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と龍信仰と亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、長江流域から稲作、人の流れがあったとウソブいている頭の湧いた考古学者の
氏名と所属団体は?
. >>329
>>>311
>捏造
>朝鮮南部も北陸も縄文時代から稲作やってるわ
>カス、うせろよ無知
ソース北陸?
北陸に縄文時代の稲作を示す遺跡はないようだが?
http://www.komenet.jp/bunkatorekishi01/112.html 九州の前方後方墳は古墳時代以降のが多いから、
むしろ東日本の前方後方墳勢力が邪馬台国に加勢して勝利して、
政略結婚とかで九州に入って来たんだろうな。 邪馬台国=卑弥呼(筑前〜日本海)
狗奴国=大物主(筑後旧三輪町〜瀬戸内〜大和三輪)
前方後方墳=大国主末裔(伊勢以東)
邪馬台国と前方後方墳勢力が同盟して、狗奴国を挟撃したんだよ。
勝者が残った。 >>329
で、それを証明する菜畑遺跡より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?
. >>342
>邪馬台国=卑弥呼(筑前〜日本海)
倭国そのものじゃないですか。
筑紫、出雲、越。 >>347
古いから、もうとっくに破たんしてるだろ。
日本に菜畑遺跡より前に遡れるイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は一切ない。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 九州で戦争やってる間に
本州では各地で稲作文化が広がって国が出来た
北陸は寒いと言うが、それは冬だけ、水源が豊富だし広大な耕地面積がある、稲作にはうってつけの地域
5月前後に田植え、9月に収穫するから冬の寒さは関係無い 水稲の大規模耕作には治水灌漑と暦法が欠かせない。
それは、筑紫の支配力が弥生時代を通じて東に拡大したことに他ならない。 >>351
バカ?
今はもうプラントオパールは証拠にならんのだよ。
イネ粒の証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)だけ。 >>355
で、北陸地方の縄文時代遺跡から炭化米なり籾殻は出てるのけ? >>353
バカかよ、稲作は九州発祥だと思ってんの? >>350
それ14年前の記事だぞ。
それが確かなら、今頃は菜畑遺跡よりも古い稲作遺構として扱われているはずだろが。
何でそうなっていないのか?
破たんしたからだよ。 >>358
で、そのイネ粒の証拠現物は菜畑遺跡よりも古いのかい?
. ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>336
>交通手段もなくそんな広い領域が統治できるとは思えない。
その交通手段もなかった時代とやらでも、黒曜石も翡翠も干し貝も広域流通してる
沿岸航路の「水行」が、各地を繋いでいたんだよ
統治の概念を近代国家に寄せて考えすぎなのだと思う >>315
>南部九州に伝播し、北部九州に伝播するまでに軽く1,000年は掛かってるわ
それはないな
技術指導と労働力があれば、水稲栽培もそこまで困難ではないし、
列島のすべての地域は海路で繋がれているんだから、千年もかかるような障壁は
列島内にはどこにもない >>357
無能かよw
陸稲と水稲は長江と以南周辺が発祥
最初の伝播地は陸稲が南九州、水稲が北部九州
2015年にDNAで確定している >>363
文盲
陸稲から水稲に切り替わるには技術云々の前に理由が必要なんだぞマヌケ 別に菜畑よりも古くなくても良くないか?
大体菜畑は縄文時代で、弥生時代まで1000年以上あるだろ、早期から九州で重点的に稲作文化と人が流入していたが、北陸や本州各地では少数だが稲作文化と人の流入はあった
それが経年と共に本州でも人口が増えて来て
各地で国が出来た 東北の垂柳遺跡では畦が確認されてるから水稲だよ
菜畑よりは後だけれど、千年もかかったりはしてない 弥生時代の定義は何なんだよ。
九州北部が真っ先に弥生時代に突入したということでいいだろう。 >>364
だから、それを証明する証拠遺跡と、その証拠の石刃の中国系耕作用農具と
三足や耳の付いた中国系炊飯器と中粒種のイネは?
で、そうウソブいている頭の湧いた考古学者の氏名と所属団体は?
いつ考古立証するんだ華南ブタ広鼻ベトナミーのてめえは! >>367
九州北部と交流していれば、青森で稲作が始まるのが九州北部よりも少し遅れるくらいで
あっても何ら不思議ではない。
舟で交流してるんだから、すぐに伝わる。 弥生時代ってのは北部九州倭国が版図を広げていった時代だろ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>370
環境の違いという大きな壁がある
亜熱帯種のアーウィンマンゴーは沖縄諸島がベストで北限は宮崎で関東で栽培できないのと同じ >>373
で、それらを証明する証拠遺跡と、その証拠の石刃の中国系耕作用農具と
三足や耳の付いた中国系炊飯器と中粒種のイネは?
で、そうウソブいている頭の湧いた考古学者の氏名と所属団体は?
いつ考古立証するんだよ華南ウンコ色ブタ広鼻巨大タラコ唇ベトナミーのてめえは! >>374
だから、その青森の稲作遺構は早々に破たんしている。
その後、青森で稲作が再開されるのはかなり後だろ。 >>368
同時に各地でも突入してんだよ
弥生時代の弥生は東京 >>370
交流じゃないぞ
大陸から稲作の知識のある人々が
直で青森なり北陸なりに広めたんだよ >>379
そんなことを書いてあるものは見たことがないな。
証拠があるの? >>378
>同時に各地でも突入してんだよ
その証拠遺跡は? >>378
同時ではなく、最大で200年くらいは開始時期に差があったはず。 >>375
なんだ英文も読めないのか
Google翻訳使えよマヌケ >>381
稲作は交流だけではダメ。
灌漑治水や暦法などを指導する指導者層が必要だし、社会構造の変革や生産様式の変革が必要だった。
青森は寒すぎて倭国が撤退したんだろう。 日本海側における倭国の勢力範囲で確実なのは高志国(越)まで。
その東端はおよそ船で越後の弥彦山を見るあたりまでとされていた。
越後国一宮弥彦神社は、祭神がニギハヤヒの子とされる天香山命であり、地元民に漁撈や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたという伝承がある。
弥彦神社の元宮は佐渡島の度津神社であり、その祭神である度津神は五十猛(いそたける)神または大屋毘古(おおやひこ)神とも呼ばれ、弥彦の語源となっている。
五十猛神は父スサノヲとともに新羅の曽尸茂梨に天降った後に出雲斐伊川上の鳥上峯に渡来し林業を伝えたとされ、吉武高木遺跡に近い飯盛神社(福岡県福岡市西区)にイザナミとともに祭られる倭国王家の一員である。
能登国一宮氣多大社は大己貴命が出雲から300余神を率いて来降したと伝えられる。
秋田より北の東北地方は古くは蝦夷の国であり、647年頃に渟足柵、磐舟柵が設けられ、国境の最前線であったようである。 >>386
そんな難しい作物なら広まる訳がない。
単に交流を通じて、見よう見まねで広まっていっただけ。 >>383
200年も無い無い
無人だった訳じゃないんだから 入植、開拓しながらだとそんなものだろう。
アメリカ大陸の開拓は蒸気機関とか馬とかがあったからもっと速かったけど。 >>390
日本全土に広まっている事自体が証拠だろ。
栽培が簡単だったから全土に広まる事ができた。
おまえの言うような困難極まりない栽培の作物なら、広まらないだろ。 縄文時代→弥生稲作時代の移り変わりだと稲作適地が全国に余ってるからな。
繁殖力の強い稲作集団がどんどん人口を増やしながら増殖していっただけ。
北部九州出身の稲作集団が200年で全国に入植したんだよ。 >>395
>北部九州出身の稲作集団が200年で全国に入植したんだよ。
「忌部一族」のまねごとを言っても無駄。 @阿波 >>388
いやもうコシの話いらんから
ここ福岡県山門郡のスレだから >>398
>阿波話もイラネ
福岡は筑紫忌部なんだから、阿波話いるだろ? @阿波 >>395
全国はないな。
刻目突帯文土器の東限は確か愛知県あたりまでだったような?? >>388
時代としては、大国主が討たれてから、ニニギ&ニギハヤヒ。
ニギハヤヒが越後、大国主が能登(出雲にもいるが)、ということは、
大国主の末裔は復権したということだな。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 刻目突帯文土器が愛知県まで進出したなら、
九州以外の縄文人の稲作<国家樹立はノーチャンスでは? >>403
土器のルーツはそうだろうな。
土器の伝来からだいぶ経ってから稲作を朝鮮南部から取り入れただけみたいだけど。 >>409
朝鮮南部と陸続きだったら、朝鮮南部の稲作集団に占領されていただろうけど、
対馬海峡が守ってくれたのでしょうな。 朝鮮南部からの伝播は10年以上前に否定されてる客観的事実なのにwww
ウリジナルの人かな?www >>410
縄文晩期に沿海州南部から山陰あたりに渡来して、全国に拡散していく段階で
九州北部のものが稲作を朝鮮南部からパクってきた。
その稲作が生産経済に移行させ、安定した食料確保を可能にしたため、
渡来人の子孫は人口爆発を起こした。
こういう流れかと。 >>402
時代が入り乱れているだけで、復権はないのではないか。 >>412
納得。対馬海峡で隔絶したガラパゴス列島で稲作一強集団が大量増殖ですな。 >>410
>>412
倭國の陸稲は6000年以上前、水稲は3,000年以上前
朝鮮半島の水稲跡は1,500年前だが一旦根絶して小麦栽培に移行してる現在の水稲は李氏朝鮮時代に再開したもの >>414
弥生期の豊かさの陰に九州北部ありと。
というか、日本の豊かさは九州北部から始まり、広まっている。
日本のリッチモンドですわw >>415
今のところの朝鮮半島最古の水稲跡はBC11Cのオクキョン遺跡。
で、6000年前の陸稲を証明する菜畑遺跡より前に遡れるイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?
. 沿海州云々言う奴は
コピペ野郎だよ
あんまそいつにさわらん方が良いかと >>420
あなたも>>293に戻って無限にループしててください。 北陸は間違いなく九州の影響下だよ。
ただしそれは筑紫が台頭するより前の環日本海文化圏の存在を否定するものではない。 >>413
>越後国一宮弥彦神社は、祭神がニギハヤヒの子とされる天香山命であり、
ニギハヤヒによって、越→大阪にヒスイがもたらされたわけですな。 >>424
>ただしそれは筑紫が台頭するより前の環日本海文化圏の存在を否定するものではない。
それが越だろ
どっちが古いとから強いと
低レベルな争いに持っていくなよ
低能がw ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 筑紫と越と、国家として古いのはどちらかわからん。
前3Cに吉武高木王が金属武器でもって越を征服したようだが。 >>424
いや、九州は九州で北陸は北陸
搬入土器もないし交流など無い なぜか邪馬台国から始め邪馬台国がまだ終わらんようではな。 >>423
オクキョン遺跡が倭なら、何でオクキョン遺跡から日本の土器が出土しないの?
で、その朝寝鼻貝塚から出土した6000年前のイネ粒の証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?
. >>434
大和国が痕跡を消してるだろうから
見付けるのは難しい つうか大和が日本と言う事になってるから
日本が畿内に落ち着かせようとしてるんだよ
本当に九州に見つかったら大変な事になる >>439
>本当に九州に見つかったら大変な事になる
なんで? 天皇家の“ふるさと”日向をゆく
梅原猛/著(新潮社)
>梅原猛が、戦後歴史学最大の“タブー”に挑戦、南九州の旅で記紀の神話を実地検証。
サルタヒコに導かれ天孫降臨の地を実感し、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの物語に国際結婚の難しさを思う。
そして神話は人間の姿をとって生き生きと甦り、
国産み・国造り物語が解きほぐされ、天皇家誕生の隠れたドラマが明らかに……。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 否定されるのは畿内説だろ。
天皇家の作った記紀に筑紫の日向から「東征」したって書いてあるんだし。 >>445
色々見つかったら神武の紀元前660年即位とか
嘘だとバレるだろ、一つバレたら存在しない天皇とかも出てくるし、半島起源のはっきりとした証拠とか出てきたらどうすんの?
宮内庁としてはそこは曖昧にしておきたいんだよ >>445
>天皇家の作った記紀に筑紫の日向から「東征」したって書いてあるんだし。
ウソはイカンぜよ。 践祚大嘗祭にお声も掛からないくせに。 @阿波 >>446
>一つバレたら存在しない天皇とかも出てくるし、
実在するのは崇神からって言ってる学者さんとか、
神功皇后や武内宿禰、聖徳太子も無きものにしようとしている風潮とか、
そっちのが問題だと思うが。 神武東征を嘘だ虚構だと言う畿内説から、邪馬台国が九州だと嘘だとバレるだろと説教される。 沖縄はもともと琉球王国が統治していたから日本固有の領土ではない。 そもそも魏志倭人伝のどこをどう読むと畿内に辿り着けるのかが理解できない
記載されてる地名だってほぼ九州内やん 同じ九州説論者でも意見はバラバラ
九州倭国連合が東征して大和を作ったと考えてる奴は畿内説論者とまったく変わらんイデオロギーだよな >>454
そんなの皆解っとるわ
そう言うのやりたきゃ巻向スレ行って頑張って来い >>453
琉球ってさ支那が名付けた蔑称でしょ
779年の唐大和上東征伝には明確に「阿児奈波」と記され、「琉球」の初見は1372年の明実録
支那側や日本との断絶を目論んでたGHQが琉球と呼ぶのは致し方ないけど、同じ日本人としては沖縄と呼ぼうじゃないか
文化圏は支那寄りだとしても古来から少なくとも言語は完全に日本語体なんだし >>455
そう、少し踏み込んだ話になると
すぐに畿内説を警戒して、攻撃態勢に入る
その先の議論になかなか繋がらない >>438
>大和国が痕跡を消してるだろうから
>見付けるのは難しい
九州説はすぐこういう印暴論的な見方に逃げる
現実は、大和朝廷側が各地の歴史を書き残せといって風土記を編纂させているし
出雲風土記を見れば分かるように、記紀の世界観とまったく違うものを平気で提出している
出雲風土記ではスサノオは三貴子でもなんでもなくて、ただの大国主の父祖神に過ぎない
九州に王の記録がないのは、九州に王が居なかったからだよ >九州に王の記録がないのは、九州に王が居なかったからだよ
おや?
神武の祖先はどこから来たのかな? >>449
>神武東征を嘘だ虚構だと言う畿内説から、邪馬台国が九州だと嘘だとバレるだろと説教される。
東遷の時期の範囲を不明にすれば
畿内説だって九州説だって東遷説の一種になってしまう
つまり、東遷した時期をある特定の時期の範囲の中に設定する説が「東遷説」なのであり
遅すぎるとありきたりの九州説になってしまい
早すぎるとごくふつうの畿内説になってしまう
畿内説は、東遷説を認める場合、卑弥呼よりもずっと昔とするだけだから、
別に破綻しないし困りもしないよ >>459
>その先の議論になかなか繋がらない
そりゃそうだろう。 東征先の大和が海の無い、ジメジメした湿地帯ときたら、議論も止まるわな。 @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>459
邪馬台国が九州だとなんで困るの?
記紀にも載っていない
中国史でも短期政権の魏と交流した一時期だけの国 九州説を信じるのは構わないけど、短里があるとか捏造したり、
水行の起点は帯方郡とか、御笠川を水行したとか云うトンデモに走るのはやめれ 色々見つかったらバレるというよりも、
なにもみつからなさすぎてバレていくという現実。 >>466
お前が絡んでるのは九州説論者だぞ
そう言ってる間に変なのが湧いてきた 東夷伝里もないって!
そういう捏造なしで、論理を組み立てられるように努力して!
そして、水行20日+10日をごまかさずに論立てしないと意味ないよ >>474
簡単な話しだ不弥国から邪馬台国まで引き算で残り千数百里だからそのくらいの日数がかかったと陳君が判断したってことだろ?
だから対馬壱岐間だって日数で表現したら渡海一月って書いたんじゃね?
ただそこは千里ってちゃんと里数で報告されてたから千里と書いただけ実際は千里もないけど
だから実際は水行陸行各一月もかからないわけだ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>476
そう言うのは畿内説か纒向遺跡のスレでやった方がレスがすぐに返ってくるし、盛り上がる傾向
ここはまったり系 北陸での稲作は古くからあったらしい
ただ日本一の降水量を誇る富山、石川、福井では水田遺跡その物を発掘するのは難しい
「弥生時代の水田は全国で20箇所以上の遺跡で確認されています。富山県では水田そのものの発見 はありませんが,
立山町の中小泉遺跡では水路に設けられた流路調整のための「しがらみ」が発掘されており,さらに木製農耕具がたくさんみつかっていることから付近での水田の存在が確実です」 >>476
>だから対馬壱岐間だって日数で表現したら渡海一月って書いたんじゃね?
それはないな
一日で漕ぎ渡れる距離が一律で千里とされてるんだから
海の上で夜明かししたら遭難して海の藻屑だよ
>ただそこは千里ってちゃんと里数で報告されてたから千里と書いただけ実際は千里もないけど
実際に千里もない、じゃなくて1日で漕ぎ渡れる距離は、「遠い距離だから千里」なんだよ
「ちゃんと里数で報告され」たりはしてない
>だから実際は水行陸行各一月もかからないわけだ
だから日数の方がむしろ信用できる訳だ >>479
北陸も九州北部と交流しているんだから、弥生期に稲作はあった可能性は高いと思うぞ。
ただ、菜畑遺跡より前に遡れる稲作の証拠遺構と、
その確証たるイネ粒の証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は今のところ一切見つかっていない。 五坪や十坪の水田なら、歴史上、日本列島のあちこちで耕作した例はあったであろう。
しかし倭人伝の時代、有明海沿岸で行われていたのは、
筑後川などから大用水路を引き、
田んぼの周囲を掘り上げてクリークを張り巡らせる国家プロジェクトとでもいうべき大事業だった。
とうぜん最新式の鉄製農耕具もたくさん投入されたのであろう。
ま、そういう高度なレベルの水田稲作が、倭人伝の国々によって営まれていたということだ。 菜畑が一番古いとは思えない
たままた見つかった遺跡が一番古かっただけ >>482
初期の水田遺構はそんな大それたものではないよ。
倭人伝の時代は朝鮮南部から稲作を導入してから1200年くらい経っているから、
1200年かけて朝鮮南部から逐次的に最新技術を導入しながら、
そこまでの国家的産業に発展したのであろう。 >>480
お前纒向遺跡スレにいつもいる奴やん
向こうでやれよ いい加減見つかった遺跡が最古と言う風潮止めにして欲しい 九州説は余裕がないな反論できない相手は追い出すしかできないのか? ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>488
別スレと同じ奴と同じ事やりたくないだけだろw 倭人は皆「越」だってよ
「韓」人や「倭」人とは何か。華南の「越」人である。これは国名ではない。主に長江河口域に住み、稲作と漁撈を生業とし、高床式の住居文化をもつ「越」と呼ばれた諸族である。
中華は彼らを「百越」と総称した。「越智」を今でも「おち」と読むが、これは「越」を「wo:ヲ」とかつて発音したことの残滓である。
「倭」もまた元は「wo」と発音した。つまり、「越族」とは「倭族」である。日本・北陸地方を「越」というが、もちろんこれもただの偶然ではない。 >>491
で、越から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系炊飯器の越式鼎と石刃の中国系耕作用農具と
中粒種のイネと漢服と木沓と龍信仰と亀卜と、渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、越から渡来定着したとサギブいている頭の湧いた考古学者の氏名と所属団体は?
. >>1
これが越の炊飯器だぞ華南ブタ広鼻ベトナミー
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVxm7uBb_DoA9j.U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. >>491
これが越の炊飯器だぞ華南ブタ広鼻ベトナミー
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVxm7uBb_DoA9j.U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. >>491
「越・『史記』をはじめとする諸書では、夏の少康の庶子を越に封じたことを越の君主の起源とする伝説を述べている。」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A
を信じれば、
魏志倭人伝にある、例の「夏后少康 之子 封於 會稽 斷髪 文身 以避 蛟龍之害 今倭 水人 好沉沒 捕魚蛤 文身 亦以厭 大魚 水禽 後稍 以爲 飾 諸國 文身 各異 或左 或右 或大 或小 尊卑 有差 計其 道里 當在 會稽 東治 之東
夏后少康の子が会稽において封じられ、断髪文身し、蛟竜の害を避ける。いま倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身もまた以て大魚、水禽を厭わしむ、後やや以て飾りとなす。
諸国の文身おのおの異り、あるいは左にし、あるいは右にし、あるいは大にし、あるいは小にし、尊卑に差あり、その道里をはかるに、当に会稽、東治の東にあるべし。」
の「夏后少康の子が会稽において封じられ」た結果できたのが越だということだ。
魏志倭人伝にあるとおり越と倭の風俗習慣は似ていたのだろう。
言葉は魏の人間と通じなかったようだけど。 だいたい漢服の成立は5000年くらい前なんだよ。
太伯が江南にいるなら、江南は漢服のはずなんだよ。
弥生文化にないだろ。
漢服=袖付きのローブなんて。
帯だってないんだぞ。 >>502
「『荘子』逍遥遊篇によると、当時の越の人々は頭は断髪、上半身は裸で入れ墨を施していたという。『墨子』公孟篇や『史記』越王勾践世家などにも同様の記事が見られる。」ということだから、越は漢服なんか着ていない未開地だったんじゃないか?
魏志倭人伝の書きぶりだって断髪文身が特徴だっていうことだし。 >>503
んなわきゃねえじゃんよ。
越の遺構から佩(おびだま)が出まくってるだからよ。
それも龍を象った佩な。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. はっはっは
邪馬台国が九州にあったことが確実になって
必死に捏造工作するしかないのかな? https://www.youtube.com/watch?v=aljW2VJn7f8&t=19s
いつまで 論争するんだ 球磨郡だと ゆってるだろお
まー この 論争は どうせ一個人どうしの論争だから たぶん 国が本意でしらべたら
1日でわかる とゆうか もうしってるはず 国は だって こころあたりがらるはずだ
もしかして あれ 邪馬台国 だったんじゃね? あの ほろぼした部族 九州せめたときさ
くましゅう とかいたじゃん? ってわかるわけ >>504
>>502
『荘子』、『墨子』や『史記』などの記事がウソということ? >>499
なかなか参考になった。
魏志倭人伝において、陳寿が「夏后少康 之子 封於 會稽・・・」のくだりを書き加えたのは、
倭国がその東にあったこともあるが、
当然ながら、陳寿は古典・古史にも通じていたので、
夏氏末裔の越の人々と倭人は、少なからぬ縁があったと匂わせたわけか・・・ アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 日本列島の縄文人は北からやってきて広まり住み着いたそうだ。
しかし、弥生のころに至って、
南あるいは西あるいは半島経由で、何波にもわたって、多くの種族が渡来したのだろうな。
(新大陸アメリカのミニ版だったわけだ)
越から大挙してやってきたのは、紀元前300〜400年くらい前かな。
それらのひとびとが大規模稲作を広め、村邑を作り、倭人と呼ばれるようになった。
そして倭人伝の時代のころには、
半島から最新式の鉄製品を携えた馬韓系種族がなだれ込んできて、邪馬台国など「馬系の国々」を建てた。
(のちにクダラ族と称され、亡命百済人とも書かれた) 曹操の左将軍の地位に就いた公孫氏は、
新たに帯方郡役所をこの馬韓の地に開き、韓・倭の支配監督に乗り出した。
当然ながら倭地倭国の支配監督に当たっては、
その手蔓として馬韓人の人脈を利用したに違いない。
その成果が、対馬・斯馬・邪馬・邪馬台・投馬などの馬系各国の擁立だったのだろう。 >>513
なるほど読み返してみると、>>499と >>511は、意外に似た文体ではあるな。
ま、別人だけど、おれも驚くほどだ。
なお、>>511は、>>513、>>514、も連投しておる。読み比べてみてくれ。 >>514
邪馬台国の頃倭人の風習が越と似ていたことと矛盾するのでは? 別の民族が建てた国で先住民の風習は根絶やしになるものじゃないのか?
陳寿が、倭人の風習が越と無関係呼ばれた地方と似ている、としか書かなかったのは、「越の末裔だとは思わなかった」ということでもある。 越式鼎で米を炊き、漢服を着て、その帯に龍を象った佩(おびだま)を着けた越人の、
どこが倭人と似てるんです??
そんなもの全部、日本にありませんけど何か? >>519
>>511
「夏后少康 之子 封於 會稽・・・」のくだりは? >>507のきのこってやつ、触っちゃいけないやつ? アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>517
大陸の漢民族の場合は、新たに支配した地域の先住民は皆殺しにしたそうだ。
しかし、倭地に渡ってきたのは、大金を払って船に乗れた金持ちばかりで、
太多数の労働者・奴婢たちは大陸・半島に置いてけぼりにされた。
そこで、倭地に渡来してから捕まえた先住民は、下働きの農夫・作男・奴婢などとして働かされたのだろうな。
だから倭人伝のころの倭の貴族と、倭の人民(例えば紀元前に越からやってきた人民)とは、
その文化風習は、いささか異なることとなった・・。
(日本神話を読めば、多くの神々が生まれているが、それは運よく避難船に乗れた一族郎党のことだったのだろう) >>525
妄想ストーリーは百均のノートにでもまとめろ
恥ずかしい物だから人目に晒しちゃダメだ >>522
そのスレは知ってるんだけど、「きのこ」の日本語入力が怪しすぎるんだよ
まともな日本語環境から入力してるとは思えない >>526
そうかそうか
ま、そういうことだな、
(恥ずかしいことだから、崇高な神話に仕立て上げ、それとなく後世に伝えようとした、ということだろな。) >>527
これかww
>あの ほろぼした部族 九州せめたときさ、
>くましゅう(熊襲ww) とかいたじゃん? ってわかるわけ ヤマト読みに音を当てた漢字表記なのか、漢文訳なのか、但し書きがない場合も多いから今となっては分からん部分も多いよな 和田越子と言う名前の人は
沈没して魚ったりするの? 卑弥呼が公孫氏の姫と言う事で
日本は越の王族の流れを組む民族と言う事だが
信憑性はどのぐらいあるんだろうか?
中華思想入ってない? >>538
まさに>>526の言うとおりだと思うぞ >>537
ん?魚ったり、貝ったりって言えへんの?
他にも米ったりとか、女ったりとか言うな
いや、うちこんなんやで >>540
キンキチョンキチ語とか知らねーよwwwww >>538
平原遺跡の副葬品は、これが弥生時代かと思うくらいの中国趣味だ。 >>542
中国趣味に魅力を感じる
福岡と奈良県民 >>544
え?リアルに近畿在住の朝鮮国籍者なの? アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>551
わーい
うれしいニダー
うれしいニダー で、要約すると
中国大陸に存在した越が滅ぼされて
虐殺を逃れた住民が海を渡り九州北部と半島南部、本州各地に住み着き、越政府の残党が
九州倭国連合を結成、半島南部を支配、57年金印をもらって国として認められる、倭国乱れる、乱を治めるため、公孫氏から卑弥呼を擁立
倭国を平定する、一方、本州では拡散していた越の人々が、地道に稲作を広め縄文人と混血しながら
各地で国を築いた、中国地方、四国、北陸、東北、関東、、中部にクニがあったが、九州倭国から有力豪族が近畿へ勢力を伸ばし大和王権を開いた、大和が次々と各地のクニへ赴き、これを平定する
でOK? >>553
おまえ華南系の中国人のキチガイだろ。
じゃあ、何でそんなオカシナ事をウソブいている頭の湧いた考古学者が一人も
いねえんだって話だわな。
日本の掲示板に来るなブタ広鼻! アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
全部読む 最新50 1-100 この板の主なスレッド一覧 リロード 越の炊飯器はこれですよ、これ!
日本のどこにあんの?
