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古代銅鏡は二十四節気の暦カレンダーだった
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0001アッシー
垢版 |
2018/12/13(木) 03:08:18.21
画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡には、二十四節気暦が3年分1サイクルとして円周上に配置されている。
古代銅鏡がどのような用途で製作されたものかいろいろ説があるものの、二十四節気の農耕暦が銅鏡に配置されていると言及されたことはこれまでない。
これが事実であれば、古代の祭祀者が行った農耕祭祀とこの二十四節気暦を鋳込んだ銅鏡は、切っても切れない関係にあったことが想定されることになる。
また、祭祀王たちの棺の方位の確定や墓域の設定なども、この二十四節気暦を配置した銅鏡を用いてなされたことが推測される。
こうしたことから、二十四節気暦を配置した銅鏡のひとつ一つの実例を、これからみてみることにしよう。
0061日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/14(木) 12:18:02.79
>>60
以上にみてきたように、3年分1サイクルの二十四節気暦が弥生後期の近江伊勢遺跡で用いられていて、それに続く弥生終末期の大和の纏向遺跡でもまったく同じ3年分1サイクルの二十四節気暦が用いられていた可能性は極めて高い。
さてでは、九州筑後の山門ではどうか。
筑後山門は魏志倭人伝が伝える倭國女王卑弥呼の祭祀所があったところと比定される候補地の一つである。
近江の伊勢遺跡や大和の纏向遺跡は、野洲地方の祭政の中心地であり大和の祭政の中心地であったことが考古学で推定されている。
二十四節気暦がそうした連合勢力の中心地の祭政に用いられたとすれば、倭國の都に比定される筑後山門でもこの二十四節気暦が用いられていた可能性は高い。
そこで、大和纏向遺跡や近江伊勢遺跡で用いた中心点から二十四節気の各節気の方位を設定する方法を筑後山門にも適用すれば、どのような結果となるかみてみたのが以下のデータである。
この山門の場合は、伊勢遺跡や纏向遺跡のように柱穴などの発見はまだないので、遺跡の存在やその年代については不明である。
しかし、3年分1サイクルの二十四節気暦が用いられていた可能性は極めて高い。
山門は壮大なスケールの祭祀ワールドだ、とみなすことが可能である。
以下にそれをみていくことにしよう。

                                          続く
0062日本@名無史さん
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2019/03/14(木) 17:08:18.34
>>61
まず、検索欄に「緯度経度を求める」と入力し、開いた画面の上から3番目の「googleマップで緯度経度を求める」を開いて、地図を拡大して北部九州のみやま市に移動する。
そして、北緯33度8分55秒、東経130度29分20秒の位置に東西南北を示す赤色の十文字印を置く。
さらに微調整し、国道443号と778号が交差する吉井信号から北へ約80mほどの国道443号の東側すぐの場所に十文字印を置く。
ここが中心点となる。卑弥呼の祭祀所があった場所と推定できる地点だ。
この地点が、纏向遺跡の大型建物Dの中心点、また伊勢遺跡の円周上の建物が向っている中心点と同じ役割を持った場所になる。

この地点から東西線や南北線に対して上下左右の5度の角度を1単位とすることは、纏向遺跡と伊勢遺跡の場合と同じ。
そして、中心点から特定の角度の軸線上に乗る対象物は、神社と山とする。
纏向遺跡の場合は、この対象物は大王級の墳墓であった。
伊勢遺跡の場合は、円周上の建物であった。
伊勢遺跡の東側の円周上の建物SB8が乗る中心点からの軸線をさらに延長すると、その軸線上に御上神社が乗っていて、
この軸線上に御上神社が建てられたことは建物SB8が意味した事象を実現するために建物が建てられたことを意味していると推測できた。
何らかの標識が中心点とSB8の建物跡に残されていて、御上神社が建てられた位置を示すことができたのではないかと考えられる。
その標識は、円周上の建物の場合、心柱と呼ばれる柱ではなかったかと考えることが可能だ。
そして、吉井の中心点からの特定の角度の軸線上に神社が乗っていることについても、同じ方式が用いられたと推測することができる。

さてここで、吉井の国道脇に想定した中心点からの軸線上に乗る対象物の角度と、この角度に重なる二十四節気の各節気を逐一挙げて行くことにする。

                                  続く
0063日本@名無史さん
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2019/03/15(金) 14:09:26.24
>>62
ここに挙げる神社の所在場所は、「googleマップで緯度経度を求める」の地図上の神社マークによる。
また、その神社名は「ヤフー地図」による。
そして、吉井の中心点からみた神社や山岳の方位角度の最初の起点は、日没方向の冬至点とし、この冬至点を0度と設定する。

1 諫早市多良岳(0度=西側東西線に対して南へ28度。この28度の角度は実際の太陽の沈む冬至点であり、暦上の冬至点である30度の角度とは異なる) 冬至
2 若宮神社(0度より北へ15度) 立春
3 不詳神社(0度より北へ30度) 春分
4 日吉神社(0度より北へ35度) 清明
5 日吉宮(0度より北へ45度) 立夏
6 天満宮(0度より北へ55度) 芒種
7 正八幡宮、八坂神社(0度より北へ59度=実際の太陽が沈む夏至点。暦では60度が夏至点となる。神社が2社同じ軸線上に乗っており、また正八幡という正の字が意味深である) 夏至
8 下庄八幡神社(0度より北へ65度) 小暑
9 廣田八幡宮(0度より北へ80度) 暑処
10 八幡宮(0度より北へ90度) 秋分
11 八幡宮(0度より北へ105度) 立冬

ここまでが神社と1年目の二十四節気の各節気が重なる範囲。
そして、2年目の起点となる暦上の最初の冬至点には神社はみられない。
神社と2年目の二十四節気の節気が重なっているのは、次の通り。

                                    続く




12 天満宮(0度より北へ130度)
0064日本@名無史さん
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2019/03/15(金) 15:55:01.28
>>63
12 天満宮(0度より東へ130度) 立春
13 天満宮(0度より東へ140度) 啓蟄
14 天満神社(0度より東へ160度) 立夏
15 古塚山(0度より東へ180度=この古塚山は、0度の冬至点の諫早市多良岳の対極にある山で、
夏至点の角度と重なっているのであるが、多良岳が東西線から南へ28度の角度にあり、
実際の夏至の太陽が沈む日没の角度と重なっているのに対し、古塚山は東側の東西線から北へ30度の角度となり、
ちょうど暦上の夏至点に重なることになって、実際の夏至点の太陽の日の出の角度とは異なるのが注目点となる) 夏至
16 天満宮(0度より東へ190度) 大暑
17 清水山(0度より東へ200度) 暑処
18 諏訪神社(0度より東へ210度=諏訪神社の位置は210度より僅かに北にずれているが、これは立地する地形上の理由によるものだろう) 秋分
19 八満宮(0度より東へ225度) 立冬

ここまでが、神社と2年目の二十四節気の各節気が重なる範囲となる。

                                       続く
0065日本@名無史さん
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2019/03/15(金) 16:18:25.17
>>64
ここからが、神社と3年目の二十四節気の各節気が重なる範囲となる。

20 春日大明神(0度より南へ245度=この240度の角度は暦上の冬至点と重なっており、対極にある7番目の正八幡宮の角度が東西線から北へ29度となっていて、
実際の太陽の夏至の日没角度に重なっているのとは異なっているのが注目される)) 冬至
21 不詳神社(0度より南へ245度) 小寒
22 天満宮(0度より南へ255度) 立春
23 天満宮(0度より南へ260度) 雨水
24 老松宮(0度より南へ265度) 啓蟄
25 老松宮(0度より南へ280度) 穀雨
26 屋須田神社(0度より南へ295度) 芒種
27 森山宮(0度より西へ305度) 小暑
28 阿蘇神社(0度より西へ320度) 暑処
29 天満社(0度より西へ325度) 白露
30 天満神社(0度より西へ330度) 秋分
31 大江天満神社(0度より西へ350度) 小雪

以上で3年分の二十四節気が一巡する。
この二十四節気の各節気に重なる神社数は28社となる。
これに山岳3峰を加えると、総計31山社を数える。
一方、このぐるり一帯に建立されている神社総数は51社を数えるので、二十四節気の節気が重なる28社の割合は55%となり、
山門周辺の神社の2社に1社が吉井を中心点とする二十四節気の各節気と重なっていることになる。
これは驚くべき確率であり、統計的にほぼ間違いなく有意の配置と言える数値である。
つまり、偶然ではないことを示している。

                              続く
0066日本@名無史さん
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2019/03/15(金) 18:49:46.17
>>65
さて、この28社の立地をみると、吉井の中心点から見てぐるり360度内に分散してるが、いずれも全ての神社が集落内の立地となっている。
二十四節気の3年暦が用いられたと考えられる近江の伊勢遺跡や大和の纏向遺跡が人の住まない施設としての立地であるのに対し、
この山門のケースは人が暮らす集落と密に関係した立地であるとみられる点が明確な相違点となっている。
この集落内の神社について、吉井の中心点との関わりをどのように見ればよいだろうか。
まず、神社そのものについては、近江の伊勢遺跡の建物SB8の軸線を延長した場所に御上神社が建てられているケースが参考になる。
中心点と建物SB8の跡には何らかの標識が設けられていて、その軸線の延長線上の山の麓が山の神の遥拝所となっていて、その遥拝所の場所に神社が建立されたという経緯が考えられる。
山門の場合も、吉井の中心点と神社のある位置とに何らかの標識が設けられていて、その標識の跡に後代になって神社が建立されたということが考えられる。
その神社も時代によって新たに建て替えられたと推測できる。
というのも、八幡神社の社名は6世紀後半以降に現れ、天満宮の社名は10世紀初頭以降に現れるからである。
したがって、元々はそこに何らかの標識が設けられていて、中心点の標識と関わる場所であると認識されていたたと考えるのが妥当であり、
後代になってその場所に神社が建立されたということが考えられる。

この考えに沿って推論すれば、農耕暦である二十四節気に基づく特定の節気が山門地域のぐるりにわたる集落にそれぞれ配分され、
その節気の内容に基づく農耕祭祀が中心点の祭祀所で行われると伴に、該当集落でも盛大に祀りが行われたというイメージを描くことができる。
また、山門地域の集落の大部分は水田域にあることを考えれば、その祭祀は水田の稲作に関わるものであったことは十分想定できるのである。
そうした祭祀所や集落での祭祀が二十四節気の節気に従って次々と行われて行き、山門地域の集落のまとまりの求心性が高められたことが考えられる。
そして、その集落の祭祀は、3年に一度巡ってきたのだろう。

                                続く
0067日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 19:08:57.31
>>66
このように、吉井の中心点からの二十四節気の軸線が山門のぐるり一帯の28集落に向けて放射され、壮大な農耕祭祀のワールドが形成されていたことがイメージされる。
こうした二十四節気の3年暦が画文帯神獣鏡に鋳込まれ、弥生後期後半に各地で活用されたとすれば、吉井の中心点に卑弥呼の祭祀所を設定することは可能であり、倭人伝が記述した卑弥呼の祭祀のリアルな姿を描くことができる。
また、この時期には、大和の纏向でも二十四節気を用いて農耕祭祀が行われ、また大王の墓域の設定やその墳墓の位置の決定が行われていたとすることができる。
つまり、このように、弥生後期後半から終末期にかけては、銅鏡に鋳込まれた二十四節気3年暦を基にした農耕祭祀が、それぞれの拠点地域において活発に行われていたことを推定することができるのである。
0068日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/31(日) 20:36:03.20
>>67

                                (お終い)
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