不彌国・吉野ヶ里の南にあったという、戸数七万戸の邪馬台国であるが・・、

6.その戸数からして、南は熊本平野の南端の山都町・甲佐町まで、西は天草諸島まで、東は阿蘇・高千穂・五ヶ瀬町まで、
そして北は、筑後/肥後境の矢部川までの広がりであったと推定される(すぐ南には筑肥山系もあるが、矢部川との間はごく狭い)。
ただし矢部川の下流から河口部にかけての南岸地帯と、東の筑肥山系との間には、最大幅数qほどの陸地がある。

7.ここが多くの論者によって卑弥呼の邪馬台国に比定された、筑後山門(みやま市瀬高町山門邑)である。
しかし此邑は、江戸時代、柳川藩下にあった山門郡のほんの一部にすぎず、三世紀の戸数はせいぜい400〜500戸であったと思われる。
また、東の山腹に残された「卑弥呼の女山神籠石」は、調査の結果、多数の須恵器が出土し、後世のものと判明した。

8.が、この地は交通の要所で、今東西5qの間に県道・国道・高速道・新幹線・JR在来線・私鉄電車の6本が、ひしめき通行している。
古代においては、南の肥後熊本から、北の筑紫・肥前の国々へ出立する正門の役目を果たしていたのではないか。
筑後山門というより、火の国邪馬門(ひのくにやまと)であったと考えれば、より良く納得できる・・。