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RinFM7cedbKFAAyBqU3uV7;_ylu=X3oDMTBhcmNxcTgxBHZ0aWQDSVMwMDI-?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>553
>公孫氏から卑弥呼を擁立
これって確定なの? >>563
それも「海を越えてきた人々」から来てるから
結局「越」なんだよ 海の民系の難民たちを括って一括してとりあえず[越」とおくのが良いだろう アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
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>>565
よーく読めば意味が分かる
無限ループどうぞ >>561
卑弥呼の出身は卑弥国だろ
なんで気付かないんだ? >>553
紀元前と紀元後で渡来人の波が変わった・・。
概ね、そんな筋書きでいいんじゃないかな
なお、卑弥呼が公孫氏の手のものだったかどうかはわからぬが、
少なくとも、共立劇が卑弥呼と邪馬台国勢に有利に進むよう、支援したことは確実だな。 >>573
霊能力があるから女王に選ばれた
と言うよりも正当な王の血筋の姫を立てる事で
乱が治まったと言う方が現実的だもんな 卑弥呼は鬼道の練達者だったというから、
どこかで中国の道教を学んできたのじゃないかな。もしかして中国人(漢族)だったかも。 卑弥呼
名をヒミと言う、とかヒミと呼ばれてる
と言う風に訳されないの? 荒れるだろうが現実的には当時の文明国からの
移民があったから日本は先進国になりえたん 途中送信すまん
荒れるだろうが現実的には当時の文明国からの
移民があったから日本は先進国になり得たんだろうな 新大陸アメリカがそうだったように、
日本列島も、優秀な渡来移民で、大きく変わったんだと思うね。 卑弥呼と書いてヒムカと読む。
日向様がいるのは伊都すなわち筑紫の日向の高千穂宮。
宮様は建物の名前と称号が同じだからな。 >>581
縄文人だけだったら、ずっと発展せずに伝統を守り続けるネイティブアメリカンな国として
世界史から取り残されてるだろ >>577
>名をヒミと言う、とかヒミと呼ばれてる
>と言う風に訳されないの?
魏志倭人伝の原文が「乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。」
後漢書では「有一女子名曰卑彌呼」
となっているから、卑弥呼までで名前だよ
三国志魏書4少帝紀でも「倭國女王俾彌呼遣使奉獻」となっているし
「卑彌呼」が固有名詞で問題ない >>584
縄文時代って結構な文明社会だぞ
ほぞ組みを使って建物を建ててるし、漆塗りも使っている
沿岸航路で流通を実現してるし既に植物を栽培してたし単純な採集狩猟生活ではなく
かなり大きな集落を作って定住生活をしていた 俺の感だが卑弥国は違うな
狗邪韓国にあるならそうかなとは思ったが
馬韓は遠い
卑弥国は偶然だ
卑弥呼はヒミコの宛字で良い 大村湾から有明海に出る諫早あたりが陸地でなく
海(川)だったとしたら水行で辿り着く場所が変わる? >>593いや地図をぼんやり眺めてて思い立った
自分的には諫早ルートだと玉名〜長洲、荒尾〜大牟田辺りが真正面だし
そのあたりかな、と考えてみた 太宰府あたりの2,000年前の地層から淡水貝類が発掘されて少なくとも縄文晩期は博多湾と有明海は繋がってたんじゃなかったっけ? 太宰府〜筑紫あたりが
標高が高いほうだけど
埋まったのは二万年まえの
阿蘇4噴火のときだろうなあ。 >>599
今の地形に海面上昇合わせただけの単純画像だからね
有明海側は干満の差が激しいから吉野ケ里の西南5キロ圏内に干潟があったかもよ >>599
吉野ヶ里の最古遺蹟は2,000-2,500年前の環濠跡
その頃の海面は>>596の図よりずっと低かったと思われる >>596(ゴクロー)
この図は、単純に海岸線を上げただけだ。
北極・南極の氷が全部解けてもこんなにゃならん。弥生期に大地殻変動もなかった。ただのゴクロー 熊本・阿蘇は、
県道付け替え地をちょこっと掘っただけで、全面弥生の鉄遺跡だらけ。
熊本県民のあなたの宅地や庭先も、貴重な弥生の鉄遺跡の上・・ >>589
なら、公孫氏も違うわ
山海経はフィクションだから
嚥に属すも嘘だろうよ
本当だったらもっと資料に残ってるだろうし >>606
燕も鉅鹿も蓋馬も山東半島のことらしいぞ
越の一部としての倭人という位置付けらしい >>604
この文章は、ただの感想文。
貝塚だから弥生期とは限らぬ(縄文期のものだろう)
カキは食事のほんの一部だから、集落は波打ち際有利とはいえぬ(素人考えだ)
有明海は、縄文弥生期以降、上流で焼き畑を行ったため、大量の泥土が運ばれて埋まったことも考慮すべき。
島根の宍道湖は、上流のたたら製鉄族が鉄を取った際の流砂で埋まり、島根半島と地続きになった、
以前、ここにうpされた、筑後川河川事務所の地質図のほうが、はるかに学術的で正しい調査結果だった。 まーでも当時の海岸線は今とぜんぜん違うってことを考慮して末盧国からの距離を再考すべきとは思う ──後漢書──
「西暦57年、倭の極南海(最南端)の奴国(福岡県委奴国)の王に金印が授与された」
57年の時点では九州北部が倭国の最南端だった
言い方を変えると九州北部のみが日本列島の中の倭国だった 魏志馬韓伝「韓は、帯方郡の南に在り、東西は海で尽き、南に倭と接し・・・」
後漢書馬韓伝「南に倭と接す」
晋書馬韓伝「東と西は海により限界とす(南は含まれない)」
これを見ると朝鮮南部狗邪韓国あたりが
倭国の発祥のように見えてくる、そこから徐々に南下していったんだろ
57年の時点で委奴国が倭国の中心なら
邪馬台国の時代には南下してる可能性が高い 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 范曄の後漢書が書かれたのは西暦440年頃で、件の「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」と記されてる倭条は三国志にも後漢紀にもその出典が見当たらない
また「南極」も字の如く「南の極み」=それより先に南はないという意味であって南限という意味にはならない
おそらく范曄が海南島の南の大海にあるというイメージで書いたのではないだろうか
個人的には信憑性が低いと思う また「南極」も字の如く「南の極み」=それより先に南はないという意味であって南限という意味にはならない
それを南限と言うんじゃ... >>609
距離で判断すれば
佐世保=末廬国はありだよ
一大国から唐津に行くのも変だし >>614
国として所在地を置くなら、大宰府と同じく湾の最奥だろうから現在の伊万里市あたりじゃないだろうか
仮に海面が今より3-5m高かったと仮定するなら伊万里市の海岸線は今より5Kmほど内陸
一方有明海側の海岸線は20Km内陸になるから「歩行」距離で20Km いや、「極南界也」は金印を授けた理由だろバカチンどもめ >>618
文盲はお前だ、それより先に南はない→倭国としての南はない、つまり倭国としての南限
国としてまたは島としてなら、南に侏儒国や黒歯国があるから、国としての南限が正しい 極論すれば57年の時点では狗邪韓国と委奴国の領域だけが倭国だ 范曄の後漢書っていろんな後漢書を併せてまとめたものだから
オリジナルの情報は古いよ いや>>613が指摘するように約400年前の事柄を記した後漢書に正確さを求めるのはちと難しいんじゃないか?
そして極南界の読み下しも>>619の指摘するように賜以印綬の理由と見るのが妥当じゃないだろうか?
偽書の倭人条が邪馬壹国に関する一級資料になってる最大の理由は、実際に倭國に渡った者からほぼ時差なく報告を受けていることにあると思う 馬韓の卑弥国から王族(卑弥呼、ヒミココ)が福岡に逃れてきた
公孫氏の圧迫によってドミノ式に起きた人の流れだよ
だから卑弥呼一派は「書」を読み書きすることができたし、
「弟を通して民を統治した」わけだ
だって卑弥呼は外国人で当時の「倭国語」をろくにしゃべれなかっただろうし
「弟」が通訳だったわけだ
卑弥呼が外国人だからこそ、公孫氏や魏といった国際情勢にも精通してたわけだな 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>621
なにをトンマ、倭奴国と倭国は違う。
倭奴国は奴国側の自主申告の国。倭国は中国側の認識による筑紫島=倭国だ。
よって、「自主申告の奴国なる国は、中国側が認識する倭国の南界までを極めるなり」だ。 范曄の後漢書は後漢の同時代資料である『東観漢記』がベースとされてるね >>625
卑弥国の実在が証明できないからファンタジーから抜け出せない説
不弥国も奴国の東百里だし >>630
卑弥呼を共立したのは、国際情勢を唯一知ってたからだろ
倭国の各王は国際情勢に詳しくなかった なぜ国際情勢に詳しかったか
馬韓の卑弥国出身だったからだよね
狗奴国のヒミココと「もとより和せず」というのも、
「もとより」っていつから?って言ったら
二人が卑弥国にいたときから、だよね >>625
馬韓が倭国の領域でも無いのに
なんでそんなとこから卑弥子がやってくるんだよ、卑弥国って字が被っただけだろ >>629
なんだ、これがわからんのか。
中国側では、奴国は博多の那国、倭国は筑紫島≒倭地≒九州島全体の認識だったのだ。
つまり、極南界をごく南界と読むのは日本式であり、極道読みという。 >>634
公孫氏の圧迫によって、って書いただろ
百済滅亡時に王族が倭国に逃げてきたようなもんだよ 倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬
日本人研究者による解読
倭の奴国は貢物を奉じて朝賀しました。
使人は自ら大夫と称しました。
(倭奴国は)倭国の極南界なり。
光武帝は金印を授けました。
チャイナ古文学者の読み下し
倭奴国は貢物を奉じて朝賀し、その人は自ら大夫と称し、倭国の南を極めたと報告したので、褒美に光武は金印を授けた。 公孫氏の圧迫でドミノ式に弱い王族が朝鮮半島から追い出されて倭国に逃げてきたわけだ
それが卑弥呼とヒミココ
だから国際情勢に精通していたし、漢字にも精通していた
書を読み書きすることを倭人は知らなかったのに、卑弥呼は書で魏とやり取りしてたわけだからな >>636
それは保護してもらえる保証があったからだろ
ファンタジーの卑弥国の王族が何の保証もない未開の海を渡れるかどうかも分からない九州島を逃避先に選ぶ要素がゼロ過ぎる >>635
お前の認識がそうだと言う事は分かるが
57年の時点では九州北部と朝鮮半島南部のみが
倭国連合で間違いないだろ、首都は何処に置くかってなったら他国の侵略を防がなくちゃいけないから境界線から離れた九州よりも半島におくんじゃないか? >>634
>>639
これを説明できないから公孫説は完全かつ最終的に破綻してる >>639
神武が東遷したのと同じ理由だぞ
守って貰える保証なんてなくても今いる場所が危険で、行き先に弱くて支配できそうな民がいれば行くでしょ >>641
公孫説ではないよ
これが成り立たないなら神武東征も成り立たないことになるな
それでいいならいいけど >>638
公孫氏が卑弥呼を圧迫したん?
卑弥呼は公孫氏じゃなかったのか? >>640
ウリナラファンタジーが破綻してる
首都は何処に置くかってなったら〜九州よりも半島におくんじゃないか?
↑
は?
首都は何処に置くかってなったら国境から離れた九州におくんじゃないか?
↑
こっちが正常な判断だろ >>644
卑弥国は馬韓
朝鮮半島北部に公孫氏政権が出来た影響で、
負けた王族が南に逃れる→逃れた先で争い→負けた王族が南に逃れる→逃れた先で争い→
とドミノ式に繰り返して卑弥族が朝鮮半島から追い出されて倭国についたってこと >>642
逃げるのか攻めるのかの違いを一緒に捉えるセンスの無さよ・・・ >>646
逃げるんなら逃避先に保護の保証が必要だってことでそのファンタジーは破綻してるんだってばよ >>643
神武東征は紀元前660年だから最初から成り立たない、これこそ大和王権が作った代表的なファンタジー
九州倭国の豪族が大和へ移動した事実はあったかもしれんが、ファンタジーを抜きにして考えないと事実は読みとれない >>643
もっと想像力を働かせろ
こうあって欲しいという願望が強すぎて目が眩んでる >>645
どっちでも良いがお前も同じ九州説なんだろ、ウリナラとか言うの止めん?次罵倒してきたらお前の故郷馬韓に送り込むからな >>627
なら倭国はいつ頃、何処が発祥で
どのぐらいの領土だったのですか? 九州説から強引に朝鮮起源に持っていこうとする?族が怖いです。
?は汚穢の穢のヘンがサンズイです。
簡単に言うと下痢便です。 馬韓から卑弥呼が来た
と言ってる奴が
首都が狗邪韓国にあった説を聞いて
朝鮮起源やめれーとファビョる不思議 嫌韓レスでスルーされてるが>>637の解読と読み下しの違いについて話しがしたいぞ! >>646
だから倭国は半島にあってドミノ式に
半島もやばいから九州に逃れたって事だろ
そんな風にしか聞こえない
お前が朝鮮起源を叫び続けてんだよ >倭奴国は)倭国の極南界なり。
光武帝は金印を授けました。
これ倭奴国じゃなくて委奴国(イトコク)でしょイトコクが倭国の極南界だから、それより以南はまだ荒れ地か縄文人の土地で倭国では無かったと読み取れる みんな、事実を解明したいのか
それとも日本は凄いと言いたいのかどっち? 公孫氏(族)に追い出された説の人に聞きたい
地図に1回記されただけの実在も怪しい卑弥国が卑弥呼の出身地だと考える根拠
卑弥国の隣に位置する不弥国は奴国の東にあるという魏書の記述をどう考えているのか
百済難民が保護を求めて来日は理解できるが、内陸民で操船技術のない卑弥国難民が保護もない交流もない倭国に難破のリスクを背負ってまで行く理由
神武東征は攻める側であり、卑弥国難民は逃げる立場という大きな違いがあるのに同列に語る根拠 >>663
極南界は南の終わり、それ以上先に南はないという意味でしかない
つまり大海 ―後漢書―
倭は韓の東南、大海中の山島によっており、およそ百余国ある。(前漢の)武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼしてから、
三十余国が漢に使訳を通じてきた。国では皆が王を称することが代々の伝統である。そこの大倭王は、邪馬臺国に居する。楽浪郡からその国(邪馬台国)へ去ること一万二千里、
その(倭の)西北端の拘邪韓国へ去ること七千余里。その地はだいたい会稽郡東冶の東にあり、朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じである
邪馬台国は九州南部だ >>662
それが史実だとしたら史実と向き合わなきゃダメだろ
倭国は日本由来しか認めない!ってわめいても、それは学問ではない >>661
その中国人文学者の読みくだしで「倭奴国」が「倭の奴国」ではなく「イトコク」の可能性が出てきたんだよな
日本人が漢文に向き合ってもそうあって欲しいという願望で解読してしまうから全部中国人文学者に読ませた方が良い 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>669
アメリカ大陸に最初に移民したプロテスタントはボロ船に僅かばかりの荷物で渡った
ゴールドラッシュでアメリカ大陸に移民した者たちは大量の家財道具を持って渡った
逃げる者と攻める者はこんなにも違う 嫌韓レスでスルーされてるが>>637の解読と読み下しの違いについて話しがしたいぞ! >>677
ボロ船でも倭王になれちゃうくらい国力に差があったんだろ 金印ってさ、印綬の中では最高位だよね
半島文化だと李氏朝鮮まで金印って貰えてないわけでしょ
それなりの偉業や貢物の量?質がなきゃ銅や銀だった可能性もある
ってことはやっぱ倭奴国が九州島の南端まで支配を広げた大国になったって報告に対しての褒美だと思うんだよね
従来の解読分だと銅でも銀でもなく金印渡す理由が不透明だし、なんか小学生の絵日記みたいで不自然さを感じるんだよ
しかもさ、金印だってその場で彫るわけじゃないでしょ? ってことは倭奴国の大夫が来たのって57年が初めてじゃないよね?
そのずっと前から来てて、次は大国となって多くの貢物持ってくるって約束してたんじゃないの?
そのほうがずっと自然だと思うんだけど >>681
それはあまりにファンタジーが過ぎる
初代ピューリタンだってネイティブアメリカンに遠慮しながら入植し、ネイティブアメリカンを迫害し、乗っ取るまでに何回入植者したかを見れば明らか >>665
神武も九州から逃げてきて大和が後に史実を変えた可能性がある
倭国も難民が最初、神武も九州の諍いに破れた、オーストラリアは罪人の流刑地
宮本武蔵も大山倍達も山で修行では無くて山へ逃げたのが修行の動機
負けた者が国を作る
これは世の常な >>684
だからそれは妄想の域を出てないやん
歴史を語るなら現存する物証に基づかなきゃ何でも言える
ビッグバンが朝鮮起源っていうのと同じレベル >>685
事実だよ、よく読め
俺は公孫氏がどうの言ってる奴とは違うぞ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永演唐ノ日本に伝わb骼魔ヘなかったbフである。 >>683
確かに銃も馬も持たない原住民から国を奪うのに近代白人でさえ200年近くかかってることを考えると渡来説自体に無理がある気もする >>686
そこまで我を張るなら「オーストラリアは罪人の流刑地」以外が事実だってソース見せてみろ
まったく・・・統合失調症かよw >>642
>>>639
>神武が東遷したのと同じ理由だぞ
>
>守って貰える保証なんてなくても今いる場所が危険で、行き先に弱くて支配できそうな民がいれば行くでしょ
神武は、東に行ったきりの饒速日が王国を築いていると塩椎爺から聞いて東征した。
守ってくれそうだと考えたわけだ。 >>688
ネイティブアメリカンって16世紀まで新石器時代だよな
あいつらメチャクチャ強いってことになるなw >>689
>>689
突っ込み所がおかしいだろ
答えれば良いなら答えてやるが
武蔵は寄る年波に勝てずに後をたたないチャレンジャーが怖くて山に逃げた
大山は米兵を闇討ちしてGHQに指名手配食らって山に逃げた
ファンタジーじゃなくて事実 卑弥呼の即位は190年頃だから、公孫氏は健在だよ。 >>666
倭国の南極であるイトより南が海か陸かは書いてない。 >>684
>神武も九州から逃げてきて大和が後に史実を変えた可能性がある
倭国が乱れて、もっといいところに行こうと言って筑紫を出たことになっている。 >>695
そう、だから北部以外は倭国の領域ではない
可能性がある >>696
してないよ?
筑紫の王家の祖が邇邇芸、大和の王家の祖が饒速日だよ。
饒速日の末裔の物部の大連は後に失脚するけどね。 >>699
いっしょじゃん
朝鮮半島が公孫氏の圧迫によって乱れたから、もっといいところ(倭国)に来た、と >>693
神武も九州の諍いに破れた←これのソースは?
宮本武蔵が山に逃げた←だから何だ?
大山倍達が山に逃げた←だから何だ?
負けたものが国を作る←宮本武蔵が国を作ったか?
なお大山倍達は尊敬してる >>703
むちゃくちゃ言いよるなwww
とりま>>665に答えてくれ
話はそれからだ >>704
神武も九州の諍いに破れた←これのソースは? これだけは無い
宮本武蔵が山に逃げた←だから何だ?
大山倍達が山に逃げた←だから何だ?
だから事実だ
負けたものが国を作る←宮本武蔵が国を作ったか?
国は無いが五輪の書を作った
武術家にとってはバイブルみたいなもんだ ソースの意味も分からない奴が語る妄想にファンタジーの価値もない >>701
九州北部(博多の那)以外に大国があるのなら、
そんなチャチっぽい倭奴国に金印なんかくれるものか。おとといおいでだ。 公孫に追い出された説は完全破綻したから山門郡の話ししようず
なんで山門郡なんだ?地名からの推察だけだったら承知しないぞ >>707
宮本武蔵が有名になったのは戦後でしょう?
我々が抱いてるイメージは坂本龍馬と同じくフィクション小説の登場人物でしかないと思う
当時から高名だったら負けた側の佐々木小次郎にちなんで巌流島なんて別名付けないでしょう >>712
小倉や山口では巌流さんと親しまれた人物だったらしいな
諸説あるがタケゾーの卑怯撃ちを悲しんで舟島に巌流さんの記憶を留めたって方が信憑性を感じる >>712
吉川英治の小説はそうだけど
五輪の書は史実 >>705
古事記に書いてある。
東に行ったきりの饒速日の噂を聞いて、自分たちも合流するために兄弟で筑紫を出発したんだよ。
王都を捨てていくのだから、都落ちだよね。 >>710
一世紀だよ
では倭国の発祥はどこで
どれぐらいの領域だったのですか? >>716
それを模索するのがこのスレの趣旨では??? 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>718
倭国と奴国と倭奴国は全部同じ国って考えってことでOK?
で、その考え方でいうと女王国はどこ? >>718
でも魏志倭人伝にはイトコクが邪馬台国とは書いてない、もっと南にあると書いてある >>723
魏書では「倭人条」、後漢書では「倭条」
倭の定義の再考も必要だよな >>718
>博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。
倭国と、倭奴国と、奴国(那国)との、3カ国をごちゃまぜにしとるじゃないか。
どこから来たか知らんが、中国語と日本語の基礎から勉強からせにゃならんな。 >>724
アホだから冷蔵庫から持ってきそうで怖いwwwww >>724
いじめられるようなこと書くからだぞ
こいつらあんたが書き込む限りソースソース粘着するだろうから今日は引いとくかキャラ変させて別人装いなさい>>543 >>731
無能らしいつまらなさだな
良いからさっさとソース出せマヌケ >>731
無脳なんだから死ね
今すぐ死ね
グゥって喚いて死ね >>731
>神武も九州から逃げてきて大和が後に史実を変えた可能性がある 倭国も難民が最初、神武も九州の諍いに破れた
↑
これのソースを待ってるんだけど出せないの? >>736
妄想ファンタジーじゃないと言い張る証拠が必要だからな
出せないなら妄想ファンタジーと自ら反省して静かに消えてくれれば良い 馬韓の卑弥国の隣に不弥国がある
一方、倭国にも奴国の隣に不弥国がある
この関係は?って疑問だろ?
簡単じゃん
卑弥族と不弥族はともに馬韓から倭国に逃れてきた
卑弥族は倭王として祭り上げられる一方で、
不弥族が作ったのが不弥国
不弥国の官は多模、副官はヒナモリ
多模=タマ=ヒスイの支配者
不弥国のあったのは遠賀川と言われてるけど、
そこは糸魚川と交易してて遠賀川式土器とヒスイを交換してたわけだ
タマといえば、天孫降臨に随行した神に「太玉」がいるというのも、まあ
天孫降臨の神と邪馬台国連合の官名はかなり一致してる >>737
お前はずっとそのまま死ぬまで
ソース、ソース言い続けてれば良いよ >>738
最初から推論だと言えば詰めないよ
この無能は臆面もなく史実と言い放ったんだ
その言葉の重さも知らずに安々と史実と言いやがったんだ
ここは推論があっても良いし、多少の妄想もあって良い場所だが断言するならその根拠を示す責任があるだろう?
それが出来ない無能には発言してもらいたくないし迷惑だから徹底的にいびり倒す
それだけ >>744
あるだろ
外国語がしゃべれて海外事情に精通してた
それで十分 >>746
バカなのか?倭奴国は紀元前から朝貢してんだぞ? >>735
その部分は推論だろ
そんなん文脈でわかるだろ
お前が無能なんじゃ?w 馬韓の風俗
・毎年五月に種蒔きが終わると、鬼神を祭り、人々が群集して歌舞し、昼夜ぶっとうしで酒を飲む。
・そのとき舞われる舞いは、数十人が立って、一つながりになって地を踏み、手足を下げたり、高く上げたりして、音楽のリズムに合わせる。中国の鐸舞に似ている。
・十月に農作業が終わったときも、同様の行事がある。
・鬼神を信じ、国々の邑ではそれぞれ一人を選んで天神の祭りを司らせ、そのものを天君と呼ぶ。
・また、それぞれの国にはもう一つの邑があって、蘇塗と言う名で呼ばれる。そこには大きな木を立てられ、鈴と太鼓をぷら下げて、鬼神の祭祀を行う >>749
それをお前は史実と言ったから無脳呼ばわりされてるって気づこうよ・・・ >>750
卑弥呼の鬼道がちゃんと書かれてるじゃんw >>746
馬韓人は辰韓人とは言葉が通じなかった
辰韓人は漢族
かりに卑弥国が実在したと仮定しても馬韓由来なら魏人とは言葉が通じない >>755
無能だから何故一人芝居がバレてるのかも気づいてないぞwwwww >>756
いや端から見て文脈を読めないお前の方が無能だと思うぞ >>757
猿芝居してるマヌケが文脈を語るとか腹いてぇわマジでwwwww >>726
たぶん、後漢書や魏志の作者の理解もごちゃ混ぜ。 >>750
それが記載されてる辰韓伝には
馬韓は法はもちろん制度が整っておらず統治が行き届いていない。 馬韓人は穴を掘って住み、囚人か奴婢のようで礼俗を備えていなかったと書かれてる
倭人条に書かれている倭国とはまるで文化圏が違う 結局>>741が読解力の無いアホだったと言う事で終了な >>762
お前も粘着するから
反感食らって袋叩きに合うんだぞ
今日の所は引くか別人を装え >>763
いやお前が文盲で読解力もなけりゃ理解力も乏しいと馬脚を現してるだけだぞ無脳w
>>764
猿芝居の次は猿真似かよ無脳www >>766
史実は言いすぎたわスマンって言えば済む話なのに馬鹿なのか? >>766
今度は幻覚まで見始めたかマヌケwwwww >>769
あんたも言葉が強すぎる
別に許してもらわなくて結構って開き直るだけ >>770
wってんじゃねぇよカス
やり直しだ無脳 >>754
加えて「埋葬に槨はあるが、棺はない。 牛馬に乗ることを知らない。」とも書かれてるから倭国と文化が共通してない >>771
違うよ>>741が読解力の無いアホなだけ あと文身も男女とも入れてるがその数は少ない
男全員が入れてる倭国とは違う >>770
なんでそんな馬鹿なことするんだろ・・・ >>774
お前さっきからブーメラン何十発も眉間に刺さってんぞw
無能は痛みも感じねぇんだな >>773
これ言葉は強すぎるけど言ってることは真っ当だと思うよ
ちゃんと読み返してご覧よ
>最初から推論だと言えば詰めないよ
>この無能は臆面もなく史実と言い放ったんだ
>その言葉の重さも知らずに安々と史実と言いやがったんだ
>ここは推論があっても良いし、多少の妄想もあって良い場所だが断言するならその根拠を示す責任があるだろう?
個人的には軽々しく「史実」なんて言葉を使ってもらいたくないってのは十分理解できる >>779
猿真似つまんねーから違う言葉使えよ無脳
あ、脳が無いからムリだったなwwwwwwwwww 倭国と共通してる必要はまったくないだろよく考えろ
異文化の馬韓人が倭国に入ってきて鬼道を広めたってだけ >>781
なぜ?卑弥呼の埋葬と卑弥族の埋葬が違うって時点で馬韓説は成り立たないでしょ >>783
説としては弱い
言葉の通じない奇術が交通網のない古代に伝播するのにどのくらい時間がかかるか考えれば分かること >>783
考えられないやつが人様に「よく考えろ」とか言ってんのがマジでウケるw
しかも相も変わらず論理は完全破綻してるしwww >>778
どうやったらそんなキチガイを養護出来るんだ?ま、本人しか出来ないわなw >>786
お前の猿芝居と猿真似のマヌケさの話しだろw
猿語で話さなきゃ理解不能か?
悪いな俺ら人間だから猿語とかムリだわwww >>784
その記述はあくまで倭人の風習であって、倭人でない卑弥呼の墓制については別 >>788
ちゃんと読めない時点で君もキチガイだと思うよ
同類同士で罵りあえば良いんじゃない >>790
卑弥呼は甕棺に埋葬されてるけど無能は字が読めないからファンタジー持論展開するんだろうな 大陸のほうから渡ってきた人々の話?
『倭猿』
このような目線、視点になるとか >>793
お前の馬韓説の滑稽さを理詰めで理解させようとしてんだろ
倭猿の話などしていない >>797
そう、だから馬韓の世俗風習は倭国に導入されていない証明 上の方で白人の北アメリカ入植について書かれてたのが興味深い。
16世紀のアメリカは銅器時代に比定される文化。
銅器時代に圧倒的な武器である銃と圧倒的な機動力である馬を持ち込んだ白人が100年以上かけて絶え間なく侵入しても領土の主権を取るのに150年以上かかってる。
ハワイも19世紀に本格的な入植が始まってハワイ王国滅亡までに100年かかってる。
そう考えると3世紀の倭国文化が外からもたらされた物だとするには、どんなに遅くても紀元前300年にはその文化がゴッソリ渡って来てないと文化として普及しないと思った。
しかも数回の入植じゃ、むしろ原縄文文化に取り込まれるだけだろう。
やっぱりどう考えても大陸文化が縄文文化を駆逐して成立させたのが倭国と考えるより、倭国が大陸文化を緩やかに受け入れて変化していったという方が自然ではないか? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>799
ウリナラや巻向の工作員以外はみんなそう考えてると思う
あまりに現代の感覚で解釈しようとしすぎ
それは距離もそう ちなみにメーソンの陰謀のスレというのがあるでしょ、
『松傾』
いまの福島県のほうに住んでいたと言っているし、
山の上のほうwメーソンだったのかな? 『小泉八雲 左目』
『松傾』・・・の画の事でしょw 『河童の三平』〜『鬼太郎』?
何なのかわからないけど、
キュウリのような葉が写っている写真があるでしょ
『松傾』こういう名前の家w 左眼・・・、
三貴子(神)関係の話みたいなんだけどw いわゆる渡来系弥生人も現在ではDNAで否定されてる
ハプログループO-M176が日本人男性、朝鮮民族、満州族の30%以上に存在するから同祖だという解釈が長らくされてきたが、日本人が持つO-M176の80%以上はO1b2a1で日本発生だと確認されてる
朝鮮族や満州族と共通のO1b2a2は日本人男性から4%しか検出されていない
仮に96人の同窓会に言葉の通じない着の身着のままの外国人が参加したとして彼ら4人が一体どれだけの影響を与えることが出来るだろうか?
そう考えれば縄文人が渡来系弥生人に取って代わられたなどという説が如何に荒唐無稽かが理解できる 縄文人が生活様式と人口密度の増加により弥生人に姿を変えたと見るのが妥当であろう 鬼太郎、あとサザエさん(母親だという言う人だけ裸足、素足に下駄)?
作者なども生まれていない頃の写真だと言っているし、
よくわからない話ばかり また卑弥呼の時代に列島に到達したと考えられているY染色体にO2-M112が現日本人男性の20%から検出しているが、O-M176のように分化が進んでいない点やミクロネシア由来の可能性も高いため大陸由来と断定する根拠にはなっていない >>802-806,>>809
なんだファンタジー論破されてグウの寝も出なくなったらスレチな一人芝居始めたんか?
本当に見下げたキチガイ無能だよお前はwwwww >>813
山門郡説は結構昔からあるでしょ
有明海の海面が今より5メートル高いと推定すると吉野ケ里のちょうど対岸
かなり古くて有名なHPだけど来年4月には消滅しちゃうから興味あるなら今のうちに
http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage2.htm 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>791
キチガイの駄文なんか読む分けねーだろwww >>812
九州で破れた豪族が逃れて大和を作った
これは史実だぞ >>820
ソースなんか持ってないよ
ただの荒らし、相手にするな このような話もあったり
『聖徳太子 ペルシャ』
有名人なのかな?
写真を撮影した、当時の人に聞いてみないとわからない事とか
『松傾』 【速報】米国ユダヤ人団体、SWC(サイモンヴィーゼンタールセンター)が声明「BTS(防弾少年団)は日本とナチス被害者に謝罪しろ」★2
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1541999089/
【BTS】防弾少年団、原爆Tシャツとブルゾンとナチス問題に続き、3月11日に人が溺れる動画掲載 東日本大震災の被災者を愚弄★7
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1541935855/
CNN韓国人記者「大勢の朝鮮人が日本占領下で苦しんだが“韓国の味方”の原爆投下で解放された。この件でBTSの国際的知名度は急上昇」★4
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1541931102/ >>812
どこ見てんだ間抜け
撃たれまっくってるぞw >>824
なんだ結局ウリナラファンタジーの人だったのね・・・ >>815
人間以下の無能の分際で人間様をゴミ呼ばわりするのは半万年()早い >>817
無能だから理解だけだろwww
ちゃんと読めるならそれを証明してみせろマヌケ >>818
どこに証拠があるのか出せ
証拠がないならお前のウリナラファンタジー >>820
無能は社会の秩序も知らないんだな
だから小説のタイトルを実在するものにしたり自分から国民に分けると言って受け取ったカネを払わないんだなwww >>821
証明できないなら死ね
首吊りながら韓国語でごめんなさいしろ >>822
ゴミクズの分際で人間様に問いかけるな
人間になってから喋れ >>778
それは違うな、そいつは意図的に曲解してファンタジー、ファンタジーとファビョったあげくに論破されて、他スレでも袋叩きにされて居直ってるだけだぞ多重人格さんよ >>835
>意図的に曲解
どこ?
>論破されて
どこ?
おたくの国の言葉で言うところの「妄言」はよしなよ >>828
お前のどこが人間様なんだよ
ゴミ以下だろ
お前が人間だと言うソース出せゴキブリwww >>839
猿真似すんな
ウリジナルな表現で言い返してみろよw >>839
ブサイクな顔が真っ赤っ赤でさらにブサイクになってんぞwww 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>839
お前らウンコ食うんでしょムシケラ以下やんけ >>847
とうとう変換もまともにできなくなったかwww >>847
朝鮮由来のムシケラ
主食は人様のクソですw >>847
日本語使える朝鮮ムシケラ
標本にしてやるからこっち来いや ウリナラファンタジーでも何でも良い、
ネットだから好き勝手な事を言えるだけで
現実の世界・・・実際に、そのような事を言っていたら、
頭の病院に行けと言われるはず >>860
人糞ノドに詰まらせて死ね
しあわせなんだろワイ族なんだからwww >>864
ワイ族のムシケラ
人糞ノドに詰まらせて死ね 卑弥呼=馬韓卑弥国王族
ヒミココ=同じく馬韓卑弥国王族
不弥国=馬韓の不弥国人が作った国
反論なしにより確定で >>864
ワイ族のムシケラ
人糞ノドに詰まらせて死ね >>869
反論しかなかっただろ
そして完全論破されとるやんけ 戸籍のようなものがあって、むかーし、そこに住んでいたと書いてあるし、
いまの福島県?川俣町・・・機織りをして・・・、
そういう話とか、なぜか知っている人がいたり >>873
無能は朝鮮半島の民族遍歴を知らないからおくめんもなくそういうバカなことが言える >>869
変なのが湧いて
これっと言った意見が出てない いいか無脳
朝鮮半島は何度も民族が入れ替わってるんだ
馬韓と百済は場所が同じだけで民族も違えば言葉も違う、当然文化も違う >>879
無能に反証なんて難しい言葉理解できるわけがない >>665に答えなかった時点で逃げてる
馬韓説は終わり >>881
急に断片的な話をし出す
統合失調症の症状丸出しやんか・・・ >>874
お前は汚物その物だから
自分の臭さに気が付かないんだな
頼むからウンコなげまくるの止めてくれ
回りに臭いし迷惑するから
出来ればスッと消えてくれよ
な、頼む >>884
いやここにお前のファンタジー求めてるやつ一人もいないから
反証できないんだから存在価値0だから
悔しかったら理路整然と持論を証明しろよ
出来ないなら○ね >>887
お前だよチョーセンムシケラwwwwww お前の祖先は高麗人
高麗人は百済人とも馬韓人とも違う民族
だから無理に頑張ってもお前の心は満たされない >>891
お前だよチョーセンムシケラwwwwww >>891
お前は脳がないから頭の病院に行けないもんな
カアイソウカアイソウ←朝鮮人は知らないだろうなwwww >>890
朝鮮語でも韓国語でもいいけど「死ね」ってなんていうの? >>892
が正解、系統が違うと書いてあるし、定説でしょ 悔しがってないで>>665に答えろよ
内容によっては対話してやるぞ >>888
いやここにお前のウンコレベルのレスを
求めてるやつ一人もいないから
お前は汚物その物だから存在価値以前に
迷惑なんだよ、消えてなくなるか
バキュームカーに吸いとられるしかないだろ
さぁ、逝け >>896
論点がズレすぎ
君は高麗人なんだから全く違う文明の馬韓を日本の始祖としても君には無関係なんだから
そんな理論が破綻してる説に執着しなくて良いんだよって意味ね
理解できるかな? どの時代からなんだろう?
民族自体?違うようなことを言ってる人もいたり >>898
いいからウリナラファンタジーの反証をしろ >>900
お前らは原則前の文化を完全にぶち壊す文明だからw
民族も文字も言語もその都度変わってるのが証拠 >>893
煽りレスの勢い無くなってるぞ
ウンコ力にも限界があるのか? >>903
同じ言葉繰り返すしか脳がないのもワイ族の習性なのか? >>904
自分を見失うな!ウンコはお前だ
お前が相手にしてるのはワイ族おちょくって楽しんでる人間様だ
統合失調症でもそれはさすがに分かるだろマヌケ >>904
ウンコパワーはワイ族のエネルギーやろwwww
たくさん食え
そして頑張れ >>904
お母ちゃんにウンコ貰いに行ってんのかな? >>904
ワロタw
さっきまではウンコ野郎もフレッシュだったw ママー!僕がワイ族ってバレちゃったよーぅって泣きついてるのか? >>910
猿芝居バレてるって未だに気づけ無いのか??? 頭の病院に行ったほうが良いw
と言ってるだけなんだけど
なぜ知っている人がいるんだと思う、
当時は、どこそこに住んでいて〜〜〜〜〜
現在は、どこそに住んでいるとか >>910
カアチャンのウンコだけじゃ充電できなかったのか?
婆ちゃんにもウンコ貰いに行ってこい
早くしろマヌケ >>913
急に断片的な話をし出すな
するならちゃんと説明しろ
>>665への答えはまだか?
答えられないなら消えろ >>913
カール・ルイスは韓国人だとか
ベッカムは韓国人だとか平然と言えちゃう民族の言うことは当てにならないぞ >>906
いや、目を覚ませ
お前はウンコその物だ
人間になりたかったら
まずその臭い鼻息を止めろ
そして死んでから生まれ変われ
生まれ変わってもまたウンコだろうが... 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>918
前田日明はそれネタにしてるから嫌いじゃないぞ この無脳ってGoogle翻訳使ってんじゃね?
馬韓ファンタジー以外は全然ウリジナリティーないやん >>917
自分を見失うな!ウンコはお前だ
お前が相手にしてるのはワイ族おちょくって楽しんでる人間様だ
統合失調症でもそれはさすがに分かるだろマヌケPart2 >>916
本人が言っているのなら、それで良いんじゃないの、
あと家の話でしょ・・・
成り済まし、騙りのことはどうでも良いんだよ >>923
>>920
お前はウンコその物だから
母ちゃんも婆ちゃんもウンコだろうな >>922
Google翻訳の韓→日訳はそんなに精度高くないぞ >>924
お前の爺ちゃんがやった背乗りのことか? >>925
猿真似みっともないしつまんない
無能の証明でしか無い >>924
戦後の混乱に乗じて密入国して日本人の戸籍を盗んだお前の爺ちゃん達の話をしてるのか??? 祖父、祖母?
キュウリのような葉・・・葱の華、
それよりも前の時代の写真なんだけどw >>923
自分のウンコレスのコピペとかダッセーw
ウンコの細胞分裂www >>930
密入国して他人の戸籍盗んで吸ってる空気はさぞかし美味いんだろうな
ほぼ単一民族の俺たちには理解できない美味さなんだろうな >>931
無脳は最後まで字を読むことが出来ないからおちょくりがいがあるわ〜 >>930
密入国者の話は良いから>>665に答えろよ 興奮し過ぎでスクロールできないだろうからコピペしてやるよ
ちゃんと答えろよ
公孫氏(族)に追い出された説の人に聞きたい
地図に1回記されただけの実在も怪しい卑弥国が卑弥呼の出身地だと考える根拠
卑弥国の隣に位置する不弥国は奴国の東にあるという魏書の記述をどう考えているのか
百済難民が保護を求めて来日は理解できるが、内陸民で操船技術のない卑弥国難民が保護もない交流もない倭国に難破のリスクを背負ってまで行く理由
神武東征は攻める側であり、卑弥国難民は逃げる立場という大きな違いがあるのに同列に語る根拠 >>940
おちょくられてることにも気づけ無い無能さwwwwwwwwwwwwwwwwww 興奮し過ぎでスクロールできないだろうからコピペしてやるよ
ちゃんと答えろよ
公孫氏(族)に追い出された説の人に聞きたい
地図に1回記されただけの実在も怪しい卑弥国が卑弥呼の出身地だと考える根拠
卑弥国の隣に位置する不弥国は奴国の東にあるという魏書の記述をどう考えているのか
百済難民が保護を求めて来日は理解できるが、内陸民で操船技術のない卑弥国難民が保護もない交流もない倭国に難破のリスクを背負ってまで行く理由
神武東征は攻める側であり、卑弥国難民は逃げる立場という大きな違いがあるのに同列に語る根拠 興奮し過ぎでスクロールできないだろうからコピペしてやるよ
ちゃんと答えろよ
公孫氏(族)に追い出された説の人に聞きたい
地図に1回記されただけの実在も怪しい卑弥国が卑弥呼の出身地だと考える根拠
卑弥国の隣に位置する不弥国は奴国の東にあるという魏書の記述をどう考えているのか
百済難民が保護を求めて来日は理解できるが、内陸民で操船技術のない卑弥国難民が保護もない交流もない倭国に難破のリスクを背負ってまで行く理由
神武東征は攻める側であり、卑弥国難民は逃げる立場という大きな違いがあるのに同列に語る根拠 >>938
>>939
>>935
>>936
断末魔のゲリ便が出てきたぞおいw >>945
答えられないから統合失調症発症して逃げるの? どのスレだったかな?
漫画、アニメが〜〜〜〜〜〜〜〜と言ってる人がいたり、
観てばかりいるから、こういう事になったとか >>948
答えられない=論理破綻が世間一般の常識だけど
敗北宣言だね 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>950
ウンコ目でも>>951くらい読めるだろ
どうなんだよ敵前逃亡すんな ウンコマンくさーい
日本語まで臭くなるから使わないでほしい >>950
うんこまーん早く答えろよ
うんこパワー切れたのー? >>956
お前に人間様をおちょくる能力があると錯覚してることがすでに罪深いわ
ウンコの分際でwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >興奮し過ぎでスクロールできないだろうからコピペしてやるよ
↑
袋叩きにされ涙目で気を使うウンコさんw 地図に1回記されただけの実在も怪しい卑弥国が卑弥呼の出身地だと考える根拠
卑弥国の隣に位置する不弥国は奴国の東にあるという魏書の記述をどう考えているのか
百済難民が保護を求めて来日は理解できるが、内陸民で操船技術のない卑弥国難民が保護もない交流もない倭国に難破のリスクを背負ってまで行く理由
神武東征は攻める側であり、卑弥国難民は逃げる立場という大きな違いがあるのに同列に語る根拠
答えられないから馬韓説は完全破綻
反証も出来ないで一方的に主張してるだけだから完全破綻
破綻してない部分を見つけるほうが難しい 馬韓の風俗
・毎年五月に種蒔きが終わると、鬼神を祭り、人々が群集して歌舞し、昼夜ぶっとうしで酒を飲む。
・そのとき舞われる舞いは、数十人が立って、一つながりになって地を踏み、手足を下げたり、高く上げたりして、音楽のリズムに合わせる。中国の鐸舞に似ている。
・十月に農作業が終わったときも、同様の行事がある。
・鬼神を信じ、国々の邑ではそれぞれ一人を選んで天神の祭りを司らせ、そのものを天君と呼ぶ。
・また、それぞれの国にはもう一つの邑があって、蘇塗と言う名で呼ばれる。そこには大きな木を立てられ、鈴と太鼓をぷら下げて、鬼神の祭祀を行う
卑弥呼の「鬼道」=馬韓の祭祀
はい確定 答えないとワイ族の名折れだぞ
ミンジョクの誇りのためにも頑張れウンコマン
まぁどーせ答えられないだろうがな >>961
身体障害者に気を使ってやるのは健常者のつとめだからなwww >>963
それすでに論破済
ちゃんと答えろ無能糞 なるほど馬韓の卑弥族の国が福岡県山門にあって女王として振る舞ってたってことか
このスレの総意でオケ? >>963
序文を意図的に隠してるから失格
やり直せバカ 馬韓から山門に逃げてきたってこと?
そこが邪馬台国だって?
公孫氏の圧力に勝つために魏の後ろ盾が欲しかったって? >>973
優しくされるの慣れてないのか?
ウンコ以外の身体障害者はみんな優しくされてるんだぞ
生まれの臭みを呪えマヌケwww 例えば『ボーボボ』?
漫画やアニメばかり〜〜〜〜〜〜〜〜〜とは言うけど、
あの写真は、それ以前のものなんだよな・・・、
本当に、おかしな話ばかり
『何者にもなれない お前たち』? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>971
それでも良いから妄想じゃない証明をして見せてくれ >>976
結局ウンコは妄言垂れ流しで終わるのか
惨めだな >>981
そうやって逃げ回ってたら死ぬまで大人になれないぞ >>983
2代前に密入国した頃から生粋のウンコだもん
大人にはなれるわけない 本当の話
寺院に通っていた?という話なんだけど、
どういうことだと思う >>985
鏡見てみろ
しゃべるウンコが見えるだろ?
その汚物がお前だよwwwwwwwwww >>975
お前はウンコその物だって言ってんじゃん
パクるなよウンコの一子相伝野郎w >>987
逃げるなよ卑怯者
あ、爺さんも朝鮮から逃げてきたんだったな
血は争えないな
逃げ続けるDNA >>992
もっと気の利いた猿知恵はたらかせろ
うんこの猿真似くさ過ぎんだよ 老婆談というのも、ほとんど同じだしな〜、
現在の話ではないよ
馬に乗り、腰に刀を差していて・・・・という話、
僧? >>992
ウンコの子はウンコ
ウンコの孫はウンコ無能
家中ウンコだらけw >>995
バカンは馬に乗れないって韓伝に明記されてる馬カンのくせに馬に乗れない
馬鹿ンだからだろうなwww >>995
馬韓は牛と馬を操れずと陳寿は報告してるぞ
偽書の話じゃなく魏書の話をしろ このスレッドは1000を超えました。
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