邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 >>390
発展過程は追えても出現過程は追えないよ >>391
僻邪の効果を求められていたと考えれば副葬位置は妥当 【出現過程を追う】
神獣鏡は呉の鏡
呉の陳さんが来日してくれました!
よ!弥生の鑑真!!! >>396
お前が反日キナイコシと判明した時点で、
「本当に意味のある事」以外何を言おうが無駄だw
スパイは潜んでこそのスパイ
バレたらただの道化師なんだよ 思想信条で目の前の事実を歪めるバカにはなりたくないな
それじゃ連中と同じこと 伊都クズも連続句読点もレイシスト
ザラコクさ〜ん、何かコメントないの? レイシストって出せば優位に立てるのかね?
根拠もないしょーもない荒らしを続けているクズが ちょっと待てよ
金印がニセモノとか
九州説がサルとか
暴言吐きまくってるレイシストに対して、
本当のことを指摘したらいけないのか? 根拠ない→伊都説のことだよね
荒らし→連続句読点のことだよね >>403
根拠は、
文献では伊都国のことが詳しく書かれているし
考古学では伊都国に3世紀遺物が大量に出土している。
だから根拠はあるわけだ。
あんたがただの荒らしだなキナイコシ。 >>405
主観を語っても学問的には説得力が全くない あれで国産の根拠になるなら考古学者はいらなくなるだろうな 俺様偉いとか勘違いしてるバカに学問は無理だからねぇ >>397
さすが皇国史観の正道たる邪馬台国九州説の人の言葉は違うなあ >>411
韓って書いてあって倭人伝では説明なし
これを理解できないんだから終わってる >>413
自分は皇国史観がどういうものか正確にはわからん
よくわからんから、判定のしようがない
だけどだけど、まさかさあ
キナイコシさん
皇国史観って言葉が
悪ということで使ってるの????
キンモー―――!!! これだけ格好つけといてザラコクに対してはスルーなんだぜ?
とんだ風見鶏野郎だ >>414
キナイコシの解答
やっぱり祖国は裏切れないんだな 989: 01/08(火)22:31 AAS
古代史を研究しているはずなのにかの国の研究者はすぐに現代史をからめてくるそうだ
誰かさんたちと思考パターンが同じで笑える 現代史を絡めてくるのは古代史の事実が自分達に都合が悪いってこと
つまり論点ずらし
それはここでも同じようだぞ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>414
狗邪韓国は倭人伝には書かれているけど韓伝には書かれていないんでしょ。 古来より日本列島の覇者はヤマト王権しかないという妄想に囚われて成り立っている畿内説は皇国史観そのものだろう。
筑紫に倭国という別の王朝が存在して後漢や魏に朝貢していた事実から目を背けている。 >>415
悪ではない。単なる邪教、おかしな信仰とだけ思ってるよ 邪馬台国が連合国ならば、その範囲はどう考えますか?
日程記述が帯方郡始点で邪馬台国までの日数ならば、その国境までの場合もあるかと思って
例えば、狗邪韓国も邪馬台国連合に加えるならば、その国境までの説明であり、水行10日または陸行1月に相当しそうだなぁ…と
ちょっと無理やりだけどね
投馬国の南に水行20日ならばおおまかにその倍の距離の所…
方向がちょっと厳しいが出雲か、素直に南で宮崎か…
考古学的には出雲あたりの方が妥当か?と思う ・女王国から渡海千里で倭種の国
・その南に侏儒國があって女王国から四千里
はてさて、倭人は里を知らないのに誰が測ったんでしょうね?
もし里程と日程が直列するなら、
北部九州の不弥國まで里程で、次に邪馬台国まで日程、
でもってまたまたそのはるか先が里程となって意味不明なわけです。 やはり北部九州説が正しく、
里程と日程は並列なわけですね。
里程は、北部九州の不弥國までと、おまけで東方倭種や侏儒國までの里程。
日程は、北部九州の伊都までが並列ですね。
奴国の描写がありませんから、魏使は伊都までしか到達しておらず、
日程は魏使が魏代に記録したもの。
一方の里程は漢代に楽浪郡使が測定したものですね。
不弥國の福岡湾に面した港から出港して、
舟で東に千里進んだら、日本海沿岸の倭種の国が広がる。
その南、つまり瀬戸内海沿岸にあるのが侏儒國で、
不弥國の港から出て四千里。
東夷伝里だと四千里は約300km弱ですから、ちょうど瀬戸内東部に侏儒國があるわけです。
北部九州の国々は倭語を表音文字で示したものですが、
侏儒國は表意文字ですから、朱を産出する阿波を含むわけですね。
さらに、渡来人が多くて長身長の北部九州倭人から見れば、
東に行けば行くほど、低身長の人々の国に見えるわけです。 >>426
>女王国から四千里
「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」は伊都国・奴国から1000里で倭種の国があるですけど
「去女王四千餘里」は侏儒國か裸國、黒齒國かどちらが女王を去る4000里に在るのかいまいちよく判らない
女王国でなく女王なので伊都国・奴国からではなく女王の勢力圏(邪馬台国)の端から4000里?
「復在其東南 船行一年可至」は元々は12日で12月の誤記とすると4000里に12日? 何れにしても伊都国、奴国の先の里程が数千里も書かれてる訳ですから
日程を里程の後に続けて直列に読むのは無理があるんですね。 >>429
まったく、その通りだ
倭人伝のつまみ食いではすぐ破綻する。全文を頭に入れ、高所から論じなくてはならぬ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>428
>>426 の倭人は里程を知らないのに は良い読み。
女王去る4千里は、九州島の南北3月行 から、薩摩、種子島
侏儒國と言う表意文字によって、種子島説が有力になっている。
しかし、その内容の奇譚や船行一年と言った、信憑性によって
所詮ソースは漢代の山海経のような伝奇モノであると見るべき。
東渡海1000里の地理も間違っているが
九州島が、絶在海中洲㠀 で
東の倭種の国は、海峡が千里で四国と本州の別は無く
瀬戸内海が無い、東夷倭地の概念図が存在したことが推測できる。
この漢からそれ以前の概念図によって、
謎の○月行という、里程が示された可能性が高い。
一月行は、九州島3月行、京畿湾から済州島3月行によって、2千里である。 >>432
>九州島の南北3月行
これは、逆だな。当時の書き方では、
九州島の東端と西端に沿うよう、南北に引いた2本の基準線のあいだが3月行なので、今風に言うと東西の(距離)日数となる。
女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種。
又有侏儒国在其南、人長三四尺、去女王四千余里。
又有裸国、黒歯国、復在其東南、船行一年可至。・・・この国は、九州島の東南大海の中にある八丈諸島のこと >>432
隋書の南北3月行は南北3日行の誤記ですよw
南北3月行なんてあり得ない距離www >>433
船行一年可至も
船行十二日可至→船行十二月可至→船行一年可至
でしょうね。 >>426
公孫氏時代に帯方郡の郡使が裸国、黒歯国まで行ったんですね。 >>430
「去女王四千餘里」は伊都国、奴国の先ではなく、邪馬壹國全体の東の端から4000里だな
「女王境界所盡」のように女王とは女王の北部九州の勢力圏である邪馬壹國全体を指している
女王国場合が伊都国、奴国だな。 魏志倭人伝の記述の構成
・倭國(倭王卑彌呼の支配下)
・・・投馬國(朝鮮半島南岸地域)
・・・・・狗邪韓國
・・倭人(日本列島に住む)
・・・邪馬壹國(北部九州地域)・・・女王と書かれる場合もある。
・・・・・對馬國、一大國、末廬國(自女王國以北の地域)
・・・・・不彌國
・・・・女王國(卑彌呼を共立した中心国)
・・・・・伊都國、奴國
・・・・傍國(斯馬國〜烏奴國の20か国)
・・倭種(中国地方)
・・侏儒國、裸國 黒齒國(四国、関西地方)
・狗奴國(南九州の卑彌弓呼の支配下) >>434
『隋書』俀國伝
魏時譯通中國 三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數 但計以日
其國境 東西五月行 南北三月行各至於海 其地勢東西下
都於邪靡堆 則魏志所謂 邪馬臺 者也 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里
遣隋使によって斑鳩を訪れた、裴世清の報告が有ったので、
九州の南北3月行と東西は奈良までの5月行と領土は広がっている。
月行で座標距離が示される 東夷概念図は隋唐時にも伝承していると考えられる。 >>439
>九州の南北3月行と東西は奈良までの5月行と領土は広がっている。
東西五月行も行ったら世界を半周できるよw >>439
1月の距離に比例で考えれば、九州の3分1の距離に相当する事になるな
直線的に約70キロぐらい?
日程記述が、帯方郡始点の同行程でのかかった日数であればだが、名護屋城あたりに上陸→筑紫平野あたりの距離が妥当かもね
かなりおおまかだが >>441
日程記述は、240年に印綬の為、女王宮まで行った
建中校尉梯儁の魏船による行軍の行程。
名護屋城なんて、僻地から歩くなんて馬鹿なことはない。
潮加減で当面、呼子に着いても、王宮を目指すなら沿岸を博多湾に廻って上陸する。
宿営地の名や里程が無いのは、決まった寄港地が無いから。 >>426
>はてさて、倭人は里を知らないのに誰が測ったんでしょうね?
答えは、測ってないんだよ、誰も
裸国、黒歯国は、淮南子にも乗ってる「伝説の国」
架空の国で、そこまでの里程も「伝説」だから、誰も測ってない >>422
>狗邪韓国は倭人伝には書かれているけど韓伝には書かれていないんでしょ。
韓伝には弁辰狗邪國が書かれているよ
世界大百科事典(コトバンクから引用)では
「《魏志倭人伝》に〈韓国を歴て,乍(あるい)は南し乍は東し,其の北岸,
狗邪韓国に到る七千余里〉とみえる。《魏志韓伝》には弁辰狗邪国とある。」 >>444
魏志倭人伝の狗邪韓国と魏志韓伝の弁辰狗邪国は名前が違いますから別の国邑ですよ。 >>442
>名護屋城なんて、僻地から歩くなんて馬鹿なことはない。
「濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之」
僻地から歩いてるじゃんw 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>449
だったら不弥国から投馬国は二万里。
そこから邪馬台国までは一万里と陸行一月。
どこに行くのだね? >>451
投馬国が帯方郡から南に水行二万里。
邪馬台国が帯方郡から南に水行一万里と陸行一月。
邪馬台国はちょうど北部九州になるぞ? >>452
それでいいんじゃない?
邪馬台国が福岡県、投馬国が宮崎県、狗奴国が熊本県で、九州の主な遺跡と伝承をきっちりカバーできる。 >>447
247年政帳は
其八年 太守王頎到官
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之
の為に、この倭人船に便乗し、女王国の視察に来た。
伊都国には、一大卒が有りここに駐留させられた。
伊都国は港が隣接し、入国管理が可能なのに張政は500里を歩かされた。
一つはそこに卑弥呼の墓が有ったから。
一つは日本が、伊都の港を軍事的敵国に見せたくなかったから。
日本は魏からの 245年の 黄幢 檄 を無視した。
これに対する査察が、張政の査察である。
この報告は
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
である。
帯方郡は239年から246年で、
日本の友好国公孫氏を追討し韓王朝を滅ぼした。
247年で魏と九州筑紫の外交は終わり
日本は半島進出と富国強兵に政策転換した。
これが、倭人伝の歴史的意義である。 >>452
>邪馬台国はちょうど北部九州になるぞ?
無理。 「其山有丹」でも無理。 「橘」でも無理。 「楠」でも無理。 なにがどう転んでも、無理。 @阿波 >>456
13歳の娘が戦国、三国志の辺境の王か?
戦国覇権国の傀儡か、調略にきまってんでしょwww
一大卒は 王の文書や 賜遺之物詣女王 を検閲している。
壹與の王権とは、それ以下に有る。 >>457
王の文書や賜遺之物詣女王を検閲しているのは一大率ではなく
港に集合した女王の家臣ですよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 詳細は過去スレで書きましたが、一つの考え方としてです。
弥生時代の鉄原料は全て朝鮮半島から入手するのですから、
大規模鉄器工房が百年ほど運営されたということは、
壱岐対馬からその遺跡までは同一勢力によって安定支配されていたわけです。
完成品の鉄器は北部九州から集中出土するのですから、
北部九州倭国の王達が、
紀元前には日本海沿岸を(丹後半島の扇谷遺跡)
紀元後には瀬戸内沿岸を(淡路島の舟木遺跡・五斗長垣内遺跡)
それぞれ支配下に治めていたことが、考古学的に確定しているわけですね。
紀元後の高地性集落の東征は、淡路島鉄工房を稼働する燃料=炭を求めての
倭国軍の東征の結果だったわけですね。 何度か書いたので要約しますと、
イザナミとは、遠賀川流域の山鹿貝塚女王から連綿と続く、
豊国女王国の系列で、遠賀式土器と共に日本全国に稲作を普及させた。
まさに日本人の母と言えるでしょう。
イザナギとは、壱岐対馬ルートを起点に、菜畑遺跡を開始した開明部族。
筑紫王家の祖で男系ですね。
イザナギとイザナミが血縁同盟を組んで、福岡市の王達を挟撃したわけです。
弥生時代ですから水軍ですね。
能古島に集結します。
最初はイザナギ軍が反時計回り、イザナミ軍が時計回りに攻めます。
しかしそれぞれ自領の菜畑遺跡、豊国に近いので、血縁親類や友人が多く、
攻め切れないわけです。
ですから、次にイザナギ軍が時計回り、イザナミ軍が反時計回りに攻めることで、
それぞれがしがらみの薄い相手を攻略して、博多湾を統一したわけですね。
東と西から挟撃して博多湾を征服したので、
板付遺跡には渡来土器と縄文土器が混在しますし、
敵地だから環濠が必要だったわけです。 筑紫王家と豊国女王家が婚姻して、北部九州に広域国家が萌芽し、
統一王の吉武高木王が誕生します。
しかし博多湾を統一した次には、
豊国イザナミ系列の強敵が、日本海沿岸にいたわけです。
若狭湾の八岐大蛇勢力ですね。
ちなみに、筑紫王家の縁者となった豊国女王家とは、八雷神ですね。
イザナミ女王を戴きながらも、8部族それぞれは独立していたのが、
吉武高木王による統一によって、整理されて、
軍事は建御雷=豊国軍に統合、
行政は8山津見として吉武高木王の支配下に入ったのでしょう。
八雷神のみでは、若狭湾を保有する八岐大蛇には勝てませんでしたが、
イザナギと組んで北部九州倭国に参加することで、
鉄器と博多湾水軍をもって、八岐大蛇を倒します。
そして丹後半島に扇谷遺跡を建設し、
八岐大蛇の領土だった日本海沿岸の森林から炭を作って
鉄工房の燃料にしたわけです。 八岐大蛇を倒して北部九州倭国の主要メンバーとなった豊国山津見女王達ですが、
倭国内の政治力では、
壱岐対馬ルートを保有する筑紫イザナギ族の後塵を拝することになります。
東方監視の名目で、東征将軍スサノオの基地として田熊石畑遺跡を設置され、
筑紫王族の支配下に入ってしまいます。
そのため山津見女王達は、日本海沿岸以外に発展の活路を求め、
一つは、琵琶湖に下之郷遺跡を作って、現地人と激しく戦います。
もう一つは、瀬戸内海に侵入し、新たに銅剣女王国を作るわけです。
守りの手薄な地域は環濠集落を形成して、弥生のJアラート銅鐸を配備。
収穫期に銅鐸を高台に設置して、現地人の襲撃があれば銅鐸を鳴らして
環濠集落の中に逃げ込むわけですね。
逆に言うと、銅鐸の少ない愛媛や岡山には、銅剣女王国の軍隊が常駐しており、
守る必要が無かったということです。 出だしは良かったのに、途中からぐちゃぐちゃ。
>>464
>イザナギとイザナミが血縁同盟を組んで、福岡市の王達を挟撃したわけです。
特にここからおかしい。
福岡市の王たちというのがそもそもイザナギとその祖先だろ。 >>467
ちがいます。
イザナギは壱岐出身で、唐津→糸島(日向)と勢力をのばし、
イザナミと同盟して博多湾を制圧したわけです。
勝者となったイザナギが最初から福岡市出身なら、
板付遺跡に環濠は必要ありません。 イザナギとイザナミというのは
記紀の先祖騙りでがむしゃらに取り込まれた
委な奴國王夫妻 イザナギより前の博多湾沿岸の王って誰だ?
高木の神とかか? 島根で瀬戸内銅剣女王国の降伏儀式が行われます。
銅剣を差し出して武装解除。
銅鐸を差し出して銅矛軍の駐留保護を受け入れます。
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で合計45個の銅鐸が差し出されていますから、
45集落の45人の地域女王が銅矛王の後宮に入り、そこで生まれた息子たちが、
それぞれの集落の支配官となったわけです。 >>471の先にこちらでした
一世紀に1人の英雄が現れます。
中広形銅矛を旗印に主に瀬戸内海を東征した銅矛王、のちの委奴国王ですね。
奴国の大規模工房群を稼働するための燃料=炭を入手するため、
銅剣女王国の八上姫に兄弟で求愛競争して、若き銅矛王が結婚するわけです。
過去スレに書いたので、詳しくは省略します。
八上姫が子供を置いて去る。
これは、瀬戸内銅剣女王国の王位を、銅矛王との間の息子へ譲れ、という要求を八上姫が断った、
ということですね。
瀬戸内海の森林資源を狙った、愛情もへったくれも無い、政治的な要求です。
まあ、最初から資産狙いの求愛だったわけですけれども。
ここに筑紫王家も加担します。同じく瀬戸内海の森林資源を狙ってです。
奴国工房群を従える銅矛王と、東征王族将軍の娘が政略結婚して、
銅矛王は晴れて倭国軍東征将軍となり、かわいそうな瀬戸内銅剣女王国に攻め込みます。
銅剣のほうは最後は青銅器が枯渇して、土製の祭祀銅剣を使う羽目になり、
中広形銅矛が淡路島に上陸=瀬戸内海の制海権を銅矛が制圧
した時点で、全面降伏します。 奴国と筑紫王家が別というのも訳がわからないし、瀬戸内が女性首長のいるところというのも根拠が不明。
いろいろ無理がある。 銅矛王は瀬戸内銅剣女王国の領土を丸ごと手に入れます。
徳島には銅剣は出るが、銅矛銅戈は出ない。
これはつまり、銅剣女王国が徳島を既に支配地にしていたからですね。
畿内と離れているから銅剣女王国が楽に制圧できたわけです。
九州からも一番遠いから、銅矛銅剣戦争中も一番最後まで攻められない。
銅矛銅戈が新規に攻め落とすまでもなく、
銅剣女王が降伏したら、自動的にその支配地の徳島は銅矛の支配下に入ったわけです。 奴國の発祥地は三雲で
高木と三雲のコラボ
須玖のほうは出店だから
奴國を専売のように詐称するのはよしにすべきところ >>473
奴国とその周囲には大量の渡来人がいます。
技術者集団が商業的に力をつけて
一方の筑紫王家は5王家が争い一時的に力が落ちた。
吉武遺跡の王墓を見ればわかります。 奴国はあくまでも筑紫王家の支配下の工房だと思うよ。
倭奴国の王とは筑紫王家の王だよ。
そんなに狭いところにたくさんの王がひしめき合ってもなあ。 筑紫王家は紀元前から日本海沿岸を支配しており、
日本海沿岸は既にそれぞれの王家の荘園となっており、
自分の荘園の森林資源を倭国のために供出したくない。
よって、筑紫王家も銅矛王もともに、瀬戸内沿岸に高地性集落を建設し、
そこで作った炭を淡路島に運び込んで、鉄器を作り、
完成品の鉄器を北部九州へと輸送したわけです。
私の考えでは、倭国王となれるのは筑紫王家=早良王家のみ。
銅矛王は東征将軍にはなれても倭国王にはなれなかった。
そこで漢に誼を通じて、自ら委奴国を立ち上げて大王になろうとしたわけです。
漢に金印を貰う交換条件の一つが、倭国内の里程測定だったわけです。 金印漢使が来日したのは、もちろん楽浪官吏や倭人官吏による案内です。
狗邪韓国に到着する必要があるのは、沿岸航海の貴族舟から、
対馬海峡渡海の渡海専用舟(漕ぎ手も船頭も渡海専門のベテラン)に
移乗するのに必ず立ち寄る必要があるから。
漢代伊都に到着する必要があるのは、吉武宮殿での金印授与式がそもそもの目的だから。
楽浪官吏が測定した里程はもちろん、漢使がその里程を用いて航海するのではなく、
高級官僚である漢使が、出張ルートが正しいかどうか確認するためのもの。
朝出発する時に方角を見定めるわけです。
羅針盤もない時代だから、夏の太陽の午前の方角で記載されているわけですね。 これも以前書きましたが、
金印漢使を迎えるために、沿道その他の施設を大規模に改修します。
特別支出ですから、銅矛王は自分の本拠である奴国周辺の森林を大量伐採してしまいます。
ただでさえ大規模工房群や奴国二万戸のために燃料や建材として森林が伐採されていたのに、
金印授与のための伐採で環境が破壊され、大規模洪水を起こして
銅矛王=委奴王は失脚したわけです。
だから銅矛が消えて、銅戈の時代になったわけです。 筑紫5王家内での勢力争いで筑紫王家が弱体化し、委奴国王の伸張を許した。
奴国弥生銀座に工房と住居が密集しすぎて、環境破壊を招いた。
失敗を教訓に変えて、
筑紫王家は漢代伊都=吉武から高祖山を越えた、
本来の本拠地である糸島日向へと遷都するわけです。
また王家も結束して、オシホミミを中心に立てて、
大王はオシホミミ家出身者に限るとしたわけですね。
ここで政治権力の移動があったから、銅矛→銅戈の変化が説明できるわけです。 >>478
>銅矛王は東征将軍にはなれても倭国王にはなれなかった。
紛らわしいから王と書くなよ。
イザナミが矛を使ったのだから、イザナミの筑紫王家が銅矛王、倭奴国王だよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ここまでで、
北部九州倭国は、
紀元前に日本海沿岸を(扇谷遺跡で確定)
一世紀に瀬戸内沿岸を(舟木遺跡・五斗長垣内遺跡で確定)
それぞれ支配しています。
そこから銅戈将軍が、大阪湾上陸を果たすわけですね。
ちなみに銅矛王の子孫は、一部は投降し、(〇奴国)
一部は抗戦し、(越後諏訪タケミナカタ・長崎タケミナカタ)
一部は落ちのびます。(中国山地内と、越後諏訪タケミナカタの向こう=東日本へ) 銅戈将軍は畿内を制圧し、そのまま東進して朝日遺跡で銅矛王の子孫と対峙します。
詳細は銅鐸二系統の考察で書いたので省略します。
銅戈将軍が勝利しますね。
さらに日本海側へ転戦して越後諏訪タケミナカタを鎮圧。
これにて日本国内に銅戈将軍とまともに戦える敵はいなくなり、
鉄製武器を作る五斗長垣内遺跡はお役御免。
鉄製生活用具を作る舟木遺跡はもうしばらく稼働します。 倭国乱にて
邪馬台国=筑前肥前豊前+日本海沿岸(越前まで)
狗奴国=筑後肥後豊後+瀬戸内沿岸+畿内+越後
免田式土器の分布圏が狗奴国の経済圏ですね。
壱岐対馬ルートを邪馬台国に押さえられて、淡路島舟木遺跡は操業停止します。
狗奴国は鉄工房はあるが鉄原料が無い。
一方の邪馬台国は鉄原料は手に入るが鉄工房が無いので、
若狭湾水軍の影響下にある琵琶湖のほとりに稲部遺跡を建設したわけです。 ここからが言いたいことで、侏儒國です。
魏使の見聞録に奴国の描写が無いので、
魏使は(魏代)伊都までしか来ていません。
戦時中だし伊都に卑弥呼がいるのだから当たり前ですが。
しかも倭人は里程を知らないのに、
不弥國どころかはるか侏儒國までの里程が記録されている。
倭国乱で瀬戸内は狗奴国側だったのですから、
瀬戸内東部の侏儒國への里程を測定できるのがいつかというと、
「倭国乱よりも前」ということになるわけです。 倭国乱前の平時に楽浪官吏が勝手に調べた、など
様々な状況が考えられますが、
漢配下の官吏が弥生時代に里程を測定するのなら、
警護や宿泊地・食料の提供など、やはり最高権力者の許可と協力を得ていた可能性が高く、
57年金印の委奴国王か、107年遣使の倭国王師升か、という話になってきます。
ここでもう一つの条件が、
侏儒國よりもさらに東南にある裸國と黒歯國については、
船で約1年という、それまでとは全く異なる尺度になっていて、
里程が示されていない、という点です。
つまり、楽浪官吏が瀬戸内海で里程を測定した時には、侏儒國が東端で、
それより先には行けなかったことになります。
つまり、銅戈将軍が大阪湾上陸作戦を成功させる前。
銅矛王の時代、ということになります。 漢代であろうと、伊都に到着したら目的は達成されているはずなのに、
その先の奴國不弥國までの里程が記されている。
倭国の紀元前からの支配地である倭種日本海沿岸へ行かずに、
瀬戸内海を東進して、四千里先の侏儒國へ向かっている。
つまり、
倭国王が、紀元前からの日本海沿岸の自領荘園を案内したのではなく、
委奴国王が、自分が切り開いた瀬戸内沿岸の東にある、淡路島の鉄工房群を案内して、
金印拝受にふさわしい東アジア強国であることをアピールしたわけですね。
楽浪官吏を乗せた舟が、不弥國の港を出発し、東に渡海千里で関門海峡に入ります。
案内役の倭人が下関を指さしながら、
「あちらの日本海沿岸には倭種がおりまする」と説明します。
舟は関門海峡を抜けて瀬戸内海に入ります。
瀬戸内海両岸の山々の高地性集落からは、炭を作る煙がたなびいている。
周囲の、東へ向かう舟々には、鉄原料や炭が積まれています。
西へ向かう舟々には、完成品の鉄器や、生口、稲荷が積まれています。
多くの輸送船が行き交う賑やかな瀬戸内海を東に進み、
不弥國から四千里、関門海峡から三千里で侏儒國です。
旧銅剣女王国ですね。 >>482
銅矛祭祀ですよ。
武器としての銅矛は昔からありましたが、
祭祀型銅矛を埋納するのは中広形銅矛からです。
明らかに新しい祭祀文化が入っている。
さらに、それが一旦銅戈に置き換わる=中広形銅矛は失脚しているわけです。
例えば内行花文鏡などは連綿と続いているわけですよね。
荒神谷遺跡の荘厳な感じの中広形銅矛が無くなるわけですから、
失脚したのではないでしょうかね。 なるほど豊国銅剣女王国を征服した中広形銅矛王が失脚した際には
筑紫の軍勢と共に、豊国軍=建御雷が銅剣を持って逆襲してきたわけだな。 女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至
女王国(博多)の東、海(関門海峡)を渡ること千余里(80km)。復(また)国(山口県)有りて、皆、倭種。
又、侏儒国有りて、その南(関門海峡を南に抜ける)に在り。人長は三、四尺。
女王(邪馬壹國)を去ること四千余里(320km)。又、裸国、黒歯国(瀬戸内海東部地域)有りて、復、その東南に在り。船行一年(船行十二日)にして至るべし。
四千余里(320km)は女王(邪馬壹國)の東海岸から裸国、黒歯国(瀬戸内海東部地域)までの距離でその4000里に12日掛かると言ってる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています