【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬弍
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九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県八代、球磨郡、人吉、長崎県佐世保、島原、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!
邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!
*荒らしはスルーで
過剰なコピペは厳禁 @阿波は畿内説の寄生虫だからな
宿主が死んだら@阿波も消えてします 伊=福岡・伊都国
邪=福岡・邪馬台国
那=福岡・那国(奴国)
岐=壱岐・一大国
美=福岡・不彌国 >>504
>@阿波は畿内説の寄生虫だからな
>宿主が死んだら@阿波も消えてします
いやいや、もう間もなく消え去るのは、畿内説と九州説だよ。
もはや、畿内説と九州説はガラパ説。 とにかく古臭い。 とにかく、進歩がない。 とにかく、昔のまんま。 @阿波 倭人伝の東南500里到る・・、に逆らってまで、
山坂断崖超えの難路を、無理やり、北東に進むのはどうかと思うけどねえ。 >>489
水行十日陸行一月の邪馬台国は、沖縄あたり。 >>483
大和の墓に副葬品が入るようになるのはホケノ山から。
この時期から大和は、急に成金になった。
成金=隆盛。 >>511
>大和の墓に副葬品が入るようになるのはホケノ山から。
その「ホケノ山」も「忌部はん」 のお墓 と、何度言えばw @阿波 >>502
九州王朝の祖は、イザナギ、イザナミか。 倭人伝に強烈に逆らったすぐあとで、
だが、ここからの行程は正しい、信用せよ・・・、といってみても、そりゃ無理ちゅうもんだ。 >>513
九州王朝の祖というより、その実態は、
自女王国以北の国々の談合で成り立った(担ぎ上げられた)邪馬台王朝の祖だったのではないかと思うのだが、、、 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>491
「大率」なんて官名は特殊なもの。
普通名詞にはなり得ないから突然「一大率」なんて書いたって読者には何のことだかわからない。
一大の率と読むべき。一大國の軍司令官。 >>516
卑弥呼は邪馬台国にいたけど、称号は倭王。
イザナギは倭国の祖だから当然だろう。
女王国の以北つまり対馬海峡は天津国(海の国)だろうね。
高天原がその何処かにあるはず。 官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:p帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟) >>521
大率、恩率、徳率、杆率、奈率...
どれも百済でだけ使われた(らしい)特殊な官名で、
魏志倭人伝の記載している時代よりずっと後に作られた。その後だって全然普通名詞化してはいないし、歴代中国王朝でも全く使われていない。
刺史とは全然違う。 百済は半島の中で最も倭と近い関係の国だ。
時代がやや違うが、関係がないとは言えない。
ちなみに率も帥も同じ意味だから、一大率は太宰帥の前身とも言える。
九州北部には3世紀から19世紀まで一貫した制度があったことになる。 >>524
>ちなみに率も帥も同じ意味だから、一大率は太宰帥の前身とも言える。
そんなふうに思うのは勝手だが、他人を説得することはできないよ。
あくまで百済だけの特殊な官名の一つで、汎用性は皆無だね。
>九州北部には3世紀から19世紀まで一貫した制度があったことになる。
あなたが思うだけで、そんなことにはならない。 >>516
ワイの考えでは、博多は2世紀代には、背振山地以北の玄界灘の国々が連合した玄海連合の盟主だったと思う。
イザナギ、イザナミはどうかと思うが、その盟主博多の祖先神は磯良で、博多の安曇部族の祖先神の志賀島海大明神。
能古は、古くは残と書かれているので、残りの意味だろう。
志賀島が陸繋島となったので、陸に繋がらず海中に残った島という意味ではないか。 >>512
阿波は、埋葬部の石囲い技術を提供しただけ。
前方後円型墳丘墓は尾張と吉備の合作。
阿波は、その前方後円型墓そのものとは無関係。
阿波萩原は突起付き円墳の一種。 >>522
邪馬台国があるのは、北部九州からずうっと南に広がる巨大島という想定。
その巨大島の沖縄あたりの位置にあるのが邪馬台国。
そして、その南に狗奴国があるというもの。
このような巨大島が実際にあったことはないが、古代中国人は強固にその巨大島の存在を信じていた。 >>526
その玄界灘連合国こそ、大陸側から見た倭国でしょ。 >>527
>阿波は、埋葬部の石囲い技術を提供しただけ。
奈良は単なる倭国(阿波)の墓地だっただけ。 @阿波 >>526
>能古は、古くは残と書かれているので、残りの意味だろう。
>志賀島が陸繋島となったので、陸に繋がらず海中に残った島という意味ではないか。
なーるほど、博多方面の方言で、残ンの島(ノコンのシマ)か ! おが接頭語、ろが接続詞で、語幹はのこ、つまり能古島のことだとか。 >>526
>博多は2世紀代には、背振山地以北の玄界灘の国々が連合した玄海連合の盟主だったと思う。
>イザナギ、イザナミはどうかと思うが、その盟主博多の祖先神は磯良で、博多の安曇部族の祖先神の志賀島海大明神
この志賀島海大明神は、日本書紀では、別名・海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)で、
その子孫のタマヨリヒメの子(女系男子)が、ウガヤフキアエズで→次の神武天皇に続く。
因って博多王朝は、今の日向天皇家の女系祖先の一つということになるな。 そして男系は伊都国の筑紫日向三代の王家だよね。
記紀ではどちらもイザナギの末裔としている。 >>536
妄想は聞き飽きた と、何度言えばw @阿波 >>536
>因って博多王朝は、今の日向天皇家の女系祖先の一つということになるな。
もう筑紫にいた倭国王家でいいだろ。
弥生時代から王墓もたくさんあるし。
金印もあるし。 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 つまり、
博多王朝の盟主那国(傍奴国)と、火の国・肥国王朝の盟主邪馬台国が、
倭国大乱前後の動乱期を二度の縁組を通じて順次融和を進め、
やがて共立卑弥呼の倭国体制を作り上げて、その後は東へ向かったという筋書きなのだろう・・・、 >>541
妄想は立派に語れるんだがねぇ・・・・ @阿波 >>540
>2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた
>狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
この2点が問題で、わがままっこの弱小狗奴国にとらわれ過ぎてるな。
張政ら数人の助っ人でカタが付いたんだから、そう気にすることはない。
(極南界とは、狗奴国を含む筑紫島の南の果てまでを極めている・・、と読むと良い)
「倭国の極南界」を盾に、倭国を博多沿岸に限定しようとするから、ちんまり固まる。
副葬品の出土地図を見ても、博多王朝の範囲と、火の国・肥国王朝の範囲の2系統があったと読めるだろう。 >>541
うーん、もう少し事態は複雑で、筑紫日向王家(伊都国)と豊国王家(当時は博多と志賀島)の安定した政権があったのだろう。
それが倭国大乱で崩壊して、肥国王家が台頭した。
肥国王家の中で伊都に進出した卑弥呼と、熊本に残った卑弥弓呼の主導権争いがあって、卑弥呼が日向王家の後継として魏の外交に臨んだのではないか。 >>543
>副葬品の出土地図を見ても、博多王朝の範囲と、火の国・肥国王朝の範囲の2系統があったと読めるだろう。
うん。
記紀にあるのはそのうち博多と伊都の連合王国の記録だと思う。
記紀に卑弥呼が登場しないのは、卑弥呼が肥国王家だからだろう。
狗奴国の卑弥弓呼の位置付けも説明できる。 >>540
チンケな糸島の墓にこだわるから、阿波なんかに小ばかにされる。
倭国女王卑弥呼にふさわしい、径百余歩のもっと品格に優れた墓を考えてくれぬかな。 筑紫の弥生王墓は平原遺跡だけではない。
紀元前の吉武高木以来、多数ある。
未発見のものも含めればおそらく数百年に渡って倭王朝が博多湾沿岸にあり、弥生文化の伝播を主導したのだろう。
言い換えれば、弥生時代とは筑紫倭王朝時代でもある。
記紀の神代だね。
筑紫の卑弥呼と並行して、筑紫を脱出した神武らが大和で力を蓄えていったのだろう。 >>546
では、その「阿波なんか」が教えて進ぜよう。
「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)です。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われています。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」 @阿波
「八倉比賣神社」
https://bqspot.com/shikoku/tokushima/569
http://kamnavi.jp/en/awa/yakura.htm >>544
倭国大乱の経過をシンプルにするため、豊国のことは省き、崩壊も省略しているが、
それらのことは考えに入れておくべき重要事項・・、と思っている。、 そう考えると、記紀も魏志倭人伝も、筑紫伊都が倭の王都だという記事で一致していて、考古学的証拠とも一致する。
その中で倭王卑弥呼はどこにいたかと聞かれれば、筑紫にいたとしか考えられない。
そして平原遺跡という倭国大乱後の女王墓がある。 その後に豊国は遠賀川流域や関門海峡付近に移ったけれど、神武が立ち寄ったり仲哀(直系ではないかもしれないが)を輩出したりしている。
肥国は熊襲として4世紀に討伐された可能性がある。 狗奴国のことは小競り合い程度だったのではないか。
ただ陳寿は、それを張征ら派遣の大義名分にして、本音は隠しただけのこと。
張政ら派遣の真の政治目的は、帯方郡による卑弥呼体制支援と「親魏倭国」の建国教化だったと認識すべきであろう。 >>553
魏の側としてはそうだろう。
しかし卑弥呼にとってはお家騒動だし、発展しつつある有明海沿岸を熊本に取られるのは我慢ならなかったろうね。 >>550
>鳴門のコバンザメが、まとわりついてきたぞ
鳴門だけじゃなく、阿南や阿波のコバンザメも黙ってはいないぞ。 @阿波 >>552
>肥国は熊襲として4世紀に討伐された可能性がある。
肥国王家に関する遺跡や地名などの痕跡があまりにも少ない
また、熊襲征伐に伴って新しい地名を与え、新しい地方支配者を取り立てたりして過去を清算してるので、
肥国・狗奴国残党の討伐のことも考慮されるべき重要事項だね。 卑弥呼は狗邪国とは争ってなどいない
「不和」の「和」字は『説文解字』によると「和、相應也。」とある。「集韻」は「和、應也」とする。
「和」の本義は「応諾」する、「呼応」する、「承諾」する、と言う意である。随って「不和」とは承諾出来ない、と言う意味になる。
何に応諾出来ないか、それは言うまでもなく、正始八年に魏朝の太守王?が官に到ったことに対してである。
卑弥呼は狗奴国の男王と共々、承諾出来なかったのである。
「相攻撃状」の「攻撃」の意である。これと酷似し倭人伝に載る語に「相攻伐」がある。
この語は倭人伝原文に「倭國乱相攻伐歴年」と使われている。「攻撃」も「攻伐」も「せめうつ」ことを言うが、「攻撃」には「他人を論じ、なじる」と言う義がある。
しかし「攻伐」にはこの義がない。この段の「相攻伐状」とせずに「相攻撃状」としたのは難升米等を押しのけて、太守王?が官に到ったことを卑弥呼と狗奴國
の男王が共に承諾出来ずに非難していることを説明した、と言う意味なのである。
卑弥呼の邪馬壹國と卑彌弓呼素の狗奴国との戦のことなぞ、何処にも書かれていないではないか。 >>540
まーたそれか
何度言われても改める気はないようだな
熊本の財宝は4世紀以降のもの
つまり2世紀において邪馬台国と争う狗奴国など熊本には存在しえない >其八年、太守王頎到官。
>倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和。
>遣倭載斯烏越等詣郡説相攻擊状。
>>558
太守王頎到官とは、洛陽から帯方郡へ新しい太守王頎が赴任してきた、という意味だ。
其の太守王頎に対して、倭の載斯烏越等が帯方郡に詣で、相攻擊状を説明した。
そこで太守王頎は、塞曹掾史張政等を遣わし、難升米に拝假してうんぬん・・・、という順序だよ。 >>558
倭人伝は、時間の進行に合わせて順々に書かれている。
後に飛んだり、前に飛んだりしないで、そのまんま時間通りの順番で読めばわかるようになってる。 >>561
>後に飛んだり、前に飛んだりしないで、そのまんま時間通りの順番で読めばわかるようになってる。
そうだね。 そうすると、自然に倭国(阿波)に着くようになっている。 @阿波 何度もループしてる話題だが、自分が一番納得したのは、
歩幅は人によって異なるので、
役人はみな自分の足のどの部分までが1歩なのか事前に測っておいたという話。
1歩=20cmとして、役所の1歩物差しであらかじめ自分の足に当てて測っておく。
足の大きい役人なら、かかとから親指の付け根のふくらみまで、
足の小さい役人なら、かかとから親指の第一関節まで、
これなら自分の足だけでどこに行こうが正確な長さを測定できる。
張政も、大股に歩くのではなく、
足をピタピタと合わせながら実測したわけだ。
平原遺跡1号+2号の共通の周濠に沿って百余歩。 >>563
>この段の「相攻伐状」とせずに「相攻撃状」としたのは,、
>難升米等を押しのけて太守王?が官に到ったことを、
>卑弥呼と狗奴國の男王が共に承諾出来ずに非難していることを説明した、と言う意味なのである。
時間の順番が、まえに飛んだり、後ろに飛んだり >>566
解釈が前後してるという意味な。
太守王頎到官とは、魏の洛陽から帯方郡へ新しい太守王頎が赴任してきました、・・という完了の意味で、それでこの文は終わり。
だから、その赴任完了後になって、この赴任は難升米等を押しのけたのだから、卑弥呼や卑弥狗呼が非難したなんて恨み言は、記事の順序からして有り得ない。 岩元という名からして、薩摩氏族の出身だろうな。
どうやら、中国語の倭人伝を日本語の記紀などと同一視して、日本語の語順で無理やり読んでるようだ。
解読ハチャメチャ、その本音は薩摩長州体制の擁護。 北京大学医学部名誉顧問 岩 元 正 昭
医学部ねえ・・・ 北京大学日本研究中心編「日本学」に掲載された論文です >>409
北部だったら畿内説と一緒で
倭人伝の記述と絶対に合わないよ 漢字は生き物であり時代と共にその本義を変える
(これを漢字の引伸と言う)というところはおおいにきにいった 漢字文化圏は多数のローカルなサブ文化圏により構成される
ローカルなサブ文化圏はそれぞれが
ローカルな漢字キャラクターセットをもっていて
ローカルな漢字音をもっていて
ローカルな漢字使用ルールをもっている
これは東夷伝中に陳壽が書き残してくれているわけだが
そこいらへんのところを読み取れていないのはまことに残念 岩元学説は一見の価値あり、だね
どう思うかは人それぞれだが 漢字については詳しそうではあるんだが、はてさて判断は難しい 岩元引伸学説は一見の価値あり、どう思うかは人それぞれだが >倭人伝に「邪馬壹國、女王之所都」と書かれている。
この「邪馬壹國」は「邪馬台国」の事であり
始まりのところから先入観に支配されている >誤訳の「都」字 と題して
>「都」字を『説文解字』で調べると、
「都とは旧宗廟の有るを曰う」と書かれている。
誤訳の「都」字の再誤訳をやらかしている >>584
南部にこれと言った遺跡が無いよね
金印が見つかったのは北部だから
古代から北部に中心勢力があったのは事実だろ
その南だから
吉野ヶ里辺りで良いんじゃね? >>592
水行10日
松浦から吉野ヶ里まで海が無い 南側に狗奴国があるのだから、邪馬台国が南部だったら狗奴国が海の上に出てしまう。
そんな伝承も遺跡もない。
肥国(有明海沿岸)ならそこそこ遺跡もある。
吉野ヶ里もその一部だっただろうと思われるが、特別なわけではない。
狗奴国と邪馬台国の間の争いがどの程度の武力衝突を伴っていたかは確かに不明だが、実際に筑後平野に先頭の痕跡がある。
本質的には卑弥呼と卑弥弓呼のお家騒動だと思うけど。 >>596
それは宮崎康平が言い出した説だけど
それならわざわざ末廬国を通らず糸島を起点に吉野ヶ里まで行けば良いわけで
どう考えても吉野ヶ里は無いよ >>598
>だったら狗奴国が海の上に出てしまう。
出ない出ない邪馬台国は中南部、クナコクは南部、境界の尽きる所だから背中合わせだったんだよ 熊本南部、鹿児島北部、宮崎北部
ここから絞りこんで行けば良いと言う事でOK? >>596
>>>595
>有明海が博多まで繋がってた
それはないことが地質学的に示されている。縄文時代の海岸線でも博多湾と有明海は繋がっていない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています