♪邪馬台国ドンと来い!♪142
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前スレ
♪邪馬台国ドンと来い!♪141
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537964681/l50 >>103
なんか、メンテ中は削除されましたと表示されます。
先々代の永島宮司が亡くなったのが平成22年でその時娘さんが就任なので、寄進はそれ関連では無いようですね。 >>100-101
時間おいても見れないから貼り直しキボンヌ
5ちゃん推奨アップローダー
↓
https://imgur.com/ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>108
e52mrobって内側からだよね?
石灯籠が鳥居から抜ける道を半分近く塞いでるのは変な感じだね
宗像大社の分社的側面があるっぽいから神様の通り道は上(神は降りて来て登り帰る)なんだろうけど
単に寄贈した人がオーバーサイズな鳥居を贈ったのかな? あと漁始めの神事を行う神社なのに海側に背を向けてるのも変な感じ
もっと内陸に建立されてる宗像大社も高宮祭場も海を向いてるのに
>>108は何年前からこの神社の存在を認識してたの? エクソシストなことする神社仏閣はだいたい背乗り(由緒乗っ取り)と聞く 正直な気持ちを書いて良いか?
万津浦ネタもう飽きた >>109
内側からです。おそらく元々の参道は石段の幅だったのではないでしょうか。
その後現在の幅に拡幅したが、石段までは作り直さなかったとかで。画像の鳥居に向かって右側にあるお宅の車庫の関係でしょうかね。
で、鳥居は石段ではなく拡幅後の参道に合わせたとかで。
向きに関しては確かに海と逆方向向いてるのは珍しいですよね。
他に知ってるとこだとは鐘崎の織幡神社や住吉神社(博多区)くらいですかね。
年毛神社をちゃんと認識したのは5〜6年前くらいです。近所の神社の御神職がおじいちゃんから女性に変わったので参加者同士の雑談から年毛神社から来られていたと判明。
その翌月に宗像末盧国説の方と出会いいろいろ調べてたら永嶋文書に行き当たったので現地に行ってみた。
といった流れですので5年以上前のことは直接はあまりわかりません。 30年くらい前に流行りだしたと言えば
http://chindera.com/fukuoka-onituka.html
鬼塚観音がありますね。この山門は私が車に乗り出した頃真新しかったので、三十数年前に作られたのかもですね。
珍宝地蔵とか珍宝神社と呼ぶ方も居るので、年毛神社を「しも神社」と聞き間違えたんかな。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>114
博多の住吉神社は元々海側を向いている
あそこは黒田家が来るまで冷泉津に突き出た鼻で西北南を海に囲まれてた >>114
博多住吉さんは>>117の指摘どおりだが、興味深いのは海に背を向けてる件の年毛と織幡が本来は安曇の社で、現在は宗像大社に摂収されている点
筑紫平野北部に多くの痕跡を残すオオワダツミ信仰VSオオヤマツミ信仰や、それを引き継いだ後の真言宗VS天台宗にも関連してそうだ
ちなみに年毛神社に関しては延喜式神名帳はおろか近代社格制度にもその名がないことから昭和期かどうかは別にしても近世までは神社ではなかったが正解かと 博多の民俗学マニアがゾロゾロと・・・
ここは邪馬台国スレなんだけどな >>108
オーバーサイズな鳥居と参道の邪魔してる石灯籠の寄贈者、森下章一と森下健一から何か探れるかと思ったがダメだった
先々代が老人で先代がその娘、現役は婿養子? 万津浦伝承って永島文書以外にないんだろ?
もう終わりでいいじゃん >>120
そうですね。
現宮司が養子になったかまでは未確認ですが、某大社から新宮司を迎えるとのことでした。 >>122
ちょっとオカルトに深入りし過ぎでは?
歴史研究なんて趣味の範疇なんだから無理しちゃ駄目よ 万津浦が末盧国以来の地名だったら、永島文書一つしか伝承が
残ってないっていうのが無理な想定 オッス!邪馬台国ヲタのみんなー
元気してっかー?
ほぇー、福岡には永嶋文書なんつーモンのがあるんか!
昭和初期に写本したっつーんならウエツフミの安藤文書(大分)とか九鬼文書(京都)とか竹内文書(富山県)とか宮島文書(山梨県)とか阿部文書(大分)とか幣立文書(熊本県)とか
いっぺーあるもんな!
オラ、頭悪りぃからブンショウなのかモンジョなのかも分かんねーんだ(笑)
ワケ分かんねーけど、なんかオラ興奮すっぞ!
興奮するっつったら日本が!そして世界が待ち望んだ!映画「ドラゴンボール超 ブロリー」がいよいよ12月14日に公開すっぞ!
TV版『ドラゴンボール超』の終盤「力の大会」の、その後を描いた作品なんだけど、みんな「力の大会」覚えてっか?
あちゃーっ!覚えてねーのか! でも心配すんな
今日9:00〜10:00に「力の大会」のクライマックスだったテレビ版『ドラゴンボール超』の第130話と131話を振り返ると共に映画「ドラゴンボール超 ブロリー」の最新映像などを大放出する特番『映画「ドラゴンボール超 ブロリー」公開直前!TV版クライマックス振り返りSP』が放送されるんだ
オラとオラの永遠のライバル、ブロリーとの最後の戦いになっから、ぜってぇ観てくれよな! >>127
後半がマジ告知で笑った
今から見るわ(笑) >>123
ありがとうございます。
ただ、私も>>127での他のオカルトネタ程度の物という認識です。
年毛神社は昭和末期まで無かったとか津屋崎は福間とか、すぐわかる嘘書いてまで否定する輩が居るからおかしい部分を訂正しただけで。 >>129
オカルトって認識してて安心した
それにしても根に持ちすぎw 宗像が末盧国とした場合、勝浦が一番、倭人伝の記述に近いと私も考えています。
神湊や釣川遡上だと景観がちょっと合わないし、鐘崎だと田熊までちと遠いくらいの理由ですが。 >>134
>景観がちょっと合わない
完全に感情論やんけ >>135
そうだよ。
だから現地をきちんと見た上で、もっと記述に近いと思える所があればそこに変わると思うよ。 >>129
小呂島ルートはこれまでの検証によって非現実的とされ、万津浦はオカルト扱いされ、それでも勝浦が末盧国説を続けるのかな? >>134
>宗像が末盧国とした場合、勝浦が一番、倭人伝の記述に近いと私も考えています。
福津・宗像辺り=末盧国だったらどこでもいいんじゃないの? @阿波 末盧国を一大国の東に比定するのって
「又渡一海千餘里、至末廬國(また海を1000余里渡り、末廬国に至る)」と方角が記されてない隙を突いた理論だと思うが、
「又渡一海千餘里」の前に「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國(また南に瀚海という名の海を1000余里渡ると一大国に至る)」とある
通常の感性であれば「南に千里海を渡りました。また更に海を渡りました。」とあれば、更に進んだのは南と考えるべきと思う
進路を東に取ったのならその方角を記す理由が存在するはず
意図的に方角を残さなかった、書き忘れた、可能性は否定しないが、あえて南に進ませない理由が見当たらない
この辺りを末盧国=福津・宗像論者の方はどのように整合性を取っているのか? >>139
>あえて南に進ませない理由が見当たらない
だって、対馬海流に流されて南に進めない と、何度言えばw @阿波 >>140
東水道の海図見てから再レスしてくれないか? >>141
>東水道の海図見てから再レスしてくれないか?
それがなにか? @阿波 >>142
海図を見れば>対馬海流に流されて南に進めない 理由がない >>143
>海図を見れば>対馬海流に流されて南に進めない 理由がない
海図ってなに?
これを見れば対馬海流に流されて南に進めない 理由がわかる。 @阿波
時間毎
http://le-web.riam.kyushu-u.ac.jp/radar/current-map/ >>147
南下するなら潮流の影響を受けない
というか東に寄ったら流されてしまうから
流されないためには南下するしかない >>139
単に、又南は対馬に対しての又で、末盧国の方は又海を千里という意味に受け取っています。
最初に千里海渡れば対馬ですよ。また南に千里渡れば壱岐ですよ。又千里海渡れば末盧国ですよ。
で、あとは距離と描写、その後の国の方位&距離の整合性(南の方に船出できる位置に不弥国を比定できる)。
なので、伊万里説や、吉野ケ里奴国説も私の場合は、有りと考えています。
>>137
小呂島も永嶋文書は別に無くても問題無い。単に、こういった物もありますよというだけ。
阿波氏に質問ですが、海流に流されるからはまぁ良いのですが、帰りはどうされたとお考えですか? >>150
>阿波氏に質問ですが、海流に流されるからはまぁ良いのですが、帰りはどうされたとお考えですか?
帰りも、対馬海流を利用します。
元寇の船が沈んだ鷹島辺りが出航地でしょう。 @阿波 >>151
ありがとうございます。
>>139
>>149のようにスタート時には南下するからというのも有り?
定説派の唐津なり呼子なりから東南に向かって出発しただけだから実際の方角は真東や東北でも問題無しってのが有りなら有りかなと。
さっき思いついただけですが。 >>152
自分は伊万里推しの海男なんだが
個人用(24-30ft.定員10人前後)のヨットでもエンジン付きのプレジャーボートでも
基本的な航路はフェリーや漁船と同じルートを用いる
そしてジブのないヨットやウインドサーフィン(力学的には唐のジャンク船に近い)や
シーカヤックという手こぎボートの場合は>>30が書いたように
島伝いと海岸沿い(海岸線から10Km以内)が鉄則
そして操舵とは潮に流されないことが前提
手こぎ推進派は推力がないからこそ潮に乗るという解釈をしているが
潮に乗ることが出来るのは唐以降のキール船で
唐以前の平船は流されることしか出来ない
帆船であれば平船でも喫水が浅いので
ウインドサーフィンのように海面を滑れるので不可能ではないが
木組みの船なので難破するほどのダメージを受けることになると推測する
房総半島で発見されているような偽竜骨のある丸木舟なら潮に乗れる可能性もなくはないが(関野吉晴説)
魏船が丸木舟とは考えにくい
そうなると潮目の出ない郷ノ浦から鷹島を目指した南ルートが最も安全性が高い
宗像方面に用事があるのなら陸路で行くほうが安全
特に思い入れもないが
安全なルートをたどリながら一大国から70Km圏内に比定できる港が伊万里しか見当たらなかった >>153
>手こぎ推進派は推力がないからこそ潮に乗るという解釈をしているが
>唐以前の平船は流されることしか出来ない
「潮に流される」=「潮に乗る」ってことだよ。 @阿波 >>154
それは笑われてんのに笑わせてると嘯く三流芸人と同じ発想 >>156
危険という意味じゃなく距離が足りないのでは? >>154
それはさすがに>>155の言うように詭弁でしかない
潮に乗るのは操舵技術だが
潮に流されるのは漂流
>>156
魏使の目的を冒険ではなく
確実に人員と荷物を運ぶ事だとするなら
加唐島を座標に名護屋浦に入るか
馬渡島を座標に鷹島を経由して伊万里湾最深部に入るか
的山大島を座標に平戸に入るか
の三択しかないと自分の海洋経験上は感じた
この三つの航路の中で
70km以上77km未満の港は伊万里最深部だけだったということ >>160
ちっとは自分でグーグルマップ扱えよ
きっとツインターボエンジン2個積んだ船で爆直進したら佐世保まで70キロで行けるぞ >>161
>魏使の目的を冒険ではなく
>確実に人員と荷物を運ぶ事だとするなら
>加唐島を座標に名護屋浦に入るか
>馬渡島を座標に鷹島を経由して伊万里湾最深部に入るか
>的山大島を座標に平戸に入るか
>の三択しかないと自分の海洋経験上は感じた
>
>この三つの航路の中で
>70km以上77km未満の港は伊万里最深部だけだったということ
とあったから
平戸は近過ぎるという評価だと思ってその先に進んだらどうかを聞いただけだ。
直進しないと77kmに収まらないなら平戸が近過ぎるわけではなかったんだな。 >>160
佐世保のどこを末盧国に比定するかだと思う
自分の検証だと
矢岳浦-小佐々浦あたりが限界だと結論づけた
しかし縄文終盤期から弥生期の発掘が目立つのは
相浦以東なので難しいと考える
>>161
ツインターボガソリンエンジンを二機搭載する船となると
郷ノ浦から70Km爆進したら
ガソリン代が15万円くらいになるので
魏使は相当な出費になるでしょう(笑) >>163
なんでガソリンエンジンにした?
免税ディーゼルに決まってんだろ さーみなさーん! 今から「また」一大国に向けて「南に」出発しますよー
↓
どんぶらこっこどんぶらこ
↓
はーい壱岐に着きましたー長旅ごくろさまでーす
↓
どんぶらこっこどんぶらこ
↓
さみなさーん!今から「また」末盧国に向けて出発しますよー
↓
どんぶらこっこどんぶらこ←なぜ急に東に向かうか? >>158
>潮に乗るのは操舵技術だが
>潮に流されるのは漂流
船の向きをコントロールしながら、潮に流されることを何と言うのかね?
それは、
「潮に流されながら、船の向きをコントロールする」=「潮に乗る」ってことだよ。 @阿波 >>165
>どんぶらこっこどんぶらこ←なぜ急に東に向かうか?
わざわざ遠い東に向かったわけじゃないよ。
対馬海流に流されて、福津・宗像方面に着くだけ と、何度言えばw @阿波 >>166
詭弁は聞き飽きたと何度言えばwww
溺れながら泳ぐって言ってんのと同じだぞ >>166
>>153
↑にちゃんと書かれてるのに意図的に無視するのは良くない
>そして操舵とは潮に流されないことが前提
>手こぎ推進派は推力がないからこそ潮に乗るという解釈をしているが
>潮に乗ることが出来るのは唐以降のキール船で
>唐以前の平船は流されることしか出来ない >>169
>>唐以前の平船は流されることしか出来ない
じゃ、唐以前は「流されて」末盧国(福津・宗像方面)に来たんだね。 どうでもいいことをwww @阿波 >>169
>>唐以前の平船は流されることしか出来ない
魏使は対馬海流に漂流して溺れそうになりながら、末盧国(福津・宗像方面)にやっとこさ、漂着しました。
↑
これでいいかい? @阿波 >>171
漂流が前提の航路は存在しないでしょ?よって福津・宗像方面に末盧国は存在しなかったで決着♪ >>172
>漂流が前提の航路は存在しないでしょ?
なんで? @阿波 >>173
溺れながら泳ぐ子をプールに送り出す親はいないでしょwww >>174
>溺れながら泳ぐ子をプールに送り出す親はいないでしょwww
溺れない子を送り出すよ。 @阿波 徐福みたいなアドベンチャー目的なら漂流前提の旅路もアリ >>175
そうでしょ
だから福津・宗像方面に末盧国は存在しなかった >>177
>だから福津・宗像方面に末盧国は存在しなかった
溺れない、操船の上手な子は、対馬海流に漂流して溺れそうになりながら、末盧国(福津・宗像方面)にやっとこさ、漂着しましたとさ、とさ。 @阿波 >>178
不可能とは言わないけど、それは奇跡でしょ
アドベンチャー目的じゃないんだからあり得ない
現実を見よう >>179
>不可能とは言わないけど、それは奇跡でしょ
ぜんぜん軌跡じゃないよ。 ほっといても末盧国(福津・宗像方面)に着くんだから。 @阿波 >>180
詭弁は聞き飽きたと何度言えばwww
溺れながら泳ぐって言ってんのと同じだぞ(2回目) >>158の魏使の目的を冒険ではなく、確実に人員と荷物を運ぶ事ってのは?
阿波さんの考える魏志の目的は? 溺れない子を送り出すよ。 と、何度言えばw(2回目) @阿波 >>183
残念なことにまだそんな子は生まれてないんだよ
残念だけどね >>183
詭弁は聞き飽きたと何度言えばwww
溺れながら泳ぐって言ってんのと同じだぞ(くどいわw) >>182
>阿波さんの考える魏志の目的は?
確実に人員と荷物を運ぶ事。 @阿波 >>184
>残念なことにまだそんな子は生まれてないんだよ
ちゃんとそんな子がいたから
溺れない、操船の上手な子は、対馬海流に漂流して溺れそうになりながら、末盧国(福津・宗像方面)にやっとこさ、漂着しました、とさ。 @阿波 >>186
> 確実に人員と荷物を運ぶ事。
だったら>漂流して溺れそうになった時点でアウトじゃんw >>189
ぜんぜんアウトじゃないよ。 ほっといても末盧国(福津・宗像方面)に着くんだから。 @阿波 >>188
>その子の存在を証明してよー
大陸の文物。 @阿波 また海人族のマッチョパワーって言い出すと思ったのに >>192
例えば?
阿波説だと河川船と海洋船は別物だったよね >>193
>また海人族のマッチョパワーって言い出すと思ったのに
残念でした。 マッチョパワーでも海流には勝てないよ。 @阿波 >>189
ぜんぜんアウトじゃないよ。 ほっといても末盧国(福津・宗像方面)に着くんだから。
だから、古代より大陸からの航路になったんだよ。 @阿波 >>196
例えば?
阿波説だと河川船と海洋船は別物だったよね >>197
>阿波説だと河川船と海洋船は別物だったよね
そんなにスパッと別れるものじゃないでしょ?
ただ、卑弥呼の時代に、外洋用の帆船がまだ開発されていないってこと。 @阿波 >>198
>大陸の文物はよしてーな
どういう意味? @阿波 >>200
3世紀の魏船が潮に流されても難破しない証明と潮に流されてもコントロールできる証明だよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています