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古代銅鏡は二十四節気の暦カレンダーだった
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0001アッシー
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2018/12/13(木) 03:08:18.21
画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡には、二十四節気暦が3年分1サイクルとして円周上に配置されている。
古代銅鏡がどのような用途で製作されたものかいろいろ説があるものの、二十四節気の農耕暦が銅鏡に配置されていると言及されたことはこれまでない。
これが事実であれば、古代の祭祀者が行った農耕祭祀とこの二十四節気暦を鋳込んだ銅鏡は、切っても切れない関係にあったことが想定されることになる。
また、祭祀王たちの棺の方位の確定や墓域の設定なども、この二十四節気暦を配置した銅鏡を用いてなされたことが推測される。
こうしたことから、二十四節気暦を配置した銅鏡のひとつ一つの実例を、これからみてみることにしよう。
0046日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/15(金) 11:08:53.29
>>45
伊勢遺跡の円周上建物の位置の図は、次の順序で見ることができる。
(ただし、このサイトの図から導く円周上建物の向う中心点と、本稿記事における建物の向う中心点の位置は異なるので、注意をお願いします)

円周上の建物の位置図

検索欄に「伊勢遺跡」と入力し、開いた画面の一番上の「伊勢遺跡 トップページ:守山弥生遺跡研究会」を開く。
次に、画面上の「ホームページ」帯の中の「伊勢遺跡」をクリック。
次に、画面左側の「サブメニュー」帯の中の「円周配列の建物」をクリック。
画面の最初に建物の位置図をみることができる。

                     続く 
0047日本@名無史さん
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2019/02/15(金) 11:28:58.51
>>46
半日かかって守山弥生遺跡研究会の紹介文しか書けないとか筆遅すぎて竹生えるケケッ
書き溜めてからにしろよ
0048日本@名無史さん
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2019/02/15(金) 21:02:26.52
>>47
ほかでも忙しいもんで。
ぼちぼちでんがな。
0049日本@名無史さん
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2019/02/15(金) 21:07:49.76
>>48
御託は良いから書き溜まるまで来るな
0050日本@名無史さん
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2019/02/15(金) 22:01:50.59
>>46
伊勢遺跡の楕円の円周上に建てられたとみられる建物のうち西側の2棟について見た。
次に、東側の建物について見てみる。

東側の円周上の建物は、3棟。
これらの東側の建物が向っている中心点から見て、その中心点を通る東西線に対して北に30度の角度の軸線上に乗っているのが建物SB9で、
この角度は2年目の二十四節気の夏至点と重なる。
次に、その建物SB9の30度の角度からさらに北へ10度進んだ40度の角度の軸線上に乗っているのは、建物SB12。
建物が向っている中心点を通る東西線に対して北へ40度の角度の軸線に重なる二十四節気は小満点なので、
建物SB12は2年目の二十四節気の小満点の方角に向けて建てられていると考えることができる。
この建物SB12は、特別にテラス状の張り出しが設けられた建物とされている。
この小満点は1年目の二十四節気から続いてきた2年目の二十四節気の小満点であるが、注目点は、実際の太陽は30度の角度の夏至点まで北上して来ると、
そこから一転して南へ折り返して秋分や冬至方向へ戻ることになるため、40度の角度の小満点には実際の太陽は進まないことになる。
それにもかかわらず、特別仕様の建物を40度の角度の軸線上に建てたということは、
二十四節気の暦上の節気である小満点の日に実際の太陽の位置とは無関係になんらかの行事を行ったと考えることができる。
二十四節気の小満点は5月21日頃で、西日本では走り梅雨が訪れる時期で、田植えの準備が始まる頃。
この小満点と重なる方角に特別仕様の建物を建てたということは、二十四節気の暦にのっとって野洲平野の田植えの準備に関わる祭事が行われたと考えることが可能であるようにみえる。

さて、次に建物SB8であるが、このSB8は伊勢遺跡の円周上の建物のうち最も興味深い建物である。
ゆっくり見ていくことにしよう。

                                  続く
0051日本@名無史さん
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2019/02/19(火) 17:07:13.70
>>50
                                  続く

建物3棟のうちの最後が、建物SB8である。
この建物は、中心点を通る東西線に対して北へ18度の角度の軸線上に乗っている。
これまでみてきたように、これらの円周上の建物の位置が、二十四節気の特定の節気の位置と重なっていることからすると、
SB8は20度の角度の軸線上に乗っていることが想定されるものである。
20度の角度と重なる二十四節気の節気は、大暑点である。大暑は一年で最も熱い時期とされている。
しかし、実際の建物SB8の位置は、その20度の角度から2度南にずれて、18度の角度の軸線上に乗っている。
そこで、この18度の角度の軸線の性質を考えてみる必要が出てくる。何か特別な事柄がみられるだろうか。
研究者が指摘しているように、この軸線をさらに先に延ばすと、その軸線上に御上神社が位置しており、さらにその先の山腹には妙見堂が位置している。
どうも、二つの寺社がこの軸線上に乗っているということは、二つの寺社の配置が意図的に企画されたものであると考えることが可能なようにみえる。
この二つの寺社のうち御上神社は著名な神社であるので、まず、この神社の位置の由来と、その祭神の由来、神祭りのあり方について見てみることにしよう。

                                   続く
0052日本@名無史さん
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2019/02/20(水) 00:44:35.49
>>52
                           続く

御上神社の社殿は、由緒によれば、養老二年(718年)に創建されたとされている。
その社殿の場所は、元々は三上山を遥拝する所だったとされる。
では、三上山の神はどのような神か。
御上神社の主祭神は天之御影命で、三上山の奥宮では天之御影神が祀られている。
由緒によれば、孝霊天皇六年六月十八日(旧暦)に、天之御影神が三上山山頂に降臨した。
天之御影神の字義は、太陽の光の神ということになる。
旧暦6月18日は、新暦では7月20日に当たる。
旧暦6月18日にその山上で神降ろしの祭事が行われ、山上祭と呼ばれている。
そのあと、天之御影神は麓の御上神社に迎えられて祀られるが、これは影向祭と呼ばれている。

円周上の建物が二十四節気の特定の節気と重なる方角に建てられていることをこれまで見てきたが、
天之御影神が降臨した7月20日は二十四節気と関連するだろうか。
二十四節気に関連するとすれば、7月20日前後では、大暑点がみられる。
一年で一番暑い時期が大暑で、7月22日、23日頃が大暑の初日である。
とすれば、7月20日に太陽の光の神が山上に降臨して麓の神社に迎えられ、その後の数日の神祭りの間に暦上の一年で最も暑い時期がスタートすることになる。
気温の上昇と稲の発育は相関関係があるので、7月20日に太陽の光の神が降臨することと、それが二十四節気の大暑の初日の7月22日、23日の直前であることは、
関連があると考えることが可能だ。
しかしながら、御上神社を通る軸線の角度は大暑点を指す20度ではなく、大暑点よりさらに2度進んだ18度の角度なのである。
この2度のずれは、どのように考えるのが良いだろうか。

                             続く
0053日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 02:35:46.12
>>52
                            続く

ここで、近畿地方の気温の推移を見てみることにしよう。
近畿地方の梅雨明け平年日は、7月21日である。
そして、梅雨明けして太陽光が直射することに伴い気温が上昇するが、梅雨明けまえの30度から一気に1度上がる31度が記録されるのは7月25日からとなる。
二十四節気の大暑の初日は、この間の7月22日、あるいは23日である。
このことを御上神社の祭礼と重ねてみると、天之御影神が三上山に降臨するのが7月20日で、近畿地方の梅雨明け平年日が7月21日である。
そして、その二日、あるいは三日後の7月22日、23日に二十四節気の一年で最も暑い時期の始まりである大暑の初日を迎えるが、
実際に近畿地方で31度の最も暑い時期が始まるのは、7月25日以降になる。
ここで、御上神社を通る軸線の角度をみると、大暑点の角度である20度より2度南へ進んだ18度であり、この2度の角度は日数では6日に当たり、大暑点の7月22日、あるいは23日から6日後の28日、或いは29日になる。
つまり、御上神社を通る軸線は、実際に野洲平野の気温が一気に上昇して真夏日を迎える頃と重なり、18度のその軸線は二十四節気の暦日ではなく、実際の野洲平野の気温上昇合わせてに設定されたものだと考えることが可能になる。
このように考えれば、この18度の角度の設定は、実際に三上山の神を遥拝して行う祀りのための場所をそこに置くために決められた方位であり、その方位を示すために建物SB8が18度の軸線上に建てられたということが推定されるのである。
これは、西側の円周上の建物SB5が、二十四節気暦の冬至点よりも2度進んだ実際の冬至の日没の方位に合わせて建てられているのと同じであり、一年で最も暑い時期の始まりに行う祭祀と実際の気温の上昇とを合わせた結果であると考えることが可能だ。

                              続く
0054日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 04:53:20.04
>>53
                                続く

このように、円周上の建物SB8が二十四節気の大暑点から2度の角度、日数で6日分南へ進んだ軸線上に建てられていることの理由付けはできたと考えるが、
しかし、御上神社の祭神を祀る山上祭、影向祭が行われる旧暦6月18日(新暦7月20日)が、近畿地方の梅雨明け平年日と重なることを考えると、
祭神天之御影神の降臨の祀りは梅雨明けと伴に姿を現す太陽と二十四節気の暦上の大暑に関連する祭事であると考えることができる。
そうすると、暦上の大暑点から6日後の軸線上に建物SB8を建てて、実際の最も暑い時期の方位を現し、
その象徴的な軸線上で7月20日の梅雨明けを意味する御影神降臨祭やそのあとの2、3日の間の御影神(大暑神)を祀る祭事を執り行ったと考えると、
実際にはその祀りの時期はまだ最も暑い時期にはなっていず、軸線は最も暑い時期を象徴しているだけということになる。
それであれば、軸線は大暑点と重なる20度の角度の軸線上にSB8を建てるのが当然ということになる。
しかし、実際は、SB12やSB8は大暑点から2度南にずれた角度の軸線上に建てられている。
この2度ずれた軸線に主眼を置いた場合、梅雨明けによる御影神の山上への降臨の祀りや、麓での影向祭は軸線とは関係なく7月20日に行い、
実際に最も暑い時期の到来を表す二十四節気の大暑初日の祀りは大暑点の7月22日、あるいは23日から6日後の7月28日、あるいは29日に建物SB8に向かって行ったのかも知れない。
この考えのほうが、合理的だ。
西側のSB5が実際の冬至の日に合わせて、暦の冬至点よりも2度ずれた28度の角度の軸線上に建てられているのと同じである。
しかしながら、現在、御上神社でこの日に行う祭事はない。
元々は最も暑い時期に行う祭事があったが、7月20日の降臨祭のあとに行う御影神の祭祀に集合し、元々の大暑の祭祀は失われたのだとするのが正しいのかも知れない。

                               続く
0055日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 05:02:23.34
>>54
訂正

上から13行目の「SB12や」は、削除します。
0056日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 05:19:03.02
>>54
                    続く

以上により、伊勢遺跡の円周上の建物が、二十四節気の特定の節気と重なる角度の軸線上に建てられていることを明らかにした。
伊勢遺跡の円周上の建物が、3年分の二十四節気暦に基づいて配置されていると考えることは、十分に可能である。
これは、纏向遺跡の墓域の設定や大王級の墳墓の位置決定が、3年分の二十四節気に基づいて行われたと考えるのと同じ
あり方であると思われる。

さて、二十四節気暦が用いられた祭祀場の例として、いよいよ最後に筑後山門のケースを取り上げることにしよう。
筑後山門は、卑弥呼の宮室のあった所として比定される有力候補地の一つである。

                     続く
0057日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:21:33.06
>>54
追加

建物SB8の位置が大暑点から2度南にずれていることについては、中心点から20度の角度の軸線と重なる二十四節気の大暑点の祀りを、
実際に気温が上昇する7月28日、29日頃にずらして行ったことを表している、と考えるのが良いようだ。
そして、この時代には、まだ天之御影神は創出されていず、三上山の神は別にいて、
その神の祀りは円周上の建物とは関わりなく行われるものだったのではないか。
やがて、伊勢遺跡が廃絶したのちに、2度ずれた大暑の祀りを基にした最も暑い太陽の光の神が創出され、
三上山の元々の神と習合して、梅雨明けと伴に降臨する大暑の神となり、梅雨明けの7月20日に山上から麓に迎えられ、
その祀り期間中の大暑日にも祭祀が続けられるようになった、ということではないか。
この考えかたのほうが、合理的なように思える。

御上神社の社殿の位置は、建物SB8の軸線を三上山の麓まで延ばしたものととらえるのが妥当だろう。
ということは、建物SB8が解体されたあとも、何らかの標識が残されていた可能性を考えることができる。
0058日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/02(土) 15:52:47.71
>>57
追加2

御上神社の社殿が建てられているその場所が、建物SB8の軸線をそのまま三上山の麓にまで延長した位置であることは、
その方位に向けて一年で最も暑い日の祀りが行われたことについての記憶がこの地域の人々に残っており、
後に創出された大暑の太陽の光の神である天之御影神の由来とリンクする場所が御上神社の社殿が建てられたその場所であったということである。
つまり、一年で最も暑い7月28日、あるいは29日の太陽の光が収納された建物SB8が、そのまま三上山の麓にまで移動したのが御上神社の社殿だということになる。
天之御影神が7月20日に三上山の山上に降臨したあと、麓の御上神社の社殿に迎えられて神祀りが行われるが、
これは建物SB8に降臨して収納された一年で最も暑い日の太陽の光を伊勢遺跡の祭殿前の中心点に移して行ったと考えられる祭祀と同じパターンである。
ただ、祀りの日程が異なっているだけである。
後代には、実際の暑い太陽の時期に合わせる必要がなくなったということであろう。
0059日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 10:33:18.40
畿内説スレで、畿内説のアホが喚いてたのがコレか
0060日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/14(木) 11:53:58.87
>>59
わざわざここまで来て、ご苦労なこった。
どうだ、画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡が3年分1サイクルの二十四節気暦の実在が分かっただろ。
近江や纏向の祭祀者たちは、この銅鏡を基に季節の到来を予測して、祭祀の準備に余念がなかったのだ。
この3年分1サイクルの二十四節気暦が、筑後山門でも用いられていたことを、これから示していく。
卑弥呼の山門は、壮大なスケールの祭祀ワールドだったことが分かるだろう。
わははははは。
0061日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/14(木) 12:18:02.79
>>60
以上にみてきたように、3年分1サイクルの二十四節気暦が弥生後期の近江伊勢遺跡で用いられていて、それに続く弥生終末期の大和の纏向遺跡でもまったく同じ3年分1サイクルの二十四節気暦が用いられていた可能性は極めて高い。
さてでは、九州筑後の山門ではどうか。
筑後山門は魏志倭人伝が伝える倭國女王卑弥呼の祭祀所があったところと比定される候補地の一つである。
近江の伊勢遺跡や大和の纏向遺跡は、野洲地方の祭政の中心地であり大和の祭政の中心地であったことが考古学で推定されている。
二十四節気暦がそうした連合勢力の中心地の祭政に用いられたとすれば、倭國の都に比定される筑後山門でもこの二十四節気暦が用いられていた可能性は高い。
そこで、大和纏向遺跡や近江伊勢遺跡で用いた中心点から二十四節気の各節気の方位を設定する方法を筑後山門にも適用すれば、どのような結果となるかみてみたのが以下のデータである。
この山門の場合は、伊勢遺跡や纏向遺跡のように柱穴などの発見はまだないので、遺跡の存在やその年代については不明である。
しかし、3年分1サイクルの二十四節気暦が用いられていた可能性は極めて高い。
山門は壮大なスケールの祭祀ワールドだ、とみなすことが可能である。
以下にそれをみていくことにしよう。

                                          続く
0062日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/14(木) 17:08:18.34
>>61
まず、検索欄に「緯度経度を求める」と入力し、開いた画面の上から3番目の「googleマップで緯度経度を求める」を開いて、地図を拡大して北部九州のみやま市に移動する。
そして、北緯33度8分55秒、東経130度29分20秒の位置に東西南北を示す赤色の十文字印を置く。
さらに微調整し、国道443号と778号が交差する吉井信号から北へ約80mほどの国道443号の東側すぐの場所に十文字印を置く。
ここが中心点となる。卑弥呼の祭祀所があった場所と推定できる地点だ。
この地点が、纏向遺跡の大型建物Dの中心点、また伊勢遺跡の円周上の建物が向っている中心点と同じ役割を持った場所になる。

この地点から東西線や南北線に対して上下左右の5度の角度を1単位とすることは、纏向遺跡と伊勢遺跡の場合と同じ。
そして、中心点から特定の角度の軸線上に乗る対象物は、神社と山とする。
纏向遺跡の場合は、この対象物は大王級の墳墓であった。
伊勢遺跡の場合は、円周上の建物であった。
伊勢遺跡の東側の円周上の建物SB8が乗る中心点からの軸線をさらに延長すると、その軸線上に御上神社が乗っていて、
この軸線上に御上神社が建てられたことは建物SB8が意味した事象を実現するために建物が建てられたことを意味していると推測できた。
何らかの標識が中心点とSB8の建物跡に残されていて、御上神社が建てられた位置を示すことができたのではないかと考えられる。
その標識は、円周上の建物の場合、心柱と呼ばれる柱ではなかったかと考えることが可能だ。
そして、吉井の中心点からの特定の角度の軸線上に神社が乗っていることについても、同じ方式が用いられたと推測することができる。

さてここで、吉井の国道脇に想定した中心点からの軸線上に乗る対象物の角度と、この角度に重なる二十四節気の各節気を逐一挙げて行くことにする。

                                  続く
0063日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 14:09:26.24
>>62
ここに挙げる神社の所在場所は、「googleマップで緯度経度を求める」の地図上の神社マークによる。
また、その神社名は「ヤフー地図」による。
そして、吉井の中心点からみた神社や山岳の方位角度の最初の起点は、日没方向の冬至点とし、この冬至点を0度と設定する。

1 諫早市多良岳(0度=西側東西線に対して南へ28度。この28度の角度は実際の太陽の沈む冬至点であり、暦上の冬至点である30度の角度とは異なる) 冬至
2 若宮神社(0度より北へ15度) 立春
3 不詳神社(0度より北へ30度) 春分
4 日吉神社(0度より北へ35度) 清明
5 日吉宮(0度より北へ45度) 立夏
6 天満宮(0度より北へ55度) 芒種
7 正八幡宮、八坂神社(0度より北へ59度=実際の太陽が沈む夏至点。暦では60度が夏至点となる。神社が2社同じ軸線上に乗っており、また正八幡という正の字が意味深である) 夏至
8 下庄八幡神社(0度より北へ65度) 小暑
9 廣田八幡宮(0度より北へ80度) 暑処
10 八幡宮(0度より北へ90度) 秋分
11 八幡宮(0度より北へ105度) 立冬

ここまでが神社と1年目の二十四節気の各節気が重なる範囲。
そして、2年目の起点となる暦上の最初の冬至点には神社はみられない。
神社と2年目の二十四節気の節気が重なっているのは、次の通り。

                                    続く




12 天満宮(0度より北へ130度)
0064日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 15:55:01.28
>>63
12 天満宮(0度より東へ130度) 立春
13 天満宮(0度より東へ140度) 啓蟄
14 天満神社(0度より東へ160度) 立夏
15 古塚山(0度より東へ180度=この古塚山は、0度の冬至点の諫早市多良岳の対極にある山で、
夏至点の角度と重なっているのであるが、多良岳が東西線から南へ28度の角度にあり、
実際の夏至の太陽が沈む日没の角度と重なっているのに対し、古塚山は東側の東西線から北へ30度の角度となり、
ちょうど暦上の夏至点に重なることになって、実際の夏至点の太陽の日の出の角度とは異なるのが注目点となる) 夏至
16 天満宮(0度より東へ190度) 大暑
17 清水山(0度より東へ200度) 暑処
18 諏訪神社(0度より東へ210度=諏訪神社の位置は210度より僅かに北にずれているが、これは立地する地形上の理由によるものだろう) 秋分
19 八満宮(0度より東へ225度) 立冬

ここまでが、神社と2年目の二十四節気の各節気が重なる範囲となる。

                                       続く
0065日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 16:18:25.17
>>64
ここからが、神社と3年目の二十四節気の各節気が重なる範囲となる。

20 春日大明神(0度より南へ245度=この240度の角度は暦上の冬至点と重なっており、対極にある7番目の正八幡宮の角度が東西線から北へ29度となっていて、
実際の太陽の夏至の日没角度に重なっているのとは異なっているのが注目される)) 冬至
21 不詳神社(0度より南へ245度) 小寒
22 天満宮(0度より南へ255度) 立春
23 天満宮(0度より南へ260度) 雨水
24 老松宮(0度より南へ265度) 啓蟄
25 老松宮(0度より南へ280度) 穀雨
26 屋須田神社(0度より南へ295度) 芒種
27 森山宮(0度より西へ305度) 小暑
28 阿蘇神社(0度より西へ320度) 暑処
29 天満社(0度より西へ325度) 白露
30 天満神社(0度より西へ330度) 秋分
31 大江天満神社(0度より西へ350度) 小雪

以上で3年分の二十四節気が一巡する。
この二十四節気の各節気に重なる神社数は28社となる。
これに山岳3峰を加えると、総計31山社を数える。
一方、このぐるり一帯に建立されている神社総数は51社を数えるので、二十四節気の節気が重なる28社の割合は55%となり、
山門周辺の神社の2社に1社が吉井を中心点とする二十四節気の各節気と重なっていることになる。
これは驚くべき確率であり、統計的にほぼ間違いなく有意の配置と言える数値である。
つまり、偶然ではないことを示している。

                              続く
0066日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 18:49:46.17
>>65
さて、この28社の立地をみると、吉井の中心点から見てぐるり360度内に分散してるが、いずれも全ての神社が集落内の立地となっている。
二十四節気の3年暦が用いられたと考えられる近江の伊勢遺跡や大和の纏向遺跡が人の住まない施設としての立地であるのに対し、
この山門のケースは人が暮らす集落と密に関係した立地であるとみられる点が明確な相違点となっている。
この集落内の神社について、吉井の中心点との関わりをどのように見ればよいだろうか。
まず、神社そのものについては、近江の伊勢遺跡の建物SB8の軸線を延長した場所に御上神社が建てられているケースが参考になる。
中心点と建物SB8の跡には何らかの標識が設けられていて、その軸線の延長線上の山の麓が山の神の遥拝所となっていて、その遥拝所の場所に神社が建立されたという経緯が考えられる。
山門の場合も、吉井の中心点と神社のある位置とに何らかの標識が設けられていて、その標識の跡に後代になって神社が建立されたということが考えられる。
その神社も時代によって新たに建て替えられたと推測できる。
というのも、八幡神社の社名は6世紀後半以降に現れ、天満宮の社名は10世紀初頭以降に現れるからである。
したがって、元々はそこに何らかの標識が設けられていて、中心点の標識と関わる場所であると認識されていたたと考えるのが妥当であり、
後代になってその場所に神社が建立されたということが考えられる。

この考えに沿って推論すれば、農耕暦である二十四節気に基づく特定の節気が山門地域のぐるりにわたる集落にそれぞれ配分され、
その節気の内容に基づく農耕祭祀が中心点の祭祀所で行われると伴に、該当集落でも盛大に祀りが行われたというイメージを描くことができる。
また、山門地域の集落の大部分は水田域にあることを考えれば、その祭祀は水田の稲作に関わるものであったことは十分想定できるのである。
そうした祭祀所や集落での祭祀が二十四節気の節気に従って次々と行われて行き、山門地域の集落のまとまりの求心性が高められたことが考えられる。
そして、その集落の祭祀は、3年に一度巡ってきたのだろう。

                                続く
0067日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 19:08:57.31
>>66
このように、吉井の中心点からの二十四節気の軸線が山門のぐるり一帯の28集落に向けて放射され、壮大な農耕祭祀のワールドが形成されていたことがイメージされる。
こうした二十四節気の3年暦が画文帯神獣鏡に鋳込まれ、弥生後期後半に各地で活用されたとすれば、吉井の中心点に卑弥呼の祭祀所を設定することは可能であり、倭人伝が記述した卑弥呼の祭祀のリアルな姿を描くことができる。
また、この時期には、大和の纏向でも二十四節気を用いて農耕祭祀が行われ、また大王の墓域の設定やその墳墓の位置の決定が行われていたとすることができる。
つまり、このように、弥生後期後半から終末期にかけては、銅鏡に鋳込まれた二十四節気3年暦を基にした農耕祭祀が、それぞれの拠点地域において活発に行われていたことを推定することができるのである。
0068日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/31(日) 20:36:03.20
>>67

                                (お終い)
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