先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る4
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純粋に自分の血統先祖のみ(直接DNAがつらなった先祖。養子断絶はダメ)でどこまでさかのぼれるか調査するスレです。
先祖を探す方法を何でも幅広く語りませんか?
テクニックやエピソードなど・・・
初心者からエキスパートまで
先祖を探す情報交換の場にしましょう!!!
1 なにか質問されたり困っている住人がいればみんなで協力してあげよう(ググレ禁止)
2 HNを使うとみんな分かりやすいのでは?(誰が誰だか混乱するので)
3 画像をUPするとみんな一目瞭然で分かりやすいですよ
4 たまにチャット化しますが皆さん遠慮なく入ってください
5 荒らしは無視でマターリと
※UPの方法
@デジカメやスキャナなどで画像をPCに取り込む
(ファイル名を当たり障りの無いものにしとく。UPしたらファイル名晒されるので)
Aペイントソフトなどで危なそうな箇所を消す(よく確認して!UPしてからでは遅いです)
BアップローダでUPする(一応利用規約は読んで)
アップローダは↓など
ttp://www.imgup.org/
ttp://www.uploda.org/
CURL貼り付けたかったら貼る
前スレ
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る@
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1294631599/l50
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限るA
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1316186196/
先祖探しのエピソードを語る正し血族先祖に限る3
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1337303208/ 硬貨を鋳造できる技術を持つ藩は限られていたが、そういう藩が当たり前に
やったのは鋳直し。
古い銭には割れたり欠けたりしているのが多い。
昔はそういう銭も流通して、使用する人たちが勝手に交換率を決めた。
ヒビが入ってるから普通のビタ銭の半分だとか、欠けが大きいから四分の一だとか。
井原西鶴の世間胸算用にも、お釣りに割れ銭を渡してしまい、大晦日に交換に来た
買い主に渡すちゃんとした小銭が一文もなく、銭がないのがバレて倒産してしまった
大店の話がある。
世間に流通している割れ銭欠け銭は当然藩の御金庫にも入ってくる。
おそらく金納の年貢などから大量に流入してきたと思われるが、そういう割れ銭欠け銭を
鋳直せば銘値で通用するから巨大な利益が図れる。
五枚の割れ銭欠け銭の銀貨で五枚で二枚分の価値しかないものを鋳つぶし、四枚の
銀貨に生まれ変わらせれば銀貨二枚の儲け。費用を差し引いても大きな利益が出るわけ
である。鋳直しが諸藩によって行われたのは記録にある。というか、技術さえあれば当然
誰でもやるだろう。原料となる銭は本物で、かつ銘値を偽らない本物の銭を作り出すだけ
なのだから。
そもそも幕府が外国人との交易による小判流出や財政悪化に苦しみ、悪貨への改鋳を
繰り返し、貨幣への信頼を失わせてしまったのが原因。
幕府自身がなんじゃこれは、というような貨幣ともいえない貨幣を乱発していた。 http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J081.htm
幕府が最初に鉄銭を作り始めたのはけっこう古い時代。
元文四年(1736)
含二水永銭(銅銭)の母銭から作られた含二水永鉄銭。
「万延元年(1860)、幕府は4文銭も鉄に切り替えました。
それを受けて、慶応から明治初年にかけて、水戸、仙台、盛岡、津、会津藩などの雄藩が
鉄の4文銭を大量に生産しました。」
水戸藩は鉄の四文銭を江戸小梅の水戸藩邸内で作っていたと書いてある。歴史5のところ。
小梅というのは向島。隅田公園のところらしい。藩邸の中で鍛冶職人がトテカントテカン
鉄の銭を作ってたんだな。なんて適当なんだろう。
「明治2年(1869)ころまで、生産は続けられました。 逆に、銅の1文銭は鋳潰されて、
「天保通宝」になってゆきました。 1文銭10枚で、100文の天保通宝が1枚できましたから、
作る手間だけで大儲けできます。 水戸、会津、薩摩、長州などの藩が公然とやっていました。」。
勝手に幕府の一文銭を鋳潰して幕府が金座で作る天保通宝を作り出していたんだな。
それを公然とやってるのだからすさまじい。
薩摩・長州などが堂々とやっている。幕府なんか目じゃなかったというのが分かる。 中国だと南朝の宋あたりだかで鉄銭を作って大インフレを引き起こしてるらしいな バカじゃないのか? 鍛冶屋町でおしまいでいいじゃないか、長々と鋳銭の歴史なんて誰も知りたくもないよ。 自分のブログにでも書き込んでろ。
歴史自慢したいのならそれなりのスレがあるだろ。
スレ違いも良いところ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. O1b2(旧O2b) もO2(旧O3)も元々はバイカル湖あたりから拡散しただけ。
バイカル湖あたりのブリアートに今もちゃんとその痕跡が残っている。
満州にも残っている。
日本には縄文末に沿海州南部経由で、O1b2(旧O2b) 、O2(旧O3)、C3の3つが
山陰に渡来して拡散した。
http://file.kojoryoshu83.edoblog.net/48182e96.jpeg こいつはただのアラシだな。 嫌われることが快感なんだろうか?
それなりのスレに行けば褒められるかもしれないのに完全なバカだな。 >>85
>バカじゃないのか? 鍛冶屋町でおしまいでいいじゃないか、
バカじゃないのか?鍛冶屋町ってなんだよ。どこの話だ?頭大丈夫か
>長々と鋳銭の歴史なんて誰も知りたくもないよ。 自分のブログにでも書き込んでろ。
誰もお前には書いていない。>>72の質問があったから書いたんじゃないか
興味がないなら読まなければいいだけの話。お前は黙ってろ
>歴史自慢したいのならそれなりのスレがあるだろ。
この程度の話で歴史自慢かよ。高校日本史に毛の生えた程度の知識を自慢する
馬鹿がいるか。自慢に思えるならお前の程度が低すぎるんだろ。
>スレ違いも良いところ。
江戸時代の鋳銭の歴史を追わなければ、果たして米ヶ袋で硬貨が作られていたか
分からないじゃないか。特に幕末、外国との交易がはじまってからの通貨の混乱で
幕府の通貨発行権が揺らいでしまった背景は押さえておかないと、各藩で鋳銭した
事情は把握できない。
一つの町の歴史を辿るのでも、社会的経済的背景の理解が必要ということだ。
米ヶ袋のご先祖の職業を推測しているんだからスレに合致しまくりだろーが。
お前は頭がおかしい。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 最新の研究で、父親の精子由来のミトコンドリアdnaが遺伝していたという報告があったらしい
ミトコンドリアイヴの学説は覆る可能性があるってよ 遺伝子検査で父方のハプロタイプ調べたいけど女だからY染色体がなくて調べられないや
父に協力してもらいたいんだけどどうも言い出せない。。。 >>98
それは言いづらすぎるw
兄か弟がいれば頼んでみたら? 別に「白いアレ」を使うわけじゃないんだから、思いきって頼んでみるべし
たぶん口の中をグリグリする程度でしょ(口の粘膜の細胞を使う)? 戸籍のことで質問。
5代前の先祖の弟の欄に
「明治28年○○県○○郡○○村、佐藤金太郎の継父トナル」って書いてあったんだけど、継父ってのは結婚とは違うのか?
あとこの佐藤家のこと親戚に聞いたけど誰も知らなかったから、親戚とかじゃなく他人なんだろうけど。 普通そんな書き方するかな?
養子の方が後から籍に入るんだから、養子の欄に「○月×日養子トナル」って記載するけど、養父の方は何も書かれなくない? そもそも、戸籍に継父なんて記載あったっけ?
状況よくわからんからもっと詳しく書いてほしいな。 図書館で先祖の事を調べていたら、藩士の子が通う学校(藩校)で使われていた教科書に先祖の名前と名字が書かれてあって、これって先祖が公的に名字を名乗っていたっていう理解で正しいですか?
横からごめんなさい >>99>>100>>101
コメント読んで勇気を出して父親に頼んでみたらしぶしぶOKしてくれたわw
ありがとう ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 鉄の銭なんて材料はそこいらへんに転がってるし、鍛冶屋なら簡単に作れるし、
偽造しまくりになりそうだし、銘価だけの価値がなくてインフレになるのも当たり前
だろう。鉄銭なんか発行したら、その政体はもう終わりということだな。
と思われるんだが、しかし
不思議なのは江戸幕府が鉄銭を最初に出したのが元文四年(1736)
享保の次の元号で、時は八大将軍吉宗の時代。
そんなに逼迫した時代ではないはずなんだが、なんで鉄銭なんか出したのかな。
「元文金銀」というのがヒントになる。
ブリタニカ国際大百科事典の解説(←コトバンク)
「元文1 (1736) 年,8代将軍徳川吉宗のとき改鋳発行された金銀貨幣。正徳・享保金銀など
良質貨幣の流通によって諸物価が暴落し通用金銀が不足したため,改鋳して質を落し
その数をふやして経済の安定をはかった。」。
なるほど享保の改革によって経済が冷え込んでしまった。
それにプラスして、吉宗の時代に正徳金銀・享保金銀が流通。これは品位が高かったので、
人々は使わずに貯め込んでしまう。金銭の流通量が少なくなり、経済規模は小さくなる。
運上も減り、金納の年貢も実質目減りする。
そこで正徳・享保金銀を改鋳して品位を落とした元文金銀を発行した。
出目(改鋳差益)によって幕府も儲かるという仕組み。 鉄の銭が発行されたのもこの延長線上のことだったのか。
さらに、民衆が小さな取引を商品の交換ではなく銭を使って行うようになり、いわゆる小銭
に対する需要が発生したことも確かだろう。
万延以降の苦し紛れの鉄銭発行とは異なるわけだ。
価値の低い通貨を流通させて景気を刺激しようというのは、アベノミクスのインフレターゲット
みたいなものだな。
当時は中央銀行がなかったから、公定歩合の上げ下げによる調整が出来ないものな。
しかし、実際上はこの経済政策は失敗だったと言われているけどな。
アベノミクスも大丈夫かな。
悪銭発行政策の結末については今回は触れない。
>>91 が泣いて書いてくれと頼むのなら書いてやるぞ >>103
>>104
一応プライバシーのために黒塗りしとくがこんな感じ。
五代前の先祖は長女が家を継いで、この弟は他家に継父として行った。
婿養子や養子や分家とはまた違うのかなと思って。
https://i.imgur.com/cifD2A4.jpg >>111 その場合は多分、継父となった子の両親が亡くなっててその子の養育を面倒見るために(その子に財産は受け継がれてるけど)継父となったんじゃないの?
不思議ではなさそう。 そう言えば戸籍調べをしてた時にうちの戸籍の一時期、従兄弟が戸主になってた。 理由も何も解らないから深く考えていなかったけど。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>117 それが俺の先祖探しの役に立つとは思えないんだが? いい加減うざい。 失せろ、‼ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>120 俺は何にもしていないのにお前のスレは自動であぼーんになってるぞ。 コピペあぼーん だって。
やはりお前はこのスレを荒らしてるだけのつまらないやつなんだな。
家の外に出て働け。 先祖の繋がりよりも周りの繋がりは重要だぞ。 とりあえず五代前の先祖までわかったけど
それより前は戸籍がなかったから遡れそうにないな 自分の苗字も珍しいんだけど、戸籍を調べると江戸末期に近所からこれも珍しい苗字から入り婿に入ってきたことがわかった。
どちらの苗字もその地域にだけ多く存在している。 日本全体には殆ど分布していない。
入り婿に入ってきた方の苗字の由来を調べたいんだけどどうしたら良いかわからない。
ネットで調べると江戸末期はどうも農家だったみたいだが、平家の落人とか有名な人が左遷された時に随伴してきて家臣だったとかの話がぽちぽちあるくらい。
かなり珍しい苗字なのでそれなりの由来が残ってても良いと思うけど、何百年も経つと余程の家でないと由来も忘れられていくのかな。 悲しいけど戸籍の電子化は100年で処分される。戸籍は「紙」でもて。
でもいまの紙は100年でボロボロになるから注意。 >>124 多分永久保存されることになると思うぞ。 記憶装置の価格なんて安いもの。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 戸籍だけで8代前の名前までわかった
墓と過去帳には7代前までしか書かれてないのに… 公家を除けば桓武平氏、清和源氏流れの旧藩主家や東日本の豪農筋が最旧家なんだからもう良いんじゃないの。 >>132 何がもういいのかな? 自分たちの先祖を辿る話だぞ。 人の家系なんか関係ない。 >>131
確かに低いな、東北だからだろうか。
戸籍を見ると6代前の先祖は、子供を12歳で生んだことになってる…
少し疑ってるが
>>130
明治19年式戸籍は6代前が戸主になっていて、7代前が100歳近くまで生きたもんで、隠居してその戸籍に入ってる。
その右の小さいところに8代前の名前が書いてあった >>131
戸籍が出来たのがひいひい爺さんの時で
その時そのひいひい爺さんのひい爺さんが生きていれば
あり得る話 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>133
結局、先祖に仮託して自己肯定感や自慢云々になっちゃてるだろ。
会ったこともない育ててもらったこともない高祖父母以前等はそれこそ良いんじゃないの。
それ以前は「皆の先祖」で良いと思うぞ。 >>131
明治5年に戸籍ができた時に生存していた人は全員戸籍を作っているのだから
8代前が載っているのはそれほどおかしくない
明治5年から現在まで145年間
当時55歳の人なら200年前に生まれた人ということだし >>137 何が良いのかわからんな、少しでも遡って先祖の生活がわかれば、少しは参考になることも出てくるだろう。
直接の血の繋がりがなくても家系の伝承、地域の事柄など、わかればわかるほど楽しいものだぞ。
殆どの人は戸籍調べ段階で終わってしまうけど、過去帳とか調べられればまた面白い結果が出てくるかも。
みんなの先祖なんてありえないだろ。 自分の先祖が直接わからなくても、その土地土地が持つ歴史は違う。
縄文人くらいになればみんなの先祖といっても良いけど。 自分の場合孫の代まで数えると全部で8代が判った。自分から上は自分を含めて6代になる。
祖父が明治4年(1871年)生まれ
曽祖父が弘化3年(1846年)生まれ 明治2年に入り婿として高祖父の養子として入籍。高祖父の娘と結婚
高祖父が文政8年(1826年)生まれ
高曽祖父は名前は判っているが生まれた年は判らない。1700年代終わりころだろう。
これは現代の戸籍を役所から取り寄せただけでここまでわかった。 >>139
土地土地ってジモティか?
いくら代々地元先祖多くても5代も遡ったら他所出身や全国散らばった子孫ばっかりだろ。
生身で知る事の多い祖父母が同じく生身で知ってる高祖父母が分かる場合は実感持ってルーツに感謝もあるだろうが、
あちこちのいろんな人々の先祖で良いと思うぞ。
皇族の本来の4、5世孫制限も適当じゃなくそこらの本能的なものがあると思うぞ。 >>140 高祖父は明治39年に亡くなっているから、戸籍に登録されてて当然なんだろうな。 >>141 人それぞれの楽しみだからほっとけや。 やることのない暇人の趣味だし。 >>141 俺は今東京に出てきてるけど、本籍のある田舎は同じ苗字だらけだぞ。 とはいっても数十世帯だろうが。
結婚相手も祖父以上上は皆隣村からもらってる。
唯一俺の親父が田舎を離れてたからそこで遠くの地のおふくろと出会ったのが例外。
親父たちが戦後引き上げてきて本籍地で俺を生んだから俺も本籍はそこ
俺の世代以降は自分の子供たちは色んな土地の人間と結びついてるが。
しかし自分の苗字はほとんど全国には散らばっていない。 増えたとはいえ東京には自分を含めて2~3世帯だろう。
結婚相手の人達の番地を調べると現在もその土地に同じ苗字の人が住んでいる。 いつかその辺りを旅してみようという新たな楽しみも増える。
何故か相手の苗字も珍しい苗字ばかり。 日本でも古い時代からたびたび記録に登場する地だからかもしれないけど 商家か農家かはともかく江戸期の墓や菩提寺もあるなら苗字の先祖が開発名主なんでしょ。
室町以前まで遡れそうなら日本人ほとんど該当する源平藤でも由緒は辿れそうな家という事で。 >>144 調べてみると戸籍には俺の生まれた本籍地で祖父まで生まれてるから多分代々そこに住んでいたんだろう。
本家の住まいとは100mも離れていない。 今は本籍地の地番がなくなっているのでこの辺りだろうという位しかわからないが。 だから戸籍家系で江戸後半まで遡れるか、更に室町以前まで菩提寺記録、伝承あるかで大部推測できるよね。
珍しい苗字は推測も楽だろうけど、広がってなければ分家筋がことごとく子孫恵まれなかったか、江戸、明治の移入先祖か、という事かな。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 面白い事を思い出した。 うちの苗字は戦前までは旧漢字を使っていたんだけど、戦後当用漢字ができてから、戸籍に登録するのは当用漢字以外まかりならんとかで当用漢字になった。
江戸時代の人まで全て当用漢字になってるのは、戦後戸籍を作り変えた証拠。 >>149 戸籍に旧字のままなのは許されてたみたいだね。 うちの場合は本家からのお達しで全ての戸籍を書き換えたようだ。
だから、旧字を使ってる同じ苗字は見た事ない。 高祖母は、旧姓が嶋津で家紋は丸に十文字。
もしやと思ったが、あの有名な薩摩の島津とは一切関係ないらしい。
少し期待したのに残念…
まあ東北地方だし関係あるわけ無いか >>151 うちの先祖の話を探してる時に、先祖のある人が薩摩や伊勢を号として名乗ってたことがあるらしい。
当然関係の無い藩に勤めてたんだが。 何でか判らないが頼まれてその藩出身の後見人とかやってたのかなと勝手に想像してる。 >>134
出産が早い+早産家系か。同じ年数でも他の人らよりギュッと詰まってる訳ね。
12歳で出産は男性?女性ならありえるよ。私の高祖母は11歳半で初産して9人生んでる。
私もはじめは誕生日記載ミスかと疑ったが、末っ子を43歳で生んでるから、生物学的にそれより年上はまずあり得ないかと合点。 海外の戸籍制度ってどんなんだろうね。
例えば、イギリス、アメリカとか アメリカは多民族国家だから結構家系探しが流行ってるみたいね。
自分もいくつかfamily tree みたいな家系図作成のソフトを試してみたけど、なんかイマイチだった。
今はExcelで自分なりに作ってる。 >>154
戸籍があるのは、今では日本と台湾だけだよ
その他の国は個人単位での登録か、出生や結婚などの事件別の登録になってる。
あ、ドイツだけは例外で家族簿というのがあるとは聞いたことあるな >>153
それが夫婦揃って12歳なんだよ。
どっちも天保10年生まれ。
んでその子供が嘉永4年生まれだから12歳であってるよね?
書き間違いかと思ったけど真相はわからない。 何の番組か忘れたが、レディー・ガガの先祖のイタリアからアメリカへの渡航証明みたいなん見たぞ。 >>157
それ、竹下登の親父みたいに、旦那が知らない内に旦那の親父が妻に手を付けてたパターンでは!?
それか、生まれて何年かしてから届け出を提出したから内容が適当なパターン。 明治4年の壬申戸籍は画期的なものだったらしいね。
この戸籍登録で当時の日本の人口が、3311万人だと判ったとか。
その前の江戸時代が、宗門人別改帳とか。 そんなのどこに行ったら調べられるんだろう? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>160
俺の先祖の村の宗門人別改帳は、活字化されて図書館においてあったよ。
他の村のは無かったから運が良かったのかも。おかげでかなり助かった 活字化ってやっててサービス精神旺盛だなw
すごい強運! 宗門人別開帳って初めて聞いたから、出身地の県の資料を探ってたら庄屋の保存文書の説明の中に、宗門御改人別帳 なるものがあるらしい。
似たようなものなのかな? >>164 その庄屋の文書の説明の中に、産土神社は xxx だったと書いてある。
読み方も知らなかったが、うぶすな神社と読むらしい。 要は土地の守り神という意味らしいが。
俺の生まれもその神社のすぐそばだったから何か見つかるかも。
神社の名前は出てくるが寺の名前は出てこない。 宗門人別改帳なんて名前はなんとなく寺が管理してたみたいな気がするが、神社や庄屋が管理してたこともあるのかな? >>164
同じだよ、地域によって呼び方は違う。
仙台藩では高人数御改帳という名前だよ >>165
その可能性はゼロではないが、基本的には庄屋が保管だよ。
氏神に行って、寄進帳があれば見てみるといいよ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 地方紙の死亡広告(お悔やみ欄)で先祖何人か見つけた
河北新報は明治時代から発刊されてるから結構古い先祖のもあったわ
マイクロフィルムだったから苦労したけど。
さすがに朝日や読売みたいな全国紙には載ってなかった 貧乏人の系図話
貧乏人の系図話. びんぼうにんのけいずばなし. 以前は盛んだったのだが、と
先祖の系図話をするのが貧乏人である。
祖先の自慢をして自分を飾る。
その愚かさかげんを皮肉っていう言葉。
〔類〕賤(いや)しい者の系図調(けいずしら)べ 本当に他のスレにも書いたことがあるんだけど
宇宙(☆でも可)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜直系に系図なんて必要無いだろう この宇宙(☆でも何)の家を先祖に持ってきたり、
無理に繋げたり・・・
いつ頃の話になるのか知らないけど、
宇宙(☆でも良い)の家について、あさったり、調べたりしたのがいるのかな ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>174 宇宙まではいかないだろうけど、自分の祖先を探す旅は祖先/日本人がどこから渡ってきたかとかいうのにもつながる楽しい旅だぞ。
そのうちDNA検査が安く一般的になってきて日本全国的なDNA家系図が作られてくるようになればまた違った面白さが出てくると思う。
昔は、日本人の祖先はアンゴロイドと言われてきてたが、最近は父型の遺伝子はインド洋の小さな島に残されている遺伝子に近いとか、おもしろい結果が出てる。
ささっと読み流してるだけだから間違ってるかもしれないが。 例え自分の先祖が数世代前しか辿れなかったとしても、何故今の家紋を使ってるのだろうとか調べていくとどんどん調べる範囲が広くなってきて、どこまででも広がっていくよ。
父系家系だけでも結構大変だが、母系家系まで分岐させていくと膨大な枝葉が出てきて老後の暇つぶしにはいいぞ。
俺はまだ母系の方の戸籍調査はしていないが、最近小さい頃に付き合ってた母系親族が自分をFacebook で見つけて連絡してくるようになって、そろそろ母親の戸籍も調べようかと思ってきた。 3〜4親族くらいまでは直接知ってるんだけど。
ま、いくら調べても江戸時代くらいまでしかわからないんだから、なんてことはないんだけど暇つぶしには良い。 >>176
アンゴロイドってモンゴロイドのことでいいのか?
はじめて聞いた言葉なんでビビった >>178 すまん、タイプミス。
アングロサクソンと、モンゴロイドの混血の意味ではないからご安心を。
>> こんな話もある
『Y染色体D系統の分布の謎』(ネットで『Y染色体D系統の分布の謎』と検索すると論文を読むことができます。)
の中に日本の近隣にはないがチベットとアンダマン島と日本人のみが高頻度を示す例があることを知りました。
【人類の移動】〜 縄文人は、インド北東部にいた東アジア人の共通祖先(Y遺伝子Dグループ)から5万年前頃に枝分かれした集団が、3.8万〜2万年前に日本列島に渡った集団
3000年前の縄文人の歯の核ゲノム解析から、縄文人の源流は、東南アジア、北東アジアのいずれかではなく、東アジア人の共通祖先から分岐したことがわかってきた。
そして、Y遺伝子の解析から、東アジア人の共通祖先はY遺伝子「D」グループで、そのDグループは、チベットやアンダマン諸島(インド東部のベンガル湾に浮かぶインドに属する島々)の人と共通祖先をもつことがわかった。(※2015年5月29日NHKテレビ番組リンク) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています