>>404
>肥前・佐賀平野のほうへ向った…。
これは、倭人伝が邪馬台国へ行く道筋として書いてあること。
伊都、奴国、不彌の国名を単なる道順を指すだけの表記だととらえると、実際の道順としては現在の多久、江北、嘉瀬河河口ということになる。
この多久などの道順は、当時も今も唐津から有明海に出る主要幹線だろう。
また、唐津から吉野ヶ里や鳥栖方面への幹線でもあったはず。
その主要拠点の多久、江北、嘉瀬河河口に伊都、奴国、不彌の国名を当てたということが考えられる。
それは、実際の邪馬台国に向う道順が、伊都、奴国、不彌だったからだと考えるほかない。
また、不彌が当てられた嘉瀬川河口は、弥生当時は現在の河口よりも2kmほど上流だったそうだ。
江北から東へ行くと、ちょうどその嘉瀬川河口から2km上流あたりに行き当たる。
有明海を舟で熊本や鹿児島へ行くための発着場があったのだろう。
なぜ、かくまで倭人伝の記述が正確なのかというと、このルートは博多から沖縄へ渡海して、貝輪の原材料のゴホウラ貝などを仕入れに行くルートだったからにほかならず、魏の役人はそのルートの詳細な情報を倭人の役人から入手していたことが考えられる。
なんとなれば、魏の役人には、邪馬台国がその沖縄あたりあると強固な固定観念があったから、そこに行く行程が知りたかったということだろう。
聞かれた倭人役人は、博多の商人から詳細に行程の日数などを聞き取ったということになる。
これが、邪馬台国までの行程の真実だ。
小説が書けるぞ。
このアイデアは、ただでやってもいいぞ。