【初心者】スレッド立てる前に質問をPart38【歓迎】
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前スレ
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ 拉致被害者を返してもらって見返りに経済援助するという話だったんだろうが、日本人同士、日本人とアメリカ人の夫婦一家だけ返してくれた
朝鮮人とのあと腐れのない分だけだ
被害者認定されているのはもっとずっと大人数
それも返せと言ったら、もう死んでしまったとか言ってニセモノの遺骨を渡して来たり‥
これどう評価する >>644
返還するの主語はプーチンだから,安倍のレガシーとするには「奪還」するしかないね >>647
だけど、それまで誰も行ってなかった北朝鮮に自ら乗り込んで
一部とはいえ拉致被害者を帰国させたのだから、レガシーと呼んでもいいと思う
問題はそのレガシー度をどう評価するか >>649
平和裏に奪還するのに?
>>644は改正憲法に北方領土全島返還を明記するなんて穂高以上の安倍は莫迦になるけどね 朝鮮人の荒らしをおちょくる流れでしょう
人物を並べているのか,事績を並べているのか,後者ですね。
安倍の事績として憲法改正を挙げられ,改正の中身の話題。この流れで付け加える箇所は? 昔、日本史の授業のプリントで
鎌倉幕府2代目の源頼家について「常軌を逸した行動」とあったのですが
具体的に何が常軌を逸していたのでしょうか?
よろしくお願いします 2013年のセンター試験日本史の問題に「18世紀末から19世紀後半は(中略)物価は高騰し、貧富の差が広がった」ってありますが
他方で『暴力と不平等の歴史』P155には「労働者間での所得の不平等は減少していた(中略)エリートと庶民の格差も縮まりつつあった可能性がある」と書いてあります
どちらが正しいのでしょうか? 複数の説が対立してるだけでしょ
似たような対立はたくさんあるよ
戦国時代だって、開発と発展の時代って説と飢饉連発の厳しい時代って説が対立してるし >>654
有力武将の合議制を廃止し独断専行に走ったとかだと思うけど
吾妻鏡は北条が監修した歴史書
比企氏の娘を娶った頼家は北条氏を遠ざけチーム頼家で固めようとしていたのね
焦った北条は先手を打って比企能員を謀殺し更には頼家を幽閉、後に暗殺した
その言い訳としてあること無いこと書いて自分らは悪くないってアピールしただけ >『暴力と不平等の歴史』P155には「労働者間での所得の不平等は減少していた(中略)エリートと庶民の格差も縮まりつつあった可能性がある」
『暴力と不平等の歴史』という本?はググってもでてこないけど『暴力と不平等の人類史』のことかな?
幕末は俺の専門じゃないが、江戸時代の特定の藩のエリートやら庶民とやらは何をサンプルにしたにせよ、300諸藩全てのデータがあるわけじゃなし、
江戸時代から明治30年頃というのは範囲が広すぎて、可能性を言うなら何とでも言えるよねとしか… 現代史の質問で恐縮ですが、お願いします
1950年代から70年代にかけて、学費値上げ反対運動とか60年安保とか70年安保とか全共闘運動とか左翼運動とか
とにかくいろんな形や内容で学生運動が熱く盛り上がっていました
しかし、80年代以降さっぱり学生運動が盛り上がらなくなりました
盛り上がらなくなったというより、学生運動自体がほぼなくなりました
これは何が原因だと考えられるでしょうか?
数十年の長きにわたり、断続的に熱く盛り上がった学生運動は、戦後史のひとつのトピックになるかと思います >>659
色々あるけど決定的だったのは、連合赤軍の内ゲバ。
印旛沼事件では2名、山岳ベース事件では12名の仲間をリンチ殺人するに及び、
浅間山荘事件ではライフルで武装し、無関係の女性を人質に取って警官2名を殺害。
これを見た普通の人たちは「学生運動って全然クールじゃないな」って思ったわけ。 >>660
ありがとうございます
連合赤軍の内ゲバやあさま山荘事件といえば、70年代中盤であり、学生運動の
末期の頃ですね
50〜70年代初期の間はそこまで酷いことはなかったのでしょうかね
あと、個人的には連合赤軍等も含めた「学生運動」は戦後史のトピックになりうるかと
思っているのですが、「もう一度読む山川」ではほとんど触れられていません
唯一触れられてたのは安保改定の時に大規模なデモがあったって点だけでした
客観的に見たとき、戦後史のトピックとするにはちょっと弱いでしょうかね >>661
80年代からは校内暴力、家庭内暴力の出番だからね 安保後の知識人の第三の問題は、「代用品」ということです。(中略)知識人は、最初、経済成長の過程で国民生活が豊かになって行く事実をあれこれと否認していましたが、そのうち、否認し切れなくなると、貧困は諦めるとして、
今度は、貧困に代わるものを探し始めました。何か探し出さなければ、国民は幸福になっているということになり、「現体制」-というのは、全く曖昧な言葉ですね-でよいということになり、シュンペーターの謂わゆる「批判的精神」の使い道がなくなるわけでしょう。
そこで、探し出されたのが、例の「疎外」という観念です。(中略)戦前の或る時期から、少数の人たちの間では用いられてた言葉ですが、経済の高度成長が進行するにつれて、猫も杓子も疎外ということを口にするようになりました。
確かに国民は豊かになって来ているが、しかし、貧困より更に不幸な疎外の状態にある、いや豊かになればなるほど、疎外は深くなって行く……。多くの知識人は、こういう合唱を始めました。 皇室と仏教、神道との関係がいまいちよく分からない
自分は天皇=神官のトップであり、神道のトップだと思っていたが、
歴代天皇は仏教徒であり、神道になったのは明治以降だとの意見もある
確かに聖武天皇や後白河法皇のように仏教を重用したり、出家した歴代天皇が
何人もいたのは知っているけれど・・・
敗戦+GHQによる神道指令によって国家神道は解体され、天皇の立ち位置も
変わったけれど、それ以降も皇室最大の重要祭祀「大嘗祭」は神道形式で
なされているし、皇室祭祀も見た感じ神道っぽいイメージ
しかし、敗戦以降の天皇が仏教祭祀や仏教的行事をすることはないし、
現在においては仏教との関係は薄そうに見える
この辺り詳しい方の見解を聞いてみたい 最初期の仏教導入の頃は、仏教を神道の諸神の一員に加える方向性のつもりだった模様
外蕃の神と見ていた
仏教を国政の柱のひとつに加える必要がでた奈良時代ごろには、
施設の質素さで外見的に見劣りする神道へのてこ入れに邁進したが、なかなか進捗がわるく、百年以上かけてようやく神殿設備が普及するようになった(それまでの神社には拝殿などなかった)
平安時代になると、神殿への配慮は弱まり、仏教の方が優越する感じ。
神道界の盛りかえしが始まるのは鎌倉時代には行ってからだが、それでも常に、神道より仏教の方が優越だった
神道が強盛になったのは明治維新後だが、その過程では零細神社の統廃合による大規模な整理(小規模な神社の過半が整理され消滅した)や、
民間習俗に関与する神社の活動の禁止など無茶な政策が強行されたりもしている 明治の神仏分離以前は神仏習合があたりまえ
神道は体系化された宗教とはいえない状態だったし
本地垂迹が主流で仏が主で神が従だと考えられてた
だから皇室も仏教を篤く信仰してた
それが神仏分離で、表向き皇室の仏教色はかなり薄められ、神道色が前面に出された
さらに戦後の政教分離で、神道ぽいけど表向きは神道ですらなくなった
しかし、歴史的経緯から、全国の有名神社だけではなく、
仏閣との間でも皇室の私的なつながりは今も残る >>664
近世までは一部の例外をのぞいて神道信者=仏教徒
皇室と仏教界は切っても切れない間柄だった
皇族が有力寺院のトップを務めていたし
天皇や院の指示による加持祈祷がバンバン行われていた
宮中行事も仏教的なものが行われていた
天皇=神道というイメージは近代のみの限定的なもの 本来は仏教徒であり、明治維新で維新政府の都合により神道に特化した、ということであれば、敗戦や国家神道解体に伴って、また仏教徒に戻りそうなところ、そうではなく仏教色よりも神道色が強いまま令和に至っている印象 他のいろんな制度も明治以前に戻らず、むしろ戦前踏襲に近いんだしな、宗教だけ戻すとはいかなかったんじゃないの >>668
仏教は江戸時代特権を利用して好き放題したせいで人々からの印象が悪い
戦後、敢えて「旧弊」に戻る必要もないよな政教分離も憲法に書かれたし、という感じかと しかし、歴代天皇のご真影やそのイラストなどを見ると、後白河法皇などごくわずかな例では仏装スタイルだけど、多くの例では衣冠束帯の神装なんだよね
天皇の正装=衣冠束帯という公式はある程度正しいのではないかな?
難しいね 衣冠束帯は神道の装束なの?
別にそういうことでないのなら、出家してない人が普通の衣装として着ているんだと思うけど >>671
衣冠束帯って、単に貴族の正装なだけで神道とは関係ない 衣冠束帯と神道って全然関係ないの?
神職の格好ってまさに「ザ!衣冠束帯!」だから関係あると思っていたよ >>674
衣冠束帯って言葉をググってWikipedia読んだら冒頭の概説部分で即座に解決してたのにな 歴史と神話
遺跡・遺物が偽物だったり、古文書に虚偽記載があったりすれば、それは神話であろう。しかしそれは、その偽遺跡・偽遺物や虚偽記載もまた、一つの歴史的遺産・歴史的遺物、歴史文書なのである。
それはなぜか? 例えば、エジプトのピラミッドには、ナポレオンがダイナマイトで爆破した穴がある。同じくエジプトのスフィンクスには、イギリス軍が射撃訓練で撃ちまくった銃弾の跡がある。
作られただけが、ピラミッドやスフィンクスの歴史ではない。フランス軍に爆破されたり、イギリス軍に銃撃されたりしたことも、ピラミッドやスフィンクスの歴史なのだ。 旧約聖書の創世記、ギリシャ神話、ローマ神話も、日本神話同様、それが史実であろうと史実でなかろうと古文書の一つであることに変わりはない。 ノンフィクションだけが古文書でフィクションは古文書ではないというのならば、旧約聖書も古事記も日本書記も全て古文書ではないということになるだろう。 慰安婦像や徴用工像は、平成・令和にかけて造られている。強制的連行が史実であろうと史実でなかろうと、慰安婦像や徴用工像が平成・令和に造られた一つの歴史的遺物であることに変わりはない。歴史はこれまで刻まれてきたと同様、これからも刻まれていくのである。 過去の世界が歴史を刻んできた。
現在の世界が歴史を刻んでいる。
未来の世界が歴史を刻んでいく。 歴史は、人類の頭の中にではなく、この現実世界に刻まれている。ジュラ紀の文書などない。しかし、恐竜たちの化石が彼らの歴史を証明している。 天皇を形容する時、「日本人の代表として神々を祀る最高の神官」、これ以上の言葉がなかなかないもんね 創価学会というと今でも池田大作氏(3代目会長)のイメージが強すぎて、
初代や2代目、4代目、5代目を凌駕しているように思います
これは池田大作氏がまだ健在なこと(同時代ということ)、活躍期間が
長かったことが影響しているだけであり、池田大作氏が亡くなった後
一定期間が過ぎて創価学会を俯瞰的に見たとき、社会における知名度や
ネームバリューはやはり初代の牧口常三郎氏や2代目の戸田城聖氏の方が
上になる可能性が高いのでしょうか
それとも池田大作氏が初代や2代目を超えている可能性が高いのでしょうか?
4代目、5代目は完全に3代目の陰に隠れてしまっていますが 漢字が入ってくる前は日本列島には文字がなかったんですよね?
漢字伝来は4世紀後半という説が一般的なようですが、それ以前に大きい国というものは可能だったんでしょうか?
文字で管理されてない国というのは自分には想像しづらいのですが
日本神話等も漢字抜きで存在したとは想像しにくいです インカ帝国は文字を持ちませんでした。それでも帝国を維持してますよ。
神話などの伝承は口伝えです。古事記の序文にも書いてある。 例えば古事記で一番初めに現れたとされる神々のうちで、至高神とされる天之御中主神はいかにも
中心的な神として後知恵で付けたような名前ですが、ウマシアシカビヒコヂ(宇摩志阿斯訶備比古遅神、
可美葦牙彦舅尊)は意味不明な音だけ伝承されて後から漢字を当てたと見えます。 文字はもってなかったけど、なわにむすびめをつくることでかずをしるしたりしてた 文字のない頃は地方のことは豪族に丸投げしていたけど、文字を入れてからは風土記や万葉集を編んだりして全国の隅々まで土地や人民を直接把握した気分になったろうね 北部九州の遺跡で確認された弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末〜前1世紀)の硯(すずり)の国産を示す遺物は、紀元前には既に国内で文字が普及していた可能性を強くうかがわせる。
https://mainichi.jp/articles/20190219/k00/00m/040/244000c >>688-693
ありがとうございます
確かに神の名前に残滓が感じられますね!
マヤ文明文字かわいすぎですね、最近のサブカル色強いマンガ家が描いたようにしか見えません
数を記す方法はあったんですね >>694
>数を記す方法はあったんですね
紙に書くとかじゃなくて縄の結び目で記録するんだけど解読されていません。
キープと言います。 せんせい質問です∩(´・ω・`)
前方後円墳って、建造当時あの形状は何か固有名詞あったんでしょうか?
また後年、山の上とかから形を見た人が何かあの形を表現したとかあるんでしょうか? 固有名詞がわかってたら、埴輪とか須恵器みたいに、その名前で呼んでるよ 後の時代の人達は前方後円墳を見て
車塚とか二子山とか茶臼山とか
銚子塚とか鉗子塚とか呼んでるよ 塚という文字そのものが墓と関係する(墓の盛り土部分のこと)んだし、たいていの古墳は墓であることぐらいは知られてたんだろうな
被葬者は忘れられてた(江戸時代の学者が推測した研究結果をもとに関連付けしてるだけ)けどな 江戸時代、徳川が外様大名家に養子を送って松平姓を名乗らせる事は良くありますが
譜代家臣にそう言う事をして松平姓となった例はありますか? 譜代で一族のものを養子に入れたと言うと保科家? たしか家光の弟(庶弟)が養子に入ってたような気が >>702
蜂須賀は将軍の子が入ってますね
他は娘かな?松平姓の名乗りを許される条件は徳川の血が入ったらですよね? >>705
島津も伊達も毛利も入ってない
初期なら家康娘の池田、秀忠娘の前田くらい >>704
会津松平家だから松平名乗ってる。初代保科正之は養父に感謝して松平を断ったけど二代目から松平。 江戸幕府と朝廷の関係がよくわからないのですが
朝廷を滅ぼそうという動きはなかったのですか? >>708
スルタン・カリフ並立の制度と似てるだろ >>708
日本国の政治権力と天皇の関係に似てるだろ
天皇は総理大臣を任命する
天皇は宣下により征夷大将軍に任ずる 天皇は国会の指名により総理大臣を任命する
天皇は幕府の意向により征夷大将軍を任用する >>711
なるほど
じゃあ討幕ならぬ討朝?運動はなかったのでしょうか 江戸時代と現代を例えた場合、
将軍は総理大臣
幕府は内閣
天皇は天皇
朝廷は?
天皇+宮内庁かなと思ったけれど、宮内庁は内閣の一部だから違うか
天皇+旧皇族+旧華族みたいなイメージ? 朝廷には右大臣、左大臣から右大将、大蔵頭、膳部太夫から主水、主計まで全部揃っている
現代で言えば総理大臣から防衛大臣、事務次官、吏員まで従えている存在だ >>716
じゃあ、江戸時代には内閣がふたつある感じですか? 名前だけの行政府が京都にあった
しかし、武家の権力者自身、朝廷の一機関である征夷大将軍に任ぜられるという名目に乗っていた
時の覇者が全ての権力を自分に集中させるという支那形式にはならないのよ、この国は 織田信長が将軍になろうとせず、朝廷の権威を否定する人間だったとの描かれ方が流行ってきたが、近頃はそうでもない
天子様が居て将軍様が居て天下が治まる
その形を再び現出させるために足利義昭を奉じて上洛した
そののちに義昭の離反・敵対、信長包囲網構築と続き、行き掛かり上、それろ打ち破る経過となり、朝廷でもいよいよ信長を太政大臣か関白か征夷大将軍にという動きが出たところで本能寺の変となった 信長は斯波家の配下であり足利幕府の再興に尽力することは何もおかしくない立場なんだよね 昨日、高野山金剛峰寺の秀次自刃の間を見てきた
秀次は秀吉への謀反を疑われ、追放&自刃の沙汰になったわけだけど、謀反の可能性って実際どれくらい考えられるのだろう?
今の学会的には秀吉の言い掛かり、秀頼を後継者にするための口実っていうのが主流だよね 後継ぎがいなかったから秀次を自分の次の関白にした
そうしたら秀頼が生まれた
秀頼元服の折には秀次は関白を秀頼に譲ればよいが、本当に譲るだろうか
自分の寿命もそこまではないだろうからどうすることもできない
秀次が秀頼をdisるのはこれは謀反だ
どう考えても心配‥‥心配、あぁ心配‥ >>723
それで秀次の追放&自刃の沙汰ならば、あまりにも秀次が不憫
謀反が本当なら仕方なしとは思うけど 「真田丸」の時の話では秀吉が責めたわけでもなく、秀次が勝手に精神的に追い込まれて自害したらしい。 >>724
不憫は間違いない
だが、あの状態になってしまったら、秀次秀頼のどちらか一方が死なないと決着がつかなくなってて、どうしようもない。不可避だ 世間が真相を見破るのも都合が悪い
秀次様は何も悪くなかったなんて思われたら困る
そこでいろんなありもしないことまで罪状として挙げ、秀次の側に居た者たちの口も封じなければならない
京の六条河原、秀次の生首の前で秀次の子(いたいけない幼児たち)や、側に仕えた女たち数十人の首を次から次に切った
京の民衆もこんなにむごい仕打ちは見たことがないと涙を流した
亡骸は集めて河原に埋めてしまい、「秀次悪逆塚」の捨て札を差した >>727
秀次の、秀吉秀頼への絶対恭順では済まなかったんだろうか?
秀吉はそりゃ自分の死後が不安だろうけど、諸大名の前で秀吉秀頼への絶対恭順を誓っていれば、秀吉が死んだからって好きにはできんだろうに おとなしくしていても、そのうち秀吉に含むところのある勢力に担がれて敗者復活を図るやも知れない
有名どころの血筋の者はよく担がれるのよ
徳川も秀頼を殺してしまわねば安心できなかった 秀次は罪を重ねたから成敗するのである
そうなんだからいろいろ申すでない
頭下げたからと言って許されはしない
御免で済むのなら首切り役は要らぬ 高野山で出家されたから全て許される
なのに秀次は抗議の意で自ら切腹した。聖なる高野山を血で汚された秀吉が激怒
秀頼は托卵で生まれた子は秀吉も知っていたけど,継がすのに適当な者が他にいなかっただけ 比叡山延暦寺は権力や煩悩により、聖なる地とはだいぶん違っていたけれど、
高野山金剛峰寺はまだ当時聖なる地としてのステータスや権威を保っていたのかな? 信長は本願寺との抗争で最終的に本願寺と和睦(信長側が有利)したと思うんだけど、
延暦寺とはどうなったの?
焼きっぱなし? 戦力を保持したままの本願寺とは交渉しただろう
しかし、戦力も何も失った延暦寺とは交渉する必要がない
交渉相手もいない
跡地は織田勢の管理下に入った
羽柴秀吉により山門再興が認められたのはおおよそ13年後のことだった 信長は石山本願寺と10年も戦っていたが、叡山焼き討ちは一日で終わったでしょうが 江戸時代の剣術道場の内弟子ってどういう身分だったのでしょうか?
道場やってる家の武家奉公人? 内弟子は住み込みの弟子というだけの意味だが
剣術道場には百姓町人も押しかけたので身分がどうのというものでもない
土方歳三も百姓身分だった 金剛峯寺って名前は特定の寺院の名前じゃなく、高野山全体の総称だったようですが、
明治2年に高野山の中核寺院だった青巖寺のことを金剛峯寺としたそうです
これって誰が決めたのでしょうか?
高野山の高僧が決めたのか、それとも明治政府か、はたまた全然違う人なのでしょうか? 明治二年、高野三方と呼ばれる学侶、行人、聖の僧侶身分を新時代を迎えるにあたって廃止した
それにより、それぞれの僧侶が拠っていた青巌寺、興山寺、大徳院の三つの寺が統合されてひとつの寺(金剛峯寺)となる流れとなったのであろう 江戸時代の経済について質問です。
江戸時代は地方分権でしたが、
各藩の1人当たりGDPの差は一番豊かな藩と一番貧乏な藩でどの位差があったのでしょうか?
また、江戸幕府は藩毎の経済格差を埋めるために施策をしていたのでしょうか? 幕府の領地政策を見本にしながら、それぞれ頑張って生きてゆけってのが基本
あんまり悪政を敷いて百姓が悲鳴を上げたり一揆を起こせば、大名の改易、処罰もある
富士山宝永噴火では東麓の農地が灰をかぶってエライことになったが、地元の藩にはとても手に負えない
被災者は自分で頑張れと布告を出しただけ‥
幕府が資金とお助け役人を出して灰の除去を指揮した例がある
あまりにも見てられなかったんだろうな
島原の乱みたいに幕藩体制をゆるがすような事態では幕府自体も鎮圧に出動する
幕府は四公六民だとか五公五民などと言ってたが、貧乏藩だと九割取ってしまうのも珍しくなかった
一方、経済力を蓄えた"雄藩"は倒幕する力を持ってしまった 近年の説では、9公とかいうのは名目石高と実収入の乖離が激しい都市部の事例ではないかと言われている
たとえば、輪島塗の産地で会った輪島村が(実態は手工業メインの都市部だが行政区分では村)9公1民だ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています