【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
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前スレ
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ >>286
南の水は湖とか池とかな。それと中国の四神相応は>>286のと違ってて北に山、南に水、
東と西には低山が連なって中央部を囲むんだそうだ。平安京が盆地なのはこれを採用したかもしれない。 >>276
最初の質問に対してかもしれませんが
Wikipediaで官司請負制や諸司領を見てはいかがでしょうか >>286-287
なるほろ 日本史には疎いのでそのあたりさっぱりでした
総合的に当時の世情などを鑑みればきちんとした理由があるんですね >>289
それからね。飛鳥時代には琵琶湖のほとりに天智天皇が大津宮と呼ばれる都を置いたこともあった。
場所は今の大津市だ。この時は朝鮮半島の白村江で唐・新羅の連合軍に大敗北して最悪唐が
攻めてくるかもしれないという緊迫した状況の中で大津が選ばれた。なぜ大津なのかという説明は無いけど。 まあ大津にミヤコをおいてたのは大規模都市をつくって都にするより以前、
小規模な都市を天皇の代ごとに置き換えてた頃だから、平城京平安京は参考にできないけどね
時代の近い飛鳥の方が構造とか規模とか近いんだろうね 明治になって鉄道敷設するとき、新橋から横浜が先ず開通
その横浜港から西へ伸ばして琵琶湖畔の長浜へ至る
長浜から北の敦賀港へ線路敷設するとともに湖上交通で大津へ至る
大津からは西の神戸港へ線路をつなぐ
これが最初に整備すべき東海道線の敷設として行われた事業である
こうしてみると大津は、東へも西へも交通の要所となるところだ
天智天皇の御世でも、北陸道、東山道への交通路があり、西国へも行きやすい所と見られただろう >大津からは西の神戸港へ線路をつなぐこれが最初に整備すべき東海道線の敷設として行われた事業である
東日本は官主導だが、関西は民が主導。
大津から最優先で神戸に鉄道を繋ぐのなら、淀川を越えて路線なんか引かずに(現在の)新大阪辺りに大阪駅を造ってるよ。 東京大阪の路線でなくて神戸まで敷いたところを見てやれよ
大阪に立ち寄らない手はないんだから淀川だって渡るさ
あの時代に新大阪の場所を出すのは時代錯誤 (どうでもいいけど今の淀川もまだ掘られてなかった時代だったけどね) どなたか>>282に関してご存知の方はおられませんか? そりゃ一部では無関係なとこもあるんだろうけど、例外だぞ例外 先祖について調べていて気になった、庶民の名前・葬り方について質問です。
1.親族内に同姓同名がいる
亡祖母の名前を孫につける・・・幕末から明治に2件
亡伯母の名前を姪につける・・・明治初期に1件
亡兄の名前を弟につける・・・大正に1件
全系統調べたので、ある一家にだけ伝わる風習ではなさそうなんですが、昔は親戚と全く同じ名前をつけるのは一般的だったのですか?
また、特に長男長女に限らないのですが、どういう人の名前を誰に襲名したのでしょう? 長くなったので分けます。
2.仏壇の過去帳簿と戸籍の中身が違う
父方
二太郎さんが仏壇では仁太郎
繁吉さんが仏壇では繁一
ひらがなの女性が仏壇ではカタカナ
1910年〜1945年の人が仏壇では33歳
1912年〜1922年の人が仏壇では10歳
(数え年表記なので、仏壇が正しければ兄弟である二人が同じ年に生まれているので、明らかにおかしい)
父方
1897年〜1987年の人が、仏壇では数え年92歳で死んだことになっている
などなど、戸籍の記録と過去帳にズレが大量に見られます。少しなら間違いかなと思えますが、これだけあるとわざとかなと思ってしまいます。
家族の名前や年齢を忘れることなんてあり得ないと思いますが、わざと内容を変えるような風習などあったのでしょうか? 本名を知られると呪われる可能性があるので
寺には本名で届けて死ぬまで内緒にしてもらう
役所には偽名で届けて普段の生活ではそっちを使うという風習ならある
年齢についてはわからん 二太郎と仁太郎、繁吉と繁一
相通じて間違いやすい、あるいはどっちでも構わないと言えるような名前だな
坊主が耳だけで聞いて間違えたんじゃないか
年齢も元号で、明治二十九年7生で昭和六十二年没だとか、間違えそう‥‥ >>258
で、公家が先祖の人たちは偉いの?
そこが一番大事 >>300
その風習、詳しく書いてあるサイトなど無いですか?
>>301
私も聞き違いだと思いました。でも、文字にした時点で家族が抗議すると思うんです。しかも、二人とも親より先に死んでるので、我が子の名前の間違いを指摘しない親はいないかと思います。
年齢の方は、年月日だけじゃなく「九十二歳」と書かれているんです。戸籍だと数え91なのに。本人がずっと自分の年齢を一歳ずれて覚えてたのかなw でも実際違う字で登録されてるという例は少なくない。届け出る側がそもそも漢字をよく知らなかったりする。
それが斎藤とか漢字が難しいお名前の漢字の種類が多い原因と言われてる。 ちなみに中川翔子の本名は「しようこ」だそうだ。母親が人名で使えない漢字で「しょうこ」に
したくて窓口の役人と揉めて最終的にひらがなで殴り書きして出したら役人が「しようこ」で
登録して、母親がその時気がつかなかったんでそのままになったんだとさ。 今は出生届に医師の証明書が付いてるけども、昔は自宅出産で、届け出の出生年月日が本当であるか確かめるものがなかった
戸籍の出生年月日と実際とは違うというのはよくあった
昔の人の1月1日生の多いこと
歳を取るのは誕生日ではなくて正月だったので戦前生まれの人は誕生日の祝いなんてやる風習がなかった
自分の出生日はよく分からないというのも普通のことだった 30代男です。
映画「はだしのゲン」で国のために戦地で戦っている兵隊に向け作文を読む場面。
ゲンが「日本は戦争をすべきではない。戦争は悪い事。何もかも壊します。兵隊さん死なないでください。両親が悲しみます」
すると先生が「このバカタレが!それでも日本男児か!」と言って、ゲンをハリパンします。
この当時の日本は、戦争に反対するという事を言う事は、問題発言なんですか?
あと、これは今は亡きおじいさんもやっていた事です。
歌を歌う時に、腕を振るんですけど、女は見ない。
どうしてこの時代の男って歌を歌うと腕を振るんですか? 地蔵菩薩者夫れ剃髪僧形也
釈迦入滅後五十六億七千万年の間、衆生を救ふ菩薩也 >>308
「地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意で、その地位を退し、
六道を自らの足で行脚し、救われない衆生、親より先に死去した幼い子供の霊を救い、旅を続けている。」
釈迦が入滅して次の弥勒が現れるのは56億7千万年後と言われてて遠い未来の話です。その間迷える
衆生を救うべく地蔵菩薩は旅を続けているので坊さんの格好の方が便利がいいらしい。 >>308
僧侶だから剃髪してるんだ、禿げてない! 日本の歴史を取り上げた番組で、よく何百年前の物が寺に保管してあって、住職が見せてくれるものがありますね。
奇跡体験アンビリバボーでもそういうのがあります。
例えば呪われた面とか様々なもの。
寺ってどうしてそういう呪われたものが怖くないんですか?
あと、寺ってどうして何百年前のものが保管できるんですか?
天災などで無くなるものがありますよね? お寺は宗教施設なので、御仏の法力により呪いも解除されるというのが建前です。
坊さんが呪いにビビってたら誰も信用してくれません。
戦や家事などの人災や天災の時は大事なものから順に抱えて逃げます。
奈良の大仏みたいのは動かせないから平安時代の末と戦国時代に焼け落ちて再建されてます。
逆に興福寺の阿修羅像は乾漆という張子みたいな作りですごく軽いんですぐに運べます。 >>284
平安京は秦氏の勢力地だったから
奈良も京都も盆地であって平野ではないし
生活用水は川ではなく井戸を掘ってた
近江大津宮も渡来系氏族の勢力地だった まあ、川は水運と排水路用であって給水用ではない感じではあるな 戦で大量死があると、血や死肉エキスが入った水を飲んでたの? >奈良も京都も盆地であって平野ではない
一度も現地へ行ったことのない奴の妄想というよりは、
日本語は上手だけど漢字が苦手なんだろうなw >>315
ヤマトの首長が渡来人の傍でしか首都を張れなかったてのは何?
日本人が怖かったんか うちは何てことない庶民の家(というか、由緒や謂れが伝わっていない)家系なんですが、たまたま昔の戸籍を見たら戸主を中心に○○右衛門と言う名前が大量にいました。
○○右衛門や○○左衛門は門を構えた大きな家の侍の名前と言うイメージだったのですが、現状は違ったのでしょうか? 大身でなくても一応は武家である者や、町人でも村役町役を務めるような旧家が名乗るような百官名だとは思うが‥
自分ちの由緒やいわれを知らないんなら、まぁそういう名前を名乗るくらいの家だった可能性はあるんじゃないのかな 「時代が下がり室町時代以降になると、武士階級においては仮名・官名として、平民階級では名として
広く用いられるようになり、頭に親族・兄弟関係を表す文字を付けた「新左衛門」、「彦左衛門」等、
衛門府の官等である「尉」「佐」をつけた「左衛門尉」「左衛門佐」などとして多用された。」
平民階級でも普通に広く使われたそうです。 士の下に農や工や商が並列していたが、その同じ農、同じ商の中で上下はあった
旧家や豪商、親方などの下に零細な平民があった
そういう序列の中で、細民が名乗るには不遜と見られる名前というもの、名前の相場はあっただろう 上皇陛下の曾祖母である柳原愛子は1940年代まで生きていますが、曾孫である上皇陛下とは接点があったのでしょうか? 戦前までは、高貴な家では子供は実親ではなく乳母が育てるというのが主流なので、
あんまり接点を持てなかったのではないですかね
大正天皇のように乳母に任せたくない、できるだけ子供に接したい的な行動をとると眉をひそめられたと聞きますので、
大正天皇以外の皇族・親族たちは血縁でも顔を会わせることが少なかったと思います 教えてください
毛利元就の三男、小早川隆景が、豪快バイタリティのある人物で、
元就と示し合わせの上、わざと意見が対立しているように装い、
敵に毛利家が分裂していると思わせて誘い込みせん滅するといった逸話があったと思うのですが、
この時、まじめで温厚な長男毛利隆元、豪傑でまっすぐな吉川元春には知らせず、
後からあまりの見事さに二人が嫉妬するようなことまであったとか
具体的にどの戦いでの話でしょうか?
昔何かで見たのですが、思い出せず >>329
有難うございます
どこかで探してみてみます 関東で親王が死んだのって、
鎌倉に幽閉されて足利直義配下に殺された人が史上初ですか? そもそも皇族が京都から離れる事例自体が特殊だったしね
だがあえて言うなら、父親が大王(記紀の説明では天皇)であるヤマトタケルも関東で死去している。地位としては後代の親王と同等だよな ヤマトタケルが死んだのは伊勢国能褒野だけど関東なの?
日本書紀での表記日本武尊の「尊」は皇位継承者と目される者に使うとはされてるから
親王と同等というか大兄と同等ではあるが。 志賀島の金印って
東路軍の武将が悪徳骨董屋から買った金印を日本軍の夜襲から逃げる時に落としたんじゃないですか?
(´・ω・`) クルージング?
神風の術で難破して漂着した時の話を脚色してんの 賢いことを「頭が良い」、アホを「頭が悪い」、狂人を「頭がおかしい」と表現するのはいつ頃からでしょうか?
賢さを頭の中にある脳と言う部分が司っていると言うことを昔の人は知っていたのでしょうか? 西洋医学知識が普及して後に生まれた表現には違いない
いつ頃からというのは今後、励んで探求していただきたい
解体新書の翻訳出版が1773年
神経という訳語もできた
明治の落語家三遊亭園朝による怪談話「真景累ヶ淵」
この真景には神経が裏に隠されていて、種々の怪異も皆脳髄神経の働きによるものということが解題に隠されている
解体新書から圓朝まで、どのように知識の普及があったのか‥ 頭がおかしいとか頭が悪い、良いという表現はもっと新しいのでは?
近世ではなく近代の新語としか思えない 近代、日本の植民地化を狙っていた国は
どこですか?イギリス?フランス?
アメリカ?ロシア? ペリー来航から日米和親条約について質問です。
当時の日本は産業革命を迎えておらず、外国の資源に頼る必要の無い国でした。
また、産業革命は迎えてなくても日本国としては膨大な兵士と銃砲と経済力がありました。
また、日本に国交を求めたペリー(米国)も、
当時は日本を攻略できるような軍事力も国力も無く、
日本側がペリーとの交渉を拒否すれば経済制裁出来る訳でもなく、日本に侵攻できるわけでもなく打つ手が無い立場でした。
このように今と違って客観的には当時の日米の力関係は日本側に分がありながら
なぜ日米和親条約、日米修好通商条約のような日本側が不利となるような不平等条約が結ばれたのでしょうか。 文化露寇,フェートン号事件と英露から侵攻を受けました。
対して米国の要求は捕鯨船の寄港(給油)という下らない要求だったので人道的見地から受けてもダメージないかなと
あと自分の家の不始末は自分の家でやるのが普通なので
輸出入するものもないから関税設定も不要と考えた。不利って何? >日本国としては膨大な兵士と銃砲
インドや中国は日本より膨大な兵士がいたし、使えない鉄砲は数があっても…
>日本側がペリーとの交渉を拒否すれば経済制裁出来る訳でもなく、日本に侵攻できるわけでもなく打つ手が無い立場でした。
交渉受け入れ→御国法の形骸化
交渉拒否→国防費増大→財政悪化
>なぜ日米和親条約、日米修好通商条約のような日本側が不利となるような不平等条約が結ばれたのでしょうか。
片務条約付与は先進国間でのお約束 日米、互いに主張を為し、めでたく条約締結の運びとなった
黒船艦隊の旗艦に招待された侍たちは酒肴のもてなしを受けて上機嫌
論陣を張った林大学頭もその謹厳な相好を崩した
儒学者松崎満太郎はべろんべろんに酔っぱらい、日本もメリケンも心はひとつで御座るとペリーに顔を寄せてキスをした
ペリー慌てず、条約締結ならキスもするさと応じた >>343
日本は有用資源が掘れる場所が乏しいし農地面積も狭いので植民地化したがる国はなかったはず
>>344
欧米の習慣として、最初に条約をむすんだ国を最恵国待遇とするものがあった。
逆視点で見たら、最初に勢力圏に組み込んだ国を出し抜いてそれ以上に有利な条約を結ぶのは植民地かすめ取りみたいなものだから、植民地側の事情は関係なく紛争に直結すると言える。
つまり、日本側から見ると、最初に国際条約を結ぶ相手よりあとから結ぶ相手の方が厳しい条件で条約を結ぶことはないと言える。
最初に結ぶ相手を選んで、できるだけ日本側に有利な国際条約で開国する方が安全だったわけ
その条件に合う相手はアメリカしかなかったので、他国との交渉は先延ばししてアメリカとの条約交渉だけを急ぐ必要があったんだよ >>344
当時の江戸は、食糧や衣料等の消費物資の多くを外からの輸送に頼っていた。そして、陸路輸送よりも水運が主だった。
江戸へ運び込む舟運は江戸湾経由しかなく、浦賀水道に陣取った軍艦が付近を通る船を砲撃し続ければ容易に兵糧攻めができる状態だったわけで。
少なくとも江戸周辺が危機に陥りかねない状況ではあったはず 外国船も薪炭、食物、飲料水の補給受けざれば早々に退散するの他なし
本邦ハ宜しく台場を築きて攻めよかし >>331
鎌倉幕府最後の将軍だった守邦親王
それ以外の親王将軍は生前に将軍退任ですべて京へ返されため鎌倉で死んだ将軍はいなかったが
守邦親王のみは鎌倉幕府滅亡の3か月後に死亡したと記録されるのみで京へ帰った形跡がない
しかも33歳とまだ若かったことから殺害説がある 現在わかってる史料では、幕府はアメリカとの条約締結をのぞみ、ペリーの到着を待ちわびていたとのこと オランダから送られた警告を無視して到著までの1年間いたずらに時間を費消してたんじゃないか
「他国(イギリスロシア中国その他)は来日しても翻弄してなし崩しにできた」から幕府側もペリーの本気度を舐めていたわけで
「浦賀水道から一歩も動き申さん、何であれば江戸砲撃もしていいんやで?」という態度と、
ちょうど伊豆半島に来てたロシアのプチャーチンがペリーの条約を知って同じ待遇を求めたのもでかい
むしろここが幕府の致命的判断
(一カ国は何とかなっても、二カ国目が突破されると後は列強が入れ替わり立ち替わり)
つまりアメリカとロシアの硬軟波状交渉によって言質がどんどん取られたのが主因
彼らは連携どころか敵対してた、ということを幕府も知らなかったし(知ってたら言質は与えなかったかも) 戦中の日本は右翼、左翼、どちらでしょうか?
ドイツと防共協定を締結しているから
右翼になるんですか? 右翼は自由主義
左翼は全体主義
だから戦時中の日本は左翼
大正デモクラシーで右翼化した反動か 右翼、左翼は、フランス革命期の国民議会、立法議会で議場の右側に保守穏健、立憲君主派が陣取り、左側に共和革新派が陣取ったことに由来する
だが、右翼左翼論は時代によって意味変わりまくり、ぐしゃぐしゃやで ナチスドイツもソ連もどちらも全体主義ですよね?
全体主義に右左は関係ないのですか? ほんなら共産主義国家と言われるところは自由主義、民主主義が特徴か
この世を右翼と左翼の対立と捉えること自体が不毛
教条主義、もはや宗教 そもそも左翼は派閥争い、正統争いが激しくて左翼対左翼の争いを起こしやすいしな 右翼は保守
左翼は革新
主義ではなく政治スタンスの違い
だから共産主義国家でも旧来の体制を維持しようとするのであれば右翼
改革を進めて体制を変更しようとするのであれば左翼になる 国内政治の面で言うなら、第二次大戦の総力戦を戦い抜くためには国内改革は不可避だから、どこの国も革新勢力が主流だった
アメリカで言えばニューディーラーだな
国際秩序で言えば、新秩序の樹立というか、植民地/国際ブロックの再編を掲げる枢軸国が革新で国際連盟の秩序の復興を掲げる連合国が保守だな 奈良の大仏で、ウィキで調べたんだけど、大仏の完成式(752年)から今日に至るまでに、当時のままの部分ってほとんど存在しないの?
正確には、当時から使われているものって限りなくゼロに近いであって「ゼロ」ではない? 身体の部分はもう当初のものは残っていない
大仏が座っている蓮の華の花弁だとかそこらへんにしか残っていない
体が鎌倉時代の再建、頭部が江戸時代
大きな大仏殿が燃えれば発生する熱量もたいしたもので溶けてたり割れたりしてしまったんだろう 僕達以外にも、奥山氏を挑発して、楽しもうとしている人物が出現してしまった、、、 先祖の出身地を調べたら、もとは無人だったが徳川家から命じられて2組の夫婦が移住して村を作ったと書いてあります。
大正時代には数百名の集落に成長していましたが、たった2組の夫婦からその人数に増えるってありえるのでしょうか?
あり得たとしても、近親相姦しまくりなような・・・ 入植したのは夫婦だけだったの?
使用人とかも複数連れて行ったんじゃないのかな >>369
4人で入植したとあります。そもそも、漁師だから使用人を連れるような身分じゃないかと。 >>371
市誌には、皆彼らの子孫や分家だとあるんですよね・・・ 別の村から嫁貰ったり嫁に出したりすれば近親婚にはならずにすむよ 17世紀初頭〜大正時代 ⇒ 約300年? ⇒ 10世代間
3人の子供を平均的には設けたとする。2組の夫婦の1.5倍を10世代繰り返す
4 × 1.5^10乗 ≒ 230人 ⇒ 数百名に行きますね。従兄妹同士でも近親相姦? >>376
ほぼ常に従兄弟レベルの血の濃さと交配を繰り返すことになるね。
身内は嫌だと思っても選択肢が無いし。そこまで濃くて問題無いんだろうか。
先祖に公家がいます
自分にはチョンの血が混じってるんですか? >>375
娘が生まれたら婿をとり、息子が生まれたら嫁を取る、それを全員、村内じゃなく近隣の村から迎えたら世代ごとに人口は三倍四倍に増えるのでは >>379
日本に逃げてきた朝鮮人(任那・新羅)と北部から朝鮮を征服した朝鮮人(高句麗)は違うんじゃないかな たしか血液サンプルを送ればDNAをしらべてくれる会社があったと思う 二つの質問。
歴史の参考書で、その当時の様子が書かれた絵があるけど、その絵というのはその当時からある訳ではない?
例えば平安時代の生活の様子の絵は、後から「こうだったんじゃね?」みたいな感じで書かれたのであって、その絵(用紙)自体は、ここ最近百数十年以内のもの?
もう一つの質問。
「終わりに見た街」というドラマがあった。
このドラマの内容は、戦後生まれの戦争未経験の家族が突然戦時中の日本にタイムスリップさせられる。
その時の会話で、父親が「子供を学校に通わせないとな」というが、それに対して妻は「あなた、無茶言わないでよ。子供を戦時中の学校に行かせるつもり?やっていけないよ?」と反対する。
そのドラマ内の子供は平成生まれなんだけど、その時代の学校って今の学校とはそんなに違うもの? >>383
太平洋戦争中の小学校は児童を少国民と呼んで軍事訓練もやってたんですよ。
竹槍持って「鬼畜米英」と叫びながら的を突く練習とか。
絵についてはいろんなパターンがあります。例えば蒙古襲来絵詞は元寇の時に参戦した武士が
自分の活躍を残すために描かれたので同時代の作品です。平安時代末に描かれた源氏物語絵巻とか
応天門事件の三百年後に描かれた伴大納言絵詞とか。古い物は描いた当時の風俗で描かれてることが
多いです。 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1523090654/689
689日本@名無史さん2018/05/11(金) 20:51:34.29>>691>>694
終わりに見た街という物語がある。
これは平成の家族が、戦時中の時代にタイムスリップする話。
子供たちが平成生まれで、親も戦後生まれ。
簡単に言えば家族全員が「戦争を知らない世代」という事。
で、疑問があります。
父親が子供を学校に通わせる話をしだして、妻が「無茶言わないでよ。子供をまさか戦争時代の学校に通わせるつもり?」
平成の子供を(昔は国民学校)学校に通わせるのはそんなに無茶な事ですか?
あと、小学生の男の子が外で遊んでいる子供たちの輪に入れず、引きこもりになってしまう。
男の子と外で遊んでいる子供たちっていうのは同世代だけど、どうして輪に入れないの? 甥っ子にコマ回しを教えようとしたら頑なに拒否する。
そのくせコマを回せと俺にせがむ。
回ってるコマを手でつかむ感覚が気に入って繰り返し要求してきた。
今の子供はコマを回したりタコをあげたりできるんだろうか。
石蹴りとかビー玉遊びとか、外でそれをやってる子を見かけたのは何十年前だったかなぁ…
あとCSの有料番組。國府が児童に軍事教練を課すのは誇らしげに語るのに、日本だとこき下ろすダブスタ。
制作者は自分の番組に何の疑問も持たないのだろうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています